真言宗の寺院で、本尊は金剛界大日如来。当寺の木造地蔵菩薩像は、明治19年の塗装でわかりにくくなっていますが藤原期に造られたと考えられます。境内には青面金剛を彫出した庚申塔や二代武志伊八郎の向拝彫刻、枕字石などがあり、また安房三十四観音の二十九番札所でもあります。
◇交通 JRバス犬石下車徒歩7分
真言宗の寺院で、本尊は金剛界大日如来。当寺の木造地蔵菩薩像は、明治19年の塗装でわかりにくくなっていますが藤原期に造られたと考えられます。境内には青面金剛を彫出した庚申塔や二代武志伊八郎の向拝彫刻、枕字石などがあり、また安房三十四観音の二十九番札所でもあります。
◇交通 JRバス犬石下車徒歩7分
県立安房養護学校裏の山裾に4つのやぐらがあります。現在は半分ほど埋没していますが、大正14年にここから中世の五輪塔や宝篋印塔が多数掘り出されており、それが笠登の墓地に祀られています。すべて残欠で完型のものはありませんが、多くは室町時代のもので、なかには南北朝時代のものと考えられるものもあり、里見氏以前の有力な武士の存在をうかがわせるものです。
◇交通 JRバス犬石下車徒歩15分
曼荼羅山金胎寺遍智院という真言宗の寺院で、字小塚にあって弘法大師を本尊とすることから、小塚大師の名で知られています。関東厄除三大師のひとつとして毎年1月21日の初大祭は大変な賑わいをみせます。また本堂裏には四国八十八ヵ所を一度に巡拝できる霊場がつくられています。境内の手洗鉢は獅子の彫出されたみごとなもので、文政十年に長須賀の石工鈴木伊三郎がつくったものです。
◇交通 JRバス犬石下車徒歩25分
巴川中流の独立丘で、大塚山周辺は縄文から古墳期の遺跡が散在するところとして古くから知られています。とくに大塚山東方の大塚貝塚は、開析海成段丘上にある大規模な遺跡で、縄文土器や獣骨・石器が出土しています。また大塚山南側斜面には4基の横穴をもつ岩井作横穴古墳群があります。
◇交通 JRバス安房神社前下車徒歩15分
真言宗の寺院で、千歳寺と日乗院が合寺されたといわれています。平安時代初め(10世紀後半)に造像された木造如来坐像(県指定)や、南北朝時代の地蔵菩薩像があり、この地域の古い歴史を伺わせます。境内には市指定の七人様供養碑があります。これは天和2年に大神宮村の農民が、領主の旗本河野三左衛門の非法に対し、江戸の奉行所へ訴訟したものの敗訴となり、農民の代表者7人が処刑されたため、七人様と称して供養されているものです。
◇交通 JRバス安房神社前下車徒歩6分
安房神社境内にある海食洞窟ですが、昭和7年の発掘調査の結果、人骨22体と貝輪・小玉・弥生式土器などが発見され、最初洞窟住居として使用されたものが、のちに墳墓として利用されたと考えられています。洞窟は全長11m、高さ2m、幅1.5mで、東北部に開口部をもちますが、現在は地表下1mにあります。発掘された成人人骨には抜歯の痕跡のあるものが多く、当時の風習を知るうえで貴重なもので、県の史跡に指定されています。
◇交通 JRバス安房神社前下車徒歩5分
安房国一宮で、天太玉命を祭神としています。忌部一族による安房開拓神話に登場する安房忌部氏の祖天富命が、その祖神を祀ったものとされます。平安時代の「延喜式」には「安房坐(アワニマス)神社」と記される式内社で、すでに大同元年(806)には100戸の封戸を有していました。境内地からは古墳時代の祭祀用土器が出土しており、古代祭祀の地に神社が建てられたことがわかります。戦国時代には里見氏の崇敬をうけ、社殿の復興や社領の寄進も行なわれ、大神宮村に19石余、滝口村(白浜町)に11石が与えられました。この社領は江戸時代にも引き続き幕府から寄進をうけています。境内には海食洞窟遺跡があり、人骨や土器が発掘されて県の史跡に指定されているほか、神社所蔵の木造狛犬や木椀・燧箱・高坏・古鏡などが市の指定文化財になっています。
◇交通 JRバス安房神社前下車徒歩5分
西暦 年号 | 事項 |
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B.C.20000年 | 布良の海食洞ができる |
5~6世紀頃 | 安房神社・洲宮神社の境内が祭祀場として使用される |
7世紀頃 | 大神宮大塚山に横穴古墳群がつくられる |
806年 大同1年 | 安房神社が朝廷より封戸10戸を加えられ、総計104戸の封戸を有する |
836年 承和3年 | 安房神社の祭神(安房大神)が無位から従五位下に列せられる |
859年 貞観1年 | 同正三位に列せられる。また后神である洲宮神社の祭神(天比理乃咩命)も正三位に列せられる |
10世紀 | 大神宮千祥寺の木造如来坐像が造像される |
1229年 寛喜1年 | 鎌倉幕府、評定衆三浦義村を奉幣使として安房神社へ遣す |
1273年 文永10年 | この年洲宮神社が炎上する |
1580年 天正8年 | 里見義頼、家臣真田与十郎に布沼村の田地を所領として充行う |
1597年 慶長2年 | 茂名・犬石などの村々で太閣検地が行われる 里見忠義、家臣岡本源介に犬石村・南龍村に所領を充行う |
1613年 慶長18年 | 里見忠義、安房神社の修造を行う |
1616年 元和2年 | 江戸幕府、安房神社へ36石余、洲宮神社へ7石の社領を寄進する |
1654年 貞応3年 | 大神宮・犬石・相浜各村の間で巴川舟入争論がおこる |
1682年 天和2年 | 大神宮村で領主河野三左衛門に対する一揆がおこり、農民の代表者7名が死罪になる |
1703年 元禄16年 | 大地震で海岸が隆起し、大津波のため布良・相浜村で多くの犠牲者が出る |
1713年 正徳3年 | 洲宮・茂名・布沼村の間で浜争論がおこる |
1723年 享保8年 | 里見義澄、洲宮神社に扁額を奉納する |
1871年 明治4年 | 松岡村と洲宮村が館山県に編入され、大神宮・中里・南竜・北竜・犬石・佐野・藤原・茂名・布沼・布良・相浜の諸村が長尾県に編入される。12月に13ヶ村が木更津県に編入される |
1874年 明治7年 | 松岡村・南竜村・北竜村・合併して竜岡村となる |
1889年 明治22年 | 大神宮村他8ヵ村が合併して神戸村となる 布良村・相浜村、合併して富崎村となる |
1904年 明治37年 | 画家青木繁が布良に来遊し、「海の幸」を描く |
1923年 大正12年 | 大震災で大津波などの被害をうける |
1941年 昭和16年 | 神戸村佐野に館山海軍砲術学校が設置される |
1949年 昭和24年 | 平砂浦砂防工事始まる(昭和33年完成) |
1954年 昭和29年 | 神戸村・富崎村、館山市と合併する |
二斗田(ニトダ) 古屋敷(フルヤシキ) 井戸下(イドシタ) 不動下(フドウシタ) 新田(シンデン) 釣洲(ツリス) 松崎(マツザキ) 松崎干潟(マツザキヒガタ) 香取(カンドリ) 久保浜(クボハマ)
海岸の低平地で、漁業中心の地区ですが、現在では民宿を経営するところが多くあります。江戸時代初期の里見氏治政下では、里見家の直接支配地で、村高は13石余。明治元年も15石余と、耕地の少ない地域です。元禄16年の大地震では土地が5m隆起し、津波による犠牲者も多数でました。大正12年の関東大震災でも津波で大被害をうけています。神社は相浜神社、寺院は蓮寿院があり、江戸時代には修験の感満寺がありました。
上谷(カミヤツ) 瀧山(タキヤマ) 下ノ谷(シタノヤツ) 三ツ山(ミツヤマ) 久保浜(クボハマ) 砂子(スナゴ) 日当(ヒアタリ) 三条(サンジョウ) 清水(シミズ) 東本郷(ヒガシホンゴウ) 西本郷(ニシホンゴウ) 川崎(カワサキ) 小知谷(コチャト) 片二山(カタフタヤマ) 風早(カザハヤ) 治郎五(ジロウゴ) 七曲(ナナマガリ) 弥高(ヤダカ) 瀬ノ丘(セノオカ) 大山(オオヤマ) 鳶巣(トビガス) 谷戸(ヤト) 西谷(ニシヤツ) 出口(デグチ) 山ノ口(ヤマノクチ) 東割地(ヒガシワリチ) 西割地(ニシワリチ) 取附(トリツケ) 阿由戸(アユド) 鯨山(クジラヤマ) 女神(メガミ) 古敷(フルシキ) 駒崎(コマガサキ) 向原(ムカイバラ) 小知谷下(コチャトシタ) 大浦(オオウラ)
布良の地名の語源は、海草(布)が繁茂する浦(布浦(めうら))とも、和歌山県の目良(めら)あるいは伊豆の妻良(めら)の住人の移住にちなむものともいい、沖合の布良瀬が古くから好漁場として知られる漁村です。江戸時代初期の里見氏治政下では、里見家の直接支配地で、村高は53石余。明治元年には78石余。幕末には海岸に沿岸警備のための3門の砲台が設置されました。神社は安房開拓神話にまつわる布良崎神社、寺院は竜樹院と、本郷・阿由戸の二つの観音堂があります。また明治には画家の青木繁が来遊し、「海の幸」を描いて、その記念碑があります。