稲(いな)

下根(シモネ) 寺ノ下(テラノシタ) 貴船(キフネ) 中ノ坪(ナカノツボ) 川崎(カワサキ) 堀ノ内(ホリノウチ) 弁財天(ベンザイテン) 江田原(エダハラ) 壱町田(イッチョウダ) 古屋敷(フルヤシキ) 田中橋(タナカバシ) 土器免(ドキメン) 岩ケ崎(イワガサキ) 西柵前(ニシザクマエ) 西柵(ニシザク) 鎮守(チンジュ) 下谷(シタヤツ) 竹尾(タケオ) 岩井柵(イワイサク) 沼田(ヌマタ) 鳥打(トリウチ) 天沼(アマヌマ) 奥野(オクノ) 堰谷(セキヤツ) 大台(オオダイ) 青山(アオヤマ) 細田(ホソダ) 角田(スミダ) 芋洗(イモアライ) 城山(シロヤマ) 壱ノ坪(イチノツボ) 弐ノ坪(ニノツボ) 参ノ坪(サンノツボ) 四ノ坪(シノツボ) 五ノ坪(ゴノツボ) 六ノ坪(ロクノツボ) 七ノ坪(シチノツボ) 八ノ坪(ハチノツボ) 九ノ坪(クノツボ) 拾ノ坪(ジュウノツボ)

 江戸時代には稲村・加戸村の2か村にわかれており、明治7年に両村が合併しました。弥生時代から集落がみられる地域で、岩井柵の丘陵部斜面には古墳時代の横穴古墳が群集しています。また一ノ坪~拾ノ坪・中ノ坪・壱町田など条里を示す地名が残っており、律令時代には条里制がおこなわれていました。城山周辺には中世の五輪塔や宝篋印塔、元応元年(1319)銘の板碑が出土するなど、豪族が拠点とした地域であったことがわかります。城山は戦国時代に稲村城として里見氏の初期の居城となりましたが、五代義豊のときには一族の内紛の場となっています。江戸時代初期の里見氏治政下では、稲村は使番十人衆の石井駿河守、廿人衆之頭本間宮内などが知行し村高460石余、加戸村は使番十人衆の正木五郎左衛門が知行し村高は95石余。明治元年にはそれぞれ276石余・98石余。神社は貴船神社、愛宕神社があり、貴船神社には石棒がまつられ、昭和10年頃まで神楽がおこなわれていました。寺院は城山の西の外郭に朱印地2石余の玉龍院があるほか、城山の西側に稲村院、東側に西柵堂があり、玉龍院の境内には寺子屋の筆子が建立した筆子塚があります。

国分(こくぶ) 

御園(ミソノ) 本郷(ホンゴウ) 橋向(ハシムコウ) 吉野(ヨシノ) 久保田(クボタ) 美ノ輪(ミノワ) 館ノ原(タテノハラ) 山ノ神(ヤマノカミ) 市ノ坪(イチノツボ) 高井川田(タカイカワダ) 高井下川(タカイシモカワ) 高井孝子塚(タカイコウシヅカ) 高井松ノ木(タカイマツノキ) 大塚(オオツカ) 北条三枚田(ホウジョウサンマイダ) 高井塚ノ下(タカイツカノシタ) 高井腹巻(タカイハラマキ) 北条茅野(ホウジョウカヤノ) 北条五反田(ホウジョウゴタンダ) 北条前谷(ホウジョウマエヤツ) 北条寿合(ホウジョウスゴウ) 北条拾谷(ホウジョウジュウヤツ) 下住吉(シモスミヨシ) 榎坪(エノキツボ) 上住吉(カミスミヨシ) 堰(セキ) 北郷(キタゴウ) 仲郷(ナカゴウ) 廣町(ヒロマチ) 八反目(ハッタンメ) 南郷(ナンゴウ) 荒戸(アラト) 天神前(テンジンマエ) 瀬戸田(セトダ) 萱野(カヤノ)

 弥生時代から集落が営まれ、合口壺棺などが出土しています。地名は奈良時代この地に安房国分寺が建立されたことに由来するといわれ、国分から北へ延びて三芳村府中にいたるこの地域は、古代安房の中心地として栄え、周辺には条里跡が残り古くから開発された地域であることがわかります。『続日本後記』にみえる伴直家主は萱野の出身といわれ、その住まいが館野原にあったことが、「館野」の地名の由来ともいわれています。江戸時代初期の里見氏治政下では、里見家一門之頭正木大膳が知行し村高309石余。宝永年間北条藩屋代氏の用人川井藤左衛門が、滝川から国分の溜池まで灌漑用水を引いていますが、藤左衛門の圧政に対して農民は越訴におよび万石騒動がおき、屋代氏の支配を排除しました。明治元年の村高は244石余。明治3年には長尾藩本多氏が萱野に士族邸を建設しています。神社は諏訪神社、寺院は国分寺があります。国道128号から萱野へ入る三差路の橋際には、寛永10年(1798)の道標があります。

山本(やまもと)

六反目(ロクタンメ) 引田(ヒキタ) 矢矧(ヤハギ) 家ノ下(イエノシタ) 弘房(コウボウ) 溝合(ミゾアイ) 沢ノ町(サワノマチ) 西ノ下(ニシノシタ) 竹ノ下(タケノシタ) 妙見(ミョウケン) 中入(ナカイリ) 雪車免(ソリメン) 関谷(セキヤツ) 新房野(シンボウヤ) 登鎧(トガイ) 西山(ニシヤマ) 作畑(サクバタ) 田代(タシロ) 砂道(スナミチ) 宮ノ尾(ミヤノオ) 長見(ナガミ) 堀ノ内(ホリノウチ) 唐木作(カラキサク) 広作(ヒロサク) 北作(キタサク) 芦野(アシノ) 石田(イシダ) 青木町(アオキマチ) 長尾(ナガオ) 榎坪(エノキツボ) 古屋敷(フルヤシキ) 清水作(シミズサク) 蕨台(ワラビダイ) 鳶石(トビイシ) 七曲(ナナマガリ) 青山(アオヤマ) 下洲垂(シモスダレ) 上洲垂(カミスダレ) 大畑台(オオバタケダイ) 洞田(ドウダ) 峰(ミネ) 下並松(シモナラマツ) 上並松(カミナラマツ) 道ノ下(ミチノシタ) 桜木(サクラギ) 森ノ下(モリノシタ) 笹尾(ササオ) 笹尾谷(ササオヤツ) 泉作(イズミサク) 恩田谷(オンダヤツ) 西ノ作(ニシノサク) 大萩(オオハギ) 亀井(カメイ) 新道渕(シンドウブチ) 和田前(ワダマエ) 和田前谷(ワダマエヤツ) 越沢(コシザワ) 内ケ宿(ウチガヤド) 大多羅(オオタラ) 宮田(ミヤタ)

 山本の地名は山のふもとに位置することに由来するといわれます。嘉吉年間主君神余氏を滅ぼした山下左衛門尉定兼が、安房郡を山下郡と改めたといわれますが、山下郡の名は山本からおこったとされています。江戸時代には山本村・大作村・滝川村の3か村にわかれていましたが、明治10年に山本村に合併しました。丘陵部の峰にあった円墳からは首飾りが出土し、さらに丘陵南方奥の青山からは、古代祭祀に使用された手づくね土器が出土しています。また小原氏経塚や堀之内砦跡など中世の遺跡が残り、古くから豪族の拠点になった地域だと考えられます。江戸時代初期の里見氏治政下では、山本村は大家老の山本清七が知行し村高752石余、大作村は足軽小頭の金井筑後が知行し88石、滝川村は奏者の関神平が知行し75石余。明治元年にはそれぞれ、681石余・71石余・83石余になっています。神社は御嶽神社、白幡神社、木幡神社があります。寺院は朱印地4石の金乗院や、龍淵寺、三善寺、竜音院のほか、石田の地蔵堂、大萩の阿弥陀堂などがあります。地蔵堂には文明13年(1481)、鹿島の恵日作という木造地蔵菩薩像があり、半跏思惟の像容をした貴重な作例です。また龍淵寺には中世の石仏が、その裏山には寛永4年(1628)の銅製懸仏もあります。西山の崖面には十九夜念仏講の如意輪観音像、滝川の石田には文政5年の石橋供養塔など多数の石造物もみられます。館野小学校は歴史が古く、山本小学校と称した学制発布以来の教育資料が多数残っています。

安布里(あぶり) 

西ノ原(ニシノハラ) 前田(マエダ) 五反田(ゴタンダ) 青木田(アオキダ) 西五反田(ニシゴタンダ) 昭田(ショウダ) 和田(ワダ) 船免(フナメン) 東五反田(ヒガシゴタンダ) 上青木田(カミアオキダ) 下青木田(シモアオキダ) 下曲縄(シモマガナワ) 上曲縄(カミマガナワ) 下袴(シモハカマ) 上袴(カミハカマ) 下反免(シモタンメン) 上反免(カミタンメン) 戸貝(トガイ) 関ノ谷(セキノヤツ) 西和田(ニシワダ) 増野谷(マスノヤツ)

 「あぶり」という地名は、南北朝期の安房国守護代大喜光昌の書状に八幡宮神領の「阿布里保馬角村」としてはじめてみえ、これは現在の安布里付近だと考えられています。江戸時代初期の里見氏治政下では、里見氏の直接支配地で村高380石余。明治元年の村高は420石余。江戸時代中期以降、北条村のうちに76石余の出作がありました。神社は八坂山神社がありますが、本来は八坂神社であり、大網の山神社が火災で焼失したあと明治44年に合祀し八坂山神社となりました。関東大地震で倒壊し大正14年に再建されましたが、参道と拝殿の位置が現在づれているのはそのためです。寺院は源慶院と蓮幸寺があり、蓮幸寺には里見氏家臣の田山左衛門介正常の墓があります。また3石の朱印地をうけた長楽寺もありましたが、大正13年源慶院に合併されました。

大網(おおあみ) 

石田(イシダ) 半ノ田(ハンノタ) 仲台(ナカダイ) 大芝(オオシバ) 風畑(カザハタ) 横嶺(ヨコミネ) 水手田(ミズテダ) 田向(タムカイ) 清水谷(シミズヤツ) 南作(ミナミサク) 大ミタ(オオミタ) 増野谷(マスノヤツ)

 館山平野の南端に位置する小さな集落で、その東側の丘陵には横穴古墳群がみられます。江戸時代初期の里見氏治政下では里見氏の直接支配地で、村高は138石余。明治元年には170石余。江戸中期以降は北条村に44石余の出作がありました。明治時代まで山神社がありましたが、火災で焼失したため安布里の八坂山神社に合祀されています。寺院は大巌院、舎那院があります。また大網の山上には、戦時中に高射砲やレーダーを備えた要塞もつくられました。

館野地区

 シリーズ6回目として館野地区を取り上げました。館山平野の南東部に位置し、奈良時代には安房国分寺が置かれ、安房の中心地として開発が行われた地域です。館野という地名は、承知3年(837年)孝心を朝廷から賞され終身租税を免じられた伴直家主の居があったといわれる地が、館野原と称されているのに因んだものとされています。

 館野地区は、肥沃な沖積平野に農業を営む純農村地域ですが、最近は宅地化も進み、市域の8.2%にあたる8.99k㎡の面積に、人口が3,349人で市全体の6%の人が生活しています。

 集落は、北部・西部の平野部に展開しています。縄文時代の遺跡は海進の影響で南東部の丘陵上にみられるだけで、本格的な集落の展開は弥生時代以降のことになります。奈良時代には安房国分寺が置かれ、中世には里見氏の居城となった稲村城が築かれるなど、長い間この一帯は安房国の中枢となった地域です。江戸時代には、大網・安布里・山本・滝川・大作・国分・稲・加戸・腰越・広瀬の10か村がありました。正徳元年(1711年)には北条藩屋代氏の領内で万石騒動がおきています。また明治維新の改革の中で、長尾藩本多氏が萱野に士族邸を建設しています。明治7年には加戸・稲の2か村が稲村となり、同10年には滝川・大作・山本の3か村が合併して山本村となりました。明治22年に7か村が合併して館野村が成立。館山市と合併するのは昭和29年のことです。

戸数のうつりかわり

旧町村名 天保 明治24年 世帯数
昭和35年 平成2年
大網 28 20 27 82
安布里 41 40 57 175
山本 山本 94 125 147 261
滝川 13
大作 15
国分 84 109 108 252
42 55 78 102
加戸 15
腰越 50 62 66 102
広瀬 58 57 63 85
合計 440 468 546 1,059