4.京都知恩院

 華頂山(かちょうさん)大谷寺知恩教院。浄土宗総本山で、京都市東山区にある。円光大師法然(えんこうだいしほうねん)(源空(げんくう))上人の開山。山内(さんない)に法然上人御廟(ほうねんしょうにんごびょう)がある。明治維新までは門跡(もんぜき)寺院。

 徳川家康は、慶長8年(1603)、知恩院を菩提所(ぼだいしょ)と定め、寺領703石を寄進した。寛永6年(1629)、知恩院の第32代住持に台命(たいめい)によって、霊巖が就任した。寛永10年(1633)正月、失火により知恩院の諸堂は悉く燃え尽きてしまったが、霊巖は幕府の力を借り、これを倍旧の見事さで塔堂伽藍(とうどうがらん)を復興した。この時、霊巖は大洪鐘(大釣鐘)も鋳造している。

 現在見る知恩院の一大伽藍群は山門を除き、この時霊巖が再建したもので、こうした大功により、霊巖は知恩院の歴代住職の中でも特別に、中興上人と崇められている。

総本山知恩院御影堂(本堂)

総本山知恩院御影堂(本堂)

 3.江戸霊巖寺

 道本山東海院霊巖寺(どうほんざんとうかいいんれいがんじ)といい、現在は東京都江東区白河に所在する。寛永元年(1624)の建立。開山は霊巖。関東十八檀林の一つで、120余の学寮が建ち並び、道譽流伝法の道場として隆盛を極めた。

 房総を本拠地として活躍していた霊巖の名声は諸国に聞こえ、徳を慕うものが増えたため、御府内へ巡教(じゅんきょう)することも多くなった。そこで、房総からの交通の便を考え、船着に至便な場所を見立てて日本橋の近くの葦の原(現在の中央区新川付近)を拝領して、それを熱心な信者たちが埋め立てて3万坪以上の広大な土地を造成し伝道の地とした。やがて誰言うともなく、霊巖(岸)島と呼ばれるようになった。

 これが現在地に移ったのは、明暦3年(1657)に起こった大火(振袖火事)でこの一帯が悉く(ことごとく)焼失し、その後その地を市街として用いることとなり、替地として現在地が与えられたためで、門前町ごと移転したという。

左:霊巖寺本堂 中:雄松院(開山堂)本堂 右:勢至院本堂
左:霊巖寺本堂
中:雄松院(開山堂)本堂
右:勢至院本堂

 2.安房大巖院

 仏法山(ぶっぽうさん)大巖院大網寺(だいがんいんおおあみじ)といい、現在の館山市大網に所在する。慶長8年(1603)、安房の国主里見義康(さとみよしやす)(里見氏9代目)の帰依(きえ)により、霊巖を開山として建立された。

 かつては伽藍学寮が建ち並び、浄土宗における安房の触れ頭(ふれがしら)寺院、談義所(だんぎしょ)として栄えた。

 境内に千葉県指定文化財の四面名号(しめんみょうごう)石塔や、館山市指定史跡霊巖上人墓塔が建つのをはじめ、数多くの霊巖に関する資料が伝来している。

 また現在でも10月1日(霊巖忌日の月遅れにあたる)には、浄土宗の安房郡内全寺院の僧侶が出勤して、報恩謝徳の開山忌(かいさんき)が行われている。この法会(ほうえ)には、近郷の大勢の信者が参詣して賑わっている。

大巖院山門

大巖院山門

左:12.雄譽霊巖上人墓塔 右:11.大巖院四面石塔附石製水向

左:12.雄譽霊巖上人墓塔
右:11.大巖院四面石塔附石製水向

 この四面石等は、元和10年に霊巖が建立した名号石塔で、北面のインドの梵字に始まり、中国の篆字、朝鮮のハングル、日本の和風漢字と、わが国まで仏教が伝来した国々の文字で、「南無阿弥陀仏」と刻まれています。

左:13.霊巖名号石燈籠(左) 中:13.石燈籠(左)部分 右:14.霊巖名号石燈籠(右)
左:13.霊巖名号石燈籠(左)
中:13.石燈籠(左)部分
右:14.霊巖名号石燈籠(右)

 大巖院本堂前に霊巖の名号を刻んだ1対の石燈籠がある。左は元和10年(1624)に霊巖の弟子で大巖院2世を継いだ松蓮社霊譽鎮風が建てたもので、右は寛永2年(1625)に光譽が、授けたものとの銘文がある。なお基礎の反花は重厚で古式。

【2】霊巖上人所縁の寺々
 1.生実大巖寺

 龍澤山玄忠院大巖寺(りゅうたくさんげんちゅういんだいがんじ)といい、現在の千葉市中央区大巖寺町に所在する。千葉氏六党の第一、領主原胤栄(はらたねひで)が道譽貞把(どうよていは)上人(以下道譽と略称)に帰依して、生実(おゆみ)城外に建立し、道譽を開山に迎えた。

 檀林という当時の僧侶を養成する学問所で、大勢の優秀な学僧が道譽の下に集まった。また、関東寺院の中では徳川家康との関係が深く、天正18年(1590)江戸入国以前から禁制(きんぜい)や安堵(あんど)状をもらい、入国後は、幕府の祈願寺となり、100石の朱印地をもらった。

 第2世安譽虎角上人、第3世霊巖と高僧を輩出、関東十八檀林の一つとして栄えた。

大巖寺本堂

大巖寺本堂

 4.浄土宗中興の祖

 同じ寛永6年(1629)秋、浄土宗総本山知恩院(そうほんざんちおんいん)の然譽上人(ねんよしょうにん)が遷化(せんげ)し、老中に後任を願い出たところ、将軍の意向で、霊巖に白羽の矢がたちました。かくして、霊巖寺を浅草西福寺(さいふくじ)の正譽意天(しょうよいてん)に譲った霊巖は、10月25日知恩院32世に就き、こうして浄土宗の棟梁(とうりょう)の地位に上(のぼ)り詰めたのです。76歳のことでした。

 知行兼備(ちぎょうけんび)の徳名(とくめい)を聞いた人々は、血脈(けちみゃく)十念を願い洛中に市をなしたといいます。後水尾法皇や、明正天皇からの院宣(いんぜん)により参内(さんだい)して説法もしました。

 寛永10年(1633)正月9日、火災により総本山の諸堂は灰燼に帰してしまいました。霊巖は直ちに江戸の将軍家に参上し、事情を説明すると、まもなく再建の台命(たいめい)が下りました。寛永13年(1636)、東洋一の洪鐘が完成。15年(1638)、諸堂が完成しました。こうして浄土宗の中興(ちゅうこう)の祖と呼ばれるようになるのです。

 寛永18年(1641)お礼に江戸城に伺った霊巖は、3代将軍徳川家光から法問を望まれます。この時城内への駕籠(かご)の乗り入れ、座敷での杖の使用を、特別に許されますが、このとき将軍から拝領した鳩杖(はとづえ)と、団扇(うちわ)が知恩院に伝来するといいます。暑さと高齢のため体の弱った霊巖は、9月1日行年88歳で遷化(せんげ)しました。遺骨は、所縁の寺々にに分配され墓所が築かれて祀(まつ)られました。

 3.安房での活動

 安房にやってきた霊巖は、旧知の豪譽九把(ごうよきゅうは)上人が住職をしていた、北条(館山市)の金台寺(こんたいじ)に落着いて、民衆教化に励みました。中央の無双の学匠の説法ということで、人々が雲集(うんじゅう)し、大変な賑わいだったそうです。安房の国主里見氏9代義康は、伯父に当たるという豪譽から、このことを聞き、大網一村一円に東の山を添えて、永世寺領として32石を寄進したので、ここに仏法山大網寺大巖院(ぶっぽうさんおおあみじだいがんいん)の仮の堂が造られました。

 国主の勧めで、東條民部左衛門(みんぶさえもん)や、近藤九郎右衛門尉(くろううえもんのじょう)ら、家中の上席がみな霊巖に帰依(きえ)することになります。いまも近藤九郎右衛門尉が寄進した大巖院の寺号(じごう)扁額が伝来しています。後に天津山より材木を切り出して、諸堂も造営され、やがて15間と13間の大本堂が落成しました。この年50歳になった霊巖は、鎌倉より仏師を招き、等身の寿像(じゅぞう)(霊巖像)を作らせ、門弟への形見、末代永く念仏信者への結縁(けちえん)としたといいます。

 慶長13年(1608)上総国五井の領主松平紀伊守家信は、霊巖を理安寺(りあんじ)(後の清昌院守永寺(しゅえいじ)の開山として請じました。大巖院に伝わる夫妻の授戒像(じゅかいぞう)の体内には、この年の11月の墨書があります。里見義康の跡を継いだ10代忠義も、2年後の慶長15年(1610)3月に、霊巖より円頓戒(えんどんかい)を授かり、その法礼として朱印をもって寺領を42石にしたといいます。

 霊巖の徳を慕う上総国佐貫城の内藤佐馬助(さまのすけ)政長は、佐貫の善昌寺へ転住して欲しいと懇請しました。霊巖は仏法を広めるため、これを承諾し、名残を惜しむ安房の人々に別れを告げました。

 元和元年(1615)には、上総国湊村(かずさのくにみなとむら)に湊済寺(そうさいじ)を建立。同国小糸市宿に三経寺(さんきょうじ)を、また姉ヶ崎の最頂寺(さいちょうじ)を改宗。下湯江に法巖寺(ほうがんじ)を起立(きりゅう)と、次々に寺院を再興、創建しています。

 この年8月、宗祖円光大師法然(ほうねん)上人の遺跡(ゆいしゃく)・霊場の巡拝(じゅんぱい)を発願(ほつがん)し旅立ちました。この旅行の4年間に結縁(けちえん)の血脈(けちみゃく)は数万人に及び、30カ寺の寺院を興して、佐貫に帰ってきました。

 この頃には諸候や旗本などで霊巖に帰依渇仰(きえかつごう)し、江戸へ招く人が多くなってきました。そのたびごとに房総から出かけて行って、説法をしていたのですが、茅場町の辺りに結んだ仮の草庵(そうあん)も、日増しに群集(ぐんしゅう)して狭くなってしまいました。それを何とかしようと、堀庄兵衛という人が、北続きの沼を旗本向井将監(しょうげん)から譲り受け、江戸における霊巖の伝道地にしようとしました。信者たちは手に手に土石を持ち寄って、先を争うように埋め立てたので、瞬く間に立派な平地になったといいます。こうしてできた東西1町余、南北2町余の敷地が、霊巖(岸)島の起こりです。現在の中央区新川1~2丁目にあたります。

 元和7年(1621)、房総との交通の要所に、数百人容れることのできる仮屋が設けられたのが、有名な霊巖寺の草創となります。霊巖にはたくさんの弟子がいましたが、諸国に所化(しょけ)(学僧)を留めて置いていました。それを呼び集めるため、まず学寮を建てようと考えました。材木の寄付を呼びかけたところ、房総のそこかしこから、信者たちによる寄付の材木が大船に積まれ運ばれて来たそうです。こうして、寛永6年(1629)秋、本堂、諸堂、学寮建ち並ぶ霊巖寺が見事に完成し、新たに十八檀林の一つとして認められました。

れいがん橋(東京都中央区新川)

れいがん橋(東京都中央区新川)

 2.念仏三毒滅不滅論

 文禄から慶長頃にかけて、念仏三毒滅不滅論(ねんぶつさんどくめつふめつろん)、つまり、念仏の功徳(くどく)により、人の煩悩(ぼんのう)が滅してから極楽に往生するのか、あるいは、往生してから滅するのかという論争が、浄土宗の中に持ち上がりました。結果は、政治的な力を背景に、増上寺12世の普光観智国師源譽存応(ふこうかんちこくしげんよぞんのう)上人(以降存応と略称)の主張する念仏三毒滅論者が勝利し、三毒不滅論者は追放されることになったのです。

 こうして、三毒不滅論者に近い立場にあった霊巖は、慶長8年(1603)、再び表舞台から身を引くと布教の旅に出るこのになるのです。

【1】霊巖上人の生涯
 1.師資相承

 毎年除夜の鐘のテレビ中継がされる京都の浄土宗総本山知恩院の大洪鐘(こうしょう)(大釣鐘)や、その堂塔を建立したのが、房総を拠点に全国的に活躍した近世浄土宗の高僧・霊巖上人(れいがんしょうにん)であることはあまり知られていません。

 上人は諱(いみな)は霊巖、字(あざな)は松風、法号を檀蓮社霊巖雄譽松風(だんれんじゃれいがんおうよしょうふう)上人大和尚(以下霊巖と略称)と号します。

 霊巖は天文23年(1554)4月8日に、駿河国(静岡県)沼津で、今川家の一族、沼津土佐守氏勝の三男として生まれたとされ、幼名を友松といいます。しかし、霊巖が安房・上総・下総を故郷のようにして活躍していたためか、伝記の中には上総国佐貫の生まれで、父は里見氏と記すものもあります。

 友松は永禄7年(1564)2月15日、沼津浄蓮寺開山の増譽(ぞうよ)上人について剃髪(ていはつ)し、肇叡(じょうえい)と名づけられました。11歳の時のことです。やがて肇叡の非凡な才能を見抜いた師僧増譽は、檀林(だんりん)という当時の高僧が集まっている僧侶の学問所に入れることにします。

 こうして、永禄11年(1568)下総生実(おゆみ)の大巖寺(千葉市中央区)の開山道譽貞把(ていは)上人(以下道譽と略称)の門を叩いた肇叡は、新しい師僧の道譽から「霊智の生ずるところ、わが宗の柱礎となるべし」と、霊巖という名をもらいました。15歳のことです。

 天正2年(1574)、学問修行に励む21歳の霊巖は、余命残り少なくなった道譽より、五重、宗脈(しゅうみゃく)という大切な相伝(そうでん)、浄土宗の正流を伝えられます。

 大巖寺2世は、遺言により大勢の門下の中から兄弟子の安譽虎角(こかく)上人(以下安譽と略称)が継ぎました。再び霊巖は、安譽のもとで厳しい学問と修行を続けます。天正7年(1579)冬、26歳の霊巖に安譽は戒脈(かいみゃく)を授け、さらに門下に「霊巖はすでに学なりて、ほぼ仏祖(ぶっそ)の幽致(ゆうち)に通じたので、今より指南を乞うべし」と申し渡したので、大勢の学僧が霊巖の座下に学ぶことになりました。

 天正15年(1587)身体の衰えた安譽は、住持職を霊巖に譲与し、口決相承(くけつそうじょう)の密旨(みっし)、璽書印可(じしょいんか)を伝えて入寂(にゅうじゃく)します。

 こうして34歳で伝燈法師(でんとうほっし)として大巖寺第3世を継いだ霊巖の評判は高まるばかりでした。

 しかし天正18年(1590)、故あって大巖寺を辞して東海道に旅立ちます。一説には、徳川家康の仰せで開かれた報謝法門(ほうしゃほうもん)の席で争論があったためともいわれます。

 これには大勢の弟子たちも随いました。道々、布教をしながら人々の求めに応じて寺院を開き、廃寺を再興しました。天正19年(1591)、南都(奈良県)に永亀山肇叡院(えいきざんじょうえいいん)霊巖寺(現在の霊巖院)を建て、弟子の念譽廓無(ねんよかくむ)を第一座にしました。霊巖の評判は高まる一方で、村人の招きに応じて、山城国宇治の称故寺(しょうこじ)の本堂を建立したり、相楽瀧鼻(そうらくたきのはな)(京都府相楽郡精華町)に西光寺(さいこうじ)を創建するなど、このほか五畿内に19カ寺を開いたといわれています。

 文禄元年(1592)、徳川家康が九州名護屋に赴くために上洛し、伏見城に滞在していたときに、霊巖の活躍を聞き、直ちに城に霊巖を呼び、関東に帰るように説得します。文禄2年(1593)上意により再び大巖寺に戻った霊巖は、上総国五井の領主松平紀伊守家信の援助を受けて、大巖寺堂宇(どうう)造営の大工事に取り掛かります。慶長4年(1599)春、無事に大巖寺の堂塔は完成します。この年の8月、字(あざな)を松風(しょうふう)と定めます。

目次

※この図録は一部抜粋した内容を公開しているため、目次の見出しのみとなっているページが多数ございます。ご了承ください。

【1】霊巖上人の生涯
【2】霊巖上人と所縁の寺々
【3】霊巖上人と所縁の人々
【4】霊巖上人の伝説
【5】図版
【6】資料集

ごあいさつ

 「安房の人物シリーズ」は、郷土の歴史と文化を担ってきた人々を紹介するシリーズです。

 第6回目は、浄土の高僧・雄譽霊巖上人を取上げました。霊巖は里見義康の帰依を受け、館山市大網に大巖院を建てています。その後、各地で活躍していますが、地元では、あまり知られていません。

 大巖院には霊巖建立の千葉県指定有形文化財の「四面石塔」があり、また、霊巖遺物の多くが館山市の有形文化財に指定されていますが、これまで詳しい調査がなされておりませんでした。

 本書はその調査をまとめたもので、広く一般市民の方々の理解の一助になれば幸いです。

 なお本書の編集にあたり、多くの方々より様々な情報をいただき、また所蔵者の方々には調査に快く応じていただきました。心よりお礼を申し上げます。

 平成11年2月6日

館山市立博物館長 松田昌久