明治元年に四万石で安房移封を命じられた本多正訥は、はじめ白浜の長尾に陣屋を構え長尾藩を称しましたが、同3年に陣屋を北条鶴ヶ谷に移します。多くの藩士を収容するため周辺を武家屋敷として整備してゆきますが、鶴ケ谷だけでは足りず八幡浜や新塩場・国分の萱野なども開発してゆきました。新塩場の現在の区画は当時のもので、明治以降は他所から館山へ移住してきた中流家庭の住宅地となり、今でも和風住宅に洋館を付属させた大正から昭和初期流行の文化住宅を多くみかけます。
◇交通 JRバス館山郵便局前下車徒歩2分
明治元年に四万石で安房移封を命じられた本多正訥は、はじめ白浜の長尾に陣屋を構え長尾藩を称しましたが、同3年に陣屋を北条鶴ヶ谷に移します。多くの藩士を収容するため周辺を武家屋敷として整備してゆきますが、鶴ケ谷だけでは足りず八幡浜や新塩場・国分の萱野なども開発してゆきました。新塩場の現在の区画は当時のもので、明治以降は他所から館山へ移住してきた中流家庭の住宅地となり、今でも和風住宅に洋館を付属させた大正から昭和初期流行の文化住宅を多くみかけます。
◇交通 JRバス館山郵便局前下車徒歩2分
武州忍藩は天保13年(1842)、外国船に対するため安房・上総の海岸警備を担当し、二万七千石を支配します。弘化4年(1847)になると安房国専任となって陣屋を北条の鶴ケ谷に設け、150名ほどが詰めていました。現在の安房高校西南あたりの住宅地と思われます。浜には4門の大砲も据えられました。嘉永6年(1853)には担当が備前岡山藩に替わり、安政5年(1858)まで三万石の預地支配をおこなっています。警備のため国元から来て駐留していた両藩の人々のなかには、この地で没した人も多く、法性寺や不動院に葬られました。法性寺では46名が確認できます。その後駿河の藤枝から移封して来た長尾藩本多氏(四万石)が、明治3年(1870)この地に陣屋を構えます。藩庁を中心に武家屋敷も整えられ、安房高校やその西側から駅前の昭和通りに至るまでの整然とした住宅地の区画はその当時のものです。今も数軒子孫のお宅があります。安房高校の東南にある稲荷神社は藩主本多氏が勧請したもので、境内には戦前まで天保14年鋳造の大砲がありましたが、今は旧臣による大正11年の奉納記念碑が残るのみです。
◇交通 JR内房線館山駅下車徒歩10分
浄土宗の寺院で海養山金台寺といいます。当寺の第4世豪誉上人は里見義康の伯父で、里見氏から厚い保護を受け、60石の寺領を与えられていました。江戸時代も引き続き60石の朱印地を持っています。境内にはもと六軒町の浄円寺に所在した慶長元年の板碑形五輪塔が2基あります。また寛文2年の千日念仏の供養塔や、正徳元年の万石騒動の際に農民側にたって処刑された北条藩の代官行貝弥五兵衛親子の墓、明治3年に偽金作りで処刑された義賊赤忠の墓などのほか、明治・大正期の安房政界や文化界等に大きな影響を残した伯爵万里小路通房の子供たちの墓もあります。
◇交通 JRバス豊房回り南町下車徒歩1分
真言宗の寺院で摩尼宝珠山塩蔵寺といいます。千倉町にある円蔵院の末寺で、古くは塩蔵坊と呼ばれ里見氏から5石の寺領が与えられていました。
江戸時代には円蔵院の朱印地の一部となります。本尊の木造地蔵菩薩立像は南北朝時代末から室町時代頃に作られた古いものです。但し頭部は江戸時代の補修。境内には吾子老人の碑があります。吾子は松江出身の俳歌人で、嘉永7年に北条で没しました。文は芳斎高木敏、書は武蔵から北条に移住した俳人森岡半圭によるもので、文人の来住や地元文化人との交流の様子を知ることができます。
◇交通 JR内房線館山駅下車徒歩10分
真言宗の寺院で金剛山不動院といいます。里見氏の時代は寺領10石をもっていました。当時は護摩堂と呼ばれ、慶長11年(1606)、里見忠義は紀州高野山西門院へ寺領181石とともに、護摩堂屋敷10石を寄進しています。江戸時代は2石5斗の除地を認められていました。境内には天保12年の三山碑や、幕末に近隣の子弟に習字や読書を教授した住職孝林の記念碑があります。墓地には忍藩士や長尾藩士の墓があり、長尾藩の算学師範小沢直治の墓碑も建てられています。また幕末の相撲取り象ケ鼻平助の墓があります。象ケ鼻は北条仲町の出身で、大関まで昇進し、四国徳島の城主蜂須賀氏や丸亀の京極氏など大名のお抱え力士になった人です。本堂には神明町の渡辺雲洋が描いた明治8年の天井画と武志伊八郎の彫刻があります。
◇交通 JR内房線館山駅下車徒歩12分
寛永15年(1638)に、駿河大納言徳川忠長の家老だった屋代忠正が、安房国で一万石を領して北条藩を立てると、北条の仲町に陣屋を築きます。現在の館山消防署・北条病院・館山警察署のあるところで、中世には北条城があったといわれ、北側には城ノ腰の地名もあります。正徳元年(1711)の万石騒動により、翌年屋代氏の北条藩は3代にして廃藩となりますが、享保10年(1725)信濃から水野忠定が一万二千石で入封し、新たに北条藩を起こします。同20年には一万五千石となり、文政10年(1827)に上総国鶴牧藩へ移封するまでのあいだ陣屋としました。文政8年には水野忠韶が若年寄としての功績によって城主格に列せられ、陣屋を北条城と公称しています。文久元年(1861)になると近江国三上藩の遠藤氏が、明治元年(1868)まで安房国内の飛地支配のための役所として利用します。その後明治になって安房郡役所・警察署・議事堂・北条町役場・北条病院などの官公署が建ち並び、現在の官庁街へと発展してきたのです。
◇交通 JR内房線館山駅下車徒歩10分
西暦 年号 | 事項 |
---|---|
7世紀頃 | 高井で人が生活をはじめる |
13世紀頃 | この頃八幡宮が府中より現在地へ遷座すると伝えられる |
1508年 永正5年 | 里見義通、八幡宮を再建する |
1572年 元亀3年 | 里見義弘、八幡宮を修理する |
1585年 天正13年 | 里見義康、八幡宮神前で元服し、猿楽能を舞う |
1589年 天正17年 | 里見の臣岡本安泰、国主御殿失火の罪で職を解かれた子息頼元の出仕復帰を八幡宮に祈念する |
1590年 天正18年 | 里見義康、円蔵院(千倉町)へ北条郷海蔵寺分の寺領を安堵する |
1598年 慶長3年 | 里見義康、八幡宮への非儀乱防を禁止する |
1606年 慶長11年 | 里見忠義、長須賀町・北条町の商人へ法度を出す 里見忠義、八幡宮神主に正木村東国府で御手洗屋敷を寄進する 里見忠義、紀伊国高野山西門院へ北条の護摩堂屋敷(不動院)10石を寄進する |
1616年 元和2年 | 江戸幕府、来福寺・金台寺・八幡宮へ朱印地を寄進する |
1638年 寛永15年 | 屋代忠正、一万石を領し北条藩をおく |
1711年 正徳1年 | 北条藩領で一揆がおこり、湊村名主角左衛門など三人が処刑される(万石騒動)。翌年北条藩は領地没収で廃藩となる 元禄地震で隆起した北下台下の干潟をめぐり、北条村と真倉村のあいだで争論がおこる |
1725年 享保10年 | 水野忠定、信濃から入封して北条藩をおく |
1758年 宝暦8年 | 長須賀に巡礼者のための道標が建てられる |
1798年 寛政10年 | 湊村名主多田理右衛門、高井から引く鵜戸川用水を整備する |
1847年 弘化4年 | 武洲忍藩、海防の陣屋を鶴ヶ谷におく 武洲忍藩、湊川にはじめて湊橋を架ける |
嘉永年間 | 高井の高木士幹、長須賀の上野隆喞等の医師、ヨード製造を試みる |
1870年 明治3年 | 長尾藩、鶴ヶ谷に陣屋をおき、武家屋敷を整備する 義賊赤忠等4人、紙幣偽造の罪で処刑される(館山最後の討ち首) |
1878年 明治11年 | 安房郡役所開設される |
1880年 明治13年 | 千葉病院分院として北条病院開設される |
1881年 明治14年 | 山本村元名主小原善兵衛、北条村の浜に小原新田を開墾する |
1889年 明治22年 | 北条・新宿町・長須賀・八幡・湊・高井・上野原の各村と正木村の一部が合併して北条町となる |
1901年 明治34年 | 千葉県安房中学校開校する |
1919年 大正8年 | 国鉄北条線安房北条駅開業する |
1923年 大正12年 | 関東大震災で、北条町が安房郡最大の被害を受ける(死者230人) |
1939年 昭和14 | 館山市成立する |
天神台(テンジンダイ) 下ノ原(シモノハラ)
正木村のうち平久里川以南の土地を、明治22年に北条町が成立した時合併した地域で、当時はほとんどが耕地でしたが、現在は宅地化が進んでいます。天神台にはかつて桑原の小字がありました。
沓方(クツカタ) 辻道(ツジドウ) 池附(イケヅキ) 上長田(カミナガタ) 下長田(シモナガタ) 長田(ナガタ) 尾安(オヤス) 中原(ナカハラ) 須郷(スゴウ) 松ノ下(マツノシタ)
館山湾の第4砂丘列上に位置する農業地域ですが、近年は国道128号沿いに各種営業所が並び、大きく変貌をはじめています。江戸時代初期の里見氏治政下では、里見氏の直接支配地であった北条村の一部でした。享保12年頃から上野原村の名がみられますが、寛永16年に北条村の枝村として成立したといわれます。地名の由来も北条村の内陸部(上手)にある原の呼び名であったと考えられ、上ノ原という書き方もします。正式に分村して独立したのは明治元年頃で、村高は192石余。神社は天神社、寺院はなく、神社横に薬師堂があります。
仁井(ジンイ) 上宮作(カミミヤサク) 下宮作(シモミヤサク) 下川(シモカワ) 月除(ツキヨケ) 前作(マエサク) 西原(ニシハラ) 宿内(シュクウチ) 飯喰場(メシクイバ) 荷入(ニイリ) 青木(アオキ) 下古川(シモフルカワ) 水神(スイジン) 上畑作(カミハタサク) 中川(ナカガワ) 西郷(ニシゴウ)
館山湾の第4砂丘列の北部に位置する集落で、その北端部の宮作・宿内には土師器の散布する古墳時代の遺跡があります。江戸時代初期の里見氏治政下では、使番の岡本右馬之助、百人衆之頭安西中務、奏者梅田与九郎が知行し、村高491石余。明治元年には397石余。別に江戸時代に平久里川の旧河道を開墾して成立した古川新田が独立した村としてあり、明治3年に高井村と合併しています。明治元年の村高は148石余。また高井のうち、滝川と平久里川の間の地域を桑原といいますが、天保頃に家数8軒の桑原村として記されることがあります。神社は高皇産霊神社があり、桑原にあった天神社を合祀しています。寺院は善浄寺があり、鎌倉末から南北朝期頃の木造地蔵菩薩立像を本尊にしています。他に中世の五輪塔の断石が散在する薬師堂があり、境内に幕末の医師高木抑斎の墓があります。また月除の共同墓地には正徳年間からの三山碑が7基並んでいます。