妙福寺<富浦>

成就山妙福寺の概要

 南房総市富浦町南無谷(なむや)にある日蓮宗の寺院で、成就山(じょうじゅさん)妙福寺と号します。由緒によると、蓮長(若き日蓮)が14年にも及ぶ修行と遊学を終え、清澄山旭の森で「南無妙法蓮華経」の題目に教えの全てを籠めて日蓮宗を立教開宗し、法華経の行者となって名を日蓮と改めた建長5年(1253)、鎌倉に向かう途中、富浦の岡本浦から鎌倉へ船出しようとしたところ嵐で足止めを余儀なくされ、近くの岬に登って一心に祈願すると嵐が治まりました。並みの僧でないことを感じたこの地の泉沢権頭(ごんのかみ)太郎は自宅に招いて世話をしたと伝えられています。日蓮聖人は鎌倉に入ると熱心に布教活動をしますが、幾多の迫害にもあいました。伊豆の流刑が解けてから父の墓参と病身の母の見舞いに故郷小湊へ戻ったとき、東条小松原でも刀難に遭い、身を隠しながらも房州各地で布教を行っていました。この時、以前鎌倉への渡海で世話になった泉沢家に立ち寄ると、老母に「妙福」の法号を授けます。太郎が弘安2年(1297)に身延山へ聖人を訪ねると、投宿した泉沢家で老母が衣を洗ったときに裸で読経した自分の姿を弟子日法に彫刻させた坐像とお題目の掛軸を下さったので、お堂を建てて安置しました。その後に六老僧のひとり日頂聖人の弟子松本公日念上人が来山して妙福寺とし、現在に至っています。6月と10月の13日には日蓮聖人像の衣替えが行われています。

(1) 日蓮大聖人生御影霊場碑

 生御影(いきみえい)とは日蓮聖人の裸体祖師像のことであり、本尊として安置されている。その裸像を祀る霊場であることを広く世に知らせる碑である。大正8年(1919)、37世の日?(にちい)上人によって建立された。

(2) 題目塔

当山31世日光上人が明治18年(1885)9月に再建したお題目塔で、中興開基と讃えられる25世日塔上人の供養塔になっている。

(3) 和泉沢家墓地(やぐら)

祖師堂の裏山に当時この地を支配していた泉沢権頭太郎の母「妙福」を葬ったやぐら(鎌倉時代の墳墓)がある。今も残る当山24世日宣上人が記した「妙福精舎由来」によれば、日蓮聖人が流刑赦免後の布教途中、鎌倉渡海前に世話になった泉沢親子に再会し、太郎の母に法号「妙福」を授けたと伝えられている。やぐらは今も和泉沢本家により守られている。

(4) 二祖(開山)塔

 祖師堂裏手に二祖(開山)松本公日念上人の塔がある。日念上人は日蓮聖人とその高弟日頂聖人(市川市真間の弘法寺開基)の教えを受け、弘安2年(1279)に当地を訪れると草庵を日蓮宗の寺とし「成就山妙福寺」と号した。のち下総や越後などにも寺を建て、建武元年(1334)8月没した。

(5) 歴代住職の墓

 武州に生まれ、当山24世となって祖師堂を建立し、のち小西檀林135世となり、天明2年(1782)に没した日宣上人の墓。加戸村(館山市稲)に生まれ小西檀林の講師を務めた後、50年間当山の住職を務め、その間に金200両を寄付して中興の祖といわれた25世日塔上人(天保2年=1831年没)の墓。その弟子で北条村に生まれ、小西・飯高両檀林の玄義を務め、寛政10年(1798)に23歳で没した日京法師の墓などがある。

(6) 題目塔

 天保4年(1833)、23世日?(にっしん)上人の時代に檀方中によって寄進された。右側面には世の中の平和・海の安全・仏法の広がり・未来の幸せへの願いが刻まれている。石工は長須賀村(館山市)の鈴木伊三郎である。

(7) 金木熊治の墓

 南無谷石小浦(いしごうら)の人。富浦村役場に勤め、大正時代には村会議員になった。その間、枇杷栽培の普及発展を図るとともに、「枇杷の栽培」他数冊を著述し、克明な資料を残している。昭和30年(1955)12月没、86歳。

(8) 柴山千代太郎先生碑

「局長さん」の愛称で富浦町民に親しまれた柴山千代太郎は、明治元年(1868)南無谷に生まれ、千葉師範卒業後富浦小学校で教鞭をとる傍ら私塾を開設して近郷青少年の育成に努めた。さらに町の助役を務めた後永く富浦郵便局長として活躍し、地元民に大変慕われた。昭和22年(1947)4月没。同年11月弟子たちが徳を慕って記念碑を建立した。

(9) 柴田南窓の墓

弘化年間(1844~1847)に江戸で活躍した講釈師。本名は柴山常晴。南無谷村の出身で、無本読(むほんよ)みを特徴とした田辺南鶴の門人。南窓もやはり無本で、読み方にも改良を加え、柴田派を興した。古戦記を中心とした修羅場を得意とし、殊に「赤穂義士伝」は日本一の定評を得たという。弘化3年(1846)72歳で病没。門人柴田南玉らによって、東京高輪泉岳寺にある赤穂義士の墓の傍らに記念碑が建てられている。

☆ 七面山

妙福寺の北方500mの七面山はむかし浅間山と呼ばれていたが、のち領主の小浜八太夫が雨乞いの祈祷料として山林を奉献し七面堂が建立された。222段の石段の先にある七面堂には、元禄12年(1699)に身延33代日亨(にっこう)上人が勧請した木造七面大天女が祀られている。伝説では、日蓮が身延の谷で弟子や信者に説法していると、その中に妖しげな美女がいた。正体に戻るようにと花瓶の水を掛けると一丈もある大蛇が姿を現し、「私は身延山に棲む七面大天女である。この山を水火兵難から守り、法華経を信じる者には願いのすべてを聞き届けよう」と言って消えた。以来日蓮宗の守護神とされた。本地(ほんじ)は福徳を授ける吉祥天で、鬼門の一方だけを閉じ七面を開くという。毎年5月と10月の18日には絹衣のお召し替えの儀式が行われる。

(10) 石灯籠

明治時代に日参講により奉納された。石工は岩井村の青木竹次郎。当時は毎日七面堂へのお参りがあったのだと思われる。

(11) 手洗石

正面には日蓮宗と縁が深い妙見信仰を表す七曜紋を刻む。昭和14年(1939)に奉納されたのは、この当時日中戦争が行われていたことから、信徒中で戦争の勝利を祈願したもの。石工は大谷忠太郎。

(12) 戦勝満願碑

 日實法尼が、七面天女に百日の水行で日露戦争の戦勝を祈り、願いがかなったという戦勝満願碑である。富浦村の兵士たちが、明治40年(1907)、35世日覺上人の時代に建立したもの。願主の日實は18歳で当村の川名家に嫁ぎ、夫の冥福を祈るため57歳で剃髪した。

(13) 七面大明神碑

昭和28年(1953)、東京の七面講中が家内安全を祈り、また祈願満足・修行不退・衆望亦足(えきそく)・信力増進を祈願して、堂守の日榮と妙久法尼により建てられた。昔は堂守がいたようで、妙福寺墓地にも安政6年(1859)に亡くなった七面堂火守(日久信尼)の墓がある。

☆ 法華崎

富浦の原岡を過ぎると、坂之下集落からは海岸が険しく切り立ち山越を余儀なくされる。日蓮も鎌倉へ渡海の折嵐に会い、これを静めんとこの岬の頂に登った。袈裟(けさ)を松の枝に掛け、法華経を念ずると嵐が静まったという伝説から、法華崎と呼ばれるようになった。

(14) 袈裟掛け松の碑

 法華崎の頂間近な所に、明治31年(1898)に豊岡村で建立した碑で、中央にお題目と「日蓮聖人袈裟掛松」、右に「米(よね)ヶ浜へ渡海の旧跡」、左に「建長5年(1253)5月中旬」とある。

(15) 日蓮上人渡海之霊蹟碑

日蓮聖人の生誕700年記念に安房日蓮宗寺院が鎌倉渡海の地に建立した「渡海霊蹟(れいせき)」の碑で、袈裟掛け松の碑と並立している。

* 衣洗い井戸

清澄山で立教開宗の宣言を行った日蓮聖人が、文永11年(1274)に東条の地頭東条景信に小松原で襲われたあと、鎌倉に渡航するため当地を訪れた時に、血で汚れた衣を泉沢権頭太郎の老母に洗ってもらったという井戸がある。私有地のため場所の特定は避けました。


<作成:ミュージアム・サポーター「絵図士」 金久ひろみ・鈴木以久枝・鈴木正・中屋勝義>
監修 館山市立博物館

館山市に残る関東大震災の記念碑と痕跡

関東大震災とは

 大正12年(1923)9月1日11時58分、関東南部を襲った地震の震源は相模湾中央部で、マグニチュード7.9。震源域とみられる海底で最大160mの隆起、180mの陥没があり、陸地では房総半島南部・三浦半島南部・相模湾岸などで2mを越える隆起、丹沢山地などでは逆に沈下がみられ、各地で山崩れ、地割れが発生した。関東全域と静岡、山梨に地震火災の被害があり、全体で焼失戸数212,000戸余り、死者・行方不明者105,000人余、罹災(りさい)人口340万人余、とくに東京の被服廠(ひふくしょう)跡地だけで32,000人が焼死した惨事であった。

 津波の高さは静岡県熱海で6m、千葉県相浜で9.3m、洲崎で8m、神奈川県三浦で6mに達している。鎌倉由比ヶ浜では局地的に9mに達し、逗子・鎌倉・藤沢の沿岸では5m~7mの津波が到達した。隆起は、北条・館山沿岸で約1.8m(6尺)、高ノ島約2.1m(7尺)、沖ノ島約2.4m(8尺)、富崎・西岬約2.4m、船形約1.5m(5尺)、白浜・和田約1.2m(4尺)、鴨川約0.9m(3尺)と記録されている。房州の津波被害は、震源地の相模灘に面する富崎村(館山市相浜・布良)が最も大きかった。

 千葉県では、全壊13,767戸、半壊6,093戸、焼失431戸、死者行方不明者1,346人の被害があり、安房郡では全壊10,808戸、半壊2,423戸、焼失424戸、死者行方不明者1,206人の被害が出た。館山市内では、全壊5,935戸、半壊878戸、焼失417戸、流失71戸、死者727人、負傷者1,884人で、全壊・半壊は九重村で93%、館野村97%、那古町99%、船形町98%、北条町97%、館山町99%にも達していた。千葉県の死者数のうち90%が安房郡、館山市内だけで県全体の54%を占めており、館山市の被害の大きさがわかる。

(1)船形港の安政突堤

館山市船形1133 高尾造船工業㈱横

 大地震にともなう隆起で、全体が地上に露出した安政2年(1855)築造の突堤。旧船形港西端の岩礁先に、砂岩質の凝灰岩(ぎょうかいがん)を積み重ねた約85mの堤(つつみ)が残る。築かれた当時、下部は水面下にあって船を寄せることができた。現在の上部幅約2.7m、地上高2.5m余。なお、私有地のため立ち入りは不可。

(2)正木諏訪神社の震災「復興記念碑」

館山市正木4294

 関東大震災では当社も社殿が倒壊し、氏子たちはすぐに社殿再建をはじめた。県からの補助金も受け、大正15年に起工、昭和2年(1927)に落成し建碑した。書は元長尾藩士の熊澤直見(なおみ)。

(3)鶴谷八幡宮の「震災復旧工事竣成記念碑」

市内八幡68

 撰文・題字は安房神社宮司の稲村真里(まさと)によるもの。碑文は当八幡宮の由緒、例祭の様子に続き、関東を襲った大震災によって当社も社殿が被災し、復旧工事が行われたことを記している。後世に伝えるため13回忌の昭和10年(1935)に建碑された。

(4)-1 北条浜新田の震災記念観音堂

市内北条 中村公園南側

 明治後期に設立された善導会館(現菜の花ホール)に併設されていた観音堂が、大正14年(1925)の安房国札(くにふだ)観音巡礼の際、新設の35番震災記念観音堂となった。御詠歌は震災で孫を亡くした万里小路通房(までのこうじみちふさ)伯爵が制作。昭和2年(1927)に延命寺の佐々木珍龍が、震災死者の冥福のため本堂再建を企画し、佐渡で日蓮上人縁(ゆかり)のご神木で親松佛巌(おやまつぶつがん)仏師が制作した5mの現本尊が昭和3年(1928)に招来(しょうらい)された。昭和8年(1933)頃に駅前の日東交通の地に本堂を建設。昭和20年代に駅前から現在地へ移転した。

(4)-2 反省地蔵尊

館山市北条1547 中村公園南側

 関東大震災の翌年7月に災害時に狼狽(ろうばい)しないための準備はしてあるかという反省のために、佐々木珍龍と安房倶楽部の音尾松蔵を中心に建設が計画された。本尊の地蔵尊は安房の彫刻家戸村誠治の作。地蔵堂前の線香立ては、昭和2年(1927)俵光石(こうせき)の制作。

(5)北条神明神社の「御下賜金紀念樹」碑

館山市北条1119

 北条町は1700戸のほとんどが倒壊し、死者230人、負傷者1300人余の惨事となった。心を痛められた天皇陛下から被災民へ1000万円が下賜(かし)されたことを感謝し、北条町の北町(きたちょう)一同は檜(ひのき)10本を植樹した。碑の脇に二代目が植樹されている。

(6)上真倉神明神社の「震災紀念」碑

館山市上真倉1819

 大正12年9月1日の「震災紀念」碑は豊房村の第3代村長鈴木周太郎の書。裏に区長などの名が連なっている。震災の被害をいつまでも忘れないようにとの思いで建てたのであろう。

(7)沼天満神社の「御下賜金記念碑」

館山市沼1160

 関東大震災の罹災(りさい)者に対する天皇陛下から沼区への御下賜金1,456円の伝達式が、大正12年12月13日当社に於いて行われ、記念として柏・槇(まき)・月桂樹等の植樹をしたと記された碑。

(8)柏崎国司神社の「大震災御下賜金記念碑」

館山市沼931

 裏面に柏崎での被害状況などが刻まれている。天皇陛下から勅使(ちょくし)が派遣され慰問の言葉とお手元金の下げ渡しに感謝し、区民一同が御恩を忘れず後世に伝えるためにこの碑を建てた。下段には震災直後に活動した功労者たちの名が刻まれている。

(9)鷹島弁財天の「大正地震記念碑」

館山市館山1562

 題字は貴族院議長徳川家達(いえさと)公爵、撰文は千葉県知事元田敏夫。この碑は安房郡全体の記念碑で、郡内43町村の被害状況や復興支援などの様子を詳細に記し、安房郡震災復興会を組織して官民一体で復興に努力したことなどが刻まれている。4回忌にあたる大正15年9月に建てられた高4.4mの巨大碑である。

(10)見物海岸の地震段丘

館山市見物764 公衆トイレ前

 見物海岸は、砂浜と海岸段丘(だんきゅう)が繰り返すとても綺麗な海岸である。複数の海岸段丘が一目で見られる地形は非常に珍しく、元禄時代の地震と関東大震災による隆起でできたものである。最低位の段丘は大正地震により隆起・離水した平坦面で、大正ベンチと呼ばれている。その上の段丘(元禄段丘面)は沼Ⅳ面と呼ばれる。

(11)洲崎神社の「敬神風化之碑」

館山市洲崎1697

 関東大地震と昭和11年(1936)の大津波で破壊された社殿や港の再建を、信仰心の篤い住民たちが一体となって成し遂げたことを記念した碑。日本精神の真髄を示し教本にもなりうるので後世に伝えようと、敬神の精神を讃えている。題字は玄洋社社主頭山満(とうやまみつる)、撰文と書は明治大学教授の藤沢衛彦(もりひこ)。裏面に歌浦靖城の書で発起人と漁業組合員の名が刻まれている。昭和12年(1937)の建立。

(12)布良崎神社の「満井武平頌徳碑」

館山市布良379

 富崎村村長満井(みつい)武平の顕彰碑。関東大震災で幸いにも布良は倒壊家屋も死者もなかったが、2.4mの隆起で港に船が出入りできずに、漁業に支障が出て生活は困難を極めた。大正15年(1926)に漁港の復旧事業を遂げた武平に対し、村民が謝意を捧げた碑である。

(13)岡田八幡神社の「震災記念」碑

館山市岡田164

 悲惨を極めた大震災での豊房村の被害は、住宅全壊316戸、半壊204戸、死者33人、負傷者10人というなか、全壊21戸だった岡田区の被害は「軽く真(まこと)に天佑(てんゆう)であった」と書いている。天皇陛下の御下賜金で復興したことを感謝した碑。

(14)下真倉日枝神社の震災「御下賜記念碑」

館山市下真倉1

 3回忌にあたる大正14年(1925)9月1日の建碑。裏面に下真倉区の被害状況が書かれ、区内105戸の内全壊79戸、半壊13戸、死者4人、負傷者が9人の被害だった。天皇陛下から下賜された金一封に感謝して、区民がこの事を永遠に伝えるため建碑した。

(15)安布里源慶院の「再建新命碑」

館山市安布里647

 天正年間(1573~1592)に里見義弘の娘佐與(さよ)姫により創建され、のち古屋敷より現在の地に移ったという曹洞宗の寺院。関東大震災で本堂などが倒壊し、昭和7年(1932)に再建修理がなされた。昭和12年(1937)に完成記念で建てられた碑である。

(16)安東熊野神社の「大正大震災」記念碑

館山市安東564

 4回忌の大正15年9月1日に、九重村の安東区青年団が建てた。安東区は全戸数49戸の内全壊47戸、半壊1戸、住宅でないものを含むと全壊64棟、半壊37棟とある。死者は6人だった。皇室からの救恤(きゅうじゅつ)金の下賜や、全国からの慰問品が届いた。安東区には恩賜(おんし)金420円、義援金466円、給与金1385円が届き、皇室や全国の人々への感謝の気持ちを永遠に伝えるために建碑された。

(17)腰越延命院の「大正十二年大震記念」碑

館山市腰越509-1

 「大きな震えに見舞われ、山は崩れ家屋は悉(ことごと)く倒れ、人が死に負傷した。天皇陛下は御下賜金を賜いこれを救った。」と記される。館野地区腰越の在郷軍人会と青年団一同が、追悼のために大正13年の一周忌に建てた碑。この記念碑の左に倒れている大きな岩は、露頭(ろとう)の岩の基礎部が地震により折れて倒れたものである。

(18)延命寺断層

南房総市本織2014-1 延命寺前

 関東大地震により生じた最大の断層(だんそう)。南房総市本織(旧三芳村)の延命寺丘陵を中心として生じたので命名された。館山市江田の水田地帯を含む府中北部から中の大沼に至る延長約4㎞の断層である。80余年を経た現在、圃場(ほじょう)整備や道路工事などで表面的には痕跡を止めていないが、わずかに本織字稲荷森(とうかんもり)の山中に見られ、「南房総市指定天然記念物(自然遺跡)」として保存されている。


作成:ミュージアムサポーター「絵図士」
川崎一・鈴木正・山杉博子・吉村威紀 2019.11.26作
監修 館山市立博物館 〒294-0036 館山市館山351-2 ℡.0470-23-5212

房州と江戸・東京を結ぶ文化財(市内南部)

このシリーズでは、かつて安房地方や館山市が江戸・東京と海路で結ばれていたことを物語る文化財を紹介しています。水産物を中心に房州の産物が取引されていたことを背景にした神仏への奉納物や、江戸・東京へ出て成功した房州の人々やその交流を背景にした江戸職人の製作物など、痕跡は数多くみられます。それらの文化財ついて館山市内を3エリアに分けて紹介しました。市内湾岸北部エリア館山平野部エリア・市内南部エリアを合わせてご覧ください。

(1)館山神社(館山)の手水石<拝殿前>

館山神社文化財マップ参照

 館山新井浦出身の錦岩(にしきいわ)浪五郎(本名:森紋次郎)が、江戸で大相撲力士となり、文政9年(1826)の十両昇進に際して新井浦の諏訪神社に奉納したもの。錦岩浪五郎は文化14年(1817)に霧の海と名乗り江戸大相撲に登場し、文政5年(1821)の三段目の時、錦岩浪五郎と改名した。文政7年(1824)幕下へ昇進、文政9年(1826)に十両へ昇進した。天保5年(1835)の引退後には新井浦の廻船問屋として海運業で活躍している。慶応3年(1867)に没し、墓は長福寺新井霊園にある。

(2)館山神社(館山)の手水石<末社稲荷社>

館山神社文化財マップ参照

 館山各町内の石宮がならぶ一角の手水石は、文政3年(1820)に地元の庄司仁兵衛・中山勇助らによって奉納されたもの。裏には江戸領国の石工滝口某が作ったという銘文が見られる。

(3)館山神社(館山)の槙の植樹記念碑

館山神社文化財マップ参照

 元は江戸深川の鈴木某が願主として寄進した鳥居だったもので、貫(鳥居の横の柱のこと)を差し込んでいた穴が見られる。関東大震災後の館山神社合祀創建にあたって、昭和2年(1927)に楠見(くすみ)区の厳島神社から3本の槙を植樹し、震災で破損していた鳥居を記念碑として使用した。2基で一対であり、社殿に向かって右側の「奉」とある碑は平成18年(2006)の祭礼で破損し再建されたもの。左側の池際の碑は移植当時のままで正面に「献」と刻まれ、裏には植樹にかかわった楠見区の人々の名が刻まれている。「奉献」は鳥居の痕跡である。

(4)北下台(館山)の関沢明清碑

北下台文化財マップ参照

 明治期の水産官僚で、近代水産業の先駆者として捕鯨や遠洋漁業などに功績を遺した関沢明清(あけきよ)の記念碑。大日本水産会の会頭・彰仁親王の篆額(てんがく)、同会長(初代幹事長)品川弥二郎の撰文(せんぶん)、日下部東作の書で、東京駒込の石工・井亀泉(せいきせん)が製作した。日本水産会の重鎮や地元有志21名が発起人となり、明治33年(1890)に建てられた。

 関沢明清〔天保14年(1843)~明治30年(1897)〕は加賀藩士で、幕末の江戸で大村益次郎らに蘭学・航海術を学んで渡英している。その後も政府官僚としてウィーン万国博覧会等を視察して、日本の水産業振興策の重要性を痛感し、アメリカ式近代捕鯨やサケ・マスの人口ふ化、缶詰製造法を日本へ導入した。また、明治22年(1889)に水産伝習所(現東京海洋大学)を開き、水産教育を実践している。以来現在に至るまで館山が実習所である。その後、自ら館山に居住し関沢水産製造所を設立、勝山の捕鯨船団・醍醐新兵衛と組んで捕鯨や遠洋漁業の事業を興した。伝習所裏山の北下台(ぼっけだい)に建碑されている。

(5)三福寺(館山)の新井文山の墓碑

三福寺文化財マップ参照

 新井文山は江戸林家塾で学んだ幕末の儒学者。館山新井浦に生まれ、幼少の時より三福寺住職や地元柏崎の素封家鈴木直卿に学問の指導を受け、14歳の時住職の援助で江戸へ出て儒学を学んだ。28歳で帰郷して私塾を開き、地域の教育に力を注いでいる。天保7年(1836)、館山藩主稲葉公に仕えて、天保13年(1842)には目付兼郡(こおり)奉行となった。嘉永4年(1851)に73歳で没した。碑は嘉永6年(1853)、昌平黌(しょうへいこう)教官佐藤担(たいら)の撰文で、房州保田の石工武田石翁(せきおう)の製作である。裏参道に文山夫妻の墓がある。

(6)三福寺(館山)の俵三石作釈迦三尊像

三福寺文化財マップ参照

俵三石は東京美術学校彫刻科の高村光雲のもとで学んだ石彫家。慶応4年(1688)、館山楠見浦の石屋に生まれ、明治24年(1891)頃上京。明治27年(1894)に同校の石彫教場助手に任命されて教官となったが、明治30年(1897)頃には館山へ戻り家業の石屋を継いだ。寺社に狛犬、不動明王、地蔵半跏像(はんかぞう)など優れた作品を残しているが、三福寺境内の釈迦三尊像や酒樽型の墓は有名である。

(7)慈恩院(上真倉)の関西商人座古屋墓地改修之碑

慈恩院文化財マップ参照

 江戸中期に新井浦で、押送船(おしょくりぶね)7艘で鮮魚輸送を請け負った館山の代表的な魚商人である。当時の魚商人は干鰯(ほしか)や鮮魚の仲買を営み、江戸に魚問屋を起業するなどして、江戸100万人の消費を支えていた。当家の座古屋(ざこや)清五郎は江戸開府に当たり、摂州座古多村(大阪市西区カ)から房総へ進出した関西商人の一人とされている。

(8)海南刀切(なたぎり)神社(見物)の狛犬

なたぎり神社文化財マップ参照

 見物村の若者中で天保10年(1839)に奉納したもの。楠見浦の石工田原長左衛門とともに江戸京橋石川橋の彫工・兼吉が共同製作した。

(9)諏訪神社(波左間)の狛犬

光明院と諏訪神社文化財マップ参照

 昭和2年(1927)に波左間漁業組合や東京・横浜の商店が奉納したもの。奉納者のひとり「八丁幸商店」は横浜市場の仲買人で、現在の「ヨコレイ(横浜冷凍株式会社)」である。波左間の喜久丸の池田家から婿を迎え、当時製氷業で繁盛した。屋号(?(かさじゅう))は魚のブランドとなり高値で売買されたためニセモノがたくさん出回った。

(10)諏訪神社(波左間)の手水石

光明院と諏訪神社文化財マップ参照

 江戸日本橋本船町の魚問屋伊豆屋善兵衛が、弘化2年(1846)に奉納した。漁村だった波左間と取引があったのだろう。「灌水」の文字を書いた神通(じんつう)は富山藩士の殿岡北海といい、江戸で国学者清水浜臣に学んだ書家である。慶応元年(1865)の没。

(11)八坂神社(伊戸)の狛犬

 伊戸村の網元・吉田角右衛門が元治元年(1864)に奉納したもの。江戸の石工・七右衛門に注文して造らせた。伊戸村は江戸時代から明治にかけて、漁業で栄えていた。

(12)照浪院(坂足)の手水石

歴史探訪マップ伊戸坂足参照

 江戸日本橋の魚問屋米屋嘉兵衛が、寛政10年(1798)に奉納したもの。かつての照浪院(しょうろういん)は、波切不動として漁師たちから大漁・海上安全にご利益があるとして信仰を集めていた。

(13)相浜神社(相浜)の石灯籠

歴史探訪マップ相浜布良参照

 江戸芝金杉の魚問屋須原屋喜兵衛・和泉屋三良兵衛、江戸深川の多田屋又兵衛・水戸屋次良右衛門・和田屋七良兵衛が、文政13年(1830)に奉納したもの。純漁村の相浜村と取引があったのだろう。石工は館山楠見浦の田原長左衛門である。

(14)香取(かんどり)神社(相浜)の石垣

歴史探訪マップ相浜布良参照

 石垣寄付記念碑は、東京日本橋の魚河岸米喜・尾佐・米久・角米・伊豆魚等20名の魚商が、明治32年(1899)に石垣を奉納した際のもの。現在も石垣の一部が残されている。

(15)布良崎神社(布良)の石灯籠

布良崎神社文化財マップ参照

 江戸日本橋蔵屋敷の米谷久七、地元網元の豊崎藤右衛門・橋本権右衛門、船大工、帆屋などが元治元年(1865)に奉納したもの。日本橋川は水運の要路で、房総・伊豆からの新鮮な魚介類を運んでくる押送船(おしょくりぶね)で賑わい、全国からの廻船も入って幕府や江戸市中に物産が供給される重要な場所だった。房州屈指の漁村である布良村も押送船の基地だった。石工は神余の権四郎と滝口の松五郎・竹二である。

(16)小網寺(出野尾)の銅造地蔵菩薩坐像

小網寺文化財マップ参照

 観音堂前の銅造地蔵菩薩坐像は、江戸神田の鋳物師(いもじ)多川薩摩の鋳造である。安永2年(1773)の策で、総高270cm、像高188cm。明和9年(1772)に本堂・仁王門等の再建にあわせ、神余村出身の僧宗真が寄進したもの。台座に当寺住職26世の隆澄(りゅうちょう)が、発起人宗真の尽力を讃えるとともに小網寺再建の経緯を記している。

(17)大円寺(大戸)の山下楽山の碑

歴史探訪マップ大戸長田参照

 江戸で開業した医師。江戸で中川法印に内科を、渡部吉郎に外科を学び、その後京都へ行き賀川光崇に産科を学んだ。父は館山藩侍医(じい)で山下村の山下玄門。碑は楽山の23回忌に子供の安民(やすたみ)が母の地元に建立した。安民は千葉師範学校の教授だった。題額は勝海舟。書は下総の村岡良弼(りょうすけ)、石工は東京駒込の井亀泉(せいきせん)(酒井八右衛門)。


作成:ミュージアム・サポーター「絵図士」
金久ひろみ・佐藤博秋・佐藤靖子・鈴木以久枝 2019.2.2作
監修 館山市立博物館 〒294-0036 館山市館山351-2 ℡:0470-23-5212

房州と江戸・東京を結ぶ文化財(館山平野部)

このシリーズでは、かつて安房地方や館山市が江戸・東京と海路で結ばれていたことを物語る文化財を紹介しています。水産物を中心に房州の産物が取引されていたことを背景にした神仏への奉納物や、江戸・東京へ出て成功した房州の人々やその交流を背景にした江戸職人の製作物など、痕跡は数多くみられます。それらの文化財ついて館山市内を3エリアに分けて紹介しました。市内湾岸北部エリア・館山平野部エリア・市内南部エリアを合わせてご覧ください。

(1)新塩場(北条)の南寿庵

 館山は明治・対象時代から保養地や海水浴場として利用され、勝れた景色、温暖な気候、素朴な人情風俗に魅かれ来房する人が多かった。明治11年(1878)に東京からの汽船が館山へ就航し、大正8年(1919)に安房北条駅まで鉄道が開通、大正13年(1924)夏には震災後の観光客誘致も再開し、別荘を持つ人も急速に増えた。南寿庵は東京電灯株式会社社長の永橋剛一郎の別荘として、大正12年(1923)12月に、土地所有者で大工の辰野銀次郎により、二階建てヒノキ造りの和風建築として建てられたものである。

(2)金台寺(北条)の本田存(ありや)先生の墓

金台寺文化財マップ参照

 群馬県館林生まれで、水府流太田派の水泳を極め、柔道は講道館八段の師範である。当初は東京高等師範学校の生徒を率いて来房し、のち30余年間北条に住んで、阿波中学校をカッパ中学と称されるまでに育てた、房州の水泳・柔道の開祖である。昭和24年(1949)、北条海岸の東京高師学校寮(現筑波大学北条寮)で没した。79才。泡水泳倶楽部・安房柔道有段者会・茗渓会(めいけいかい)(東京高師OB会)により、金台寺へ分骨埋葬された。お墓は本堂裏の井戸近くにある。

(3)金台寺(北条)の伯爵万里小路通房の子供の墓

金台寺文化財マップ参照

 万里小路通房(までのこうじみちふさ)は明治23年(1890)に明治天皇の侍従を退官して北条に別荘を構え、ほとんど北条で過ごした伯爵。農業に関心を持ち、明治27年(1894)には耕地を習得し、農業の指導者を読んで野菜の促成栽培を進めた。また安房大道会などで青年の社会教化活動にも取り組んだ。金台寺近くに屋敷があり、その間に没した子供たち<通守(明治29年(1896)没)・津由子(明治35年(1902)没・多美子(明治41年(1908)没>の墓がある。

(4)大巌院(大綱)の雄譽霊巖の墓

大巌院文化財マップ参照

 檀蓮社雄譽霊巖(おうよれいがん)松風上人は浄土宗の中興の祖で、全国的に活躍した高僧。諸国を巡行し、房州では里見氏のもとで大巌院を創建した。のち房総はもとより全国的な海上交通の要所である日本橋近くの霊岸島に霊巌寺を建立している。将軍家の命により寛永6年(1629)に浄土宗総本山の京都知恩院32世となり、寛永18年(1641)に88歳で没した。遺骨は所縁の寺々に分骨されている。

(5)大巌院(大綱)の四面石塔

大巌院文化財マップ参照

 四角柱の石塔で雄譽(おうよ)上人が建立した。玄武岩製で高さは219cmある。北西東南面にそれぞれインドの梵字(ぼんじ)、中国の篆字(でんじ)、朝鮮のハングル、日本の和風感じで、「南無阿弥陀仏」と刻まれている。ハングル文字は15世紀半ばに制定された初期の字体で、現在は使用されておらず、韓国でも極めて貴重なもの。建立した元和10年(1624)は文禄の役(秀吉の朝鮮出兵)から33回忌にあたり、雄譽上人と寄進者の山村茂兵が戦没者供養のため建立したとの考え方がある。

(6)大巌院(大綱)の石灯籠

大巌院文化財マップ参照

本堂前の石灯籠は、雄譽上人の書で「南無阿弥陀仏」と刻まれ、左塔は元和10年(1624)に弟子の霊譽(れいよ)上人が、右側は翌寛永2年(1625)に孫弟子の光譽(こうよ)上人が建立した。

(7)大巌院(大綱)の鈴木家歴代の墓誌

大巌院文化財マップ参照

 鈴木家は里見家の家臣の家柄と伝えられ、江戸中期から7代にわたる医家であった。5代正儀(まさよし)は江戸昌平黌や大田錦城の門で儒学を学んだ。医術は古医学・蘭方を学んで館山へ戻り、医者を継いでいる。6代東海は正儀の二男で、江戸の医師坪井信道に蘭学と蘭方医学を学び、その後石土生玄碩(はぶげんせき)(シーボルトに眼病治療法を学ぶ)にも学んで館山へ戻り、医者を継いだ。江戸の儒者や漢詩人等と交流を持ち、医業の傍ら子弟に漢籍を教授していた。7代抱山(1833~1898)は正儀の三男で、江戸の佐藤商に奉公したのち、叔母の世話により医師伊東玄晁(げんちょう)(江戸種痘所を開いた伊東玄朴(げんぼく)の高弟)に師事、その代診をするほどになったという。22才で帰郷し医者を継いだ。その後医業の傍ら子弟の教育にあたるとともに、江戸の文人墨客が来訪して交流を重ねた。

(8)金乗院(山本)の高木氏族譜碑

歴史探訪マップ安布里山本参照

 山本村の医師高木敏(とし)(周岱(しゅうだい))が旧高木一族の系譜を刻んだもので、安政3年(1856)の建碑。題額は江戸の戸川安清(やすずみ)書は小島知足(ともたり)による。戸川安清は長崎奉行や勘定奉行を歴任した旗本で、篆書(てんしょ)・隷書(れいしょ)を得意とする書の達人であり、14代将軍家茂の書の師範であった。小島知足は備後国福山藩士で儒者。藩主阿部正弘が老中として将軍の命でロシアに返書をした際に清書し、書家として名声が高かった。

(9)国分寺(国分)の三名主の碑

国分寺文化財マップ参照

 江戸時代の農民一揆「万石騒動」で犠牲になった三人の名主(三義民)の顕彰碑で、撰文と篆額は文学博士の細川潤次郎(じゅんじろう)、署は諸井春畦(もろいしゅんけい)。明治43年(1910)に200回忌で建碑された。細川潤次郎は土佐藩士で、藩主山内容堂の侍読(じどく)及び藩校教授として洋学を教えた。維新後は明治政府に出仕して元老院議官や女子高等師範学校長を務めている。「法律起草のエキスパート」で、刑法・陸海軍刑法・医事法・薬事法起草の中心となった法律家として知られる。明治27年(1894)に安房への公務出張中に「万石騒動」の歴史を知り、後にその事績を公刊した。諸井春畦は埼玉県出身で、書の大家である西川春洞に学び書家として大成した人物である。

(10)国分寺(国分)の伴直家主の碑

国分寺文化財マップ参照

 『続日本後記』に孝子として記される伴直家主(とものあたいやかぬし)を顕彰した石工の武田石翁が、国分寺境内に家主の両親の墓碑として嘉永4年(1851)に建碑した。篆額は大納言日野資愛(すけなる)・書は道本賢壽(どうほんけんじゅ)である。賢壽は京都地積院に40年在山し、佐渡の蓮華峰寺(真言宗三大聖地)を経て、江戸浅草大護院住職となった僧で、雄渾な書きぶりの能書家として知られる。石翁は多くの文人と交流をもったことでも知られる。

(11)孝子塚(国分)の伴直家主の碑

歴史探訪マップ国分滝川参照

 伴直家主(とものあたいやかぬし)の事蹟は、勅撰の正史に記載されているにもかかわらず、地元では殆ど忘れられていたが、天保10年(1839)頃に武田石翁がその墓を発見して孝子塚と名付け、嘉永3年(1850)になって碑が建てられた。篆額は日野資愛(すけなる)の揮毫で「孝子家主之碑」と題され、本文は加藤霞石(かせき)の筆で『続日本後記』の文を書いてある。日野資愛は江戸後期の公卿で、皆川淇園(きえん)に儒学を学び、詩文や和歌にも優れた。加藤霞石は安房平久里(へぐり)中村の医師で、漢詩人。詩文や書に優れ、その住まいには大沼枕山、梁川星巖等の文人が来訪した。

(12)杉間堂(広瀬)の唱題一千部之塔

歴史探訪マップ腰越広瀬参照

祖師堂前にある唱題一千部之塔は、相模西浦賀の人がかかわって、日蓮の六百遠忌の報恩のため明治12年(1879)に建立された。基壇に記された名前の並びから、この人は海発村(南房総市)出身の可能性が高く、東京湾をまたいだ信仰が感じられる。

(13)手力雄神社(大井)の手水石

手力雄神社文化財マップ参照

 文政9年(1826)に白子村(南房総市)の人達が寄進した手水鉢は、深川(東京都江東区)の石工露崎長兵衛が製作した。江戸には干鰯(ほしか)問屋があり深川には干鰯揚場(あげば)があったことから、深川の富岡八幡宮境内には、干鰯問屋の久住(くすみ)屋へ納めていた干鰯の仕入中が、文政7年(1824)に奉納した手水鉢がある。そこにはかつて「仕入中」として「房州白子浦 酒屋與兵衛」の文字があったといい、その名は手力雄神社の手水鉢にもある。江戸時代後期には白子村に干鰯場があった。

(14)手力雄神社(大井)の石井氏碑

手力雄神社文化財マップ参照

 明治30年(1897)に建立された手力雄神社神官石井昌道(まさみち)(1818-1896)の顕彰碑である。昌道は江戸の昌平校に学び、志士たちと交わって勤皇の志を抱いたという。安房地域の医師で詩人鱸松塘(すずきしょうとう)、高木抑斎(よくさい)との交流や、海防論を書いた医師高木周岱(しゅうだい)と慶應4年(1868)に治安維持の勤皇隊である「房陽神風(しんぷう)隊」を結成したことが載る。隊員は90名程で、半数は神職・医師・名主で安房全体に広がっていた。明治2年(1869)に隊が解散すると、昌道は教育者として活躍した。


作成:ミュージアム・サポーター「絵図士」
青木悦子・刑部昭一・鈴木正・殿岡崇浩 2019.2.16作
監修 館山市立博物館 〒294-0036 館山市館山351-2 ℡:0470-23-5212

房州と江戸・東京を結ぶ文化財(湾岸北部)

このシリーズでは、かつて安房地方や館山市が江戸・東京と海路で結ばれていたことを物語る文化財を紹介しています。水産物を中心に房州の産物が取引されていたことを背景にした神仏への奉納物や、江戸・東京へ出て成功した房州の人々やその交流を背景にした江戸職人の製作物など、痕跡は数多くみられます。それらの文化財ついて館山市内を3エリアに分けて紹介しました。市内湾岸北部エリア・館山平野部エリア市内南部エリアを合わせてご覧ください。

(1)船形学園(船形)の大磨崖碑

 この碑は渋沢栄一が明治42年(1909)に、東京市養育院安房分院を開設したことを記念して、大正6年(1917)に建設された。碑は、16mの崖を削ったもので、高さ10m、幅6mあり、1文字の大きさは30cm四方もある。碑文には、養育院の元手が旧白河藩主で老中だった松平定信が行った寛政の改革による貯蓄を充てて創立されたことや、社会福祉にも取り組んだ実業家の渋沢栄一が初代院長となり、身体の弱い自動を船形町に移して療養させたことが記されている。

 船形に分院を開設したのは、結核治療法を研究していた富浦出身の川名博夫が、温暖な海辺での転地療養を取り入れた館山病院を開業したことにあった。博夫の妻とりは館山出身で資生堂を設立した福原有信の長女で、四女の美枝は栄一の二男渋沢武之助の妻であった。博夫の三女露子は二代院長穂坂与明の妻なる。穂坂は渋沢栄一が渡米した際に侍医として随行しており、船形への誘致には地元出身者のネットワークがいかされていたのである。

<大磨崖碑の見学希望の方は、必ず事前に学園事務所へご相談ください。>

(2)諏訪神社(船形)の石灯籠

歴史探訪マップ船形西部参照

 参道入り口の灯籠は、主に内房地域内の魚問屋と取引をしていた江戸の魚問屋が、文政10年(1827)に奉納したもの。世話人は地元の小買(こかい)商人(魚の仲買人)で、船形は江戸へ生魚を送り出す汚職利船の基地であった。竿の部分には神仏習合を反映して大福寺の住職の名がある。石工は保田の武田石翁の長男金蔵で、ふっくらとした感じの獅子などが彫られている。基壇部分に「江戸 内安房 魚問屋」と「世話人 当■ 小買中」、さらに「石工 元名 金蔵」とあり、竿の部分に「文政十年九月」と「當山現住宥應」とが刻まれている。

(3)崖観音(船形)の石段

崖観音文化財マップ参照

 明治39年(1906)、東京魚河岸の魚問屋の融資と地元の船形魚商組合とが資金を出し合い、石段を寄進した際の記念碑がある。当時、この地域は漁業が盛んであったことに加えて、多数の櫓と帆を装備した押送船(おしょくりぶね)といわれる船を仕立て、、獲った魚を「鮮魚」として江戸・東京へ送っていたこともあって、双方の絆が深く、海上の安全と豊漁を祈願し、東京の魚問屋が奉納したものと思われる。なお、平成28年(2017)の観音堂改修までこの碑の隣に石灯籠が置かれていた。それはこの碑と同時に奉納されたもので、竿の表に「常夜燈」、裏面に「明治三十九年」、基壇には複数の魚問屋の名が刻まれていた。

(4)崖観音(船形)の手すり

崖観音文化財マップ参照

 明治時代に造られた参道の石段が劣化し、昭和33年(1958)に改修工事を行った際、檀家の青木兼吉が発起人となり、東京に暮らす船形出身者に声を掛け、有志20名が手摺り(支柱は鋳物製)を寄進した。彼らはその数十年前に東京の合羽橋・入谷・千束・竜泉寺などに移り住み、様々な商売を覚え店主になった人たちなどで、柱には寄進した者の名が鋳出されている。かつて有志20名の名を記した額が観音堂にかかっていたが、観音堂改修工事の際に外され、今は本堂に保管されている。

(5)那古寺(那古)の力石

那古寺文化財マップ参照

 江戸の人々により奉納された力石。右は上総小浜(木更津市)の幸助・深川木場の庄之助の奉納で重さ65貫(約244kg)。中央は霊岸島東湊町の亀治と八丁堀の玉川銀治で58貫余(約218kg)。左は地元那古の森田治兵衛と湯島天神町の成田金蔵・佐助で75貫余(約282kg)。江戸の人々の那古観音信仰の深さや、那古住人と江戸住人の交流もみられる。

(6)那古寺(那古)の観音堂扁額

那古寺文化財マップ参照

 観音堂を意味する「円通閣」の扁額は、文化14年(1817)に白河藩主松平定信が揮毫(きごう)したもの。翌文政元年(1818)に江戸築地南飯田町の日高屋与兵衛と伊三郎が願主となり、築地・霊岸島・深川などの江戸各地の商人が奉納した。那古寺が行った本尊の江戸出開帳がきっかけになっているが、坂東観音巡礼の納札所である那古寺の信仰の広がりがわかる。

(7)那古寺(那古)の納札塚

那古寺文化財マップ参照

 大正4年(1915)に観音霊場を巡拝納札する東京納札会によって納められたもの。浅草・神田・両国などの巡拝者名が刻まれている。

(8)那古寺(那古)の手水舎の玉垣

 宥応と宥賢という住職の名から、天保年間と幕末の二期に分けての奉納と分かる。那古の谷口武兵衛が願主となり、江戸の萬屋市右衛門や相洲浦賀・武州岩付などの商人も寄進に加わっている。

(9)那古寺(那古)の蘇鉄石垣

那古寺文化財マップ参照

 那古寺は元禄大地震で倒壊したが、安房全域におよぶ万人講(まんにんこう)勧進や江戸出開帳などが行われ、多くの人達によって再建された。坂東三十三番観音巡礼札所の結願寺として知られ、江戸の人たちの信仰が厚い。本坊前には蘇鉄が左右にあり、それぞれ石垣に囲まれている。左の囲石には、一力長五郎が嘉永7年(1854)閏7月に奉納した際の銘がある。この年江戸大相撲の幕内力士一力長五郎が境内で勧進相撲を行って石垣を奉納したといわれる。右の蘇鉄は昭和45年に館山市の天然記念物に指定された。幹は根本近くで12本に枝分かれし、樹高は6mに達している。雌株で市内一の大樹である。

(10)厳島神社(那古)の手水石

歴史探訪マップ那古川崎参照

 この辺りは、江戸時代の元禄16年(1703)の地震で隆起してできた土地で、それ以前は波打際であった。境内にある文政7年(1824)の手水石は、江戸問屋中が願主として奉納したもの。世話人は地元と思われる惣治良と権吉である。弁天様は漁業神・水の神として親しまれていたが、那古村でも漁業が行われており、おそらく那古の地引網漁師や運送業者と取引していた江戸の魚問屋の奉納であったと思われる。

(11)諏訪神社(正木)の石灯籠

正木諏訪神社文化財マップ参照

 文化7年(1810)に、正木村の下組・鈴木甚左衛門、向井組・篠瀬丈助、上組・庄司長兵衛の領主が違う三組の名主が、共通の鎮守に一対で奉納した灯籠。江戸の石工が製作したもので、左灯籠の基礎裏面に「江戸芝切通富山町 石工與七」の銘がある。当時石材は江戸に集められ全国に発送できるシステムが確立しており、多くの石工が江戸で開業していた。そのため各地からの注文が江戸に集中していたが、やがて各地に石工が誕生していったという。

(12)八雲神社(正木)の狛犬

歴史探訪マップ那古川崎参照

 正木村の浜集落である川崎の鎮守にある狛犬で、弘化4年(1847)に地元講中が奉納した。石工は江戸石工十三組に所属する八丁堀材木町組の石工で、「江戸京橋太刀売」と称する石工藤兵衛と、弟子で同所居住の包吉(かねきち)によるもの。包吉の花押も刻まれている。包吉は浦賀東叶神社の狛犬も制作している。

(13)子安神社(湊)の手水石

歴史探訪マップ湊八幡参照

 浦賀の経済的中心であった相洲西裏賀(横須賀市)の鈴木弥吉が奉納したもの。西浦賀の浦賀奉行所では105軒の廻船問屋が安房から江戸への流通品も検査していた。廻船問屋か水揚商人であった鈴木弥吉が、取引のあった湊村の鎮守に奉納したものだろうか。


作成:ミュージアム・サポーター「絵図士」
川崎一・鈴木正・中屋義勝・山杉博子 2019.2.9作
監修 館山市立博物館 〒294-0036 館山市館山351-2 ℡:0470-23-5212

石彫師 武田石翁を訪ねて 3.(鋸南町・鴨川市編)

武田石翁と銘

その他の銘

  • 天然斎石翁、石翁是房等の銘があり天然斎、石翁、是房が組み合わされ使用された。
  • 20歳半ば頃から自分の銘を入れ始め、40歳頃までの作品はあまり多くないが周治、壽秀の銘が使われた。
  • 作品の殆どは石翁銘の50歳以降が多く60歳頃より安房石翁、78歳頃より東海鋸山下田石翁と自分の居所を銘に入れだした。
  • 是房、天然斎は単独で使われず、まず「石翁」という銘があり、その飾りとして石翁の前に天然斎が、石翁の後ろに是房が使われているようであるが、作品は少ないようである

(1)新當斎先生試技碑と十二神将像(日本寺)

鋸南町元名184

★新當斎(しんとうさい)先生試技碑

呑海楼(どんかいろう)庭先の新當斎先生試技碑は、下総佐原の剣豪千葉右門の武芸を讃えた碑。号は新當斎。天保元年(1830)4月建立。碑は幅94cm・総高約265cm。剣や槍(宝蔵院流十二世)の奥義を窮め名を成した。一斉に放たれた矢を槍で悉く打ち砕いて見せたという。石碑の撰文は亀田梓、書は大竹培、篆書は巻大任。文を囲むように阿吽の龍が線刻され、「田石翁鐫(せん)」の銘がある。尚、この石碑は休祭日に茶室(呑海楼)を利用する方のみ見ることが出来る。

★十二神将像

心字池近くの洞窟に納る伊豆石を用いた石像は十二神将の内の一体で安底羅(あんていら)大将。方位を示す干支の申(さる)を表す猿の彫り物が頭頂と腹部の帯に確認できる。中国風な甲冑を付け右手に宝珠を持つ凛々しい姿。像高は約67cm。この地は明治の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)等により破壊されたため別の所に保管されている。その中で動物の彫り物を頼りに、名を特定できるのは背面に「壽秀(花押)」と武田石翁の銘が刻まれている真達羅(しんだら)大将(寅)、招杜羅(しょうとら)大将(丑)、因達羅(いんだら)大将(巳)、波夷羅(はいら)大将(辰)、按?羅(あんにら)大将(未)の5体。乾坤山日本寺は奈良時代の神亀2年(725)、薬師如来を祀るお寺として創建されており、薬師如来の眷属像として造立された。現在は曹洞宗の寺。

(2)石翁墓石(存林寺)

鋸南町元名1183

境内墓地の小滝家墓域内左側、上部に如意輪観音坐像を刻んだ墓がある。台座を含め高さ約81cmで、石翁の戒名「白堂石翁信士」を中心に左に妻いちの戒名と右に女性の戒名が刻まれている(石翁との関係は不明)。天保15年(1844)妻いちが没し長徳庵に葬られた。石翁自らが嶺岡産の石を用いて自分の墓とを兼ねて造立したもので、石翁も安政5年(1858)に亡くなると妻と同じ墓に埋葬されたという。長徳庵は昭和43年元名青年館建設のため廃寺となり、本尊・墓と共に存林寺に移された。存林寺は曹洞宗(通幻派)のお寺で本尊は宝冠釈迦如来。同寺には石翁(71歳)作開山嶺雲禅師像をはじめ、本堂の須弥壇の武志伊八郎伸由作彫刻等、多くの文化財が保管・管理されている。

(3)駿河屋墓碑(昌龍寺)

鋸南町保田1933

本堂脇の墓地に駿河屋(高浜家分家)墓碑といわれる総高125cmの墓がある。基壇の牡丹をくわえた獅の彫刻は、銘はないが力強さや躍動感があり、(7)八雲神社の手水鉢の獅子等と作風の類似性がみられる。『安房先賢偉人傳』にも、「駿河屋墓碑(墓石に獅子が牡丹に戯れている彫刻があり、石工の模範となっている)」と紹介されている。墓石の裏面全体には文政6年(1823)に亡くなった女性についての碑文が刻まれている。撰文は林世文(新井文山)である。大峰山昌龍寺は曹洞宗のお寺で本尊は阿弥陀三尊。慶長18年(1613)創建で、開基は高浜図書之介(ずしょのすけ)利賢(高浜家初代)である。

(4)叟阿(そうあ)の句碑(円照院)

鋸南町小保田187

句碑は円照院の下の墓地にあり、高さ約170cm・幅約65cmの石に「後ろから叟阿をたたく柳かな」と辞世の句が彫られ、その下に独嘯坊(どくしょぼう)叟阿墓とある。叟阿は明和6年(1769)生まれ。越後、信濃を遊歴し、没年は天保9年(1838)で70歳だった。小保田村の名主の世話になり、堂守をしていた二つ堂の庭に句碑(墓)は建てられていたが、明治21年(1888)県道改修のため、円照院に移された。銘はないが村人が石翁に句碑を依頼したといわれる。大慈山円照院は真言宗で本尊は不動明王。円照院では毎年1月に火渡り祭が行われる。

(5)諦應(ていおう)和尚の筆子塚(奥山公民館)

鋸南町奥山305

高さ116cm・横59cm・厚さ14cmの自然石の碑。正面には「月見ても花見ても南無阿弥陀仏 逸東」。裏面には「□世筑前人真蓮社聴譽上人諦應和尚碑 嘉永四年歳在辛亥十月 筆弟等建之 時七十三田石翁?」と諦應和尚の筆子塚であり石翁73歳の作であることが記されている。今は廃寺となっているがもとは真光寺という浄土宗のお寺があり、そこで開かれていた寺子屋の教え子が諦應和尚を顕彰した碑である。真光寺、諦應和尚の詳細は、ともに資料が乏しく、不明である。

(6)役行者像(大山寺)

鴨川市平塚1718

手水舎の奥に、像高約68cmの役行者の石像が置かれており、かなり以前から祀られていたようだ。岩座に座り、右の下駄を脱ぐ半跏像姿。両手にそれぞれ何かを握っていた様子が窺える。顔の表情は捉え難く、角度によっては高笑いしている様にも見える。銘はないが、この像と共通する像容の役行者が鋸南町で確認されており、武田石翁の作とされることから、本像も石翁作ではないかといわれている。高蔵山大山寺は真言宗のお寺で本尊は不動明王。神亀元年(724年)良弁{ろうべん}僧正が創建したと伝えられる修験寺。大山寺では毎年5月の第3日曜日に火渡り祭りが行われる。

(7)手水鉢(八雲神社)

鴨川市貝渚2202

境内右側にある手水鉢が石翁42歳の作である。高さ63cm・幅118cm。背面中央に左三つ巴の紋、その両脇には獅子、正面に「奉献」、左側面に「文政三年庚辰九月吉日 元名村 彫工 壽秀(花押)」。右側面に「氏子中」と彫られている。祭神は天照大神・須左之男命・事代主命。創建年歴の記録はないが永和3年(1377)に出雲大社の霊を移したとされる。須左之男命の化身である牛頭天王を祭神としたことから現在でも天王様と呼ばれている。神社には、波間に浮かぶ船を現わした「大浦水交団」の担ぎ屋台がある。神輿のように担ぐ屋台巡行は、鴨川市無形民俗文化財に指定されている。

(8)狛犬(香指(かざし)神社)

鴨川市太海2370

拝殿正面の左右に阿吽姿の狛犬がある。二体共に前足を揃え、右の狛犬はやや首を傾け、左の狛犬は正面を向き、この神社を守護するその強固な意志が強くにじみ出ているようだ。武田石翁の作品に似ている。祭神は弟橘姫尊(おとうとたちばなひめのみこと)。神社に残る棟札によれば文化14年(1817)5月に社殿を再建している。本堂は岩をくり抜いた洞窟の中に、拝殿は崖の下にあり、鳥居は海側と山側の2ヶ所にある。神社の名前の由来は弟橘姫尊が身を投じた際に、髪を飾るかんざしが波に運ばれ浜に流れ着き、神社に祀られたといわれている。香指という名は「かんざし」が転じたものと伝えられている。境内には縄文時代の遺物を包蔵する浅い洞窟があり「香指神社遺跡」とよばれている。


作成:ミュージアム・サポーター「絵図士」
愛沢香苗・青木悦子・金久ひろみ・鈴木正・殿岡崇浩・羽山文子・山杉博子・吉村威紀・刑部昭一
監修 館山市立博物館 〒294-0036 館山市館山351-2 TEL:0470-23-5212

石彫師 武田石翁を訪ねて 2.(南房総市編)

(1)石翁 父金明の墓(東福院)

南房総市本織1167

石翁の父である金明の墓。総高約89cmの角柱墓で「謙虚道順居士 位」「文政八乙酉十一月二日」「武田金明 八十四翁倅石巧有而造之 石工周治」と刻まれている。石翁47歳の作。隣に如意輪観音坐像を載せた「実相妙鏡大姉位」「文政九戌年」「十二月十日」と刻まれている墓がある。総高約137cmの内約45cmの如意輪観音坐像だが、欠損が激しい。銘はないが石翁48歳の作と言われている。

平寿山東福院は真言宗のお寺で、宝珠院の末院。本尊は薬師瑠璃光如来。境内西側奥には石翁の生家武田家の墓域がある。

(2)石翁生誕碑(旧本織神社)

南房総市本織1178

境内に「武田石翁誕生之地の碑」と石翁の紹介板がある。石翁は安永8年(1779)安房国本織村(南房総市本織)字戸に生まれた。性は鎌田、名は周治。本織神社から200mほど離れた場所が生誕地である。

本織神社の祭神は金山彦命(かなやまひこのみこと)で創建は安永8年(1779)。現本織神社(三芳村本織667番地)は、旧本織神社、荒神社、稲荷神社、天満神社、熊野神社を昭和39年に住吉神社として合併し、その後「住吉神社」から「本織神社」に改めた。

(3)手水鉢(荒神社)

南房総市本織市場1726

境内入り口にあり高さ約45cm、幅約82cm、奥行約53cmの自然石。正面に「氏子中」、背面に「天保十一庚子二月 石翁鐫」の銘がある。水盤縁の左右には凹みがある。「カエルが彫ってあり、子供の頃釘で衝いたりした」との証言があることから、壊された痕跡とみられる。荒神社の祭神は八衢考命(やちまたのみこと)。昭和39年に本織神社に合祀された。

(4)十一面観音立像(宝珠院)

南房総市府中687

石翁作の十一面観音菩薩立像を祀る観音堂は仁王門を改修した建物。像高56.5cmの観音像は六角形の基壇、敷き茄子、蓮華座の上に立ち総高は83cm。右手は与願印、左手は水鉢を持ち、頭に高く結いあげた髷を囲むように10の仏頭が置かれている。敷き茄子の裏側に「文化三己寅二月現住温恭造立 武田氏出生 本名村住 石工 周治」とある。金剛山宝珠院は真言宗のお寺で本尊は地蔵菩薩。

(5)狛犬(八坂神社)

南房総市府中273

境内の狛犬が石翁作と伝えられ、天保13年(1842)の作である。総高は150cm程で、向かって右の吽像の基壇に「施主 當村中」、その下の壇には風化や欠損があるが三芳地区以外の広範囲の地域の地名、屋号、名前が10数名分確認できる。左の阿像の基壇には「願主 若者中」とある。
八坂神社は府中の鎮守で、祭神は須佐之男命である。

(6)延命地蔵半跏像(普門院)

南房総市本織番場652-1

境内に、右手に錫杖(今は無い)、左手には宝珠を持つ像高約78cmの延命地蔵半跏像(安山岩製)がある。基壇等を含め総高約290cm。基壇は3段からなり最上部表側は肉厚で躍動感のある獅子が彫られ、裏面は「世話人光明講中」「十方檀那法界萬霊」、中段は地蔵信仰の銘文と「文化十一甲戌年五月吉祥日 當寺現住春淨宥應」、下段は「當村 石巧 武田産 秀治」の銘があり、寄進した人たちの名や先祖の戒名などが刻まれている。
日照山普門院は真言宗のお寺で本尊は不動明王

(7)青面金剛像(熊野神社)

南房総市本織不入斗572-1

境内南東端の道路脇にあり、高さ約75cm。風化が激しく一面四臂(ぴ)の持物の弓矢と鉾が残り、邪鬼を踏みつけている。左側面に「當村 石工 周治」と彫られている。青面金剛は庚申信仰の供養塔であるが古老の言では供養した記憶はないと言う。
熊野神社の祭神は須佐之男命。昭和39年に本織神社に合祀された。

(8)大般若講寄進銘塔(延命寺)

南房総市本織2014-1

山門左手の木陰にある総高139cmの角柱塔で、大般若講中の祈願によるもの。塔身側面に寛政9年(1797)から19年にかけての山門や庫裏・鎮守石鳥居など境内施設の修復事業の様子が記録され、基壇正面に唐獅子遊戯図と右側面に「石工 周治 文化十二亥四月吉日」の銘が刻まれている。石翁37歳の作。
長谷山延命寺は安房曹洞宗の中心の寺。本尊は虚空蔵菩薩。戦国大名里見氏の菩提寺で、裏山に後期里見氏歴代の墓所がある。安房国三十四観音巡礼の24番札所。

(9)酒豪八郎右衛門墓碑(智蔵寺)

南房総市山名386

本堂脇の道を登ると谷を背に八郎右衛門の墓碑があり、天保12年(1841)石翁の作と伝えられている。酒樽の上に60cm程の出羽三山に参拝する行者姿の像が刻まれ、酒樽の前面には「無漏」(煩悩の無い境地のこと)の文字、裏面に辞世の「百の銭九十はここで飲み別れ、六文を持って長の道中」が刻まれている。
富士山智蔵寺は曹洞宗の寺院で本尊は地蔵菩薩。「山名の大寺」と呼ばれている。夷隅の真常寺末。安房国の初期大名三枝守昌の菩提寺。寺伝によると文亀3年(1503)の開基とある。

(10)七福神(厳島神社)

南房総市白浜町白浜629

石翁19歳の作と言われており周治と呼ばれた頃の作品である。銘等の刻みはない。本殿に向かって右手に祀られている。大黒天、恵比寿、毘沙門天、福禄寿、寿老人、布袋の六体が表情豊かに刻まれている。弁財天は存在しない。古来この地には弁財天を祀る祠があり、その後厳島神社に改称された。祭神が弁財天であるため、石翁は弁財天を除く六体を制作したものといわれている。神体の高さは59cm~70cmである。
厳島神社の祭神は市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)で創建年代は不詳である。


作成:ミュージアム・サポーター「絵図士」青木悦子・金久ひろみ・佐藤博秋・鈴木正・吉村威紀
監修 館山市立博物館 294-0036 館山市館山351-2 TEL:0470-23-5212

石彫師 武田石翁を訪ねて 1.(館山市編)

武田石翁とは

安永8年(1779)~安政5年(1858)8月4日 享年80歳

武田石翁(たけだせきおう)は安永8年(1779)に、安房国平郡本織(もとおり)村宇戸(現南房総市本織)に鎌田四郎左衛門金明の末子として生まれました。本名は小瀧周治(又は秀治)といい、安房国平郡元名(もとな)村(現鋸南町元名)に住んでいた石工です。鎌田氏の祖先は甲斐の武田一族と伝えられ、武田本織という人物が房州を訪れて本織の地を開き、その地を本織村、自分が居住する住所を武田と称したといわれています。鎌田家は代々名主を務める旧家でした。石翁は小瀧(おだき)家に養子に入った後も、「鎌田周治」と名乗り、後には「武田」の「石翁」と名乗るようになります。

周治は幼いころから手先が巧みで、7歳の頃には目が動き舌を出す天狗の面を作り、近所の人たちを驚かせたそうです。寛政3年(1791)、13歳の時に、元名村の石工小瀧勘蔵に弟子入りしました。寛政9年(1797)、19歳の頃には白浜村厳島神社に七福神を、その翌年には、遠く上州(群馬県)の榛名山で、瀧口の龍を彫刻しました。23歳の時、師匠の小瀧勘蔵の娘いちを妻とし、小瀧家の養子になりました。養子となってから初めての大製作は福楽寺の宝塔で、享和3年(1803)、石翁25歳の時でした。

石翁の作品が円熟味を増してくるのは40歳以降です。この頃から周治は石翁の号を用います。文政元年(1818)の正月7日、石翁は飛ぶ龍の夢を見て、龍を黒石に彫りました。この一角龍が長年良い作品を作ろうと苦心してきた石翁の会心の作品だったそうです。しかし、彫刻家として成功するほど家業の石屋がおろそかになり養父や妻とすれ違いました。文政3年(1820)、42歳の時には、長女げんの死をきっかけとして家庭がうまくいかなくなり、石翁は小瀧家から出ていき翌年まで戻りませんでした。50歳をすぎる頃から「石翁」の銘を刻む作品が多くなり、60歳を越えてからは秀逸な作品が多くなります。70歳から80歳の頃には広く名が知られるようになりました。天保11年(1840)、62歳の時、平郡米沢村白井の池田家の依頼によって作った2尺に余る立派な黒石の二角龍は、房州遊歴中の嶺田楓江(みねだふうこう)がたまたま目にしたところ感激して詩を作ったほどの出来栄えでした。嘉永6年(1853)には、会津藩主松平容保(かたもり)が海防のため房州へ訪れた時に池田家でこの龍を所望し、当主から献上されたと伝えられています。

石翁は40歳のころから学問を始め、篆書(てんしょ)、俳諧、琵琶、歌謡、生花、茶事に至るまで親しんでいました。号は是房、壽秀、天然齋、天然道人、鯉石、石翁などを称し、三河国西大平藩主・大岡忠愛(ただよし)、館山藩の留守居・高梨良右衛門などと親しくして、諸侯のところに出入りがあったようです。性質は頑健で寡黙であり、常に自己を磨く努力は怠らず利欲には淡白でしたが、芸術上の名誉心や自信は強かったようです。

(1)諏訪神社の狛犬

館山市船形833

祭神は建御名方命(たけみなかたのみこと)。境内4社、境外12社を擁する船形の鎮守。拝殿前に獅子や龍、象、馬の彫刻を施した架台に座り眼光鋭く精悍な顔立ちをした狛犬(座高約43cm)がある。狛犬に文字は刻まれていないが、神社に保管されている棟札に「奉納 安政二歳次乙卯(1855)七月二十六日吉祥 駒犬別願主 板屋助三郎 柴田平七 細工本石(名カ) 武田石翁」と書かれているとされ、武田石翁76歳の作品と分かる。7月26日は船形祭礼の初日。礎石を含め総高約178cm。

(2)西光寺の地蔵菩薩半跏(はんか)像

館山市正木1930

正木山西光寺は曹洞宗のお寺。本尊は十一面観音菩薩。山門を潜ってすぐ左に像高約46cmの地蔵半跏像がある。蛇紋岩を用い、敷茄子(しきなす)と蓮の反花(かえりばな)を刻んだ六角台座に座る。澄んだ表情で、右手に錫杖(しゃくじょう)、左手に宝珠を持ち、左足を蓮華座に下(おろ)す半跏の姿。六角台座の正面に地蔵菩薩諷教(ふきょう)の一節を、右側面に「願主 鈴木勘左衛門、世話人 林兵衛、有檀無檀 施主面々」、左側面に「嘉永5年(1852)壬子十一月二十四日 当山十七世玄興代 七十四 石翁作」と刻まれている。総高約178cm。

(3)萱野の孝子塚(こうしづか)碑

館山市国分1241

高さ350cm余の伴直家主(とものあたいやかぬし)の顕彰碑。伴直家主は平安初期の承和3年(836)、朝廷より親孝行を表彰され位を授かり生涯税を免除された。石翁は、この孝子(こうし)の埋もれていた墓を探し出し顕彰しようと10年近く活動してこの地を見つけ、嘉永3年(1850)に完成させた。

篆額(てんがく)は日野大納言資愛(すけなる)、書は平久里の医師。書家の加藤霞石(かせき)、肖像画は日本画家の菊池容斎。碑は当初、長尾藩士の屋敷が並ぶ区画の近くにある共有基地の北隣に位置していたが、そこから東の「天王休所」という場所(現在地)へ移動した。移動の時期は不明だが、明治7年(1874)旧長尾藩士等が提唱して台石を造ったころと考えられる。大正3年(1914)には、千葉県名勝旧蹟保存規定によって基台が改築された。昭和61年(1986)、市の史跡に指定されている。

(4)国分寺の孝子家主の碑

館山市国分959-2

国分寺は真言宗のお寺で日色山国分寺という。本尊は薬師瑠璃光如来。国分寺薬師堂の右脇にある「孝子家主(こうしやかぬし)の碑」は、嘉永4年(1851)、石翁が家主の両親の墓碑として建てたもの。総高175.5cm。家主顕彰碑文とその下に父母の塚に拝礼する孝子の像が描かれている。画と刻字は石翁73歳の時のもので、篆額は日野資愛(すけなる)、書は江戸大護院の高僧道本憲壽。他に薬師堂内に父母の墓に拝礼する孝子を描いた額が飾られている。

伴直家主(とものあたいやかぬし)とは親の死後も墓前で孝行を続けた徳行が「孝子」に値するとして、承和3年(836)朝廷から表彰された安房の人で、国分村の出身とされる。石翁が同志の助成・資財を請い、碑を建てたという。

(5)三福寺 新井文山翁の碑

館山市館山1195

觀立山九品院三福寺(さんぷくじ)は浄土宗のお寺。本尊は阿弥陀如来で文明3年(1471)に相蓮社順譽上人によって開山された。汐入川に面した山門を入ると、本堂から北側入口までの中程、墓地を背に東向きに新井文山(あらいぶんざん)の碑がある。嘉永6年(1853)、石翁76歳の時の制作。文山は館山藩の儒学者。昌平黌(しょうへいこう)で学び、28歳で帰郷後塾を開き地域の教育に貢献した。幼い頃父と死別し、母親孝行でも知られる。嘉永4年(1851)73歳で没した。石翁と文山は同年であり交流があった。高さ44cmの台石の上にある高さ250cmの碑は、文山新井翁墓と題字があり、その下に江戸の昌平黌教官の佐藤一斎の撰文、関淡海の書で文山の生涯が刻まれている。

(6)泉福寺の地蔵菩薩半跏像

館山市古茂口403

曹洞宗のお寺で本尊は阿弥陀如来。参道中ほどの石仏のうち地蔵菩薩半跏像が石翁の作で、享和3年(1803)に建てられた。総高170.5cm。台座の上に牡丹の花を刻んだ中段の台座、その上の蓮華座に半跏座(はんかざ)の姿で祀られている。その中段の台座右側面に「本名邑(もとなむら) 石工周治 五左ヱ門」、左側面に4名の戒名が刻まれており、五左衛門が4名の供養のために建てたと思われる。石翁25歳の作で、福楽寺の宝塔と同時期に作られた。周治は本名で、「石翁」は40歳ごろから名乗った。

(7)福楽寺の宝塔

館山市山荻281

真言宗のお寺で、多聞山福楽寺という。本尊は弥勒菩薩(みろくぼさつ)。この寺には光明真言の宝塔が一基あったが失われていたため、寛政10年(1798)から享和3年(1803)までおよそ6年をかけて光明真言を六億遍唱え、これを記念して宝塔を再建した。正面に「光明真言六億遍供養塔」、側面には願主6名、住持2名、背面には「本名村石工周治」の銘があり、この宝塔の再建の経緯と関係者の名が刻まれている。享和3年(1803)に建立されたもので、石翁25歳の作である。供養塔は寺の中央部にあり、地上からの総高は398cm。

(8)山荻神社近傍の「馬頭観音」

館山市山荻神社近傍

山荻(やまおぎ)神社近傍に地蔵尊を中心に馬頭観音が並ぶ。丸像2体、角柱3体。丸彫の馬頭観音像は、六角の台座に「享和二(1802)壬戌?(みずのえいぬのとし) 当村施主佐野八良右衛門」「本名村石工周治」と刻まれている。石翁24歳の作である。山荻神社の西側の裾から寺の裏を通って山の背を東に行く道がある。この山道は、かつて館山、豊房方面から千倉へ行く重要な街道の一つであった。この道の起点に幾つかの像が置いてあるのは、この道を通る人々の安全を祈願してのことなのだろう。総高89cm。


※これら武田石翁の作品は一般の方々が行けば直接見ることができますが、所有者のご迷惑にならないように見学してください。

作成:ミュージアム・サポーター「絵図士」
<青木悦子・金久ひろみ・佐藤博秋・佐藤靖子・鈴木正・吉村威紀>
監修 館山市立博物館 〒294-0036 館山市館山351-2 TEL:0470-23-5212

初代後藤義光の彫刻を訪ねて 4.(館山市編)

後藤義光その4 義光終焉の地

文化12年(1815)生~明治35年(1902)没

「後藤利兵衛 橘 義光(ごとうりへえたちばなのよしみつ)」は安房の代表的な宮彫り師で、木彫彫刻の名手といわれ、現在も続く後藤彫りの初代である。文化12年(1815年)、千倉の大工山口弥兵衛の子として生まれ、幼名を若松といった。幼少の頃より彫り物に天賦の才をあらわし、14歳の時に高さ4尺の大黒天を刻み、人々を驚かせた。その作品は今も南房総市千倉町川合の愛宕神社に残っている。18歳の時に刻んだ龍の彫刻は、本職の彫工をしのぐような力作であったと伝えられている。江戸京橋に住む宮彫り師、後藤三次郎橘恒俊が、文政年間に長狭(現在の鴨川市)の寺社造営に訪れた際、利兵衛は三次郎に入門し、数年後、師に代わり「後藤利兵衛光定」の名で神奈川県横須賀市浦賀の叶(かのう)神社の社殿彫刻を彫り名声を上げ、後に「後藤利兵衛橘義光」と称し数々の作品を残した。

義光は、30歳代頃に鎌倉で活躍をして妻を娶り、42歳になって千倉へ帰郷して、鶴谷八幡宮の向拝格天井(ごはいごうてんじょう)を刻み、続いて鋸南町の妙本寺、鴨川市竜性院の向拝彫刻を刻んだ。50歳代には、千倉周辺の寺社をはじめ、各地の山車や屋台の彫刻を盛んに刻んでいる。60歳を過ぎた頃に清澄寺住職の金剛宥性(こんごうゆうしょう)和尚が安房地方の108地蔵巡りを作ったことから、108か所の地蔵菩薩御詠歌扁額を刻んだ。また、真言宗智山派の総本山智積院、鞍馬寺、醍醐寺三宝院等で仕事をし、智積院化主(けしゅ)となった宥性和尚から「如意雨宝居士」の称を賜っている。80歳の初め頃には、現在の館山市下真倉(青柳)に移り住み、明治35年(1902)に88歳で没した。西養寺(南房総市千倉町)に墓がある。

多くの門人・友人らが米寿祝いに建てた寿蔵碑(じゅぞうひ)(館山市長須賀・来福寺)は、義光の豪放磊落(ごうほうらいらく)な人柄と非凡な技量を讃(たた)え、裏面には千倉町正福寺の鈴木明道(みょうどう)師による献歌も添えられている。

『名とともに、千代まで伝ふ物かたち ほり尽くしてぞ 越す米(よね)の年』

義光は岩井の席上で、「彫刻師は人にほめられておる時が一番恐ろしい時であり、私は職人として未(いま)だ快心の作を刻んだことがない、これから傑作を作るのだ」と友人に語ったと伝えられる。

主な参考文献:佐藤輝夫「彫刻師 後藤利兵衛橘義光」『会報』7・8号(館山市文化財保護協会)1974年・1975年

(1)鶴谷八幡宮(旧安房国総社)

館山市八幡76

祭神は応神天皇(品陀和気命(ほんだわけのみこと))。文久3年(1863)八幡宮拝殿・幣殿上棟時の懸札に、「彫工」として初代「後藤利兵衛橘義光」の墨書があり、初代義光が拝殿の彫り物に関わったことがわかる。拝殿向拝(ごはい)の格天井(ごうてんじょう)には、鏡天井の龍及び周囲54態の龍が組み込まれた「百態の龍」(市指定)があり、木鼻の獅子や獏(ばく)もこの時制作された。また、周囲の獅子や虹梁(こうりょう)などの彫り物も義光の指揮のもと制作されたと考えられる。弟子として、幸吉、久蔵、勇吉らの名がわかる。「鶴谷拝殿彫物寄附牒」には、それぞれの彫り物(百態の龍、他)についての下絵と寄進者の名があり、安房国全域及び江戸や横浜などの多方面からの寄付で賄われたことがわかる。なお、年代は異なるが、拝殿内左脇にある龍4態を組み込んだ「横須賀鎮守府造船部工場有志」による奉納額(明治29年(1876))も初代義光の作である。

(2)海富山医王院来福寺

館山市長須賀46

真言宗のお寺で、本尊は薬師如来。神亀2年(725)創立とされ、元聖法印の開基による。薬師堂左側に初代義光の門人・友人が「米寿」を祝って建てた「後藤義光扇寿蔵碑」がある。寿蔵とは生前中に作っておく墓のことであり、功績をたたえる文は元長尾藩教授の恩田城山(おんだじょうざん)。石碑上部の篆学(てんがく)は北条に住む伊貴族院議員の万里小路通房(までのこうじみちふさ)が「後藤義光之碑」と篆書(てんしょ)している。本文は「従八位鈴木周太郎書」(豊房村第3代村長)とあり、義光が多くの人々に慕われていたことがわかる。

(3)延壽山観音寺

館山市南条21

真言宗のお寺で平成12年(2000)の火災により本堂を焼失し、平成20年(2008)に再建された。向拝の龍は朱も美しく、新しく見えるが、明治27年(1894)の義光の作。火災の時、客殿に移され、修理された後、新本堂の虹梁(こうりょう)に移設された。門柱にわたされたモダンなガス灯が珍しい。境内に入ってすぐ左手にある石造の地蔵尊は高村光雲の弟子で、館山市楠見の石彫家俵光石の明治33年(1900)の作品。台座に六道図(地獄・飢餓・畜生・修羅・人間・天上)が刻まれている。

(4)南条の八幡神社

館山市南条515

祭神は応神天皇。境内にある石造の常明灯と狛犬が義光の作品である。常明灯は参道の中ほどにあり、明治26年(1893)に建立。左右の基壇に彫られている。「牡丹と獅子」は義光が石に彫刻した数少ない作品である。狛犬は鳥居の先の両脇にあり、明治26年(1893)に地元願主4名により奉納、白浜の石工により制作されたが、精刻は義光の手によると書かれている。背後の山腹には38基の東山横穴群がある。池にはサンゴの化石層(市指定天然記念物)が見える。

(5)飯富山福生寺

館山市古茂口(こもぐち)367

曹洞宗のお寺で本尊は聖観世音菩薩。里見氏ゆかりの寺である。山門(四脚門)に義光作の木鼻の獅子があり、この門の欄間の2面に、縁起物の松・竹・梅・鶴が彫られている。正面の欄間の山鵲(さんじゃく)は目が鋭く、羽根を大きく広げ獲物を狙っている様子で、梅の花と竹がある。裏面の欄間にも松・竹に鶴の彫物がある。鶴は2羽彫られており、右の鶴が親のようで下の子鶴は親を見上げている。松と子鶴の近くには竹が配される。明治28年(1895)、81歳の時のもの。

(6)杉本山観音寺

館山市西長田372

真言宗のお寺で、本尊は聖観世音菩薩。行基が聖観世音菩薩像を刻み、楠の祠に安置したことに始まり、その後、慈覚大師が堂宇(どうう)を造立したといわれる。観音堂向拝の龍は、明治28年(1895)、81歳の時の作品で、木鼻に獅子・獏、海老虹梁(えびこうりょう)・肘木(ひじき)に波に亀・松に鷹、手挟(たばさみ)に松・山鵲と鶴、桁隠(けたかくし)は雁にツバメなどがあり、それぞれに寄付した人物の名が刻まれている。また、御堂の外陣(げじん)欄間になされた飛天の透かし彫りも義光の作品で、明治34年(1901)87歳、晩年の作品である。境内には室町時代の五輪塔や宝篋印塔の笠がある。当寺は、安房国札三十四観音の第33番札所である。

(7)金剛山小網寺

館山市出野尾859

真言宗のお寺で本尊は不動明王。和銅3年(710)の創建と伝えられている。本堂向拝(ごはい)には、松を横たえた虹梁(こうりょう)の上に親を見つめる子どもを抱く龍の彫刻がある。肘木(ひじき)には波間から姿を見せている篭彫りの亀・鯉などが彫られ、その他巻毛の流れが精細な彫りである木鼻の獅子・獏(ばく)、桁隠にも飛龍、手挟(たばさみ)に羽を広げた鳳凰・麒麟(きりん)が外側・内側から見られるように彫られている。正面欄間5か所には松に鳥、右側欄間2か所には牡丹に獅子などが飾り彫りされている。いずれの作品も流れの表現が素晴らしいものである。明治23年(1890)に本堂が建築され、同25年(1892)5月に彫刻が完成した(78歳)。龍の背面に小網寺第44世良範による後藤義光を称えた文が刻まれている。境内には鎌倉時代の梵鐘(国の重要文化財)があり、また安房国札三十四観音の第32番札所にあたる観音堂がある。

(8)風早不動尊

館山市岡田387-1

小網寺(真言宗)の別院で里見氏の時代に建立されたとされる不動尊。本堂向拝の龍の彫刻は明治25年(1892)、義光78歳の作。地元の総代人3名と世話人による奉納。木鼻の獅子は岡田・大賀・真倉(さなぐら)地区の3名の奉納。浮き出すように彫られた龍のレリーフが力強く美しい。また左右の木鼻は獅子が飛び出しているように彫られており、生き生きとした様子が印象的である。

(9)光照山医王寺(いおうじ)妙音院

館山市上真倉(かみさなぐら)1689

安房地方では唯一の古義真言宗(高野山)の寺院。裏山に四国霊場を写した「安房高野山八十八ヶ所霊場」がり、その中の88番弘法大師像の台石の波の彫刻は、義光80代の作品。最下段の台石には、奉納者の名に義光の名もある。なお3番尊像台石の波の彫刻も後藤義光の作といわれている。義光が石に彫刻した作品である。

(10)十二天神社

館山市沼443

向拝虹梁(ごはいこうりょう)の上に頭が尾の方に振り向いた姿の龍や海老虹梁の若葉彫りは義光の作である。狩野派の絵師で、後年安房神社神職にもなった川名楽山(かわならくさん)(敬信)が明治時代に奉納したもの。県内最大といわれるビャクシンの奥に鎮座する十二天神社は、日本書紀にある天神七代、地神五代を祀り、草創は鎌倉時代の寛喜2年(1230)と明治時代役所に届け出た文章に書かれていたという。社殿腐朽により昭和36年(1961)、区内の天満神社に合祀されたが、昭和43年(1968)、社殿を造営し元に戻された。

(11)青龍山光明院

館山市波佐間599

真言宗の寺院で本尊は不動明王。鶴と松を配した虹梁の上に、精悍な爪に宝珠を持ち、頭が尾の方に向いた龍、向拝柱の木鼻は正面に獅子、横向きに獏を置く。虹梁両端下の肘木(ひじき)は龍彫りの手法で波に亀、向拝柱と本堂を結ぶ海老虹梁や本堂の梁(はり)に若葉彫り、垂木(たるき)の下に牡丹の手挟みがある。本堂を囲むように蟇股(かえるまた)が置かれ、木鼻も配置されている。明治元年(1868)の作である。施主は早川善兵衛と佐野庄兵衛他4名の名がある。

  • 寺赤 那古地区 86歳~88歳
  • 北条(南町)蛭子神社 82歳
  • 大塚 船形地区 88歳
  • 下真倉 日枝神社 84歳
  • 上真倉 神明神社 85歳
  • 出野尾 十二所神社 75歳
  • 長須賀 熊野神社 79歳
  • 佐野 熊野神社 79歳
  • 大井 手力雄神社 補作
  • 中里 八坂神社
  • 東長田 山宮神社
  • 神余・自性院/本堂須弥壇
  • 下真倉・日枝神社/社名額
  • 山荻・山荻神社/社殿見取図
  • 神余・神余小学校/懸魚
  • 大井・手力雄神社/俳句奉納額 等がある。

<作成 ミュージアムサポーター「絵図士」
青木悦子・青木徳雄・金久ひろみ・川崎一・鈴木正・吉村威紀>

初代後藤義光の彫刻を訪ねて 3.(鴨川・鋸南・富山編)

後藤義光その3 義光と後藤一門

文化12年(1815)生~明治35年(1902)没

南房総市千倉町で生まれた「後藤利兵衛 橘 義光(ごとうりへえたちばなのよしみつ)」は安房の代表的な宮彫り師で、安房地方の寺社や各地の山車・神輿に多くの作品を残している。ここでは、波の伊八の作品が数多く残る鴨川市、長狭街道を西に向かった鋸南(きょなん)町、南房総市富山地区(旧富山町)に残された作品を取り上げた。

義光は数多くの作品を残しながら弟子の育成にも心を砕き、一門からは多くの腕の良い彫り物師を輩出した。二代目義光となる長男の紋治郎、次男の福太郎義道や、後藤一門の四天王と呼ばれた門人の後藤兵三・利三郎義久・庄三郎忠明・喜三郎義信らがおり、その作品は上総方面にまで残されている。義光の名は三代まで継承され、その技術は昭和になっても三代義光の弟松太郎義孝や、一門の義房・義徳などに受け継がれた。直系は五代まで続き、さらに弟子によって後藤流が引き継がれている。

鴨川市には、初代義光と紋治郎との合作(上小原の白滝不動堂向拝・太田学の成就院清龍堂向拝)や紋治郎による遠本寺向拝彫刻が残され、晩年は共同で仕事をした様子がうかがえる。なお、長狭街道沿いに位置する鋸南町小保田の安岡神社の向拝には義光の師である後藤三次郎恒俊の作品が残されている。

(1)真門(まかど)観音

鴨川市江見西真門

十一面観世音菩薩を祀る小さなお堂の向拝(ごはい)に肉厚な龍を残す。獅子は火炎に振り向いた姿である。「安房国彫工 後藤利兵衛 橘義光」と刻銘があるが年代は刻まれていない。

(2)白幡神社

鴨川市貝渚3102

祭神は日本武尊(やまとたけるのみこと)。平安時代初期の弘仁(こうにん)2年(811)正月の創建と伝えられる。創建当時は海に近い新兵の地に建てられていたという。治承(じしょう)4年(1180)に伊豆で挙兵した源頼朝が平家打倒と源家再興を祈願し、白幡を納めたことから白幡大明神と称されるようになったといい、現在は白幡神社と呼ばれている。弘治元年(1555)に新兵に再建され、宝暦10年(1760)に現在地に大造営し、安永9年(1780)6月に本殿の改修が行われた。その際の彫物師として武志伊八郎信由(波の伊八)の名が見える。

向拝正面の彫刻は初代義光の作品である。龍は神社を守護するがごとく厳しく右側をむき、天をにらんで周囲を威圧している。左右には獅子が彫られている。なお、白幡神社では「湯立(ゆだて)神事」が1月19日に行われている。

(3)熊野神社

鴨川市横渚554

祭神は伊邪那岐命(いざなぎのみこと)・速玉男命(はやたまおのみこと)・泉津事解男命(よもつことさかおのみこと)の三神。通称「権現様」と呼ばれている。南北朝時代の貞和(じょうわ)4年(1348)に紀伊国(和歌山県)の熊野三山から祭神の勧請を受け、長狭郡一の宮総社権現と称した。永禄年中(1558~1570)に里見義弘夫人の祈願所となり、神領30石が寄進され、徳川幕府により里見忠義が改易させられると、元和元年(1615)本社の神領もことごとく収没されたという。寛永19年(1642)以来、明治維新に至るまで熊野三社大権現と称した。大正12年(1923)9月1日関東大震災ため拝殿が倒壊し、昭和2年(1927)頃に改築した。
拝殿向拝の龍は顔を左にむけ牙をむき出している。初代義光の作品である。向拝の懸魚(けぎょ)には三代義光による鳳凰が大きく羽根を広げ、龍と同じく左を向き同じ敵を鋭く見つめているようである。本殿向拝にも見事な彫刻があるが銘はなく作者不明である。

(4)飛梅山龍性院(りゅうしょういん)

鴨川市広場883-1

真言宗のお寺で本尊は大日如来。創建年代は不明。かつでは福性院と言われていたが、明治3年(1870)、不動山龍性院に併合されて龍性院と改めた。山号の飛梅山は源頼朝がここに立ち寄り梅の枝を刺して吉報を待ったことに由来する。
本堂向拝に、一見似たような二体の龍が、上下に置かれている。下段は平成12年(2000)の本堂新築時に製作された。下段の龍は慶応4年(1868)、義光54歳の作である。工事中に一部修復された。本堂の須弥檀(しゅみだん)左の部屋には、同年の作として弟子の利三郎、庄三郎、勝次郎等と共に彫った鷹に松の欄間彫刻がある。客殿には文久3年(1863)、義光48歳の作で木鼻の獅子や龍彫りによる鯉に波の肘木や三代義光の蟇股(かえるまた)などが保管されている。なかでも獅子の顔は克明に刻まれ、豊かな毛並みは細やかで丁寧なつくりといえる。境内の観音堂には後藤義信による龍と獅子の彫刻が残されている。
ほかに、寛保2年(1742)に奉納された六地蔵、慶応元年(1864)に奉納された子育地蔵(子抱き半跏像)、竜宮風の山門などがある。

(5)神明神社

鴨川市東町

祭神は天照大神。東区内の鎮守である。向拝彫刻は、波の中に羽根を広げた鶴が彫られている。銘は「後藤利兵衛橘義光」とあるが年代は刻まれていない。向拝左右の木鼻には獅子と象が刻まれている。境内には寛政9年(1797)、氏子衆中寄進の手水鉢があり、昭和9年(1934)には屋根替え工事、平成10年には社殿の修復工事が行われた。

(6)清水山成就院

鴨川市太田学883

真言宗智山派のお寺で本尊は不動明王。里見氏の保護をうけ、その後、江戸幕府から御朱印地10石の寺領を認められていた。12世紀~13世紀頃創建され、永正10年(1513)に現在地に中興開山した。本堂向拝の龍は伊八作といわれるが銘がない。本堂裏の石段を登った所の通称「清龍様(せいりゅうさま)」に彫られた松と鷹に小鳥の彫刻は、明治6年(1873)義光59歳の作。波と鯉が彫られた懸魚(けぎょ)は、二代紋治郎の作品である。昭和9年(1934)弘法大師100年遠忌で作られた安房国88ヶ所第49番霊場。

(7)白滝山不動教会

鴨川市上小原477

真言宗で本尊は不動明王。大同3年(808年)弘法大師が自刻の不動明王を安置したと伝えられている。永正年間(1504年~1521年)に長狭郡山の城城主正木大膳{だいぜん}が白滝山滝谷寺として創建した。境内に落差 0mの白絹の滝があることから滝の不動とよばれ、一帯は霊場地として崇められた。本堂向拝の龍は明治17年(1884年)、義光70歳の作である。本堂正面の懸魚の鳳凰も義光作とされる。向拝の海老虹梁{えびこうりょう}の龍は紋治郎、明治16年(1883年)の作。本堂の周りは、鶴・獅子・小鳥・亀などの彫刻があり、篭彫り等の技法も見られる。施主は安房を中心に、上総、長生、浦賀の人もいる。客殿正面の彩色された松と小鳥の彫刻にも義光の銘がある。

(8)中谷山(ちゅうこくさん)妙本寺

鋸南町吉浜453-1

日蓮宗富士門流の本山で本尊は十界曼荼羅(じゅっかいまんだら)。日郷上人が房州保田の地頭佐々宇佐衛門尉から寺地の寄進を受け、建武2年(1335)に開創した。戦国時代に妙本寺は数々の兵火により堂宇の大半を焼失している。現在の客殿は、元冶元年(1864)、第37世日勧上人の時に造営した。客殿向拝の龍と蟇股(かえるまた)の龍は義光50歳の彫刻で、大六村の池田嘉兵衛らが施主となり奉納している。

力士像には「喜内伊丹敏英作」とあり、獅子鼻・しかみなどの彫刻は宮大工伊丹喜内の作。向拝の龍は親子龍で左右に力士像を控え、妻飾の飛龍が両脇を飾っている。肘木(ひじき)には波間に親子亀・虹梁(こうりょう)には波に鶴が刻まれ、鶴亀がセットで配されている。右の獅子は透かし彫りの鞠を持っているが、破損しており、左の獅子は牡丹の花を口挟んでいる。懸魚(けぎょ)には鳳凰が翼をひろげ、右の向拝柱に昇り龍・左の向拝柱には下り龍が彫られている。また、向拝天井には渡辺雲洋(うんよう)(現館山市北条の絵師)の龍の絵があり、客殿内にも川名楽山(らくさん)(現館山市沼の絵師)・鈴木夏運(京都の絵師)の天井画が墨絵・色彩画などで奉納されている。また、本堂の向拝彫刻は後藤義信の門人であり甥の後藤義房の作品である。

(9)黒石山龍燈院勝善寺(くろいしさんりゅうとういんしょうぜんじ)

南房総市二部1344

阿弥陀如来を本尊とする浄土真宗(真宗大谷派)のお寺で、開創は元仁元年(1224)とされる。明治3年(1870)の火災後、現本堂は明治13年(1880)に、向拝は明治35年(1902)に再建された。義光最晩年の作とされる向拝の彫刻群は、この時のものである。また、本堂内では81態の龍を描いた格天井(川名楽山画)や浮世絵師・菱川師宣の過去帳(県指定有形文化財)も残されている。

総けやき造りの向拝正面は三区分され、中央に火炎をなびかせ威風を放つ波に龍、その左右に竹に阿吽(あうん)の虎が据えられている。梁(はり)の先端(木鼻)には巻き毛に牙・足・火炎をもつ獏(ばく)、最下部は松に鶴などが配置され、向拝正面に重みと軽快さを与えている。(龍左脇:「後藤利兵エ橘義光八十八扇作」の刻銘)

向拝柱を四本にし、その位置を基準に取り付けた四態の手挟(たばさ)み、外側左右一対の蓮の花は煩悩の世界から悟りの境地に導かれる様子を表し、内側の左右一対の龍は、右は来る者を威圧し左は華瓶(けびょう)を抱えて人を浄土世界へと誘っているようである。鱗・頭のこぶ・眼球・華瓶・蓮の花等に木目を巧みに生かした彫りは、義光のこだわりが感じられる。裏側下部の梁には、中央に大菊、左右に小菊が彫られ肘木(ひじき)には若葉彫りが施されている。


<作成 ミュージアムサポーター「絵図士」
青木悦子・青木徳雄・金久ひろみ・川崎一・鈴木正・吉村威紀>