(7)手力雄神社(大井)

 天手力雄命を主神に三柱が祭神として祀られています。天手力雄命は『古事記』などでは天の岩戸を引き開け、天照大神を連れ出した神として知られ、拝殿にもその場面を描いた額が掲げられています。江戸時代までは大井大明神の名で尊崇され、天正12年(1584)には里見義頼が社殿を造営しています。現在の本殿は元禄大地震で破損したのを宝永年間に修理したものですが、蟇股や垂木の反り等に桃山時代の建築様式の特色がみられ、天正12年に建築した際の特色を随所に残しています。江戸中期の様式の特徴もみられますが、本殿は県の指定文化財になっています。里見氏は社殿の造営をはじめ社領も70貫を寄進しており、慶長期になると大井村のうちに43石余の社領を与えました。徳川幕府もこれにならって同じ石高を朱印地として与えています。10月9日が例祭、境内の大杉は市の天然記念物に指定されています。

◇交通 日東バス鴨川駅行九重大井下車徒歩5分

(6)道標(薗・二子)

 江戸時代に各地への街道が整備され、庶民が名所旧跡を旅するようになると、旅の目印としての道標が数多く建てられました。九重では薗に人々の苦悩を救済する六地蔵を兼ねた道標が正徳4年に建てられ、館山までの距離と和田の松田までの距離を示しています。また二子にも元文2年の道標があり、館山、千倉、清澄のそれぞれの方向を案内しています。

◇交通 日東バス千倉行二子下車徒歩1分(安養寺境内)
    日東バス鴨川駅行水玉下車徒歩1分

(5)千手院(安東) 

 安東周辺は中世に安東郷と称され、数多くの中世の文化遺産が残されている地域ですが、なかでも千手院は石造の文化財がきわめて多く伝えられています。千手院は尾根の先端に穿たれたヤグラを墳墓堂として成立したものと考えられます。ヤグラの内部には石造千手観音坐像を本尊に、文和2年(1353)の銘がある石造地蔵菩薩坐像、己亥銘(天文8年とする説が有力)のある中世の日待供養塔などがみられ、境内地の岩壁にも五輪塔を浮彫りにした小規模なヤグラがみられます。またヤグラの真上にあたる位置には南北朝期と思われる関東型式の本格的な宝篋印塔もありますが、被葬者についてはまだ判然とせず、豪族安東氏一族の可能性が指摘されているのみです。宝篋印塔と文和2年の地蔵像は市の指定文化財です。

◇交通 日東バス千倉行安東下車徒歩2分

(4)数学師高見桂蔵碑(水岡)

 享和2年(1802)に清水村に生まれた高見桂蔵は関流の算学者として知られ、近郷の子弟に算学を教授し、その徳を慕われ昭和11年に蓮蔵寺境内に記念碑が建立されています。18歳の時同郷の算学者清水豊明に師事して数学を学び、豊明が江戸で指南所を開くと師を慕って江戸へ行き、天保3年~5年(1832~1834)にかけて関流の三題の免許を授与されています。後に郷里へ帰り農業のかたわら子弟の教育に尽し、門人は三百余人を数えたといいます。鶴谷八幡神社をはじめ鴨川の大山不動、千倉の高塚不動、鹿野山などに算額を奉納したと伝えられ、6人の門人に三題免許を与えていますが、明治17年83歳で没しました。晩年には量料亭貞明と称しています。

◇交通 日東バス千倉行安東下車徒歩8分

(3)蓮蔵寺と周辺の横穴群(水岡)

 旧清水村の曹洞宗の寺院で木造釈迦如来坐像を本尊としています。この像の胎内には延文元年(1356)の墨書銘があり、南北朝時代の作であることがわかります。また境内には室町時代の宝篋印塔の残欠が見られ、寺の背後の山の中腹には10数基の横穴がありやはり宝篋印塔の残欠を有しているものもあります。この山の尾根続きで安東の字小網の熊野神社脇や、字高田の高田寺裏にも横穴がみられ、とくに高田の横穴は蛇骨やぐらと呼ばれています。また蓮蔵寺付近の民家の裏にも五輪塔を浮彫りにした横穴があるなど、横穴の散在している地域です。

◇交通 日東バス千倉行安東下車徒歩8分

(2)水岡やぐら(水岡)

 「ヤグラ」は鎌倉時代中期から南北朝時代にかけて、鎌倉を中心に武士階級の墓穴として数多く作られ、安房でもよく見ることができます。なかでも水岡には間口2m、奥行1.8m、高さ1.5mの大きさで壁面に17基の五輪塔が供養のために浮彫りにされたものがあり、さらに奥壁中段に火葬骨を葬った穴もあって、極めて特色のあるものです。このようなヤグラの存在は、武家の中心地であった鎌倉の文化が、安房にも強い影響を与えていたことを裏付ける貴重なもので、水岡やぐらは規模の大きなこともあって市の指定文化財になっています。またその周囲にも数基の横穴があり、既に滅失したものもありますが、群をなしていたことがわかります。

◇交通 日東バス千倉行安東下車徒歩3分

(1)南台地蔵堂(水岡)

 旧南片岡村の小さなお堂ですが、鎌倉時代に造られた等身大の木造地蔵菩薩立像があります。但し頭部は南北朝時代に修理されたものです。また室町時代末頃の十王像の頭部もあり、堂周辺に数多くの中世の文化遺産があることと考えあわせて中世に有力な豪族のいたことを示してくれます。

◇交通 日東バス千倉行水岡下車徒歩5分

九重地区略年表

西暦 年号 事項
6~7世紀頃 大井・竹原などの横穴古墳群がつくられる
和銅年間 この頃、片岡の服織部麻呂らが調を平城宮に納める
9~10世紀頃 江田・竹原などに条里制が施行される
1353年 文和2年 安東千手院の石造地蔵菩薩坐像が造像される
室町将軍足利尊氏、佐々木三郎左衛門尉長綱に安東郷のうち鴻栖村を与える
1356年 延文1年 水岡蓮蔵寺の木造釈迦如来坐像が造像される
1423年 応永30年 安東又三郎の旧領安東郷内朴谷村が真田刑部左衛門尉に押領される。鎌倉公方足利持氏、安房国守護上杉定頼に対し、同地を鎌倉極楽寺へ渡すよう命じる
1552年 天文21年 里見氏の家臣吉田下野守、竹原光堂を再興する
1584年 天正12年 里見義頼、手力雄神社を修復し、社領五貫代を与える
1589年 天正17年 里見義康、家臣石井駿河守に江田の所領を安堵する
1591年 天正19年 里見義康、手力雄神社に社領を寄進する
1597年 慶長2年 里見義康、清水村を本織の延命寺に社領として寄進する
1616年 元和2年 江戸幕府、手力雄神社へ43石余、竹原の日枝神社へ5石の社領を寄進する
清水村はひきつづき延命寺領となる
1638年 寛永15年 清水村を除く現在の九重地区が北条藩領となる
1709年 宝永6年 元禄地震で破損した手力雄神社の本殿が修復される
1711年 正徳1年 北条藩領の農民が一揆をおこし、薗村五左衛門をはじめ三人の名主が処刑される(万石騒動)
1712年 正徳2年 北条藩主屋代忠位、万石騒動のため領地を没収される
1796年 寛政8年 大井の加茂坂で虚無僧殺害事件がおこる
1825年 文政8年 清水村の算学者清水豊明、那古寺に算額を奉納する
安政頃 清水村の関流算学者高見桂蔵、近隣の子弟に算術を教授する
1868年 慶応4年 治安維持のため、手力雄神社を中心に房陽神風隊が組織される
1873年 明治6年 宝貝・南片岡・北片岡・清水・安東・二子・薗・水玉・大井・竹原・江田の各村が千葉県に編入される
1875年 明治8年 南片岡村・北片岡村・清水村が合併して水岡村となる
1889年 明治22年 宝貝村他8か村が合併して九重村となる
九重尋常小学校開校する
1921年 大正10年 国鉄北条線九重駅開業する
1942年 昭和17年 九重村役場火災焼失
1954年 昭和29年 九重村、館山市と合併する

江田(えだ)

狢田(エダ) 平沼(ヒラヌマ) 下田(シモダ) 下細沼(シモホソヌマ) 榎坪(エノキツボ) 木ノ下(キノシタ) 森ノ作(モリノサク) 森ノ下(モリノシタ) 小屋居(コヤイ) 上釜井(カミカマイ) 井戸畑(イドバタ) 下釜井(シモカマイ) 箕ノ輪(ミノワ) 四反町(ヨンタンチョウ) 地蔵ノ下(ヂゾウノシタ) 上細沼(カミホソヌマ) 輪リ町(ワリマチ) 牛坪(ウシツボ) 佐沼(サヌマ) 下砂押(シモスナオシ) 上砂押(カミスナオシ) 南条目(ナンジョウメ) 北条目(ホウジョウメ) 川戸(カワト) 五反下(ゴタンサガリ) 大坪(オオツボ) 堺田(サカイダ) 内田(ウチダ)

 律令時代の条里制の跡がよく残っているところで、条里遺構の発掘調査も行われています。その東方の台地端に集落が広がり、大正17年には里見義康が家臣の石井駿河守に江田の本領を所領として与えています。江戸時代初期の里見氏治政下では、里見氏の直接の支配地で、村高は365石余。明治元年には384石余になっています。神社は問子神社、寺院は西光寺、他に阿弥陀堂があります。明治7年には江田学校が開校されています。

竹原(たけわら)

久杉(クスギ) 中場ヶ台(ナカバガダイ) 小田辺(コタベ) 外之町(ソトノマチ) 筒井(ツツイ) 田村(タムラ) 田村川田(タムラカワタ) 道原(ドウバラ) 南道原(ミナミドウバラ) 田代(タシロ) 上川田(カミカワタ) 若桜(ワカザクラ) 大畑(オオバタケ) 下田辺(シモタベ) 田辺(タベ) 田辺前(タベマエ) 山王(サンノウ) 西ノ崎(ニシノサキ) 神典(シンデン) 真岡(マオカ) 長作(ナガサク) 池ノ谷(イケノヤツ) 界ヶ谷(カイガヤツ) 大鐘(オオガネ) 御霊(ゴリョウ) 横枕(ヨコマクラ) 松葉前(マツバマエ) 孫太(マゴタ) 相賀(ソウガ) 山ノ作(ヤマノサク) 山ノ作上(ヤマノサクカミ) 小滝(オダキ) びゃく崩(ビャククズレ) 大苗代(オオナワシロ) 正光(マサミツ) 池篭(イケゴモリ) 背知原(セチハラ) 中尾(ナカオ) 粕畑(カスバタ) 岩井作(イワイサク) 平田(ヒラタ) 嶋田(シマダ) 子ノ神(ネノカミ) 谷之入(ヤツノイリ) 一長田(イッチョウダ) 橋ノ上(ハシノウエ) 仲田(ナカダ) 柳作(ヤナギサク) 尾曾根(オゾネ) 高塚(タカツカ)

 竹原は田村・相賀・滝ノ谷・横枕・田辺の集落からなり、中央に広がる耕地に条里制の跡がみられます。滝ノ谷の字岩井作には約40個の横穴古墳があり、日枝神社脇にも2個の横穴がみられます。江戸時代初期の里見氏治政下では、里見家一門の薦野神五郎が知行し、村高は864石余。田村にある明星山城跡は薦野神五郎の居城であったと伝えられています。明治元年には713石余。神社は日枝神社があり、江戸時代は広瀬に5石の朱印地がありました。寺院は北条藩主屋代氏の菩提寺の春光寺、遍照院、宝樹院があり、その他光堂、相賀地蔵堂、不動堂、松葉堂、田辺地蔵堂、真岡堂などの小堂が集落ごとにあります。相賀地蔵堂には鎌倉時代の木造地蔵菩薩立像が、田村の光堂にも室町時代の木造阿弥陀如来坐像が伝えられています。