湊(みなと)

向原(ムコウバラ) 高田(タカダ) 才勝(サイショウ) 作ノ田(サクノタ) 明日部(ミョウタベ) 花立(ハナタテ) 大小房(ダイゴボウ) 竹ノ下(タケノシタ) 大神宮(ダイジングウ) 向屋敷(ムコウヤシキ) 中瀬(ナカセ) 川原(カワハラ) 橋本(ハシモト) 小芝(コシバ) 柳ノ中(ヤナギノナカ) 川田(カワタ) 江川(エガワ) 堂ノ下(ドウノシタ) 小松下(コマツシタ) 中芝(ナカシバ) 葭田(ダンタ)

 平久里川河口の左岸に位置する農業地域ですが最近バイパス周辺では宅地化も進んでいます。古い集落は、北条から続く第3砂丘列上と、鶴谷八幡宮に続く第2砂丘列上の二ヵ所にあります。江戸時代初期の里見氏治政下では、北条村の一部でした。寛永16年に北条村から分村したといわれ、正保頃で村高312石余。明治元年には247石余。正徳元年の万石騒動に際しては、当村の名主秋山角左衛門が犠牲となり、三義民のひとりに数えられています。江戸時代をとおして水をめぐるトラブルが多く、用水をめぐる高井村との争論や、八幡村の悪水をめぐる争論、正木村との浜地争論などがおこなわれています。用水は江戸時代の中頃から高井の鵜戸川用水を利用し、享和頃に名主多田理右衛門によって整備がなされました。神社は1石の除地をもっていた子安神社があり、境内には理右衛門の顕彰碑のほか、寛政12年の庚申塔があります。寺院はなく薬師堂があるのみです。また高井方面と北条方面の村境にあたる辻に、それぞれ道標をかねた六地蔵が建立されていて、流行り病で死んだ子供たちを供養するものと伝えられています。

八幡(やわた)

塩入(シオイリ) 江川(エガワ) 宮ノ谷(ミヤノヤツ) 上浜田(カミハマダ) 沼田(ヌマタ) 下浜田(シモハマダ) 小松生(コマツオイ) 新場(シンバ) 中宿(ナカジュク) 北鳥居脇(キタトリイワキ) 南鳥居脇(ミナミトリイワキ) 小松原(コマツバラ)

 安房国総社の鶴谷八幡宮を中心として成立した村で、現在は美しく手入れをされた槙の生け垣が続く閑静な住宅地になっています。江戸時代初期の里見氏治政下では、鶴谷八幡宮の社領で、村高174石余。里見氏の転封後社領は171石5斗に削られ、社領の支配は八幡宮の別当那古寺があたっていました。江戸時代は社領と別に5石余があり、明治元年には村高176石余。天正15年の里見義頼判物に北条鶴谷八幡宮とあることから、八幡はもと北条郷に含まれた地域で、慶長2年の太閣検地の頃社領が独立したものと考えられます。八幡村としての初見は慶長3年。明治3年になると北条との境に長尾藩の陣屋が建設され、周辺が武家屋敷として整備されました。その後避暑客の別荘や東京の大学・高校の寮もできるようになりました。神社は鶴谷八幡宮、寺院は八幡宮の社役を務め6石の配当をうけた千燈院があり、境内に寛政5年の廻国塔があります。他に室町時代末の木造弁財天坐像を祀る阿弥陀堂があります。また戦時中には、軍需工場として池貝鉄工所が設立されています。

長須賀(ながすか)

表町(オモテマチ) 堂後(ドウゴ) 塩焚(シオタキ) 永新工(ナガアラク) 押切(オシキリ) 島原(シマバラ) 押出(オシダシ) 川附(カワヅケ) 西畑(ニシハタ) 菱沼(ヒシヌマ) 川欠(カワカキ) 中瀬(ナカセ) 高見(タカミ) 新工(アラク) 元新工(モトアラク) 裏町(ウラマチ) 沓方(クツカタ) 作ノ田(サクノタ) 南八島(ミナミヤシマ) 辻道(ツジドウ) 北八島(キタヤシマ) 池附(イケヅケ) 長田(ナガタ) 上仲井(カミナカイ) 仲原(ナカハラ) 下仲井(シモナカイ) 外馬谷(ソトウマヤ) 足洗(アシアライ) 植木境(ウエキザカイ) 仲坪(ナカツボ) 西根(ニシネ) 天神(テンジン)

 新宿との境を流れる境川と、館山側の汐入川とにはさまれた地域で、この二つの川と館山湾が形成した砂洲に町場として成立した村です。地名もその砂洲に由来するものと考えられます。江戸時代は、館山へ向かう房総往還に沿って新宿から続く町並みがあり、表町・裏町の地名が残っています。慶長11年の里見忠義の法度に長須賀町とあるのが初見ですが、里見氏治政下では独立した村として記載されていません。正保頃には高184石余の村としてあらわれます。明治元年で186石余。他に北条村に96石の出作がありました。また上野原の東にある長須賀の飛び地は、江戸時代は新宿村といい、村高199石で長須賀村持添の無民戸の村だったところで、明治元年に北条の出作とともに長須賀へ合併したものです。江戸中期の元文から安永頃に、汐入川対岸の新井浦と河原の芝地をめぐって争論があり、現在の境界線が確定しています。神社は熊野神社、寺院は来福寺と宝積院があり、それぞれ下真倉に朱印12石・除池3石を有していました。幕末になると詩歌などの文芸サークルが成長し、当村の名主池田琴嶺をはじめ、医師の上野三英、高井の医師高木抑斎などが参加していました。

新宿(しんじゅく) 

町添(マチゾエ) 浜畑飛地(ハマバタトビチ) 浜畑(ハマバタ)

 館山湾第3砂丘列上の北条と長須賀の間にある商業地区で、新宿と北条の南町が昭和初期までの中心街でした。江戸時代は北条村の一部で、享保12年頃から新宿町の名がみられます。はじめ寛永16年に新宿村として成立し、のち新町と称して、正徳2年の北条藩廃藩のとき新宿町と改めたといいます。房総半島をまわる主街道房総往還に面したところで、町場であり、明治元年の村高は18石余。この頃正式に北条村から分村し独立します。神社は神明神社、寺院は海蔵寺があり、境内には幕末に周易を講じた寺小屋の師匠田井義明の碑があります。また、汐入川河口左岸に飛び地があり、現在は住宅地になっています。江戸中期以降の新宿村とは別のものです。

北条(ほうじょう)

入生(イリウ) 御霊(ゴリョウ) 花立(ハナタテ) 八反目(ハッタンメ) 松ノ下(マツノシタ) 美ノ輪(ミノワ) 釜沼(カマヌマ) 城ノ腰(ジョウノコシ) 敷地(シキチ) 段所(ダンドコロ) 沼田(ヌマタ) 下沼(シモヌマ) 八下地(ヤゲジ) 小作(コサク) 九反沼(クタンヌマ) 金堀(カナボリ) 角ノ坪(カクノツボ) 南町(ミナミチョウ) 仲町(ナカチョウ) 北町(キタチョウ) 北原(キタバラ) 稲荷(イナリ) 浜田(ハマダ) 浜川(ハマカワ) 白山下(ハクサンシタ) 土手ノ内(ドテノウチ) 藪下(ヤブシタ) 新塩場(シンシオバ) 六軒町(ロッケンチョウ) 浜通(ハマドオリ) 鶴ケ谷(ツルガヤ) 北川井(キタカワイ) 南川井(ミナミカワイ) 北浜小松(キタハマコマツ) 南浜小松(ミナミハマコマツ) 浜新田(ハマシンデン) 八石三斗(ハッコクサンド) 辻道(ツジドウ)

 館山市の中心市街地をなす地域で、とくに明治以降に安房郡の政治経済の中心地として発展してきました。北条の地名は古代条里制の名残で、これに対して豊房に南条の地名もあります。字名に角ノ坪があり、かつては京ノ坪・屋敷坪などもありました。戦国時代の北条は、今の湊・八幡・上野原・新宿を含む地域の地名だったと考えられます。江戸初期に八幡と湊が分村し、江戸時代の北条村は北条村・上野原村・新宿町・新宿村と長須賀・安布里・大網・国分の各出作を包括するものでした。江戸時代初期の里見氏治政下では、代官の石崎庄右衛門・中山清左衛門、宰相の局の知行地と寺社領が若干のほか、ほとんどが里見氏の直接支配地で、村高1723石余。明治元年には1918石余。その内北条本村は1140石余。北条は館山湾の第3砂丘列上に成立した町場で、内房・外房からの房総往還が合流する要地でした。国鉄の開業後、次第に中心街が南町周辺から駅前へ移っていきます。江戸時代には屋代氏と水野氏による北条藩の陣屋も置かれ、明治には安房郡役所となって、周辺には多くの公官署がおかれるようになりました。幕末になると安房の海岸警備を担当した武州忍藩の陣屋も別に築かれ、のち長尾藩も藩庁に利用しています。また幕末から明治初期にかけて、汐入川河口右岸に小原新田が開墾されているほか、浜で地曳網などの漁をする人々もいました。正徳年中には北下台下の干潟をめぐって真倉村と争論をしています。神社は蛭子神社(南町)・神明神社(神明町)・諏訪神社(六軒町)・稲荷神社(三軒町)があり、稲荷神社は長尾藩本多氏が藤枝から移住の際に勧請したものです。寺院は寺領60石の金台寺、除地1石余の法性寺、除地2石余の不動院のほか、塩蔵寺、海雲寺があり、海雲寺には中世の宝篋印塔の笠が残されています。またかつては浄円寺・円応寺がありました。

北条地区

 シリーズ最終回の8回目として、北条地区を取り上げました。平久里川と汐入川にはさまれ、館山湾に沿った平野部に位置する館山市の中心地で、とくに明治以降安房郡の政治経済の中核として発展した地域です。北条の地名は、明治22年の北条町成立の際、中心地の名称を襲用したものです。

 北条地区は館山平野の砂丘列上に古い集落があり、間の低地を水田とする農業地域と、房総往還に沿った商業地域がありましたが、現在は館山駅を中心に商業地域と住宅地域が広がっています。面積は7.38k㎡で、市全域の6.7%にすぎませんが、人口は13,596人で市全体の24.7%の人が生活しています。

 古代の遺跡は高井に古墳時代の土師器の散布地がありますが、集落の展開はこれより後のものが多いと思われます。鎌倉時代には鶴谷八幡宮が府中から八幡へ移されたといいます。江戸時代初期の慶長年間には長須賀や北条にすでに町場が形成されており、寛永15年に北条藩の陣屋が置かれ、幕末にも海岸警備の陣営が置かれて、今日の官庁街の素地がつくられていきました。

 江戸時代には、北条・長須賀・八幡・湊・高井・古川新田の6か村があり、明治初期に新宿・上野原が北条から分村します。古川新田は明治3年に高井と合併し、明治22年に北条町が成立。大正8年の国鉄安房北条駅の開業により、町は大きく発展を遂げていきました。館山市となるのは昭和14年のことです。

戸数のうつりかわり

旧町村名 天保 明治24年 世帯数
昭和35年 平成4年
北条 248 394 2,243 2,317
新宿 36 42 108 113
長須賀 130 161 772 859
八幡 63 89 297 852
48 58 99 611
高井 56 60 91 223
上野原 17 16 35 186
合計 598 820 3,645 5,161