
図録
安房の人物シリーズ(2)
恩田仰岳
平成6年2月11日発行
編集発行 館山市立博物館
〒294 館山市館山351-2
TEL 0470(23)5212
FAX 0470(23)5213
図録
安房の人物シリーズ(2)
恩田仰岳
平成6年2月11日発行
編集発行 館山市立博物館
〒294 館山市館山351-2
TEL 0470(23)5212
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藤枝市 | 『藤枝市史』上・下 | 1980.3 |
千倉町 | 『千倉町史』 | 1985.3 |
丸山町 | 『丸山町史』 | 1989.3 |
三芳村 | 『三芳村史』 | 1984.9 |
千葉県 | 『千葉県教育史』第一巻,第三章 | |
安房先賢偉人顕彰会編 | 『安房先賢偉人伝』 | 1938.3 |
安房先賢偉人顕彰会編 | 『安房先賢遺著全集』 | 1939.3 |
多田屋書店 | 『町村と人物』 | 1918.6 |
館山市立博物館 | 『房州長尾藩』 | 1984.10 |
大房暁 | 『田中藩武道史』 | 1975.12 |
千葉吉男 | 『長尾藩史考』館山市文化財保護協会会報第15号別冊 | 1982.3 |
「続長尾藩史考(一)」『館山と文化財』第16号 | 1983.1 | |
「続長尾藩史考(二)」『館山と文化財』第17号 | 1984.3 | |
「続長尾藩史考(三)」『館山と文化財』第18号 | 1985.4 | |
藤井誠 | 『田中藩・長尾藩藤井資料』 | 1978.5 |
池谷鉱太郎 | 『長尾藩史譚』 | 1931.11 |
朝日新聞社 | 『朝日百科 日本の歴史』9 近世から近代へ | 1989.4 |
鳥羽正雄編著 | 『日本城郭史の再検討』 名著出版 | 1980.10 |
田中彰 | 『日本の歴史』第24巻 明治維新 小学館 | 1976.2 |
本書作成にあたり、多くの皆さまに多大な御協力をいただきました。ここに御芳名を記し、その御好意に対し甚大なる謝意を表します。
(順不同・敬称略)
金蓮院,杖珠院,白浜町小戸区,白浜町中央公民館,白浜町原区,大慶寺,藤枝市郷土博物館
青木正中,池谷高則,石井昭二,磯部武男,岩崎隆弘,上野和子,宇山古高,小谷ゆり子,恩田利章,河原晋,栗原宏量,三幣清一郎,鈴木秀夫,成瀬弥五郎,林利重,林正己,林豊,藤井誠,堀江仁,吉田卓一
No. | 資料名 | 年代 | 点数 | 備考 |
---|---|---|---|---|
書画 | ||||
1 | 高久隆古画「魁之画」 | 1 | 軸装・絹本 1,450×715 | |
2 | 高久隆古画・芳野金陵題 「盲人渡橋之画」 |
弘化4年(1847) | 1 | 軸装 1,860×1,015 |
3 | 「鳥井強右衛門之画」 | 文政6年(1823) | 1 | 軸装 遠藤胤典写 1,770×670 |
4 | 笠原愷泉画「恩田仰岳肖像」 | 1 | 軸装・絹本 1,600×370 | |
5 | 高久隆古画「人物図」 | 1 | 1,020×305 | |
6 | 狩野宗仙画「山水図」 | 1 | 軸装 830×215 | |
7 | 従三位正名書 | 1 | 1,170×370 | |
8 | 塩田龍潭書 | 1 | 305×560 | |
9 | 篠田雲鳳五言絶句 | 1 | 1,300×310 | |
古文書 | ||||
10 | 朝忠知行宛行状写 | 1 | 恩田越前守宛 | |
11 | 北条氏直書状写 | 1 | 恩田越前守宛 | |
12 | 直江兼続書状写 | 1 | 恩田越前守宛 | |
13 | 某知行宛行状 | 1 | 恩田左門宛 | |
14 | 某朱印状 | 1 | 恩田左門宛 | |
15 | 某知行宛行状 | 1 | 恩田左門宛 | |
16 | 真田信吉知行宛行状 | 元和4年(1618) | 1 | 恩田左門宛 |
17 | 真田信吉知行宛行状 | 寛永3年(1626) | 1 | 恩田左門宛 |
18 | 恩田左門知行目録 | 明暦3年(1657) | 1 | 恩田左門宛 |
19 | 祢津宮内少・斉藤源左衛門 連署書状 |
1 | 恩田左門宛 | |
20 | 矢沢但馬守書状 | 1 | 出浦・矢野宛 | |
21 | 清水与左衛門・新井刑部 連署書状 |
1 | 恩田左門宛 | |
22 | 矢野幸清・出浦幸久連署書状 | 1 | 恩田左門宛 | |
23 | 真田信利知行安堵状 | 寛文8年(1668) | 1 | 恩田左門宛 |
24 | 野村宜丹依韻鏡考 | 宝暦3年(1753) | 1 | 恩田左門宛 |
25 | 扶持米宛行状 | 享保14年(1729) | 1 | 恩田庄之助宛 |
26 | 御役申付ニ付切紙 | 寛政10年(1798) | 1 | 恩田寅蔵宛 |
27 | 本多正訥名字説 | 嘉永3年(1850) | 1 | 恩田利武宛 |
28 | 小野鵞堂書簡 | 大正8年(1919) | 1 | 恩田利用宛 |
29 | 小野鵞堂書簡 | 大正10年(1921) | 1 | 恩田利直宛 |
30 | 小野成彦書簡 | 大正14年(1925) | 1 | 恩田利直宛 |
31 | 覚書 | 1 | ||
32 | 恩田庄之助先祖書 | 1 | ||
33 | 家譜 | 寛政6年(1794) | 5 | 恩田寅蔵作 |
34 | 恩田利久旧縁糺し方執計一件 | 文政6年(1823) | 1 | 冊子 |
35 | 家譜付録 | 1 | 冊子 文政11年まで | |
36 | 家譜正書 | 1 | 冊子 恩田豹太作 | |
37 | 過去帳 | 4 | ||
38 | 恩田家由緒書 | 1 | ||
39 | 恩田家年表 | 3 | 享保17年まで | |
典籍・目録 | ||||
40 | 『瓊浦記聞 阿蘭陀風説書』 | 安政4年(1857) | 1 | 冊子 |
41 | 長尾城地分見縮図 | 明治3年(1870) | 1 | 小沢直治図 1,900×1,500 |
42 | 『示彪書』 | 明治18年(1885) | 1 | 冊子 恩田利器著 |
43 | 『独楽園記』 | 1 | 冊子 | |
44 | 『聿脩遺談』 | 大正5年(1916) | 1 | 冊子 恩田利武著 |
45 | 日本名家文鈔 | 1 | 冊子 | |
46 | 恩田氏蔵書散佚書目 | 1 | ||
47 | 借用書目 | 1 | ||
48 | 吉田栗堂作漢詩 「奉送仰岳恩先生之東都」 |
1 | ||
49 | 五場井素嶽作和歌 | 1 | ||
50 | 小野小鵞筆手本帖 | 1 | ||
51 | 三段太刀口伝書 | 弘化元年(1844) | 1 | 冊子 仰岳楼 |
52 | 長沼流兵学目録 | 天保3年(1832) | 1 | 巻子 恩田恭太郎宛 |
53 | 長沼流兵学火箭法伝書 | 天保15年(1844) | 2 | 横冊 石神・吉田宛 |
54 | 長沼流兵学目録(前後欠) | 弘化3年(1846) | 1 | 巻子 |
55 | 長沼流兵学宮川伝目録 | 元治元年(1864) | 1 | 巻子 成瀬小次郎宛 |
56 | 長沼流兵学宮川伝目録夜撃之巻 (下書) |
1 | 巻子 | |
57 | 新八条流馬術黄昏絵図之書目録 | 文政5年(1822) | 1 | 巻子 恩田新五右衛門宛 |
58 | 新八条流馬術以呂波歌 | 文政5年(1822) | 2 | 巻子 恩田新五右衛門宛 |
59 | 新八条流馬術免状 | 文政9年(1826) | 1 | 巻子 恩田新五右衛門宛 |
60 | 新八条流馬術秘伝 | 文政9年(1826) | 1 | 巻子 恩田新五右衛門宛 |
61 | 武衛流鉄砲小筒至要集目録 | 文政7年(1824) | 1 | 巻子 恩田新五右衛門宛 |
62 | 武衛流異風地櫓巻 | 文政7年(1824) | 1 | 巻子 恩田新五右衛門宛 |
63 | 武衛流火術之巻 | 文政7年(1824) | 1 | 巻子 恩田新五右衛門宛 |
64 | 炮術入門ニ付誓文之事(後欠) | 1 | ||
65 | 西洋流砲術入門誓紙 | 2 | 巻子 | |
66 | 西洋流砲術絵図 | 1 | 巻子 | |
67 | 森派心念流棒目録・免状 | 明和元年(1764) | 1 | 山田新蔵宛 |
68 | 三輪神道流目録 | 明和3年(1766) | 1 | 山田新蔵宛 |
69 | 撰真流棒術目録 | 明和4年(1767) | 1 | 山田新蔵宛 |
70 | 起倒(流柔術目録) | 明和4年(1767) | 1 | 山田新蔵宛 |
71 | 富田流兵法口伝(前欠) | 明和8年(1771) | 1 | 恩田新蔵宛 |
72 | 伊勢物語奥旨秘訣 | 1 | ||
武器・武具・他 | ||||
73 | 陣笠 | 1 | ||
74 | 陣笠 | 1 | ||
75 | 甲冑(白糸威二枚胴具足) | 1 | ||
76 | 十文字槍 | 1 | 長2,400 | |
77 | 素槍 | 1 | 長2,700 | |
78 | 片鎌槍 | 1 | 長2,760 | |
79 | 裃(本多家家紋入) | 1 | ||
80 | 裃(恩田家家紋入) | 1 | ||
81 | 陣羽織 | 1 | ||
82 | 鐙(恩田家家紋入) | 1 | ||
83 | 袱紗 | 1 | ||
84 | 小袖 | 1 | ||
85 | 御守 | 5 | ||
86 | 御守袋 | 1 | ||
87 | 小物入 | 1 | ||
88 | 懐剣袋 | 1 | ||
89 | 硯(仰岳自刻) | 明治12年(1879) | 1 | |
90 | 硯 | 1 | ||
91 | 甲冑(伊予札紺糸素懸威具足) | 1 | 白浜町保管 |
No. | 資料名 | 年代 | 点数 | 備考 |
---|---|---|---|---|
92 | 恩田豹太等呼出状 | 1 | 池谷力惣宛 | |
93 | 藤復書 | 1 | 恩田城山をおくる |
No. | 資料名 | 年代 | 点数 | 備考 |
---|---|---|---|---|
94 | 恩田城山書 | 1 | 350×1,010 |
No. | 資料名 | 年代 | 点数 | 備考 |
---|---|---|---|---|
95 | 恩田仰岳書 | 明治14年(1881) | 2 | 幟 9,550×1,480 |
No. | 資料名 | 年代 | 点数 | 備考 |
---|---|---|---|---|
96 | 恩田仰岳書 | 明治15年(1882) | 2 | 幟 10,540×1,560 |
No. | 資料名 | 年代 | 点数 | 備考 |
---|---|---|---|---|
97 | 恩田仰岳書 | 1 | 軸装 1,970×775 |
No. | 資料名 | 年代 | 点数 | 備考 |
---|---|---|---|---|
98 | 恩田城山書 | 1 | 額装 480×930 |
No. | 資料名 | 年代 | 点数 | 備考 |
---|---|---|---|---|
99 | 文箱(仰岳自刻) | 1 | ||
100 | 恩田仰岳所用算盤(箱付) | 嘉永5年(1852) | 1 | |
101 | 竹製水入(仰岳自刻) | 1 | ||
102 | 硯箱(仰岳自刻) | 1 | ||
103 | 建碑記念絵葉書 | 4 | ||
104 | 文机 | 1 | 恩田城山門人寄贈 | |
105 | 香合 | 1 | ||
106 | 矢立 | 1 |
No. | 資料名 | 年代 | 点数 | 備考 |
---|---|---|---|---|
107 | 恩田城山書 | 大正元年(1912) | 1 | 軸装 1,650×440 |
108 | 茶道具(なつめ、天目台) | 2 | 木製漆器 |
No. | 資料名 | 年代 | 点数 | 備考 |
---|---|---|---|---|
109 | 恩田仰岳書 | 1 | 軸装 1,900×480 | |
110 | 恩田仰岳書 | 1 | 軸装 1,900×880 | |
111 | 恩田仰岳書 | 明治18年(1885) | 1 | 額装 450×930 |
112 | 恩田城山書 | 1 | 軸装 1,900×800 |
No. | 資料名 | 年代 | 点数 | 備考 |
---|---|---|---|---|
113 | 田中亀城之図 | 1 | 軸装 800×555 |
No. | 資料名 | 年代 | 点数 | 備考 |
---|---|---|---|---|
114 | 慶応二年惣順席帳 | 1 | ||
115 | 軍務館順席帳 | 1 | ||
116 | 北条陣屋絵図 | 1 | 402×824 | |
117 | 田中城内屋敷間取図 | 1 | 1,471×1,061 |
No. | 資料名 | 年代 | 点数 | 備考 |
---|---|---|---|---|
118 | 大塚家書簡 | 3 | 恩田仰岳より大塚荷渓宛(2通) 恩田仰岳より大塚翠崖宛(1通) |
|
119 | 天保午六月被仰出写 | 天保5年(1834) | 1 | 学文所新築二付 |
年代 |
年齢 | 事項 |
藩内外の出来事 |
|
---|---|---|---|---|
仰岳 | 城山 | |||
文化6年 (1809) |
1 | 3月4日 駿河国田中に生まれる。幼名は爲。父は田中藩士恩田新五右衛門利久。母は成瀬氏だが、幼少時に没したため継母中島氏により育てられる。 | ||
文化12年 (1815) |
7 | 田中藩儒学者石井縄斎に就いて学ぶ。 | ||
文政元年 (1818) |
10 | 12月1日 藩主本多正意に謁見する。 | ||
文政7年 (1824) |
石井縄斉、江戸の昌平坂学問所へ留学。(~文政10年) | |||
文政8年 (1825) |
17 | 元服して恭太郎と改名。 | ||
文政9年 (1826) |
18 | 1月11日 中小姓御広間番に任じられる。三人扶持を給与される。この間に剣道と馬術を学ぶ。 | 遠州榛原郡沖に外国船出没。 | |
文政10年 (1827) |
19 | 6月5日 江戸での3年間の留学が認可される。長沼流兵学の市川梅巓のもとに入門し、二人扶持を給与される。また兵学習得の傍ら、昌平坂学問所で儒学を学ぶ。 | ||
文政12年 (1829) |
本多正寛、第11代田中藩主に就任。 | |||
天保元年(1830) | 22 | 4月9日 三人扶持となる。8月11日更に3年の留学延長が許可される。 | ||
天保2年 (1831) |
田中藩の藩政改革始まる。 | |||
天保3年 (1832) |
24 | 9月 長沼流兵学の印可を受ける。 | ||
天保4年 (1833) |
25 | 4月5日 田中へ帰る。同28日 給人格御広間番、兵学師範を命じられる。五人扶持の給付。 | ||
天保5年 (1834) |
26 | 10月21日 父利久の隠居に伴い、家督を相続。この頃、田中つねと結婚する。 | ||
天保6年 (1835) |
27 | 1月11日 御使番格となる。4月16日豹太と改名。 | ||
天保8年 (1837) |
29 | 1月11日 25俵高となる。この頃縄斎の助手として魯堂公子(後の第12代藩主正訥)に教授する。5月に20日間の蟄居を命じられ、その間に『握奇集解析義』2巻を著す。日知館の兵学師範となる。 | 藩校日知館が創立される。 | |
天保9年 (1838) |
30 | 2月30日 伊豆七島巡視の命を受けた、幕府代官羽倉外記(蘭堂)に序を作る(『仰岳樓文鈔』)。 | ||
1 | 7月2日 嫡子駒之助(城山)誕生。 | |||
天保13年 (1842) |
34 | 7月 伊豆修善寺へ旅行。紀行文『遊豆日記』を記す。 | ||
天保14年 (1843) |
35 | 1月15日 御長柄奉行、50石高(勤役中)となる。増田貢に代わり、魯堂公子に書を奉る。 | ||
弘化元年 (1844) |
36 | 9月9日 御者頭、50石高(勤役中60石)となる。 | ||
弘化3年 (1846) |
38 | 10月23日 寺社奉行を兼務する。 | ||
弘化4年 (1844) |
芳野金陵、田中藩に儒官として仕える。 | |||
嘉永元年 (1848) |
40 | 1月11日 御持頭となり、寺社奉行を兼務する。 | ||
嘉永3年 (1850) |
13 | 嫡子駒之助、正訥から諱と字を与えられる。 | 芳野金陵、田中城を訪問する(10月)。 | |
嘉永4年 (1851) |
43 | 1月11日 郡奉行と勘定奉行の兼務を命じられる。このとき速成的に算術を学ぶ(『聿脩遺談』)。 | ||
嘉永6年 (1853) |
45 | 藩主正寛に召し寄せられ、海防の任に当たるため、江戸へ向かう。11月 藩士13名に西洋流砲術の伝授を始める。 | 米国軍艦、浦賀に現れる(6月)。 | |
安政元年 (1854) |
46 | 17 | 1月18日 大目付格、60石高(勤役中70石)となる。同日嫡子駒之助、駿太郎と改名。6月6日 藩主から、御替紋付御陣羽織を賜る。11月10日 父利久、没する。 | |
安政2年 (1855) |
18 | 1月11日 城山、中小姓御広間番、三人扶持となる。 | ||
安政3年 (1856) |
19 | 11月21日 城山江戸へ留学する(~安政6年)。市川梅巓に長沼流兵学を学び、芳野金陵から儒学を学ぶ。 | ||
安政4年 (1857) |
49 | 10月27日 近習頭役格及び江戸田中両方の御勝手頭を命じられ80石高(勤役中100石)となる。 | ||
万延元年 (1860) |
23 | 城山、藩の兵学師範、漢籍助教、西洋流砲術教授となる。 | 正訥12代藩主となる。江戸日知館が設立。 | |
文久元年 (1861) |
53 | 1月11日 番頭になり、100石を給される。この頃から実際の兵制改革を行い、洋式訓練を実施する。 | ||
文久2年 (1862) |
25 | 2月19日 城山、御近習となる。 | ||
元治元年 (1864) |
56 | 8月 駿府城の調査の命を受け、概要を報告する。 | 正訥、駿府城代を命じられる。 | |
慶応元年 (1865) |
57 | 10月 『西洋砲術一斑抄』を著す。 | ||
慶応3年 (1867) |
大政奉還(10月)。王政復古(12月)。 | |||
明治元年 (1868) |
60 | 算学者古谷道生とともに安房に渡り、城地の選定にあたる。 | 鳥羽・伏見の戦(1月)。江戸城開城(4月)。徳川氏、静岡藩主となる(5月)。 田中藩、安房長尾へ転封(7月)。 白浜村長尾に、陣屋の建設が始まる。 |
|
明治2年 (1869) |
32 | 城山、兵部省三番大隊屯所で、フランス銃隊の兵法を伝習する。 | 正訥、藩籍を奉還して長尾藩知事となる(6月20日)。大風のため、長尾陣屋が倒壊する(7~8月頃)。 | |
明治3年 (1870) |
62 | 33 | 9月 権少参事に任じられる。10月 隠居し、家督を城山に譲る。豹隱と称する。白浜の自宅にて私塾を開き、漢学の教授を行う。城山、長尾藩権大属、軍務掛一等教授(碑文)に任じられる。 | |
明治4年 (1871) |
34 | 城山、軍務掛少尉兼教長(碑文)に任じられる。この年、城山白浜へ帰る。 | 廃藩置県、長尾県となる(7月4日)。 | |
明治5年 (1872) |
学制発布(8月3日)。 | |||
明治6年 (1873) |
36 | 城山、白浜小学校の教員となる。 | 白浜小学校設立。 | |
明治14年 (1881) |
73 | 稲荷神社(白浜町小戸)の幟に揮毫する。 | ||
明治15年 (1882) |
74 | 若宮八幡神社(白浜町原)の幟に揮毫する。 | ||
明治22年 (1889) |
81 | 養老恩賜金を拝受する。眼病のため、失明。 | ||
明治24年 (1891) |
83 | 1月28日 自宅にて没。妻つねも同日に死去。 | ||
明治28年 (1895) |
58 | 2月 城山、白浜小学校を退職。10月 城山、旧長尾藩士市野義雄が創設した。私塾日知学舎に招かれて、門生の教授にあたる。 | ||
大正4年 (1915) |
78 | 12月 城山、白浜へ帰る。 | ||
大正8年 (1919) |
82 | 1月6日 城山、没。 | ||
昭和8年 (1933) |
7月2日 恩田家墓地のある杖珠院門前に、仰岳と城山の記念碑が建てられる。 | |||
昭和10年 (1935) |
10月 仰岳、安房先賢偉人の一人として顕彰され、鶴谷八幡宮境内に安房先賢偉人顕彰之碑が建てられる。同時に、豊穣小学校講堂において、安房先賢偉人遺墨遺品展覧会が開催される。 |
仰岳の著書は、兵岳書である『孫子纂註』のほか、『孟子集註翼』、『大学章句翼』等の儒岳書や、『●肋雑誌』、『示彪書』のような随筆を含めると20種にも上るが、その大半は損失しているのが現状である。
書名(著述年) | 著述不明の書名 |
---|---|
『左伝杜解鈔説』16巻(明治10年) 『孫子纂註』3巻(慶応元年、明治10年) 『南朝紀事本末』2巻(明治14年頃) 『雞肋雑誌』7巻(明治4年頃) 『雞肋雑誌 続篇』3巻(明治20年頃) 『得則録』(嘉永7年) 『仰岳樓文鈔』(天保8年~14年) 『西洋砲術一斑抄』10巻10冊(慶応元年) | 『動植字彙』(未脱稿) 『握寄集解析義』2巻 『搴旗燈』・『講武津粱』 『示彪書』・『垂綸腹語』 『海防問答』・『銃戦問答』 『草書集體千字文』 『周易伝義●則』16巻 『大学章句翼』2巻 『孟子集註翼』14巻 |
42.『示彪書』
白浜での仰岳は読書のほか、竹細工や硯などの彫刻を趣味としていた。81歳で失明するが、健丈に変わりはなく、明治24年(1891)に83歳で没するその前日まで、講義は続けられた。亡くなったときも、一挙一動たりとも節度に乱れがなかったという。遺志により、白浜町原にある杖珠院墓地の高台に葬られた。「一片の石を表し豹隠先生墓と題せば可なり」という生前の仰岳の言葉は、質実を好んだ武士としての風格を思わせる。
恩田仰岳(右)・城山(左)記念碑
恩田城山は、仰岳の三男として天保9年(1838)駿河国田中に生まれた。諱は利武、字は之貞といい、これはともに城山が13歳の時に正訥から与えられたものである。幼名は駒之助で、のち通称駿太郎と改めた。城山は号である。仰岳の子女は城山以外皆夭折したため、城山が嫡子となった。
幼いころから父仰岳の厳格な教育を受け、安政3年(1856)江戸に留学して、市川梅巓の下で長沼流兵学を学び、芳野金陵に就いて儒学を学んだ。
江戸にあった城山は尊王論者の志士たちと行き来したため、3年経ったところで仰岳に呼び戻される。翌万延元年(1860)には日知館の兵学師範となり、漢籍や西洋流砲術の教授も行った。その後兵部省三番大隊屯所にはいってフランス式銃隊法を習い、また明治3年(1870)に家督を継いでからは、軍務館に属し、長尾藩権大属に任じられるなど、父と同じく兵学者の道を歩んだが、その期間はさほど長くはなかった。
廃藩となったのは城山が34歳の時で、その後は白浜に帰って、むしろ教育者として人生の大半を送ることとなる。明治6年(1873)、白浜小学校の開校と共に教員となり、明治28年(1895)までの22年間をここで務めた。同小学校を退職した年に、今度は旧長尾藩士市野義雄が北条に創設した私塾「日知学舎」に招かれ、20年にわたって漢学を教えている。大正4年(1915)再び白浜に帰った城山はその4年後に82歳で没し、父の墓所である杖珠院に葬られた。
氏名 | 経歴 |
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林 信太郎 (1868~1946) | 館野村広瀬(館山市広瀬)の生まれ。日報社(東京日日新聞を発行)の政経部汽車として活躍後、大正3年郷里の広瀬に私塾「時習舎」を開き、農村青年の教育に貢献した。恩田城山の三男、利政を養子に迎え、信太郎は天爵先生、利政は一釣先生とよばれて多くの弟子に慕われた。 |
川原 保 (1855~1936) | 健田村川戸(千倉町川戸)の生まれ。明治6年川戸小学校の開校と同時に教員となり、教職の傍ら仰岳の私塾に通う。明治11年千葉師範学校に入学。卒業後は県内の小学校長を歴任し、明治38年千歳小学校長を最後に退職した。退職後は自宅を青年たちの教育の場として提供し、その塾生の手による筆子塚が川戸の青年館に設立された。 |
石井 達 (1864~1923) | 九重村江田(館山市江田)の人。明治31年から明治38年まで菁莪小学校(後の国府小学校)の初代校長を務めたのち、九重村長を務めた。 |
成瀬作蔵 (1861~1939) | 旧長尾藩士のひとり。廃藩後、白浜に留まった藩士は、恩田家と成瀬家のみ。白浜小学校教員を経て、畑尋常小学校の第9代校長に就任。歯車の研究で著名な工学博士成瀬政男の父。 |
東 誠一 (1852~1920) | 旧長尾藩士のひとり。那古村寺町にあった「那古病院」の設立者。 |
鈴木貞守 (1867~1921) | 館野村国分(館山市国分)の生まれ。明治34年国分区長に就任し、館野村会議員を経て、郡会議員を務めた。 |
御子神久蔵 | 丸村石堂(丸山町石堂)の人。上京して教育事業に関わっていたが、後に帰郷して、自宅に私塾「晴耕学舎」を開設し、後進の指導にあたった。大正11年から昭和5年までに、丸村・豊田村・南三原村・和田町等からの入学者62名が記録されている。 |
青木文治郎 (1861~1919) | 豊房村神余(館山市神余)の生まれ。家業であった酒醤油製造業に従事する傍ら、村会議員、郡会議員を歴任した。 |
宇山仁右衛門 (1855~?) | 白浜村白浜(白浜町白浜)の人。明治26年以来、村政の主要な役職を歴任し、明治35年には白浜に漁業組合を設立して、水産業の発展に貢献した。 |
長尾藩の本拠地は北条に移転したが、隠居した仰岳は白浜に留まった。仰岳の人柄について、嫡男の利武(号城山)はその回顧録のなかで「穎敏剛毅」と述べている。武士として誇り高く、文武と礼節を重んじる代わりに音曲は嫌い、利武の教育に関してはとりわけ厳しかった。勉学を怠って囲碁でもしようものなら、その碁盤を刀で切り捨てるほどであったという。廃藩後、東京や郷里の田中などに出ていく藩士が多くいた中で、自らが城地として選んだ場所に留まったのも、兵学者としての誇りであったのかもしれない。
白浜の熊野神社脇の自宅には漢学の教授を請う門人が多く集まり、秉彝(へいい)学舎と呼ばれた。講義をする仰岳の声は朗々として、門外遠くまで聞こえたという。依然厳格ではあったが、授業を怠けて水泳に出かける生徒がいても特別にとがめることもなく、晩年は比較的穏やかであった。
門人の総数は知る術もないが、その中からは、教育界を中心に後の安房の文化を担う数々の人材が育っている。