見物(けんぶつ) 

斬後(ザンゴ) 向原(ムカイバラ) 大坪(オオツボ) 下ノ原(シタノハラ) 谷田(タニダ) 富川(トミカワ) 馬場(ババ) 石塚(イシヅカ) 坂足(サカダル) 前田(マエダ) 竹ノ下(タケノシタ) 曽根(ソネ) 堀渕(ホリブチ) 奥田(オクダ) 作ノ田(サクノタ) 西ノ原(ニシノハラ) 西ノ脇(ニシノワキ) 浜ノ台(ハマノダイ) 竜ヶ崎(リュウガサキ) 刀切(ナタギリ) 唐井(カライ)

 西岬の中心地で、明治13年創設の郵便局のほか農協、公民館などがあります。村制施行中は西岬村役場があり、明治39年から昭和57年までは塩見と波左間の小学校が合併した東小学校もおかれていました。江戸初期の里見氏治政下では、廿人衆頭の宅間監物と里見家一門の御隠居様の付人である梅渡りの二人が知行しており、村高189石余。明治元年には169石余。神社は海岸に海南刀切神社があり、寺院はその別当寺の東伝寺があります。また幕末の嘉永元年から明治4年にかけて、商人の本間健蔵が手習師匠として寺子屋を開いていました。

元和4年見物村検地帳
(安西政治氏蔵)

早物(はやぶつ)

ザンゴ(ザンゴ) 北ノ谷(キタノヤツ) 根方(ネガタ) ヒゲ畑(ヒゲバタケ) セキ上(セキウエ) 白石(シライシ) 長谷(ナガヤツ) 山坂(ヤマザカ) カラヱ(カラエ)

 西岬の14区のうち、海岸をもたないのは早物と加賀名の二区だけです。古くから農業主体の地域で、逆に山の少ない見物と相互に依存しあうかたちで生活してきました。江戸初期の里見氏治政下では、廿人衆頭の宅間監物が知行し村高81石余。明治元年には69石余。神社は金山神社があり境内には万延元年の手水鉢と日清日露戦役凱旋記念碑があります。寺院は長勢院がありましたが、今は見物の東伝寺が兼ねていて、観音堂があるのみです。

浜田(はまだ)

八郎畑(ハチロウバタ) 上町(カミチョウ) 市万度(イチマンド) 田原(タバラ) 作田(サクダ) 遠見塚(トウミヅカ) 下町(シモチョウ) 東浜(ヒガシハマ) 浜町(ハマチョウ) 北珊瑚(キタザンゴ) 中珊瑚(ナカザンゴ) 西浜(ニシハマ) 初ノ庄(ハツノショウ) 上珊瑚(カミザンゴ) 大坪(オオツボ) 西谷(ニシヤツ) 新関(シンゼキ) 長谷(ナガヤツ)

 鉈切神社と拝殿裏の洞窟は古くから名所として知られており、元禄年間には水戸の徳川光圀の命により、山萩村出身の水戸彰考館員石井三朶花が調査に訪れています。また同じころ、当時の浜田村領主で旗本の石川政徃や、紀伊国の漁師らが、燈籠や鰐口を寄進するなど、盛んに参詣客が訪れています。江戸初期の里見氏治下では、里見家一門の正木善九郎の知行で村高161石余。明治元年には142石余でした。神社は船越鉈切神社、寺院は神社の別当寺を務めた高性寺のほか、石の堂があります。

浜田村絵図(個人蔵)

塩見(しおみ)

大橋(オオハシ) 西宮戸(ニシミヤド) 西浜(ニシハマ) 下一ッ屋(シモヒトツヤ) 上一ッ屋(カミヒトツヤ) 久保(クボ) 東浜(ヒガシハマ) 立石(タテイシ) 宮ノ脇(ミヤノワキ) 神宿(カミヤド) 名道(ナドウ) 沢ノ入(サワノイリ) 政道(セイドウ) 別当畑(ベットウバタ) 宮田(ミヤタ) 平松(ヒラマツ) 甚五軒(ジンゴケン) 蓮畠(ハスバタケ) 能沢田(ノウサワダ) 油坪(アブラツボ) 片畔(カタグロ) 奇明(キミョウ) 前山(マエヤマ) 山通り(ヤマドオリ) 平塚(ヒラツカ)

平安時代には安房国安房郡塩海郷といわれており、現在の沼から見物一帯にかけての地名であったと考えられています。里見氏治下の江戸初期には、里見家一門の御隠居様の知行地で村高197石余。慶長2年の塩見村太閣検地帳が残されています。明治元年には190石余。明治6年には鈴木林右衛門を世話役に塩見小学校が開校されています。神社は御嶽神社があり、文政11年の燈籠と、拝殿の向拝には幕末から明治期の彫刻師後藤三四郎の作品があります。寺院は善栄寺で江戸時代には7石余の寺領をもっていました。また1石余の除地をもっていた宝蔵寺もありましたが、今は善栄寺と合併しています。その他海岸に観音堂があり、戦前まで臥龍松のある名所でした。

塩見村絵図(個人蔵)

香(こうやつ)

長通(ナガドウリ) 東浜(ヒガシハマ) 中浜(ナカハマ) 西浜(ニシハマ) 石塚(イシヅカ) 西畑(ニシバタ) 的場(マトバ) 寺坂(テラサカ) 城ノ腰(ジョウオコシ) 蟹田(カニタ) 田中(タナカ) 祭面(マツリメン) 彼地谷(カチヤツ) 奇妙(キミョウ) 塩岩(シオイワ) 細田(ホソダ) 雨沼(アマヌマ) 大谷(オオヤツ) 小坂(コサカ) 品ノ谷(シナノヤツ) 下唐木(シモカラキ) 中唐木(ナカカラキ) 上唐木(カミカラキ) 峰(ミネ) 古録(コロク) 白駒(シロコマ) 沢山(サワヤマ) 稲荷森(イナリモリ) 不知名(フチナ) 大和田(オオワダ) 岩部(イワベ) 石田(イシダ)

 峯山には縄文土器片が散布し、近接してサンゴ層もあって古い遺跡などの確認される地域です。里見氏の支配下にあった江戸時代初期には、里見家の寺社奉行印東采女の知行地で村高198石余。明治元年には222石余になっています。神社は浅間神社があって境内には寛政13年・天保12年の手水鉢と、浜に文政10年の燈籠が建てられています。寺院は金剛寺がありましたが今はなく、二ヵ所のお堂があって、海岸部の下御堂には中世の宝篋印塔の断石が確認されます。山際のお堂は今は旧金剛寺と合併しています。

西岬地区

 シリーズ2回目として西岬地区を取り上げました。西岬は安房国の西端にあり、東京湾に岬のように突き出していることから名付けられたもので、明治22年の西岬村成立のときの命名です。

 農業と漁業を生業とする半農半漁の村々からなり、農業が主、漁業が従でしたが、全村のほとんどが漁業に従事していました。現在では花と海を活かして観光化が進んでいますが、市全域の15%にあたる16.47k㎡の面積に、人口が3,507人で市全体の6.2%と、表にもみるように過疎化傾向にあります。

 西岬には現在に大字として残る14の村々がありましたが、戦国時代から江戸時代の初めまでは里見氏が支配していました。その後は村ごとに幕府や旗本の領地となっていましたが、幕末に異国船が東京湾近海へ現れるようになると、奥州白河藩の松平定信が沿岸防備のため、西岬一帯を幕府から預って治めるようになり、その後も武州忍藩や備前岡山藩が預り地とし、東京湾の海防の要地となっていました。明治になると、香村と坂井村が長尾藩領、塩見・浜田・早物・見物・加賀名・波左間・坂田・洲崎・川名・伊戸・坂足・小沼の諸村が館山藩領となりました。明治6年には千葉県に編入され、明治22年にこの14ヵ村が合併して西岬村となり、館山市と合併したのは昭和29年のことです。

戸数のうつりかわり

旧町村名 天保 明治24年 世帯数 昭和35年 昭和60年 香 71 73 88 109 塩見 53 58 77 89 浜田 27 30 38 62 早物 16 18 29 37 見物 38 48 68 94 加賀名 22 28 25 31 波左間 89 91 119 152 坂田 57 63 76 92 洲崎 54 60 77 116 川名 (西川名) 54 61 95 90 伊戸 95 107 119 136 坂足 14 15 15 16 小沼 31 30 26 26 坂井 32 31 32 51 合計 653 713 884 1,101