(7)船繫松跡(大戸)

 家号をタテ(館)という大戸の鈴木家の屋敷内に、昭和初期まで船繋松(ふなつなぎまつ)という大きな松がありました。昭和11年に倒れてしまいましたが、幹の太さは子供3人が手をつないだほどもあったという大木だったそうです。昔の子守唄に「南条・長田ヘトト買いに」という歌詞があったそうで、このあたりは海に沿った漁村だったともいいます。また昔は汐入川が鈴木屋の方へ蛇行していたといいますから、川舟を繋いだのかもしれません。なおこの周辺は、里見義頼の菩提寺光厳寺の寺領だったところです。

◇交通 JRバス豊房下車徒歩3分

(6)出野尾洞窟遺跡(出野尾) 

 小綱寺の裏手にある谷奥の海蝕洞穴で、縄文の貝塚と古墳時代の人骨・土器片などが発見されています。入口の幅約4m、奥行約7mの大きさで土砂が高く堆積しています。昭和29年に発掘調査され、その上層部から土師器・須恵器とともに人骨が、下層部が貝塚で縄文前期の土器が出土しています。貝殻の付着した縄文土器も発見されており、縄文時代にここまで海が入り込んでいたことがわかります。

◇交通 JRバス岡田口下車徒歩25分

(5)十三騎塚(出野尾)

 字十三塚にある直径2m、高さ50cmほどの小さな塚ですが、慶長19年9月9日の館山城落城にまつわる伝説が伝えられています。その4日後の9月13日、出野尾と佐野の境にある三ッ山で、改易された館山城主里見忠義の無念を思い、十三人の家臣が自害したというものです。これを佐野の千葉寺住職俊智法印が小綱寺に告げ、館山城の見える場所へ葬ったのが十三騎塚ということです。こうした類の十三塚は全国的によくみられるもので、十三仏信仰と関わりがあるようです。三芳村下滝田にも里見氏の内戦で討ち死した人を祀るという十三人塚があります。

◇交通 JRバス岡田口下車徒歩25分

(4)小網寺(出野尾)

 真言宗の寺院で金剛山小綱寺といい、不動明王を本尊とします。かつては密教道場として隆盛し、里見氏からは15石、江戸時代は幕府から25石の寺領を与えられていました。境内には安房国札三十四観音の三十二番札所にあたる観音堂があり、本尊の木造聖観音立像は平安時代のものです。また鐘楼には国の重要文化財に指定されている弘安9年の梵鐘があり、銘文にある「金剛山大荘厳寺」は小綱寺の古称といいます。大檀那として矢作助定・大田末延の名があり、製作者は物部国光という当時一流の鋳物師です。寺宝には県指定の密教法具21点があり、鎌倉時代のもので、横浜の金沢称名寺の開山審海ゆかりのものです。その他宝冠や絵画にも古いものが残されています。境内の法華谷には2基のヤグラがあり、中世の五輪塔と麿崖五輪塔がそれぞれ2基づつあって、弘法大師の修行跡と伝えられています。また下堂の裏山に経塚があり、かつて写経の入った経筒が出土したということです。

◇交通 JRバス岡田口下車徒歩20分

(3)千田城跡(西長田)

 館山湾まで見通す舌状台地上にあり、縄文から古墳期までの土器片が散布する千田遺跡もあります。この遺跡には黒曜石の破片が多いことに特色があります。千田城は長田城ともいい、安房上陸後白浜城に拠った里見義実が、稲村城へ移るまでの居城にしたと伝えられています。直線連郭式の小規模な城跡ですが、南陵との続きに堀切があり、中腹には中世の五輪塔群と「やぐら」の痕跡があります。堀切の下には一石宝篋印塔もあります。里見氏の本城が稲村城へ移転すると、里見家三代義通の子、長田河内守義房がこの城を賜り、子々孫々居住したということです。

◇交通 JRバス岡田口下車徒歩2分

(2)観音院(西長田)

 真言宗の寺院で杉本山観音院といい、安房国札三十四観音の三十三番札所になっています。本尊の聖観音立像と前立はともに平安時代の作で、藤原様式の古い仏像です。境内には中世の五輪塔や宝篋印塔の断石もあり、古い寺院であることがわかります。慶長11年には里見忠義から2石の寺領を寄進され、江戸時代も引き続き幕府から2石の朱印地を与えられていました。また観音堂向拝には昭和28年、後藤義光作の龍の彫刻があります。

◇交通 JRバス安房西長田下車徒歩2分

(1)谷遺跡(東長田)

 長田川の右岸河岸段丘上の、海抜25mにある古代祭祀遺跡です。古代の「まつり」が行われた跡で、6世紀末から7世紀前半にかけての須恵器や土師器、手捏ね土器、丸玉・勾玉・有孔円板などの土製模造品が出土しています。明治32年初代豊房村長安西甚右衛門宅地内で発見され、翌年『東京人類學会雑誌』に大野延太郎が報告しましたが、これがわが国における祭祀遺跡の学会報告の最初として知られています。

◇交通 JRバス安房西長田下車徒歩5分

豊房地区略年表

西暦 年号 事項
B.C.6000年 出野尾洞穴に人が生活をはじめる
7世紀頃 東長田・出野尾などで古代祭祀が行われる
12世紀頃 小網寺に経塚がつくられる
1156年 保元1年 金鞠氏、京都の保元の乱で源義朝に従い崇徳上皇を攻める
1238年 暦仁2年 金摩利太郎、将軍頼経に供奉し京都六波羅御所へ行列する
1286年 弘安9年 小網寺の梵鐘がつくられる
1365年 貞治4年 足利尊氏、長田保西方を鎌倉円覚寺へ寄進する
1369年 応安2年 安西太郎左衛門入道、長田保西方を押領する。関東管領上杉朝房、安房国守護結城直光に対し、同地を鎌倉円覚寺仏日庵へ返還させるように命じる
1405年 応永12年 丸孫太郎入道、円覚寺仏日庵領長田保西方を押領する
1560年 永禄3年 金鞠氏、長尾景虎(上杉謙信)の関東管領就任を祝して太刀を贈る
1574年 天正2年 千歳郷畠村の牛頭天王宮に鰐口が寄進される
1589年 天正17年 里見義康、家臣石井駿河守に神余郷で所領を加増する
1597年 慶長2年 畑村・東長田村などで太閤検地が行われる
里見義康、飯沼村を府中の宝珠院に寺領として寄進する
1606年 慶長11年 里見忠義、畑村で検地を行う
里見忠義、岡田村を紀伊国高野山西門院へ寺領として寄進する
1613年 慶長18年 里見忠義、神余村智恩寺を再興する
1614年 慶長19年 館山城落城の時、出野尾で13人の家臣が自刃すと伝える
1674年 延宝2年

山荻村出身の石井三朶花、水戸藩へ出仕。徳川光圀のもとで『大日本史』の編纂にあたる

1803年 享和3年 飯沼村字峰で白土の採掘がはじまる
元名村の石工武田石翁、山荻村福楽寺の宝塔を製作する
1855年 安政2年 神余村の和貝定文、私塾を開き子弟を教育する
1875年 明治8年 南条村より大戸村・作名村が分村する
1877年 明治10年 山萩村と永代村が合併して山萩村となる
1880年 明治13年 畑の石井喜右衛門・山川吉五郎等、市郷の山奥より水を引き、越地原の灌漑用水路を竣工させる
1889年 明治22年 東長田・西長田・出野尾・岡田・大戸・南条・飯沼・古茂口・山荻・作名・畑・神余の各村、合併して豊房村となる
1907年 明治40年 山荻・大戸の尋常小学校を合併し、豊房尋常小学校とする
1954年 昭和29年 豊房村、館山市と合併する

神余(かなまり)

鴨田(カモダ) 鍛冶屋前(カジヤマエ) 下大地(シモオオチ) 原(ハラ) 温井(ヌクイ) 久所(グジョ) 神割(カミワリ) 平松(ヒラマツ) 台田(ダイダ) 小河田(オガワダ) 箱沢(ハコサワ) 塚越(ツカゴシ) 白子(シラコ) 掠論樹(ムクロンジュ) 木留場(キドメバ) 妙野(ミョウノ) 平田(ヒラタ) 平田原(ヒラタハラ) 和田(ワダ) 南山田(ミナミヤマダ) 陽地(ヨウチ) 雁谷場(カリヤバ) 靭ケ谷(ウツボガヤツ) 大台(オオダイ) 大作(オオサク) 勝中(ショウチュウ) 馬押場(ウマオシバ) 細田(ホソダ) 松木田(マツキダ) 角助(カクスケ) 安房田(アワダ) 江田(エダ) 権畑(ゴンバタ) 御蔵山(ミクラヤマ) 北沢(キタザワ) 志婦里(シブリ) 外志婦里(ソトシブリ) 栗ノ前(クリノマエ) 池尻(イケジリ) 畑ケ中(ハタケガナカ) 岩崎(イワサキ) 前作(マエサク) 大高尾(オオタカオ) 揚橋(アゲバシ) 鬼ケ作(オニガサク) 山下(ヤマシタ) 池田(イケダ) 土橋(ドバシ) 萱渡(カヤト) 山口(ヤマグチ) 竹ノ浦(タケノウラ) 椎木山(シイノキヤマ) 狩間沢(カリマザワ) 葉崎(ハザキ) 鍛冶屋畑(カジヤバタ) 道中畑(ドウチュウバタ) 蔵間沢(クラマザワ) 畑(ハタ) 田間道(タカンドウ) 大倉(オオクラ) 大久保(オオクボ) 相ノ沢(アイノサワ) 南亀木(ミナミカメキ) 久保畑(クボバタ) 北亀木(キタカメキ) 加藤原(カトウバラ) 宮ノ作(ミヤノサク) よしケ作(ヨシガサク) 大楠(オオグス) 奥山(オクヤマ)

 神余の地名は安房神社の神戸郷の余戸が住んだことによるといわれ、平安時代の終わり頃から在地土豪の神余氏が活躍し、保元物語や吾妻鏡に登場します。神余小学校の北東隣には神余城跡があります。巴川上流域に位置し、市内最大の広さを持つ地区ですが、山がちで大工・左官など建築業を営む家が多くあります。江戸時代初期の里見氏治政下では、里見氏の直接支配地で、村高は908石余。明治元年には1135石余。神社は日吉神社、寺院は自性院のほか、智恩寺、原の堂、大高尾の堂があります。

畑(はた)

立石(タテイシ) 高畑(タカバタケ) 宮丸(ミヤマル) 川坂(カワザカ) 上ノ台(ウエノダイ) 西ノ崎(ニシノサキ) 柚ノ木(ユズノキ) 吉野(ヨシノ) 白首(ビャクビ) 経塚(キョウヅカ) カン場(カンバ) 大道(ダイドウ) 西ケ谷(ニシガヤツ) 向山(ムカイヤマ) 松ケ尾(マツガオ) 中里(ナカザト) 渡戸(ワタリド) 奴田(ヤッコダ) 細尾(ホソオ) 甲佐(コウサ) 明通(アケドオリ) 大形(オオガタ) 祢宜ノ谷(ネギノヤツ) 堀切(ホリキリ) 北沢(キタザワ) 半山(ハンヤマ) 惣蔵谷(ソウゾウヤツ) 吉原(ヨシハラ) 上ノ塚(ウエノツカ) 大地作(オオヂサク) 遠貫原(トオヌキバラ) 沼ノ坂(ヌマノサカ) 麦久田(ムギクダ) 蛇ケ尾(ヘビガオ) 市郷(イチゴウ) 道正田(ドウショウダ) 中蛇ケ尾(ナカヘビガオ) 川田(カワダ) 越地原(コエチハラ) 鍋倉(ナベクラ)

 長尾川の上流域に位置する山間村落で、平家の落人伝説が残っています。新吾・万吾・平作・野荘の四人が畑の村を開いたといい、今も畑には山川・加藤・早川・石井の四姓しかありません。天正2年の鰐口銘に千歳郷畠村とあり、江戸時代初期の里見氏治政下では里見氏の直接支配地で、村高は147石余。明治元年は150石余。神社は長尾神社・八雲神社・牛頭天王を合祀した長尾三神社で、長尾神社には4斗余の除地がありました。寺院は瑞龍院。明治13年、石井喜右衛門等の努力によって引かれた灌漑用水路は畑の耕地を豊かにし、今も恵みをもたらしています。