
図録
安房の人物シリーズ(6)
雄譽霊巖
平成11年2月6日発行
編集発行 館山市立博物館
〒294-0036
千葉県館山市館山351-2
TEL.0470(23)5212
FAX.0470(23)5213
雄譽霊巖上人愛用 徳川家光拝領
「描金葵章団扇」(京都・総本山知恩院蔵)
図録
安房の人物シリーズ(6)
雄譽霊巖
平成11年2月6日発行
編集発行 館山市立博物館
〒294-0036
千葉県館山市館山351-2
TEL.0470(23)5212
FAX.0470(23)5213
雄譽霊巖上人愛用 徳川家光拝領
「描金葵章団扇」(京都・総本山知恩院蔵)
雄譽霊巖の伝記は、天和3年(1683)に霊巖の弟子源誉霊碩が著した『霊巌和尚伝記』3巻、天保4年(1833)に霊巌寺の転誉存統が校閲板行した『雄譽上人伝記』4巻、安政6年(1859)に刊行された『霊巌上人略伝』1巻が知られている。うち『霊巖上人略伝』は昭和46年に『浄土宗全書』第17巻に収められた。
世に流布したのは天保版で、本図録の目録に掲載した浄土宗寺院などに伝えられる伝記は、その板本ないしそれからの写本である。この天保版は霊巌寺首座の存統が、霊碩本を基に編纂し、諸書から評註を加えて霊巖伝の正確を期したものであるが、ここに収録した霊碩の『霊巌和尚伝記』がむしろ霊巖伝の詳細を伝えている。
『霊巌和尚伝記』は洛陽勝円寺(下京区)の住職源誉霊碩が、霊巖没43年後の天和3年に、師霊巖の事績を書き綴ったもので、霊碩80歳の時である。霊碩は慶長17年(1612)の9歳の時に霊巖に付き従い、霊巖が大本山知恩院に入院する寛永6年(1629)までの18年間、常に側に随従していた人物である。その見聞と、霊巖晩年まで随伴した人々からの直言をもとに誌したとしている。もちろん誇張や記憶の誤謬も斟酌しなければならないが、霊巖の事績の概要を識る根本資料といえるものである。
国書総目録によれば、『霊巌和尚伝記』の写本は、大谷大学本(元文元年写)と大正大学本(文政2年写)があるが、いずれも未刊である。当館所蔵の写本は年代は不明であるが、「随誉心愚」の蔵書印と「真祐庵」の蔵書票がある。
本図録には紙幅の都合で全文を掲載することができず、安房国関係記事のみにとどめている。全文翻刻は後日を期したい。なお収載にあたっては、読み易さを優先して原文のままとせず、原文の返り点・送り仮名にしたがって読み下し文とし、句読点・獨点およびルビを付した。
元号 | 西歴 | 年齢(数) | 事項 | 参考 |
---|---|---|---|---|
天文23年 | 1554年 | 1 | 4月8日、駿河国(静岡県)沼津今川家一族土佐守氏勝の三男として誕生。幼名友松。 | |
永禄7年 | 1564年 | 11 | 2月15日、沼津浄運寺増譽上人につき得度。 肇叡と命名。 | |
永禄11年 | 1568年 | 15 | 下総国生実(千葉県)大巖寺道譽貞把上人の門に入り、霊巖と改名。 | |
天正2年 | 1574年 | 21 | 道譽貞把上人より宗脈五重相承。 | |
天正3年 | 1575年 | 22 | 安譽虎角上人大巖寺2世就任。 | |
天正7年 | 1579年 | 26 | 安譽虎角上人より戒脈相承。 | |
天正15年 | 1587年 | 34 | 6月、安譽虎角上人より璽書印可。 8月、大巖寺3世となる。 | |
天正18年 | 1590年 | 37 | 冬、江戸城内の法門にて争論。 大巖寺を辞し、東海道へ旅立つ | |
天正19年 | 1591年 | 38 | 南都(奈良県)に霊巖院(霊巖寺肇叡院)を創建。 | |
文禄1年 | 1592年 | 39 | 山城(京都府)宇治に称故寺、滝鼻に西光寺建立。 伏見城にて家康より大巖寺再住を命ぜられる。 | |
文禄2年 | 1593年 | 40 | 生実に帰着。大巖寺改築着工。字を松風とする。 | 2月頃、浜松に念仏三毒滅不滅論起こる。 |
文禄4年 | 1595年 | 42 | 「厄除の法像」完成。 | |
慶長2年 | 1597年 | 44 | 9月頃、念仏三毒不滅論者追放。 | |
慶長4年 | 1599年 | 46 | 1月、大巖寺「霊巖置文」 | |
慶長5年 | 1600年 | 47 | 関ヶ原の戦い | |
慶長8年 | 1603年 | 50 | 大巖寺落慶。寿像作成。 大巖寺出寺。伊豆大島、安房と巡教。 安房の国主里見義康の帰依により、館山市大網一村を与えられ、大巖院を創建。入仏供養。 | 家康、征夷大将軍となり、江戸幕府を開く。 11月、里見義康没する。 |
慶長10年 | 1605年 | 52 | 家康、将軍職を秀忠に譲り、大御所となる。 | |
慶長12年 | 1607年 | 54 | 11月、大巖院「寿像」胎内銘。 | |
慶長13年 | 1608年 | 55 | 上総国(五井)の松平家信の帰依を得て守永寺の開基となる。 11月、受戒夫妻像(大巖院) | |
慶長14年 | 1609年 | 56 | 8月、大巖院「寺号扁額」 | |
慶長15年 | 1610年 | 57 | 3月、里見忠義公に円頓戒を授ける。42石の朱印をもって大巖院寺領とする。 | |
慶長18年 | 1613年 | 60 | 10月、上総佐貫の内藤政長の帰依を得て善昌寺に転住 | |
慶長19年 | 1614年 | 61 | 上総国(君津市)法巌寺開基 | 9月、里見氏改易 |
元和1年 | 1615年 | 62 | 上総国(富津市)湊に湊済寺建立。 同国小糸に三經寺建立。 8月、宗祖法然上人の霊場巡拝に旅立つ。 | 3月、内藤政長安房国平群を加増 |
元和2年 | 1616年 | 63 | 内藤左馬助政長を開基として安房国(富山町)検儀谷に大勝院を開く。 下総国(千葉市)生実に大覺寺建立。 里見忠義公を改易地に訪ねる。 | 4月、家康没する。 |
元和4年 | 1618年 | 65 | 京都に到着 | |
元和5年 | 1619年 | 66 | 春、安房国(鋸南町)保田に別願院創建。 | |
元和7年 | 1621年 | 68 | 秋、江戸に霊巖寺仮堂建つ。 | |
元和8年 | 1622年 | 69 | 2代秀忠、および家光にお目見え。 | 9月、内藤政長岩城平へ転封 |
元和9年 | 1623年 | 70 | 7月、秀忠、将軍職を家光に譲り、大御所となる。 | |
元和年中 | 下総国(長南町)千田の称念寺改宗開山。 | |||
元和10年 (寛永1年) | 1624年 | 71 | 2月、大巖院『釈浄土二蔵義』版木刻銘 3月、大巖院「四面石塔」建立。 江戸に霊巖島を築き霊巖寺を建立。 孫弟子の光譽が安房国(館山市)の大戸の大円寺を開山するのに附法する。 | |
寛永3年 | 1626年 | 73 | 雄松院「九品来迎引接石」建立 | |
寛永4年 | 1627年 | 74 | 江戸城西の丸で、将軍ならびに大御所に法談。 | |
寛永5年 | 1628年 | 75 | 霊巖(岸)島を埋立て、諸堂宇建設はじまる。 | |
寛永6年 | 1629年 | 76 | 江戸霊巖寺本堂、諸堂落慶。 6月、台命により華頂山知恩院(浄土宗総本山)の第32世に任ぜられる。 | |
寛永8年 | 1631年 | 78 | 願いにより播州姫路城主本多美濃守忠政の葬儀導師を勤める。 岡山に霊巖寺を開く。 摂津国高槻城主松平紀伊守の願いにより江戸下谷英信寺開基となる。 この頃宣旨により仙洞御所の後水尾法皇に説法。10月26日、院宣により仙洞御所行幸の間で明正天皇に説法。 富津市金谷の本覺寺建立。 | |
寛永9年 | 1632年 | 79 | 上総国(君津市)法巖寺附法師(開基) | 1月、秀忠没する。 |
寛永10年 | 1633年 | 80 | 1月9日、華頂山知恩院出火。諸堂焼失。 6月、大巖院「釈迦涅槃図」 | |
寛永13年 | 1636年 | 83 | 9月15日知恩院の大鐘できる。 朝鮮通信使が大巖院を訪れる。 | |
寛永15年 | 1638年 | 85 | 華頂山知恩院諸堂造営成就。 | |
寛永16年 | 1639年 | 86 | 1月19日より落慶大法要。 | |
寛永17年 | 1640年 | 87 | 『浄土三部経』、『選択集』、『頌義』などを開板。 | |
寛永18年 | 1641年 | 88 | 春、落慶御礼のため関東へ下向。 6月14日上意により登城し法談。 9月1日、江戸霊巖寺にて没する。 | |
天和3年 | 1683年 | 没後43 | 源譽霊碩集『霊巖和尚伝記』3巻。 | |
天保4年 | 1833年 | 没後193 | 転譽存統校『道本開山雄譽上人伝記』4巻。 | |
安政6年 | 1859年 | 没後219 | 『霊巖上人略伝』1巻印行。 | |
平成12年 | 2000年 | 没後360 | 霊巖上人360回忌正当。 |
霊巖は阿弥陀如来の名号をたくさん書いて人々に与えた。所縁の寺院にも多く伝来している。また、いつの時代か、阿弥陀信仰とともに霊巖崇拝も盛んになり、一般民衆の需要に応じて、版木刷りの名号も大量に出回ったようである。
(画像省略)
浄土宗を開いた法然上人が、念仏の心の持ちようの要点、極意を300字ほどにまとめたもの。一枚の紙に書かれているので一枚起請文という。自筆のものは、京都黒谷・金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)に伝来する。霊巖はこの一枚起請文もたくさん書いていて、県内はじめ、各地の所縁の寺院に名号同様に伝来している。京都、総本山知恩院に伝来するものを除き、大多数の霊巖筆一枚起請文には、「房州山下郡大網村佛法山大巖院開基檀蓮社霊巖雄譽松風上人大和尚」と安房の霊巌であることを物語る署名がある。
(画像省略)
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房総には霊巖上人にまつわる伝説が多く伝わっています。その一つは霊巖の出生地に関するものと、超能力者的な霊巖の霊験の話です。
霊巖の出生地には、駿河国(静岡県)沼津という説と、上総国(富津市)佐貫、あるいは同国小糸とする説があって分明ではありません。転譽存統が著わした『雄譽上人傳記』には、「古伝。大網記。山田記。南都記等には沼津といふ。総系譜(浄土傳燈総系譜)。生実記等には上総国天羽郡佐貫の産」と諸伝を紹介しています。
『生実記』にある「父は里見氏、母は藤氏」という文を引きながらも存統は、霊巖が京都知恩院に居る時分に、所司代の板倉周防守(重宗)に宛てた手紙に「予。生を駿府に禀(う)け」とあることから、『古伝』の伝える今川範将の子貞延の曽孫土佐守氏勝の三男であり、駿河国が正しいとしています。
ところで、『浄土傳燈総系譜』や、千葉大巖寺に伝わる『大巖寺起立来由』等には、「上総国天羽郡佐貫懸所生也。父は里見氏。母は藤の姓」とありますが、それを裏付けるかのように安房・上総には、今なお霊巖に関する伝承が多く伝わっています。
代表的な霊巖伝説のいくつかを引いて紹介します。
(1) 「霊巖上人の生まれた家は佐貫亀田の、旧大坪村に今も残る太田家ではないか」…佐貫・菱田忠義氏/JA富津農協発行「きづな」1994年8月号
(2) 「昔、家(生家を指す)に雄譽上人という人がいたらしい」「(雄譽上人は)ある伝承では富津市亀田、大坪の太田家の生まれであるという。」…亀田・鈴木貢氏/日刊「房総時事新聞」1998年10月6日~8日号
「むかし奇麗な身形(みなり)をした小さな子が、箱に入れられて加賀名の下の海岸に流れ着いた。その子を拾って与五右衛門(平嶋家)で育てたが、青年になるとお坊さんになるといって家を出た。それが霊巖上人で、牛を使うのが上手な子供だった」…館山市加賀名・平嶋浅男家に伝わる話。
「この観音像(東京観音像)のたっている南の山麓斜面に三つの横穴があります。洞窟の高さは約2メートル、間口2.7メートル、奥行き4.7メートルにつくられています。江戸時代の初め…雄譽霊巖上人が、富津地方で巡歴、修業中、この窟に入って精神鍛錬をしたと伝えられ、春、夏、秋と季節によって窟を使い分けたと古老は語っています。」…富津市史編さん委員会編集『富津市のあゆみ』
富津市亀田地区に、雄譽様と呼ばれる名号の巻物(掛軸)があって、非常に御利益(ごりやく)があったという。「海難の多かった昔は、嵐の季節に江戸への行き還りも大変な事だ。そんな時はこの雄譽様を持っていくと必ず無事に還れると言って借りに来た。海で漁が無いときも漁師がきて、お参りすると漁があるといわれていた。」…亀田・鈴木貢氏/日刊「房総時事新聞」1998年10月6日号
江戸時代初期、(富津市)湊の街を…火の玉が転がって進んだという。そうして、この火の玉が止った場所の家からは必ず病人が出て、それも「三日コロリ」といった病気で、必ず死んでしまったという。この災難に困った湊の人々は、そのころ、隣村である佐貫の地に、大変徳の高い坊さんがいることを聞いて、このお坊さんにおすがりしてみようということになった。このお坊さんは雄譽さまと呼ばれ、そのころ佐貫の大坪という所におられた。湊の人々は名主を先導に訪ね…お救い下さいとお願いした。その結果、雄譽さまは湊の地までお出ましになり、熱心に御祈祷をしたという。このお坊さまの徳が天地の神仏に通じたか、伝染病も治まり、もとの平穏な村に返った。雄譽さまのおかげと、名主初め村人たちは涙を流して瑞喜し、一同相談のもと、村のしかるべき所に一寺を建立し、開山として雄譽さまを迎えた。お寺の名の湊済寺とは、湊の地をすくってくださった寺であり、村人たちの厚い信仰のまととなった。」…菱田忠義氏が祖母からじかに聞いた話/「わが郷ふっつ」55火の玉ばなし
東京の霊巖寺の開山堂(現・雄松院)に祀られている雄譽霊巖上人像に毎日お供えする湯茶は、戦前までは、しばしば、近隣で病人がいよいよ危ないというときに、お寺にもらいに来たという。そして、雄譽さまの水だよといって飲ませたのだそうである。これは、最後の切り札の薬湯なのか、はたまた末期の水なのかは不明である。…雄松院・高坂孝子(大正7年生れ)さんの話
「(上人は)庶民に念仏の教えを弘める方便として、庶民の病災救済のための種々の呪法を残して居られる。例えば大巖院には、せんき、脱腸、安産の護符、検儀谷の大勝院には、難聴を治すまじないが現在も残っている。」…石川龍音氏/館山市文化財保護協会『会報』第7号。昭和49年度
大網・大巖院の別時念仏に、人々が群集する賑わいを知った源兵衛という盗賊が、一儲けしようとやって来た。時あたかも雄譽霊巖上人のお説教の最中で静まり返っていたため、仕事のチャンスが訪れるのを待ちながらお説教を聞くとは無しに聞いていた。どんな悪人でも、改心して南無阿弥陀仏の念仏を称えれば、必ず極楽浄土に往生できると聞いた源兵衛は、たちまち、皆の見ている前で罪を悔い、その後切腹して果てたという。源兵衛の墓は近年まで大巖院にあったというが、今は所在が不明であるという。
館山の新宿に住む秤(はかり)宗四郎というものが、夜半、金堀塚を通りかかると、俄かに寒気がして、ようやく家に帰るとそのまま気を失ってしまった。病床で口走るのには、自分は亡霊で大網の霊巖上人に供養して欲しいとのこと。問い質すと自分は石田治部少輔三成の亡魂である、苦しみを救って欲しいと答えたので、霊巖上人は終夜回向(えこう)をした。すると亡霊は去り、秤宗四郎は何事も無かったかのように快復したので、国中の万民は霊巖上人を生身の如来と、いよいよ称え仰いだ。
江戸砂村の長たちが霊巖上人のもとを訪れて「私たちの田畑は肥沃であるにもかかわらず、虫がついて収穫があがりません。何とかなりませんか」と相談した。そこで、上人に名号を書いていただき、それを石に彫ってこれを建てたところ、その後は虫の被害に悩まされず、多いに稔ったという。
後に霊巖島と呼ばれる霊巖上人の布教の拠点が出来たが、地続きのお上の沼地をもいただけることとなった。しかし、この沼は埋立てても埋立てても一夜のうちに元の沼になってしまった。このことを聞いた上人は、その場所にお出でになり、三帰五戒十念(さんきごかいじゅうねん)を授けられました。その夜半、沼の主であった二人の龍女が現れて得脱(とくだつ)の礼を述べて立ち去りました。翌朝、きれいに埋立てが完了しているので、人々は驚いたということです。
湊村大橋の正覚という修験者の妻が難産の果てに死んだが、村人が火葬の最中に蘇生し、助けを求めた。しかし、村人たちは狐狸妖怪の仕業と考えて、そのまま火葬してしまった。やがて亡霊となって村人に祟(たた)ったのを、救ったのが霊巖上人の血脈(けちみゃく)と十念であったという。…『富津市史』資料集1/湊済寺縁起
「大巖院檀徒の千倉町平館の大野嘉右衛門(屋号綿屋」の亡父兵助氏は存命中度々私に大野一族五軒は霊巖上人を慕ってはるばる房州の地に移住したと語られた。」…石川龍音氏(大巖院先代住職)/館山市文化財保護協会『会報』第7号。昭和49年度
霊巖が学んだ大巖寺は、関東の諸寺院の中でも早くから徳川家康と親交がありました。特に、大巖寺第2世の安譽虎角(こかく)とは、太い結びつきがありました。
そのような大巖寺の第3世として法灯を継いだ霊巖は好む好まざるとにかかわらず、結局、家康と関わりを持つこととなります。こうして霊巖の人生に、しばしば将軍家の意志が作用します。
霊巖がしばしば寺を辞して教化の旅に出た原因の一つには、多少の幕府の関与があったとも考えられます。
その一方で、大巖寺を辞して奈良に赴き、霊巖院(霊巖寺)を建立し、布教に専念している霊巖を、家康は伏見城に呼んで、また大巖寺に戻るように説得してます。
檀林制度が整って、公許の数が十八と規制されている中で、霊巖が新たに檀林を設置していることを訴える者があっても、幕府はこれを黙認していたようで、霊巖を特別扱いしていたようすが分かります。
さらには江戸の霊巖寺にいた霊巖を、増上寺などの紫衣(しえ)(上級)檀林の住持を経ずに、台命によって、いきなり総本山知恩院の住持にしています。
こうして布教者霊巖は、家康、秀忠、家光と三代の将軍の帰依を受けることになります。登城して将軍に法話をするときは、玄関口までの籠の乗り付けや、座敷内での杖の使用やらと、格別な待遇を受けたともいいます。
安房に布教にきた霊巖を支えたのは、国主の里見9代義康でした。里見家は代々禅宗でしたが、霊巖に帰依(きえ)し、館山城の鬼門(東北)の守りとして、大網の地に一寺を建立し、霊巖を開山に迎えました。
霊巖は、自分の修業した檀林「大巖寺」に因んで大巖院と名づけ、大巖寺に負けないような、檀林を築こうとします。
義康はまもなく亡くなりますが、10代里見忠義も霊巖に帰依します。霊巖から慶長15年3月、大切な円頓戒(えんどんかい)を授けられていますので、忠義は軍記物などに述べられているような暴君ではなく、信仰心の厚い君主だったともいえます。このとき忠義は寺領として、42石を寄進しています。
慶長19年(1614)9月里見氏は改易(かいえき)となります。霊巖は遠く伯耆(ほうき)国(鳥取県)倉吉の地に、忠義を訪ねて慰めたといいます。そして形見に九条(くじょう)の袈裟(けさ)を授けたといいます。
忠義の墓所、倉吉の大岳院に伝わる裂交袈裟(きりがわしけさ)がそれだといわれています。
6.霊巖筆「大巖院」寺号扁額
霊巖の書いた額のことは、『伝記』にも登場する。その裏面には慶長14年(1609)の霊巖署名がある。寄進の施主は、伝記に登場する里見の上級家臣・近藤九郎右衛門尉(くろううえもんのじょう)である。寛永13年(1636)朝鮮通信使が大巖院を訪れてこの額の書を嘆美したという。
霊巖は将軍家や、皇室に対して宗要(しゅうよう)を進講する碩学(せきがく)でした。また多くの弟子を育成する学匠(がくしょう)でもありました。しかし、霊巖の心は常に民衆と共にあって、人々を教化する熱心な布教者でした。
それを裏付けるかのように、霊巖は、一寺に永く留まらず、絶えず各地を巡錫(じゅんしゃく)しました。歓迎する民衆の願いや、帰依で各地にたくさんの寺を建立しています。また幾たびか、政治力により失脚の危難に見舞われますが、これも大勢の熱烈な信者たちの力がはね返したものと思えます。
霊巖は、数多くの門弟を育成しました。その数は実に3000人をかぞえていたといわれています。安房の大巖院は、霊巖が自分で最初に開いた談義所(僧侶育成の学問所)でしたので、当然そこには房州出身の弟子も多かった思われます。
『雄譽上人傳記』には霊巖の高弟と呼ばれる人が、「嗣法高弟名實(しほうこうていめいじつ)」として挙げられていますが、そこに安房出身者の名を見ることが出来ます。
あるいは本蓮社と記す伝記もある。(歴代名では、大巖院は本蓮社、霊巖寺、ならびに光明寺では木蓮社としている)霊巖の弟子で大巖院の第3世を継いだ。寛文8年(1668)霊巖寺第4世となり、のち延宝4年(1676)鎌倉の大本山光明寺に転住。貞享3年(1686)2月6日没した。
霊圓(れいえん)は白濤山海雲寺(かいうんじ)(館山市北条)の開山の専蓮社信譽浄春上人(あるいは信蓮社浄譽上人春光和尚という)の附法(ふほう)の師である。同寺に建立の四面名号石塔には、霊圓の手による名号(みょうごう)と「江戸霊巖寺第四代公譽霊圓(花押)」の文字が刻まれている。この石塔は千日念仏塔であり、開山の信譽浄春が願主となり、海養山龍勢院金台寺(こんたいじ)(館山市北条)の第8世一蓮社躰譽(たいよ)在心源達上人を千日導として厳修(ごんしゅう)され、たくさんの人々が結縁(けちえん)したことが記されている。なお、信譽浄春は安房国北条村の生まれといい、金臺寺第7世念蓮社正譽林達上人が剃髪師となっている。
房州の人。霊巖の弟子となり、平群郡穂田(保田)村遣水寺(玉龍山浄喜院)を開く。
伝記には「上総国富津の人。上人に従いて霊巖寺に住す。本多家(俊次公)帰依。後に近江国膳所(ぜぜ)(大津市)の縁心寺に住まわしめ、中興開山とす。遁寺して、また勢洲亀山に梅巌寺を創建。寛文七未年四月六日寂。和尚在学の寮、今なお本多家にあり。宿舎是なり」とある。
房州長田村の人。光譽利天の生家は館山市東長田に現存し、中山家(屋号腰めぐり)だという。利天は霊巖の直弟子である霊譽鎮風上人(大巖院第2世)の弟子となっているが、霊巖より直接附法相承(ふほうそうじょう)され、南条村大戸の大圓寺を開いた。
大巖院の境内に霊譽の建立した石燈籠と、組みになっている石燈籠に、「光譽」の名が刻まれているが、利天と同一人である確証はない。『深川霊巖寺志」の「傳燈哲徳」には光譽が二人いて、大和国西方寺を開基し、延宝3年6月4日に没した光譽と利天とが同一人物の可能性も示唆している。
安房国平郡多田良村の人。船形西行寺本譽岩碩上人の弟子。霊巖寺2世正譽意天上人に三脈(さんみゃく)を受け、寛永18年(1641)同国長狭郡横須賀村前原町に念仏院を建立。延宝7年12月17日没。
土佐国高知郡の人。姓は貞重氏。霊巖寺第3世大譽珂山上人に随い剃度し、伝法相承(でんぽうそうじょう)を授かる。安房国平郡(安房郡)片岡村に鼠福山来迎院菩提寺を建立したという。
寺院名 / 本誓山(ほんぜいさん)大勝院超世寺(ちょうせいじ)
開創年次 / 元和2年(1616)
開山 / 檀蓮社雄譽霊巖上人
開基 / 内藤左馬助政長
所在地 / 安房郡富山町検儀谷(けぎや)
寺宝 / 版本『雄譽上人傳記』
寺院名 / 玉龍山浄喜院(ぎょくりょうざんじょうきいん)遣水寺
開創年次 / 寛文6年(1666)
附法開山 / 檀蓮社雄譽霊巖上人
開山 / 相蓮社傳譽(でんよ)上人檀了(だんりょう)大和尚
所在地 / 安房郡鋸南町保田
寺院名 / 林海山(りんかいさん)別願院
開創年次 / 元和5年(1619)
開山 / 檀蓮社雄譽霊巖上人
所在地 / 安房郡鋸南町保田
由緒 / 霊巖が佐貫より安房に渡る船を待っているときに、一村評議して上人に一宇造営を願い、この寺が開創された。そして壱千日の別時念仏(べつじねんぶつ)を執行したという。
寺院名 / 佛道山超念院(ぶつどうさんちょうねんいん)大圓寺
開創年次 / 寛永元年(1624)
附法師 / 檀蓮社雄譽霊巖上人
開山 / 照蓮社光譽利天上人
(しょうれんじゃこうよりてんしょうにん)
所在地 / 館山市大戸
由緒 / 往古は禅宗だったものをこの年に再興したという。開山の光譽利天は同地区東長田(ひがしながた)の生まれで霊巖より附法(ふほう)を受けている。
寺院名 / 普戴山源光院(ふたいさんげんこういん)大乘寺
草創 / 享禄2年(1529)
開山 / 心蓮社相譽(そうよ)上人
歴代 / 11世檀蓮社雄譽霊巖上人
所在地 / 富津市富津
由緒 / 往古は天台宗だったものを開山が浄土宗とした。寛永17年(1640)堂宇悉く焼失したが、霊巖を11世に迎えているのはこの復興のためと思われる。
旧寺院名 / 慶相山佐貫院善昌寺
(けいそうざんさぬきいんぜんしょうじ)
草創年次 / 天正18年(1590)
開山 / 光蓮社演譽馨香上人
歴代 / 3世檀蓮社雄譽霊巖上人
旧開基 / 内藤左馬介政長(弥次右衛門家長)(佐貫城主)
再興寺院名 / 覺雲山佐貫院勝隆寺
再興年次 / 寛文6年(1666)
再興開基 / 松平重治(佐貫城主松平出雲守勝隆の子)
現在寺院名 / 三宝山本誓院勝隆寺
所在地 / 富津市佐貫
由緒 / 寛文5年(1665)、内藤家奥州岩城平移城の際、寺号、住持を松平勝隆の名に変えて、再興したものである。
大正10年(1921)、勝隆寺は三寶寺(さんぽうじ)と合併したが、それに伴い、寺号を現在のものに変更した。三寶寺は永禄2年(1559)、貞譽祖閑(そかん)上人を開山に、里見安房守義弘を開基に佐貫に創建された寺である。
寺院名 / 始覺山海上院本覺寺
開創年次 / 寛永8年(1631)
開山 / 檀蓮社雄譽霊巖上人
開基 / 金谷旧家16軒
所在地 / 富津市金谷
寺宝 / 雄譽上人真筆「名号」
由緒 / かつて霊巖上人の銘辞のあった梵鐘が伝来したが、戦時中、軍部の金属回収により供出。現在の梵鐘は昭和33年3月に、寺宝「名号」の字体を使って再鋳造したもの。
寺院名 / 四誓山超世院法巖寺
開創年次 / 慶長19年(1614)
附法開山 / 檀蓮社雄譽霊巖上人
開山 / 雲蓮社法譽傳通龍道上人
所在地 / 君津市下湯江
寺宝 / 霊巖書状。霊巖上人開眼(かいげん)「山越弥陀三尊(やまごえのみださんぞん)図」。霊巖上人筆「一枚起請文」。霊巖「農具市開催文書」
寺院名 / 根本山山王院湊濟寺
開創年次 / 元和元年(1615)
開山 / 檀蓮社雄譽霊巖上人
所在地 / 富津市湊
由緒 / 慶長年間、湊村一帯に疫病が蔓延し村民全滅の危機に陥っていたところを、当時、佐貫の善昌寺に居た霊巖に救われたという。寺号の湊濟寺とは、湊村を救済したという意味で、村民の田地寄進によってこの寺は建立されたという。
寺宝 / 霊巖筆「厄除けの名号」。霊巖筆「刷毛書きの名号」。『湊濟寺縁起』。『霊巖上人名号霊験記(れいげんき)』
寺院名 / 松風山霊巖院大覺寺
開創年次 /元和2年(1616)
開山 / 檀蓮社雄譽霊巖上人
所在地 / 千葉市中央区生実町
縁起 / もと大巖寺の地蔵堂を、小弓(生実)村信徒たちの願いにより霊巖開山の寺に直したという。霊巖は上総方面の布教に奔走していて、常に住んではいられないので、身代わりの木像を造って与えたというが、村人がこの像に向かって頼みごとを話すと、日を置かずに霊巖が帰ってきたという。
寺宝 / 霊巖上人身代わり寿像
寺院名 / 佛法山補陀落院三經寺
開創年次 / 正嘉2年(1258)
開山 / 在阿法師
中興開山 / 4世檀蓮社雄譽霊巖上人
所在地 / 君津市市宿
寺院名 / 無量山壽經院最頂寺
中興開創 / 慶長4年(1599)
中興開基 / 檀蓮社雄譽霊巖上人
中興開山 / 念蓮社篝稱譽上人蓮乗和尚
所在地 / 市原市姉崎
寺宝 / 霊巖は房州へ布教の途上、村人の願いでこの廃寺を浄土宗に改宗して再建し、蓮乘というお供の僧を供奉僧(くぶそう)(寺の本尊に使え給仕する僧)としてこの寺に留め、自身は次の布教先に向かったという。
寺院名 / 光明山清昌院守永寺
開創年次 / 慶長13年(1608)
開山 / 檀蓮社雄譽霊巖上人
開基 / 松平紀伊守家信
所在地 / 市原市五井
由緒 / 徳川家康の母、於大(おだい)の方の姉にあたる、松平家信の母が慶長13年(1608)に没した。その菩提寺として霊巖を開山に迎えて開創された。
当初寺号は長恩院殿心譽理安大姉という法名に因(ちな)み理安寺といったが、元和元年(1615)、五井を神尾五郎大夫守永が統治するに及んで現在の寺名に改めた。
なお清昌院は神尾守永の正室であった清昌院殿の法名による。
寺院名 / 唐竺山西明院稱念寺
開創年次 / 元和年中
開山 / 檀蓮社雄譽霊巖上人
所在地 / 長生郡長南町
由緒 / 時宗遊行(ゆぎょう)第2世にあたる他阿心(真)教上人の草創による廃寺寸前の寺を霊巖が浄土宗として再興したという。
寺院名 / 求法山随流院善勝寺
開創年次 / 文禄元年(1592)
随法師 / 檀蓮社雄譽霊巖上人
開山 / 肇蓮社源譽随流上人(大巖寺4世)
所在地 / 千葉市検見川町