(10)長泉寺(上真倉)  

 浄土宗の寺院で、江戸時代は下真倉村のうちにありました。本尊の木造阿弥陀如来立像は平安時代の作で、ゆったりとした印象の上品な藤原様式の仏像です。またその前立の阿弥陀像も鎌倉時代末から南北朝時代にかけての頃の作で、古い像が残されています。円光大師安房二十五霊場の第五番の札所としても信仰されています。

◇交通 JRバス神余回り青柳下車徒歩3分

(9)木村円次郎の墓(上真倉)  

 上真倉の字宇和宿に下宿というところがあり、別にかあしんだい(川岸台)というそうですが、汐入川左岸に水戸藩士木村円次郎の墓があります。ここは下真倉からの道があったところで、汐入川を歩いて渡れる場所でした。墓のある場所は刑場だったと伝えられています。木村円次郎は元治元年(1864)の水戸藩尊攘派による筑波山挙兵、いわゆる天狗党の乱に加わった藩士の一人で、降伏後仲間12人とともに、館山藩に預けられ、翌年4月木村は処刑されました。他の12人は水戸藩へ引渡されています。墓には『妙法 蓮乗劔霊 元治二丑四月三日 木村円次郎』とあります。

◇交通 JRバス神戸回り相生橋下車徒歩5分

(8)泉慶院(上真倉)  

 曹洞宗の寺院で、里見義弘の室となった青岳尼を開基とし、義弘の息子梅王丸(淳泰和尚)を開山とする寺です。里見氏の時代には、160石余の寺領を与えられていましたが、江戸時代は7石に削られています。境内には両人の供養塔があるほか、館山城鹿島堀の一部が池として残されています。開基の青岳尼は小弓公方足利義明の娘で、鎌倉尼五山筆頭の太平寺住持でしたが、義弘に連れられて安房へ渡り還俗した人です。

◇交通 JRバス神戸回り上真倉下車徒歩5分

(7)慈恩院(上真倉)  

 曹洞宗の寺院で里見氏の菩提寺のひとつとして知られ、里見義康の墓があります。もと持仏堂と称し義康から寺領4貫800文を寄進され、江戸時代は15石の朱印地を幕府から与えられていました。境内には中世の石像や陽刻五輪塔もみられます。また著名人の墓も多く、館山藩の儒学者乙幡雲廊や、沼出身の藩絵師川名楽山、函館五稜郭の戦いで戦死した木下晦蔵、東京高等商業学校長坪野南陽などが知られています。

◇交通 JRバス神戸回り上真倉下車徒歩5分

(6)鹿島堀跡(上真倉) 

 館山城の城壕として構築されたもので、里見義康のとき関ヶ原合戦の功として常陸国鹿島で3万石を加増され、その際鹿島の領民が普請したと伝えられています。堀の遺構は、天王山から御霊山を巡るように残されている堀跡と、城山東南にある泉慶院の池がその一部で、今も見ることができます。また発掘調査によって城山公園駐車場の位置に幅の広い堀跡が確認されています。天王山の北に新堀の字名もあり、城山の東南方向から北側までぐるりと水堀がとりまいていたと推定されています。慈恩院入口には鹿島堀の由来碑が建てられています。

◇交通 JRバス神戸回り相生橋下車徒歩5分、上真倉下車徒歩5分

(5)館山陣屋跡(館山) 

 慶長19年に里見氏の館山藩が廃藩となり、館山城も破却された後、しばらく藩はおかれませんでしたが、天明元年(1781)に旗本稲葉正明が安房国で加増をうけ1万石の大名になると館山藩を立て寛政3年(1791)に館山城南麓に陣屋を構えました。現在御屋敷と呼ばれているところで、当時の区画が残され、稲葉氏の霊を祀った貴美稲荷があります。明治4年の廃藩置県、館山県の木更津県への統合で廃されました。

◇交通 JRバス・日東バス城山公園前下車徒歩10分

(4)館山城跡(館山)  

 天正18年(1590)に里見義康が居城とし、子の忠義が慶長19年(1614)に伯耆国へ移されるまでの間里見氏の本城だったところで、城下町の建設も進められ、近世大名里見氏のシンボルでした。城山の東にある天王山・御霊山・消滅した大膳山なども城郭の一部で、御霊山の東側には堀跡がはっきりと残されています。城山は戦時中に高射砲陣地とされたため、山頂が7mも削られ、周辺も著しく破壊されていますが、御殿跡や鹿島堀跡が発掘調査され、少しづつ当時の様子が明らかになっています。義康が本城とする以前には父義頼が岡本城の支城として利用し、またそれより以前の遺物である室町時代の五輪塔が、東南・西南の山裾で多数確認されています。

◇交通 JRバス・日東バス城山公園前下車徒歩1分

(3)北下台(館山) 

 城山の北にある小丘を北下台(ぼっけだい)といい、明治大正の頃は館山公園と呼ばれ、景勝地として親しまれていたところです。頂上には金刀比羅神社があり、周辺には明治水産業の先覚関沢清明の碑をはじめ、数多くの記念碑が建てられています。関沢碑の側には関沢が捕獲したという鯨の頭骨(約3m)がありましたが、昭和の初め頃に湮滅してしまいました。鏡ヵ浦を見下す位置には大正6年に航路標識として建てられた正木燈も残されています。台地の南側には、安房三十四観音第三十一番札所の観音堂があり大層賑わったそうですが、関東大震災後仲町の長福寺に移されています。境内には江戸後期の画工で沼西ノ浜出身の勝山調の句碑があります。また神社裏に巨岩の露頭があり、そこには室町時代のヤグラがみられ、内部には5基の五輪塔が浮彫りにされています。江戸時代には真倉村の一部で、無民戸、村高六石の北下台村があり、六石台とも呼ばれていました。

◇交通 JRバス・日東バス館山小学校前下車徒歩5分

(2)館山神社(館山)

 館山神社は大正12年の関東大震災で倒壊した町内の神社を合祀して、昭和5年(1930)に新たに創建された神社です。もとは新井と下町の鎮守であった諏訪神社と中町・上町の鎮守であった諏訪神社、上須賀の稲荷神社・八坂神社、楠見の厳島神社、御屋敷の稲荷神社として崇敬されていました。境内の狛犬は石彫家俵光石の作品です。

◇交通 JRバス・日東バス城山公園前下車徒歩2分

(1)三福寺(館山)

 浄土宗の寺院で、文明3年(1471)の創建と伝えられます。本尊の木造阿弥陀如来立像は鎌倉時代の作で、快慶様の本格的な鎌倉彫刻です。また境内参道脇には、江戸後期の学者で新井出身の新井文山の碑があります。文山は江戸の昌平黌に学び後に館山藩に出仕し、郡奉行などを務めました。その他、江戸後期の館山の俳人伊串歌夕の碑や、明治時代の石彫家俵光石の作品である石造釈迦如来像があります。光石は楠見の出身で、東京美術学校で高村光雲に師事、多くの作品を市内に残しています。

◇交通 日東バス館山航空隊行東電前下車徒歩3分