国司神社

国司神社(こくしじんじゃ)の概要

 ・国司を祀る神社はとても珍しい・

 館山市沼の柏崎区の氏神で、平安時代中期頃に安房国の国司(こくし)として京の都から赴任した源親元(みなもとのちかもと)をお祀りした神社。親元は嘉保3年(1096)から康和2年(1100)の4年間国司を勤め、仏教の徳をもって国を治めた。任期を終えて京の都へ帰るとき、別れを惜しむ住民が出立を阻んだので、親元はやむなく着ていた直衣(のうし)の左袖を解いて与え、柏崎から船に乗ったといわれている。永久2年(1114)に親元の死去を伝え聞いた人々は、その徳を慕って親元の居宅址に小祠を建て、遺品の片袖を祀ってこの神社が創建されたと伝えられている。

源親元

 若い頃は相当に気が荒く、人とのいさかいが絶えなかったが、33歳で仏教に帰依した頃から別人のように優しくなった。のちに悪人の逮捕や刑罰を行う検非違使(けびいし)になると、罪人が自ら反省するのを待つため努めて罪人の刑を軽くしたという。国司として安房へ着任すると、自分の俸禄を使って堂(泉光院)を建て、仏事に励みながら善政を行い、税を軽くし、罪を緩め、民をいたわった。離任後は出家して念仏三昧の日々を送り、長治2年(1105)11月7日死去した。享年68歳。沼地区内の真言宗総持院と天満神社は源親元が創建している。

国司丸

 館山地区の祭礼になると柏崎では神社から国司丸という御船をひき出す。国司丸左舷(さげん)の艫(とも)の支柱が割り合せしてある所に、文化14年(1817)の墨書があり、文政7年(1824)には絵師・勝山調(かつさんちょう)が「引舟の図」を描いていることから、大変古い御船であることがわかる。彫刻は後藤福太郎橘義道(たちばなのよしみち)の作。

館山地区祭礼

 毎年8月1日・2日、南総里見八犬伝ゆかりの城下町館山で、神輿(みこし)・山車(だし)・曳舟(ひきふね)など総勢13基により館山神社を中心に祭礼が繰り広げられる。国司丸を引き出す国司神社では、船上に太鼓・鉦(かね)・鈴が積み込まれ、篠笛のお囃子(はやし)や民謡のメロディなどを歌い合わせて賑やかに舞い踊りが行われる。江戸時代から伝承される「御船唄(おふなうた)」は御座船唄ともいわれ、拝殿や御船の上で歌われる。江戸幕府の船手頭(ふなてがしら)支配の時代に端を発するものとされ、市内の祭礼で御船を曳く地区に伝えられている。また親元は国司大明神と呼ばれ、親元がこの地を離れた1月16日が国司神社の例祭日になっている。

(1)宮下地蔵尊(地蔵信仰)

 地蔵菩薩は最も弱い立場の人々を最優先で救済する菩薩で、生活に密着する子育・火防・盗難除・病気平癒など、庶民の願いをかなえる仏として祀られた。宝暦5年(1755)と文化8年(1711)の廻国(かいこく)供養塔や馬頭観音・中世の五輪塔の一部(空風輪(くうふうりん))も安置されている。

(2)石段建設寄付人記念碑

 明治40年(1907)に石段を造った時の寄付人の名を記録した碑。寄付金額は15円から1円20銭まであり、合計は338円70銭。中には鰹を147本というものもある。裏面には当時の区長・氏子惣代・発起人や、遠く横浜市から5円を寄付した人の名が刻まれている。

(3)石灯籠(いしどうろう)

 天保3年(1832)5月に建てられた。世話人と当時の村方三役(名主・組頭・百姓代)の名が刻まれている。

(4)鳥居

 石灯籠と同じく天保3年(1832)5月に建てられたもの。柱の下部には石灯籠と同じ名前が刻まれており、村役人の名字もわかる。笠木(かさぎ)と貫(ぬき)の部分は関東大震災で折れてしまい、その後修復されたものである。

(5)大震災御下賜金(ごかしきん)記念碑

 大正12年(1923)9月1日の午前11時58分に、相模湾を震源として発生した大地震による災害(関東大震災)の記憶を残すために建てた柏崎区の石碑。碑の台石に震災で壊れた鳥居の笠石を使用している。

(6)日露戦役記念碑

 豊津村から日露戦争に出征した人70名の名前を刻んだ記念碑。うち8名が戦病死している。書は石井啓次郎。明治39年(1906)に豊津村恤兵会(じゅっぺいかい)が建立した。

(7)狛犬(こまいぬ)

 弘化4年(1847)3月に氏子たちによって奉納されたもの。向かって左の狛犬には石工(いしく)喜兵衛の名が刻まれている。

(8)玉垣(たまがき)

 大正15年(1926)6月建立。計50本の玉垣の1つ1つに議員・区長・伍長・組長はじめ氏子などの名が刻まれている。

(9)銀杏(御神木)

 ご神木の銀杏(いちょう)で、樹齢350年、周囲3.03m、直径0.92m、高さ15.00m。

(10)石宮

 覆い屋の中にある石宮3基は、右が沖の島と高の島、中央に鷹島(たかのしま)弁才天、左に天満宮と桜木宮の札が納めてある。海上の高の島には弁才天、沖の島には宇賀明神が祀られており、ともに源親元が最初に祀ったと伝えられている。水の神・農業神として崇められた。天満宮は親元が信仰した菅原道真(すがわらのみちざね)を祀る神社で、御霊(ごりょう)信仰の代表。天災や疫病(えきびょう)の発生を「怨霊(おんりょう)」のしわざと見なしてこれを鎮め、平穏と繁栄を祈る信仰で、桜木宮とともに疱瘡除(ほうそうよ)けとして祀られる。

(11)社務所(篭り舎)

 この社務所はかつて氏神のお篭りが行われた篭り舎(こもりしゃ)だった。柏崎では左袖の無い源親元を描いた掛け軸を掲げ、当番の家(宿(やど))でオビシャをした。これをウチカン(氏神)講といい、月に一度昼間にやっていた。講ではご馳走を作り、神前に供え、ともどもに飲食して祝う。年に一度、親元がこの地を離れたという1月16日の例祭日には、この篭り舎でオオオビシャが行われていた。

(12)ちょうちん掛け

 昭和3年(1928)11月、昭和天皇の即位式と大嘗祭(だいじょうさい)を続けて行う御大典(ごたいてん)を記念して建てられたもの。ちょうちん掛けの足元には、拝殿修復前に使われていた火除けの”水”と書かれた鬼瓦が置かれている。

(13)拝殿(はいでん)

 現在の拝殿は大正5年(1916)に建てられたもの。このとき奉納された向拝(ごはい)彫刻の龍は、裏に”後藤橘義定(たちばなのよしさだ)”と刻まれており、当時安房地方で宮彫り彫刻師として活躍していた後藤一門の後藤義定(西岬の山崎定吉)の作品である。

(14)豊津公園(磯崎公園)

 明治41年(1908)8月に造られた公園。国司神社の裏山を少し登ったところにあった。現在は木が生い茂るが、公園記念碑と囲碁・将棋をするための石製の盤(明治42年製)が残っている。戦前は「観望広く、山海の気満ち、夏季来遊の良公園なり」(『安房漫遊案内』1918年)と紹介されていたが、航空隊基地を造る際に、トロッコ線路建造のため切り割の崖ができ、次第に人が近づかなくなった。

(15)泉光院(千光院)跡

 関東大震災前まで神社右脇の平場に真言宗の泉光院があった。別当(べっとう)として国司神社を護り、管理をしていた。ここでその昔火災があったとき、親元が持ってきたという菅原道真公の掛け軸が境内の梅に飛び移って難を免れたという天神梅(てんじんばい)の伝説がある。


作成:平成19年度博物館実習生
監修 館山市立博物館

妙音院

妙音院の概要

光照山医王寺妙音院といい、館山市上真倉(かみさなぐら)に所在する高野山金剛峯寺(こんごうぶじ)直末の古義真言宗のお寺です。本尊は如意輪観音。「安房高野山」とも通称されています。里見氏と紀州の高野山西門院は関係が深いことがよく知られています。それは宿坊が上総国を檀那場(だんなば)していたため、里見氏が上総国へ進出して結びつきました。安房国の檀那場は万智院という坊でしたが、天正17(1589)に高野山の衆議(しゅうぎ)により妙音院に変更されました。上真倉の妙音院は里見義康が高野山にある妙音院から開山として快算法印を招き、その別院としたものです。里見氏から白浜・真倉などに161石の寺領が与えられていました。江戸時代となっても徳川家から寺領75石が与えられ保護されました。伝来する寺宝に徳川家より奉納されたという『大般若経』がありますが、その背景には紀州徳川家との深い縁があったと考えられます。明治29年(1896)に上総の前羽覚忍(まえばかくにん)が発願し、裏山に四国霊場を写し「安房高野山八十八ヶ所霊場」が開かれました。大正12年の関東大震災で本堂が倒壊し、住職と檀信徒の努力で復興しましたが、昭和20年3月、米軍が落とした焼夷弾(しょういだん)により、またもやその仮本堂や庫裡(くり)、桜が焼失、かろうじて鐘楼(しょうろう)堂と山門、熊野大権現が焼け残りました。今もなお焼け焦げた旧鐘楼が戦災を物語ります。妙音院周辺の小字(こあざ)名は海蔵寺といい、古い寺があったことを窺わせます。妙音院の前身かどうかはわかりませんが、言い伝えに、もとは海蔵寺は長尾川の中流(白浜の滝山)にあり、寺の移転と同時に上流の曲田(まがった)から6軒の人が移り住み、門前6軒といわれて寺の鐘つきなどをしていたといいます。今もなお子孫という2軒が住んでいます。

(1)手水鉢(ちょうずばち)

安政2年(1855)に上真倉村の人々が寄進したもの。当時の住職堯奠(ぎょうてん)や、大檀那杉田をはじめ世話人の名が刻まれている。

(2)柴燈護摩壇

仮本堂の前に「柴燈護摩壇(さいとうごまだん)」と彫られた石柱がある。柴燈護摩とは野外で焚(た)かれる護摩のことで、その本尊である不動明王を表す梵字(ぼんじ)「カンマン」と、大正15年(1926)4月の建立銘がある。現在の柴燈護摩法要は、正月の第3日曜日と5月の第4日曜日の2回修せられて、5月には火渡りも行われ、善男女人で賑わう。

(3)本堂跡(仮本堂)

現在の仮本堂の位置はもともとの本堂があった所。間口8間、奥行6間の本堂は大正の震災で倒壊し、その後、檀信徒の協力で現在の釈迦堂のところに仮本堂が建立されたが、第2次世界大戦のとき仮本堂・庫裡(くり)・諸堂を焼失。再建されないまま今日に至っている。現在の仮本堂には本尊の如意輪観音を中央に、向かって右に弘法大師、左に不動明王が安置されている。

(4)伊藤思楽句碑 

館野村腰越の伊藤林蔵(号 思楽)が、境内整美のため、桜・南天を寄贈植樹した時の記念句碑。明治37年(1904)3月に建てられたが、思楽は翌年に66歳で没した。

(5)仮薬師堂(旧鐘楼) 

鐘楼は昭和20年3月の空襲で茅葺(かやぶき)の屋根が被焼し、梁(はり)や桁(けた)は黒く焦げたがどうにか焼け残り、それを薬師堂に改築した。江戸期の銅造薬師如来坐像を安置する。安房国薬師如来霊場西口4番札所として、寅歳と申歳の10月にご開帳される。

(6)釈迦堂(回向堂) 

震災後に仮本堂を建てたところで、回向(えこう)堂と呼ばれていた。厨子(ずし)の中に釈迦如来、客仏として阿弥陀如来、脇仏として、文殊菩薩・普賢菩薩が祀られ、泉慶院(5番札所)にあった薬師如来もここに祀られている。釈迦堂裏や庭先などに中世の宝篋印塔(ほうきょういんとう)の基礎が残存する。ここで修験練成道場関東二實塾が開講される

(7)稲荷大明神(天神様)

境内北西山麓のやぐらの中に石宮が安置され稲荷大明神と呼ばれている。石宮の蓋(ふた)には梅鉢(うめばち)紋があり、中に公家風の坐像が納められている。石宮の側面には、23世住職以豊(いほう)が発願主(ほつがんしゅ)となり、筆弟子(ふででし)たちが助願(じょがん)となって、嘉永5年(1852)2月25日の950回忌に筆恩(ふでおん)を感謝して建立したとある。この950回忌は菅原道真(みちざね)の忌日に当たることから、この像は学問の神様である天神像と思われる。それがなぜ稲荷大明神と呼ばれるようになったかは不明。

(8)薬師堂跡 

仮本堂左手奥石垣の上に薬師堂があった。礎石と思われる石が2基と近世初頭の石灯籠の反花座(かえりばなざ)1基が残されている。薬師堂は江戸時代造立の銅造薬師如来坐像を祀った三間四方の堂だったという。老朽化で倒壊し、震災後建てられた仮本堂に像を安置した。現在は焼け残った鐘楼堂を仮薬師堂にして、そこに祀っている。

(9)杉田家の墓

住職の墓よりも一段高い奥に墓所が位置する杉田家は、妙音院の大檀那だった。先祖累代の墓が荒れているのを嘆いた杉田佐伝治と惣左衛門が、昭和5年(1930)に整備・供養したもの。明治以降の杉田家の墓は近くの十王堂にある。

(10)尊勝塔

杉田家の墓の右脇に位置する。仏頂尊(ぶっちょうそん)の功徳(くどく)を説く、『尊勝陀羅尼経(そんしょうだらにきょう)』が三面に刻まれている。享保2年(1717)、了皎(りょうこう)住職の代に杉田宗左衛門夫妻の発願で修復・開眼(かいげん)供養された。

(11)薦野家の墓地

里見義弘の子で、薦野(こもの)神五郎頼俊と称した人物は、2524石余の知行地を持つ里見家御一門衆であった。その子孫の墓地とされ、今も末裔とされる真倉の薦野家の方が維持している。

(12)住職の墓域

寛永4年(1627)から昭和までの歴代住職の墓が15基並んでいる。正面三基の内中央の墓は25世辨章(べんしょう)和尚の墓で、明治31年(1898)当院特命住職として寺門興隆に勤め、大正4年(1915)68歳で遷化(せんげ)。左の墓は辨章和尚の徒弟辯海(とていべんかい)和尚の墓で、26世を継ぎ寺門興隆に勤め、昭和7年(1932)55歳にて遷化。現在の寺の基礎はこの二人で創られた。右の墓の28世菊地本覚和尚も震災後の寺の復興に努めたという。

(13)地蔵尊

台座の中央に「本尊地蔵大菩薩」とある。地元の地蔵講などの講中が安置したものと思われ、20余名の講員の名がある。建立年紀は不明。「先祖代々」や「清幼童子」などの供養の文字も見られる。

(14)不動尊2体

八十八ヶ所霊場への階段に浪切不動(右側)と不動明王坐像(左側)が置かれ入口を鋭い目線で見つめている。明治30年、高村光雲門人で郷土の石工俵光石(たわらこうせき)の作。寄進者は浪切不動が下町の高橋徳太郎、不動明王が楠見の杉田きせ・渡辺たよ・俵かね・小高れんである。

(15)熊野大権現

当院の境内鎮守である熊野大権現は、八十八ヶ所霊場の裏のほうに祀られていたが、昭和15年現在の地に移された。5月の火渡りでは、護摩修行の無事を祈って社前でお祓(はら)いをする。社殿の前に嘉永元年(1848)に奉納された手水鉢(ちょうずばち)がある。

(16)七福神

7人の福徳の神、大黒天・恵比寿・毘沙門(びしゃもん)天・弁財天・福禄寿・寿老人・布袋(ほてい)を祀る。昭和58年、荒れていた八十八ヶ所の霊場を市内宮城県人会や地域の檀家などが修復したときに、新たに祀られた。

(17)石柱

地蔵尊を載せた2本の石柱に、館山・千倉・鋸南・富浦等の信者の名前と金額が刻まれている。目的や年紀は記されていない。

(18)船乗地蔵

船べりに「朝夷郡平舘(へだて)区大師講中」と刻まれている。また伝来の『勧進帳』には「東京市浅草区大乗院住職守屋大暢」とある。

(19)安房高野山八十八ヶ所霊場

明治28年(1895)、上総の老女前羽覚忍の発願により、24世住職山縣敞暹(やまがたしょうせん)が勧進、近隣の人々の浄財を受け完成。翌年高野山々主を招請して開眼(かいげん)された。しかし終戦直前の空襲で寺は焼け、八十八ヶ所霊場も荒廃し埋れてしまった。昭和58年に宮城県人会と檀信徒により修復復興された。霊場の出発点には出生門があり、八十八ヶ所には弘法大師の像が祀られ、「褌祝(ふんどしいわい)」「女の大厄」「男の前厄」など人生の節目が表示がされている。34番の「身替(みがわり)大師」は唯一の行者姿。88番には、彫物師後藤利兵衛義光の名があり、波の彫刻が施されている。

(20)吉野桜百本植付記念碑

明治32年(1899)、東京の新井善司と鳥居半右衛門が桜百本を植樹した記念に建てた。その後当院は桜の名所として知られるようになり、民謡「館山小唄」でも「春は妙音院花どころ…」と歌われるほどの賑わいになった。

(21)オハツキイチョウ

山門右手のイチョウは幹周2.6m、樹高約20m、樹齢約100年の「オハツキラッパイチョウ」。イチョウには雌雄があり、普通の雌には、葉と別にギンナンが実るが、オハツキイチョウは葉の先にギンナンが付き、ラッパイチョウは葉がラッパ状に丸まるイチョウの変異種。妙音院のイチョウはその両方の特徴をもつ大変珍しい樹。


<作成:ミュージアム・サポーター「絵図士」 加藤七午三・金久ひろみ・川崎 一・君塚滋堂・鈴木以久枝>
監修 館山市立博物館  〒294-0036 館山市館山351-2 ℡.0470-23-5212

北下台

 北下台とは、城山の北側にある小高い丘一帯をさす呼び名です。江戸時代は家がありませんでしたが、明治・大正時代には「館山公園」という景勝地として知られていました。

北下庚申堂周辺エリア

(1)重田徳正記念碑

明治34年(1901)

 庚申堂上の個人宅地内にある。成田山不動尊を信仰し、神栄講に属していた重田徳正は、この場所にお堂をたてて信仰を広めた。

(2)石造観音菩薩立像

 北下地蔵尊庚申堂にある石造物のうちのひとつ。これらの石造物は、裏の個人宅地内に埋もれていたものを、10年ほど前に整備しなおした。

(3)三界万霊塔

正徳4年(1714)

 同じく庚申堂の石造物のひとつ。人間だけでなく、生き物すべての霊を供養するための碑。

(4)百八十八番巡拝塔

文化11年(1814)

 楠見集会所脇にある廻国供養塔。楠見浦の小髙清兵衛が、四国・西国・秩父・坂東の観音札所をすべて巡礼した記念に建てたもの。同じく楠見浦の小髙宗兵衛が嘉永6年(1853)に建てた廻国塔もある。

金比羅神社周辺エリア

(5)森田市之助碑

明治30年(1897)

 日清戦争で戦死した館山町出身の森田市之助を追悼する碑。

(6)秋山辰五郎之碑

明治36年(1903)

 日清戦争で戦死した海軍機関兵秋山辰五郎の碑。

(7)正木灯

大正5年(1916)

 船形町長を務めた正木清一郎が、水産業の発展につくした父貞蔵の死を悼んで、晩年の隠居所があった北下台に建てた照明塔。残っているのはその基台の部分で、かつては木の柱が立ちアーク灯が灯っていた。題字を書いたのは有名な書家小野鵞堂。

(8)栗山君之碑

明治24年(1891)

 山本高等小学校の訓導兼校長。25歳で没した。題字は千葉県知事の藤島正健による。

(9)金比羅神社手洗石

文化3年(1806)

 館山仲町と大神宮村の人が奉納したもの。

(10)金比羅神社石灯籠

昭和5年(1930)

 東京湾埋立株式会社の工夫たちが奉納。

(11)義勇碑

明治30年(1897)

 台湾平定に参戦した14名の房州出身者の顕彰碑。

(12)日露戦役記念碑

 明治39年(1906)

 日露戦争に従軍した約100名の名前が刻まれている。館山町恤兵会が顕彰。

(13)青木為治墓碑銘

明治19年(1886)

 神余出身。布良で教鞭をとっていたが21歳で没。篆額は元老院議官の柳原前光。撰文は旧長尾藩士の恩田城山。

(14)小御嶽碑

慶応2年(1866)

 楠見、下町、仲町、長須賀などの富士講中が奉納したもの。城山の浅間神社は、戦時中ここに移されていた。この石碑ももとは城山の中腹にあった。

(15)やぐら 室町時代

 岩壁を掘って作られた武士の墓。内部の壁面には五輪塔が浮き彫りにされ、納骨のための溝も見られる。

観音堂跡の墓地エリア

(16)館山観音御堂旧址碑

 安房三十四観音第三十一番札所の観音堂があったところ。関東大震災後に仲町の長福寺に移された。

(17)金近虎之丞墓

明治21年(1888)

 山口県士族の金近虎之丞は、転地療養に来た北下台に屋敷を構え、金虎亭という浴室尽の下宿を開いた。浴室は汐湯といい、湯銭をとって一般に開放された。

(18)堀口いさ・佐代子墓標

大正12年(1923)

 日本の近代彫刻の原点を築いた彫刻家・長沼守敬(1857~1942)によるレリーフ。大正3年(1914)、館山町上須賀に移り住み(上須賀青年館前)、晩年を過ごした。これは、親しかった近所の夫人と孫娘が、関東大震災で亡くなったのを悼んで制作したもの。

(19)勝山調句碑

文化11年(1814)

 勝山調(1762~1838)は沼出身の絵師で、神仏像や郷土の風俗などを数多く描いた。この碑は、片面に山調の句、もう片面に絵具皿丸という狂歌師による狂歌が刻まれているが、皿丸と山調は同一人物だともいう。

北側記念碑エリア

(20)関沢明清碑

明治33年(1900)

 捕鯨や遠洋漁業などの水産業に功績を残した関沢明清の顕彰碑。かつてはここに、関沢が捕まえたという鯨の頭骨が置かれていた。関沢は水産伝習所(現東京水産大学)に勤務し、晩年館山に住んだ。

(21)坂東丸船員殉難碑

明治43年(1910)

 千葉県水産試験場所属の坂東丸が銚子沖で遭難。11名が犠牲になった。

(22)順天丸遭難記念碑

明治36年(1903)

 房総遠洋漁業株式会社の漁船順天丸が朝鮮海域で沈没し、22名が遭難した。楠見の石工・俵光石が刻んだ。


制作:平成8年博物館実習生
監修 館山市立博物館

慈恩院

慈恩院(じおんいん)の概要

館山市上真倉字上藤井(うわふじい)にある曹洞宗の寺院で、藤谷山と号します。里見家代々の持仏堂として館山城内に創建したのが始まりで、天正9年に里見義康の弟玉峰和尚が、城内に祀られていた千手観世音菩薩と聖観世音菩薩を本尊として現在地へ移し、慶長8年(1603)に義康が没するとその菩提寺となり、義康を開基とする慈恩院になりました。天正19年(1591)に義康から持仏堂に宛てた朱印状が今も残されています。慶長年間には里見義康・忠義から正木村と沼村で15石の寺領を与えられました。塚を背にして義康の墓が建てられています。

(1)寺号碑

 市内在住の水墨画家岩崎巴人の書。大正6年東京生まれ。川端画学校を出て小林古径に師事。禅の思想に基づくユニークな作品が多い。

(2)坪野南陽(平太郎)の墓

 東京高等商業学校(現一橋大学)学長。静養のため北条に来住し安房の青年を薫陶。東京の安房育英会や安房中・安房高女の南陽賞を創設した。大正14年(1925)没。67歳。上部の地蔵尊像は地元の彫刻家俵光石の作。左にある小滝吉五郎は南陽を敬愛した安房中教諭。

(3)川名楽山の墓

 館山藩画学教授で、藩の勘定方も勤めた。沼村(市内)の名主家に生まれ、江戸の御用絵師狩野探龍に師事して日光東照宮の修繕にあたった。のち帰郷して館山藩に仕官。明治になって安房神社禰宜・館山町戸長を務め、地域で作画活動を続けた。明治25年(1892)没。61歳。

(4)山門跡と参道のケヤキ並木

 欅並木は先代潜龍住職縁故の軍人など12名による戦前の植樹で、後年樹ごとに記念碑が建てられた。近年解体された山門は文化元年(1804)、延命寺大工伊丹喜八の建築であることが梁の墨書でわかった。

(5)上藤井(うわふじい)遺跡

 境内を含む周辺が黒曜石の矢じりや縄文土器が出土する縄文遺跡。地下にサンゴ層が広がり、良質な水が豊富に出る地域である。

(6)石徳五訓

 永平寺73世の熊沢泰禅貫首(昭和43年没、94歳)による、石から学ぶ五つの教訓を表現した石碑。

(7)里見義康の墓と句碑

 天下人の秀吉と家康の時代に館山市の基礎を築いた館山城主里見義康の墓。慶長8年(1603)11月16日没、31歳。法名は龍潜院殿傑山芳英大居士。宝篋印塔の墓の裏に建つ「当山開基」の標柱と周囲の石垣は、明治42年(1909)の里見氏墓域整備のときのもの。右側に建つ句碑には整備に関わった正木貞蔵(号月舟)の句が刻まれている。

(8)陽刻五輪塔

 法木家の墓地にある中世の石造物で、南房総板碑と呼ばれる五輪板碑。鴨川方面特有の形式で市内では数少ない。戦国時代のもの。

(9)旗本川口氏家臣棚橋茂左衛門の墓

 義康墓域前にある。江戸中期に館山地区を領した2700石の旗本川口摂津守恒寿の家臣。館山勤番中の享保19年(1734)に没した。

(10)館山藩士代田(しろた)蓊(しげる)の墓

 代田蓊孝慈(たかなり)は明治8年(1875)6月6日に没した。人物像は不明だが、天保15年(1844)に在所詰郡奉行の代田隼登(はやと)がいる。

(11)館山藩士乙幡雲郭(おっぱぱうんかく)先生の墓

 乙幡家は館山藩家老職の家柄。通称淳介といい、幕末に藩公用人として『武鑑』に名が見える。儒学者として知られ、慶応4年(1868)に隠居して手習師匠を養成のため私塾を開き、教育振興に尽した。

(12)有無両縁群霊墓

 慶応4年(1868)戊辰7月10日、当寺20世が建立。明治元年(1868)の戊辰戦争に参戦した人々の供養塔のようである。

(13)稲葉家老女岸尾(きしお)の墓

 義康の墓を背に左手奥の鈴木姓墓石の中央にある。幕末維新期に館山藩主稲葉備後守正善の奥向に仕えた女性で、武州馬込村(大田区)の波多野家出身。明治2年(1869)8月没。法名は法運院到彼明岸大姉。

(14)吉祥院森川氏先祖代々の墓ほか関連墓石

 上真倉にあった真谷山吉祥院という朱印地10石の修験。寛元元年(1243)創建。明治9年に11世祐譲が死去して廃寺になり、大正4年に5世・6世・7世・9世・10世の墓石などがここへ移された。

(15)関西商人座古屋(ざこや)の碑

 江戸中期に新井浦で、押送舟7艘で鮮魚輸送を請け負った館山の代表的な魚商人座古屋清五郎家の墓地。江戸初期に摂州座古多村(大阪市西区カ)から房総へ進出した関西商人のひとりとされている。

(16)安房中学校初代校長狩野鷹力(たかりき)の墓

 安房中学校(現安房高校)の初代校長。在職12年。会津士族の出身で、昭和14年没。78歳。質実剛健・文武両道の校風を作った。

(17)館山藩士木下晦蔵(かいぞう)の墓

 戊辰戦争で脱藩して箱根・函館を転戦、五稜郭近くの高竜寺野戦病院の戦いで、明治2年(1869)5月11日戦死した。法号は智徳院忠厳賢斉居士。右側面に非業に死んだ夫を想う妻のぶの辞世が刻まれる。

(18)館山藩士高橋周行(ちかつら)翁の墓

 稲葉正己・正善に仕えて、勘定方・公用人・江戸留守居役などを勤め、新政府との交渉にもあたった。通称文平。明治32年没。77歳。

(19)大野太平の墓

 『房総里見氏の研究』『房総通史』などで房総の地方史研究の基礎を築いた研究者。岐阜県出身で、大正2年に館山へ移住。安房高女・安房水産学校などで教鞭をとった。昭和19年(1944)没、66歳。

(20)館山藩主奥方の墓

 明治2年(1869)12月に没した蓬仙院殿瑞雲養寿大姉は、稲葉家の奥方と伝えられ、丸に本文字の本多家家紋と折敷に三文字紋の稲葉家家紋が刻まれている。磐城泉藩(いわき市)本多家から来た三代稲葉正盛の妻だという。花立と線香立には館山藩士の名が並んでいる。

(21)鹿島堀跡と由来碑

 鹿島堀は館山城の外堀で、義康の時代に関が原の戦いの功労で鹿島(茨城県)三万石を加増され、鹿島領民が構築したものと伝えられている。幕府による館山城の破却で堀は埋められ一部が残るのみであったことから、後世に伝えるため昭和19年に、鹿島郡出身の東京高等商業学校教授峯間信吉撰文による鹿島堀由来碑が建てられた。

(22)泉慶院跡

 曹洞宗の寺院で、元亀2年(1571)に里見義弘による創建とされる。開基は義弘室の智光院殿(青岳尼)。元和8年(1622)に心巌淳泰和尚(義弘の子息梅王丸)が開山になったという。慶長期の寺領は破格の160石、徳川家からは7石余に減額された。本堂はなくなったが、墓地には3基の開山塔と、文政2年(1819)など2基の開基塔がある。


作成:ふるさと講座受講生
石井道子・岡田喜代太郎・加藤七午三・金久ひろみ・鈴木以久枝・山口昌幸・和田喜三郎
監修 館山市立博物館  

館山神社

館山神社概要

 館山神社は、大正12年(1923)の関東大震災で倒壊した館山地区の新井・下町・仲町・上町・楠見・上須賀にあった神社を合祀(ごうし)(複数の神様を集めておまつりすること)し、館山全体の鎮守として創建されました。合祀された神社は新井の稲荷(いなり)神社、新井・下町(しもちょう)の諏訪(すわ)神社、上町(かみちょう)・仲町(なかちょう)の諏訪神社、楠見(くすみ)の厳島(いつくしま)神社、上須賀(うえすか)の稲荷(いなり)神社・八坂(やさか)神社、御屋敷(おやしき)の稲荷(いなり)神社の7社、さらに境内末社として新井と上須賀の各稲荷神社が祀られています。

 震災の翌13年から各神社の氏子同士で合祀についての話し合いが行われ、合祀場所として現在の場所が用意されていました。そして大正14年(1925)頃には館山神社として認可されたようで、昭和4年(1929)に現在の社殿などが竣工しました。

境内の紹介

(*マークの語句には説明あり)

(1)社名碑(しゃめいひ)

 県道側からみて、まず目に入るのがこの社名碑。大きく『館山神社』と彫られています。神社の表札のようなもので、社号碑(しゃごうひ)とも言います。倒れた鳥居の柱を利用しています。

(2)鳥居

 館山築港の工事が無事にできたお礼として、東京の大滝工務店が昭和12年(1937)に奉納したものです。右の柱には『奉』、左の柱には『納』と大きく書かれ、裏には『東京品川 大瀧祐弘 外一同』と奉納者が刻まれています。鳥居は、中央の横向きの貫(ぬき)が左右の柱を貫通せず、断面が長方形の「靖国(やすくに)鳥居」と呼ばれるもので、各地の護国(ごこく)神社に見られる形です。

(3)手水石(ちょうずいし)

 この手水石(*1)は八角柱形で、一部埋まってはいるものの、元禄7年(1694)という古い時代に寄進されたことと、寄進者であろう人物の『藤本』という文字が確認できます。

(4)手水石

 地元出身の江戸大相撲力士で、引退後には廻船問屋として運送業で活躍した錦岩(にしきいわ)浪五郎(本名:森紋次郎)が、文政9年(1826)の十両昇進に際して新井浦の諏訪神社に寄進したものです。

(5)狛犬(こまいぬ)

 館山出身の彫刻家、俵光石(たわらこうせき)(*2)により製作され、大正6年(1917)に嶋田幸蔵により奉納されました。右の阿(あ)像には鶴、左の吽(うん)像には亀の彫刻がされています。

(6)槙(まき)の植樹記念碑

 2基で一対になっていて、合祀(ごうし)にあたり昭和2年(1927)に楠見の厳島神社から移した3本の槙の木を植えた際の記念碑。社殿に向かって右側の『奉』とあるほうは平成18年の祭礼で破損したため新しく再建されました。左側の池際のものは移植当時のままで正面に『献』と刻まれ、裏には槙の植樹に携わった楠見地区の人々の名前が刻まれています。またこの記念碑は鳥居を再利用して作られたもので、貫(ぬき)(鳥居の横の柱のこと)を差し込んでいた穴がみられます。下の方に見える江戸深川に住んでいた願主の鈴木某の名前は鳥居として奉納されたときのもの。

(7)依代(よりしろ)(*3)

 一辺が185cm程の正方形で一見砂場のようにも見えます。上町地区によって昭和15年(1940)に皇紀2600年を記念して奉納されました。隣接する記念碑は(6)の記念碑と同様に鳥居を再利用したことがわかる同じような穴が見られます。おそらく(1)と同じ鳥居だったのでしょう。

(8)力石(ちからいし)(*4)

 『田村』とだけ刻まれた丸型の石と『奉■ 四拾貫目 ●』と刻まれた細長い形をした石の2つがあります。細長い石の裏には逆向きに「大昌稲荷神社」とあり、かつて奉納されていた神社の名前と思われます。

(9)手水石

 上須賀の稲荷神社の手水石は正面から『奉納』の文字が見られます。右側面には奉納者の名前を示す『願主 楠見 石屋五左衛門』とあり、左側面には奉納された月日が「天保15年(1844)辰二月初午」と刻まれています。初午(はつうま)は稲荷神社を祀る行事が全国的に行われる日です。

(10)手水石

 下町の石宮がならぶ一画の手水石は、文政3年(1820)に庄司仁兵衛・中山勇助らによって奉納された手水石です。裏には江戸両国の石工滝口某が作ったという銘文が見られます。

(11)手水石

 新井地区の稲荷神社の社殿は平成8年(1996)に、鳥居は平成12年に新しく造られたものです。手水石はその際に新井地区の平成会・青年会・婦人会から寄贈されました。

ミニ辞典

(*語句説明)

*1 手水石

 参拝の前に手や口を洗い清めるための水を溜めておく石の入れ物のこと。手水石の置いてある建物のことを手水舎(ちょうずや)という。

*2 俵光石

 高村幸雲の弟子。東京美術学校で石彫教官として教壇に立ったこともあった。祖父の代からの石屋で、今もなお「俵石材店」として館山神社の隣で営業している。

*3 依代(よりしろ)

 祭礼のときに、神霊が降臨してくる際に、拠(よ)り所(どころ)となる場所。

*4 力石

 力試しに用いられた大きな石で、ほとんどのものが米俵(60kg)以上である。「貫(かん)」とは重さの単位で1貫は3.75kgに相当する。つまり四拾貫目は150kgとなる。また力石の中には持ち上げた人の名前が刻まれる場合もある。

旧  社  一  覧
旧社地社名江戸時代の管理者祭神
下町
新井
諏訪神社社家(しゃけ) 加藤数馬(下真倉)、
弊束(へいそく) 長福寺(仲町)
建御名方命
(たけみなかたのみこと)
上町
仲町
諏訪神社別当(べっとう) 長福寺(仲町)建御名方命
楠見厳島神社別当 観乗院(上須賀)市杵島姫命
(いちきしまひめのみこと)
上須賀八坂神社別当 観乗院(上須賀)素盞鳴命
(すさのおのみこと)
上須賀
新井
稲荷神社<上須賀稲荷>別当 吉祥院(上真倉)
<新井>?
倉稲魂神
(うかのみたまのかみ)
御屋敷稲荷神社天明3年(1783)
館山藩主稲葉氏勧請(かんじょう)
倉稲魂神

(注)社家:神職を世襲していく家柄  弊束:神前の供物を供える役目 別当:寺社の長官のこと

Topic

 平成20年(2008)2月25日に「新井の御船歌」が館山市の無形文化財に指定されました。御船歌は2月下旬の新年歌い初めのときと、8月1日・2日に行われる館山神社祭礼で、御船山車曳き回しのときと巡行先の各要所で歌われています。


<作成:平成20年度博物館実習生>
監修 館山市立博物館

城山

城山ガイド 歴史

「館山」の地名の由来になっている城山は、戦国大名里見氏の居城跡として知られています。実際に里見氏がここに住んだのは天正18年(1590)から25年ほどの間ですが、山麓からは、それ以前の室町時代のものである五輪塔や陶磁器も見つかっています。江戸時代に入ってすぐに、里見家の10代忠義が伯奢国(鳥取県倉吉市)に移されると、館山藩は廃藩となり、館山城も取り壊されました。その後江戸時代の末に、旗本だった稲葉氏が新たに館山藩をたてて、この地に陣屋を築きます。第二次大戦中には高射砲陣地となったため、山頂が削られ、周辺も破壊されましたが、近年城山公園として整備されました。

山頂周辺

(1)詩碑

 小高熹郎氏が作詞した「里見節」の詩碑。

(2)はらからの碑

 歌人佐佐木信綱(1872~1963)と館山出身の神作磯二(1890~1915)の歌二首を刻んだ碑。

(3)浅間神社

 城山を富士山にみたてて、富士の神様をまつったもの。弘化4年(1847)に富士講中が奉納した手洗石と、幕末の絵師渡辺雲洋が描いた龍の天井絵がある。

千畳敷

(4)機関銃座跡

 第二次大戦中に、火砲や機関銃が置かれた場所。丸く土塁をめぐらしてある。はらからの碑の裏にもコンクリートの砲座がある。

(5)海軍用地標柱

 第二次大戦中に軍の用地となった時建てられた、コンクリートの柱。2本ある。

(6)火薬庫用洞窟

 第二次大戦中に、弾薬を保管した。

義康御殿跡周辺

(7)姥神

 里見氏が館山を居城にする以前の、室町時代の五輪塔。中世のやぐらが崩れて埋もれていたところから、明治時代に掘り出された。同じ場所から陶磁器も見つかっている。

(8)煙硝倉庫

 江戸時代の末に館山藩が火薬類を保管した倉庫。

(9)堀切

 里見氏の居城だったころの空堀跡。尾根をV字に切って遮断し、敵の侵入を防いだ。

(10)義康御殿後

 館山を居城にした里見氏9代義康の御殿があった場所。発掘後、柱の跡に石を置いて目じるしにした。

館山藩陣屋跡

(11)貴美稲荷神社

 里見氏の館山藩が廃藩になった後、江戸時代末に館山藩主となった稲葉氏がまつった神社。

(12)釆女(うねめ)井戸

 里見家の家臣印東釆女の居宅で使用したと伝えられる井戸。

(13)館山藩陣屋跡

 天明元年(1781)に旗本稲葉正明が安房国で加増をうけて1万石の大名となり、館山藩をたてた。寛政3年(1791)、現在「御屋敷」とよばれる場所に陣屋が築かれ、明治4年に廃された。

根古屋の古墓

(14)根古屋の古墓

 (7)と同様の五輪塔が掘り出されたところで、里見氏が築城する以前の、武士の居住地域とされる。

孔雀園

(15)孔雀園

 この場所は新御殿跡とよばれるところで、最後の城主里見忠義の御殿跡。昭和10年頃から終戦まで海軍の施設や官舎があった。当時の軍用の洞窟が残されている。

切岸

(16)切岸(きりぎし)

 里見氏の館山城は平山城形式で、急斜面の崖を石垣のかわりに利用した。この部分は、岩盤を垂直に切り立てた人工の城壁。


制作:平成8年度博物館実習生
監修 館山市立博物館 

来福寺

来福寺の概要

(館山市長須賀46)

館山市長須賀にある真言宗のお寺で海富山医王院来福寺といいます。神亀2年(725)元聖(げんしょう)法印開基と伝えられています。墓域には大きなタブノキやクスノキなどがあり、また住職墓域や無縁墓地には室町期と思われる五輪塔の一部が見られます。本尊は境内のクスノキを使って彫られた薬師如来像です。薬師堂には室町中期とされている薬師如来像も安置され、地元では長須賀薬師と呼ばれています。安房国四十八薬師如来礼場の西口1番札所、安房郡札三十三観音霊場の第21番札所であり、また安房国八十八か所弘法大師霊場の第18番札所として多く人々の信仰を集めています。里見氏から真倉(さなぐら)村で高(たか)十二石の地を与えられ、徳川家からも同様に安堵(あんど)されました。また明治6年(1873)に小学校が置かれ(長須賀学校)、同23年(1890)北条尋常小学校に合併するまで続きました。

(1)手水鉢(ちょうずばち)

文久3年(1863)9月に法流六世(当院32世)宥承(ゆうじょう)の代に奉納された。世話人として往時の町の有力者、麹屋(こうじや)源平、上野主目(しゅめ)、池田屋金七、長屋源蔵など14人の名が刻されている。

(2)常夜灯

万延元年(1860)9月の建立。作者は大坂炭屋町の石工で、宮崎県や神奈川県など全国的に活動した御影屋(みかげや)新三郎である。

(3)薬師堂

昭和47年(1972)の再建。向拝(ごはい)の木鼻(きばな)獅子は千倉町白子の仏師石井一良の作。堂内に安置されている薬師如来像は旧本尊。西口薬師の本開帳は寅年、半開帳(中開帳)は申年の10月である。

(4)本堂

関東大震災で倒壊した後の仮本堂を、昭和28年(1953)に近くの上野医院の建材を譲り受けて再建した。向拝に安房郡札観音と安房八十八か所大師の御詠歌(ごえいか)が掲げられている。

(5)熊野大権現祠

石宮は明治42年(1909)の34世加藤學傳のとき、長須賀の島野源之助他8人が発起世話人として建立した。石工は長須賀の吉田亀吉。昭和58年(1983)の客殿建設により現地へ転移した。

(6)馬頭観音

長須賀村の清兵衛が施主となり、弘化3年(1846)に馬の死を悼みたてた供養碑。本来は人間救済の観音菩薩であるが、交通が不便だった時代の旅の安全を祈る意味ももっていた。

(7)庚申塔

寛政元年(1789)の建立。主尊に青面金剛(しょうめんこんごう)を彫り、「庚申待(こうしんまち)」を18回続けた記念に建てられた。庚申の日の夜に眠ると、身体から三尸(さんし)の虫が這(は)い出し、天帝に告げ口することで宿主の寿命を縮めると信じ、集(つど)って夜を明かした風習を庚申待という。

(8)大日如来

正徳5年(1715)に建立。台座に8人の施主名がある。大日とは「大いなる日輪」という意味で、生きとし生けるもの全てが大日如来から生じたとされる。大日如来は宇宙そのもの、森羅万象そのもので、他の仏は大日如来の化身とされている。

(9)後藤義光寿蔵碑(じゅぞうひ)

後藤義光は南房総市千倉町生まれの安房の代表的な宮彫師で、寺社や山車(だし)、神輿に多くの作品がある。門人の後藤兵三と後藤喜三郎が発起人となり、門人や友人が米寿を祝って明治35年(1902)に建立。義光の生い立ちや人柄、非凡な技量を讃えている。撰文は元長尾藩教授恩田城山(じょうざん)、題字は貴族院議員万里小路通房(までのこうじみちふさ)、書は豊房村長鈴木周太郎で、背面には門人一同と友人の名前が刻まれている。建立の年に88歳で没した。

(10)十王堂

十王とは罪を裁く閻魔(えんま)大王を筆頭とする十尊の王。閻魔大王の化身(けしん)である地蔵菩薩が来福寺十王堂の本尊である。明治5年(1872)に清澄寺の金剛宥性(ゆうしょう)が開いた安房国地蔵菩薩百八か所霊場の百一番札所であり、御詠歌の額が掲げられている。

(11)高橋孝民(こうみん)の墓

江戸時代中期に安房で活躍した出羽国(秋田県)出身の絵師。江戸へ出て鈴木南嶺(なんれい)に師事する。各地を歴遊した後安房に滞在し、病死した。文政13年(1830)没。享年35歳。 長須賀宝積院(ほうしゃくいん)で友人等に送られた。本名は辰五郎。画号は「蕗山孝民(ろざんこうみん)」。

(12)嶋野七郎の墓

海軍二等水兵で軍艦赤城の乗組員。昭和6年(1931)に作業中のロープ切断事故で事故死した。そのため赤城艦長の和田秀穂大佐が碑文を書いた。題字は北条町長の熊谷(くまがい)喜一郎。元内務官僚で初代樺太庁(からふとちょう)長官。昭和3年に北条へ移住し弁護士事務所を開いた。

(13)岩井久光の墓

生没年不詳の長岡(新潟県)藩士だった人物。柳生(やぎゅう)流剣術を学び、独自の剣道を生み出した。明治になり北条で道場を開き、多くの人々に剣道を教えている。老いて道場を閉める時に有志門人たちが久光を慕い、後世に名が残るようにと建てた碑である。

(14)撞木(しゅもく)供養塔

宝暦12年(1762)に長須賀の嶋野伊兵衛が施主となり、撞木(しゅもく)5600本の供養をした際の碑。この時の住職が24世宥長で嶋野家出身とみられる。撞木とは鉦(かね)を鳴らす時に使うT字形の棒のこと。

(15)日露戦役戦没者墓

日露戦役で戦死した陸軍歩兵一等卒鈴木常吉の墓。明治37年(1904)11月28日、旅順(りょじゅん)攻略戦のなかで二〇三高地攻撃の際、名誉の戦死を遂げた。享年22歳。

(16)上埜(うえの)氏歴世墓誌

上野家の由緒が裏面にある。里見氏改易で伯耆(ほうき)倉吉(鳥取県)へ随従した家臣の家柄。帰郷後に帰農する。享保期に才庵義明が江戸で医を学び、助明、知明、義泰、清泰、義寧、隆卿と代々医を業とした。明治4年(1871)に隆卿が母親の一周忌に建立した碑。

(17)上野良輔の碑

良輔清泰(きよやす)は幼少から新井文山(ぶんざん)の塾で学び、のち江戸の昌平坂学問所に学んだ。故郷で医業を継ぐも病を患い、文政8年(1825)26歳で死去。翌年父義泰(よしやす)が建立した碑。新井文山が文をつくり、文山の師であり書家の幕府勘定方の役人杉浦西涯(せいがい)が字を書いた。

(18)歴代住職墓域

墓地中央に30基の石塔がコの字型に配置されている。宝永3年(1706)の第18世頼詳以降の歴世の墓石が19基あり、第18世~44世までが確認できる。他は歴世の弟子たちの墓。寛文8年(1668)没の法印自勢の墓石が最も古い。第41世の智傳は昭和28年(1953)に本堂を復興した。

(19)巨樹

館山平野を南北に走る砂丘列のうち、来福寺は、海岸から数えて2番目の砂丘の南端に位置している。境内にある数本の大木は、砂丘に自生した樹林が保護されて残ったのも。主な樹木名と位置は境内マップを参照されたい。


作成:ミュージアム・サポーター「絵図士」
愛沢香苗・羽山文子・丸山千尋・森田英子・山杉博子2017.4.17作
監修 館山市立博物館 〒294-0036 館山市館山351-2 ℡:0470-23-5212

浜田・見物・早物・加賀名

なだらかな海岸線が美しい西岬地区北東部。縄文人の生活を伝える鉈切洞穴から足をのばして歩いてみましょう。

なたぎりエリア

(1) 船越鉈切神社(ふなこしなたぎりじんじゃ)(浜田)

 海神である豊玉姫命をまつった神社で、参道を登った奥に鉈切洞穴(県指定史跡)があり、この中に本殿がある。鉈切洞穴は、およそ二万年前の沖積世初期にできた海蝕洞穴。縄文時代は住居として使われたらしく、土器や鹿角製の釣針・銛、魚の骨や貝などが発掘されている。古墳時代に墓として利用され、その後信仰の場に変わった。鳥居から参道を入ると、右手の壁面にヤグラが見える。内部には宝塔が浮き彫りにされている。拝殿周辺には、元禄6年(1693)に領主の旗本・石川政住が奉納した灯籠や、集落内の別の山から移してきた浅間様の祠などがある。宝物として独木舟や、元禄10年(1697)に紀州漁民が奉納した鰐口などがあり(いずれも市指定文化財)、海の神であることを伝えている。毎年7月14~16日の祭礼では雨乞いの芸能であるかっこ舞(市指定文化財)が演じられる。

(2) 海南刀切神社(かいなんなたぎりじんじゃ)(見物)

 浜田の船越鉈切神社とは、かつてひとつの神社として信仰されていた。本殿の裏に2つに割れたような大きな岩があり、神様が浜から上陸したときに手斧で切り開いて道をとおしたという話や、紫ノ池に住む大蛇がわるさをするので、池から水を抜くために神様が鉈で岩を切ったなどといった話が残されている。境内にある灯籠は、長須賀の石工鈴木伊三郎が天保7年(1836)に彫ったもので、狛犬は、楠見の田原長左衛門が天保10年(1839)に彫ったもの。拝殿向拝にある龍や獅子の彫刻は、明治の彫工・北条の後藤忠明による。社殿内には、現代の日本画家・岩崎巴人画伯が描いた絵画もある。浜田と同様に、7月の祭礼でかっこ舞が演じられる(市指定文化財)。

(3) 鳩山荘(見物)

 元首相の鳩山一郎氏の別荘だったところで、昭和35年(1960)に国民宿舎としてオープンした。正面玄関脇に、旧鳩山邸の井戸が残されている。鳩山一郎氏の胸像もあるので、お見逃しなく。

見物エリア

(4) 孝子新四郎の碑(見物)

 太田新四郎は江戸時代の塩見の人。両親に対する孝行から、寛政7年(1795年)に領主から褒美を与えられた。ここは昭和57年に西岬小学校として統合されるまで、東小学校があった場所。

(5) 東伝寺(見物)

 曹洞宗の寺院。江戸時代は海南刀切神社の別当寺だった。本堂内陣の板戸に、幕末の北条の絵師・渡辺雲洋の松図があり、これと対になった板戸絵は、館山藩の絵画教授だった沼出身の絵師・川名楽山が明治18年(1885)に描いたものである。また日本画家の岩崎巴人画伯も、60枚の天井絵などを描いている。また墓地には、幕末に海岸警備を担当した白河藩士とその家族64名の供養塔がある。白河藩はのちに桑名(現在の三重県)に転封された。

(6) 西岬村役場跡(見物)

 明治22年(1889)に西岬村ができてから、昭和29年に館山市と合併するまで村役場があった場所。西岬の地名はこの明治22年以来のもので、香から坂井に至る14カ村が現在も西岬地区と呼ばれる。

(9) 金山神社(早物)

 早物の鎮守で、鉱山や金属技工の神様とされる金山彦がまつられている。境内に万延元年(1860)の手洗石がある。神社に隣接する観音堂には、文政8年(1825)銘の六十六部廻国供養塔がある。

加賀名エリア

(7) 阿弥陀堂(加賀名)

 別名キリシタン灯籠といわれる織部灯籠の竿部分が、お堂の中にまつられている。戦国時代の文化人として知られる古田織部が創案した灯籠の形であることからこう呼ばれる。竿部分が十字架に見えたり、浮き彫りにされた像をキリストやマリア像にみたてたり、あるいはローマ字を組み合わせたような彫刻がされていたりといった特徴から、キリシタンの礼拝物という説があるが、一般的には五輪塔が変化したものという見方がされている。現在は安産の神様として信仰されているが、県内では市川市のものとここの例しか確認されていない。

(8) 熊野神社(加賀名)

 加賀名の鎮守。境内にヤグラがあり、中に一石で作られた五輪塔がある。灯籠には嘉永2年(1849)の銘がある。


監修 館山市立博物館

金台寺

金台寺(こんたいじ)の概要

 館山市北条の南町にある浄土宗寺院で、正式には海養山龍勢院金台寺といいます。文明8年(1476)の創立と伝え、永正2年(1505)に鎌倉光明寺の学頭(がくとう)昌誉順道上人(享禄2年=1529年没)を迎えて開基としました。京都知恩院の末で本尊は阿弥陀三尊。館山城主里見義康のおじにあたる4世豪誉上人のとき、義康から寺領60石とともに、仏餉米(ぶっしょうまい)(仏に供える米飯)50俵が毎年与えられたそうです。徳川将軍家からも60石の朱印地を与えられ、門前の南町一帯は金台寺の所領でした。また6世檀誉上人の姉は徳川家康の内室であったことから特別の保護を受けたとされています。この当時の境内は二町四方で、堂宇の建坪は190余坪。7世正誉上人のときには浄土宗の房州一国の触頭(ふれがしら)として、安房国内の浄土宗寺院の行政的な管理をおこなうほどに隆盛し、塔頭(たっちゅう)2宇(専明院・要修院)、末寺7か寺のほか配下に5か寺を擁しました。触頭の地位は宝永年間に大網の大巌院に替わり、それからまもなく2宇の塔頭は廃されました。

(1)山門

平成13年に26世明誉覚道上人が建立した。山門から正面に本堂が見え、建物の調和がとれている。

(2)水準点

 土地の高さを測る基準となる点で、山門を入って右奥に設置されている。ここは標高7.6832m。

(3)第六天様

 地元の講で信仰しており、「第六尊天王」の額が掲げられている。第六天はインドのバラモン教のシヴァ神で、仏教の守護神。天界のうち欲界の最高位他化自在天(たけじざいてん)を支配する第六天魔王のこと。日本では修験者が信奉し、福神として民衆の間に広まった。地元では現在も10月20日頃に講が開かれている。寺ができる前からの地主神だといわれている。

(4)日露戦役忠魂碑

 2基のうち、右側は陸軍歩兵伍長石原金太郎の碑。明治37年2月に日露戦役に出征して各地を転戦、翌年3月の奉天(ほうてん)会戦で戦死した。享年28歳。題字は北条にいた伯爵万里小路(までのこうじ)通房、撰文と書は安房中学校教諭斎藤夏之助(東湾)である。左側は陸軍歩兵上等兵辰野清次郎の碑。明治37年3月に出征し、同年10月の旅順(りょじゅん)総攻撃の際に松樹山で戦死した。碑は兄清兵衛によって記されている。ともに北条の人。

(5)わらべ不動尊

 この堂には聖(しょう)観世音菩薩像とわらべ不動尊が祀られている。聖観音は徳川家康の内室良雲院殿天誉寿清大禅尼から贈られた秘仏で、慈覚大師の作と伝えられている。良雲院殿は武田信玄の娘で6世檀誉上人の姉とされている。わらべ不動は浄土宗の宗祖法然上人の誕生850年を記念して安置されたもので、法然の幼名勢至丸(せいしまる)の姿を不動明王になぞらえて鉈彫りの像として祀った。青少年・幼児の健全育成を祈願したもので、わらべ不動と称する。鴨川出身の木彫家長谷川昴(こう)の作である。

(6)名号(みょうごう)塔

 正面に「南無阿弥陀仏」の名号を刻む。天明3年(1783)、宮地氏が3人の近親と先祖代々の精霊を供養するために奉納したもの。施主の宮地氏は那古に進出した近江商人で、その一族が南町に支店を出していた。故郷へ帰るに当ってこの塔を建立したらしい。山門が建立されるまでは参道入口にあった。

(7)本堂

 25世深誉上人が檀信徒の協力を得て昭和46年に完成した。正面の須弥檀に本尊の阿弥陀如来と観音・勢至両脇侍(わきじ)の阿弥陀三尊を安置し、善導大師(中国浄土教の開祖)と円光大師(浄土宗の開祖法然)の像を祀る。その上には後藤義房作の天女の彫刻がある。向拝左側に掛かる額には円光大師二十五霊場の御詠歌が、「第六番北条金台寺 あみだぶと 西にこころは うつせみの もぬけはてたる 声ぞすずしき」と詠われている。

(8)本田存(ありや)先生の墓

 群馬県館林の生まれで、水府流太田派の水泳を極め、柔道は講道館八段。東京高等師範学校の生徒を率いて来房し、のち明治36年(1903)から30余年間北条に住んで学生の指導にあたって、安房中をカッパ中学と称されるまでに育てた、房州の水泳・柔道の開祖である。昭和24年(1949)没、享年79歳。北条海岸の東京高等師範学校寮(現筑波大学北条寮)で没し、安房水泳倶楽部・安房柔道有段者会・茗渓会(東京高師OB会)によって分骨埋葬された。本堂裏の井戸近くにある。

(9)千日念仏供養塔

 大津波による溺死者を寛文2年(1662)に供養したのではないかといわれているが確認はされていない。塔身の四面に南無阿弥陀仏の名号と経文が書かれて大勢の人の供養がなされ、「時に寛文2年正月25日 千日導師正誉上人」とあり、四面に749名の法名が刻まれている。

(10)義賊赤忠の墓

 「俗名赤忠(あかちゅう)墓」とある。赤忠は村々の金持ちばかりを襲って金銭・衣類・米を盗み、日々の生活が苦しい人々に盗んだ金品を恵んだことから「義賊」と評判になった。役人の探索にもかかわらずなかなか捕らえられなかったが、正木(那古地区)のワラ小屋に潜んでいるところを発見逮捕され、明治の初めに打ち首となった。岩糸村(旧丸山町)出身で本名は忠蔵、酒を好みいつも赤い顔をしていたという。

(11)水子地蔵

 台誉上人のとき、享保10年(1725)に順礼講中によって寄進された。

(12)如意輪観音坐像

 7世正誉上人のとき、寛文2年(1662)に観音講中によって寄進された。

(13)舟形光背の地蔵菩薩

 7世正誉上人のとき、明暦元年(1655)に北条村の念仏講中によって寄進された。

(14)庚申塔

丸石の正面に大きく「庚申講」とあり、文政9年(1826)に建立された庚申塔であることがわかる。

(15)万里小路通房の子の墓

 万里小路(までのこうじ)通房は明治天皇の侍従を務めた伯爵で、明治23年(1890)の退官後北条に移住して、昭和7年に没するまでの40年間に農業の近代化(野菜の促成栽培)と社会教化活動(安房大道会)に取り組んだ館山の先覚者。金台寺近くに屋敷があったことから、その間に没した子供たちの墓が建てられた。墓には通守(明治29年没)・津由子(明治35年没)・多美子(明治41年没)の名がある。

(16)行貝弥五兵衛父子の墓

 行貝(なめがい)弥五兵衛国定と子息弥七郎恒興の墓。正徳元年(1711)に安房北条藩領27か村の総百姓が、過酷な課税に抗して立ち上がった万石騒動のとき、義憤を抑えがたく百姓方を援助したため、三義民処刑と同じ11月26日に北条村北原で処刑された地代官親子である。弥七郎は弾七郎恒興や弥七正と紹介する文献もある。


作成:ミュージアム・サポーター「絵図士」 石井道子・岡田喜代太郎・加藤七午三・御子神康夫
監修 館山市立博物館 

鶴谷八幡宮

文化財ガイド 鶴谷八幡宮

安房国の総社で、もと三芳村府中にあったものが、鎌倉時代に現在地に移転したといいます。康応2年(1390)には安西八幡宮の名で資料に現れています。現在も9月のお祭りでは府中でお水取りを行います。その祭礼を「八幡のまち」といって郡内最大のお祭りで10社の神輿が集まります。
江戸時代から市がたち、今も農具市として続いています。

二の鳥居エリア

(1)小野鵞堂記念碑

 小野鵞堂(がどう)は文久2年(1862)静岡県藤枝に生まれ、7歳から12歳までを安房で過ごした。独自の書風「鵞堂流」を完成させた。書道研究会「斯華(このはな)会」を組織し、門人の育成と通信教育により書の普及に努めた。
 明治・大正時代を代表する書家である。

(2)征清記念之碑

 明治27年(1894)、日清戦争に安房郡から千人あまりが出征したことが刻まれている。

(3)日露戦争記念碑

 安房郡内から日露戦争に出征した兵士をたたえて建設された。

(4)忠霊塔

 日清・日露・太平洋戦争における館山市民戦没者慰霊碑。戦没者は各地区合わせて2876名にのぼる。
 昭和38年建立。正面の刻字は靖国神社宮司・筑波藤麿筆。

(5)神社震災復旧工事竣成記念碑

 大正12年(1923)の関東大震災で安房郡は大きな被害を受けた。昭和7年9月、神社の復旧作業はようやく完成する。

(6)水田三喜男銅像

 明治38年(1905)に安房郡曽呂村(現鴨川市)に生まれた。第二次大戦後、大蔵大臣として高度経済成長政策を推進した。城西大学・城西歯科大学を創設し、教育界にも大きな足跡を残した。

(7)安房先賢偉人顕彰之碑

 昭和10年(1935)ごろ、安房神社の宮司を中心に安房の先人で、模範になる人物を16名選んで顕彰したもの。
 その16人とは、
 伴直家主、菱川師宣、石井三朶花、奥澤軒中、山口杉庵、武田石翁、新井文山、加藤霞石、堀江顕斉、恩田仰岳、野呂道庵、鳥山確斉、鱸松塘、鈴木抱山、曾根静男、畠山勇子である。

(8)灯篭

 天明7年(1787)、神門(鳥居)と共に寄進された。
 鳥居は建て替えられて、今はない。
 地元の氏子の他、江戸に住む人々も寄進している。

社殿エリア

(9)神余備(かんなび)

 昭和8年(1933)から50年余りにわたり、八幡神社社掌を勤めた酒井泰二宮司の永年の功績を称えた石碑。
 太平洋戦争後の県神社界維持運営のために尽くした。

(10)鶴谷神殿重修記念歌碑

 文久3年(1863)、神社拝殿の再建が行われた際、その祝いの席で八幡村名主根岸定宣が詠んだ記念の和歌を刻んだ碑。

(11)八幡神社創立一千年式年大祭記念碑

 昭和51年、神社創立一千年を記念しての大祭の碑。
 本殿修復後、若宮八幡社復旧の工事の記載がある。

(12)報国者碑

 明治10年(1877)西南戦争での戦死者を悼む碑。
 表面には総数24名の、安房郡・平(へい)郡出身の兵士の名が連ねられている。明治11年4月に有志が建設。

(13)日露戦争の碑

 日露戦争での北条町の戦死者・戦病死者を悼んで建設したもの。戦死者115名、戦病死者10名の犠牲がでている。

(14)天水桶

 石製の土台と鋳物の桶本体とは年代が異なり、土台は推定で明治初期、本体は昭和47年3月謹製とある。

(15)狛犬

 文政3年(1820)寄進。長須賀の石工・鈴木伊三郎が製作。伊三郎の作品は、小塚大師にも残されている。

(16)手水(ちょうず)石

 文化14年(1817)、安房国南条村(現館山市)に住んでいた人々により寄進される。

(17)加藤霞石(かせき)の記念碑

 平群の医師で漢詩人でもあった霞石の経歴を載せている。明治3年(1870)に川田甕江(へいこう)が撰文している。

(18)安房神社遥拝殿

 安房神社の神輿がここに入る。

(19)御仮屋(おかりや)

 「八幡のまち」のとき、右から子安、高皇産霊(たかみむすび)、木幡、莫越山、山荻、山宮、手力雄、下立松原、洲宮の各社から神輿がここに集まる。

(20)鶴谷八幡宮社殿

 拝殿の向拝(ごはい)天井にはめ込まれた彫刻を「百態の竜」と呼び、安房を代表する木彫師後藤義光の作品。
 周囲にある木鼻の獅子や象もこの時の義光による作品。
 この神社には、刀「銘 守家」、棟札(むなふだ)などの文化財がある。
 本殿も館山市指定文化財で、江戸時代中期の建築。

(21)光明真言念誦(ねんじゅ)碑

 八幡の人々が光明真言(真言密教で唱えられる呪文の一つ)を一億回唱えた記念碑。

(22)廻国塔

 寛政5年(1793)に日本全国を廻国巡礼した人の記念碑。

(23)千灯院

 箱崎山と号し、真言宗智山派。府中・宝珠院末。本尊は薬師如来。鶴谷八幡宮の社僧が住した寺。

(24)若宮八幡社

 仁徳天皇を祀ってある神社。


作成:平成11年度実習生
/監修 館山市立博物館