その4 朝夷・安房郡コ-ス 

25番 真野寺(まのじ)

高倉山実相院真野寺
南房総市久保587(旧丸山町)

真言宗

千手観世音菩薩ご詠歌
「夜もすがら まのの入江の松風に おばなぞ見ゆる秋の夕暮」

 2月6日の「真野の大黒」で親しまれている。寺伝によると、奈良時代の神亀2年(725)に行基(ぎょうき)が開いたとされ、観音堂の本尊は行基作とされている。室町時代初期の作とされるお面をかぶり、ご開帳のときも素顔を拝むことができないことから「覆面(ふくめん)観音」と称されている。その左右には守護神として木造二十八部衆が安置されている。外陣(げじん)にある鎌倉時代の木造大黒天立像は関東地方に残る古像としては最大級のもの。本尊とともに県の指定文化財。この大黒天は平安時代の貞観(じょうかん)2年(860)、ここを訪れた慈覚大師が参籠中に朝日が昇るなか現れた大黒天を再現したと伝えられていて、「朝日開運大黒天」と呼ばれている。欄間{らんま}には竜が刻まれており、波の伊八と称された初代武志(たけし)伊八郎信由の作である。

26番 小松寺(こまつじ)

檀特山小松寺
南房総市千倉町大貫1057

真言宗

聖観世音菩薩ご詠歌
「小松寺と きいてたずねきて見れば ふしぎなるものおとおう(乙王)が滝」

 奈良時代の養老2年(718)に役小角(えんのおずぬ)によって創建されたといわれている。その後延喜(えんぎ)20年(920)に安房の国司小松民部正壽(まさとし)によって再建された。仁王門を入ると右手に観音堂があり、平安時代に造られた聖(しょう)観音菩薩像が安置されている。弘法大師の作と伝えられている。寺には中世以前の仏像が多く祀られ、鎌倉時代の銅造十一面観音菩薩坐像は国の重要文化財。本尊の木造薬師如来立像は平安時代の作で、県指定文化財。瀬戸浜で魚網にかかったお像だといわれている。梵鐘(ぼんしょう)も南北朝時代の作で、県指定文化財。鐘楼の木鼻彫刻は後藤義光の弟子後藤義信の作。ご詠歌にある乙王(おとおう)とは、小松民部正壽(まさとし)の子千代若丸の従者。寺の再建落慶法要の最中に千代若丸が天狗にさらわれ、平久里郷で変死したのを嘆いて乙王が滝に身を投げたという口伝がある。近頃は秋に紅葉狩りの人々でにぎわっている。平成20年に、霊場景観がちば文化的景観のひとつに選定された。

27番 住吉寺(すみよしでら)

中嶋山住吉寺
南房総市千倉町南朝夷1353

真言宗

正(しょう)観世音菩薩ご詠歌
「中嶋へ まいりて沖をながむれば いつもたえせぬ波のあらさよ」

 観音堂は左手急な石段を登ったところにあり、本尊は行基作と伝えられている。お堂の外陣(げじん)には江戸末期の百観音巡礼奉納額が掲げられている。この高台は古くは海中の岩上にあり、船で参拝したという。海中にあったころは中嶋と称し、その名が残って中嶋観音とよばれている。観音堂の裏側を流れている川までがかつては海岸線だったといわれ、今でも観音堂の下に船を係留(けいりゅう)したといわれる岩がある。境内には土佐與市(よいち)の記念碑がある。紀州印南(和歌山県印南町(いなみちょう))出身の「土佐與市」が、文化10年(1813)頃に南朝夷へ鰹節の製法を伝えたことで、千倉町が「安房節(あわぶし)」の発祥となった。本堂左手の洞窟の中に二十三夜尊(勢至菩薩)がある。これは明治の頃漁師が沖で漁をしていた時に網にかかり奉納したものである。観音堂の向拝(ごはい)には「後藤利兵衛橘義光70歳」の時の彫刻があり、南房総市の指定文化財になっている。

28番 松野尾寺(まつのおじ)

福聚山松野尾寺(自性院(じしょういん))
館山市神余4612

真言宗

聖観世音菩薩ご詠歌
「おもくとも つみにはのりの松のおじ 仏をたのむ身こそたのもし」

 松野尾寺は、室町時代の豪族神余(かなまり)景貞(かげさだ)の三回忌に、里人が岩崎台に建てた念仏堂にはじまる。文安5年(1448)に福寿山満福寺と改め、のち福聚山松野尾寺と改称した。本尊は文殊菩薩。境内に観音堂があった。大正12年の関東大震災で倒壊したため、地区内の来迎(らいこう)寺・安楽院とともに自性(じしょう)院へ合併された。室町時代中頃に神余地蔵畑の岩屋で家臣山下定兼(さだかね)の反逆に遭った神余景貞が自殺したとされ、これを供養した自性房がこの岩屋に自性院を創建したといい、岩屋が元禄大地震で崩れると現在地に移った。本尊は不動明王。平安時代中頃の阿弥陀如来坐像は市指定文化財。阿弥陀如来立像の体内にあった鎌倉時代の水晶製六角五輪塔形舎利塔(しゃりとう)は、全国で数例しかなく市指定文化財。境内にある明治8年(1875)の出羽三山碑は、四国霊場88か所と西国・秩父・坂東100観音霊場の188か所巡礼をした記念碑になっている。

29番 金蓮院(こんれんいん)

金剛山慈眼(じげん)寺金蓮院
館山市犬石379

真言宗

十一面観世音菩薩ご詠歌
「ずんといり 見あげて見ればひしゃく(飛錫)塚 ごくらくじょうどは犬いしのどう」

本尊:大日如来

 昔、伊豆から来た僧が犬に牽(ひ)かれてこの地へ来たが、犬が離れないので錫杖(しゃくじょう)を振ったところ、犬が消えたといい、そこに観音堂を建てたと言い伝えられている。本堂裏の岩山が錫杖を振ったところで飛錫塚(ひしゃくづか)と呼ばれている。堂は後年現在地へ移された。塚の上には、竜宮から上ったと伝えられる枕字石(ちんじいし)がある。また塚の端は享保(きょうほう)19年(1734)に一石に一文字ずつ経文を書いて19,500個埋めた経塚で、石書妙経塔がある。本堂の欄間(らんま)には、二間半(14尺)の立派な龍の彫り物があり、二代目武志伊八郎の銘がある。山門を入って左側に庚申塔があり、長須賀の石工鈴木伊三郎が刻んだ肉厚の青面金剛像は力強い。近くの犬石青年館にはかつて犬石権現が祀られていた岩と洞窟がある。鉈切(なたぎり)神社から僧が犬を連れて洞窟に入ったが、犬だけが出て石になった所で、犬石の地名のもとと言われている。

30番 養老寺(ようろうじ)

妙法山観音寺(通称:養老寺)
館山市洲崎1331

真言宗

十一面観世音菩薩ご詠歌
「かんのんへ まいりて沖をながむれば のぼりくだりのふねぞ見えける」

 洲崎灯台を過ぎると左手に御手洗(みたらし)山が道際までせまってくる。中腹には洲崎神社が望め神社のすぐ手前が観音寺で、子育て保育園が併設されている。ここ洲崎(すのさき)は東京湾の入口で、内房と外房の境目でもある。当寺の開祖は役行者(えんのぎょうじゃ)とされ、養老元年(717)の創建。本尊の十一面観世音菩薩は洲崎神社の本地仏(ほんじぶつ)であり、神社の社僧も勤めていた。堂の左奥には役行者の霊力で湧いた独鈷水(とっこすい)があり涸(か)れることがないという。右上の岩屋には役行者の石像が祀られ、里見八犬伝では役行者の化身が伏姫(ふせひめ)に仁義礼智忠信孝悌の文字が浮かぶ数珠を授ける名場面に登場する。観音堂の向拝(ごはい)彫刻は後藤義光の師匠・後藤三四郎恒俊(つねとし)の作。境内にある一本すすきや綿鍋(わたなべ)家伝説など、洲崎神社も含めて頼朝伝説が数多く残されている。

31番 長福寺(ちょうふくじ)

普門山長福寺
館山市館山928

真言宗

千手観世音菩薩ご詠歌
「かんのんへ まいりて沖をながむれば 岸うつなみにふねぞうかぶる」

 城山公園の北にある小丘「北下台(ぼっけだい)」に、神亀(じんき)2年(725)行基が千手観音菩薩像を安置したことに始まるという。元和・寛永・元禄の震災は免れたというが、関東大震災で倒壊し、再建されたものの昭和39年に館山仲町の長福寺へ移された。北下台の墓所中央には「館山観音御堂旧址」の碑が残されている。長福寺の本尊は不動明王。里見氏から慶長年間に真倉(さなぐら)村で6石の地を与えられた。寺伝では行基の創建で、中興開山は伝忠という。観音堂右の墓地には館山藩の御典医「宮川元斎(明治33年没)」の墓がある。観音堂裏の永代供養墓の中には「寄子(よりこ)萬霊塔(ばんれいとう)」がある。これは明治維新の戊辰戦争の際、箱根山崎の戦いに加わり異郷の地で亡くなった農兵たちの慰霊碑で、塔の裏には「鐘の音(ね)の落葉さみしき夕べかな」の句が詠まれている。

32番 小網寺(こあみじ)

金剛山小網寺
館山市出野尾85

真言宗

聖観世音菩薩ご詠歌
「はるばると のぼりてみれば小あみ山 かねのひびきにあ(明)くるまつかぜ」

 県道86号線、岡田口バス停から暫(しばら)く歩いて小網坂と呼ばれる急坂を登ると小網寺である。小網坂右手の谷は法華谷(ほっけやつ)と呼ばれる行場(ぎょうば)で、弘法大師も修業したと伝わる「やぐら」がある。仁王門をくぐり苔むした石段の上が観音堂で、聖観音像(市指定文化財)が祀られている。観音堂の左側には、お堂が元禄大地震の倒壊から復興なった記念に建てられた宝篋印塔(ほうきょういんとう)がある。下の本堂(本尊:不動明王)向拝(ごはい)にある安房の名工後藤義光が刻んだ彫刻は見事。小網寺は古くは大荘厳寺(だいしょうごんじ)と呼ばれ和銅3年(710)の創建、密教道場として安房の高野山といわれるほど栄えた。鐘楼(しょうろう)の梵鐘は国の重要文化財で鎌倉の名工物部(もののべの)国光(くにみつ)の作。伝説に、この鐘は海中から出現して平砂浦(へいさうら)に打揚げられ、撞(つ)いてみると響きが「小網寺へ」と聞こえたので寄進したとされ、平砂浦の布沼(めぬま)には鐘搗(かねつき)塚という地名があると言う。鐘の音はご詠歌にも詠まれている。

33番 観音院(かんのんいん)

杉本山観音院
館山市西長田372

真言宗

聖観世音菩薩ご詠歌
「ふるさとを はるばるここに杉本へ わがゆくさきはちかくなるらん」

 行基が聖観音菩薩像を刻み楠の祠(ほこら)に安置した事にはじまるという。後に天平(てんぴょう)6年(734)慈覚大師が堂宇を造営した。この観音像とお前立(まえだち)は平安時代の作で藤原様式の古い仏像である。天正時代に堂守が鎌倉で処罰されようとした時、聖観世音菩薩が助けてくれたという霊験(れいげん)が伝えられ「身代わり観音」と云(い)われている。観音堂向拝(ごはい)の龍は明治28年後藤義光の作で、飛天は明治34年のものである。寺号額は文化年間の浩然(こうねん)(下野(しもつけ)の国出流(いずる)観音満願寺の僧)の書。境内には室町時代の五輪塔や宝篋印塔(ほうきょういんとう)の笠があるほか、天保4年(1833)の石灯籠、享和2年(1802)の光明真言塔(宝篋印塔)、享保15年の御詠歌額がある。慶長11年(1606)に里見忠義から2石の寺領が寄進され、その時の朱印状も残されている。

番外 震災観音堂(しんさいかんのんどう)

震災観音堂
館山市北条2549-4

曹洞宗慈恩院境外仏堂

聖観世音菩薩ご詠歌
「あわやとて たつまなきまにきゆるみは おなじはちす(蓮)の花のうてな(台)に」

 関東大震災で未曽有(みぞう)の被害を受けた安房郡内では1206人の犠牲者を出した。死者の霊を慰めるために延命寺の佐々木珍龍(ちんりゅう)禅師が北条六軒町に創建した堂で、戦後現在地に移された。本尊は佐渡の仏師親松佛巌(ちかまつぶつがん)翁作。ご詠歌は震災で外孫を亡くした北条在住の万里小路通房(までのこうじみちふさ)伯爵が詠み揮毫(きごう)した。境内の石灯籠は北条の富士浅間(仙元)講中の百余名が慶応2年(1866)に寄進したもの。海運事業の発展に寄与した小原謹一郎の顕彰碑もある。謹一郎は私財を投じて館山の近代化に寄与した人物で、その父善兵衛は幕末から明治の初めまでに汐入川を改修し、右岸の沼地を埋め立てて水田とし「小原新田」と呼ばれていた。

その3 長狭街道丸郡コース 

8番 日本寺(にほんじ)

乾坤山日本寺
鋸南町元名184

曹洞宗

十一面千手観世音菩薩ご詠歌
「はるばると のぼればにほんの山おろし まつのひびきもみのり(御法)なるらん」

 本尊:薬師瑠璃光(るりこう)如来 薬師堂は平成19年に再建。日本寺は神亀(じんき)2年(725)聖武天皇勅願により行基(ぎょうき)が開き、七堂十二院百坊を持つ大寺であったという。昭和14年(1939)の火災で諸堂を焼失したが、観音堂と仁王門は火災を免れた。鋸山の景観は県の名勝に指定され、広大な境域には釈迦・薬師・大日の諸仏をはじめ大小の石像が数多く祀られている。特に千五百羅漢(らかん)群像は安永9年(1780)に高雅愚伝(こうがぐでん)和尚が発願したもので、上総桜井(木更津市)の石工大野甚五郎が刻んだ。十一面千手観音菩薩像は慈覚大師の作とされ、観音堂は元禄13年(1700)の造営。正面の扁額(へんがく)「円通閣」は天保頃の旗本曽根懶斎(らいさい)の書である。元は南麓の岩殿(いわぶ)山にあって、岩戸観音と呼ばれていた。日本寺は古くから文人墨客が訪れて詩碑・句碑が多く、大蘇鉄も見所。また鎌倉時代の元亨(げんこう)元年(1321)銘の梵鐘は国の重要文化財である。

9番 信福寺(しんぷくじ)

鹿峰山信福寺
鋸南町大帷子(おおかたびら)637

曹洞宗

如意輪観世音菩薩ご詠歌
「しんぷく寺 のぼりて岸をながむれば ほたのかわせにたつは白波」

 縁起によると平安時代の天安年間(857~859)に慈覚大師が草創したとされ、本尊の如意輪観音菩薩坐像は行基の作と伝えられる。戦国時代の弘治(こうじ)元年(1555)に野火の災いに遭い、寛文9年(1669)に村の名主高浜利盛(としもり)や斉藤昌詮(まさあき)など村民の浄財で三間四面の観音堂を再興し、さらに上総国鮎川(君津市相川)の見性寺(けんしょうじ)から本清和尚を招いて中興開山とした。和尚は延宝元年(1673)に京仏師の大蔵卿康為(やすゆき)を招いて如意輪観音菩薩坐像を再興している。この観音像は世間では「子授け観音」と呼ばれ信仰されている。堂内の格(ごう)天井には、県内でも珍しい易(えき)で使う算木(さんぎ)の絵が描かれている。これは必見。境内には正和(しょうわ)5年(1316)建立の弥陀(みだ)三尊種子(しゅじ)の武蔵式板碑(いたび)(町文化財)がある。安房地方では珍しいもの。なお、普段の納経所は元名(もとな)の存林寺である。

16番 石間寺(せきがんじ)

石間寺(東陽山小原寺)
鴨川市下小原374

真言宗

十一面観世音菩薩ご詠歌
「石のつま 峰よりおつるたきの水 むすぶこころはすずしかるらん」

 かつては嶺岡山系に連なる山の頂上にあったが火災で伽藍(がらん)を焼失し、その後観音台と称する場所に再興したという。江戸時代の元文年間にも火災があり宝暦年間に再建されたが、さらに明治33年の火災で焼失すると、同39年(1906)に同地の西福院(さいふくいん)と合併して小原寺(しょうげんじ)と改称し、翌年に再建したのが現在の観音堂である。お堂の向拝(ごはい)には龍の彫刻があり、作者は後藤義光の弟子で国分の後藤義信。小原寺(しょうげんじ)は真言宗に属し、本尊は不動明王(西福院)と十一面観世音菩薩(石間寺)。西福院の創建の年は不詳であるが、不動明王像は奈良時代の高僧良弁(ろうべん)僧正の作、十一面観音菩薩像は弘法大師の作とする伝承がある。良弁(ろうべん)僧正は、奈良時代の高僧の一人で、東大寺創建の中心人物。平塚の大山寺の創建者とも伝えられている。

17番 清澄寺(せいちょうじ)

千光山清澄寺
鴨川市清澄322-1

日蓮宗

十一面観世音菩薩ご詠歌
「ふきはらう 月きよすみの松風に はまよりおきにたつはしらなみ」

 本尊:虚空蔵菩薩 宝亀(ほうき)2年(771)不思議法師が自刻の虚空蔵(こくうぞう)菩薩をこの地に安置し、のち慈覚大師がこの像の前で21日間の修行を行って以降天台宗となった。戦国時代から度重なる火災や戦で寺は衰退するが、江戸時代の初め真言宗の僧頼勢(らいせい)が徳川家からこの寺を賜り再興した。十万石の格式があったが、明治初期の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)で再び衰退した。日蓮が12才で入山修行したことで知られ、建長5年(1253)に旭が森で初めてお題目を唱えて、日蓮宗の布教活動を始めている。そのため昭和24年(1949)に真言宗から日蓮宗に改宗した。観音堂の十一面観音菩薩像は行基の作であるという。境内には国指定天然記念物の大杉や県指定文化財の中門・宝篋(ほうきょう)印塔・石幢(せきどう)・梵鐘・経塚遺物や県指定天然記念物のモリアオガエル等多くの文化財がある。

18番 石見堂(いしみどう)

石見堂
鴨川市貝渚2261

真言宗

如意輪観世音菩薩ご詠歌
「石見堂 まいりて沖をながむれば ふねにたからをつむぞうれしき」

 正暦(しょうりゃく)4年(993)行基廻国の際、自作の観音像を安置し堂宇を創立したと伝えられている。はじめ西浜の海面に浮かぶ岩山にあったが、天保年間(1830~1844)に現在地へ移された。現在のお堂は明治15年(1882)に再建されたもの。観音像は戦時中に艦砲射撃を避けて、近所の女衆のリヤカーに乗せられて10㎞先の山中にある白滝不動まで疎開したそうである。北小町の佐生(さしょう)勘兵衛が奉納した享保15年(1730)のご詠歌額が掲げられている。向拝(ごはい)の龍彫刻は二代目武志(たけし)伊八郎信常のもの。境内には磯村の医師であり常盤連(ときわれん)を主宰した俳人尾崎鳥周(ちょうしゅう)の句碑や寛文12年(1672)建立の庚申塔(こうしんとう)、慶応元年(1865)奉納の手水(ちょうず)石などがある。眼下に鴨川漁港・鴨川松島などを臨み眺めがよい。石見堂は現在500mほど離れた金剛院の境外仏堂になっている。

19番 普門寺(ふもんじ)

補陀洛山普門寺(正文寺(しょうぶんじ))
南房総市和田町中三原270

日蓮宗

聖観世音菩薩ご詠歌
「ふもん寺へ ひばらまつばら分けゆけば めぐみも深き岩やなりけり」

 観音像は天平(てんぴょう)19年(747)行基の作と伝え、古くは字寺谷(てらやつ)の山中にあって岩戸観音と呼ばれた。岡本兵庫が寄進した懸造(かけづくり)の観音堂があったといい、天保15年(1844)に改築され、飛騨の石工仁兵衛が9年をかけて堂を巡る参道を整備し信仰を集めたが、江戸時代末に無住となって盗賊赤忠(あかちゅう)の一味が根城にしたことがあり、観音像は大正6年(1917)に正文寺(しょうぶんじ)祖師堂へ移された。普門寺への旧入口に宝暦4年(1754)の「壱拾九番普門 三原」の石柱がある。正文寺の本尊は日蓮聖人奠定(てんてい)大曼荼羅(だいまんだら)。当地の豪族真田氏の菩提寺として創建された禅宗の寺だったが、天正(てんしょう)2年(1574)に勝浦城主正木頼忠が父時忠の菩提寺として日蓮宗に改めた。境内には市指定史跡の中世のやぐら内の磨崖(まがい)五輪塔、正木氏由縁(ゆかり)の供養塔などがある。

20番 石堂寺(いしどうじ)

長安山東光院石堂寺
南房総市石堂302(旧丸山町)

天台宗

十一面観世音菩薩ご詠歌
「ただたのめ 千手のちかい両だすけ 二世(にせ)あんらく(安楽)をかけてたのめよ」

 1300年程前、奈良の僧恵命(えいみょう)・恵照(えいしょう)がインドの阿育王(あしょかおう)の仏舎利(ぶっしゃり)を携えて当地を訪れ草庵を結んだことに始まり、神亀(じんき)3年(726)に行基が自刻の十一面観音菩薩像を本尊とする堂宇を建立したという。仁寿(にんじゅ)元年(851)には慈覚大師が本尊前立を彫刻して百日間の護摩祈祷を行ったといい、以降信者が増え隆盛を極めた。文明19年(1487)に野盗の失火で全山焼失したが、当地の豪族丸氏や里見氏の援助で再建された。その時の本堂や多宝塔はじめ、本尊の十一面観音菩薩像と厨子(ずし)、薬師堂・庫裏(くり)及び旧尾形家住宅は国の重要文化財であり、他に県指定の山王宮、市指定の鐘楼(しょうろう)等が建ち並んでいる。多宝塔修復の際取り外した脇間彫刻は江戸後期の彫物師初代武志(たけし)伊八郎の作品で、現在は庫裏に保存展示してある。

34番 滝本堂(たきもとどう)

滝本堂(大山不動堂)
鴨川市平塚1718

真言宗

千手観世音菩薩ご詠歌
「ごくらくの みのりはここに大山の 千手のちかいなをもたのもし」

 かつて古畑(こばた)に所在した長徳寺が滝本観音堂の前身である。修験寺で、行基作の観音像を胎内(たいない)に納めた運慶作とされる観音像を安置する由緒ある寺院だった。鎌倉時代の貞永(じょうえい)元年(1232)に慈悲上人が安房の観音霊場を定め、滝本堂を34番納めの札所に選んだという縁起がある。大永2年(1522)、土豪の糟谷石見守(かすやいわみのかみ)家種が同寺を再興し、寺号を大永山普門寺長徳院と改め、千手観音菩薩立像を本尊とした。しかし明治を迎えて廃寺となったことから、昭和34年に観音像を大山寺へ移して不動堂の中に滝本堂として維持されている。中央はお不動様で左側が観音様である。大山は海抜219mで、長狭(ながさ)平野や太平洋が一望できる。大山寺は諸武将の崇敬を集めた山頂の高倉神社の別当で、ともに神亀元年(724)良弁(ろうべん)僧正の創建といわれる。本尊は鎌倉後期作の木造不動明王坐像で、向拝(ごはい)に波の伊八の龍の彫刻が施された不動堂とともに県指定文化財。不動堂裏の坂道には文和(ぶんな)2年(1353)造立の宝篋印塔(ほうきょういんとう)がある。

番外 観音寺(かんのんじ)

福聚山観音寺 鋸南町保田335

元は真言宗

聖(しょう)観世音菩薩ご詠歌「ありがたや まことの道に手引して ふかきえにし(深き縁)をむすぶみほとけ」

 縁起によれば、安房の太守(たいしゅ)里見義実(よしざね)が文明3年(1471)に祈願所として建立し、本尊として聖観音立像を安置したという。観音像は弘法大師の作と伝えられている。本寺であった真言宗円蔵院(南房総市千倉町)所蔵の文書に、「穂田(ほた)之観音寺分弐貫代」と記された天正18年(1590)の里見義康(よしやす)寺領安堵状(あんどじょう)がある。徳川氏からは元和(げんな)4年(1618)以来5石の寺領が与えられていた。後に保田の曹洞宗昌竜寺の境外(けいがい)仏堂になった。現在の堂宇は昭和30年(1897)に新築されたもの。番外札所となったことには観音霊場決定の集まりに遅れた「朝寝の観音」の伝説がある。堂内には初代武志(たけし)伊八郎の象鼻と獅子鼻の彫刻、境内には享保(きょうほう)年間の力士「雲の戸重右衛門」の墓や椎茸(しいたけ)栽培の指導者「鈴木初太郎」の碑などがある。

その2 北郡コース 

4番 真勝寺(しんしょうじ)

岩峰山(いわぶさん)真勝寺
南房総市富浦町青木173

真言宗

如意輪観世音菩薩ご詠歌
「はるばると のぼりて見れば真しょう寺 巡礼堂もたのもしきかな」

 奈良時代、光明皇后は行基(ぎょうき)に2体の如意輪観音像の彫刻を依頼し、1体は安産祈願のため奈良の帯解寺(おびとけでら)に、1体は難産救済のため立田川に流された。その1体が岡本(富浦)沖で発見され青木真勝(まさかつ)が引上げて、真勝寺を建立し観音像を安置したと伝えられている。如意輪観音は6つの手を持ち安産・火除(ひよけ)・厄除(やくよけ)の観音様として信仰され、当寺には安産の絵馬がたくさん奉納されている。石段の左手には樹齢600年、幹の周囲が2.8m程の犬槙(いぬまき)、右手には少し小振りの犬槙があり、「ア・ウンの細葉(ほそば)」と呼ばれている。石段の中ほどには室町初期と思われる五輪塔がある。慶安5年(1652)の六面塔は各面にそれぞれの仏具を持った地蔵菩薩(六地蔵)が彫られている。石段の手前にお地蔵様とお不動様が安置されている堂もある。観音堂の裏手には万治4年(1661)・延宝元年(1673)の住僧の墓があり、周りの崖には古いやぐらがみられる。

5番 興禅寺(こうぜんじ)

海恵山興禅寺
南房総市富浦町原岡275

臨済宗

十一面観世音菩薩ご詠歌
「寺を見て 今はさかりのこうぜん寺 庭のくさきもさかりなるもの」

本尊:釈迦如来

 興禅寺は鎌倉の円覚寺末で、里見氏や徳川氏から寺領を与えられていた。寺伝によれば貞和元年(1345)に夢窓(むそう)国師を開山として創建され、戦国時代に里見義弘の夫人(小弓公方(おゆみくぼう)足利義明の息女)であった青岳尼(しょうがくに)を開基としたが、やがて荒廃した。延宝3年(1675)円覚寺の拙翁碩松(せつおうせきしょう)が再興にかかり、孫弟子無外碩珍(むがいせきちん)の代になって本堂が完成した。観音堂は弘化2年(1845)深名村の喜兵衛が本願人、青木村・南無谷村の大工棟梁らにより再建されたもの。堂内の厨子(ずし)は宝暦3年(1753)建立。市指定文化財としては、拙翁禅師(ぜんじ)が延宝3年に建立した青岳尼百年忌供養塔がある。他に享保12年(1727)に建てられた地蔵菩薩像、本堂改築などを行った9世住職孝岳(こうがく)を称えて大正12年(1923)建立された孝岳塔などがある。

6番 長谷寺(はせでら)

海光山長谷寺
鋸南町勝山409

臨済宗

十一面観世音菩薩ご詠歌
「長谷寺へ のぼりて沖をながむれば にはま(仁浜)の浦にたつは白波」

 大黒山の麓に位置する法福寺横の急階段を登ると、通称「堂山の観音様」と呼ばれる長谷寺がある。寺の由緒によると、天平の時代、聖武(しょうむ)天皇が病気平癒を祈願して奈良長谷寺に十一面観音を祀り、鎌倉長谷寺にも行基が2体の観音像を彫り安置した。その内1体は足利尊氏が武運長久祈願のために帰依(きえ)し、当地が岩山であることから永遠不変と考えて、御朱印300石と敷地一町四方を寄進し堂宇を建て安置したという。その後、尊氏の意思を継いだ4代将軍足利義持が僧木鐸(もくたく)とともに応永13年(1406)に当寺を開創したとされている。その後不運にも3度も堂宇が倒壊したが、信仰と再興に励んで今に至っている。お堂の左には三猿を刻んだ山王社と、捕鯨の醍醐出刃組(だいごでばぐみ)が大正3年(1914)に海上安全と大漁を祈願して鎌倉から移した半僧坊(はんぞうぼう)が祀られ、境内左手の外れには元禄大津波の死没者供養のための海難記念碑がある。

7番 天寧寺(てんねいじ)

瑞雲山天寧寺
鋸南町下佐久間3180

臨済宗

千手観世音菩薩ご詠歌
「天ねい寺 きいてたずねてきて見れば いつもたえせぬまつ風の音」

本尊:釈迦如来

 建長年間(1220年代)に鎌倉幕府の評定衆二階堂隠岐入道行盛(おきにゅうどうゆきもり)が開創した律宗(りっしゅう)の寺だったが、文和(ぶんな)元年(1352)足利尊氏が禅宗に改め、里見氏からは寺領を賜ったと伝えられている。明暦元年(1655)の火災で堂塔を焼失したあと、宝永4年(1707年)、建長寺第一座白翁乾虎(はくおうけんこ)和尚の代に、背後の山上に観音堂を構え「正眼閣」と名づけて千手観音菩薩坐像を安置、浄財を集めて新しく石段108段を完成した。観音像は尊氏の時に中国の天寧寺からもたらされたもので毘首羯摩(びしゅかつま)の作といわれている。現在は本堂に安置されている。本堂は明治26年(1893)の建築である。仁王門は江戸末期に再建されたものだが、仁王像は運慶の作と伝えられている。掲額「房州古禅林」は山岡鉄舟の筆。境内には県指定天然記念物の柏槇(びゃくしん)の巨木があり、明暦の大火のあとを留めている。本堂南東方向には中世のやぐらがある。

10番 往生寺(おうじょうじ)

金清山往生寺(密厳院(みつごんいん))
鋸南町上佐久間1241

真言宗

聖観世音菩薩ご詠歌
「おうじょう寺 登りて見ればちしゅの花 いつもたえせぬのりのこえかな」

 寺伝によれば寛仁(かんにん)元年(1017)恵心(えしん)僧都が創建し、裏山の通称観音山の頂にあった。聖観音像も恵心僧都の作といわれている。ご詠歌の「いつも絶えせぬ法(のり)(読経)の声かな」からは栄えたことが伺えるが、やがて山頂の往生寺は廃されて観音像は、阿弥陀如来を本尊とする麓の密厳院に移された。密厳院は里見氏や徳川氏から寺領30石余を与えられ、かつては山門に向かって一直線に伸びる長い参道があった。現観音堂は明治2年(1869)、密厳院本堂脇奥に阿弥陀堂として建てられたもので、明治42年(1909)に現在地へ移築して観音像を安置した。堂内には不動明王坐像、享保(きょうほう)15年(1730)奉納のご詠歌額及び明治4年(1871)奉納の句額がある。山頂には住職墓地や光明真言(こうみょうしんごん)三千万遍供養塔が残されている。

11番 金銅寺(こんどうじ)

奇雲山金銅寺
鋸南町上佐久間1977

真言宗

聖観世音菩薩ご詠歌
「はるばると のぼりて見れば こんどう寺 はぎのはしらは五六千本」

本尊:聖観世音菩薩

 由緒によれば、和銅2年(709)に現在地より北方の小萩坂に行基が観音菩薩像を刻んで創建したという。その後荒廃し草原となってしまったが、弘安3年(1280)に僧玄助(げんじょ)が立ち昇った白雲を見て草むらを掻(か)き分けたところ金銅の聖観音像が現れ、ご詠歌にあるように萩(はぎ)を束ねて柱とし茅(かや)で屋根を葺き観音像を安置したとされている。文安5年(1448)に村人たちが力を合わせて堂宇を建立し崇拝して以来、地元民の力に支えられ現在に至っている。境内には町指定文化財で、寛政元年(1789)に大山(鴨川市)の鋳物師(いもじ)藤原忠直作の梵鐘(ぼんしょう)(願主は湯殿山講中)がある。戦時中供出されたが山梨県の長生寺にあることが判り、昭和58年に戻された。他に文政12年(1829)建立の出羽三山碑や光明真言供養塔などがある。

12番 福満寺{ふくまんじ}

富山諏訪坊福満寺
南房総市合戸569(旧富山町)

真言宗

福満寺観世音菩薩ご詠歌
「おもくとも かるくのぼれや富山へ 四方じょうどを見るもごくらく」

本尊:十一面観世音菩薩

 天平3年(731)行基により開創された。はじめは1合目の大房(おおぼう)というところにあり、地蔵堂・子安社・蔵王権現等が祀られていた。その後焼失・再建を繰り返し、元治(がんじ)元年(1864)現在地に本堂が再建された。かつて観音堂は富山(とみさん)山頂にあって享保14年(1729)に再建され、寛政元年(1789)には仁王門と仁王像(宮谷(みやのやつ)村大仏師渡辺馬之助の作)も建立されたが、昭和30年(1955)の失火により全焼し聖観音像は焼失してしまった。現在は福満寺本尊十一面観音菩薩が観音巡礼にご開帳され、山頂には仮堂が建てられて石造の十一面観音像がお祀りされている。また、山頂にあった仁王像は平成10年に福満寺の山門に移された。富山は標高349.5m。曲亭馬琴著の南総里見八犬伝の舞台で有名だ。参道入口には大正元年の登山道標があり、「ふもとに伏姫籠穴(ろうけつ)あり」と八犬伝が宣伝されている。

14番 神照寺(しんしょうじ)

朝日山神照寺
南房総市平久里中205(旧富山町)

曹洞宗(元真言宗)

十一面観世音菩薩ご詠歌
「朝日さす 夕日かがやく神照寺 たのみをかくる伊予のゆうだち」

 ご詠歌にある伊予ヶ岳は夕日がいつまでも照り映える雨乞いの山としても知られている。神照寺は伊予ヶ岳の麓にある。創建された時期は不明だが、文和(ぶんな)2年(1353)に平久里郷鎮守の天神社が細川相模守によって京都天満宮から勧請(かんじょう)されたとき、その本地仏(ほんじぶつ)である十一面観音菩薩像が安置され、隣接の神照寺が別当寺になったという。修験の寺であったため明治5年(1872)に廃寺となり、同14年に観音堂と十一面観音像は泉龍寺(平久里中)の管理となった。観音堂内の御詠歌額は享保15年(1730)奉納、境内右手には天保14年(1843)建立の「南無遍照金剛」の弘法大師供養塔がある。神社参道には市の天然記念物である夫婦クスノキと呼ばれる巨樹がある。手前は「女木」で樹高15m、神社寄りが「男木」で樹高25m、千年前に地元住民が植えたと伝えられている。

15番 高照寺(こうしょうじ)

大嶺山高照寺
南房総市山田1162(旧富山町)

曹洞宗

十一面観世音菩薩ご詠歌
「大杉へ きいてたずねてきて見れば ほとけのちかいあらたなるもの」

 十一面観音菩薩像は元来大椙山椙福寺(しょうふくじ)の本尊で、椙福寺の衰退に伴い一時平久里中(へぐりなか)・上の台にあった常光院へ移され、さらに大正3年(1914)、高照寺へ移されて現在まで安置されている。椙福寺の仏具として永享(えいきょう)3年(1431)の銘がある鰐口(わにぐち)も当寺に残されている。高照寺の入口には、嘉永6年(1853)に建立された高さ2m程の「国札所十五番大杉山」の石の標柱がある。別当(べっとう)浄光院(常光院)が建立したと書いてあり、この時期に札所が常光院に移っていたことがわかる。高照寺は長享(ちょうきょう)3年(1489)頃創立され、本尊は地蔵菩薩。牛の安産寺といわれる。境内には蓬莱(ほうらい)稲荷が祀られている。

番外 水月堂(すいげつどう)

水月山水月堂
鋸南町勝山409

千手観世音菩薩ご詠歌
「ありがたや 千手の糸をつずみ来て じひ(慈悲)のみもとで今ぞきるらん」

 大智庵本堂裏の山裾にやすらぎ地蔵の祠があり、横の階段を上がると水月堂が建っている。お堂は文和(ぶんな)4年(1355)の創建とされている。元禄16年(1703)の大津波で多数の死没者がでたとき、通称千人塚に供養されたが、捕鯨集団-醍醐組(だいごぐみ)でも、3代目醍醐新兵衛の兄弁之助や親戚などに犠牲者を出した。3代新兵衛明定(あきさだ)は、元文5年(1740)に死没者の冥福を祈るためと、危うく助かった父・祖父・自分達に対する仏の加護に感謝して、江戸の仏師に観音像造像を依頼し、初代新兵衛の墓がある大黒山の麓に水月堂を建て観音様を安置したのが現在の水月堂である。お堂の横には身代わり観音の石碑が建てられている。ちなみに勝山捕鯨の歴史は、里見水軍の血を引く世襲制の捕鯨集団である醍醐家の歴史であり、代々新兵衛を名乗った。

その1 平郡コース

1番 那古寺(なごじ)

補陀洛山千手院那古寺
館山市那古1125

真言宗

千手観世音菩薩ご詠歌
「ふだらく(補陀落)は よそにはあらじ那古の寺 岸うつ波を見るにつけても」

本尊:千手観世音菩薩

 那古寺は坂東33番観音札所の結願寺(けちがんじ)でもある。開基は行基(ぎょうき)。中興の祖は慈覚(じかく)大師。源頼朝、足利・里見・徳川氏より庇護(ひご)を受け、鶴谷(つるがや)八幡宮の別当寺でもあったが、明治維新で寺領は没収された。元禄の大地震(1703)で倒壊し、大正12年(1923)の関東大震災でも被災したが、その都度再建修理され、更に近年大修理されている。千手観音菩薩の由緒は、養老元年(717)元正(げんしょう)天皇の病気平癒(へいゆ)のため、行基(ぎょうき)が海中より上げた異木(いぼく)で千手観音像を彫り、祈祷により快癒されたことによる。本尊のほか国指定の銅造千手観音立像や、県指定の阿弥陀如来坐像・観音堂・多宝塔などの文化財がある。また境内には大蘇鉄(そてつ)や、「此(この)あたり眼に見ゆるもの皆すずし」「春もやや景色ととのふ月と梅」の芭蕉句碑をはじめ、忠魂碑その他の記念碑・顕彰碑や、元禄時代の石灯籠、その他石造物が数多くあり見逃すのはもったいない。裏山には自然林があり、山頂の「潮音台(ちょうおんだい)」からの展望は素晴らしい。

2番 新御堂(にいみどう)

潮音山新御堂
館山市亀ヶ原808-2

真言宗

聖観世音菩薩ご詠歌
「にいみどう みあげてみれば峰の松 くびこいつる(鶴)にかめいど(亀井戸)のみず」

 現在の新御堂は本来真言宗の秀満院境内地である。秀満院は大正12年(1923)の関東大震災により倒壊していたため、昭和42年(1967)に新御堂(にいみどう)が旧寺地から移転してきた。旧寺地は県道を挟んで反対側の山の中段にある。堂内には明治3年(1870)につくられた大きな大黒天像も祀られている。境内の宝篋印塔(ほうきょういんとう)は明和5年(1768)のもの。この周辺は蔵敷(ぞうしき)といい、律令時代の役所である国衙(こくが)などにいた下級役人「雑色(ぞうしき)」を意味する言葉が地名となったものであり、安房国府との関連が考えられる地域である。ご詠歌にある亀井戸が「亀ヶ原」の地名の由来といわれ、旧寺地には亀井戸が残されている。また文化年間の火災にかかるまでは、お堂へかぶるように「峰の松」があったと伝えられている。旧寺地には正徳4年(1714)の石造地蔵菩薩像が立ち、現在地への入口になる辻の六地蔵と同時につくられている。

3番 崖観音(がけかんのん)

船形山大福寺(通称:崖観音)
館山市船形835

真言宗

十一面観世音菩薩ご詠歌
「ふなかたへ 参りて見ればがけづくり 磯うつ波はちよのかずかず」

 「崖の観音」で有名な大福寺は船形山の中腹にある。断崖の途中に張りついて見える赤い舞台造りの観音堂の中に「崖の観音様」が刻まれている。寺の由緒では崖観音は養老元年(717)に行基(ぎょうき)がこの地へ来て崖に刻んだと伝えている。その後慈覚(じかく)大師により堂宇が建立されたが、承応(じょうおう)2年(1653)の火災により朱印状・寺宝等すべて焼失、正徳(しょうとく)5年(1715)に諸堂を再建したが大正12年(1923)の関東大震災によってまたも倒壊、同14年(1925)現在の堂宇を建立した。崖観音は平安時代の中頃に造られたと考えられる磨崖仏(まがいぶつ)として市の指定文化財である。船をふせた船底の形をしている船形山の観音様は、漁師などから海上安全の守護仏として信仰されてきた。船形では江戸時代から魚を江戸へ送っていたので、境内の灯籠などは魚河岸(うおがし)の魚問屋が奉納している。隣には船形の鎮守諏訪神社が鎮座しており、江戸時代までは大福寺が諏訪神社の別当を務めていた。堂の桁(けた)下には左甚五郎作といわれる十二支の彫刻があったが震災により損壊、現在は四支だけとなっている。堂の欄干(らんかん)越しの眺望はまさに絶景といえる。

13番 長谷寺(ちょうこくじ)

鳥数山長谷寺
南房総市下滝田486-1(旧三芳村)

真言宗

十一面観世音菩薩ご詠歌
「わけゆきて きたりて見ればにしのやつ(西ノ谷) 長こく寺とはめいしょ(名所)なるもの」、以前は「とりすやま おく(奥)わけゆけばにしのやつ ちょうこくじとはめいしょなるもの」

 由緒は不詳だが安房国三十四観音霊場の第十三番札所として知られ、口伝(くでん)によると僧行基(ぎょうき)の開基と伝えられている。当初は近くの観音山の山頂にあったが、弘化3年(1846)頃現在地へ移転されたという。現在のお堂は昭和63年(1988)に改築されたもので、中には享保15年(1730)の御詠歌額も残されている。境内には文政5年(1822)建立の光明真言塔や、寛政3年(1791)の「十三番札所道」と表示した石造の道しるべなどがある。

21番 智光寺(ちこうじ)

長楽山智光寺
南房総市山名1370(旧三芳村)

真言宗

千手観世音菩薩ご詠歌
「光明寺 のぼりのどけきはるの日に 山名のはなのちるぞおしさよ」

本尊:不動明王

 火災にあい由緒は不明だが行基の開基と伝えられる。石段を登ると正面に観音堂、右手に庫裏(くり)、左手に阿弥陀堂がある。口伝(くでん)によると千手観音はその昔三郡山(みごおりやま)と称する山中にあった無量寿山光明寺の本尊だったが、江戸初期の元和(げんな)の頃に堀の内観音山に再興され、元禄7年(1694)の住職智説(ちせつ)の時に智光寺境内へ移転、現在のお堂は宝暦13年(1763)に再建されたという。阿弥陀堂は安永4年(1775)に建築されたといい、参道入口には江戸中期頃と思われる仁王門がある。境内の手水(ちょうず)石は明治18年(1885)のものだが、水受けがひょうたん型なのがおもしろい。観音堂の裏には寺子屋師匠だった宥界(ゆうかい)大法師の墓があり、安政5年(1858)に山名や館山などの弟子たちによって建てられた筆子塚(ふでこづか)である。寺宝として市指定文化財の木造不動明王立像・木造阿弥陀如来坐像・木造金剛力士立像などがある。

22番 勧修院(かんしゅういん)

道場山勧修院
南房総市上堀35(旧三芳村)

真言宗

千手観世音菩薩ご詠歌
「朝日さす 夕日かがやくこの堂へ まいる人こそ仏(ほとけ)なるらん」

 観音堂は1km余り山奥のリョウガイ山と称する所にあったが、宝暦2年(1752)栄雅(えいが)の時に現在地へ移されたといわれ、跡地には今も観音堂の痕跡が残っている。旧観音堂付近には滝ノ上・鐘つき堂・稚児墓(ちごはか)などの地名があり、その昔の巡礼路(みち)が今も残っている。勧修院と呼ばれるようになったのは元禄の頃であるという。大正12年(1923)の関東大震災により諸堂は全壊したが、同14年12月に旧本堂と庫裏(くり)が再建された。平成2年(1990)に庫裏の新築工事が行われ、観音堂(現本堂)も平成20年に再建され、行基の作と伝えられる本尊の千手観音菩薩像や弘法(こうぼう)・興教(こうぎょう)両大師坐像、不動明王立像などが安置されている。なお旧本堂には大日如来坐像、向拝(ごはい)には木造の仁王像一対が安置されている。また観音堂を意味する「大悲殿(だいひでん)」の額は、地元光明(こうみょう)講中が明治期に奉納したもので金剛宥性(ゆうしょう)の筆である。境内には光明真言(こうみょうしんごん)五百万遍供養塔や、女性行者貞信尼(ていしんに)による天明8年(1788)の廻国供養塔などがあり、墓地には漢学者「中村時中(じちゅう)」や、力士で出来山(できやま)部屋第5代親方の「常盤戸(ときわど)文吉」、政治家で実業家の「中村庸一郎(よういちろう)」等の墓がある。

23番 宝珠院(ほうしゅいん)

金剛山神明坊神護寺宝珠院
南房総市府中687(旧三芳村)

真言宗

十一面観世音菩薩ご詠歌
「あま寺へ 参るわがみもたのもしや はなのお寺を見るにつけても」

本尊:地蔵菩薩

 宝珠院は、現在京都智積院(ちしゃくいん)の末寺だが、明治27年(1894)までは京都醍醐寺報恩院の末寺だった。創建は応永11年(1404)。開山宥伝(ゆうでん)の父が深く仏教に帰依(きえ)して、私財を投じて寺院を創り、宥海(ゆうかい)僧都を開基として招いて実乗院と称したのが始まりと伝えている。その後宝珠院と改めた。里見氏からは寺領275石余を給され、徳川氏からも203石余の寺領が安堵されている。江戸時代には安房真言宗寺院の触頭(ふれがしら)として国内281か寺を支配していた。また談林所(だんりんじょ)として安房国真言宗唯一の学問所でもあった。大正12年(1923)の関東大震災により山内諸堂が倒壊し寺宝の多くを失ったが、現在でも県指定文化財の仏像・絵画・工芸品3点、市指定文化財12点を所蔵している。大正大震災まで境内には4つの子院(しいん)があった。十一面観音菩薩像は、開山宥伝の母妙光尼(みょうこうに)が応永11年(1404)に子院の西光院本尊として安置したものであるといわれ、西光院を尼寺(あまでら)と呼んでいた。近年この像は鎌倉時代の徳治(とくじ)2年(1307)に仏師定戒(じょうかい)が制作したことがわかった。現在の観音堂は関東大震災で倒壊した仁王門の二階部分を用いて昭和8年に再建したもの。ご詠歌額は享保15年(1730)長狭郡北小町村(鴨川市)の佐生(さしょう)勘兵衛が奉納したもので、安房国札(くにふだ)観音の寺々には同人の額がよく残されている。

24番 延命寺(えんめいじ)

長谷山延命寺
南房総市本織2014-1(旧三芳村)

曹洞宗

十一面観世音菩薩ご詠歌
「平尾山 のぼりて見ればうどの原 出世はここに七夕の松」

本尊:虚空蔵菩薩

 延命寺は里見実堯(さねたか)を開基とし十代忠義までの後期里見氏の菩提寺である。寺伝によれば永正(えいしょう)17年(1520)に里見実堯が吉州梵貞(きっしゅうぼんてい)を師の礼をもって迎え開山にしたとされている。慶長年間には里見氏から217石余の寺領を与えられ、その後徳川家からも同様に保護されてきた安房曹洞宗の中心的なお寺。十一面観音像はもと平尾山大通寺の本尊で、当寺の裏山にあったという。裏山には天文の内乱で殺害され後期里見氏の家祖とされた里見実堯、里見氏の全盛期を築いた義堯(よしたか)・義弘(よしひろ)父子三人の墓所がある。県の文化財に指定されている板碑(いたび)も同墓域内にある。この板碑は里見氏とは関係なく鎌倉時代の有力者のものだが、板碑は安房地方には少なく貴重。参道入口にある里見氏旧跡の碑は、明治41年(1908)、安房の名士が中心となって荒廃していた安房郡内の里見氏墓域整備を行い、その翌年事業を記念して建てられた碑である。本堂内では毎年8月に地獄極楽絵図が公開されて多くの参詣者が訪れる。

安房国札観音

国札観音のはなし

世間の人々の悩める音(声)を観じて(聞いて)願いを成就させてくれるという観世音菩薩。慈悲にあふれる観世音菩薩は三十三の姿に身を変えて人々を救うといわれている。日本では平安時代の西国三十三観音霊場をその創始として、全国各地に三十三観音霊場がつくられ、現在も人々の篤い信仰を受けている。安房の札所は鎌倉時代の貞永(じょうえい)元年(1232)、ひとりの行脚僧(あんぎゃそう)が安房の地を訪れて山紫水明の観音霊地を選び、その宝前(ほうぜん)にご詠歌を納めて開扉(かいひ)し、諸人に結縁(けちえん)させたのがはじまりと伝えている。その頃関東一円では悪病が流行し飢饉に襲われて、人心不安から社会が混乱していたといい、こうした災害からの救済を観音に求めて西国三十三か所うつしの霊場が創設され、後に番外花山院(かざんいん)になぞらえて一か所がつけ加えられ三十四か所になったのだとか。安房の観音霊場を訪ねた中世の人々の霊夢を見たという小町村(鴨川市)の山口勘左衛門が、寛文7年(1667)に現在の御詠歌を作ったという縁起が残されている。安房国札(くにふだ)観音霊場のご開帳は、12年に1度の丑歳(うしどし)本開帳と午歳(うまどし)の中開帳(なかがいちょう)がある。開帳期間中は観音様のお厨子の扉が開けられ、ご本尊を拝することができる。