裏表紙

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図録
安房の人物シリーズ(4)
万里小路通房
平成8年2月10日発行
編集発行 館山市立博物館
     〒294 館山市館山351-2
     TEL 0470(23)5212
     FAX 0470(23)5213

印半纏の背紋「カニ萬」

万里小路通房略年譜

年号 年令 日付 できごと
嘉永元年
(1848)
1 5月27日 堂上公家(名家)正二位万里小路博房の長男として生まれる
安政4年
(1857)
10 元服昇殿して従五位に叙せられる
文久3年
(1863)
16 4月6日 執奏として丹波国常照寺へ参向する
8月12日 政変により父博房が差控を命じられる
慶応元年
(1865)
18 1月 前年7月の禁門の変での精勤を賞され、幕府献納の内より金30両を受領する
10月 右少弁に任じられる
  3年
(1867)
20 12月 王政復古に際して書記御用掛となる
明治元年
(1868)
21 2月 京都大原野神社の大原野祭で弁を勤め、参向する
2月20日 参与助役から参与に任ぜられ(~閏4月21日)、軍防事務局親兵掛となる
閏4月 関東監察使三条実美に随行して江戸へ下り、権右中弁に任じられる
閏4月21日 従四位下に叙せられる
7月10日 錦旗奉行河鰭實文上京にあたり錦旗奉行加勢を命じられる
  29日 鎮将府弁事に任じられる
8月2日 御旗監に任じられ、参謀助勤となる
  9日 大総督府(有栖川宮)参謀を兼ねる
奥羽追討のため参謀として、東北へ出征
10月2日 会津残党による水戸城襲撃の騒乱鎮定の命を受ける
  30日 東北平定の功を賞され、天皇より品を賜る
11月2日 軍務官副知事助勤を命じられ(~12月1日)、東京在勤となる
  2年
(1869)
22 2月 勅使として山口に赴き、毛利敬親に召命の宸翰を伝達する
6月2日 戊辰の戦功により賞典禄百石を永世下賜される
  3年
(1870年)
23 3月 天皇の講学に内番として陪侍する
11月 官費による英国留学を命じられる
  7年
(1874年)
27 7月8日 帰国し、その後工部省御用掛・宮内省御用掛など歴任
  8年
(1875年)
28 5月 嫡子直房生れる(母八重子)
  15年
(1882)
35 5月 千葉県下八街における春期近衛小演習の天皇視察に、宮内省御用掛として随行し、地雷爆破跡を巡検する
11月 宮内省の侍従に任じられる(17.3.27再任~23.9.16非職)
  17年
(1884)
37 2月22日 父博房没す(61才)
4月 家督を継ぐ
7月 華族令発布により、伯爵を授けられる
  18年
(1885)
38 7月 天皇より乗馬一頭を賜る
  20年
(1887)
40 鴨川町の烈婦畠山勇子、東京の万里小路家に奉公する
  21年
(1888)
41 2月 北九州へ陸軍参謀旅行に派遣される
宮内省(主馬寮)の御用により、房州峯岡牧場を視察するという
  22年
(1889)
42 3月 北海道新冠御料牧場の視察に派遣される
  23年
(1890)
43 9月16日 侍従職をやめる
  24年
(1891)
44 2月 貴族議員となる
  25年
(1892)
45 1月 この時までに北条海岸の別荘地を取得する
12月 豊田村莫越山神社の額面の揮毫を小松宮へ仲介する
  26年
(1893)
46 11月 北条町六軒町の高山恒三郎、通房をとおして菊花を天覧に供す
  27年
(1894)
47 6月 館野村稲に田を取得する
8月 北条町に農園(現市役所の地)を取得する
  28年
(1895)
48 宮内省御料局技師(新宿植物苑主任)福羽逸人を北条の別邸に招き、促成栽培の指導を受け、家庭園芸として胡瓜・茄子などを栽培する
1月 安房国農会に農業牧師を紹介し、農事講習所および試験場経費として金50円を寄付する
また安房国農会に図って促成栽培講習会を開催し、2月に3名が新宿御苑に派遣され、翌年6月まで実地伝習をうける
6月 北条町小原遊園に、征清兵士の凱旋を迎え、紙巻タバコ5000本を寄贈する
安房平朝夷長狭郡部医会に乞われて凱旋兵士出迎えの大旗に揮毫する
  29年
(1896)
49 9月 和田町の庄司長次右衛門の次男鈴木徳治郎の日清戦争の碑に揮毫する
12月 北条町木村屋楼上で蔬菜品評会を主催する
  30年
(1897)
50 1月 英照皇太后の御葬祭斎官をつとめる
3月 豊田村の日清戦争戦没者二名の碑に揮毫する
11月 八重子夫人没す
館山町青柳の日枝神社に扁額を揮毫する
  31年
(1898)
51 3月 北条町へ本籍を移す
  32年
(1899)
52 北条町の農家に指導農場でなす栽培技術を指導する
  33年
(1900)
53 10月 安房神社祢宜川名楽山の記念碑に篆額する
  34年
(1901)
54 9月 北清事変で戦死した西岬村坂田の鎌田萬次郎の碑に篆額する
  35年
(1902)
55 2月 館山町の前田伯志の俳誌『房の栞』に題字を寄せる
2月 南三原村の加藤七平著『安房孝子伝』に題字を寄せる
隣町の彫物師後藤義光の米寿の記念碑に篆額する
5月 安房中学校開校を祝し祝歌を寄せる
5月 北条の大工棟梁石井栄太郎の子に名前をつける
5月 豊田村沓見の吉野九左衛門妻伊勢の孝女碑に篆額する
  36年
(1903)
56 3月 安房大道会の会長となる
3月 孫の芳房が生まれる
  38年
(1905)
58 3月 那古町那古寺の和泉式部廟雨覆等建築費を奉納する
3月 北条町浜通に土地を取得(昭和通り沿い)
  39年
(1906)
59 2月 日露戦争凱旋記念の三重盃を配布する
3月 館野村稲の農会員山口梅寿(五平)の寿碑に揮毫する
10月 館山町の俳人前田伯志の喜寿を祝う俳誌『残の雪』に一句を寄せる
11月 日露戦争で戦死した館山町の吉田馬之助の碑に揮毫する
  40年
(1907)
60 2月 船形町の川名宗寿の記念碑に揮毫する
5月 丸村丸本郷の農会員松田市五郎の子に名前をつける
7月 日露戦争で戦死した北条町の石原金太郎忠魂碑に篆額する
7月 従二位に叙せられる
9月 長男の正五位直房没す(33才)
  41年
(1908)
61 この頃、安房中教諭斎藤東湾著『安房志』に題字を寄せる
  43年
(1910)
63 豊房村作名の諏訪神社社号碑・額を揮毫し翌年1月建立
  44年
(1911)
64 9月 作名の諏訪神社境内にモッコクの木を植える
  45年
(1912)
65 1月 明治天皇より下賜の菓子鉢を家令の高山恒三郎にあたえる
大正元年
(1912)
65 7月 明治天皇大喪で大喪使祭官副長をちとめる(~9月)
  2年
(1913)
66 4月13日から19日までの一時、北条町長となる
7月 明治45年7月に没した斎藤東湾の記念碑に篆額する
10月 北条小学校運動会のため例年通り寄付金を出す
  4年
(1915)
68 8月 安房農会五老の一人で安房大道会の幹事秋山弘道の寿碑に篆額する
12月 代37回常会の貴族院資格審査委員会委員長をつとめる
  5年
(1916)
69 5月 郡立安房高等女学校(安房南高)の校歌を作詞する
  7年
(1918)
71 9月 豊津村宮城の元名主宮木久左衛門の記念碑に篆額する
  9年
(1920)
73 6月 日本弘道会安房支会を発足し、顧問になる
7月 元和田町長屋代市左衛門記念碑に篆額する
  10年
(1921)
74 3月 孫の芳房、安房中を卒業する
4月 北条町六軒町諏訪神社の合祀記念碑に篆額する
7月 安房郡農会五老の一人加藤七平の表彰碑に篆額する
  11年
(1922)
75 11月 第4回県下中等学校柔剣道大会で優勝した安房中の凱旋を迎える
  12年
(1923)
76 9月 関東大震災で新塩場の別邸が倒壊、浜は倒壊を免れる。また安房郡震災復興会の顧問となり、復興のため1000円寄付している
  13年
(1924)
77 9月 貴族院議員を引退する
  14年
(1925)
78 7月 館野村萱野の三義民刑場跡の記念碑に揮毫する
8月 震災記念観音堂建設にあたり額に揮毫する
  15年
(1926)
79 4月 『千葉県安房郡誌』に題字を寄せる
5月 館山村山本の大正堰が竣工し、記念碑に篆額を寄せる
昭和2年
(1927)
80 傘寿を記念して菓子折りを作り、配布する
  3年
(1928)
81 三瓶今朝吉の理髪店改行10周年を記念して書を贈る
  5年
(1930)
83 3月 船形町の正木清一郎寿像除幕に際して歌を寄せる
  6年
(1931)
84 9月 安房郡農会五老会のひとり主基村田中儀平の碑に篆額を寄せる
  7年
(1932)
85 3月4日 北条海岸の屋敷で没す
左:111.通房植樹のモッコクの木 <作名諏訪神社>(明治44年) 右:妙定院の万里小路家墓所(東京都港区)
左:111.通房植樹のモッコクの木 <作名諏訪神社>(明治44年)
右:妙定院の万里小路家墓所(東京都港区)

 (3)地域の人々との交流

 通房は公家育ちであり、かつ天皇にも近侍したことから、当然のことながら充分な教育と文化的素養とを身につけていたであろうし、中央の文化人との交流もあっただろう。和歌においては歌人佐佐木信綱の批正を受けていたというが、そのほかの交友については不明である。

 安房においてはさまざまな人々と交流した。それは郡内各界の名士はもちろんだが、出入りの職人や一般農会員などとも気さくに付き合っていた。そうした人々との交流の話には通房の人柄を伝えるものも多く、北条から離れた家には気やすく泊まりがけで出かけたり、野菜を作りすぎると自分で知人に配ってまわったという話もある。通房をよく知る人は尊敬をこめて「トノサマ」とよんだというが、町の人々は気楽に「マデサン」と呼んでいたところにもその人柄をみることができる。また知識や技術ばかりでなく、通房との交友から人格的にその感化を受けた人も多い。以下通房の遺墨などから交流のあった人々とそのエピソードを伝えよう。

吉田謹爾

吉田謹爾墓 <北条・不動院>
吉田謹爾墓<北条・不動院>

 通房来房当時の安房郡長(当時は安房平朝夷長狭郡長。明治14年~28年在職)。明治28年設立の安房郡農会(当時は安房国農会)の会長になり、通房とは移居当初からの付き合い。新塩場の本邸ももとは謹爾が住居していた場所である。大正2年に通房が後任町長として要請したのは謹爾であり、大きな信頼を寄せいていたことがわかる。臨終にも立ち会い、墓碑銘の揮毫は通房から申し出た。謹爾の絶筆は通房への感謝を歌った和歌である。大正3年没、65歳。

山野井与三右衛門

山野井与三右衛門墓

 大山村平塚(鴨川市)の老農で、郡農会副会長。畜産や養蚕の振興につとめた。かつて屋敷に近所では珍しいトマトがあった。明治38年没、67歳。

吉田周蔵

 稲都村中(三芳村)の老農で、郡農会専務幹事。農会の設立や稲作の改良に尽力した郡農会最大の功労者である。明治33年頃にその功績を記念して名家の詩歌が贈られたが、通房も周蔵を讃える和歌を入れた盃をつくって贈った。周蔵は、晩年の手記で通房のもとへ出入りして品行を改め、人格人道の感化をうけたことを感謝している。大正12年没、84歳。

田中儀平

 主基村北小町(鴨川市)の老農で、稲作の改善に尽力した。貧農より身を起こした精農家で、通房の贈った離念の歌も、厳しい言葉のなかにも精励してきた人に対する大きな評価がみえる。儀平の顕彰碑の篆額は通房。大正5年没、72歳。

加藤七平

116.加藤七平表彰碑篆額(大正10年)
116.加藤七平表彰碑篆額(大正10年)

 南三原村白渚(和田町)の老農。46歳で隠居すると、飢饉にそなえた甘藷団子や松皮餅などの製造奨励や農書の著述、また安房地方の善行者の顕彰に余生を送った。明治35年に著した『安房孝子伝』の題字や同年建立の孝子顕彰碑の篆額は通房が書いている。七平の表彰碑の篆額も通房の書。明治39年没、68歳。

秋山九右エ門

113.秋山弘道寿碑篆額(大正4年)
113.秋山弘道寿碑篆額(大正4年)

 館山町青柳(館山市)の老農で、郡農会幹事。弘道は号。養蚕の奨励普及につとめ、また安房大道会の幹事として道徳教育にも尽くした。会の中心人物であり、86歳の寿碑は大道会で建立、篆額は通房が書いた。大正14年没、98歳。

山口五平

103.山口五平寿碑(明治39年)
103.山口五平寿碑(明治39年)

 館野村稲(館山市)の人で、村の筆取をしていた。おそらく中年になってからであろう、算術・筆法・歌道・挿花・謡・俳諧をそれぞれ師について学んでいる。号は松竹園梅寿。郡農会員。稲から二子にかけては万里小路家の土地があったといい、五平がその収穫米を取りまとめて送ったという話が残っている。そのうち、一筆は明治27年に取得されている。五平の寿碑は通房の揮毫。明治40年没、90歳。

田中正一郎

 豊房村神余(館山市)の素封家。郡会議員などをつとめた。神余の酒造家青木文次郎とともに、神余にあった万里小路家の田の管理を頼まれていたといい、小作取りのときには通房が家にきたそうだ。また年始には通房のもとへ挨拶にいったという。通房が隼人瓜の種をもってきて、集まった人に配ったという話もある。祖父六郎が郡農会設立時の農会員。正一郎は昭和12年没、63歳。

寺田安蔵

 神戸村藤原(館山市)の郡農会員。通房はよく「安蔵いるか」と訪ねてきては、「これを植えてみろ」といって新しい野菜の種をおいていったという。神戸地区の落花生は有名だが、これは通房が持ち込んだものだといい、他にもトマトや隼人瓜の種をおいていった。大正13年没、74歳。息子の亀太郎が通房に促進栽培を指導され、神戸地区に導入した。

松田市五郎

 丸村丸本郷(丸山町)の素封家。郡農会員。正月に作った野菜や梅干しをもって万里小路家へ年頭の挨拶にいき、通房が作った珍しいものや猪の肉、西洋菓子などをもらってきたという。明治30年代には冬に鉄砲を打ちにきて泊まったことがある。昭和6年没、67歳。市五郎の子哲四郎は通房の屋敷から安房中2回生として通ったといい、哲四郎の娘には通房が自分の娘と同じ名前を付けてくれたという。

鈴木周輔

 九重村薗(館山市)の郡農会員。通房との交流はないらしく、親類の家令高山恒三郎との関係で依頼したらしい。昭和7年没、79歳。

前田国橘

 東京の陸軍獣医官で俳句の宗匠。号は伯志。明治30年代に館山町の北下台に住すようになる。通房は伯志の俳誌『房の栞』の題字を揮毫し、また『残の雪』に伯志の喜寿を祝って一句よせているが、通房の俳句はめずらしい。大正9年没、92歳。

斎藤東湾

 安房中の漢文教師。東湾の遺作に通房との交友を詠んだ漢詩が8点ある。明治34年の赴任時に鯉を贈られたこと、通房と碁を打ったときのもの、通房屋敷の寒牡丹を詠んだもの、嫡孫の誕生祝いなど。また通房を梅洲あるいは鏡浦と称しているものがある。東湾が著した郷土誌『安房志』の題字と顕彰碑の篆額は通房が揮毫した。明治45年没、55歳。

10.『安房志』題字(明治41年)
10.『安房志』題字(明治41年)

加藤龍一郎

 那古町那古(館山市)のひと。20歳の頃に通房の花の弟子になり、流芳斎の号をもらったという。扁額は通房が刻んだものだというが、紫川が通房の号であるかは不明。加藤家には遠州流の花器がある。昭和46年没、85歳。

黒川弥太郎

 九重村大井(館山市)のひと。明治36年から大正8年までの北条小学校長。通房と懇意にしており、お互いの屋敷で丹精する菊を鑑賞しあい、通房が晩餐に誘ったりすることが書簡にみえる。昭和18年没、84歳。

正木清一郎

 船形町船形(館山市)のひと。近代水産業の功労者で、船形町長もつとめた。日本弘道会安房支会の設立に携わっている。昭和9年没、80歳。父貞蔵は通房の茶の湯の相手であり、また通房屋敷の菊を鑑賞して俳句を詠んでいる。通房を安房大道会の会長に推薦したのは貞蔵だった。大正2年没、75歳。

鈴木鶴松

 館山町上須賀(館山市)のひと。館山桟橋会社の社長で、自宅に通房を招いて謡などをやったという。俳句もたしなむ。鏡ヶ浦に汽船を出して高官の密談に便宜をはかったという話がある。昭和27年没、82歳。

鹿島政五郎

 北条町仲町(館山市)のひと。北条郵便局長で、町会議員もつとめた。通房との交流は不明。親類の家令高山恒三郎の仲介で書をもらったというが、通房賀寿の記念菓子鉢をもらっており、直接の付き合いもあっただろう。昭和33年没、83歳。

後藤憲二

 北条町六軒町(館山市)の医者。耳鼻咽喉科の後藤医院を大正13年に開業。通房との交流は不明。昭和27年没、63歳。

上野隆郷

 北条町長須賀(館山市)の眼科医。上野医院を開業。文芸に通じ別天舎・三英などと号す。通房との交流は不明。大正8年没、82歳。

秋山邦美

 九重村大井(館山市)のひと。大正3年頃には北条町南町の呉服商若松屋の番頭をしていて、通房の屋敷へ遊びに出入りしていたという。のち九重村長になった。昭和21年没、67歳。

川名貞蔵

 船形町川名(館山市)の素封家。兄惣十郎(宗寿)の跡を継ぎ、兄の墓表建碑にあたって通房に揮毫を依頼した。海老を下げて頼みにいったといい、字の気に入らない部分の直しを頼んだところ、「俺は書家じゃない」といわれて、またお詫びの海老をもっていったというエピソードがる。昭和13年没、90歳。

野村實

 東条村広場(鴨川市)の建具職。昭和4年より村会議員。通房との交流は不明だが、大正13年より文芸を通して地方青年の善導を試みている。昭和57年没、92歳。

松葉丈四郎

 大正3年に静養のため北条町鶴ケ谷(館山市)に転居してきた退役軍人。当時北条にいた退役軍人の将校で「茶話会」という会合をもち、通房をよんで話を聞いたという。そうした付き合いから通房が作りすぎた瓜などを人力車に乗って届けてきてくれることもあり、通房の葬儀の時は軍人会が取り仕切ったという。昭和46年没、91歳。

石井兼次

 北条町六軒町(館山市)の草分けの一軒、屋号ゲンシチドン。植木職として海岸の屋敷へ出入りした。万里小路家専用の脚立がある。兼次は冗談坊で通房を笑わせて気に入られていたが、言葉が過ぎて一度出入り禁止になったことがある。しかし通房のほうが淋しくなって出入りを許したとのこと。二人でよく釣にいったという。屋敷内には通房がくれたシュロの木がある。昭和6年没、73歳。

石井栄太郎

 北条町六軒町の大工棟梁。海岸の屋敷を建てたという。通房に可愛がられ、息子の名前を通房に付けてもらった。また万里小路家で初めて葡萄酒を飲ませてもらって引っ繰り返ったという逸話もある。カニ萬の半纏を誇りにしていた。昭和18年没、66歳。

三瓶今朝吉

 北条町六軒町の理髪店主。大正7年に開業し、通房の散髪をしに海岸の屋敷へ頻繁に出入りした。ニューヨークの橋を描いた銅板画は通房の洋行みやげで、今朝吉が記念にもらったもの。写真31の書は昭和3年の開店十周年を記念して通房が書いたもの。昭和37年没、71歳。

31.『筆歌墨舞』(昭和3年)
31.『筆歌墨舞』(昭和3年)

広野常市

 北条町南町(館山市)のひと。通房の書生をして、通房の子通利と同学年で安房中に通った。明治44年卒業。その後千葉師範を出て、神余小や豊房小の校長になった。昭和38年没、72歳。

渡辺雄太郎

 南三原村海発(和田町)のひと。通房の書生をしていて、カメラを担いで通房の後をついてまわったという。君津市の三石山へも一緒に歩いていった。その後北条町六軒町の浅井写真館で修業し、大正年間に渡辺写真館を開業した。通房葬儀の出棺写真(No.55)は渡辺写真館で撮影。昭和59年没、82歳。

島田安治

 館山町のひとか。家令高山恒三郎の仲介で書いてもらったのであろう。

高山恒三郎

 北条町六軒町(館山市)の草分けの一軒、屋号デーミドン。北条の万里小路家の家令だったという。徴兵により明治33年・34年の北清事変に従軍、さらに日露戦争にも従軍して、通房から凱旋記念として和歌と盃をもらっている。知り合いから通房の揮毫を頼まれたり、大正2年の町長就任のときなども町当局から取り成しの依頼を受けている。昭和50年没、95歳。また先代恒三郎(可笑)は郡農会員で、通房とも早くから親しかったらしく、可笑が丹精する菊が珍しい咲き方をしたことから、明治26年に通房のはからいでそれを明治天皇の天覧に供したことがある。菊の大輪の中からさらに数本の花が咲いた貫生花で、侍従長徳大寺実則から通房にあてた書簡が残されている。昭和2年没、83歳。

 (2)社会教化

 一方、精神面での変革の必要性も感じていたのであろう、道徳教育を中心とした社会教化活動にも積極的にかかわり、支援していた。

 明治政府の急激な欧化政策が西洋心酔や功利主義の弊害を生み、明治10年代に道徳思想家の西村茂樹が日本弘道会を組織して国民道徳の振興と道義国家の建設を主張すると、これに影響を受けて国粋主義が台頭する。そのひとり陸軍中将の鳥尾小弥太は明治21年(1888)に日本国教大道社を結成するが、その頃安房館山町に住していた同郷の金近虎之丞にすすめて、安房地方にも安房大道会を組織した。この会は神道家川合清丸の唱道する神儒仏の三教一致を掲げたもので、その目的は「地方風教の改善」であり、「徳義人道を奨励し、一般の風俗を醇厚ならしめん」という民衆の道徳教化にあった。鳥尾を会長におき、大巌院住職石井静江を中心に安房神社神官川名楽山など18名で発足した。

 明治36年(1903)通房はこの会の会長を要請され、地域の社会教化にもかかわっていくことになる。その活動は講和を中心とした修養に重きをおき、大正6年(1917)には400名を越える団体になっていた。大正8・9年(1919・1920)の記録では、通房の屋敷を会場に毎月5日に5,60名を集めて開催されている。延命寺住職佐々木珍龍など宗教家や安房中学校長寺内頴・安房高等女学校長豊沢藤一郎などが講師として招かれている。

 しかしそうした活動とは別に、大道会の幹事であり篤農家として知られた秋山弘道は、大道会の活動の一環として、幻灯機を携えて養蚕の奨励をしてまわったとの話が伝わっており、通房の会長就任によって会の活動方針は、風教改善と産業奨励のふたつの方向性をもつようになった。そこには伝統産業の保護育成によって国力の増強を図ろうとする、国粋主義による近代化の構想と通じる面をみることができる。

 安房大道会の活動を行う一方、大正9年6月に大道会と同様の社会教化団体である、日本弘道会の安房支会が発足すると、その顧問にも就任している。道徳教育を中心とした修養活動を行なう団体だが、大道会が僧侶や神官、篤農家、職人などが多く幹事に名を連ねて活動するのに対して、弘道会の発起人には安房郡長をはじめ政治家・実業家・教育者などの当時の名士が名を連ねている。しかし「人心を正し、風俗を善く」するための道徳運動を展開する面では大道会と同じ主旨をもつものであった。

121.日枝神社社号額(明治30年)

121.日枝神社社号額(明治30年)
 <秋山弘道の地元青柳の神社に通房が揮毫したもの>

【4】安房での活動と交友
 (1)農業指導

 安房地方での通房の業績としてもっとも評価されているのが農業指導である。とくに安房地方における促成栽培の先駆者として農業関係者に記憶されている。  政治・経済・文化・教育などすべてが大きく変化していく明治前半の時代、遅れ馳せながら殖産の基本産業である農業においても農事改良の気運が高まり、通房が来房してまもなく、安房郡では郡長吉田謹爾を会長に篤農家吉田周蔵などを中心として、明治28年(1895)1月には安房郡農会が組織された。通房はこの会をとおして指導者のみならず、多くの一般会員とも交流を深めていくのである。

 農会が組織された年、通房は園芸学の草分けで当時温室栽培を創始したばかりの宮内省の御料局技師である福羽逸人を招き、屋敷での家庭園芸としてなすやきゅうりの促成栽培をはじめている。これが安房郡における促成栽培のはじまりとされるが、農会でもこの時福羽を講師に「木框(きわく)促成栽培法」の講習会を開催、さらに通房・福羽の斡旋により4年間勤務の農業教師の招聘や、農会員を新宿御苑に派遣して技術習得にあたらせるなど、農事改良に向けて積極的な活動が始められた。

 通房が率先して自邸に数個のフレームを作ると、神戸(かんべ)村(館山市)の寺田亀太郎などが通房に指導を受けにきたことから、神戸村や平群(へぐり)村(富山町)を中心に促成栽培が始まる。早生ものの東京出荷は利益を上げたようで、この温床による促成栽培は郡内に急速に広まり、大正11年の『千葉県要覧』では神戸村・平群村・北条町・滝田村(現三芳村)などが、促成栽培によるなす・きゅうり・すいか・しろうり・豌豆などの産地として紹介されるようになっている。

 明治29年(1896)には北条町木村屋旅館で蔬菜品評会も主催し、通房が配布した聖護院大根やかぶらななどを主品として30数名が参加、通房自身も参考出品するなど野菜の生産技術の普及に努めている。また32年(1899)には北条町の農家に指導農場でなすの栽培技術としを指導している。現館山市役所の敷地は通房の指導農場だといい、市役所正面にある2本の夏蜜柑の木はその当時のものである。この土地は、農会が組織される前年の27年に取得しており、農業への関与が着々と準備されていたことをうかがわせる。

 稲作においても、農会では農業教師峰幾太郎の指導のもと改良の三大要項をたてて郡内農家に作稲技術の改良を勧めていたが、収穫時期には農会幹事とともに通房も郡内を巡回するなど、その成果や実践の様子までも自ら視察していた。農場習得と同じ27年には館野村稲に一反三畝余の田を取得しており、また豊房村神余や神戸村佐野にも万里小路新田とよばれる田があったが、取得当初には北条から離れた地域においては手本を示しての普及を図ったのではないだろうか。それらの実際の指導や管理は農会員にさせたと思われ、神余では素封家田中正一郎が管理を任され、館野村では農会員山口五平が収穫米を取りまとめたという話が伝わっている。

 その後も通房は新しい種を手に入れては知人の農家に配っていた。明治30年(1897)に佐倉で農事試験場を創設した堀田正倫との交友があったことから、おそらく手に入れたのだろう。家令の高山恒三郎は自宅の庭で落花生やトマト・隼人瓜・水仙を栽培していたといい、通房との交流があった家ではその手の話は多い。神戸村藤原の小川梅蔵が通房から2~3株もらったオランダ種の水仙が、いまでは神戸地区のどの家でも見られるほどに広がっている。また同じ藤原の寺田安蔵のところへはたびたび新しい種を持って訪れ、落花生を初めて持ってきたときには実が下につくことを知らなかったという話や、丸村丸本郷の松田市五郎はキャベツの種をもらって植えたが、中を食べることを知らずに外側の葉だけを食べたという話、農会副会長で大山村平塚の山野井与三右衛門の家でもトマトは赤なすといって、作ってもだれもたべなかったという話がある。また農家でなくとも通房に刺激されて家庭菜園をつくるものもあり、退役軍人の秋葉丈四郎は慣れない肥桶をかつぎ、また通房自ら馬糞を直接手で粉にして肥やしのやり方を指導してくれたという話が伝わっている。

90.安房国農会第二回報告 (明治28年)
90.安房国農会第二回報告 (明治28年)
館山市役所の夏みかんの木
館山市役所の夏みかんの木
左:神戸地区の水仙 右:通房がくれたシュロの木 <六軒町石井家>
左:神戸地区の水仙
右:通房がくれたシュロの木 <六軒町個人宅>

【3】通房と北条

 通房が北条町に別荘をもつのは明治20年代の中頃のことである。すでに明治25年(1892)1月には北条海岸に土地を取得しており、それ以前のことであるから、退官まもなくであろう。

 そのころはすでに北条と東京との間には汽船が就航しており、東京人士の来房も多くなってきた頃である。明治22年(1889)には避暑と称して東京に流行するチョウチフスを避け、18日間の滞在を楽しんだものもいる。隣接する館山町の海岸近くには山口県の士族金近虎之丞なるものが静養のため来住し、汐湯と称して海水の浴場を開放していたり、また北条海岸には実業家岩谷松平や男爵高崎某の別荘もあった。通房が北条へやってきたのは避暑や保養・静養の地として北条や房総が注目されてきた時期なのである。

 通房が北条を選んだ理由については、北条の万里小路家の家令をつとめていた高山恒三郎がその手記で、「明治21年、宮内省の御用で房州峯岡の牧場視察のため、館山海岸へ和船に乗られ、草鞋脚絆懸けで上陸され、視察を終えて、その時から房州は暖かい良い所だと思い、爾後北条に仮住宅または御別荘を建設され」と記している。また宮内省の主馬頭であった親類の藤波言忠が御用で安房へ秣(まぐさ)を見付けにきていたことから紹介されたとの証言(前出の川邊氏)もあるが、いずれにしても自身による来房か紹介かを別にすれば似た話が伝わっている。

 北条での通房の屋敷については、地元では海岸にあった屋敷がよく知られているが、当時の北条の中心街に近い新塩場に本邸があった(写真80)。海岸の屋敷は茶室と夏季用の別荘で、通房の娘婿である堀田正倫の孫堀田正久氏も、震災前に海岸の屋敷へ毎夏遊びにいったという。また普段は人気がなかったとの証言もある。本邸が大正12年(1923)の関東大震災で潰れると、一時駅前の昭和通りに面した地に移り、やがて倒壊をまぬがれた海岸の別荘が本邸として使われるようになった。そのため多くの方はこの海岸の屋敷を記憶されているのである。この屋敷は現在も松林と建物の一部が当時のまま残され、その中には通房が自身で「静松庵」としるした額が掲げられている。

 当初北条での生活は、まさに隠棲とよべるものだったのではないだろうか。早い時期の落款にみられる「鏡浦漁翁」と名乗って釣を楽しみ、「蘭生園」と称して家庭園芸にいそしむ姿が想像される。しかし侍従をつとめた人物が住み始めたとなれば、地元の名士たちが放っておくはずもなく、さまざまな要請が舞い込むこととなった。明治25年に沓見(丸山町)の莫越山神社から時の郡長吉田謹爾が皇族の揮毫を依頼されたときに、通房が吉田から仲介を依頼されているのはその例である。そのようにして身の回りは騒がしくなっていき、大正2年(1913)に北条町で議会が対立したとき、事態の収拾のために町長に選出されたこともある。これは1週間だけのことで、通房が後任を指名することで議会をなだめ町政安定を図ったものであった。それは通房の発言があるいは行動が、この地域で大きな影響力をもっていたことを意味している。

 その他地域で背負わされた役割は数え切れない。明治28年に安房地方の日清戦争従軍兵士が凱旋したときには、出迎えの大旗に揮毫を頼まれ、煙草5000本を寄贈し、日露戦争の凱旋兵士にも記念の盃を配布している。戦没者の記念碑への揮毫も多く依頼された。安房中学校(現千葉県立安房高校)の開校にあたっては祝いに歌を送り、安房高等女学校(現千葉県立安房南高校)からは依頼されて校歌の作詞をしている。安房大道会や日本弘道会安房支会などの社会団体の会長や顧問といった職への就任要請のほか、大正12年には安房郡震災復興会の顧問に就任し、復興のために1000円を寄付している。私立北条文庫への図書の寄贈をはじめとする寄付金の要請、知人の著作への題字や記念碑への揮毫などなど。

 こうした煩わしい生活の中で、もっとも楽しんだのは農業にかかわることであり、そして地域の人々との交流を深めることであったかもしれない。

80.房州鏡ヶ浦全景絵図〔部分〕 (大正4年)
80.房州鏡ヶ浦全景絵図〔部分〕 (大正4年)
北条海岸の屋敷跡 <現静松苑>
北条海岸の屋敷跡 <現静松苑>
38.震災記念観音堂御詠歌額

38.震災記念観音堂御詠歌額
現在北条海岸の中村公園横にある震災記念観音堂は、大正12年の関東大震災で犠牲になった人々を供養するために、延命寺住職佐々木珍龍が今の菜の花ホールの場所に建てたもの。その後現在地へ移転した。
震災の犠牲者の中には北条海岸へ静養にきていた通房の外孫もいた。

【2】通房の生涯

 通房は正二位中納言博房の長男として、嘉永元年(1848)5月27日に京都で生まれた。安政4年に元服して従五位となり、慶応元年に18歳で家格にしたがって右少弁に任じられる。ちなみに右弁官局は兵部・刑部・大蔵・宮内の四省の事務担当機関である。

 大政奉還で倒幕運動も最終局面を迎えた慶応3年(1867)、12月の王政復古にともない摂政・関白といった古い職制は廃止され、天皇親政の新政権として職制も新設された。そのなかで父博房は新政府の指導層である、三職のひとつ参与となり、通房も書記御用掛となって、新政権に本格的に参画することとなった。

 翌年の戊辰戦争が展開するなかで、2月には参与に昇進し、軍防事務局に新たに編成された親兵掛に任じられる。その後閏4月に、副総裁三条実美が関東監察使として徳川家の処分決定と人心慰撫のため関東へ下ると、それに随行して江戸に入り、7月に駿河以東の東国を管理する鎮将府がおかれるとその行政官である弁事に任じられた。その間にも佐幕派追討を進める東征大総督有栖川宮熾仁親王の錦旗奉行加勢、御旗本を歴任、8月には東征大総督府の参謀となり、抵抗を続ける奥羽諸藩の追討のため東北へ出征する。10月には帰順した会津の残党が水戸城を襲撃する事件が起こり、その鎮定の命をうけるなど、維新の真っ只中に身を置いたのである。この月東北平定慰労する賞賜があり天皇より品を賜わった。伝えられる話に、東北出征中に銃創を負い、その時の弾痕が腹部にあったという。

 明治2年(1869)2月には勅使として山口へ派遣され、山口藩(長州藩)主毛利敬親の積年の勤王を賞し、上京して政府への協力を命じる宸翰を伝えている。その際山口藩の軍事調練の視察をしている。6月には戊辰の戦功の褒賞が行われ、「戊辰の夏東京に到り、御旗を監し、また大総督に参議し、職務勉励の段、叡感あらせらる、よってその賞として百石下賜そうろうこと。」と、通房も軍功により賞典禄として高百石を永世下賜された。

 その後明治7年(1875)7月までイギリスへの官費留学を命じられる。明治2年11月のこととされるが、翌3年3月に内番として天皇の講学に陪持している記録があるので、3年11月の誤りかもしれない。いずれにしても新政府の華族留学生としては早い例である。23歳の渡欧であった。通房の叔父正秀も明治4年にロシアへ留学するため岩倉使節団に同行して離日、14年までロシア貴族について学んでいる。また文久3年に暗殺された急進的尊皇攘夷派の姉小路公知の嗣子となった弟の公義も同使節団とともに渡米、そのままドイツ留学をして、のち外交官になっており、身近な人々が同様の留学経験をもっている。

 通房がイギリスで学んだ内容は不明だが、代々弁官の家柄であり、自らも鎮将府弁事に任じられているように、行政事務には精通していたであろう。帰国後は工部省の御用掛となり、先進知識を活かしたものと思われる。やがて宮内省御用掛に転じ、明治15年(1882)11月に侍従に任じられて、23年(1890)9月に職を退くまで天皇に近侍することとなる。

 15年5月には宮内省御用掛として、天皇に随行して千葉県下八街での近衛小演習を視察、地雷爆破跡の巡検・作図を行っている。その後も侍従として、神奈川県・千葉県などへの遠乗り、岩倉具視など高官の病気見舞い、高官の葬儀への勅使、故皇族式祭での代拝、外国公使館への弔問、北海道の御料牧場視察、北九州への陸軍参謀旅行視察の出張など、その職務を行っている。しばしば天皇の食事の相伴をゆるされ、乗馬一頭を下賜されたこともある。

 通房の周辺には宮中に仕えるものが多い。父博房が宮内大輔・皇太后宮大夫を歴任したのをはじめ、叔父正秀も式部寮・大膳寮などで一貫して宮内省官吏を務めているほか、祖父正房の妹である幸子も典侍として英照皇太后や嘉仁親王(大正天皇)に仕えている。また通房と同僚の侍従であった藤波言忠も縁戚で、言忠の大叔母は通房の祖母である。

 私的には、帰国の翌8年八重子夫人とのあいだに長男直房が生まれる。旧佐倉藩主堀田正倫の夫人となった長女伴子が慶応3年生れである。明治17年(1884)37歳のときに父博房が没して家督を継ぎ、その年の華族令発布によって伯爵を授けられた。

 退官後は貴族院議員となった。明治23年(1890)11月に開設されたばかりの帝国議会で、第1回議会の途中ながら翌24年(1891)2月に伯爵団の互選によって有爵議員となり、政党政治に強く反対する研究会という院内会派に所属して、水産調査会委員や生産調査会委員を務め、大正13年(1924)9月の引退まで五期にわたって活動した。大正4年(1915)の第37回通常議会では貴族院の資格審査委員会委員長を務めている。

 そうした議員活動の一方、退官後ほどなく安房郡北条町(館山市北条)に別荘を構え、議会のない時期はほとんど北条で過ごすようになる。それはまさに隠棲ともいえるものであった。働き盛りの43歳での隠棲はいかにも早いが、退官の背景には、宮中での綱紀粛正があり、のちに宮中政治家として大きな勢力をもった田中光顕との確執があったという証言がある(通房の甥川邊三郎氏)。通房が退官した23年9月には、田中光顕は警視総監であった。

 通房は北条での生活をはじめてほどなく農業へ関心を寄せ始めた。27年(1894)には耕地を取得して促成栽培を中心とした家庭園芸をはじめるが、設立されたばかりの安房郡農会にも肩入れして、農業牧師の紹介や蔬菜品評会の主催など積極的に農業指導にかかわっていく。そして31年(1898)には北条町へ本籍を移してしまうのである。

 また21年に設立された社会教化団体である安房大道会の活動にも引き入れられ、36年(1903)に会長職を懇請される。地方風教の改善をかかげる会の運動のなかにも、会の幹事である秋山弘道に勧めて産業奨励という活動方針を盛り込むのである。こうした通房の活動は農業の技術水準向上と換金作物の普及をめざしたもので、政府のかかげる殖産興業政策の地方における実践ともとることができる。ヨーロッパの先進技術を見聞してきた経験が、地方の現実を見て近代化の必要性を痛感させたのであろうか。

 一方、権威を表象する華族を迎えた北条町や安房郡では、日清戦争の凱旋兵士出迎えをはじめさまざまな集まりへの出席依頼や皇族などへの揮毫斡旋依頼、記念碑や本の題字の揮毫依頼、寄付金依頼、名誉職への就任要請など、さまざまに地域とかかわることを要求してきた。通房はこれに多く応えていったと思われる。むしろそうした機会を捉えて地域の人々と交流していった。厳しいと表される一方気さくだったという評価もよく聞く。出入りの人々を可愛がり、また泊まり掛けで田舎まで指導にいったという。親しみやすい人だったともいう。

 退官後もっとも名誉を賜ったのは明治天皇の大喪にあたり宮中に大喪使がおかれたときに祭官長鷹司熙通のもとで祭官副長を務めたことであろう。祭事を直接つかさどったのである。明治30年(1897)には英照皇太后の葬祭斎官をつとめたこともある。

 貴族院議員を退官してからは東京との行き来も少なくなり、地域の人々との交流もますます増えていく。しかし高齢のため昭和7年(1932)3月4日、北条海岸にあった屋敷で死去した。85歳であった。葬儀は北条南町の金台寺でいとなまれたが、これを見た人の話によると、屋敷には勅使が訪れ、金台寺までの長い行列には座布団や荷物を持つ人が大勢いて、棺のまわりには白装束・白足袋の棺側がつき、寺ではつがいの鳩が放たれる放鳥が行われたという。沿道でも大勢の人が見送ったということである。墓所は東京芝公園の妙定院にある。

右:52.通房(5)(晩年)

52.通房(5)(晩年)

【1】万里小路家

 明治中期から昭和初期まで40年余り北条に住していた伯爵万里小路通房という人物の名前は、現時点であれば耳にしている方は大勢いる。しかしこの人物がこの地域で何をしたのか、いったいどのような経歴をもつ人物なのかを知る方はもはやごくわずかにすぎない。いや、当時ですらもその経歴まで知る人は多くはなかったかもしれない。

 通房は明治天皇に仕えた人物なのである。明治天皇に近侍するには家柄なり、維新での業績が必要である。しかし万里小路家というこの耳慣れない姓から連想するのはやはり京都だろうか。いかにも公家らしい姓である。やはり家柄から背景をたどってみよう。

 万里小路家の系譜は、平安時代に栄華を極めた藤原氏にいきつく。藤原北家の一流である勧修寺(かしゅうじ)家の一門であり、名家と呼ばれるランクに属する。つまり京都の公家である。鎌倉時代中期に甘露寺(かんろじ)資経の四男資通が万里小路を称して以来つづく家で、行政事務を取り扱う弁官(べんかん)や蔵人(くろうど)という重職をつかさどる家格である。資通に子宣房は、後醍醐天皇による鎌倉幕府討幕計画が発覚した正中の変(正中2年=1325)で勅使として鎌倉へ釈明にゆき天皇を救った人物で、建武新政では北畠親房らとともに重用された。大納言まで昇進している。同じく討幕計画が発覚した元弘の乱(元弘元年=1331)でも、その子藤房が後醍醐天皇を護って笠置山へ逃れた話は有名であり、父子ともに後醍醐天皇に従った忠臣として活躍している。藤房の弟季房も元弘の乱で中宮をかくまい、幕府方に捕えられ殺されている。

 季房の子仲房が宣房の家督を継ぎ、その後は内大臣へ進んだ時房や、後奈良天皇の後宮に入り、正親町天皇を産んだ栄子などがでている。歴代の多くが大納言や内大臣まで進んだ。通房の祖父正房は議奏・武家伝奏として安政5年(1858)の日米通商条約の勅許をめぐる外交問題や14代将軍の継嗣問題などで、朝廷と幕府の間で交渉にあたった経歴がある。父博房は幕末・維新期に活躍した尊皇攘夷派の公家で、尊攘気運の高まるなか文久3年(1863)に国事参政となるが、公武合体派による8月18日の政変で一時失脚する。しかし慶応4年(1868)の王政復古では参与に就任し、以後は、後醍醐天皇の親政下で活躍した宣房・藤房のように明治天皇の新政府で制度事務局輔・議定・京都裁判所総督・会計官知事・山陵総管・宮内卿・宮内大輔・皇太后宮大夫などの要職を歴任した。通房の祖父・父ともに変革する時代の表舞台にたったのである。

万里小路家系譜
万里小路家系譜

目次

※この図録は一部抜粋した内容のみを公開しているため、目次の見出しのみとなっているページが多数ございます。ご了承ください。

【1】万里小路家
【2】通房の生涯
【3】通房と北条
【4】安房での活動と交友
    農業指導
    社会教化
    地域の人々との交流
万里小路通房略年譜

ごあいさつ

 館山市役所の駐車場には2本の夏蜜柑の木があります。この木は、安房地方の農業を近代化へと導いた人物が植えたもので、この土地はもとその人物の農園でした。また県立安房南高校の校歌を作詞したのもこの人物です。意外と身近なところで多くの方と接点のあったのが、今回紹介する万里小路通房です。

 安房地方の風土や文化に影響を与えてきた人物のひとりで、明治20年代から昭和7年に没するまでのおよそ40年間を北条で過ごした、京都出身の公卿華族です。明治維新で活躍し、イギリス留学ののち明治天皇に近侍しましたが、退官して北条に隠棲するようになります。近代農業の指導や思想風俗の善導、文化活動などを通して安房地方の人々と交流し、多くの影響を与えてきました。

 本書は安房郡内に残る万里小路通房関係資料の調査結果をまとめ、その人物と事績および地域の人々との交流の様子を紹介しました。本書が伯爵万里小路通房を知る一助となり、また本書をとおして近世から近代へと新しく変わっていく明治・大正という時代を感じていただければ幸いです。

 なお本書の編集にあたり、多くの方々よりさまざまな情報をいただき、また所蔵者の方々には調査に快く応じていただきました。心よりお礼を申し上げます。

 平成8年2月10日

館山市立博物館長 松田昌久