滝口下立松原神社<白浜>

下立松原(しもたてまつばら)神社の概要

滝口・下立松原神社 社殿

(南房総市白浜町滝口1728)

 南房総市白浜町滝口にあります。祭神は天日鷲命(あめのひわしのみこと)。安房神社の祭神天太玉命(あめのふとだまのみこと)の弟であるとも伝えられ、安房忌部氏の祖神として、代々忌部氏の子孫が神主を務めてきています。後世いく度かの合祀がおこなわれ、現在では祭神は19柱を数えています。古墳時代から祭祀が行なわれていて、一般的には太古の時代には神は山に宿ると信じられていたので、麓に聖地(磐境(いわさか))を定め、祭壇(神籠(ひもろぎ))に神座(磐座(いわくら))を設け、祝部(はふりべ)(神主)が中心になって祭祀が行なわれていました。そうした祭祀遺跡は安房国では洲宮神社や南房総市宮下の莫越山(なこしやま)神社周辺などで確認されています。一般的に屋代(やしろ)(神社)が出現するのは9世紀初頭とされていますが、古い神社や神名を記した『延喜式(えんぎしき)』(927年完成)によると、安房国には大社2座・小社4座が記載されており、下立松原神社は小4座のひとつとして記載されています。現在の本殿は明治初頭の再建、拝殿は元禄時代に建築された本殿を移したもので、ともに入母屋造です。拝殿には16枚の絵馬が奉納されており、漁労生活とのつながりを感じさせます。8月1日に例大祭があり、9月の八幡の祭には神輿が出祭します。また旧暦11月26日から10日間行なうミカリ神事が伝わり、南房総市無形民俗文化財に指定されています。

(1) 宮下橋

(1) 宮下橋

 親柱に紀元2592年と記された宮下橋は、昭和7年(1932)に架けられたもの。アーチ型のコンクリート製で、長さ7.8m、幅4.5mほどある。宮下川に架かり、橋の側面には、設計監督鈴木友吉、土木指揮福原政蔵、左官田中繁蔵の名前が記されている。

(2) 滝口の井戸

(2) 滝口の井戸

 参道入口にある滝口の井戸は、正月15日に行う筒粥(つつがゆ)神事の供え粥の白米を清めた神水である。今は生活用水として利用されているが、右奥からの清冽な湧水は昔から地域の人々に崇められている。

(3) 社名碑

 正面には「延喜勅扉 下立松原神社小鷹大明神御鎮座」とある。江戸時代までは小鷹大明神と呼ばれており、延喜勅扉の文字は朝廷が撰んだ延喜式内社という格式を誇示したものであろう。側面には「天下泰平五穀成就御祈祷神事也不可入汚穢不浄之輩」とある。

(4) 一の鳥居と記念碑

 最初の階段が北東(35段)と南東(28段)にあり、あがると高さ約5mの石造の明神鳥居がある。台石には「奉」「献」と刻まれている。鳥居の右側には高さ4mの「第壱鳥居奉納者記念碑」があり、大正7年(1918)5月に主として地元の寄付で建立されている。川下の西条文治他4人が発起人、本郷の鈴木定治他17人が世話人。石工は小坂浅治と浅沼廣治、鳶は北条の岩崎益吉とある。

(5) 后(きさき)神社

(5) 后(きさき)神社

 阿波忌部(いんべ)の祖神天日鷲命(あめのひわしのみこと)の孫由布津主命(ゆふつぬしのみこと)の后で、房総を開拓した天富命(あめのとみのみこと)の娘の飯長姫命(いいながひめのみこと)を祀った社殿である。由布津主命は天富命に従って東国開拓をした安房忌部の祖神。

(6) 日露戦役記念碑

 裏面に、長尾村滝口から明治37年、38年(1904、1905)の日露戦役に出征して戦死した9名と、その他の従軍者95名の氏名が刻まれている。紀元2574年11月立石とあるのは、大正3年(1914)のこと。陸軍参謀総長大山巌の揮毫で、戦役後各地に碑が建てられた。

(7) 慰霊碑と招魂社

 大東亜戦争(太平洋戦争)で戦死した滝口地区106名の慰霊碑。戦没者の霊を祀る招魂社の修理にあわせ、昭和58年(1983)に建立された。招魂社の手水石は嘉永3年(1850)のもので石工は儀兵衛。

(8) 石灯篭

(8) 石灯篭

 二の鳥居前にある嘉永2年(1849)に建てられた灯篭。右塔の台石正面に「洋中」、左塔に「静寧」の文字があることから、海が安らかで静かなことを祈願している。側面には地元の世話人2名と石の運賃寄進者、ほか43人の奉納者の名前が彫られている。

(9) 二の鳥居

 一の鳥居から80数段あがると、高さ4,7mの神明鳥居がある。昭和54年に白浜建設の鈴木金衛が寄進しているが、台石には「御」「雲」と刻まれ、明治20年(1887)のものである。滝口の人々が寄進しているが、砂取の器械社中や同浦漁師の刻名もある。器械社中はあわび漁などを行なう器械潜水夫たちのこと。

(10) 石灯篭

 石段下の灯篭は、享保8年(1723)に建てられたもので、境内にある奉納物のなかでは一番古いようだ。高さは150cm余り。

(11) 狛犬

(11) 狛犬

 寛政6年(1794)6月、滝口村の若者たちが奉納した。石工は不明。鞨鼓舞(かっこまい)の獅子頭のような表情をしている。

(12) 力石

(12) 力石

 社前にある力石は、当初5つあったという。左は天保3年(1832)奉納で36貫目、次は30貫目(120kg)、次は40貫目、一番右は重さが刻まれていないが、最大のもの。嘉永7年(1854)に日和丸の吉蔵が奉納した。近隣の若者たちの力比べに使われたという。

(13) 手水石

(13) 手水石

 正面には「無塵浄(むじんじょう)」とある。参拝前にここで「穢れを祓い心身を清める」という意味。左側面には地元を中心に発願主5名の名。その中に忌部氏の伝説がある布良村の人もいる。裏面には32名の世話人、右側面には石工棟梁儀兵衛・金蔵等の名と、寄進された慶応4年(1868)の年号がある。

(14) 狛犬

(14) 狛犬

 明治3年(1870)、川下の石工山口金蔵重信が彫ったもので、神社の魔除け。本殿に向かって右の阿像は子獅子、左の吽像は玉を添える。本郷を中心に川下・砂取・大作場など滝口の人たちが奉納。上総大原の船頭八三郎等が石の運送賃をサービスしている。

(15) 壁画殿

(15) 壁画殿

 紀元2600年 (昭和15年)記念事業として建設された。内部には、同年に寺崎武男画伯(1883~1967)が奉納した当社の由緒を物語る壁画10枚が展示されている。壁画は忌部氏の一族を讃える内容で、(1)国防(2)斎部廣成(いんべのひろなり)(3)源頼朝の参篭(4)開拓(5)天日鷲命(6)由布津主命(7)飯長姫命(8)造営(9)造船(10)神狩(みかり)と題されている。なお、寺崎武男は昭和前半に館山に住み、戦後安房高の美術講師をした。

(16) 天神社(あまつかみのやしろ)

(16) 天神社(あまつかみのやしろ)

 延喜式の式内社小四座のひとつ。祭神は高皇産霊命(たかみむすびのみこと9・神皇産霊(かみむすび)命で、元の社地は滝口字天神免の観音堂あたりとされ、のちに別当寺の紫雲寺裏北西の本郷谷(やつ)に移ったといわれている。昭和12年(1937)に現在地に遷宮された。


<作成:ふるさと講座受講生
青木悦子・井原茂幸・金久修・君塚滋堂・
鈴木惠弘・御子神康夫・山井廣・吉野貞子>
監修 館山市立博物館

智蔵寺<三芳>

智蔵寺の概要

(南房総市山名386)

曹洞宗で、富士山智蔵寺と号し本尊は地蔵菩薩。江戸時代に上総御宿(おんじゅく)にある真里谷(まりやつ)武田氏二代信勝の菩提寺・真常寺との間で本末寺の論争が起こり、真里谷武田氏初代信興(のぶおき)の菩提寺である上総国触頭(ふれがしら)の真如寺(木更津市)が仲介して、真如寺直末(じきまつ)の別格扱いとなって以来「山名の大寺」と呼ばれています。寺伝では文亀3年(1503)、武田次郎三郎信勝を開基とし、弟の太厳存高(だいげんそんこう)を開山に創建されています。寛永15年(1638)に、旗本・三枝守昌(さえぐさもりまさ)が安房国で一万石の大名となり、山名村本郷に陣屋を置くと、智蔵寺を菩提寺としました。本堂欄間には初代武志伊八郎作の「応龍」の彫刻(市指定)があります。

(1)六地蔵

 参道の途中に7体のお地蔵様が祀られている。左端の地蔵像は享保元年(1716)に建てられた墓石。外の6体が宝暦4年~7年(1754~1757)に祀られた六地蔵である。木曽、請花(うけばな)、地蔵像の組み合わせにばらつきがあることから、後年に組み直されたのであろう。

(2)山門

(2)山門

 関東大震災で倒壊はしていないが、山門の建築時期を示す資料はない。しかし、15世住職が寛政年間(1789~1801)に七堂伽藍(しちどうがらん)を造影したとの古文書が残るので、その時期のものかもしれない。二段式の虹梁(こうりょう)や木鼻(きばな)その他、至る所に彫刻が施されているが、虹梁(こうりょう)端の処理に古い技法が見られる。昭和22年(1947)の屋根替え後、昭和60年(1985)に現在の銅板に葺(ふ)き替えられた。

(3)三枝守昌(さえぐさ・もりまさ)の墓

(3)三枝守昌(さえぐさ・もりまさ)の墓

 宝篋印塔(ほうきょういんとう)が安房の大名三枝勘解由(かげゆ)守昌の墓である。法名は松獄院殿喜参宗悦大居士、没年は寛永16年(1639)11月29日。享年55歳。裏面に「諏訪氏造立之(これをぞうりゅうとす)」とあるのは(4)の諏訪頼益(すわ・よります)のこと。戦国時代は甲斐武田氏に仕えた家で、主家の滅亡後徳川家に従う。元和8年(1622)に徳川忠長に仕えて1万5千石となったが、忠長の改易により陸奥棚倉藩に「お預け」となった。のち許されて、寛永15年(1638)に安房国三郡で1万石を賜り、大名として安房三枝藩を興すが、翌年に病で没し廃藩となった。

(4)諏訪頼益(すわ・よります)の墓

(4)諏訪頼益(すわ・よります)の墓

 三枝守昌の次子で勘兵衛という。母方の諏訪姓を継ぎ、子孫は代々諏訪勘兵衛と称した。寛永16年(1639)に病死した父守昌の遺領は、翌年、兄守全(もりあきら)が7000石を継ぎ、弟の頼益に山名・三坂・海老敷村などの3000石が分けられて、ともに旗本となった。延宝2年(1674)没。62歳。法名は端松院殿釼山全宝大居士。諏訪家は宝暦13年(1763)三枝姓に戻り、天保13年(1842)に知行替えとのあって安房を離れるまで、山名村で陣屋支配をした。

(5)歴代住職の墓(無縫塔(むほうとう))

 基壇を設けた崖際に、開山の供養塔を挟んで歴代住職の墓が並んでいる。12世以前の墓石は風化が著しく、どの世代の墓か不明。15世(松林骨禅大和尚)の墓にのみ、基礎に漢文で履歴や功績が刻まれ、寺の文書にも寛政年間に当寺の諸堂を再建した中興の祖と記されている。

(6)八木先生の墓

(6)八木先生の墓

 「八木先生之墓」と刻された墓があり、寺小屋の先生のものではないかと言われている。師匠の墓を弟子が建てる例が多いが、この墓は建立者が不明である。過去帳によると、名は八木次郎といい、大名丹羽(にわ)家の家臣。嫡男は仙台藩浅野平助とある。嘉永7年(1854)没。61歳。明治時代に小学校として使用された智蔵寺はそれ以前から寺小屋だったといわれている。

(7)女人講建立の地蔵尊

(7)女人講建立の地蔵尊

 文政6年(1823)に嵯峨志(さがし)組と下(しも)組の地元女性たちによって、子供の成長やあの世での冥福を願って建立された地蔵尊である。幼くして亡くなった子供は親の恩に報いる孝行ができなかった罪で、賽(さい)の河原で苦を受ける。子供たちは娑婆(しゃば)の父母兄弟供養のために石塔積みを繰り返すが、そのたびに鬼が来てその塔を崩す。そこへ地蔵が現れ子供たちを救ってくれるという地蔵信仰がある。この地蔵尊の左手は願い事がかなえられる宝珠を持った子供を抱き、足元には二人の子供がいる。一人は錫杖(しゃくじょう)にすがりつき、もう一人は泣きながら石積みをしている様子が彫られている。

(8)裁縫の先生の墓

 大正7年(1918)に72歳で亡くなった、21世住職密厳禅師の妻の墓である。把針(はしん)(裁縫)の生徒39名の名前が墓石の左右に刻まれている。学問などで世話になった弟子たちが、師匠の遺徳を偲んで筆子塚を建立することがあるが、この墓にも同様の気持ちが込められている。

(9)溝口八郎右衛門の墓

(9)溝口八郎右衛門の墓

 出羽三山の行人(ぎょうにん)である。酒樽の上で徳利と盃を持つ姿は酒豪で知られた人物像を表している。正面には「無漏(むろ)」と刻まれ、煩悩から解放された境地に至ったことが示されている。天保14年(1843)6月13日没、90歳。安房の名工の一人武田石翁による、天保12年(1841)頃の作と伝えられている。

(10)君塚因幡(いなば)の供養塔

 山名村の人で、江戸初期に里見氏の家臣であった(『安房志』)とされ、寛永19年(1642)8月20日に没した。君塚家墓域の中にある供養塔は、宝暦12年(1762)に行われた121回忌の供養の際に建立されたと刻まれている。山名本郷には現在でも数件の君塚一族が住んでいる。

(11)念仏ばあさんの墓

(11)念仏ばあさんの墓

 愛知県出身で、明治22年(1889)に安房郡へやって来た「竹内しま」の墓である。37年間に安房郡内で800人もの弟子に御詠歌を教え、「山名の念仏ばあさん」と呼ばれていた。大正15年(1926)5月9日、病により71歳で没した。墓は念仏講中の人達によって建立されている。

(12)田原次郎作の墓

 田原次郎作は山名の田原貞蔵の次男。明治10年(1877)2月に始まり9月に終結した西南戦争で、東京鎮台の陸軍兵卒として政府軍に従軍した。明治10年(1877)3月4日に大阪病院で死亡。享年23歳。戒名は天倫了兵居士。

(13)スタジイの古木

 本堂手前の急斜面の樹林中にある。株立状に太い幹が分岐し、たくさんの萌芽枝も認められる。胸高周囲は6.9m、樹高は約15m、樹齢200年以上とされる。「千葉県の巨樹古木200選」のひとつ。

(14)寺山石

(14)寺山石

 寺山石とは当寺の裏山より切り出され、建築材として使われた石のこと。切り出しは昭和30年(1955)頃まで続いた。石は砂岩質からなる凝灰岩と呼ばれる石で、当寺の本堂や鐘楼堂の基礎材、また境内周囲の石垣などに使われている。他に山名熊野神社の参道にあるアーチ型の石橋や智光寺近くの石橋などにも使われている。


作成:ミュージアムサポーター「絵図士」
刑部昭一・川崎一・鈴木正・殿岡崇浩・
中屋勝義・羽山文子・山杉博子 2018.8.27作
監修:館山市立博物館 〒294-0036 千葉県館山市館山351-2 ℡0470-23-5212

山名熊野神社<三芳>

山名熊野神社の概要

山名熊野神社 社殿

(南房総市本織不入斗572-1)

 明治22年(1889)、市制・町村制の施行により隣接する池ノ内・中・御庄(みしょう)・山名が合併し頭文字の(い・な・み・や)から「安房郡稲都(いなみや)村」となった。この稲都地域は古くから、「平郡の除戸郷の分域」や「熊野の群房庄」の言葉が残されている歴史ある土地柄である。山名の熊野神社(祭神伊邪那岐命(いざなぎのみこと))はこの村の東端にある山名嵯峨志(さがし)の中央台地に祀られている。明治16年(1883)の『山名誌』によると、当社は当初安房水上神社と称されていたが安房と冠するのは安房神社だけであるとの抗議があって水上神社に改めたと伝えられている。この神社は文亀2年(1502)に熊野本宮大社より勧請されたものだが、勧請(かんじょう)(創建)に至る経過の詳細は明らかではない。稲都村も昭和28年(1953)には隣接する滝田村、国府村と合併し「三芳村」と改称する。山名熊野神社が祀られる経過は不明だが、稲都地区には「熊野群房」という言葉が残されているように、この地には新(いま)熊野神社の社領「群房庄」が存在していた。
熊野三山(本宮(ほんぐう)大社、速玉(はやたま)大社、那智(なち)大社)への信仰は、熊野先達(せんだつ)の盛んな活動もあって中世に全国へ広がり、各地に熊野神社が勧請された。三芳村には4社、安房郡では37社を数え、この地域においても多くの熊野神社が創建されている。なお、三芳村は平成の大合併により近隣7町村と合併し南房総市となり、神社の所在地は南房総市山名667番地となる。

(1)熊野参宮記念碑

 熊野本宮へ参宮したと思われる記念碑で、この地区の人々の代参があった。右の石柱には「昭和九年(1934)五月二十八日」と刻まれている。

(2)両部(りょうぶ)鳥居跡

(2)両部(りょうぶ)鳥居跡

参道を登りつめた所が二の鳥居の跡で礎石が残っている。老朽化して倒壊したもので、現在は社殿の脇に笠木が残されている。規模は小さいものの鳥居の形式は両部鳥居である。
両部鳥居とは、本体の鳥居の柱を支える形で稚児(ちご)柱(稚児鳥居)があり、その笠木の上に屋根がある鳥居。名称にある両部とは密教の金胎(こんたい)両部(金剛界・胎蔵界)をいい、神仏習合を示す名残りである。

(3)めがね橋

(3)めがね橋

 参道を登りつめた先に、下の農道と立体交差する石橋がある。明治期の作と思われ、切り出した石材を巧みに組み合わせ、お互いに支えあって出来ている一眼のめがね橋である。石は山名の寺山石(智蔵寺の裏山)を使用しているという。山名地区にはこのような橋が以前は数か所あったというが河川改修で取り壊され、現在残っているのはこの橋と智光寺付近の山名川、飯出(いいで)の奥の3か所となった。当時の石工の巧みな技術がしのばれ、保存し後世に残したいものである。

(4)石灯籠一対

 境内には二対の石灯籠があるが、そのうち一対には「御神燈」と刻まれている。

(5)出羽三山碑

 羽黒山・月山・湯殿山(山形県)の参拝を記念した碑で、台座には安田楳吉(うめきち)以下13人の名がある。昭和21年(1946)8月19日の建立。

(6)手水石

(6)手水石

 この手水石には「嗽水(そすい)」と刻まれている。手水石の形は長方形状の丸みのある自然石を瓢箪の形にくりぬいて作ってあり、その周囲には瓢箪の葉の模様が刻まれている。嗽とは「口をすすぐ」の意。嵯峨志の有志が明治15年(1882)に奉納したものである。

(7)田原次郎作の碑

(7)田原次郎作の碑

 西南戦争に出征した故人を悼み建てた碑である。田原次郎作は明治10年(1877)の西南戦争に東京鎮台陸軍兵として参加し、同年10月4日、コレラにより京都の陸軍避病院で死去した。山名村の出身で、享年23歳であった。

(8)出羽三山碑

 出羽三山に明治23年(1890)4月、14名が参拝した記念碑である。

(9)慰忠魂碑

(9)慰忠魂碑

 憲兵曹長であった小柴善次郎は台湾で明治31年(1898)に亡くなり、陸軍二等卒であった海瀬松蔵は佐倉で明治19年に亡くなった。この二人を祀った碑は明治32年秋に建てられた。高さ2.65m。

(10)狛犬

 左右の狛犬は元治元年(1864)に地元嵯峨志の若者中が奉納したものである。

(11)忠魂碑

(11)忠魂碑

 明治から昭和にかけての戦中に亡くなった5人を祀った碑である。田中太一は日露戦争中に清国海域で明治37年(1904)に、古宮友次郎は満州事変・支那事変に従軍し昭和15年(1940)に、蓑浦茂は満州国奉天で昭和11年に、田中良太は支那事変中の南京で昭和13年に、渡邊正は支那事変に従軍し北支で昭和16年に亡くなった。その中で田中太一は武功抜群の功を上げ金鵄(きんし)勲章を授けられている。建立した者の名はない。

(12)出羽三山碑

(12)出羽三山碑

 明治42年(1909)、出羽三山に参拝した記念碑で、君塚武兵衛以下14名の名がある。他に3つの山の名「黄金山(宮城県)・恐山(青森県)・岩木山(青森県)」があるのは、その時同時に参拝したものと思われる。

(13)出雲大社参宮記念碑

 出雲大社に大正6年(1917)に鈴木近五郎以下11名が参宮したことを記念して、大正8年に建てられたもので、文字は安房神社宮司の菅(すが)貞男(さだお)が書したものである

(14)社殿

(14)社殿

 社殿の天井は「格天井」で、作者は不明だが80枚の絵が描かれ、絵にはそれぞれ奉納者の名がある。その他、社殿内には「寿山」などにより描かれた多くの絵馬が奉納されている。正面中央に寛政8年(1796)奉納の熊野大権現の「神名額」、正面右上には「小柴先生追想記念額」がある。小柴先生は大正15年(1926)に亡くなり、昭和2年(1927)に安房尚武会稲都支部の人達と賛同者・門人などによって奉納された。名は太郎吉といい、宮内庁で剣道を指南していたという。剣号は月剣といい、2002年にノーベル物理学賞を受賞した小柴昌俊氏の祖父にあたる。向拝の龍は初代後藤義光の門人の後藤次郎治光作で、明治29年(1896)に嵯峨志の若者中が奉納した。彫刻料の寄付人は蓑浦五右衛門夫妻。

(15)鎮守の杜

(15)鎮守の杜

 熊野神社は樹林が繁茂し、神社の杜として荘厳である。本殿裏には樹高25m、胸高周囲395cmの杉の巨木があり、御神木となっている。境内には多くの植物があり、2007年の調査で148種を数える。境内登り口付近にはホウライシダ、社殿前ではイワニガナやホドイモが見られ、林床にはツルコウジが目立つ。その他ホルトノキ、スダジイ、タブノキ、クロガネモチ、クスノキ、シラカシの巨木などが多く残されている。


<作成:ミュージアムサポーター「絵図士」
川崎 一・御子神康夫・吉村威紀>
監修 館山市立博物館

宝珠院<三芳>

宝珠院の概要

(南房総市府中687)

 南房総市府中にある新義真言宗の寺院で、正式には「金剛山神明坊神護寺宝珠院」といいます。現在は京都の智積院末ですが、明治27年(1894)までは京都醍醐寺の報恩院の末寺でした。本尊は地蔵菩薩で、創建は応永11年(1404)です。開山宥伝の父が深く仏教に帰依して、私財を投じて寺院を創り、宥海僧都を開基として招いて実乗院と称したのが始まりだと伝えています。その後宝珠院と改めました。里見氏からは寺領275石余を給され、徳川時代には203石余の寺領が安堵されています。江戸時代は安房国真言宗寺院の触頭(ふれがしら)としての地位にあり、国内284か寺の真言宗寺院を支配しました。また談林所として安房国真言宗唯一の学問所でもありました。境内には役院として林光院・徳蔵院・西光院・本覚院の子院があり、分担して事務を務めました。しかし大正12年(1923)の関東大震災により山内諸堂が倒壊し、寺宝の多くを失いましたが、現在でも県指定文化財の仏像や絵画・工芸3点、市指定文化財12点などを所蔵しています。

(1) 石造地蔵尊(参道)

(1) 石造地蔵尊(参道)

 半跏(はんか)の地蔵尊(総高280cm)で、台座には賽の河原の様子が彫られている。明治11年(1878)6月2日に頭陀(ずだ)宥智が発願主となって建立された。開眼導師は金剛宥性とある。宥性は房州長狭郡大山村出身で、京都醍醐寺の三宝院住職。明治5年(1872)、房州に地蔵菩薩の札所霊場108か所を開き、すべての寺へ御詠歌の額を奉納している。宝珠院は百八箇所地蔵の第一番で、本堂に額が掲げてある。御詠歌は「日は入りぬ月はいでざる世の中に 地蔵ひとりぞ夜を照らします」。

(2) 岡本左京亮(さきょうのすけ)頼元の逆修塔(ぎゃくしゅうとう)

(2) 岡本左京亮(さきょうのすけ)頼元の逆修塔(ぎゃくしゅうとう)

 里見義頼・義康に仕えた岡本左京亮頼元が生前に建てた塔。灰白色の碑で白墓と呼ばれている。妙法山蓮華寺(鴨川市花房?)別当の経蔵坊が頼元の逆修善根のために、慶長11年(1606)7月15日に建てた。頼元は天正16年,17年(1588,1589)頃岡本城に出火があった時の責任で出仕を停止させられたことがある。逆修とは生前にあらかじめ自分のために仏事を修して死後の冥福を祈ること。

(3) 石造地蔵尊(観音堂前)

(3) 石造地蔵尊(観音堂前)

 像高130cm。背面の銘によれば享保3年(1718)に建立され、寛政9年(1797)に再建されている。再建のときの石工は元名村の勘蔵と長蔵。さらに明治4年(1871)、第39世栄運のときに金剛宥性が発起人となって区内の閻魔堂下道から現在地に移転された。

(4) 宝篋印塔(ほうきょういんとう)

 塔婆の一形式で、中に宝篋印陀羅尼経を納めたもの。高さ450cm。第28世真亮が元文6年(1741)正月に建て、第37世栄運が万延元年(1860)に修理している。

(5) 石造地蔵尊(元林光院)

 高さ120cm。子院の林光院で元禄2年(1689)2月13日建立した。もと林光院にあったが、廃寺により観音堂前に移転された。

(6) 弘法大師忌年碑

 「●」と大きく書かれた梵字は、漢字に置き換えれば「阿」となる。万物の根源という意味があり、大日如来を表す。下に「弘法大師年忌碑」と書かれており、江戸後期から明治期の間に行なわれた大師の年忌の際に建てられたと考えられる。

(7) 歴代住職墓域

 観音堂南側に歴代住職の石塔が68基ある。正面の開基宥海・開山宥伝の墓を中心に、西側と中央三列に歴代住職の墓が配置されている。南側から東側は合併した子院住職などの墓が並べられて、新しく日当たりのよい墓地が造成されている。

(8) 観音堂

(8) 観音堂

 安房国札23番札所観音霊場で、木造十一面観音菩薩像を祀る。開山宥伝の母妙光尼が応永11年(1404)に子院の西光院本尊として安置したものといわれている。近年、この像は鎌倉時代の徳治2年(1307)に仏師定戒が制作したことがわかった。現在の堂は関東大震災で倒壊した仁王門の二階部分を用いて昭和8年に再建したものである。また入口にある「尼寺」の額は西光院が尼寺だったからだといわれている。ケヤキの御詠歌額は、享保15年(1730)に長狭郡北小町村(鴨川市)の佐生勘兵衛が奉納したもので、安房国札観音の寺々には同人の額がある。堂内には天正16年(1588)に里見義康が奉納した木造不動明王坐像も安置されている。

(9) 石灯篭

 上部が欠失しているが、文政13年(1830)に第34世隆瑜(波左間村生まれ、のち京都智積院第33世化主)が寄進した。

(10) 日清戦役従軍記念碑

 表には「故陸軍砲兵曹長勲八等平谷真良之碑」「陸軍中将従三位勲二等功三級男爵長谷川好道書」と刻まれている。九重村に生まれた真良は幼くして僧侶の修行をしたが、近衛砲兵に志願して日清戦争に参加、明治28年12月に弱冠27歳で病死した。その追悼碑である。長谷川好道は近衛師団長であり、部下を追悼して題字を揮毫した。略歴などの文章を作ったのは京都東寺の玉雅僧正である。

(11) 清瀧(せいりゅう)権現堂

(11) 清瀧(せいりゅう)権現堂

 真言宗で境内鎮護のために祀られる神である。むかし弘法大師が中国の青龍寺で修行して帰国する際、その船を護持して日本に渡来した「青龍」という女神で、准胝観音・如意輪観音の化身といわれている。日本では水篇をつけて「清瀧」と号している。現在はここに不動尊が祀られている。

(12) 地主権現(じぬしごんげん)

(12) 地主権現(じぬしごんげん)

 正面に「地主権現」と書かれた祠で、地元の言い伝えでは開山宥伝の母親の墓であるとされている。背面の碑文によれば、この祠は宝珠院の元祖宥伝上人の父母のためのものであるとしている。二人が資財や土地を寄付して寺をつくったのが宝珠院の始まりであることから、それを讃えて第27世敞海が享保6年(1721)に建立した。

(13) 閼伽井(あかい)

(13) 閼伽井(あかい)

 正面に閼伽井という額を掲げた水屋にあり、寺名に関する伝承をもつ井戸。永享年間のこと、開山宥伝が閼伽井の水を汲んだ際、水面に「宝珠」の二文字が現れたことから、実乗院を宝珠院に改めたという。震災前にはこの脇に身を清めるための浴室があった。

(14) 本堂

 昭和3年に再建された。玄関には山号の「金剛山」「小野末流信海」と刻まれた額が掲げられている。額の裏面には墨書があるといい、『安房志』によれば天和3年(1683)に第22世宥鑁がつくらせたことが書かれているという。小野末流とは醍醐寺の開祖理源大師が真言宗の小野流祖であることから、信海は醍醐寺に係る僧侶であることがわかる。この額は震災前には仁王門に掲げられていた。

(15) 築山の石宮

 旧本堂(大正の震災で倒壊)の北側にあった築山の上にある。方丈の脇にあった庭園の一部である。荒廃しているが、池もあり当初はだいぶ優雅な庭園であったと想像される。石宮の銘文によれば、幕末の慶応3年(1867)2月吉日に、金剛山(当寺)第37世栄運が祀ったことがわかる。何を祀ったかは不明であるという。


<作成:ふるさと講座受講生
石井祐輔・川崎一・鈴木正・中村祐・吉村威紀・渡辺定夫>
監修 館山市立博物館

延命寺<三芳>

延命寺の概要

左:延命寺 山門 右:延命寺 境内

(南房総市本織2014-1)

 南房総市本織字稲荷森にある曹洞宗の寺院で、山号は長谷山。本尊は虚空蔵菩薩。開基の里見実堯以降忠義までの後期里見氏の菩提寺です。寺伝によれば永正17年(1520)に里見実堯が吉州梵貞を師の礼をもって請じ開山としたとされています。慶長年間には里見氏から217石余の寺領を与えられ、その後徳川家からも同様に与えられて保護されました。安房の曹洞宗の中心的なお寺です。十一面観音菩薩が安置される観音堂は、安房国三十四観音巡礼の24番札所として知られ、また毎年8月には地獄極楽図が公開されて多くの参詣者が訪れます。

参道エリア

(1) 里見氏旧跡碑

(1) 里見氏旧跡碑

 明治41年(1908)に、船形に住む正木氏子孫の正木貞蔵と元安房郡長の吉田謹爾など安房の名士が中心となって、荒廃していた安房郡内の里見氏墓域整備が行なわれた。有名書画家に揮毫を依頼した作品を売って資金を調達し、延命寺の墓域を手始めに行なわれ、翌年、その事業を記念して参道入口に建てられた里見氏墳墓の修復記念碑がこれ。表の題字は埼玉県本庄出身の書家諸井春畦の書で、裏面の文は三十三世大嶽和尚がつくり、春畦の妻諸井華畦が書いている。石工は俵豊石。里見氏子孫の里見義孝が用意していた石が使われた。

(2) 法華供養塔

(2) 法華供養塔

 明治31年(1898)に三十一世住職の大棟和尚が建てた法華経読誦の供養塔。明治初期に寺領を失って衰えた寺運を再興するため、大棟和尚が12年かけて法華経一千部を読誦した記念に、安房郡各地の信者や末寺の寄進でこの塔を建てた。

(3) 葷酒塔(くんしゅとう) 「不許葷酒入山門(くんしゅさんもんにいるをゆるさず)」

 禅宗寺院の門脇に建てられる碑。清浄な境内に修行の妨げになる不浄な酒や葷(ニラ・ニンニクなど)を口にして入ることを禁じた標識。天明3年(1783)に本織村出身で日本寺住職だった愚傳という和尚が建てたもの。この人は鋸山の千五百羅漢建立を企画実行した人である。文字を書いたのは屋代師道という江戸の人。幕府与力で、文人として知られている。

本堂エリア

(4) 大般若講連中寄進銘塔

(4) 大般若講連中寄進銘塔

 寛政9年(1797)から文化12年(1815)まで19年をかけて、山門や庫裏・鎮守鳥居など境内施設の修復事業が行なわれた。末寺と安房国内の信者からなる大般若講によって建てられたもの。「石工周治」とは地元本織出身の名工武田石翁のこと。

(5) 清凉壇(せいりょうだん)

(5) 清凉壇(せいりょうだん)

 観音堂前のビャクシンの側に「清凉壇」と刻んだ石碑がある。『房総志料続篇』に「延命寺の僧が葬儀に行き死者を弔うとき、引導をわたす偈(げ)(経典の一節)が出ず、寺に帰り恥じて火中に身を投じた」との記事がある。ご住職の言によれば、後にさぞ熱かったであろうと、「清凉」という文字の碑を建立したものであろうということである。文字を書いたのは葷酒塔と同じ人。

(6) 延命地蔵尊

(6) 延命地蔵尊

 安政6年(1859)に泰山・篤庵・亮欽の3人の僧侶が願主となって建立した。石工は長狭郡の平兵衛と清治郎。関東大震災まではビャクシン(南房総市指定天然記念物)の前にあった。右側にある附属の石碑には延命地蔵経の一節が彫られている。

(7) 手水石

(7) 手水石

 天保4年(1833)に江戸大相撲の常盤戸改め出木山藤四郎が奉納したもの。出来山は上堀村(南房総市旧三芳村)の出身で、文化13年(1816)初土俵、天保3年に出来山を襲名し、三年後に引退した。最高位は幕下二段目筆頭。嘉永3年(1850)に没し、墓は江戸本法寺(台東区)と郷里の勧修院にある。現在年寄名になっている。

(8) 聖観世音菩薩坐像

(8) 聖観世音菩薩坐像

 享和2年(1802)、二十三世のときに建立された。台座には牡丹や獅子・龍の彫刻が施されている。石工は平郡の常三郎とある。

(9) 里見氏墓域道しるべ

(9) 里見氏墓域道しるべ

 「此奥に里見氏の御墓あり」と刻まれた里見氏塋域への道しるべ。参道入口にある里見氏旧跡碑の裏面を書いた書家諸井華畦女史の筆跡である。

裏山エリア

(10) 里見利輝供養塔

(10) 里見利輝供養塔

 里見忠義が元和8年(1622)6月19日に倉吉で病没し、後継ぎなしとされて里見家は滅亡した。しかし側室には何人かの男子がいたようで、その一人が利輝(1614生~1644没)である。安房の地で育ったといわれ、観音堂裏の墓地に「西来院殿樹山宗柏居士」という供養塔が子孫によって建立されている。

(11) 里見義孝遺髪塔

 里見利輝供養塔の左隣は、そのひ孫である里見義孝の遺髪塔。利輝の孫義旭が間部氏に仕官し、その子義孝は越前国鯖江藩(福井県鯖江市)間部氏の江戸家老を務めた。義孝は先祖顕彰のために家の歴史を調べ歩いた人で、その孫義豪が義孝の五十七回忌にゆかりの延命寺に遺髪を埋めこの塔を建てた。

(12) 廻国供養塔

 別所の可七という人が法華経を書き写して、六十六部として全国の霊場を巡礼して歩き、無事帰国したお礼に奉納した供養塔。正徳4年(1714)に建てられた。

(13) 里見氏歴代の墓

(13) 里見氏歴代の墓

 天文の内乱で殺害され後期里見氏の家祖とされた里見実堯、里見の全盛期を築いた義堯・義弘父子三人の墓所とされる。里見氏塋域と彫られた石垣の中には宝篋印塔8基が並んでいるが、多くは積み替えられており元来何基があったのかは不明である。なお土地の古老の話では、むかしこの墓所は現在地よりも北にあったという。

(14) 板石塔婆(いたいしとうば)

(14) 板石塔婆(いたいしとうば)

 板碑は安房地方には少なく貴重で県の文化財に指定されている。武蔵型の板碑で、上半部には弥陀三尊の種子(梵字)が蓮弁の上に刻まれ、下半部には大般涅槃経(だいはつねはんぎょう)の偈(げ)と正安3年(1301)辛丑卯月21日の年号がある。里見とは関係なく、鎌倉時代の武士のものである。

(15) 歴代住職墓域

(15) 歴代住職墓域

 歴代住職の墓域には延命寺の開山で永禄元年に没した吉州梵貞和尚の墓があり、戦国時代当時のものであることが確認されている。


<作成:ふるさと講座受講生
石井祐輔・加藤弘信・川崎一・川名美恵子・
神作雅子・中村祐・長谷川悦子・渡辺重雄>
監修 館山市立博物館

龍喜寺と大雲院跡<三芳>

龍喜寺の概要

龍喜寺 境内

(南房総市上滝田1063)

 南房総市上滝田の高月城跡内にある曹洞宗の寺で、萬松山龍喜寺といいます。伝承によると、永正年間(1504~1521)に里見義通が開基となって創建し、その法号から天笑院(或いは天昭院)といわれ、後に里見義豊の法号である高巌院と呼ばれ、さらに現在地に移転してからは龍喜寺と名づけられたとしています。本寺は木更津市馬来田にある天寧山真如寺。本尊は地蔵菩薩で、義豊の家臣御子神大蔵の子孫が寄進したそうです。慶長年間の里見家分限帳には寺領の記載がありませんが、里見義通の位牌や義豊の寄進と伝えられる阿弥陀如来像を安置しています。この寺の檀家は地元上滝田のほか犬掛にもいるそうです。

大雲院跡の概要

 犬懸山大雲院は南房総市犬掛の古戦場辺りにありましたが、明治8年(1875)に廃寺になっています。大雲院は初め里見義通の法号をとって天笑院(或いは天昭院)と称し、義豊を葬ってからはその法号により高巌院と改め、その後さらに大雲院に改めたといわれていますが、龍喜寺と同じ由緒をもっており不明な点が多くあります。また観応2年(1351)に創建されたという説もあります。里見氏からは北郡犬掛村で20石の地を与えられていました(慶長11年・15年分限帳)。臨済宗で、本尊は聖観世音菩薩だったということですが、廃寺のときに近くの貝津田観音堂に移されています。山裾にある二基の層塔は義通・義豊父子の墓と伝えられ、大雲院にあったものだということです。

(1) 萬勢稲荷(ばんせいいなり)社

(1) 萬勢稲荷(ばんせいいなり)社

 棟札と社記によれば、文化8年(1811)8月に「天下泰平・国家安穏・五穀成就・風雨順時」を祈願して豊川稲荷(愛知県)をここへお祀りし、その後万延元年(1860)に修復、さらに平成13年(2001)に朱塗りの現社殿を再興した。稲荷は「稲成り」から転訛したともいわれ、農耕の神としても信仰されている。

(2) 諏訪大明神

(2) 諏訪大明神

 信濃国一宮の諏訪大社をお祀りしている。当寺十一世のとき、寛政5年(1793)2月に高月の組中で建てたもので、当時の名主勘左衛門の名があり、ふもとの長福寺にその墓がある。石工は高崎の与兵衛。善光寺参詣の帰途に諏訪大社に立ち寄って譲り受けてきたのではないかといわれている。

(3) 高月(たかつき)城跡

(3) 高月(たかつき)城跡

 滝田城の川向いに位置し、平久里川と平久里道を見下ろす場所にある。北側には犬掛の古戦場跡、南側には滝田川又の古戦場跡がある。標高150m、比高差100m、寺のある台地とその裏山が戦国時代の城跡で、遺構として曲輪・空堀・土橋・虎口がみられるそうである。現在は畑や山林となり、龍喜寺の境内としても使われている。

(4) やぐら

(4) やぐら

 龍喜寺周辺には、鎌倉を中心にみられた中世の横穴式墳墓であるヤグラが分布する。字滝山にある高月Aやぐら群はふたつのヤグラが並び、左のヤグラには宝篋印塔が据えられている。小型だが丁寧につくられたヤグラである。高月城跡の山裾には道に沿って高月Bやぐら群(字寺台)があり、三つのヤグラが並んでいる。中には多数の五輪塔があり、地元では五輪様とよんでいる。

(5) 義通・義豊の墓

(5) 義通・義豊の墓

 この墓は層塔という形式のもの。本来は奇数の笠を積み上げるので失われたものがあることがわかる。大雲院が廃寺になったときこの墓も観音堂に移転したが、明治42年(1909)に里見氏の墓域整備が行なわれたときに、水田になっていた寺の跡地近くに戻されたものである。周囲の石垣はそのときにつくられた。地元では昔から里見義通・義豊父子の墓と伝えられていたという。稲村城で安房国の国主として君臨した義通は、法号を天笑院殿商山正皓居士という。一般に永正15年(1518)没、享年38歳とされるが、もっと長生きしていたことがわかっている。義通の跡を継いで国主となり天文の内乱をおこした義豊は、高巌院殿孝山長義居士といい、天文3年(1534)4月6日に犬掛の合戦で討ち死にした。享年21歳といわれるが、実際には40歳前後にはなっていたと考えられている。義実はじめ義通・義豊などの前期里見氏の経歴や歴史は、内乱を勝ち抜いた義堯以降の後期里見氏によって書き換えられていたことが、近年明らかになってきている。

(6) 古戦場碑

(6) 古戦場碑

 天文2年(1533)7月、里見義豊の叔父実堯が、同盟者の正木通綱と反義豊勢力として力をつけてきたことから、危機感を抱いた当主義豊は実堯・通綱らを稲村城に招いて粛清した。残された息子義堯ら実堯の一族は、小田原北条氏の助けを受けて勢力の巻き返しをはかって攻勢をかけると、9月には義豊方の最後の拠点になった滝田城を落とし、義豊は西上総の真里谷氏を頼って落ち延びていった。そして翌年上総から攻め入った義豊は、4月6日に滝田城に程近い犬掛付近で、北条氏綱の援軍を得た義堯と合戦に及んで討ち死にした。かつて大雲院前の水田の中ほどには10坪余りの草地があって、「古戦場」と刻した小碑が建ててあった。昔からその辺を勝負田と呼ぶそうで、里見の古戦場と言い伝えている。これが犬掛古戦場で、すこし南にある上滝田区の川又もこのときの古戦場と伝えられ、討ち死にした人々を祀る十三塚というものがある。古戦場碑は耕地整理によって現在地に移されるまでは、すぐ前の田んぼの中ほどにあったそうである。

(7) 五輪塔

(7) 五輪塔

 古戦場碑の上にいくつかの五輪塔がある。犬掛石塔群(字北沢)として知られ、石組のようなものの上に安置してある。ヤグラが崩落したものかもしれないが確認できない。五輪塔はひとつの石を刻んで五輪塔のかたちにした一石五輪塔である。


<作成:ふるさと講座受講生
石井祐輔・加藤弘信・川崎一・川名美恵子・神作雅子・中村祐・長谷川悦子>
監修 館山市立博物館

興禅寺<富浦>

興禅寺の概要

興禅寺 境内

(南房総市富浦町原岡275)

 南房総市富浦町原岡字金山(かねやま)にある臨済宗円覚寺派の寺院で、海恵山と号します。本尊は釈迦如来。鎌倉にある円覚寺の末寺です。里見氏の時代には義康・忠義から、原村(富浦町原岡)の内で56石5升の地を与えられ、また里見氏没落後は徳川家から58石5斗3升の地を安堵されました。寺伝では貞和元年(1345)の創建とされ、無窓国師を開山にしています。足利氏が寺領を与えて、小弓公方足利義明の息女智光院の菩提所にしたと伝えられています。この女性は鎌倉太平寺の住職だった青岳尼のことで、還俗して里見義弘の妻になり里見義頼を産んだとされる女性です。境内には延宝3年(1675)の百年忌供養塔がありますが、この年は荒廃していた当寺を円覚寺から来た拙翁碩松が再興したといわれる年で、孫弟子の無外碩珍のときになって本堂ができたそうです。その後明治38年(1905)に水谷孝岳和尚が本堂改築などの整備を手掛けました。本堂内正面には無窓国師が請来したという「普済(あまねくすくう)」の額が掛けられています。

(1) 六地蔵

(1) 六地蔵

 山門手前の六地蔵は、川名・深名・地元金山の六軒の家で寄進している。昭和のはじめに刻まれている名前の人々の供養のために建てたという。川名の勤王屋が中心で、30歳代で区長をしていたときに千倉の彫り物師へ依頼に行ったのだそうで、作人として彫刻師後藤義孝の名が刻まれている。石工は鈴木益蔵とある。

(2) 三界万霊塔

(2) 三界万霊塔

 山門の右側に寄せられた石材のなかにある。塔身だけでも高さ約1.6mとなかなか立派なもので、表面には「三界万霊等(塔のこと)」とあり、裏面は「昭和十二年(1937)丁丑年造立 寄付者八束村羽山武一郎 富浦町岡本亀之輔 石工生稲」の銘がある。昭和12年の国札観音ご開帳にあたり、檀家総代の寄贈によって建立されたものである。三界万霊は仏教のことばで、欲界・色界・無色界の三界に生きとし生けるすべての霊のことで、この塔に宿らせて供養をするためのものである。

(3) 山門

(3) 山門

 山門の屋根に掲げられている棟札には、「時に明治三十四年丑 正月吉日 現住九世 孝岳妙義」と書かれている。本堂が明治38年(1905)に改築されたのに先立って建てられたもので、この頃に寺域の整備が行われていたことがわかる。重厚な構えの四脚門である。彫刻が施されているが作者は不明。孝岳和尚は白馬にまたがり、遠方まで出向いて広く寄付を募り、改築の資金を調達したのだと言われている。

(4) 地蔵尊

(4) 地蔵尊

 当山開基の青岳尼にちなんで建立されたと伝えられていて、地元では「子育地蔵」と呼んでいる。台座の銘によると、「享保十二年(1727)夷則念四日(7月24日)」に建立され、その後120年を経た弘化4年(1847)に、時の住職第七世鳳山禅師によって修補されたようである。地蔵尊の高さは約1.4mで、六角形の台座には「宝篋印塔石写」という銘がある。

(5) 手水石

(5) 手水石

 観音堂前と本堂前の二か所に手水石がある。本堂の手水石は孝岳塔の左手にあり、丸火鉢型をしている。正面「奉納」の文字の間に浅く家紋があり、左側面にある文字から「明治三十四年(1901)一月」に「上滝田 御子神友吉」が奉納したことがわかる。
 観音堂前の手水石は横長で、正面の「水盤」は手洗い石であることを示している。右側面に「安政四丁巳年仲秋上浣日」、左側面に「前興禅鳳山置之」とあり、1857年の陰暦8月上旬に、興禅寺の前住職である七世鳳山が設置したことがわかる。

(6) 観音堂

(6) 観音堂

 安房国札三十四観音霊場の五番札所がこの堂である。十一面観世音菩薩が安置される厨子は宝暦3年(1753)のもので、現在の観音堂は弘化2年(1845)に建てられたものである。当時の住職の侍者だった玄泰が記した棟札によると、この観音堂は深名村の喜兵衛が本願人となり、南無谷村の彦右衛門・青木村の源兵衛等を大工棟梁に、地元の七兵衛が相棟梁となって手掛けている。堂内に掛かる額には「五番興禅寺 寺をみて今をさかりの興禅寺 庭の草木もさかりなる物」という観音札所の御詠歌が刻まれ、享保15年(1730)に長狭郡北小町村の佐生勘兵衛が寄進している。また岡本村小林利右衛門が寄進した和讃額もあり、「第五番 金山 山けきの色なるやまの観世音 はこぶあゆみのかげやうつれる」と詠われている。

(7) 孝岳塔(こうがくとう)

(7) 孝岳塔(こうがくとう)

 積み石の上に乗る石塔だけでも約1m60cmある、かなり大きな塔である。正面に「孝岳」、裏面に「大正十二年(1923)四月五日 富美夫 孝岳和尚徒弟」、左側面には孝岳和尚の肖像が刻まれている。本堂・山門の建て替えなどを行なった孝岳和尚の功績を、後世に伝えるために弟子が建立したものであろうか。歴代住職の墓地には九世孝岳和尚の墓がないので、これが墓石と思われる。また線香立ての右側面には「昭和十二年(1937)五月」、左側面に「光厳龍英」とある。隣接する光厳寺の龍英和尚のことで、宗派は違うが親戚付き合いをしていたという古老の話があり、孝岳没後に線香立てを寄進したのだろう。

(8) 青岳尼(しょうがくに)供養塔

(8) 青岳尼(しょうがくに)供養塔

 墓地入口の崖を背にして建てられている。高さ約1.5m、唐破風型の笠が乗せられた石塔である。正面に興禅寺の開基である智光院殿洪嶽梵長大姉(青岳尼のこと)の法名と、命日として天正4年(1576)3月21日の日付が刻まれ、左右には延宝3年(1675)に住職拙翁が開基青岳尼の百年忌で造立したことが記されている。

青岳尼のこと

 青岳尼は鎌倉尼五山筆頭の太平寺の住職であった。天文7年(1538)の国府台合戦(市川市)で討ち死にした小弓公方足利義明の娘である。遺児たちは里見義堯を頼って房州へ落ちた。そのなかに青岳尼がいたかどうかは不明だが、その後鎌倉で尼となった。関東足利家の女性の多くは太平寺をはじめとする格式の高い寺に入って生涯を終えるものであったが、青岳尼は還俗して里見義弘の妻になったと伝えられている。興禅寺の門前には、青岳尼と行動をともにした家臣たちの子孫と伝えられる家が数軒あるそうだ。


<作成:ふるさと講座受講生
石井道子・岡田喜代太郎・加藤七午三・金久ひろみ・
鈴木以久枝・山口昌幸・和田喜三郎>
監修 館山市立博物館

光厳寺<富浦>

光厳寺(こうごんじ)の概要

(南房総市富浦町青木232-1)

 南房総市富浦町青木字面井戸(おもいど)にある曹洞宗の寺院で、金龍山大勢院光厳寺と号します。本尊は釈迦如来。同市内にある延命寺の末寺で、延命寺の隠居寺だったそうです。里見氏から北郡青木村の内で38石、北郡原村(富浦町原岡)の内で22石、山下郡南条村の内で11石余、計71石余の地を与えられていました(慶長11年分限帳)。寺伝によると天正2年(1574)に延命寺の六世白峰麟さ禅師を招いて創建され、その後義頼の菩提寺にしたとされます。大勢院は義頼の法号です。享保年間(1717~1736)に本堂・庫裏・諸堂および鐘鼓などが新調されたものの、寛政2年(1790)に烈風下の火災で全焼し、寛政6年再建に着手して翌年10月に竣工。その後関東大震災でも倒壊し、昭和10年(1935)に現在の本堂が再建されました。周囲の土手は枯葉などが集められてできたもので、土塁ではないということです。

参道エリア

(1)道しるべ

 「此寺に里見氏の墓あり」とある。高さ約93cmの比較的新しく見える石造りだが、作られた年代は不明。『橘堂吉田謹爾小伝』『正木貞蔵小伝』に「里見氏歴代墳墓の修理」という記述がある。里見滅亡後300年以上経ち、荒れるにまかせていた里見氏歴代の墳墓の修理を、正木氏の発議と吉田氏の協力で大正5年(1916)の末に竣工したとある。この道しるべはその折に一緒に造られたものと思われる。

(2)地蔵尊

 作られた年代は不明。土地の人々は「門前のお地蔵さん」と呼んでいる。高さ約67cm、蓮の花の形をした台座に差し込まれている。土地の人はかつて8月24日にお地蔵様の前に集い、地蔵講のおこもりをしていたということである。

本堂エリア

(3)山門跡

 寛政2年(1790)の火災で伽藍が焼け落ちて、本堂が再興した寛政7年(1795)以降に山門も建てられたが、大正6年(1917)9月30日夜半から翌日の昼まで猛威を振るった暴風雨のため、槙の木が山門に倒れ掛かって損壊した。その後再建されたものの、大正12年(1923)の関東大震災によって山門の脚が折れてまたも倒壊した。現在も四脚門だった山門の礎石が残り、本堂裏には解体された古材が残されている。

(4)庚申塚

 高さ約80cmの庚申講の文字塔。裏面に「明治11年(1878)2月吉日、施主当村鈴木太重郎」とある。庚申信仰は庚申の夜を寝ずに過ごすもの。戦前まで当寺を集会所として開催されていた庚申講も、戦争とともに廃れ、今では当時を知る人はほとんど見当たらない。

(5)白山神社

 曹洞宗総本山の永平寺が白山神社を守護神にしていることから、永平寺のある福井県白山より分祠した当寺の鎮守さま。慶安4年(1651)の創建で、毘沙門天の懸仏が納められている。今の社殿は本織村延命寺(南房総市本織)の宮大工で名匠とされる伊丹喜内の作で、一般的な建物に比べ十倍以上の価値があると言い伝えられている。

(6)本堂

 寛政2年(1790)の火災で焼失、六年後に再建されたが、大正12年(1923)の関東大震災で崩壊、現在の本堂は昭和10年(1935)になって再建されたもの。正面に掛かる「金龍山」の額は、明治初期に寺を復興させた月海仙舟和尚の書。和尚の墓は本堂の左手にある。賽銭箱の文字は「福聚海」と読み、功徳が集まることを意味する。奉納者は生稲近太郎とある。中央須弥壇の本尊は釈迦無尼仏で、右手に子安地蔵が祀られている。

(7)喚鐘(かんしょう)

 寛政2年(1790)の火災により諸堂宇が焼失したが、鐘銘には寛政7年(1795)に本堂・銅鐘が復旧したことが記されている。第二次大戦中に各地でお寺の鐘まで供出させられたが、その際光厳寺の鐘は村の火の見櫓に吊るし、代わりに櫓の半鐘が供出された。そのため終戦で寺へ帰ることができた。

墓地エリア

(8)無縁墓地

 「有無両縁三界万霊塔」の文字がある。三界万霊は仏教のことばで、欲界・色界・無色界の三界に生きとし生けるすべての霊のことで、この塔に宿らせて供養をする。この一画に大きめのお地蔵様と馬頭観音像がある。地蔵尊は船形中宿にあったもので、道路拡張の際に地蔵講の人々によって寺へ寄進されたものである。

(9)二十一世地蔵尊

 明治初期の廃仏毀釈で、光厳寺の勢いも下降気味になったところを、二十一世の月海仙舟和尚の力で再び回復したという。寺を建て直し、地域の人々にも慕われた特別な人ということで、和尚の遺骨がこのお地蔵様の下に祀ってあるということである。明治7年(1874)2月15日に没している。

(10)里見義頼の墓

 本堂左側の墓地に一部盛土し石垣をめぐらした約6坪ほどの一画があり、里見義頼一族の墓と義頼公碑がある。義頼の墓は高さ約1.5mと小ぶりながら室町時代末期の特徴を備えた宝篋印塔である。ほか5基のうち2基は倒壊した石塔の部材を寄せ集めたもので、笠部の数量から元来は4基あったと推定され、かつては合計8基以上の墓塔があったと思われる。義頼は義弘の子で岡本城主。安房と上総半国を支配し、内政外交とも特異な足跡を残したが、晩年病気がちとなって天正15年(1587)10月26日に没した。法号は大勢院殿勝岩泰英居士。夫人は龍樹院殿秀山芳林大姉といい、小田原北条氏の娘とされる。天正7年(1579)3月21日没。

(11)里見義頼公碑

 義頼の墓域内に建てられている碑は、大正5年(1916)5月の里見氏墓域整備事業のひとつとして建立されたもので、高さ約1.9mの粘板岩。碑面上部の題額は当時の安房郡長中山竹樹の筆、碑文は地元福沢の忍足政暢が撰文、南無谷の竜門董の書。刻字は福沢出身の生稲近太郎による。なお碑文には、戦国の世に房州の地を兵禍から守った里見家と里見義頼の功績を讃えた11行の文章がある。義頼の父を義弘、祖父を義堯とするのは現在の見解と同じ。義頼の享年は32歳と記している。


<作成:ふるさと講座受講生
石井道子・岡田喜代太郎・加藤七午三・金久ひろみ
鈴木以久枝・山口昌幸・吉野正・和田喜三郎>
監修 館山市立博物館

妙福寺<富浦>

成就山妙福寺の概要

妙福寺 境内

(南房総市富浦町南無谷(なむや)119)

 南房総市富浦町南無谷(なむや)にある日蓮宗の寺院で、成就山(じょうじゅさん)妙福寺と号します。由緒によると、蓮長(若き日蓮)が14年にも及ぶ修行と遊学を終え、清澄山旭の森で「南無妙法蓮華経」の題目に教えの全てを籠めて日蓮宗を立教開宗し、法華経の行者となって名を日蓮と改めた建長5年(1253)、鎌倉に向かう途中、富浦の岡本浦から鎌倉へ船出しようとしたところ嵐で足止めを余儀なくされ、近くの岬に登って一心に祈願すると嵐が治まりました。並みの僧でないことを感じたこの地の泉沢権頭(ごんのかみ)太郎は自宅に招いて世話をしたと伝えられています。日蓮聖人は鎌倉に入ると熱心に布教活動をしますが、幾多の迫害にもあいました。伊豆の流刑が解けてから父の墓参と病身の母の見舞いに故郷小湊へ戻ったとき、東条小松原でも刀難に遭い、身を隠しながらも房州各地で布教を行っていました。この時、以前鎌倉への渡海で世話になった泉沢家に立ち寄ると、老母に「妙福」の法号を授けます。太郎が弘安2年(1297)に身延山へ聖人を訪ねると、投宿した泉沢家で老母が衣を洗ったときに裸で読経した自分の姿を弟子日法に彫刻させた坐像とお題目の掛軸を下さったので、お堂を建てて安置しました。その後に六老僧のひとり日頂聖人の弟子松本公日念上人が来山して妙福寺とし、現在に至っています。6月と10月の13日には日蓮聖人像の衣替えが行われています。

(1) 日蓮大聖人生御影霊場碑

(1) 日蓮大聖人生御影霊場碑

 生御影(いきみえい)とは日蓮聖人の裸体祖師像のことであり、本尊として安置されている。その裸像を祀る霊場であることを広く世に知らせる碑である。大正8年(1919)、37世の日?(にちい)上人によって建立された。

(2) 題目塔

(2) 題目塔

当山31世日光上人が明治18年(1885)9月に再建したお題目塔で、中興開基と讃えられる25世日塔上人の供養塔になっている。

(3) 和泉沢家墓地(やぐら)

(3) 和泉沢家墓地(やぐら)

祖師堂の裏山に当時この地を支配していた泉沢権頭太郎の母「妙福」を葬ったやぐら(鎌倉時代の墳墓)がある。今も残る当山24世日宣上人が記した「妙福精舎由来」によれば、日蓮聖人が流刑赦免後の布教途中、鎌倉渡海前に世話になった泉沢親子に再会し、太郎の母に法号「妙福」を授けたと伝えられている。やぐらは今も和泉沢本家により守られている。

(4) 二祖(開山)塔

(4) 二祖(開山)塔

 祖師堂裏手に二祖(開山)松本公日念上人の塔がある。日念上人は日蓮聖人とその高弟日頂聖人(市川市真間の弘法寺開基)の教えを受け、弘安2年(1279)に当地を訪れると草庵を日蓮宗の寺とし「成就山妙福寺」と号した。のち下総や越後などにも寺を建て、建武元年(1334)8月没した。

(5) 歴代住職の墓

 武州に生まれ、当山24世となって祖師堂を建立し、のち小西檀林135世となり、天明2年(1782)に没した日宣上人の墓。加戸村(館山市稲)に生まれ小西檀林の講師を務めた後、50年間当山の住職を務め、その間に金200両を寄付して中興の祖といわれた25世日塔上人(天保2年=1831年没)の墓。その弟子で北条村に生まれ、小西・飯高両檀林の玄義を務め、寛政10年(1798)に23歳で没した日京法師の墓などがある。

(4) 二祖(開山)塔

(6) 題目塔

 天保4年(1833)、23世日?(にっしん)上人の時代に檀方中によって寄進された。右側面には世の中の平和・海の安全・仏法の広がり・未来の幸せへの願いが刻まれている。石工は長須賀村(館山市)の鈴木伊三郎である。

(7) 金木熊治の墓

 南無谷石小浦(いしごうら)の人。富浦村役場に勤め、大正時代には村会議員になった。その間、枇杷栽培の普及発展を図るとともに、「枇杷の栽培」他数冊を著述し、克明な資料を残している。昭和30年(1955)12月没、86歳。

(8) 柴山千代太郎先生碑

「局長さん」の愛称で富浦町民に親しまれた柴山千代太郎は、明治元年(1868)南無谷に生まれ、千葉師範卒業後富浦小学校で教鞭をとる傍ら私塾を開設して近郷青少年の育成に努めた。さらに町の助役を務めた後永く富浦郵便局長として活躍し、地元民に大変慕われた。昭和22年(1947)4月没。同年11月弟子たちが徳を慕って記念碑を建立した。

(9) 柴田南窓の墓

(9) 柴田南窓の墓

弘化年間(1844~1847)に江戸で活躍した講釈師。本名は柴山常晴。南無谷村の出身で、無本読(むほんよ)みを特徴とした田辺南鶴の門人。南窓もやはり無本で、読み方にも改良を加え、柴田派を興した。古戦記を中心とした修羅場を得意とし、殊に「赤穂義士伝」は日本一の定評を得たという。弘化3年(1846)72歳で病没。門人柴田南玉らによって、東京高輪泉岳寺にある赤穂義士の墓の傍らに記念碑が建てられている。

☆ 七面山

七面山 七面堂

妙福寺の北方500mの七面山はむかし浅間山と呼ばれていたが、のち領主の小浜八太夫が雨乞いの祈祷料として山林を奉献し七面堂が建立された。222段の石段の先にある七面堂には、元禄12年(1699)に身延33代日亨(にっこう)上人が勧請した木造七面大天女が祀られている。伝説では、日蓮が身延の谷で弟子や信者に説法していると、その中に妖しげな美女がいた。正体に戻るようにと花瓶の水を掛けると一丈もある大蛇が姿を現し、「私は身延山に棲む七面大天女である。この山を水火兵難から守り、法華経を信じる者には願いのすべてを聞き届けよう」と言って消えた。以来日蓮宗の守護神とされた。本地(ほんじ)は福徳を授ける吉祥天で、鬼門の一方だけを閉じ七面を開くという。毎年5月と10月の18日には絹衣のお召し替えの儀式が行われる。

(10) 石灯籠

(10) 石灯籠

明治時代に日参講により奉納された。石工は岩井村の青木竹次郎。当時は毎日七面堂へのお参りがあったのだと思われる。

(11) 手洗石

正面には日蓮宗と縁が深い妙見信仰を表す七曜紋を刻む。昭和14年(1939)に奉納されたのは、この当時日中戦争が行われていたことから、信徒中で戦争の勝利を祈願したもの。石工は大谷忠太郎。

(12) 戦勝満願碑

 日實法尼が、七面天女に百日の水行で日露戦争の戦勝を祈り、願いがかなったという戦勝満願碑である。富浦村の兵士たちが、明治40年(1907)、35世日覺上人の時代に建立したもの。願主の日實は18歳で当村の川名家に嫁ぎ、夫の冥福を祈るため57歳で剃髪した。

(13) 七面大明神碑

(13) 七面大明神碑

昭和28年(1953)、東京の七面講中が家内安全を祈り、また祈願満足・修行不退・衆望亦足(えきそく)・信力増進を祈願して、堂守の日榮と妙久法尼により建てられた。昔は堂守がいたようで、妙福寺墓地にも安政6年(1859)に亡くなった七面堂火守(日久信尼)の墓がある。

☆ 法華崎

法華崎

富浦の原岡を過ぎると、坂之下集落からは海岸が険しく切り立ち山越を余儀なくされる。日蓮も鎌倉へ渡海の折嵐に会い、これを静めんとこの岬の頂に登った。袈裟(けさ)を松の枝に掛け、法華経を念ずると嵐が静まったという伝説から、法華崎と呼ばれるようになった。

(14) 袈裟掛け松の碑

(14) 袈裟掛け松の碑

 法華崎の頂間近な所に、明治31年(1898)に豊岡村で建立した碑で、中央にお題目と「日蓮聖人袈裟掛松」、右に「米(よね)ヶ浜へ渡海の旧跡」、左に「建長5年(1253)5月中旬」とある。

(15) 日蓮上人渡海之霊蹟碑

(15) 日蓮上人渡海之霊蹟碑

日蓮聖人の生誕700年記念に安房日蓮宗寺院が鎌倉渡海の地に建立した「渡海霊蹟(れいせき)」の碑で、袈裟掛け松の碑と並立している。

* 衣洗い井戸

清澄山で立教開宗の宣言を行った日蓮聖人が、文永11年(1274)に東条の地頭東条景信に小松原で襲われたあと、鎌倉に渡航するため当地を訪れた時に、血で汚れた衣を泉沢権頭太郎の老母に洗ってもらったという井戸がある。私有地のため場所の特定は避けました。


<作成:ミュージアム・サポーター「絵図士」
金久ひろみ・鈴木以久枝・鈴木正・中屋勝義>
監修 館山市立博物館

天神社・神照寺<富山>

天神社と神照寺の概要

天神社 鳥居前

(南房総市平久里中205)

天神社は南房総市平久里中(へぐりなか)にあり、菅原道真(すがわらのみちざね)を祭神とする。現在は木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)(浅間神社)、天照大日孁命(あまてらすおおひるめのみこと)(神明神社)、建御名方神(たけみなかたのかみ)(諏訪神社)を合せ祀(まつ)る。南北朝時代の文和(ぶんな)2年(1353)に室町幕府執事の細川相模守清氏が京都北野天神をこの地に勧請して平群(へぐり)9か村の鎮守とし、信仰を集めてきた。里見氏は慶長11年(1606)に高7石の地を与え、徳川家も同様に安堵した。天正14年(1586)に里見義頼は、岡本但馬守実元(さねもと)を大檀那として天神社の再築を命じている。さらに文化5年(1808)には、神照寺の別当(べっとう)宥弘により再建された。社宝として「平久里天神縁起絵巻」3巻がある。南北朝期から室町時代初期の作品は珍しく、県指定文化財。また、10月の祭礼には余興として打ち上げ花火がある。宝暦2年(1752)に下総国の新助が諸国巡礼の際に覚えた花火の秘法を教えたと云うもので、以後地元の人達の研修・研鑽の成果が打ち上げ花火となり、神社祭礼の夜空を彩る。戦争や戦後の法規制で中止をした事もあるが、昭和48年(1973)に花火保存会が発足して再開し、昭和52年(1977)に県の記録選択無形民俗文化財に選択された。拝殿の回廊には筒が展示されている。神照寺(しんしょうじ)は、天神社を別当寺として管理した修験(しゅげん)寺で、明治新政府の神仏分離令により修験の寺が廃されたため、現在は残された観音堂が泉竜寺の管理である。この観音堂は、天神社が勧請されたときに本地仏(ほんじぶつ)として十一面観音が祀られ、安房国札観音霊場34か所の第14番札所として参詣人を迎えている。

(1)夫婦くすの木

(1)夫婦くすの木

昭和39年(1964)指定の南房総市天然記念物で、約千年前に住民が植えたものと言い伝えられる。手前のものは幹周4.35m、樹高15m、神社寄りのものは幹周4.25m、樹高25m、両者を合せて「夫婦クスノキ」と呼ぶ。手前を「女木」、神社寄りを「男木」といい、御神木(ごしんぼく)となっている。天狗伝説がある。

(2)伊勢参拝記念銘板 

(2)伊勢参拝記念銘板 

参道右側の石垣に埋め込まれた昭和8年の伊勢参り記念の小さな銘板がある。伊勢神宮は外宮(げくう)の祭神が農業の守護神と崇められていたので昔から信仰も厚くこの参詣が無事成就できたことを記念したもの。社殿前の階段の上には明治29年(1896)の参拝記念に敷石を寄付した記念碑もある。

(3)狛犬 

(3)狛犬 

この狛犬は武田石翁(せきおう)作といわれている。弘化2年(1845)、神照寺の住職宥弘の時に氏子の寄進によって建立された。

(4)手水鉢 

(4)手水鉢 

梅鉢(うめばち)紋を刻んだ手水鉢(ちょうずばち)は寛政2年(1790)のもの。願主は江戸湯島の上総屋吉田与兵衛と南八町堀の竹屋儀兵衛である。

(5)里謡の碑 

(5)里謡の碑 

「赤い布かけ さんまのひもの 平久里天神郷で釜こする」赤い襷(たすき)の若い女たちが祭の馳走を準備する様子で、秋刀魚(さんま)を焼き、飯炊きの釜を洗うという活気ある情景が謡われている。

(6)渡辺高俊先生の碑

明治38年(1905)平久里中に生まれた獣医師。昭和4年(1929)、同志と共に、農業の科学的技術の習得を目的に安房科学農業研究所を創設し、乳牛の繁殖障害の治療や妊否診断等の技術を研究。牛の直腸検査を酪農に不可欠な技術と確信し、繁殖生理学を学んで技術を習得、早期妊娠診断法を確立し、さらに「二本立て飼料給与法」を提唱した。平成6年没、89歳。平成17年に安房酪農青年研究会の山口仁らが賛同者を集め碑を建設した。

(7)加藤淳造先生碑

(7)加藤淳造先生碑

加藤淳造は、祖父加藤霞石(かせき)(幕末の漢詩人、書家)から三代続いた名家名医で知られる。淳造は千葉医学校の助教授となるも、立憲政治の創始に際して自由民権を主張し、板垣退助、大井憲太郎、新井省吾と共に関東自由党を創立、万人苦悩の病原を治すため国会議員となり民衆的政治家として活躍した。大正13年没、80歳。その功績を讃えた碑で、題字は立憲政友会総裁の田中義一、撰文と書は東京毎日新聞編集長の座間(ざま)止水(しすい)。大正15年建立。

(8)日露戦捷(せんしょう)記念碑 

(8)日露戦捷(せんしょう)記念碑 

明治37-38年(1904-05)の日露戦争の戦勝を記念した平群村の記念碑。表面中央の「日露戰捷記念碑」は海軍大将東郷平八郎の書。裏面に平群村からの従軍者として、戦病死者・兵役免除者・戦役生存者・海軍給仕(きゅうじ)・日赤救護班の名が刻まれている。明治40年(1907)、平群村恤兵会(じゅつぺいかい)が建立。石工は吉田亀石

(9)神輿新調寄付碑 

明治30年(1897)に神輿(みこし)が新調された際の記念碑である。吉沢区管設土木請負職今村正次が百円と永代お神酒料30円、平久里中区の樋田百藏が百円寄付している。なお、神池のほとりに、昭和48年10月に修理した際の記念碑があり、代表役員と責任役員の名や寄付者の名前・金額等が刻まれている。

(10)祈(いのる)征(せい)清軍(しんぐん)全捷(ぜんしょう)大祓詞(おおはらえのことば)三万遍紀念碑 

(10)祈(いのる)征(せい)清軍(しんぐん)全捷(ぜんしょう)大祓詞(おおはらえのことば)三万遍紀念碑 

日清戦争の勝利を願って祝詞(のりと)を三万回唱えた記念に建立された。平群村講社中が行ったもので、発起人12名と山田区・荒川区・平久里中区・平久里下区・吉沢区の賛助人の人数が記されている。明治28年(1895)の建立。

(11)石灯篭

正面に「奉納」、背面に奉納した嘉永5年(1852)5月の年号がある。願主は荒川村の坂田屋長兵衛である。

(12)天神社拝殿・本殿

(12)天神社拝殿・本殿

拝殿(はいでん)と本殿の間に幣殿(へいでん)を設けた造りである。規模は、拝殿の平入正面7.4m、幣殿・本殿と続く奥行きは16.2m程の立派な社殿である。拝殿の屋根は入母屋(いりもや)で、蕪懸魚(かぶらけぎょ)や梅鉢(うめばち)のついた蟇股(かえるまた)が見られ、腰には切目縁(きりめえん)の回廊(かいろう)が回っている。本殿は一段高い位置に設けられ、周囲には擬宝珠(ぎぼし)高欄が回り、梅鉢(うめばち)意匠の脇障子(わきしょうじ)がある。屋根は切妻(きりづま)形式で、屋根破風(はふ)には大きな三ツ花懸魚(けぎょ)が飾られている。

(13)大乗妙典塔 

(13)大乗妙典塔 

紀元前後頃にインドに起った改革派の仏教である北伝仏教を大乗仏教といい、その経典である法華経8軸を書写して納めた塔。神照寺住職と思われる■隆によって慶応元年(1865)に建てられた。

(14)東京鎮台(ちんだい)(西南戦争忠魂碑) 

(14)東京鎮台(ちんだい)(西南戦争忠魂碑) 

明治10年(1877)の西南の役のとき、平群地区より東京鎮台に所属し、九州へ出兵して戦死した5名の忠魂碑である。鎮台は明治前期の陸軍の軍団で、明治4年(1871)には4鎮台あったが、明治6年の徴兵令(ちょうへいれい)施行後は東京・仙台・名古屋・大阪・広島・熊本の6鎮台となった。この碑は明治14年に建てられた。

(15)小藤田善蔵之墓

(15)小藤田善蔵之墓

明治30年(1897)、台湾の宜蘭(いーらん)において土着の匪賊(ひぞく)討伐の際に戦死した、台湾守備歩兵一等卒小藤田善蔵の墓。明治31年に建てられた。日清戦争の結果台湾で日本の植民地支配が始まり、この当時は武力抗日運動が続いていた。

(16)アイデアル号之碑

(16)アイデアル号之碑

種牡牛(おうし)であるアイデアル号は、大正2年(1913)、オランダから嶺岡種畜場に輸入された名牛で、大正12年までの繁殖により550余頭を生産した。大正13年に老境に達した理由で平群村有志のもとに払下げとなり、大正14年老衰で斃(たお)れた。15才。房州乳牛改良の基礎を築き酪農業の将来をひらいた名牛を永く顕彰した記念碑である。

(17)光明真言供養塔 

(17)光明真言供養塔 

天保14年(1843)に神照寺の住職宥弘が、天下泰平・国土安穏と五穀成就・万民豊楽を願って立てたものが最大で、石工は平久里中村の金蔵。向いにも大日如来像を配した光明真言供養塔があり、安政3(1856)に光明真言を百万遍唱えた際のもの。その裏側にも寛政4年(1792)の自然石の光明真言供養塔がある。

(18)神照寺手水鉢 

(18)神照寺手水鉢 

神照寺前に蓮の花をあしらった手水鉢(ちょうずばち)がある。元禄12年(1699)に平久里下村の原新左衛門が寄進したものと思われる。安房では誕生寺・館山神社に次ぐ古い手水鉢である。

(19)神照寺観音堂

(19)神照寺観音堂

神照寺は天神社と同じ境内地にあり、十一面観音を本尊とする観音堂一宇のみが残る。この堂は正面・奥行とも5.8mの規模ながら重厚な造りの堂である。屋根は銅版葺きの入母屋造りで、正面に唐破風(からはふ)造りの向拝(ごはい)を設けている。向拝の角柱上部には象や獅子を意匠した木鼻(きばな)がある。堂の周囲には切目縁の回廊が回り、屋根棟や向拝の唐破風には、真言宗智山派の桔梗(ききょう)紋が付けられている。

(20)伊予ヶ岳

(20)伊予ヶ岳

標高336.6m。富山(とみさん)・御殿山と共に富山(とみやま)三山の一つで、南房総の名山である。山名の由来は阿波忌部(いんべ)氏のふるさとである四国の最高峰石鎚山(いしづちやま)(伊予の大岳)で、頂上の小平坦地に少彦名命(すくなひこなのみこと)を祀る石祠が安置されていた(現在不明)。県立自然公園の指定を受け、割れた岩峰からの眺望はすばらしい。頂上近くには、雨乞の清龍(せいりゅう)権現(ごんげん)が祀られ、今は原形を留めていないが中腹には頼朝ゆかりの鳩穴があった。


<作成:ミュージアム・サポーター「絵図士」
御子神康夫・吉野貞子・鈴木以久枝・金久ひろみ・川崎 一>
監修 館山市立博物館  〒294-0036 館山市館山351-2 ℡.0470-23-5212