(7)峰古墳(山本)

 この古墳は梨畑の開墾中に、首飾りや大刀と思われる鉄片、多数の土器が出土したことから発見されたもので、すでに原形は消滅し、規模も明らかではありませんが、円墳であったということは確認されています。首飾りは勾玉を中心として、小さな勾玉・丸玉・管玉を組み合わせたもので、それぞれ17個・14個・2個が確認されています。なかでも丸玉はガラス製で、玉の表面に2色以上のガラスを熔着して斑文などをあらわしていることから、「トンボ玉」ともよばれるもので、古墳時代の工芸技術を考える上でも大変重要なものです。

◇交通 日東バス鴨川駅行・千倉平館行国分寺前下車徒歩35分

(6)三善寺(山本)

 浄土宗の寺院で、昭和28年に稲の稲村院とともに大網の大巌院に合併されていますが、今も木造如来坐像と銅造観音・勢至菩薩立像が伝存しています。木造如来坐像は、頭と躰幹部が残されるのみですが、藤原様式を残す鎌倉時代の像です。銅造観音・勢至菩薩立像は善光寺式阿弥陀三尊の脇侍で、南北朝時代の制作と推定されますが、残念ながら中尊は失われています。境内には、中世の宝篋印塔の笠も残っています。

◇交通 日東バス鴨川駅行・千倉平館行滝川口下車徒歩9分

(5)木幡神社と滝川のビャクシン(山本)

 木幡神社は、天忍穂耳命を主神に三柱が祭神としてまつられています。神社の縁起によれば、大化改新以前中央政権によって地方官として任命された大伴氏一族が安房に着任した際、平野の中央に館をたて、ここを館野原といい支配の中心とし、当時着任地に氏神をまつる風習があり、それが木幡神社の起こりだとされています。別当は今は廃寺となった永泉寺が務めていました。滝川のビャクシンは神社の北方の河岸段丘上にあり、神社の神樹としての伝承をもち地域の人々に愛護され、市の天然記念物に指定されています。目通り樹周4m30cm、樹高10m35cm、枝下2m70cmの巨樹で、形のよい樹冠を形成しています。樹令は800年前後と推定されています。

◇交通 日東バス鴨川駅行・千倉平館行滝川口下車徒歩10分

(4)源慶院(安布里)

 天正元年(1573)に里見義弘の娘佐与姫によって創建されたと伝えられる、曹洞宗の寺院です。本尊の木造地蔵菩薩半跏像は室町時代の作で、そのほかに南北朝時代に盛んにつくられた法衣垂下形式の木造地蔵菩薩坐像があります。幕府代官中村吉繁の元和2年(1616)寺領充行状が伝存しているほか、元和4年の寺領検地帳もあり、15石の朱印地が与えられていたことがわかります。

◇交通 日東バス鴨川駅行・千倉平館行普及所前下車徒歩14分

(3)日本刀鍛錬(安布里)

 技術保持者石井昌次(号昭房)氏は、県の無形文化財に指定されています。昭和9年日本刀鍛錬伝習所へ入門。相伝備前の鍛法を研究して、高度な技法を体得し、伊勢神宮・香取神宮・安房神社などへの奉納刀をはじめ、数多くの刀剣を制作しました。石井氏の刀剣は、鎌倉時代中期の備前一文字助真風の重花丁字乱の刃文で、山桜の咲き匂う感じに似た華麗なものです。

◇交通 日東バス鴨川駅行・千倉平館行コミュニティーセンター前下車徒歩10分

(2)大巌院(大網)

 「仏法山大網寺大巌院」という浄土宗の寺院で、慶長8年(1603)に里見義康の帰依によって、雄誉霊巌上人を開山として創建され、安房における浄土宗触頭の寺院とされました。本尊は市指定有形文化財の木造阿弥陀如来坐像で、山門を入って左手にある玄武岩製の四面石塔と水向は、県の有形文化財に指定されています。元和10年(1624)の建立で、高さ約2m、幅約50cmの石柱の四面に「南無阿弥陀仏」の名号を和風漢字・インド梵字・中国篆字・朝鮮ハングルの4か国語で刻んでいるのが特色となっています。他にも市指定有形文化財の慈恩大師画像、十二因縁論など数多くの文化財があり、境内には雄誉上人の墓や元和10年の石燈籠もあります。里見忠義以降江戸時代を通して、42石の寺領が与えられていました。

◇交通 JRバス白浜行(豊房経由)青柳下車15分

(1)舎那院の磨崖仏(大網)

 舎那院は真言宗の寺院で、南方には大日山とよばれる山があります。その凝灰質砂岩の崖面に、高さ196cm、膝張150cmの大日如来坐像(市指定有形民俗文化財)が彫られています。この像は信者によって彫られたもので、信仰の対象として土地の人々の間に民族的な伝承も残されています。磨崖仏は、千葉県内でも数が少なく、極めて珍しいものです。

◇交通 日東バス鴨川駅行・千倉平館行コミュニティーセンター前下車徒歩18分

館野地区略年表

西暦 年号 事項
3世紀頃 -弥生時代- 国分に集落ができる
5~6世紀頃 山本の峰古墳がつくられる
6~7世紀頃 稲に横穴古墳群がつくられる。また山本の青山で古代祭祀が行われる
757年 天平宝字1年 安房国が上総国から分立する。この頃、国分に安房国分寺が建立される
9~10世紀頃 広瀬・稲・国分などに条里制が施工される
836年 承和3年 館野原の人、伴直家主の孝心が朝廷より賞され、生涯の租税を免除される
1200年 正治2年 群房荘のうち広瀬郷が、京都上賀茂神社に寄進される
1319年 元応1年 稲の城山に板碑が建立される
1390年 康応2年 この頃、広瀬郷北方が安房国安西八幡宮領となる
1533年 天文2年 里見義豊、叔父実堯を稲村城で討ち、国主となる
1533年 天文3年 里見義豊、実堯の子義堯に討たれる
1597年 慶長2年 里見義康、家臣石井駿河守に稲村で所領と屋敷を与える
1603年 慶長8年 里見義康、大巌院を創建し雄誉霊巌上人を開山に招請する
1606年 慶長11年

里見忠義、使番石井駿河守に稲村で200石、百人衆大野太郎兵衛に広瀬村で50石を所領として充行う

1616年 元和2年 江戸幕府、安布里村の源慶院へ15石、山本村の金乗院へ4石のほか、大網の大厳院、稲の玉竜院などへ寺領を寄進する
1638年 寛永15年 大網村と安布里村の一部を除く現在の館野地区が北条藩領となる
1710年 宝永7年 この頃、北条藩用人川井藤左衛門、滝川用水を浚渫する
1711年 正徳1年 北条藩領の農民が一揆をおこし、国分村長次郎をはじめ三人の名主が処刑される(万石騒動)
1712年 正徳2年 万石騒動により北条藩は廃藩となり、三義民の墓石が建立される
1850年 嘉永3年 武田石翁、伴直家主を顕彰し、孝子塚に石碑を建立する
1851年 嘉永4年 後藤三次郎恒俊、山本金乗院に向拝彫刻を施す
1870年 明治3年 長尾藩、国分村萱野に藩士邸を建設する
1873年 明治6年 山本・大作・滝川の3か村、連合して龍淵寺に山本小学校を設立する
1874年 明治7年 稲村と加戸村が合併して稲村となる
1877年 明治10年 山本村・大作村・滝川村、合併して山本村となる
1889年 明治22年 国分村他6か村が合併して館野村となる
1926年 大正15年 北条館野耕地整理組合、灌漑用水大正池を完成させる
1954年 昭和29年 館野村、館山市と合併する

広瀬(ひろせ)

上乙女(カミオトメ) 下乙女(シモオトメ) 株田(カブダ) 上楚里(カミソリ) 下楚里(シモソリ) 下中川(シモナカガワ) 上中川(カミナカガワ) 金ケ坪(カナガツボ) 湯呑田(ユノミダ) 苅分(カリワケ) 西添(ニシゾエ) 戸井場(トイバ) 杉ノ間(スギノマ) 上法久(カミホウク) 下法久(シモホウク) 下沢(シモザワ) 北狐塚(キタキツネヅカ) 南狐塚(ミナミキツネヅカ) 上沢(カミザワ) 下堀間(シモホリマ) 上堀間(カミホリマ) 南土婦(ミナミドフ) 北土婦(キタドフ) 北砂押(キタスナオシ) 南砂押(ミナミスナオシ) 上伊田原(カミイダハラ) 下伊田原(シモイダハラ) 古宿(フルヤド) 中新田(ナカシンデン) 大舞台(オオブタイ) 北大渕(キタオオブチ) 南大渕(ミナミオオブチ) 島合(シマアイ) 小埋田(コマイダ) 大埋田(オオマイダ) 大東(オオヒガシ) 前東(マエヒガシ) 南三ツ塚(ミナミミツヅカ) 北三ツ塚(キタミツヅカ) 小橋(コバシ)

 北は三芳村に接し、平久里川支流の山名川流域に位置します。地名は、流砂の堆積した広い瀬によるものとされ、地内東部の水田地帯には北方の九重地区江田から続く条里跡が確認され、上楚里・下楚里・金ケ坪の地名が残り古代から開発されていた地域であることがわかります。広瀬の地名は、正治2年(1200)の文書に「群房荘広瀬郷」としてでてきます。このことから広瀬が群房荘という荘園の一部であったことがわかります。広瀬郷は現在の広瀬や三芳村府中を含む周辺の広い範囲を指した呼称だったようで、この年荘園領主の京都の公家吉田経房から京都の上加茂神社に寄進されました。江戸時代初期の里見氏治政下では、百人衆之頭安西中務や百人衆の本間三右衛門などが知行し、村高310石余。用水は江田村、腰越村と共用で御庄の百入り堰から取水していました。明治元年の村高は420石余。神社は八幡神社があり、中世宝篋印塔の笠や力石などがあります。寺院は釈迦寺があり、室町時代の木造釈迦如来坐像を本尊としています。

腰越(こしごえ)

下ノ台(シモノダイ) 川田(カワタ) 上ノ台(ウエノダイ) 宇戸沼(ウドヌマ) 兎田(ウサギダ) 川間(カワマ) 六本松(ロッポンマツ) 狐塚(キツネヅカ) 清水尻(シミズジリ) 西ノ下(ニシノシタ) 越沢(コシザワ) 木女(キメ) 崩(クズレ) 御嶽(ミタケ) 北条(ホウジョウ) 松ノ木(マツノキ) 大原(オオハラ) 小谷(オダニ) 下タ川(シモタガワ) 梅田(ウメダ) 長光寺(チョウコウジ)

 古墳時代から集落が発達したところで、付近の田畑で多数の土師器の破片をみつけることができます。現在の腰越青年館の場所には狐塚古墳がありました。この狐塚は鎌倉期に狐の霊を祀ったという信仰があります。また天文3年(1535)には、この付近が里見義堯と里見義豊の激戦のあった古戦場になったともいいます。江戸時代初期の里見氏治政下では里見家一門の正木源七郎が知行し、村高300石余。明治元年には278石余。神社は御嶽神社があり神像3体を祀るほか、境内には台部落にあったといわれる摂社熊野宮があります。寺院は延命院があるほか、現在では廃寺になりましたが木女に円塔院という真言宗の寺院があり、跡地に残る墓地内には「天文」の銘のある比較的大形の五輪塔が1基あります。