(16)江田条里跡(江田)

 昭和49年に江田の水田地帯で条里遺構の発掘調査が行われ、埋没していた畦畔や土留め用の木杭などが出てきました。小字にも北条目・南条目・大坪・牛坪・榎坪・四反町・五反下りなど条里の地割を思わせるものが残っており、律令時代に条里制が行われた地域であることが確認されました。条里の地割は半折型に属すると考えられ、9~10世紀までは存続していたようです。

◇交通 日東バス鴨川駅行城山下下車徒歩15分

(15)日枝神社(竹原) 

 大山咋命を祭神とする神社で、かつては今宮山王権現といい、別当寺として浄蓮院がありました。明治3年に日枝神社に改称しています。慶長年間、里見氏は広瀬村で5石余の社領を寄進し、江戸幕府も里見氏にならって5石を朱印地として与えました。10月10日に例祭が行われ、大正頃までは近郷から人々が集まり、竹原・江田・中・御庄・山名の人々を中心に社前の馬場で競馬が行われていました。

◇交通 日東バス鴨川駅行竹原口下車徒歩10分

(14)相賀地蔵堂(竹原)

 相賀組にある小さなお堂ですが、本尊は木造地蔵菩薩立像で、鎌倉時代中期頃のものです。慶派系統の作風を見せる貴重な遺作で、過不足のない量感をもった本格的造像を思わせます。また堂内には室町時代の石造虚空菩薩坐像も安置されています。この堂は薦野氏との関係も伝えられています。

◇交通 日東バス鴨川駅行水玉下車徒歩10分

(13)明星山城跡(竹原) 

 春光寺から西へのびる尾根を明星山と称し、戦国時代は里見氏の家臣薦野氏の居城であったと伝えられています。薦野神五郎時盛の娘は里見義弘の側室になり、頼俊を生んだといわれ、頼俊はのち薦野神五郎の名跡を継ぎ、慶長期には里見忠義の一門として、竹原村・古茂口村・山荻村で計2,524石余を知行していました。慶長19年の館山城開城の際、薦野神五郎以下数十名が討死したという言い伝えも残っています。

◇交通 日東バス鴨川駅行水玉下車徒歩7分

(12)春光寺(竹原)

 曹洞宗の寺院で、北条藩主屋代越中守忠正が室の昌泉院殿の追善のため、承応3年(1654)に菩提寺として建立した寺です。屋代忠正は寛永15年(1638)に安房北条藩一万石に封ぜられ、北条に陣屋を構えますが、正徳元年(1711)屋代忠位のとき、家臣川井藤左衛門らの苛政に堪えかねた領民が一揆をおこしたため、翌年屋代家は領地を没収され、北条藩は廃藩となりました。境内には屋代家の墓地があり、寺宝として屋代氏接待の食器類が伝えられています。

◇日東バス鴨川駅行水玉下車徒歩8分

(11)田村光堂(竹原)

 田村組にある小さなお堂で吉田山光堂といいます。本尊は木造阿弥陀如来坐像で、室町時代から桃山時代にかけての時期に造られたものです。本尊の台座は本尊と組むものではありませんが、天文21年(1552)のもので、その年里見氏の家臣吉田下野守が光堂を再興したことが書かれています。また境内には室町時代の宝篋印塔が並び、塔身には仏像か浮彫りにされ、弘治の年号も確認されています。

◇交通 日東バス鴨川駅行水玉下車徒歩10分

(10)大井城跡(大井)

 中世の城跡でいまも原形がよく残されています。国道128号にむかって突き出た尾根上に、北の丸・本丸・二の丸・三の丸が南に続く連郭式の縄張りで、堀切が随所にあり、土橋や石積もみられます。本丸にあたる山頂には若宮八幡が祀られ、山の周囲には「要害」「城ノ内」「根古屋」の屋号をもつ住宅があります。この城は大井氏の居城と伝えられ、16世紀のはじめ頃に廃城になったと考えられています。

◇交通 日東バス鴨川駅行九重大井下車徒歩1分

(9)大井角田横穴古墳群(大井)

 国道128号の北側で南に向かって開けた谷の奥に約30個の横穴古墳があります。丘陵の中腹に数段にわたって並列していますが、これらは古墳時代の地方豪族の墓で、一基に数体を安置していたと考えられます。穴の大きさは大小さまざまありますが、中には3mの羨道をもち奥行4.88m、高さ2mの玄室に大小2つの石棺を据えた堂々たるものもあります。また近くの竹原滝ノ谷にも約40個の横穴古墳群があり、三芳村の池ノ内や丸山の加茂など近隣にも古墳群をみることができます。

◇交通 日東バス鴨川駅行大井火の見前下車徒歩5分

(8)石井昌道碑(大井) 

 石井昌道は幕末から明治期に手力雄神社の神主を務め、石井石見(いわみ)と称していた人で、慶応4年の維新の混乱期に治安維持のための勤王隊として房陽神風隊を結成した人として知られています。文政元年(1818)に手力雄神社の神主家に生まれ、成長してから江戸の昌平校に学んで、この頃勤王の武士たちと交わります。のち郷里に帰って嘉永3年(1850)に家塾を開き、近隣の子弟の教育にあたりました。しかし慶応4年になって官軍に抵抗する請西藩主林昌之助や幕軍の榎本武楊などが安房へ入国してくるようになると、石井昌道は江戸に入った大総督府の大村益次郎に房陽神風隊の設立を願い出て、近隣の治安維持にあたります。隊員には神職や名主、医師などが多く名を連ね、綱領を定め、自己資金で運営しています。戊辰戦争の終結で隊は解散し、昌道はのち長尾藩校の肝煎や木更津学校教授を務め、明治29年に没し、手力雄神社境内にその碑があります。

◇交通 日東バス鴨川駅行九重大井下車徒歩5分