4.国連本部へ

 秋野の協力により完成した虚籟の「綴錦織曼荼羅中尊阿弥陀如来像」は、仏教連合会と、日本仏教鑽仰会によって、第2次世界大戦の犠牲者の冥福を祈り、併せて国際連合の平和努力に対する感謝の意思を表すため、全日本仏教徒の総意として国際連合本部に贈呈されることになった。

 11月13日京都知恩院にて岸信宏浄土門主が導師となり、京都仏教会及び関西仏教学生連盟の主催で約1000名が会同し、厳かに贈呈式が厳修されたのである。

 3.制作再開

 敗戦後の混乱の中で、鶴岡の名族風間家の別邸「無量光苑」を綴錦織制作の工房として提供を受けた。これを機に、曼荼羅中尊阿弥陀如来の謹作にとりかかるのである。

 さらに虚籟にはもう一つ夢があった、それはこの故郷鶴岡に綴錦織の技術を伝え残したいということであった。終戦の翌年、男女6名を集めて講習会を開くが、資金も、色糸の貯えもなかった。そのため秋野の大切に持っていた作品、最初の帝展入作作品「花籠」を売って金に換え、もう一つの文展入選作「フラミンゴの居る」をほぐして受講生用の色糸に使用したのである。自分の思い出の作品を手ずから解体する秋野の心中は察するに余りあるものがある。

 長男哲雄が南方で戦死したこともあり、虚籟の家庭は崩壊寸前であった。秋野にとってもこの軋轢に巻き込まれ、心身ともに疲れ果てて、すっかり嫌になってしまい房州に帰ることも考えたという。

 こんな虚籟たちの窮状を見かねた鶴岡の隣町にある天澤寺の住職が檀信徒を回り、後援会を作り、浄財をあつめて支援したのである。

 こうした人々の善意に支えられて、昭和25年(1950)3月31日の払暁、「綴錦織曼荼羅中尊阿弥陀如来像」が完成したのである。このとき虚籟60歳、秋野42歳であった。

無量光苑/風間家別邸
無量光苑/風間家別邸

今は国登録有形文化財として有料公開されている。
虚籟と秋野は美しい庭園が見えるこの部屋(右写真)で綴錦織の制作に励んだという。

金峯山 天澤寺(櫛引町)
金峯山 天澤寺(櫛引町)

 加藤清正公墓碑(山形県指定史跡)のある古刹。

 2.疎開そして終戦

 これ以降、虚籟は仏像制作に専念して、生活のための作品を織らなかったので、秋野が代わって、帯や、ハンドバッグを織って生計を支えなくてはならなかった。今日虚籟作と伝えられる小品の多くは、秋野が織ったものが多い。

 昭和19年(1944)戦局の悪化とともに、東京での綴錦織制作を断念して、虚籟の郷里鶴岡への疎開を決心する。しかし、頼りとする郷里の親戚にとっては、虚籟一行は歓迎されない客であったという。

 厳寒の中、凍死から逃れるために、命がけで守り続けた織機を涙ながらに「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えて、燃やし暖を取ったという。こうした鶴岡での困難な疎開生活であったが、昭和20年8月、わが国は無条件降伏して苦しい戦いが終わったのである。

【3】世界平和祈願綴錦曼荼羅
 1.同信同行

 虚籟は一切の戦争犠牲者の冥福と世界平和を祈願する綴錦織浄土曼荼羅を織ろうと決心したが、この生涯の悲願はさらなる困難な人生の旅立ちであった。この悲願を成就すべく、彼の最後の順霊の旅に同行してくれるように、秋野に頼んだのである。

 師虚籟の願いを理解した秋野は、曼荼羅制作に人生の総てを賭けるのである。

 二人は仏教関係の専門書を読み漁り、実際に奈良・京都、各地の古刹を巡拝し、仏像を拝み、研究に没頭した。

虚籟著『曼荼羅行脚十七年手記』草稿

虚籟著『曼荼羅行脚十七年手記』草稿
個人蔵

昭和15年の曼荼羅謹作発心から、当麻曼荼羅の研究と続く、一連の研究足跡が窺える。

 2.新進女流作家・和田秋野

 虚籟は秋野に綴錦織を習うならばお稽古事でなく、展覧会へ出品をめざして織るように指導した。秋野は綴錦織に当初はそれほど強い関心があったわけではなかったというが、それでもまじめに通って熱心に学んだ。

 勧められるまま、その年の秋に商工省輸出貿易展に「鳳凰模様」のテーブルセンターを出品したところ、みごと入選する。習い始めて半年という快挙であった。さらに制作に励み、翌昭和10年(1935)、新人作家の登竜門ともいうべき上野美術協会展に、貝を図案化したテーブルセンターを出品し連続入賞を果たした。

 この年、過労で倒れた虚籟一家が東京に移ったため、秋野は自宅で絵を描き、時折上京しては虚籟の指導を受けるという生活を1年余り続けるのだが、その後昭和11年、虚籟から助手に乞われて上京することになる。

 こうして秋野は虚籟の家に住み込み、その家族と生活を共にしながら、虚籟の仕事を手伝い、その合間に、自分の展覧会出品用の作品を織るという厳しい生活を始めた。

 睡眠の時間を惜しんで制作に励んだ秋野は、その年の春、帝展に、紫陽花に鳥と魚を配した綴錦織壁掛「花籠」を出品し入選した。

 さらに同年の秋の文展に綴錦織壁掛「フラミンゴの居る」を出品、これも入選した。秋野28歳。この連続入選を誰よりも喜んだのは、彼女の父であったという。

 勢いに乗った秋野は、昭和12年春、上野美術協会展に牡丹模様のクッションを、同年秋には上野実在美術工芸展に綴錦織ハンドバッグを、13年の商工省輸出貿易展には魚をのせた皿をデザインした綴錦織「海の幸」テーブルセンターをそれぞれ出品して、いずれも入選を果たしている。

 さらに15年秋に、東京都美術館で行われた皇紀紀元2600年奉祝記念美術展に、父が栽培していた洋蘭をモチーフに、「洋蘭のある綴錦壁掛」を出品して入選、好評を博すが、秋野はこの傑作を最後に展覧会に出品する作品の制作を封印してしまう。これ以降は、虚籟の世界平和祈願綴錦織曼荼羅制作という大事業の実現のため協力し、私を捨てて裏方に徹するのである。

秋野作 綴錦織「ぼたん図」
秋野作 綴錦織「ぼたん図」
千葉県立安房博物館蔵

【2】盟友/和田秋野
 1.安房へ、そして出会い

 秋野は明治41年(1908)9月22日、大分県大分市に生まれた。父は安房郡豊田村(現在の丸山町)の出身で、大分県立大分第一高等女学校の校長を長く務めた教育者である。母の生家は代々松江藩の家老職であったといい、秋野もそのような教育を受けて育った。

 秋野は大正15年(1926)、父の大分県立大分第一高等女学校を卒業。昭和4年、父の定年退職に伴い、一家は父の故郷に引き上げることになり、秋野も安房に住むことになる。

 昭和9年(1934)、秋野26歳のとき、紹介する人があって安房北条にいた遠藤虚籟の下で綴錦織を習うことになった。

 当時、綴錦織作者として名声が高まり、世間の注目を浴びていた虚籟であったので、たくさんの入門希望者がいたようだが、カルチャースクールのようになるのを嫌った虚籟はその後弟子を取ることをやめてしまったという。

和田秋野さん近影
和田秋野さん近影

 「眼も耳も大丈夫、毎日が幸せですよ」と語る97歳。とてもお元気です。

 5.綴錦織曼荼羅発願

 虚籟の創作活動は、順風満帆。昭和13年(1938)、綴錦の丸帯「石橋の図」、14年綴錦打敷「白鷺の居る」を文展に出品。15年高島屋の委嘱で綴錦織壁掛「暁の富嶽」を制作。この作品は後日、外務大臣松岡洋右からドイツに贈呈されている。同年秋の皇紀紀元2600年奉祝紀念美術展にも綴錦織壁掛「天平の夢」を出品している。

 このように綴錦織作家としての虚籟の名声は高まり、第一人者としての地位も固まったが、そんな虚籟に立ち塞がったのが、昭和15年7月7日に交付された奢侈(しゃし)品等製造販売禁止令(贅沢禁止令)であった。

 戦争の暗雲が垂れ込め、国家総動員体制を目指した物資の配給制や言論統制が強化された状況の中で、絹織物一切が贅沢品として製造販売が禁止されたのである。

 虚籟は芸術保存の観点から特に綴錦織の制作を許可されたのであったが、彼は非常時において自分だけ特別扱いされる意味について自問自答した。

 その結果、国家や民族の利害を超えた全人類的な視野に立つ意識の改革。山川草木生きとし生けるもの全てを互いに認め尊ぶ、畏敬の気持ちが大切だと気づく。そして戦乱の中で、敵味方の区別なく総てに対する追悼と世界平和の祈りとして、大慈悲の現れである阿弥陀如来を中心にする一大浄土変相曼荼羅を綴錦織で制作しようと発願するのである。このとき虚籟は50歳であった。

 4.文展無鑑査に

 初の公募展入選に意を強くした虚籟は「水のほとり」、「樹下情遊」と精力的に連続して制作。昭和5年(1930)に綴錦織壁掛「日わり草」が帝展に入選。4ヶ月以上もかけて織り上げた大作、綴錦織壁掛「水辺」も昭和7年の帝展に出品され連続入選を果たし、さらにそれに倍する大作「陶窯の図」を今度は5ヶ月かけて制作し、昭和8年の帝展に出品。みごと特選となったのである。昭和9年(1934)引き続き綴錦織壁掛「牡丹の図」を出品し入選するのであるが、過労で倒れたため、翌年、家族と共に安房北条から東京に引き上げることにした。

 昭和11年に帝展が改組され文展となり、虚籟はその第1回文展に無鑑査招待として豪華な三曲衝立「白孔雀の図」を出品。それ以後文展無鑑査の資格を得るのである。

 この「白孔雀の図」は家が買えるほどの値で売れたのであるが、虚籟はそれを全て奥州四百里の托鉢の記録である『順霊の跡』の自費出版の費用に当てて使い切ってしまったという。

 3.綴錦織作家として

 虚籟は大久保家に50日ほど滞在し、綴錦織の手ほどきを受ける。この年、虚籟と妻いく子とのあいだに生まれた長女昌子を亡くしている。そんな落胆の中、東京から埼玉に転居した虚籟は、慣れない日雇いの労務者として働きながらポツポツと綴錦織の小品を織るようになる。

 翌大正12年9月1日(1923)に発生した関東大震災に見舞われたことをきっかけとして、虚籟はこれまでの放浪生活に決別し、本気で綴錦織作者として生きる決意をする。大正13年(1924)安房北条(現在の千葉県館山市)へ一家で移り住んだのである。

 綴錦織の職業作家としての道を歩みだした虚籟であるが、かねて習得したことがあるデッサンと違い、消してやり直すことができない綴錦織制作の苦心は大変なものであった。

 綴錦織の技術の追求をすればするほど、研鑽に励めば励むほど、家系は窮乏し、家族の困難は筆舌に尽くしがたいものであった。当時4・5歳の長男哲雄が、食事の際に、具のない味噌汁の味噌豆を欲しがって「豆食う、豆食う」と言うのを聞いた時は思わずホロリとしたという。

 そうした中で、早くから虚籟に注目し、激励したのが、高村光太郎であった。高村光太郎は日本工芸美術館展覧会に出品するように勧めたが、虚籟が窮乏のため制作できないことを知ると、木彫りの「鯰」を与え、これを売って、製作費に当てるようにと励ましたのである。感激した虚籟は綴錦織壁掛「芭蕉の図」を織り上げ、出品すると見事入選を果たしたのである。大正14年(1925)、虚籟35歳であった。

 2.綴錦織との出会い

 大正11年(1922)秋、虚籟は関西への伝道の旅次、信仰の友であった大久保寿麿を訪問する。そこで大久保夫妻が綴錦織を織っているのをたまたま見て、「世には、こうした芸術もあるのか」と驚嘆し、早速、その伝統記述を伝授してくれるよう頼み込んだ。これを虚籟は「私の綴織工芸への門出でもあり、人生行路における、綴織り順霊の旅の出立でもあった」と述べている。虚籟32歳のことであった。