(16)延命院(腰越) 

 真言宗の寺院で「御嶽山延命院」といい、本尊は木造地蔵菩薩立像です。また朽損がはげしいため、面貌など当初の姿は明らかではありませんが、平安時代の作と考えられる木造菩薩立像も安置されています。境内の墓地内の岩塊にはやぐらがつくられ、奥壁には中世のものと考えられる磨崖の五輪塔が2基立体的に浮き彫りされています。

◇交通 日東バス鴨川駅行・千倉平館行稲村下車徒歩5分

(15)箱橋と滝川用水(腰越) 

 山名川・竹原川の水を集め、満々と水を湛えている滝川堰は腰越と山本の境にあり、現在も水田を潤しています。滝川堰は宝永年間、北条藩屋代家の用人川井藤左衛門によってつくられ、それとともに滝川用水もひかれたとされています。水は国分村内の溜池にためられ、国分村、上野原村・新宿村・高井村の4か村で共同利用したそうです。この堰は幕末に箱形の水門としたため、この堰にかかる箱橋の名称もこれに由来したものと考えられています。

◇交通 日東バス鴨川駅行・千倉平館行稲村下車徒歩1分

(14)岩井柵横穴古墳群(稲)

 稲の集落の南にある丘陵に、16基の横穴古墳があります。丘陵の西側斜面を掘りこみ、2段にわたって並列していますが、これは古墳時代後期の地方豪族の墓で群集することを通例とし、共同墓地としての性格をあらわしています。また近くの稲村城跡である城山にも、計13基の横穴古墳があります。この一帯は千葉県内でも近隣の平久里・丸山川流域とともに、横穴古墳が濃密に分布する地域として知られています。

◇交通 日東バス鴨川駅行・千倉平館行稲村下車徒歩25分

(13)稲村城跡(稲) 

 里見氏初代義実が文明18年(1486)に築城をはじめたと伝えられ、五代義豊までが居城とした里見氏の城跡です。三代義通のあと国政を執った義通の弟実蕘を義通の子義豊が攻め、その義豊は実蕘の子義蕘に討たれるという、一族間の争いを演じた城で、天文3年(1535)に廃城になったといいます。曲輪・土塁・堀切などの城郭遺構が発掘調査によって確認され、周囲には「堀ノ内」・「要害」・「箕輪」などの地名も残っています。城跡の周囲からは、宝篋印塔2基が出土し、城跡北方尾根の崖下には五輪塔が安置され、そこから元応元年(1319)銘の板碑が出土するなど、稲村城跡の地の歴史的一端を垣間見せる資料が多数あります。また、城跡東南には「水神の森」とよばれる小叢林があり、義豊の首を埋めたところと伝えられています。

◇交通 日東バス鴨川駅行・千倉平館行稲村下車徒歩20分

(12)国分寺(国分) 

 聖武天皇の天平13年(741)、国ごとに国分寺をおく詔がだされましたが、安房は天平宝字元年(757)に上総から分立した国のため、安房国分寺の創建はそれ以降の奈良時代末のことと考えられます。発掘調査の結果金堂基檀が確認され、平瓦・軒丸瓦などのほか、三彩獣脚が出土しています。この北方約900mのところには、「アマンボウ」という地名が残り、「尼坊」とも考えられることから国分尼寺の推定地のひとつになっています。現在の国分寺は真言宗の寺院で、山門をぬけると参道の傍らに当時用いられた円形の楚石が置かれ、本道横には南北朝時代の五輪塔があるほか、山門入口には「孝子伴直家主の碑」や「安房三義民の墓」があります。

◇交通 日東バス鴨川駅行・千倉平館行国分寺下車徒歩1分

(11)三義民刑場跡(国分)

 正徳元年(1711)北条藩屋代氏の領内で、藩の用人川井藤左衛門を訴えた万石騒動がおこりました。藤左衛門は灌漑用水をひき、米の収穫の増加をはかるなど財政の立て直しをはかりましたが、その諸改革は早急極端にすぎ、農民を無賃で使役し年貢の莫大な増徴をはかるなどしたため、ついに一揆にまで発展しました。農民は幕府に越訴した結果勝訴しましたが、その間国分村長次郎・薗村五左衛門、湊村角左衛門の三名主が処刑され、その供養塔が国分寺の境内に建てられています。三人の名主は三義民とよばれてたたえられ、年忌法要が続けられています。

◇交通 日東バス鴨川駅行・千倉平館行萱野口下車徒歩6分

(10)孝子塚(国分) 

 『続日本後記』巻五の承和元年(836)12月7日の条に、安房郡の人伴直家主の孝心を賞して一生の年貢を免じ、村里の入口の門に善行を表章するという記事があります。石工武田石翁は家主の事跡を調べて、この塚を家主の墓と推定し、嘉永3年(1850)自ら碑を刻み、その遺徳を顕彰しています。さらに翌年国分寺境内にも同様の碑をたてています。孝子塚はその後整備が進められ、大正3年頃現在のような形になったといわれています。市の指定史跡。

◇交通 日東バス鴨川駅行・千倉平館行萱野口下車徒歩12分

(9)長尾藩士邸跡(国分)

 萱野は航空写真でもわかるように、森の中が道によって整然と区割りされています。これは、明治初期に館山を中心に4万石を領した長尾藩本多氏が、士族邸宅として開発したもので、当時の武家屋敷の面影を色濃く残しています。明治維新の改革の中で、将軍徳川慶喜は駿河・遠江・三河の一大名となり、それまで駿河国田中領(静岡県藤枝市)に領地を持っていた本多正訥は、安房に領地を持つようになりました。しかし、明治4年(1871)の廃藩置県によって武家社会は消滅し、多くの藩士は東京や藤枝などに出ていき、屋敷跡だけが残りました。一隅に本多氏の鎮守稲荷神社があります。

◇交通 日東バス鴨川駅行・千倉平館行萱野口下車徒歩8分

(8)御嶽神社・金乗院(山本)

 御嶽神社は山本のうち山本地区の氏神で、日本武尊を祭神としています。本殿正面にある向拝に刻まれた龍などの彫刻は、後藤三次郎恒俊の作になるものです。三次郎は、市指定文化財の「鶴谷八幡神社の百態の龍」などを手掛けた後藤義光の師にあたります。また近くの金乗院にも、三次郎の作になる龍の彫刻があり、その木目を生かした技法は、義光に脈々と通じていることを感じさせます。金乗院の彫刻は同寺の古文書から嘉永4年(1851)の作とわかり、三次郎の活躍した時代が推し測れます。

◇交通 日東バス鴨川駅行・千倉平館行普及所前下車徒歩17・8分