1.長尾藩と仰岳

 元治元年(1864)、藩主正訥は駿府城代という幕府の要職についた。駿府城は東海道の重要な拠点にあたる。この駿府城の防備や戦略の対策を行うために、仰岳は藩から城の様子を調査するように命じられた。その翌年には『西洋流砲術一班抄』十巻十冊を著すなど、この頃の仰岳は兵学者としてまさに脂の乗り切った時期にあったといえよう。

 慶応3年(1867)、大政奉還によって幕府は終わりをつげ、翌年の鳥羽・伏見の戦いに敗れた徳川氏は、江戸城を明け渡して、駿河・遠江・三河を治める一大名となった。このため駿遠の諸大名は房総へ所領を移されることになり、田中藩は安房への所替を言い渡された。城主の格式を持つ大名は、領地において城を築かなければならない。仰岳はこの時すでに60歳だったが、藩の算学者古谷道生とともに、さっそく安房での城地選定にあたることになった。

 本多氏は長尾藩主として房総に4万石を与えられた。その領地は朝夷を中心に安房、平、長狭の各郡にまたがり、一部は上総の天羽郡内にもある。この中から仰岳が城の建設地として選んだのは白浜の長尾川流域であった。海岸まで迫った丘陵に取り囲まれた、天然の要害ともいえる場所で、かつて里見氏が居城とした白浜城跡に連なる地でもある。仰岳が従来の軍事的見地から選んだ地であったが、土地の狭さと交通の不便さから反対を唱えるものもあったという。長尾城の建設は、明治2年(1869)頃にはかなり進展し、藩士の移住も始まっていたが、同年の夏、大風に見舞われて、建設中の家屋が倒壊してしまった。これを期に、かねてからの反対論が主導権を得て、北条(館山市)に新たに陣屋が建設されることとなった。明治3年(1870)9月、仰岳は長尾藩から権少参事に任ぜられるが、その直後10月に職を辞した。長尾城倒壊の責務を負ってのこととされる。

 すでに藩籍奉還の措置がとられ、時代はもはや強固な防備の城郭を必要とはしなくなっていた。仰岳の辞任は、時勢の変化に伴う世代の交代であるといえるかもしれない。

116.北条陣屋絵図
116.北条陣屋絵図 個人蔵

 2.武芸と文芸

 田中藩では、寛政9年(1797)に新八条流馬術の名手仙田政芳、享和2年(1802)に直心影流剣術の小野成誠を師範として招いたのを契機に、各種武術が奨励され、12代藩主正訥の頃には藩校日知館が水戸の弘道館とともに「天下の二関」と称されるようにまでなった。仰岳は正訥が幼い折からの学問教授役の一人であり、そのため正訥の信頼もことさら厚かったとされる。

 仰岳の文芸面では、藤枝宿の旧家、大塚家との交流が挙げられる。寛文年間から醸造業を営む大塚家は、化政期以降の大塚亀石、荷渓、翠崖と3代にわたって詩や絵画をたしなんだことから中央文人が多く出入りし、地域における一種の文化サークル的役割を果たしていた。交流のあった文人には画家の池大雅、司馬江漢、高久隆古、詩家の菊池五山、大窪詩仏らが知られている。大塚荷渓、翠崖にあてた仰岳の書簡が残されていることから、大塚家を通じて、仰岳も中央の文人との交遊があったことであろう。

左 :91.伊予札紺糸素懸威具足 右上:73.陣笠 右中:74.陣笠 右下:82.鐙
左 :91.伊予札紺糸素懸威具足
右上:73.陣笠
右中:74.陣笠
右下:82.鐙
左:81.陣羽織 右:80.裃(恩田家家紋入)
左:81.陣羽織
右:80.裃(恩田家家紋入)
51.三段太刀口伝書

51.三段太刀口伝書

76~78.上:十文字槍、中:素槍、下:片鎌槍
76~78.上:十文字槍、中:素槍、下:片鎌槍
左:2.高久隆古画・芳野金陵題「盲人渡橋之画」 右:1.高久隆古画「魁之画」
左:2.高久隆古画・芳野金陵題「盲人渡橋之画」
右:1.高久隆古画「魁之画」
48.吉田栗堂作漢詩「奉送仰岳恩先生之東都」

48.吉田栗堂作漢詩「奉送仰岳恩先生之東都」

左:3.「鳥井強右衛門之画」 右:5.高久隆古画「人物図」
左:3.「鳥井強右衛門之画」
右:5.高久隆古画「人物図」
90.硯
90.硯
106.矢立
106.矢立

(以上、個人蔵)

  (2)西洋流砲術

 仰岳の功労の一つとして、藩の軍務に西洋流砲術を導入したことが挙げられる。ここでいう西洋流とは、具体的に高島流砲術のことをさす。高島流砲術は、江戸時代後期の砲術家、高島秋帆(1798~1866)によって唱えられた洋式兵学で、和流砲術の主眼が個人の技量を磨くことにあるのと異なり、共同作戦を前提とした、機能的な軍隊の編成を目的としている。

 田中藩では藩主正訥の代になった文久年間の頃から本格的な兵制改革が行われ、洋式訓練が実施されたという。しかし嘉永6年(1853)には、すでに藩士への西洋流砲術の訓練が始められ、安政年間には大砲も作られたが、この大砲鍛造を命じられた仰岳は、まださほど普及していなかった洋式兵学の知識を得るために苦心し、翻訳本を探して次々と読みあさったという。

 恩田家に残された「西洋流砲術入門誓紙」には、藩の要人を含めた総勢49名の名が血判とともに記されている。移りゆく社会情勢のなかで、時代に即した新たな軍務のあり方を模索していた藩の事情が察せられる。

65.西洋流砲術入門誓紙
65.西洋流砲術入門誓紙 個人蔵
66.西洋流砲術絵図
66.西洋流砲術絵図 個人蔵

  (1)長沼流兵学

 長沼流兵学は、江戸時代の初期に長沼宗敬(1635~1690)によって創始された。宗敬の著書『兵要録』、『握奇八陣集解』に基づいて、兵法の哲学上の道理や、「練心胆」に重点を置いた兵の訓練法などが説かれ、江戸において名声を博した新兵法学の流派の一つである。

 仰岳が入門した市川梅巓は、長沼流兵学の中でも特に繁栄した学統のひとつである宮川系の流れをくむ一派であった。のちに梅巓が松前城(北海道)の改築に携わった際に、仰岳を連れていきたいと希望したが、田中藩からの許しが得られなかったという話も残っており、仰岳の資質が高く評価されていたことをうかがわせる。

54.長沼流兵学目録
54.長沼流兵学目録 個人蔵
55.長沼流兵学宮川伝目録
55.長沼流兵学宮川伝目録 個人蔵
53.長沼流兵学火箭法伝書
53.長沼流兵学火箭法伝書 個人蔵

【3】駿河田中藩の仰岳
 1.藩校日知館と仰岳

 江戸時代の後期は、幕藩体制がゆるぎをみせはじめた時期だが、一方で化政文化に代表されるような学芸分野が著しい発展を見せた時期でもある。田中藩でも寛政期頃から藩を挙げての文武奨励の気運が高まり、藩主正意はまず、他藩から優れた文学者・武芸者を招いて師範役に据えた。続いて、有能な藩士を育成するために江戸留学の道を開いたり、武術の免許を得た者には長男でなくても新たに家を興すことが出来るようにするなど、文武を修めた者に特別に良い待遇を与えた。文政12年(1829)に正意の後をうけた11代藩主正寛は、さらに藩内の諸政一新を図り、本格的な藩政改革に着手した。藩士教育はその主要な柱であり、改革の成果の一つとして、天保8年(1837)藩校日知館が開設されたのである。

 日知館における教育の最大の特徴は、各種武術の振興にあった。開設当時の武術師範は、兵学、弓術、剣術、馬術、砲術、槍術、柔術の各分野に及び、天下の三公子とも称された博学の12代藩主正訥の頃には、さらに多くの流派が取り入れられるようになった。正訥は、万延元年(1860)、江戸藩邸の敷地内にも江戸日知館を開設し、当時優れた儒学者として知られていた芳野金陵を漢学師範に迎えている。

 さて、仰岳が江戸留学を終えて帰還した天保4年(1833)は、まさにその日知館開設に向けての準備が進められていた時であった。天保5年(1834)の記録のなかには、学文所世話役と兵学師として仰岳の名が記されている。また「田中亀城之図」(藤枝市大慶寺蔵)を見ると、仰岳の住まいは日知館のすぐ隣にあり、同じ並びに藩校の師範邸があることがわかる。

113.田中亀城之図(部分)
113.田中亀城之図(部分) 藤枝市・大慶寺蔵

【2】恩田家の系譜

 恩田氏は、上野国沼田を本貫とする土豪で、その名字は沼田庄恩田(群馬県沼田市)に由来する。この沼田という土地は、戦国時代において、越後上杉氏にとっての関東計略上の重要な拠点であり、上野国を狙う小田原北条氏や甲斐武田氏とのせめぎ合いがしばしば行われていた。そのため沼田周辺の土豪たちは、上杉・北条・武田・さらには武田氏滅亡後に独立勢力となった真田氏など、頻繁に入れ代わる支配者にその都度従ったようである。

 『関東幕注文』には、沼田衆として恩田孫五郎・同与右兵衛尉の名がみえ、永禄3年(1560)の上杉氏関東出兵以後は上杉氏の配下であったことがわかる。しかしその後、着々と上野国に領国を拡げていた北条氏が天正7年(1579)に沼田を手に入れ、さらに翌8年には武田氏が攻め落として真田昌幸を沼田へ置くなど、この頃から沼田の情勢は一気に緊迫してくる。

 真田氏は武田氏滅亡後も沼田の支配を続け、この頃恩田越前守・同伊賀守がこの真田氏の配下にあった。しかし天正17年(1589)、豊臣秀吉の裁定によって沼田領は真田氏と北条氏に分割され、恩田越前守は北条氏より本領の安堵をうける。さらに翌年、北条氏が滅亡すると、今度は上杉景勝に従い出羽国庄内の大宝寺城在番を命じられた。恩田越前守のその後の動向は不明であるが、子の左京とともに慶長19年(1614)の大阪冬の陣で戦死したと伝えられる。一方、越前守の子と思われる恩田左門はそのまま真田氏に仕え、次代の左門は真田信利の代に300石で年寄役を務めた。その子庄兵衛も同じく真田信利に仕えたが、信利が天和元年(1681)に改易されたため、その後は浪人となった。

 真田家改易後の沼田に本多氏が入封してくるのは、元禄16年(1703)のことである。浪人中であった庄兵衛の子利忠は、享保14年(1729)に本多正矩に仕官して中小姓格御広間番として出仕し、これが恩田氏と本多家がかかわる最初となった。この利忠は仰岳の曾祖父にあたる人で、享保15年(1730)本多家が駿河国田中へ移封されると、それについて父祖の地を離れていったのである。以降の恩田家は、仰岳の祖父利皓が御代官、新八条流馬術を修めた父利久が町奉行を務め、次第に出世を遂げるようになっていった。

13.知行宛行状
13.知行宛行状 個人蔵
 某氏より恩田左門に宛てた知行宛行状である。天正9年(1581)か文禄2年(1593)と思われ、下河田(沼田市)で10貫722文、大原(群馬県利根郡利根村)で5貫文を所領として与えられている。印判の主は真田信幸であろうか。
16.真田信吉知行宛行状
16.真田信吉知行宛行状 個人蔵
 元和2年(1616)、真田信幸の信州上田移封によってその子信吉が沼田3万石を継ぐことになった。この文書は元和4年、真田信吉より恩田左門に宛てた知行宛行状で、真田家への永年の奉公に対して沼田で50石の所領を加増したものである。
18.恩田左門知行目録

18.恩田左門知行目録 個人蔵
 明暦3年(1657)、信吉の子信利が沼田藩主を継いだ。その年代替わりによる知行地の安堵が家臣に対して行われ、その際恩田左門に与えられた所領の目録である。左門の知行高は300石で、所領は本貫の地恩田村(沼田市)をはじめ、岡谷村・戸鹿野村(ともに沼田市)、上津村(利根郡月夜野町)にあった。

23.真田信利知行安堵状

23.真田信利知行安堵状 個人蔵
 寛文8年(1668)、父左門の隠居により家督を継いだ庄助(のち庄兵衛)に対し、藩主信利は新たに所領の宛行いをおこなった。所領は蟻川村(吾妻郡中之条町)と植栗村(吾妻郡吾妻町)で301石余であったことがわかる。

25.扶持米宛行状
25.扶持米宛行状 個人蔵
 真田家の改易により浪人していた庄兵衛が享保13年(1728)に没すると、翌年その子庄之助利忠は沼田での由緒ある家柄ということで、新たな沼田藩主本多家より月三人扶持の扶助米を給された。この文書はその際の御用書である。これにより利忠は本多家への奉公を願い出で、6月中小姓格として沼田城御広間番を勤めることになった。
36.家譜正書
36.家譜正書 個人蔵

 2.幕末維新期を生きた仰岳

 仰岳の生涯は、幕末という時代背景を抜きにしては語ることが出来ない。仰岳が日知館で受け持っていた講座は、長沼流兵学の他に高島流砲術があった。これは俗に西洋流の砲術とよばれるものであるが、田中藩では他に武衛流砲術、藤岡流砲術、不易流砲術といった諸流派を教学のなかに採り入れている。こうした各種の砲術が奨励されたのは、このころ欧米諸外国の軍艦が頻繁に日本海付近に出没しはじめたという社会情勢を背景に、藩のなかで軍備のあり方を新しく考え直そうとする試みがなされていたことによる。

 田中藩の海防問題の発端は、文政9年(1826)にさかのぼる。この年、遠州榛原郡の沖に外国船が出没し、近隣の諸藩が警備にかりだされるという一件があった。これをきっかけに海防を含めた軍制の強化が図られ、安政年間には砲工を招いて大砲を鍛造するに至る。仰岳は当時足軽や鉄砲隊を率いる役職についていたことで、師範としての講義だけでなく、大砲の試射等の実地訓練にも携わった。またこれに先立つ嘉永6年(1853)に、ペリーの率いる米国軍艦が浦賀に入港した際、仰岳は藩主正寛によばれて約一年間江戸に出向し、海防の任務にもあたっている。そもそも長沼流兵学という我が国古来の兵法理念を支持してきた仰岳にとって、西洋流の兵制の導入は、少なからぬ抵抗があって当然である。事実、藩の中でも西洋流砲術への反感があったといわれているが、にもかかわらず、あえてこれを積極的に藩の軍務のなかに採り入れようとしたところに、時代の流れを見越した、兵学者仰岳の決断力がみてとれるのである。

 明治元年(1868)、戊辰戦争によって江戸城が開城されたのに伴い、明治新政府は徳川氏に対して静岡藩主という一大名への転落処分をとった。このことは、田中藩に安房への移封という大変事をもたらす。そして仰岳にとってもこれが人生における転換期となる。長尾藩士となって安房に移住した時を最後に、事実上仰岳の兵学者としての業績は幕を閉じ、その後は白浜の地で漢学を講じながら、明治という新しい時代の中で、地域の教育の普及に携わることになるのである。その人生は、まさに幕末から明治にかけて我が国がたどった歴史そのものであるといえよう。

左:79.裃(本多家家紋入) 右:75.白糸威二枚胴具足(藩主から拝領の甲冑)
左:79.裃(本多家家紋入) 個人蔵
右:75.白糸威二枚胴具足(藩主から拝領の甲冑) 個人蔵
92.呼出状

92.呼出状
個人蔵

100.恩田仰岳所用算盤

100.恩田仰岳所用算盤
個人蔵
裏に「嘉永5年恩田氏」と墨書があり、仰岳が勘定奉行を兼務していた頃使用していたもの。

【1】仰岳の事積
 1.師範へのあゆみ

 恩田仰岳は、文化6年(1809)田中藩士恩田新五右衛門利久の長子として、駿河国田中(静岡県藤枝市)に生まれた。諱は利器、字は大用といい、仰岳は号である。幼名は爲で、元服後は通称恭太郎、家督相続後は豹太と改め、明治3年(1870)に隠居してからは豹隠をなのった。

 田中藩では、仰岳が生まれた文化・文政の頃からとりわけ文武が盛んになり、仰岳にとっては幼ない頃から教育を受ける上で恵まれた環境にあった。7歳から19歳までの13年間にわたって、隣に住んでいた儒学者石井縄斉のもとで学び、またその間に剣術、馬術等の武術も修めた。仰岳の恩師、石井縄斉は、文化11年(1814)第10代藩主本多正意によって江戸から招かれ、後に藩校日知館の設立にあたって中心的な役割を果たした人物である。その縄斉が、英知にもまた悪戯にも秀でていた仰岳の利発さに感嘆し、「この子に兵学を学ばせたなら、必ず大用をなすであろう」といって、諱と字を与えたという。

 わが国の兵学は古くから中国の兵法理念の影響を受け、西洋の戦争学のように戦争の技術を説くのではなく、仁義の観念や政略と戦略の一致を大切にしていた。江戸時代には、戦国時代の名称の実戦歴が回顧されて、「軍学」の名のもとに60あまりもの流派を生むほど隆盛を極めている。田中藩では、天保2年(1831)から本格的な藩政改革への取組みがはじめられ、藩士教育を積極的に押し進めようという動きが高まっていった。こうしたなかで、優れた兵学者を擁すことが、藩にとって重要な課題であったのであろう。文政10年(1827)19歳の仰岳は、縄斉の勧めで兵学習得の命を負い、江戸へ出る。

 江戸の数ある流派から、仰岳は長沼流兵学を選び、儒学者でもあった市川梅巓のもとに入門した。江戸留学は当初3年の予定だったが、仰岳はさらに3年の延長を願い出て、その間に兵学のみならず、幕府の教育施設の昌平坂学問所で儒学も修めるという向学ぶりであった。藩からの僅かな手当てで苦学を余儀なくされながらも、通算6年の留学を経て長沼流兵学の印可を手にし、天保4年(1833年)4月田中に帰る。帰着早々に仰岳は藩から兵学師範を命じられ、さらに4年後の天保8年(1837)に藩校日知館が開設されると、ここの師範役の座についた。設立当初の日知館の師範は、文学が3名、武術が9名であり、田中藩が特に武術の奨励に力を注いでいたことがわかる。仰岳はこの武術師範の一人として、長沼流兵学を教えることとなった。

 師範役の一方で、仰岳は藩政に関わる役人としても様々な役職を歴任している。兼職を含めて以下に列挙すると、御長柄奉行、御者頭、寺社奉行、御持頭、郡奉行、御勝手頭、番頭、権少参事等である。また一時期、勘定奉行を兼務したこともある。兵学と漢学の学者である仰岳にとっては専門外の大役であったが、当時すでに40歳を越えていたにもかかわらず、藩中の者から毎晩数学の手ほどきを受け、2~3ヵ月で熟達してしまったという、生来の旺盛な向学心をうかがわせる逸話である。

52.長沼流兵学目録 個人蔵