宮下莫越山神社<丸山>

莫越山(なこしやま)神社の概要

宮下莫越山神社

(南房総市宮下27)

 南房総市宮下(旧丸山町)にあります。古い神社や神名を記した『延喜式(えんぎしき)』(927年完成)に出ている安房国6座のうち小社4座のひとつとされ、祭神は手置帆負命(たおきほおいのみこと)と彦狭知命(ひこさしりのみこと)。社伝では、その昔天富命(あめのとみのみこと)が阿波の忌部(いんべ)氏を率いて安房の布良(めら)に上陸して開拓をはじめた時、これに従っていた工人の小民命(こたみのみこと)と御道命(おみちのみこと)の願いにより、その祖神2柱を祀ったのが始まりとされています。この二祖神は武具(盾)・祭具・建築の工匠として知られる神で、沓見(くつみ)の莫越山神社と同じ由緒をもっています。祭神が工匠の守護神とされることから建築職人からの信仰があり、江戸時代末期に江戸を中心に相次いで結成されるようになった大工・左官などが組織する講(祖神講(そしんこう))の信仰を集めました。この神社からは北側にある渡度(とど)山が、奈良県の巨勢(こせ)山に似て円錐形の秀麗な形(神奈備山(かんなびやま))に見えることから、古代にはこの山をご神体山に、南麓の遙拝所として造営されたものと思われます。伝承によれば往古境内は広大であり、神殿は壮麗でしたが、中世の時代に激しい変遷を経て荒廃したそうです。周辺には現在も神社に関係する地名として、禰宜沢(ねぎさわ)、忌部屋敷(いんべやしき)等の地名が数多く残されています。また古代の祭祀遺跡が周辺に点在する事から見ても、古くからの信仰がある神社だということがわかります。戦国時代には宮下村惣大社と称していました。南房総市の指定文化財として、鎌倉時代末の御神像2躯(く)と天正19年(1591)に里見義康が発した朱印状があります。例祭は10月10日、6月30日には祖神祭が行われます。

(1) 社号標

 高さ1.8mの白い御影石に「勅願所延喜式内・莫越山神社・正二位伯爵萬里小路通房謹書」と刻まれている。万里小路通房(までのこうじみちふさ)は明治天皇の侍従を務めた公家伯爵で、明治20年代から昭和初期まで北条町に住み、安房地方の近代化に貢献した人である。

(2) 永夜燈   <市指定文化財>

(2) 永夜燈   <市指定文化財>

 弘化2年(1845)、地元宮下村の領主であった武州忍(おし)藩主(埼玉県)の松平下総守が、奥方の病気平癒を祈願して奉納した。高さ3.1mの一対の石灯籠で、中台(ちゅうだい)四面には麒麟(きりん)・鳳凰(ほうおう)、竿(さお)には龍、基壇の格狭間(こうざま)の四面には唐獅子が浮き彫りされ、精巧な彫刻が施された石灯籠である。石工は江戸の福島市五郎。

(3) 常夜灯

 地元宮下区の農家三幣介治郎が国内各所を巡り、全国の古寺院神社に参拝し、無事帰ってこられたことを記念して、大正10年(1921)8月、高さ約3.6mの石灯籠を奉納した。

(4) 二の鳥居

(4) 二の鳥居

 狛犬の前に置かれた鳥居。石材は御影石と思われる。風化が進み表面が劣化しているが、左柱裏面に文字がかすかに見える。判読しがたいが「文化十三丙子年(1816)五月吉日」と見える。

(5) 狛犬(こまいぬ)

(5) 狛犬(こまいぬ)

 江戸橘町の石工伊賀屋定吉と地元宮下の渡辺久左衛門の倅(せがれ)が文政10年(1827)に一対の狛犬を奉納したとある。書き方を見ると定吉が久左衛門の倅であるのかもしれない。

(6) 忠魂碑

 高さ8mに及ぶ巨大な大理石碑で、表の文字は元帥(げんすい)川村景明の書。裏面には日露戦争で戦病死した地元丸村出身の3名の氏名が刻まれている。大正10年(1921)、丸村在郷軍人会が建立した。

(7) 永代護摩壇並道具寄進碑

(7) 永代護摩壇並道具寄進碑

 本殿右側にある高さ1.2m程の自然石である。正面上部に「莫越山神社」と大きく彫ってあり、右側には「天保十三年(1842)壬寅二月」、左側には「永代護摩壇并道具寄進」とある。道具とは神社で使う什器類のことである。別当(べっとう)の白雲山高雲寺十三世に奉納された。本願主は当村組頭の高橋治部右衛門ら4名(各金二分寄進)で、ほかに寄進者は名主等60余名(各金一分寄進)に及び、奉納金額と名前が刻まれている。合計金額18両3分。

(8) 日露戦争記念碑

(8) 日露戦争記念碑

 明治37年・38年(1904・1905)の日露戦役を祝勝した丸村の記念碑である。高さ4.3mの片麻岩で、表面に「元帥侯爵大山巌(いわお)書」と刻まれ、旧丸村からの従軍者86人・戦病死者4人の階級・氏名がある。明治41年(1908)に丸村恤兵(じゅっぺい)会が建立した。

(9) 祖神講再興碑

(9) 祖神講再興碑

 建築関係の職人や業者で作る祖神講(そしんこう)の創始年代は不明であるが、碑文からは18世紀後半から19世紀後半の江戸時代後期に、活発に活動していたことがわかる。明治初年の神仏分離令で廃絶を余儀なくされたが、明治42年(1909)に再興した。碑はその記念碑である。

(10) 三山霊碑

(10) 三山霊碑

 明治26年(1983)に建立された月山神社・出羽神社・湯殿山神社のいわゆる出羽三山碑。台座には明治32年・35年・44年(1899・1902・1911)にも登拝が行われ、参加した宮下の同行者の名前がそれぞれ刻まれている。三山信仰の盛んだったことがうかがえる。

(11) 手水鉢(ちょうずばち)

 境内社の八幡宮に奉納されている。自然石に嘉永4年(1851)3月と刻まれている。

(12) 八幡宮

(12) 八幡宮

 間口7尺・奥行1間半の木造で、瓦葺(かわらぶき)の社である。言伝えによれば、中世この地を支配した丸信俊の居城(同市本郷・安楽寺背後の城山)の鬼門除(きもんよ)けとして建立されたという。安政3年(1856)に再建されたときの棟札がある。

(13) 御神庫

 建物全体をセメントで覆った神庫で、外壁の側面に「昭和十三年(1938)十月吉日・奉納神火岩波やす」とある。この人は宮下地区で「神火(じんが)」と呼ばれる屋号を持ち、代々莫越山神社の祭祀を司った家で、斎部(いんべ)氏の子孫といわれている。神社所蔵の天正19年(1591)「里見義康朱印状」にある岩波弾正(だんじょう)はこの家の先祖である。

(14) 石宮2基

(14) 石宮2基

 右方は「熊野社」で、左方は「石神(いしがみ)社」である。元は集落の内にあった小社を移したものであるという。

○渡度山古代祭祀遺跡

 千葉大学の神尾教授・森谷助教授らによる昭和43年・45年の調査で、神社周辺の東畑・六角堂・石神畑で古代祭祀(さいし)遺跡(7世紀頃)が確認された。祭祀に使われたとみられる土製の勾玉(まがたま)・丸玉・木葉文(このはもん)底土器などが発掘されている。これらの遺跡は莫越山神社のご神体である渡度山の南側に位置し、この神社が古代祭祀の流れをくむ古い神社であることを物語っている。

○莫越山神社周辺の伝承

渡度(とど)山周辺

 渡度(とど)山周辺には忌部(いんべ)氏と関係の深い地名・伝承が数多く残っている。山頂の渡度神社は当社の奥の院であり、麓の高雲寺は別当寺であった。登山口にある筒井井戸(忌部井戸)はみそぎの場所、かつて登山道入口にあった鳥居松は御輿渡御(みこしとぎょ)の出発点、社務所裏の水田にある榊の島には石神(いしがみ)様(石棒)が祀られていた。


<作成:ミュージアム・サポーター「絵図士」
井原茂幸・石井祐輔・川崎一・鈴木正・中村祐>
監修 館山市立博物館

沓見莫越山神社<丸山>

莫越山(なこしやま)神社の概要

沓見莫越山神社 三の鳥居と社殿

(南房総市沓見253)

 南房総市沓見(くつみ・旧丸山町)にあります。古い神社や神名を記した『延喜式(えんぎしき)』(927年完成)に出ている安房国6座のうち小社4座のひとつとされ、祭神は手置帆負命(たおきほおいのみこと)と彦狭知命(ひこさしりのみこと)。社伝では、その昔天富命(あめのとみのみこと)が阿波の忌部(いんべ)氏を率いて安房の布良(めら)に上陸して開拓をはじめた時、これに従っていた工人の小民命(こたみのみこと)と御道命(みちのみこと)の願いにより、その祖神2柱を祀ったのが始まりとされています。この二祖神は武具(盾)・祭具・建築の工匠として知られる神です。 祭神が工匠の守護神とされることから、江戸末期に江戸を中心に相次いで結成されるようになった大工職人や建築業者の講(祖神講)の信仰を集めました。一の鳥居や社殿など祖神講の寄進によるものが多くあり、境内には祖神講碑や参拝記念碑も残っています。現在の社殿は関東大震災で倒壊後の大正15年(1926)に新築されました。本殿・幣殿・拝殿ともに神明造りで、千木(ちぎ)・高床・切妻・板校倉(いたあぜくら)・棟持柱(むねもちばしら)などに古代神社建築の特徴をとどめています。祭事は3月1日の祈年祭・7月9日の例祭・11月23日の新嘗祭(にいなめさい)があり、9月14・15日の鶴谷八幡宮祭礼には朝夷地区から一社だけ神輿を出祭します。また神事として神酒醸造神事や猿田彦の舞が知られています。

(1) 社名碑

(1) 社名碑

 明治37年(1904)に万里小路通房(までのこうじみちふさ)が揮毫した。北条町に住んでいた明治天皇の元侍従だったお公家さんで、近代農業を指導して安房の人々と交流した人。延久2年(1070)建立とあるのは、当社も出祭する八幡の祭礼が始まったとされる時期。

(2) 一の鳥居と (3) 記念碑

 南向きの参道一の鳥居は神明鳥居で、高さ7.2m、幅5.7m。柱の裏に、大正15年(1926)8月に東京祖神講が建立したとある。右側にある高さ2mほどの鳥居建設記念碑には、東京の講元・世話人・寄付者等の名がある。古い鳥居の折れた柱を台にしている。

(4) 参道舗装記念碑

 一の鳥居裏左側の記念碑は、昭和45年(1970)に地元白子の田中建設が参道の舗装工事を奉納した記念碑で、これも折れた鳥居の柱を台石にしている。震災で倒れた古い一の鳥居の柱である。

(5) 旧一の鳥居柱石と (21) 寄付記念碑

 現在の一の鳥居裏に古い鳥居の台石があり、左右に「東京」とある。柱の太さは約50cmで現在の鳥居(太さ約80cm)に比較して小ぶりである。本殿玉垣内の右隅に「浅草祖神講」による旧一の鳥居の寄付記念碑があり、明治45年(1912)の建立とわかる。

(6) 常夜灯基台

(6) 常夜灯基台

 明治26年(1893)に建てられ、昭和3年に改築されている。当時は少し南側の田の中にあったが、圃場整備で平成2年(1990)11月に現在地に移築された。以前は11段約3mの石積みの基台の上に灯明台があり、夕方になると神主さんが灯を入れていたという。

(7) 二の鳥居

(7) 二の鳥居と (8) 記念碑

 東向きの二の鳥居も神明鳥居だが一の鳥居より少し小ぶり(高さ5.3m、幅4.9m)。柱の裏銘に竹中工務店東京支店太子会が、御鎮座二千六百年記念で昭和12年(1937)9月に奉納したとある。石段下の弐之鳥居建設記念碑には各地の建設関連会社の名がある。

(9) 石垣 (10) 石灯籠

(9) 石垣

 階段下の左右石垣中央に、地元沓見を中心に50人の氏名が刻まれている。文久元年(1861)に組まれた石垣である。

(10) 石灯籠

 寛政元年(1789)2月に地元の加瀬作右衛門が奉納した。

(11) 日露戦役記念碑

(11) 日露戦役記念碑

 明治37年,38年(1904,1905)の日露戦役従軍記念碑で、傷死・戦死・病死・死亡と刻まれた7人と、従軍した57人の氏名がある。豊田村奨兵会が明治39年に建立した。額は元帥侯爵大山巌の書である。

(12) 手水石

(12) 手水石

 自然石で造られたもので、文政8年(1825)に大工・木挽(こびき)講中の50余名(安馬谷・瀬戸などの人々)が奉納した。

(13) 手水石と水屋建設記念碑

 明治23年(1890)に地元の氏子など21名が発願して奉納した。石工は北条町長須賀の吉田亀吉。右の石碑は、東京千住の「工睦会」95名が、大正14年(1925)に手水石の水屋を寄付した際のもの。

(14) 石灯籠

 昭和3年(1928)に東京四谷の建築事務所親建会が奉納した。

(15) スダジイ

(15) スダジイ

 「子育てのシイ」として信仰されている御神木。胸高幹周334cm、樹高13m、枝張り東西16m・南北16mの古木で、平成13年(2001)8月1日に丸山町の天然記念物に指定された。

(16) 石垣

 三の鳥居下の石垣は、明治25年(1892)4月に天羽郡金谷(富津市)の講中が奉納したという銘板がある。

(17) 社殿屋根竣功記念碑

 本殿・拝殿の屋根葺き替え(銅葺)ほか各所修復の竣功記念碑。工事費は東京講社や崇敬者が寄進した。平成元年建立。

(18) 頌徳(しょうとく)碑

(18) 頌徳(しょうとく)碑

 明治29年(1896)に認可された東京府本所区大工職業組合の有志が、祭神の徳を称えるとともに、組合が明治39年以来、莫越山神社の東京遥拝所である祖神教会講社の管理を行ってきたことを称えている。大正12年(1923)に建立。書は子爵北小路資武。

(19) 参拝記念植樹碑

 東京祖神講が当社へ参拝した記念に杉を植樹した記念碑である。昭和45年(1970)植樹・建立。

(20) 奉納碑(2基)

 東京都大島波浮港職工組合が社殿修復等を行った記念碑で、昭和58年(1983)と昭和63年に施工した。合わせて27名の名がある。

(22) 参拝記念碑

 東京小松川建築組合莫越山講が、昭和33年(1958)以来の当社参拝三十周年記念して、昭和62年(1987)に建てた木柱碑。

(23) 御祓所奉納記念参拝碑

 東京葛飾祖神会が紀元2600年(1940)に御祓所を奉納して記念参拝した碑。碑面には特別会員8名と会員有志32名の名がある。

(24) 若宮神社再建記念碑

 若宮神社は昭和4年(1929)9月に再建した。当社を崇敬する東京四谷大工組合祖神講の関係者によって建てられたことを伝えている。碑面には講員112名世話人6名などの名が記されている。

(25) 若宮神社

(25) 若宮神社

 神明造りの若宮神社は、当社を創建した小民命と御道命を祭神とする神社。別に10柱を相殿に合祀している。明治16年(1883)9月の本殿建築の際、現在地に造立された。

(26) 社務所

 玉垣下の建物は社務所で、毎年鶴谷八幡宮に出祭する神輿も納められている。中には明治20年(1887)挙行の莫越山神社正遷宮上棟式を描いた大きな絵馬(川名楽山画)や、建築関係の講社から奉納された多数の額がある。外に出ると、右手の妻に上棟式で使用された縁起物の破魔矢が掛けられている。

(27) 道標

 神社近くの国道128号入口に「莫越山神社入口」、410号古川上橋からの入口に「莫越山神社是より五丁」の道標がある。ともに関東大震災(1923)で倒壊した鳥居の柱を利用したもの。また館山市稲の箱橋交差点にも、当社崇敬者講中が明治26年(1893)に建てた莫越山神社参詣道の道標がある。


<作成:ふるさと講座受講生
青木悦子・井原茂幸・金久修・君塚滋堂・
鈴木惠広・御子神康夫・山井廣・吉野貞子>
監修 館山市立博物館

日運寺<丸山>

日運寺(にちうんじ)の概要

日運寺 境内

(南房総市加茂2124)

 南房総市加茂にあり、勝栄山日運寺といいます。日蓮宗で本尊は日蓮聖人。昔は勝栄坊(しょうえいぼう)という真言宗(天台宗説もある)の小堂で、宗祖日蓮聖人が小湊へ帰る途中この堂に止宿(ししゅく)されたことが縁で、当時の住職が聖人に心服し日蓮門下に改宗したそうです。約300年後、里見の重臣正木時通(ときみち)と弟頼忠(よりただ)は村の押本右京亮(うきょうのすけ)と図り、元亀2年(1571)に勝栄坊を再興、勝栄山日運寺と改めました。勝浦正木氏の菩提寺であり、頼忠は大旦那として主君里見義頼に願い出て寺領を寄進、その後徳川幕府からも寺領10石の御朱印を賜っています。第15世日典(にちてん)は享保8年(1723)の鐘楼(しょうろう)堂をはじめ、仁王門や祖師堂も建て寺門興隆に尽くしました。江戸中期には異常旱魃(かんばつ)で苦しむ村人の窮状を救うために、読経(どきょう)断食(だんじき)苦行(くぎょう)を行った住職が2人もいます。大正12年(1923)の大震災では本堂などは倒壊焼失し、第29世日慈(にちじ)が昭和12年(1937)に現本堂を造営しました。第32世日周(にちしゅう)は昭和56年(1981)の日蓮聖人七百遠忌記念事業として、仁王門の屋根改修、七面堂再建などを行ないました。昭和45年(1970)には2万株のあじさいが境内に植樹され、房州のあじさい寺と呼ばれるようになって、毎年多くの参詣者が訪れています。

※題目塔

(1) 山号寺号碑

(1) 山号寺号碑

 「南無妙法蓮華経 宝暦4年甲戌 4月吉辰日」と記してある。

(2)題目塔

 明治31年(1898) 日實 一千日間一千部読誦、心願成就

(4) 題目塔

 寛政9年(1797) 日鑑 一万部 天長地久五穀豊饒当郷安全

(16) 題目塔 

 天保9年(1838) 佐藤家 一万巻、心願成就

(22) 題目塔

 安永2年(1773) 日願 五百遠忌、報恩謝徳

(23) 題目塔

(23) 題目塔

 文政12年(1829) 日忍 五百五十遠忌報恩謝徳、一千部成就

(11) 題目塔

 明治14年(1881) 日實 六百歳遠忌

(15) 題目塔

 昭和56年(1981) 日周 七百遠忌報恩塔

(3) 日蓮聖人御杖井戸(おつえいど)跡  (12) 日蓮聖人御杖井戸

 文永元年(1264)、当地に立ち寄った日蓮聖人(しょうにん)が、村人から井戸水が悪くて飲み水に不自由していると聞くと、自ら錫杖(しゃくじょう)で聖地を定め、掘ってみると清水が湧き出たという。大正中期まで十王堂跡(現集荷所)にあったというが、昭和8年(1933)頃に道路改修のため黒門跡前(図3)に移され、現在は境内(図12)に移転した。

(5) 征清彰功(せいしんしょうこう)二士碑

(5) 征清彰功(せいしんしょうこう)二士碑

 豊田村恤兵(じゅつぺい)会による建立で、明治28年(1895)、日清戦争に従軍途中に戦病死した同村出身の二兵士の功を彰した碑である。正面の題字は北条にいた伯爵万里小路通房(までのこうじみちふさ)の書である。◎故要塞砲兵二等卒角田太吉 豊田村加茂住、大連旅順(だいれんりょじゅん)の攻撃戦闘に加わる。(享年23) ◎故工兵上等兵高澤龍蔵 豊田村沓見住、旅順口及び威海衛(いかいえい)攻撃、各種工事に従事。(享年29)

(7) 大坪流馬術第17世西田由兵衛勝幸顕彰碑

(6)(7) 大坪流馬術第17世西田由兵衛勝幸顕彰碑

 (6)大坪流(おおつぼりゅう)馬術兵線有功顕彰碑は元治元年(1864)の建立で、もとは旧加茂坂山中の馬場にあったが、平成初め現在地に移された。馬上の人物が浅く彫られ、「鞍の内十五の曲(ふし)と鐙(あぶみ)には八つの品ある物と知るべし」の他、大坪流馬術の極意(ごくい)が記され、下段に島田勘右衛門勝英門人西田由兵衛(よしべえ)勝幸と見える。裏面は発起門弟澤文弥や施主の名がある。由兵衛は加茂の出身。馬術の達人で大坪流17世を継ぎ、後に忍(おし)藩松平家の馬術師範となった。安政6年(1859)没、59歳。(7)碑は明治45年(1912)孫の西田欣太郎(きんたろう)が建立した。

(8) 仁王門 (昭和53年 南房総市指定文化財)

(8) 仁王門 (昭和53年 南房総市指定文化財)

 享保11年(1726)建立後、第22世日忍(にちにん)が再建した。円柱の八脚門で柱は朱塗。屋根は茅葺(かやぶき)であったが、昭和56年(1981)に銅板葺に改修した。本尊は執(しゅ9金剛神(仁王)で、天井には地元の角田文平による迦陵頻伽(かりょうぴんが)(極楽にいるという想像上の鳥)が描かれている。

(9) 榧(かや)の木 (昭和50年 南房総市指定天然記念物)

(9) 榧(かや)の木 (昭和50年 南房総市指定天然記念物)

 仁王門をくぐると参道をさえぎるように横たわり、樹齢約600年と推定される。大正6年(1917)に強風により倒れ、昭和50年根本保護工事が施工された。樹高17m、根本幹廻り2.5mである。

(10) 本地堂(上行菩薩)

 上行(じょうぎょう)菩薩像は明治12年(1879)、第26世日實(にちじつ)の建立。台座のそばに犬の像がある。日蓮聖人は上行菩薩の後身と自覚して法華経を広めた。身体の悪いところを水で洗うと治るといわれている。本地堂は昭和56年(1981)の報恩記念事業で建て替えられた。

(13) 富士川遭難者供養塔

(13) 富士川遭難者供養塔

 明治22年(1889)7月12日、寺の壇信徒が身延山(みのぶさん)参拝団として富士川を船で下る途中、激流に船頭の棹(さお)が折れて岩角に激突し、破船転覆し、一行14名中11名が溺死、3名が助かる事故があった。供養塔は明治22年、第26世日實(にちじつ)が遭難者の菩提を弔うため建立したもの。

(14) 佐藤文志(ぶんし)歌碑

(14) 佐藤文志(ぶんし)歌碑

 文志は加茂の佐藤文次郎家の人で、(16)塔の願主。絵や書にも優れた文人で、明治初期に活躍した。碑は72歳の辞世の歌。「かりの世の ながのいとまを まちわびて かえるぞうれし ふるさとのみち」

(17) 正木時通・頼忠の墓 (昭和54年 南房総市指定史跡)

(17) 正木時通・頼忠の墓 (昭和54年 南房総市指定史跡)

 勝浦城主正木時通は、元亀元年(1570)、里見義弘の命により伊豆へ出兵するも、戦いに敗れて伊豆の寺に蟄居、数か月後に出家帰房して日運寺を開き中興の祖になったという。天正3年(1575)没。墓は宝篋印塔で第7世日性(にちしょう)が建てた。頼忠は時通の弟で、時通死後の勝浦城主。加茂村の所領から寺領を寄進した。家康の側室で水戸・紀州両徳川家の生母お万(まん)の方(かた)の父である。元和8年(1622)没。笠塔婆(かさとうば)の墓が寛文2年に建てられた。

(18) 眼鏡橋記念碑  (19) 石段親柱

 石段下の建物跡地に、大雨を受けるために堀のように細長い池が造られ、庭園の一部として眼鏡橋(めがねばし)があった。大正3年(1914)、第28世日應(にちおう)の建設。大正11年の写真が現存するが、12年の震災で壊れたらしい。70cm程の碑が残る。石段の上部両側にある親柱から、石段は大正8年(1919)の建設。ともに石工は地元の鈴木良助である。

(20) 手水鉢

 文政8年(1825)に祖師堂境内に奉納されたもの。終戦後本堂前の現位置に移された。押本宇兵衛他20名近い奉納者名が刻まれている。

(21) 本堂

 大正3年(1914)現在地に建立されたが、関東大震災により倒壊焼失し、第29世日慈(にちじ)が昭和12年(1937)に間口9間奥行8間半の現本堂を造営した。向拝(ごはい)の龍の彫刻は元の祖師堂のもので、欄間彫刻には地元の後藤伝七郎の作とある。軒先の喚鐘(かんしょう)(半鐘)は天保8年(1837)に造り直されたもの。

(25) 日鑑上人入定窟 (昭和50年 南房総市指定史跡)

(24)(25) 日鑑上人入定窟 (昭和50年 南房総市指定史跡)

 第18世日鑑(にちかん)は現館山市広瀬の出身で、住職として29年間在職した。日蓮聖人の五百遠忌に祖師堂を再建し、2度の法華経一万部誦経(じゅきょう)を遂げた。寛政3年(1791)には光格天皇皇后の病気平癒(へいゆ)祈願のため上洛して導師をつとめ、その功で幕府から10万石の格式を与えられた。また天明5年(1785)夏の旱魃(かんばつ)では雨乞(あまごい)祈願をして村人を救い、晩年には裏山の窟(くつ)に断食入定(にゅうじょう)し、文化5年(1808)入滅(にゅうめつ)した。その徳を慕って6月には「入定祭り」が行われ、寺から請雨塔(図26)まで行列が組まれて鮒鯉供養の法要が営まれた。この行事は戦前まで続いていた。(図25)は指定史跡の入定窟(にゅうじょうくつ)で、中には石造武人像などが安置され、昔は清正(せいしょう)公ヤグラと呼ばれていたという。入定した窟は(図24)のヤグラではないかという説もある。

(26) 請雨塔(しょううとう) (昭和50年 南房総市指定史跡)

(26) 請雨塔(しょううとう) (昭和50年 南房総市指定史跡)

 明和8年(1771)の異状旱魃による村人の窮状を見た第17世日敬(にちけい)は、加茂の堀切堰で請雨(あまごい)の祈願をして村人を救った。その後日鑑(にちかん)も堀切堰で雨乞祈願をし、これを期にこの堰での鮒(ふな)や鯉の捕獲を禁じた。両上人の功を称(たた)えて、天保11年(1840)、第23世日禎(にちてい)たちによって請雨塔が建立された。


<作成:ミュージアムサポーター「絵図士」
石井道子・加藤七午三・金久ひろみ・青木悦子>
監修 館山市立博物館

白間津日枝神社<千倉>

日枝神社の概要

白間津日枝神社 社殿前

(南房総市千倉町白間津335)

延喜元年(901)、京の都から来た岩戸大納言義勝(いわとだいなごんよしかつ)創建による神社で、別当寺の円正寺も開基した。祭神は大山咋命(おおやまくいのみこと)(比叡山の守護神)。また白間津開拓の祖である田仲八軒が故国からこの神を迎えたという伝承もある。江戸時代までは寺を守護する「日枝山王(ひえさんのう)」と呼ばれていたが、明治初期の神仏分離令により「日枝神社」と社名を改称した。社殿は明治20年(1887)に再建された。

(1)社号碑

「村社・日枝神社」とあり昭和6年6月に氏子一同が建立。石工は当区・保田平兵衛門、書は、奥村利愃。以前は国道に面した参道の入り口にあったが、境内拡張時に現在地に移転した。

(2)大鳥居と幟立(のぼりたて)

(2)大鳥居と幟立(のぼりたて) 1.大鳥居

1.大鳥居

文政5年(1822)4月に建てられた花崗岩製の明神鳥居である。海中安全を願って氏子中により奉納された。

2.幟立

天保4年(1843)建立の幟立。「海中安全 若者中」のほか、村役人の名前や日本橋魚河岸関係の人名、町名(「安針町(あんじんちょう)」「小田原町」「本舟町(ほんふねちょう)」)なども記されている。

(3)拡張記念碑

祭事をするにあたり境内が狭いため、在京有志、区民の賛同により寄付金5百円を集めて水田80坪を購入し、排水の設備も含めて昭和10年に境内を拡張したことを記念した碑。寄金者(23軒)の屋号と氏名、35名の発起人の氏名が記されている。寄付者には「男海士一同」の記載もある。

(4)宮井戸と石宮

(4)宮井戸と石宮 1.宮井戸

1.宮井戸

境内にある井戸は、枯れずの井戸とも言い、境内拡張までは個人の家の敷地内にあった。清水が枯れることなく湧き、過去には地区の飲料水として使用されていた。

2.石宮とアンゴ岩

宮井戸右後方の石宮は荒神(こうじん)様。台座はアンゴ岩といい、屋号「源兵エ」宅の横にあったが、道路拡張の際に一部を切り取りを現在地に移設したもの。

(5)儘(まま)の堰記念碑

大正12年(1923)の関東大震災で水源が枯渇したため、昭和6年(1931)に三田才治(後の千倉町長)らにより、儘地区に堰が作られたことを記念した碑。同じ基壇に畑地の潅水事業記念の碑もある。儘の堰において地鎮祭を行い昭和48年(1973)に完工した。

(6)灯篭

大正12年6月に当区役員と青年会が、地元から汽船で八丈島へ飛魚漁の稼ぎに出た人々の大漁を祝い奉納したもの。

(7)築港記念碑

白間津漁港開港の記念碑。大正7年(1918)6月に起工、大正9年5月に開港した。工事関係者24名の名前が刻まれている。

(8)手水石

(8)手水石

奉納は弘化4年(1847)。左側面に江戸安針町の2名、後面に世話人、願主(氏子・海士)、百姓代、組頭、別当寺(円正寺)の住職の名前が記されている。右側面に、江戸安針町の魚問屋鷲(おおとり)屋善四郎他地元船頭の名(5名)があり、当地区には今も同じ屋号の家がある。

(9)石垣と玉垣

9-1 石垣

道路脇の石垣の中に石垣修築の碑がある。大正12年(1923)6月、青年会と天草(てんぐさ)女海士中により奉納された。発起人には青年会役員10名と女世話人2名の名が刻まれている。

(9)石垣と玉垣 9-2 玉垣

9-2 玉垣

社殿右側の玉垣は、1と同じ青年会役員10名により、大正12年6月に奉納された。社殿前の玉垣は大正8年6月、八丈出漁連中(83名)により奉納された。

(10)灯篭

社殿に向かって右は文政5年(1822)4月に「氏子」が奉納。左は文政6年(1823)3月に「蚫(あわび)商人」が奉納。いずれも大正12年6月に当地区の田仲太郎右衛門により修繕されている。

(11)向拝(ごはい)彫刻

(11)向拝(ごはい)彫刻

明治20年(1887)の社殿再建時に初代後藤義光(73才)が制作。中備(なかぞなえ)には、「親子籠」、虹梁(こうりょう)には「波に千鳥」、向拝(ごはい)柱肘木(ひじき)には「波に鯉」「波に亀」(籠堀(かごほ)り)、木鼻(きばな)には「振向き獅子」、手挟(たばさ)みには「桐に鳳凰」「桐に麒麟」と、吉兆を表す端獣を配している。彫刻裏に義光の銘がある。

(12)社号額

社殿正面の社号額は勝海舟揮毫(きごう)によるもの。「日枝社」「勝海舟安芳(やすよし)」の署名と押印がある。「安芳」は維新後の改名。明治期に当地区を訪れた時揮毫したものと伝わる。

(13)石宮群

(13)石宮群

社殿左の石宮・灯篭群は、山肌のくぼみに奉安されている。石宮には「田仲太郎右エ門」「昭和元年」、灯篭には「当所氏子中 蚫(あわび)商人中」「寛政7年(1795)」の銘が確認される。

(14)円正寺

(14)円正寺

岩戸山円正寺は延喜元年(901)岩戸大納言義勝の創建で、本尊は千手観世音菩薩。江戸時代までは日枝神社の別当寺。白間津のオオマチは明治時代までは寺祭りと言われ、今も、寺の前で「寺踊り」が奉納される。

1.大日堂

祀られている大日如来像は、江戸時代に紀州で廻船問屋を営み、財を成した新藤伝右衛門が持ち帰り、白間津の海雲寺裏山の岩屋に祀った。その後、扉が朽ち新藤家の菩提寺である円正寺境内に大日堂を建て移設された。

(14)円正寺 2.三界萬霊塔

2.三界萬霊塔

白間津沖合で遭難した人々を、行方不明者も含め慰霊した供養塔。江戸末期から明治初期、船形を中心に内房から魚を求めてやってきて海難にあった人々の名がある。海岸にあった墓石を円正寺の須田隆宣住職(後の円蔵院住職)が、明治20年に円正寺の門前に移動。その際、現在の供養塔という形にした。劣化した台座は平成14年、円正寺・海雲寺と両檀家で新しくした。

「白間津の大祭(オオマチ)」

(平成4年国指定重要無形民俗文化財)

日枝神社の祭神を「来島(くるしま)」(上陸地)より神社までお迎えした時の行列を再現したのが起源とされる。仮宮まで進む「お浜下り」、日天(にってん)、月天(げってん)を象(かたど)った大幟(おおのぼり)(神の依(よ)り代(しろ))で大勢で引く「大網渡(おおなわた)し」(神迎えと豊凶占い)、豊年万作(雨乞い他)祈願と収穫の喜びを祝う「ササラ踊り」は祭りの中心要素である。ササラ踊りは「擦(す)り簓(ささら)」を操(あやつ)り踊るもので、上方(かみがた)から伝わる田楽(でんがく)踊り、念仏踊りなどの流れを汲んでいる。大祭の中心となる日天・月天(二人の少年)は、50日間の禊(みそ)ぎ(別名 ジョゴリ)をした後、神として迎えられ、ササラ踊りの先導や仮宮に集合した神々との間の「仲立(なかだち)」役を果たしている。

(大祭は4年毎、7月下旬開催)


作成:ミュージアムサポーター「絵図士」
青木徳雄・川崎一・佐藤博秋・佐藤靖子・
殿岡崇浩・羽山文子・中屋勝義・山杉博子
監修 館山市立博物館 〒294-0036館山市館山351-2 TEL:0470-23-5212

小松寺<千倉>

小松寺の概要

小松寺 仁王門前

(南房総市千倉町大貫1057)

 南房総市千倉町大貫にある古刹。奈良時代の養老2年(718)に役小角(えんのおずぬ)によって「巨松山(こまつさん)壇特寺」として創建されたとされています。その後延喜20年(920)に、安房守住吉朝臣(すみよしのあそん)小松民部正壽(まさとし)という人物により再建され、壇特山巨松寺と改めました。当初は天台宗に属して35世代続き、その後改宗され、現在は真言宗となってからの第48世の住職が継承しています。本尊の薬師如来は瀬戸浜で魚網にかかった海中出現のお像だといわれています。慶長2年(1597)に里見義康より寺領53石余、元和2年(1616)には徳川将軍家より12石余の寺領を拝領しました。小松寺には中世以前の仏像が多く、国指定の重要文化財「銅造十一面観音菩薩坐像」(鎌倉時代)、県指定有形文化財でご本尊の「木造薬師如来立像」(平安時代)のほか、不動明王立像・毘沙門天立像・お前立薬師如来立像・聖観音菩薩坐像(以上は平安時代)・役行者(えんのぎょうじゃ)半跏(はんか)像(鎌倉時代)などが安置されています。南北朝時代の梵鐘もあり県の指定文化財です。また「小松寺の森郷土環境保全地域」に指定され、モミ林・スダジイ林が取り囲んでいます。モミ林の生育地としては南関東で最も低い標高(40~60m)にある貴重な地域であるとともに、秋にはもみじの里として紅葉を楽しむ人々でにぎやかになります。

(1) 弘法大師千百年遠忌供養燈籠(とうろう)

(1) 弘法大師千百年遠忌供養燈籠(とうろう)

 昭和12年(1937)2月、当寺46世鈴木隆照の時に、地元の檀家北ヶ谷出身で東京在住の加藤正司が建立した。北ヶ谷加藤家では当寺の住職を務めた人がいるという。設計は北ヶ谷の加藤三郎、石工は館山の俵徳次(房総を代表する石彫家俵光石の娘婿)である。

(2) 釘貫門(黒門)

 二本の柱に水平に貫を通した単純な形式の門。屋敷や墓地などの境界として用いた柵などに、通用口として設けられたもので、真言宗寺院に多い。

(3) 石段

 仁王門前の石段は、明治14年(1881)11月、当寺43世隆澄の時に大貫の檀家4名により寄進された。山荻(館山市)の石工が建設したと親柱にある。

(4) 手水石

 寛政12年(1800)3月、当寺40世盛雅のときに寄進された。願主は忽戸(こっと)村の高木善左衛門・堀江仁兵衛、江戸の加藤忠七郎、平舘(へだて)村の加藤藤兵衛・川下村の森田庄八の5名で、石工は平館村の長左衛門の名が刻まれている。

(5) 疎水紀功碑(そすいきこうひ)

(5) 疎水紀功碑(そすいきこうひ)

 明治20年(1887)から2年がかりで、寺の横から惣作原までの千余間(約1800m)にわたり、大貫の人々が山裾の岩盤に人一人かやっと通れるほどのずい道(一部は堀)を掘り、瀬戸川の左岸にある八町余(約8㌶)の田を潤した。

(6) 日清戦役出征兵士の碑

 旧健田村大貫の人で、日清戦役のとき東京湾の富津海堡(かいほ)と三浦半島の走水砲台を守備した。退役後28才で病死。明治33年(1900)に建てられた。

(7) 石燈籠

(7) 石燈籠

 寛政3年(1791)、地元の若者中が寄進した。その後地震で倒れたためか火袋の部分は新しく、施主として佐藤市蔵・佐藤作治の名が彫られている。

(8) 仁王門

(8) 仁王門

 現在の仁王門と仁王像は、江戸時代末期に川口村(千倉)の名主荒井与平治が寄進したもの。仁王像は平舘(へだて)村(千倉)の医師で俳句・絵画・彫刻に巧みな石井宇門が彫ったという。また、昭和55年(1980)11月に荒井家の子孫により塗り替えが奉納されている。その後昭和59年(1984)に住職鈴木隆照ほか檀家により、庫裏・観音堂・鐘楼と共に屋根の改修が行われた。

(9) 梵鐘(ぼんしょう)

(9) 梵鐘(ぼんしょう)

 南北朝時代の応安7年(1374)の鋳造で、住職(別当)は越後僧都(そうず)経秀、浄財を集める勧進(かんじん)僧は沙門(しゃもん)大進権津師(ごんのりっし)貞憲。千代若丸のために高階(たかしな)家吉と正氏が大檀那となって寄進したとある。製作した鋳物師(いもじ)は山城権守宗光。昭和47年に千葉県有形文化財に指定された。鐘楼(しょうろう)の彫刻は国分の後藤義信。

(10) 本堂

(10) 本堂

 小松寺は数回の火災で古文書類がなく、本堂の建築時期は不明。ただ本堂正面の龍の彫刻に、安政2年(1855)11月吉日、相州(神奈川県)三浦郡浦賀の彫工・後藤忠蔵橘重武の銘があるので、150年以上前の建物と思われる。

(11) 光明真言供養塔

(11) 光明真言供養塔

 嘉永6年(1853)8月に建立された光明真言供養塔。本願主は当寺42世信澄、上州(群馬県)生まれで下ノ堂にいた法念が補助で、大貫の村中が願主である。石工は館山町楠見の田原長左衛門。歴代住職の墓には信澄が嘉永5年没とあり、信澄没後に完成したことがわかる。

(12) 石造地蔵菩薩坐像

(12) 石造地蔵菩薩坐像

 先祖代々の万霊(ばんれい)を供養するために当寺43世隆澄が発願主となり、近隣の寺の住職による補助と朝夷郡を中心に多くの人々(中台に220名もの名前が彫られている)の寄進によって、明治14年(1881)に建立された。これも作者は館山の俵(田原)長左衛門である。

(13) 観音堂

(13) 観音堂

 安房国札26番の札所で、聖観音菩薩像が安置されている。向拝(ごはい)の彫刻の銘は読めないが、明治時代初期の神仏分離令以後に、千倉町牧田の下立松原神社から移築された堂だと伝えられている。

(14) 歴代住職の墓

 天台宗・真言宗の住職が継承し、計83代の歴世となる。判読できる古いものでは、卵塔型の真言宗の26世覚圓<宝永5年(1708)>・37世日全<明和7年(1770)>、五輪塔型の42世信澄<嘉永5年(1852)>・地蔵菩薩を乗せる43世隆澄<明治30年>等の墓がある。

(15) 飯縄権現(いづなごんげん)

 遊歩道の頂上付近の石祠は「飯縄権現」が祀られているとのことだ。飯縄山(長野県)の山岳信仰が発祥で、修験者達が信仰していた。武田信玄や上杉謙信は軍神として信濃の飯縄権現を厚く保護していた。

(16) 乙王(おとおう)の墓

 寺の南々西にあたる市界尾根の音落(おとおつ)ヶ嶽(小松寺山)の山頂には、小松寺七不思議のひとつ「乙王滝」の主人公「乙王」の墓がある。塔は安藤幾右衛門を施主に、寛政3年(1791)5月に建立。「南無薬師如来乙王墓」と刻まれる。基礎石は中世の宝篋印塔の大型反花座である。

(17) 道標と巡礼道

 稲村城と白浜城間の古道上にある江戸時代の道標で、館山市側の西方に札所の杉本山観音院があることを教えている。小松寺からの安房国札観音の巡礼道を示すものである。南方の山中(林道脇)にも別の道標がある。こちらは明治34年(1901)に南朝夷の渡辺杢左衛門が建立したもので、観音札所の小松寺と住吉寺を案内している。往時の盛んな観音信仰を語る貴重な文化遺産といえる。

(18) やぐら群

 「やぐら」とは岩山を掘って横穴にした施設で、墓所を意味する鎌倉地方の方言だという。小松寺周辺には数基のやぐらが現存し、五輪塔を中に据えたものもみられる。周辺にも中世の宝篋印塔や五輪塔の石が点在し、大貫地域の重厚な歴史を伝えている。

小松寺の七不思議と埋蔵金伝説

小松寺 境内看板 七不思議の伝説について記載

 七不思議という伝説は各地にあるといわれているが、小松寺にも次の七不思議の伝説がある。<1.晴天の雨、2.土中の鐘、3.暗夜の読経、4.半葉のしきみ、5.天狗の飛びちがい、6.七色が淵、7.乙王が滝> :乙王は小松民部の子千代若丸に仕えた少年で、延喜21年(921)に寺院が落成して歌舞を奏したときに、千代若丸が怪物にさらわれ平久里郷で変死したことを嘆いて滝に身を投じたと伝えられている。

 ほかにも観音御塚(かんのんみづか)の埋蔵金伝説がある。これは里見家の埋蔵金ではないかとの話が伝わっている。


<作成:ミュージアムサポーター「絵図士」
金久ひろみ・川崎一・君塚滋堂(しげたか)・鈴木以久枝・鈴木惠弘(よしひろ)・早川正司>
監修 館山市立博物館

牧田下立松原神社<千倉>

牧田・下立松原神社(しもたてまつばらじんじゃ)の概要

牧田・下立松原神社 御神木と本殿

(南房総市千倉町牧田193)

 南房総市千倉町牧田(まきた)にあります。同町の白子から白間津(しらまづ)にかけて幅約300m、長さ約6kmにわたり幾段もの海岸段丘が続いています。海抜30m以下の段丘は縄文期以降に形成されたものと考えられていて、明応7年(1498)、元禄16年(1703)の大地震の際にも大きく隆起したことが知られています。下立松原神社は牧田の段丘上海抜(かいばつ)約30mのところにあり、昔は一面の松原であったと言われています。神社の北東約250mにある社山(じゃやま)の北麓にある垂迹宮(すいじゃくのみや)跡が元(もと)社地とされ、江戸時代末期までは垂迹(すいじゃく)さまと呼ばれ尊崇されていました。 社記などの伝承によると、神武天皇即位の辛酉年(かのととりのとし)、天富命(あめのとみのみこと)に従って安房にやってきた阿波忌部(あわいんべ)の子孫美努射持命(みぬいもちのみこと)が祖神天日鷲命(あめのひわしのみこと)を祀ったのが始まりとされ、延喜式(えんぎしき)(927年完成)の神名帳に記された安房国六社のうち小四社のひとつにあたる古い神社です。源頼朝(よりとも)が石橋山の合戦に敗れ安房に逃れてきた時、豪族丸五郎の案内で戦勝祈願をしたとされ、その折敗戦の身をはばかり鳥居をさけて脇から入ろうとしたところ、氏子達が鳥居を取り除き招き入れたとされることから、以来鳥居はつくられることなく、鳥居のない神社となりました。また、鎌倉で武士の政権をつくった頼朝は、元暦(げんりゃく)2年(1185)に乳兄弟(ちきょうだい)である安房の豪族安西三郎景益(かげます)に命じて源氏の祖源頼義(みなもとのよりよし)・義家父子の霊を祀る御霊白幡(みたましらはた)大明神の廟堂(びょうどう)を建てたとされ、それが本殿の左方に鎮座しています。両社殿は関東大震災後に修復されたものですが、本殿前には樹齢数百年を数える杉の御神木(ごしんぼく)をはじめ楠・槇・タブなどの巨木が林立し、頼朝の大般若経(だいはんにゃきょう)を埋めたとされる経塚(きょうづか)もあります。 かつて祭礼は9月29日・30日で、近隣17か村の氏子たちによって前日の大祓(おおはらえ)祭・湯神事、例祭の神楽(かぐら)・御輿渡御(みこしとぎょ)・流鏑馬(やぶさめ)・競馬・相撲なども奉納され、1月15日には麻・木綿祭、11月25日から10日間は御狩(みかり)神事が行われていました。現在は10月10日に祭礼が行われます。

(1) 社名碑

 高さ約2.8mの白い御影石(みかげいし)に、式内社(しきないしゃ)であることを主張して「延喜式内下立松原神社」と刻まれている。昭和5年11月建立。

(2) 日露戦争記念碑

(2) 日露戦争記念碑

 明治37年・38年(1904・1905)の日露戦争の凱旋(がいせん)を記念した健田(たけだ)村の記念碑である。高さ3mの片麻岩で、表面上段に「日露戦争記念碑 元帥(げんすい)大山巌(いわお)書」と、下段には80名の日露戦争従軍者名があり、「蘭堂居士進藤清(らんどうこじしんどうきよし)謹書」とある。裏面には健田村恤兵会(じゅっぺいかい)役員21名の名前と石工2名の名が刻まれている。明治39年(1906)6月建立。

(3) 狛犬(こまいぬ)

(3) 狛犬(こまいぬ)

 参道入口にある高さ約60cm(総高約190cm)の一対の狛犬は、嘉永4年(1851)に下瀬戸村の石井治部右衛門と同家出身の内田吉兵衛が奉納した。石工は朝夷村の善八とある。

(4) 本殿

(4) 本殿

 本殿前の左右の大杉は、しめ縄を張った御神木である。拝殿はなく、本殿とその覆屋(おおいや)(外屋)があるのみ。本殿の彫刻は、江戸時代から5代にわたって活躍した彫刻師一門で、名人といわれた長狭郡の初代武志(たけし)伊八郎信由(のぶよし)(1751~1824)である。主祭神は天日鷲命(あめのひわしのみこと)、副祭神は言筺比売命(ことはこひめのみこと)(后神(きさきがみ))。そのほかに、駒形神社(祭神は月夜見命(つくよみのみこと))・浅間(せんげん)神社(祭神は木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと))・垂迹(すいじゃく)神社(本地仏(ほんじふつ)・大日如来)の3社(3神)を明治41年(1908)に合祀している。

(5) 十八社宮碑

(5) 十八社宮碑

 境内に祀られている18社全ての社名が記されている。下立松原神社のほか、合祀された駒形・浅間・垂迹(すいじゃく)神社、御霊(みたま)白幡大明神、境内別殿四社、六所明神、歯神(はのかみ)、最後に疱瘡神(ほうそうがみ)とある。その中の六所明神は朝夷郡の政庁(郡衙(ぐんが))設置にともなって祀られた神社だという。歯神は人が生きるために大切な「歯」を守る神。疱瘡神は「疱瘡(天然痘(てんねんとう))」が古い時代には疫神(えきしん)によるものと信じられたため、この神を祀る風習があった。石碑は昭和56年5月に建立された。

(6) 別殿(べつでん)四社

(6) 別殿(べつでん)四社

 境内に別殿として祀られている神社は、八雲神社(祭神は須佐之男命(すさのおのみこと))・稲荷神社(祭神は稲倉霊命(うかのみたまのみこと))・天神社(祭神は少彦名命(すくなひこなのみこと))・子安神社(祭神は豊玉姫命(とよたまひめのみこと))で、4つの社殿は平成4年4月に神作(かんさく)戸右衛門家により建立された。

(7) 御霊白幡(みたましらはた)大明神

(7) 御霊白幡(みたましらはた)大明神

 社伝によると、頼朝が元暦(げんりゃく)2年(1185)に安西三郎景益(かげます)に命じて、源氏の祖源頼義(みなもとのよりよし)と八幡太郎(はちまんたろう)義家父子の霊を祀るために創建し、朝夷(あさい)郡の総鎮守としたという。また、頼朝は文治(ぶんじ)年間(1185~1190)に安西氏を使いとして頼義・義家の木像、薬師如来像、自ら写経したという大般若経600巻を奉納したと伝えている。社殿には伊八の彫刻が施されている。

(8) 経塚(えい経石函碑)

(8) 経塚(えい経石函碑)

 頼朝が奉納したという大般若経は、毎春転読されて武運長久・国家安穏を祈っていたが、破損がひどくなったため、明和9年(1772)に石函(せっかん)に納めてこの下に埋められた。碑は牧田村名主神作(かんさく)戸右衛門父子が建立した。碑文の書は江戸の儒学者越克明(こしかつあき)。南千倉に漂着した清(しん)国船「元順号」救助の記録を書いたといわれる人で、墓が牧田地蔵堂にある。法名は東海廓叟居士。

(9) 頼朝公の馬洗池跡

(9) 頼朝公の馬洗池跡

 頼朝は治承(ちしょう)4年(1180)に伊豆で兵を挙げたが、石橋山の戦いで敗れ安房国に逃れて来た。その際下立松原神社にも立ち寄って戦勝祈願をしたと伝えられている。そのときこの池で馬を洗ったとの言い伝えがある。また例祭で行われていた鏑流馬(やぶさめ)・競馬の馬もここで洗っていたという。

(10) 五輪塔

 神社西裏の古富士(おふじ)山(健田(たけだ)富士)の中腹にある。調査資料によると3基あるうち高さ64cm・巾27cmの石塔は、四角い地輪(ちりん)に貞治(じょうじ)5年(1366)の銘が確認されており、年号の入ったものでは現在のところ千葉県最古とされている。

(11) 垂迹宮(すいじゃくのみや)跡

 社山(じゃやま)の北麓にあり下立松原神社の元社地とされるところ。現在も垂迹宮跡とされる場所に石宮が建てられている。垂迹(すいじゃく9とは仏が人々を救済するため神の姿となって現れるという思想で、10世紀頃から盛んになった。もとの仏(ほとけ)を本地仏(ほんじぶつ)といい、当社に垂迹(すいじゃく)した本地仏(ほんじぶつ)は大日如来とされている。

(12) 薬師堂

 御霊(みたま)大明神の本地仏(ほんじぶつ)である薬師如来像が祀られていた。もと御霊白幡神社の右隣にあったが、神仏分離令により社山(じゃやま)山頂に移され、のち建物は大貫の小松寺に移築された。現在も厨子(ずし)と覆屋(おおいや)(鞘堂(さやどう))が残っているが、薬師如来像はその後禰宜(ねぎ)宅に移され、現在は牧田地蔵堂に安置されている。

(13) 牧田地蔵堂

 神社の北約150mの地にある。昭和63年(1988)の再建時に、禰宜(ねぎ)(神官)宅から、薬師堂にあった薬師如来像や日光(にっこう)・月光(がっこう)菩薩像、十二神将(しんしょう)像が移され安置されている。十二神将像には明和8年(1771)の銘がある。

(14) 神宮寺(じんぐうじ)跡

 神社の北方約200mの地に神宮寺跡があり、現在は個人宅になっている。承暦(じょうりゃく)年間(1077~1081)に神官の三幣(さんぺい)国義によって下立松原神社の別当寺として建立されたが、嘉吉(かきつ)年間(1441~1444)に安西・丸氏の合戦で焼失したと伝えられている。


<作成:ミュージアム・サポーター「絵図士」
井原茂幸・川崎 一・君塚滋堂・鈴木惠弘(よしひろ)・中屋勝義>
監修 館山市立博物館

圓蔵院<千倉>

圓藏院(えんぞういん)の概要

(南房総市千倉町北朝夷2392)

南房総市千倉町北朝夷の谷(やつ)台にある真言宗智山派の古刹。創建年代は不詳。古くは寺庭にあり荒神山特恩寺圓藏院(えんぞういん)と号じ、現在地に移って新福山園藏院に改称したといいます。本尊は地蔵菩薩ですが観世音菩薩遊化(ゆうげ)の霊場として知られています。南房総市府中にある安房国触頭(ふれがしら)宝珠院の配下にあり、那古寺・清澄寺(現在日蓮宗)とともに房州真言宗の三古刹のひとつで、53か寺(現48か寺)の末寺を持つ本寺です。文安元年(1444)に源秀が中興開山第一世となってから隆盛を極め、その後哀徴しましたが天正年間に里見氏の帰依(きえ)を受けて、天正18年(1590)里見義康より寺領として石高50石及び境内地を安堵され、里見義康夫人の病気平癒祈願も行っています。徳川歴代将軍より寺領50石の朱印を賜り、現在も里見氏と徳川幕府の御朱印状納筥(おさめばこ)が伝わっています。現在まで62世の住職が継承しています。

(1)地蔵菩薩立像

(1)地蔵菩薩立像(2)地蔵菩薩坐像

右側のお地蔵様は高さ1m程の立像。安永7年(1778)に延命地蔵として地元の北朝夷村谷(やつ)台の人達によって建てられた。左側の30cm程の小さい坐像のお地蔵さまも延命地蔵で、文政元年(1818)に地元の女性たち(老母中)によって建てられた。

(3)地蔵尊

(3)地蔵尊

寛政9年(1797)に32世日雅が建立し、明治28年(1895)に43世道隆が地域の老母たちの助成を得て再興した。石工は地元の真田初次郎と遠藤徳治である。地元では「北向き地蔵」と呼ぶ人もいる。

(4)出羽三山碑

風化が激しいため、大日如来を意味する梵字(ぼんじ)(アーンク)と月山・湯殿山・羽黒山と読み取れるのみで、他の銘文は確認できない。湯殿山が中央にあるので、江戸時代の建立と思われる。

(5)庚申塔(こうしんとう)

(5)庚申塔(こうしんとう)

頭巾(とぎん)型で正面に「庚申青面金剛(しょうめんこんごう)」と刻まれた文字塔は、文政元年(1818)に地域の庚申講の老母たちにより建てられた。庚申の日の夜には当番の家に集まり懇ろに念仏を唱える風習があった。

(6)六地蔵

この石塔には六道の担当地蔵の分担や形態と24文字の光明真言が梵字で刻まれている。享保12年(1727)に23世日盛が長谷川氏・遠藤氏・石井氏の3人の肝煎で「十五日念仏講中」の人達と共にこの塔を建てた。寺で毎月15日に念仏講が行われた。

(7)歴代住職霊廟(れいびょう)

(7)歴代住職霊廟(れいびょう)

ここには約60基の墓があり、左の列に寛永11年(1634)没、里見時代の9世祐辨上人の墓。同じ列に正保4年(1647)没の14世祐圓の墓がある。延命地蔵菩薩立像は、光明真言百万遍・陀羅尼経(だらにきょう)3万6千遍唱えたのを記念し、天和4年(1684)に衆生(じゅじょう)の平和、寺の安泰を願い20世日慧が造立した。正面奥の列左には享保7年(1722)に法印宥壽により寄贈された弘法大師坐像がある。正面奥左の40世智導の墓は後藤義光の彫刻で、球形の塔身で竿の部分に密教法具が刻まれている。右列中央に寺小屋を開いた41世盛惠(館山市沼出身)の供養塔がある。造立施主は寺小屋の筆子(ふでこ)中である。

(8)弘法大師一千百年遠忌塔

門柱手前左側に高さ約3mの弘法大師供養塔がある。昭和9年(1934)の49世太範のときに弘法大師を偲んで建立された。

(9)門柱

明治31年(1898)に43世道隆のときに建てられるも、大正12年の大地震で倒壊し、翌年12月に46世快性により再建された。

(10)弘法大師一千五十年遠忌塔

(10)弘法大師一千五十年遠忌塔

明治17年(1884)の42世明道のとき、法華経を数億万遍唱えた記念塔である。石工は平館村加藤卯之助。彫刻は当村後藤義光72歳の時の作である。多数の寄付者の氏名・金額が刻まれている。大正12年の大地震で崩れ、昭和3年(1928)、47世啓道の時代に再興した。

(11)宝篋印塔(ほうきょういんとう)

(11)宝篋印塔(ほうきょういんとう)

元禄地震後に永く寺の再建に取り組んだ32世日盛が、先人の供養と民衆の安寧を願って陀羅尼経(だらにきょう)を納めたもので、元文4年(1739)に建立した。

(12)観音堂

本尊は十一面観世音。このお堂は安政4年(1857)の39世成道のとき地元大工らによって建築された。それ以前の寛政4年(1792)に32世日雅が本尊と中の宮殿(くうでん)を再興したという棟札も残されている。

(13)鎮守本社

(13)鎮守本社

弘化2年(1845)、39世成道により北朝夷村名主佐次右衛門、南朝夷村名主太郎兵衛を中心に建築された。棟梁は作右衛門、両村の太子講中が大工として働いた。4基のお宮の内の1基には御正体(みしょうたい)があり、元禄5年(1692)に20世日恵が稲荷大明神を祀ったことがわかる。本地(ほんじ)仏は如意輪観音と記されている。

(14)本堂・庫裏・客殿・玄関(南房総市指定文化財)

(14)本堂・庫裏・客殿・玄関(南房総市指定文化財)

古文書によると、本堂は享和3年(1803)から文化2年(1805)にかけての再建。修業道場の造りで江戸後期のものと思われる。庫裏・玄関は天保14年(1843)から安政4年(1857)に建築され、客殿は震災後の大正14年(1925)に建築された。本堂には千倉町の彫刻師後藤義光の作品の欄間(らんま)・御詠歌額・経蔵篋(きょうぞうきょう)(市指定)などがある。

(15)四国八十八箇所巡礼道場

(15)四国八十八箇所巡礼道場

安房第三教区檀信徒連絡協議会で、平成15年から一年一国(阿波・土佐・伊予・讃岐(さぬき))の巡礼を行い、平成18年に巡礼満願したのを記念して、四国八十八か寺巡りの写しを建立した。願主は61世星正芳、助願は圓藏院門葉(もんよう)総代の金剛院根本乾一(圓藏院62世)。

(16)正栄丸遭難者慰霊碑

(16)正栄丸遭難者慰霊碑

千倉漁港所属正栄丸(しょうえいまる)の遭難一周忌にあたり、海軍航空隊や漁業調査船などを動員して検索した様子や、義捐金(ぎえんきん)を拠出した団体や個人名、義捐金を遺族や船主に配分した様子を刻み、昭和10年(1935)に建立した。発起人は安房郡内の町村会長や近隣の漁業組合長など。

(17)梵鐘と鐘楼堂(南房総市指定文化財)

(17)梵鐘と鐘楼堂(南房総市指定文化財)

享保8年(1723)に23世日盛が本願となり、南北両朝夷村名主や近隣の村々の女性を含む有力者等の浄財を集めて、かつてあった梵鐘(ぼんしょう)を再興した。鋳物師(いもじ)は江戸の西宮大和守藤原常重と同長五郎。鐘楼(しょうろう)には江戸中期の古材が使われている。四方には鐘を守るためか十二支の動物や鳳凰の彫物がある。鐘は戦争中の金属回収令で供出したが、昭和50年(1975)に使用していた他の寺から返還された。

瑠璃光山東福寺圓乗院(るりこうさんとうふくじえんじょういん)

本尊は薬師如来坐像で平安時代の様式がうかがわれ、市の指定文化財である。現在地より西方の峰に、大同元年(806)、土地の豪族梶原将監(しょうげん)成高が薬師如来坐像を安置して草堂を造営したのに始まるという。文安3年(1446)、新福山徳恩寺圓藏院の住職源秀が海上安全祈願と万民の帰依(きえ)などのため、領主の許しを得て草堂を境内に移し、瑠璃光山東福寺圓乗院(えんじょういん)と号し現在に至る。

(18)薬師堂

(18)薬師堂

お堂は明治期の造営で、前立ち本尊の薬師如来坐像と脇侍(わきじ)として日光菩薩、月光菩薩、十二神将や聖徳太子像も安置されている。

(19)石灯籠

(19)石灯籠

地元の若者達が願主となり、寛政11年(1799)、住職快雅の代に石灯籠を1対奉納した。石工は地元北朝夷の伊八とある。

<作成:ミュージアム・サポーター「絵図士」
青木悦子・金久ひろみ・鈴木以久枝・鈴木正・吉野貞子>
監修 館山市立博物館 〒294-0036 館山市館山351-2 TEL:0470-23-5212

住吉寺<千倉>

住吉寺(すみよしでら)の概要

住吉寺 境内

(南房総市千倉町南朝夷1353)

 南房総市千倉町南朝夷1353にある古刹で中嶋山住吉寺と称し、真言宗智山派で本尊は阿弥陀如来です。もとは千倉町南朝夷の寸場(すんば)(住場)という場所にあったと伝えられ、住吉寺の名は、今も隣接している住吉神社から名付けられたと言われています。境内に入ると正面が本堂、右手に庫裡(くり)があり、観音堂は左手急な石段を登ったところにあります。その昔は海中の岩上に御堂があって船で参拝していましたが、元禄の大地震で海中が隆起し陸続きになったそうです。海中にあったころに中島と称し、その名が山号に残って中嶋観音と呼ばれているわけで、住吉寺の裏側を流れている川尻川までが海岸線だったといわれています。石段の途中などの境内には幾つかの句碑があり、大阪の住吉大社が歌の神社として名を知られていることと関係があるとも考えられます。観音堂の向拝(ごはい)は初代後藤利兵衛橘(たちばなの)義光の作品で、義光が70歳の時(明治17年=1884年)に作られています。安房国札観音霊場の27番札所として参詣の多いお寺です。

(1) 二十三夜尊

(1) 二十三夜尊

 本堂左手の洞窟の中に二十三夜尊(勢至菩薩(せいしぼさつ))が祀られている。明治の頃、沖で漁をしていた時に網にかかり、これを漁師が奉納したものである。地元の人達の信仰を集めており、毎月23日の明け方に、豊漁と海上安全を願って家族達がお参りをしている。

(2) 建部冬塢(たけべとうう)句碑

(2) 建部冬塢(たけべとうう)句碑

 「一たひは 消る日もあり 富士の雪」 建部冬塢(とうう9は本名を建部與惣太(よそうた)といい、元越後高田藩(上越市高田)の武士であったが、明治26年(1893)に曦(あさひ)村(千倉町)に移住してきた人物。俳諧に通じて居中庵(きょちゅうあん)冬塢と号し、85歳になっても元気であることを記念して、地元の同好者が明治30年に高さ150cmの句碑を建立した。明治34年(1901)3月亡くなり観音堂の脇に墓が建てられている。

(3) 土佐與市(よいち)の頌徳(しょうとく)碑

(3) 土佐與市(よいち)の頌徳(しょうとく)碑

 與市(よいち)は宝暦8年(1758)に紀州日高郡印南(いなみ)村(和歌山県印南町)で生まれ、長じて鰹節(かつおぶし)の土佐節製法の名人になった。與市は30歳の頃家を出て東国へ向い、転々としながら千倉へ着くと、南朝夷村の網元渡辺久右衛門に厚遇され、その温かい人情にふれて秘法の燻乾法(くんかんほう)を伝授した。與市の指導で千倉産の鰹節は一躍有名になり、その方法は房州の各地に広まった。文政12年(1829)、57才没。明治28年に鰹節製造の祖として土佐の與市の報恩碑が建てられた。近くの東仙寺にある土佐の與市の墓は南房総市の指定史跡となっている。

(4) 国札観音標石

 「安房国札27番中島山住吉寺」の寺号と「正(しょう)観世音菩薩」の尊号が書かれた碑。平館(へだて)の五郎左衛門(屋号)こと鈴木豊治が、昭和3年(1928)に奉納したもの。

(5) 回国塔

(5) 回国塔

 天保10年(1839)に、四国八十八か所と西国・坂東の観音巡礼の満願を記念して奉納された回国塔。弘法大師坐像と一体になった台座には、願主として忠右衛門他7名と豊前国菊(企救(きく))郡(北九州市)の豊谷善了■■・良森善妙禅尼の名、世話人2名の名が刻まれて石龕の中に納められている。菊の郡(こおり)はアワビや海産物の名産地だが、漁業が縁で千倉に奉納されたかどうかは推測の域を出ない。

(6) 渡邊半醒(はんせい)句碑

(6) 渡邊半醒(はんせい)句碑

 渡邊半醒は通称を作左衛門といい、南朝夷村の人。碑には「一生は案外に短くあっという間に過ぎてしまった」と前置きして、「いとやすき 世と思いけり 花七日」と詠んでいる。観音堂への上り石段脇に高さ87cmの句碑を明治25年(1892)春に建立した。

(7) 桂酬(けいしゅう)句碑

(7) 桂酬(けいしゅう)句碑

 あまりに見事な秋の景色に見惚れて、「山里や 秋をつくして 柿の色」と桂酬が詠んだ句を、俳諧の同好会旭連(あさひれん)が桂酬を慕って、明治28年(1895)秋、観音堂上り石段脇に高さ71cmの句碑を建立した。桂酬については未詳。

(8) 住職墓碑

 文化2年(1805)に建てられた宝塔形の住職慈敬の墓碑。正面に法名、塔身二面には梵字(ぼんじ)で宝篋印陀羅尼経(ほうきょういんだらにきょう)が彫られている。

(9) 子育て地蔵

 左手に子供を抱いた地蔵菩薩立像で、文化6年(1809)11月に建てられている。施主の名は風化が激しく判読できない。

(10) 六地蔵経典供養塔

(10) 六地蔵経典供養塔

 僧日稚が光明真言(こうみょうしんごん)6億万遍と往生真言(おうじょうしんごん)2万巻、陀羅尼経(だらにきょう)5万巻を唱えきって建てた納経塔。六角の塔身に六地蔵の浮き彫りと経典名がある、細身の美しい塔である。文化6年(1809)のもの。

(11) 六十六部供養宝塔

(11) 六十六部供養宝塔

 法華経(ほけきょう)経典を日本全国66か国に納経して回る巡礼者を六十六部(ろくじゅうろくぶ)、略して六部(ろくぶ)と呼んだ。貧者は経典の代わり厨子(ずし)を背負って勧進(かんじん)しながら回る者も多く、行き倒れや六部隠しなどにもあう苦難の旅であった。この宝塔は六十余国八霊場回国を終わるに至り、結願供養のため、江戸小田原町の伊丹屋半兵衛・信州松本の上条源治(屋号松尾屋)の2名が願主となり、鈴木新兵衛が施主として陀羅尼経(だらにきょう)を納経し、遠近の縁者によって延享元年(1744)に建てたもの。基壇(きだん)側面と蓮華座(れんげざ)の花びら一枚ずつに、二世安楽を願った寄進者の法名83名分が刻まれている。宝塔を建てる事によって仏舎利(ぶっしゃり)が無くても、塔の中にはすでに多宝如来がおられ、法華経を保つものは真の仏子(ぶっし)であるとの教えに由来する。

(12) 五輪塔墓碑

 江戸・明治時代の歴代住職の墓などがある。2基は五輪塔で3基は無縫塔(むほうとう)。

(13) 観音堂

(13) 観音堂

 天保年間(1830~1844)に改築された三間四面の御堂に、行基(ぎょうき)菩薩作と伝える正(しょう)観世音が安置されている。外陣(げじん)には江戸末期の百観音巡礼奉納額が掲げられている。向拝(ごはい)彫刻は初代後藤義光の作品であり、向拝裏には北千倉漁師中世話人・当所世話人等の連名がある。観音堂外周の海老虹梁(えびこうりょう)・象鼻(ぞうばな)・獅子鼻(ししばな)などには寄進者の名が刻まれている。

(14) 桃阿(とうあ)・枕石(ちんせき)師弟句碑

(14) 桃阿(とうあ)・枕石(ちんせき)師弟句碑

 明治期の俳人で現南房総市千倉町在住の吐月(とげつ)・得牛舎(とくぎゅうしゃ)桃居(忽戸(こっと)の人)などが、明治23年(1890)に建立した先人師弟2名の句碑。高さ132cm。ともに俳人であり僧侶としても師弟関係と思われる。師匠の得牛舎桃阿(文化・文政期の人)が月の見事さを座禅の心境に例えた「名月や ここを座禅の 無東西(東西は青を表す)」と、弟子の枕石(文政~安政期・千田(せんだ)の人)が早朝の景色を詠んだ「霜おくや 雲の中なる かねの聲」の2句。

(15) 船繋石(ふなつなぎいし)

(15) 船繋石(ふなつなぎいし)

 御堂はかっては海中にあり、船で参拝した。その名残で、今でも観音堂の岩上前方に船が係留されたといわれる岩石がある。高さは約1mあまりでいかにもその風情がある。

(16) 墓地地蔵尊

 この基壇には、延享(えんきょう)年間(1744~1748)頃から寸場(すんば)にあった墓地が手狭になり、憂慮した住職が信徒の協力で明治43年に隣接地を開墾し、また買い求めて一反余りの新墓地を設けたと刻まれている。そこで先祖代々の霊を慰めるため、地蔵を奉安して記念としたものである。大正6年7月9日の建立で住職は石井宥忍(ゆうにん)、下段には寄付人名と金額がある。


<作成:ミュージアム・サポーター「絵図士」 鈴木正・中屋勝義・吉村威紀>
監修 館山市立博物館

高塚不動尊<千倉>

高塚不動尊(たかつかふどうそん)と大聖院(だいしょういん)の概要

(南房総市千倉町大川817)

 南房総市千倉町大川にあり、真言宗智山派の妙高山大聖院といいます。不動尊の開基は奈良時代に東大寺の創建などに尽した華厳宗(けごんしゅう)の「良弁僧正(ろうべんそうじょう)」といわれています。良弁は母の菩提を弔うため諸国修業の旅に出掛け、途中安房の国の当地にお堂を設け、修業の日々を過ごしました。ある時大海龍王の擁護で魔障(ましょう)から逃れる事ができたため、不動明王の尊像を彫刻し堂内に祀りました。この像が本尊の「大聖不動明王」です。その後この像は一時行方不明になりましたが、嘉応元年(1169)、近くの浜で発見され地元民の協力で高塚山山頂にお堂を建立し安置することができました。また麓の大聖院の開山は長尾庄(ながおのしょう)の庄官であった「法月坊」です。山麓に庵を設け不動明王の再来を祈ったことが、大聖院の始まりとなりました。遠州秋葉(静岡県)出身の法月坊は、秋葉権現が不動明王の化身であるという老僧の教えに従い山頂に秋葉権現をお祀りしました。そこに塚を築いて祀ったことから高塚山と称するようになったといいます。大聖院は関東36不動霊場の33番札所です。

(1) 道しるべ「高塚不動道」

(1) 道しるべ「高塚不動道」

 七浦幼稚園の脇にある高さ80cm程の高塚不動への石の道しるべ。参道の修繕に貢献した大川出身の早川銀蔵が建立したもの。

(2) 前不動

(2) 前不動

 高さ1.5mの祠(ほこら)のなかに不動明王、左手には地蔵菩薩がある。昔、山頂の不動尊にお参りできない人のために地元有志が、ここに不動明王を安置したそうである。右手前の石に「文政9年(1826)・安政4年(1858) 三界万霊(さんがいばんれい) 大川村千田村一同」とあるので、この頃に建立されたのだろう。

(3) 山門

 高さ3.1mの石門。左の門柱には大聖院18世御子神(みこがみ)太範と七浦村長・総代、右の門柱には発起人、世話人と石工の名がある。明治36年の建立。

(4) 宝篋印塔(ほうきょういんとう)

(4) 宝篋印塔(ほうきょういんとう)

 山門先左手の宝篋印塔は、明和2年(1765)大川村の名主宇山長兵衛が宇山家先祖の崇拝と同族親和を願って建立した。はじめ大川のうちの上野山にあったが、関東大震災で倒壊し、昭和5年(1930)に移転した。大川の宇山氏は新田里見氏の一族鳥山(とりやま)氏の末裔(まつえい)で、里見氏に仕えた。

(5) 御子神太範(みこがみたいはん)先生の墓

 本堂左手前にある五輪塔。正面の「当院十八世阿闍梨(あじゃり)太範」は、岩糸(南房総市旧丸山町)生まれで、明治33年(1900)に大聖院住職となった御子神太範。昭和5年(1930)に円蔵院住職となるまで地域の青年に学問を教えた。昭和10年67歳で没。翌年に子弟が恩師の徳を偲び建立した。

(6) 大聖院本堂

(6) 大聖院本堂

 寄棟(よせむね)造り向拝(ごはい92間の茅葺形(かやぶきがた)鋼板葺である。内陣欄間(らんま)には安永4年(1775)作の初代武志伊八郎信由(のぶよし)の彫刻がある。中央が「波と龍」、左右は「麒麟(きりん)」の三面(南房総市指定)。内陣左脇間には、昭和32年に九重の鈴木寿山が描いた「竹林の七賢人」と「牡丹」の欄間絵が掲げられている。

(7) 高塚不動堂

(7) 高塚不動堂

 本尊は大聖不動明王で、開基良弁僧正(ろうべんそうじょう)が刻んだと伝えられている。不動堂はもと高塚山の山頂にあったが、昭和初期に修理中の火事で一部が焼け、昭和36年に現在の場所に遷された。内部には元大蔵大臣水田三喜男の賽銭箱、高木省童画伯が高塚不動明王霊現の由来を描いた18枚の額、高塚山御詠歌の額などが奉納されている。

(8) 秋葉権現

 大聖院を開山した法月坊が、ふるさとの鎮守であった秋葉権現(あきばごんげん)を祀ったという。不動堂と一緒に山頂から下ろされた。

(9) 出羽三山碑

(9) 出羽三山碑

 境内墓地端の崖下にある防空壕の入口に建つ。高さ80cm。上部に雲に乗った大日如来を載せ、湯殿山を中心に月山と羽黒山を刻み、その下に3名の名前がある。宝暦12年(1762)のもの。

(10) 富士登山記念碑

(10) 富士登山記念碑

 奥の院への参道途中にある。中央は明治20年(1887)、早川権右衛門を先達とした山大という浅間講社19名が建立した富士浅間神社の写し。右側は明治17年(1884)に大先達桑行仙山が富士御中道33度を達成した記念碑で、明治38年(1905)と昭和9年(1934)の御中道大願成就も後刻されている。左側は昭和4年(1929)、大先達清行眞山(早川鉄五郎)他同行者8名による富士登山記念碑である。御中道(おちゅうどう)とは富士山中腹を一周する御中道巡りのことで、富士登山3回以上の経験者に許された修行のひとつ。

(11) 伊勢琴平参拝記念碑

 伊勢神宮と四国の金比羅(こんぴら)様に参拝した記念碑で、鳥居の手前に大正10年(1921)に建てられた。発起人は団長栗原伊之助以下19名。石工は平舘(へだて)の加藤常次郎である。

(12) 鳥居

(12) 鳥居

 奥の院への参道を示す高さ4.7m程の石造鳥居。宇山徳左衛門・宇山兵吾と13世住職日欽(にっきん)が願主として海の安全を祈願し、地元の若者たちが寛政11年(1799)に寄進した。

(13) 手水石

 奥の院風神雷神門の左手前にある。文化10年(1813)に6名の世話人をはじめ、23名の村人により奉納された。

(14) 修繕記念碑(大)

(14) 修繕記念碑(大)

 風神雷神門手前の大きな碑で、高塚不動尊の修繕の経緯が書かれている。大正6年(1917)の台風で不動堂の屋根が壊れ、風神雷神門が倒れた。世話人が各地の信者から浄財を集め、区民の労役により大正12年7月に再建したが、9月の関東大震災でまたも被害を受け再度修繕された。このとき大川出身の早川銀蔵が私財を投じ、自ら工事を指揮して参道の石壁を積み、水屋・四阿(あずまや9を新築した。これら善業を後世に残すべく住職御子神太範と地元有力者の呼びかけで、大正13年(1924)9月に建立された記念碑である。 

(15) 修繕記念碑(小)

 小さなほうが風神・雷神像の修繕と石段工事の記念碑。明治44年(1911)正月に建てられたが、『千倉町史』によると明治43年8月に豪雨があったとしており、石工2名の他に塗師とあることから風雷神に彩色が必要なほどの被害がでたのであろう。

(16) 風神雷神門

(16) 風神雷神門

 文政13年(1830)3月、長狭郡平塚村(鴨川市)の三木甚右衛門、古谷伊兵衛ほか3人の石工がノミを振ってこの石像を刻み、若者中が高塚不動尊に奉納した。台座には世話人として地元の植木忠右衛門のほか、14世住職盛侃(せいかん)・村役人・地元35名の人々の名と、近隣の村々の名が刻まれている。

(17) 石灯籠

(17) 石灯籠

 風雷門の先にあり、施主は江戸の日本橋本船(ほんふね9町とある。本船町は日本橋川北岸の日本橋魚河岸発祥の地で、多数の魚類関連問屋が集結し繁栄した中心地である。獲れた魚を送っていた縁で海陸交通の守り本尊である当不動尊に宝暦5年(1755)奉納したものだろう。

(18) 狛犬

(18) 狛犬

 風雷門の先にある。「子獅子が親獅子に寄り添っている」姿で、彫りに厚みがあり台座を含め高さは2.2m程ある。17世住職小熊隆寳・世話人6名と信者136名に上る人々が、明治12年(1879)に奉納した。彫刻は北朝夷村(千倉)の初代後藤利兵衛橘義光である。

(19) 元不動堂(奥の院)と天水桶

(19) 元不動堂(奥の院)と天水桶

 嘉応元年(1169)頃からこの地に不動尊が祀られてきたが、昭和初期の高塚山山頂の火災で不動堂は焼失した。その後仮堂を建てたが、昭和36年に麓に遷された。旧堂の天水桶は高さ1.2mで左右一対、それぞれ正面に「奉」「納」と刻まれている。左右に寄付者3名の名が刻まれ、大正13年9月に奉納された。


<作成:ミュージアム・サポーター「絵図士」
青木悦子・金久ひろみ・鈴木以久枝・鈴木正・御子神康夫・吉村威紀>
監修 館山市立博物館

杖珠院<白浜>

杖珠院(じょうじゅいん)の概要

杖珠院 本堂

(南房総市白浜町白浜4295)

 南房総市白浜町白浜字若宮横手にあり、三峰山杖珠院と称します。伊豆大仁(静岡県伊豆の国市)の洞宗蔵春院の末寺で、のちに延命寺の末寺となりました。本尊は延命地蔵菩薩です。文安元年(1444)に蔵春院から月舟宗白禅師を招いて開山とし、房総里見氏初代の里見義実(よしざね)を開基として創建されたと伝えられています。義実が寺領を与え、里見家の菩提寺として帰依をうけたといい、慶長年間には里見義康・忠義から、朝夷郡白浜村の内で20石の地を与えられました。正保元年(1644)に角岩麟芸禅師が伽藍を再建して中興開山となりますが、元禄16年(1703)の大地震による山津波で伽藍・宝物・記録の多くが埋没・流失してしまいます。しかし白浜里見一族の里見義徳が住職(十世越山超宗、別号楽水軒)になると里見義実の供養塔を建立し、以降歴代住職により伽藍の修繕が繰り返されて現在に至っています。本堂向拝にある龍の彫刻は後藤義光の門人で北条にいた後藤忠明の作品です。その上の鳳凰は畑の瑞龍院住職の作。本堂の中には前期里見氏の義実・成義・義通・義豊の4人の木像や、楽水軒が実家から持ってきたという里見記録などが整理されているので、拝観することが出来ます。前期里見氏の菩提寺です。

(1) 恩田城山(じょうざん)碑

(1) 恩田城山(じょうざん)碑

 昭和8年(1933)7月に父仰岳の碑とともに建設された。城山は天保9年(1838)に駿河国田中(静岡県藤枝市)に生まれ、18歳のときに江戸へ留学して長沼流兵学とともに儒学を学んだ。23歳で藩校日知館の兵学師範となり、西洋流砲術や漢籍の教授も行なっている。明治元年(1868)に田中藩が長尾藩として安房へ転封すると白浜に居住した。明治6年の白浜小学校開校のとき教員となり22年間勤め、のち北条の私塾日知学舎でも漢学を講じている。50年余りを教育者として過ごし、内42年間は地元安房の教育に尽くした。碑の篆額は元藩主家の本多正復、撰文と書は当時安房の教育会を担っていた門人の広瀬の林信太郎と西長田の鈴木貞良である。

(2) 恩田仰岳(ぎょうがく)碑

(2) 恩田仰岳(ぎょうがく)碑

 仰岳は文化6年(1809)に駿河国田中(藤枝市)に生まれ、田中藩の兵学者として西洋式兵制への改革を断行した。明治元年に安房へ転封すると白浜長尾の地に城を選定し、建設の指揮を執った。翌年の台風による陣屋倒壊で藩士は北条に移住するが、彼は白浜に残り、廃藩後は私塾を開いて漢学者として地元子弟の教育に携わっている。田中藩時代からの門人は千人余にのぼり、安房の文化を担う多くの人材が育成された。昭和のはじめに安房先賢偉人のひとりに選ばれている。碑の篆額は元藩主の本多正憲、撰文は漢学者で元藩の少参事石井頼水、書は元藩士で書家の小野成鵞である。

(3) 蹊道(けいどう)改造紀念碑

 山門前左側に高さ2mほどの駒型の石碑がある。大正天皇即位の御大典記念事業として、白浜名倉から館山市畑までの山あいの険しい道約一里が改修された。原・小戸・畑の区長らが相談して寄付金400円余りを集め、共同工事として2000人が山道を切り拓いて、道幅七尺の道路にした。大正4年(1915)秋に道が完成した記念に建てられ、恩田利用(恩田城山の長男で畑尋常小学校の教員)が文章を作っている。蹊道とは山間のこみちのこと。

(4) 葷酒塔(くんしゅとう)

(4) 葷酒塔(くんしゅとう)

 山門の右手に建つ「不許酒葷入山門(くんしゅさんもんにいるをゆるさず)」の石碑。禅宗寺院では修行の妨げになるので、ニラ・ニンニクの類を食し、酒気を帯びて山門の中へ入ることを禁じている。側面に、杖珠院は上州寺尾(群馬県高崎市)の城主新田義重の十二代後胤にあたる里見義基の三男里見義実が創建した禅寺であることが刻まれている。天保13年(1842)に十六世超音和尚が建てたもの。

(5) 無縁塔

 山門を入って左手に並ぶ3基の塔のうちもっとも左にある。裏面の銘によって、無縁仏の供養のために昭和25年(1950)11月13日 に建てられたものとわかる。

(6) 再中興二十世塔

 中央の塔が、明治19年(1886)に本堂を再建した佛海祐道和尚の墓である。その年の6月に没した。右側面の銘によって明治22年(1889)4月に二十一世大寿和尚が建てたものとわかる。「北原千祥鐫(ほる)」の刻字がある。

(7) 聖観音像

(7) 聖観音像

 右側の観音像は、台座の銘文から当地佐野家の高照院慈眼大徳(法名)の寄進によるものであることがわかる。慈眼は幼時に父を失い、さらに病で失明したが、観音信仰に篤く、粉骨砕身して働き、生活にゆとりができると、霊感を得てこの石仏を建立した。寛政6年(1794)に死去したが、碑文は没後の同9年、十三世徹門和尚の撰文によって刻まれた。

(8) 義実供養塔を再建した十世楽水軒の父親の墓

(8) 義実供養塔を再建した十世楽水軒の父親の墓

 この寺に現存する系図その他の古文書類は、里見義実の供養塔を建てた十世住職楽水軒が実家に伝来していたものを持ってきたのだという。俗名を里見義徳といい、里見義通の兄義冨を先祖にする白浜の里見一族の出身。義実の供養塔前の階段を下りたところに楽水軒の父義久の墓がある。寛保2年(1742)没、86歳、大叟常仙居士という。近年、末寺の金慶寺墓地から移転したものである。

(9) 里見義実公墓所

(9) 里見義実公墓所

 中央が里見義実の供養塔である。もとは本堂裏山の中腹にあったが、元禄16年(1703)の大地震のとき山津波によって喪失したと伝えられている。供養塔には義実の法名「杖珠院殿建室輿公大居士」、裏面に長享2年(1488)4月7日に72歳で没したこと、右側面に当寺十世住職の楽水軒が明和8年(1771)に建立したことが刻まれている。楽水軒は白浜に残された里見一族の出身で義実の子孫である。いちばん右には戦国時代の宝篋印塔が残されている。いちばん左の塔は石塔の形をなしていないが、一石の五輪塔が乗せられ、その下の石には義豊の法名「孝山長義居士」と犬掛の戦いで敗死した日付「天文三年(1534)四月六日」の文字が読める。

(10) 恩田仰岳墓

(10) 恩田仰岳墓

 里見義実墓所の左側高台に恩田家の墓所がある。「仰嶽先生永眠之室」という石塔と丸い塚状の墓が、明治24年(1891)1月28日に83歳で没した恩田仰岳の墓である。葬儀は神葬式で行なわれ、恩田豹隠藤原利器彦命とおくり名され、遺命により里見義実の墓の西に葬られた。なお同日に亡くなった奥方(田中氏つね)の葬儀は翌日に仏式で行なわれ、並んで石塔が建てられている。

(11) 恩田城山墓

(11) 恩田城山墓

 大正8年(1919)1月6日に白浜で没した。82歳。父より一段高い場所に葬られた。


<作成:ふるさと講座受講生
井原茂幸・君塚滋堂・鈴木惠弘・御子神康夫・吉野貞子・吉村威紀>
監修 館山市立博物館