洲崎神社・養老寺

洲崎神社(すのさきじんじゃ)と養老寺(ようろうじ)の概要

(館山市洲崎1697,1331)

洲崎神社は館山市洲崎字神官免(じんがんめん)にあります。東京湾の出入口を見下ろす場所であることから、古来、漁師にとっての漁業神、船乗りにとっての航海神でした。祭神は天比理乃咩命(アメノヒリノメノミコト)といい、安房開拓神話に出てくる忌部(いんべ)一族の祖神天太玉命(アメノフトダマノミコト)の后神(きさきがみ)です。平安時代には朝廷から正三位の位を与えられ、源頼朝が伊豆での挙兵に失敗して安房へ逃れたときには当社に参拝して坂東武士の結集を祈願したことは有名な話。中世には品川・神奈川など東京湾内の有力な港町にも祀られました。例祭は8月21日。中世には修験が7か寺あったといい、江戸時代には社務所の県道寄りに別当寺を務めた吉祥院があって、神社の社領5石を管理していました。

 養老寺は神社に隣接する真言宗寺院で、正式には妙法山観音寺といい、江戸時代まで洲崎神社の社僧を勤めていました。養老元年(717)に役行者(えんのぎょうじゃ)を開祖として創建されたと伝えられ、本尊は洲崎神社の本地仏である十一面観世音菩薩です。境内にある石窟と独鈷水(どっこすい)は役行者との関係を伝え、曲亭馬琴の長編伝奇小説『南総里見八犬伝』の舞台としても知られています。また洲崎に多い頼朝伝説は当寺にも伝えられています。

(1)御神石

(1)御神石

 浜に祀られている長さ2.5mの丸みを帯びた細長い石は付近の岩石と異なる。竜宮から洲崎大明神に奉納された二つの石のひとつとされ、もうひとつは三浦半島に飛んでいったという。それは浦賀の西にある安房口神社にあり、先端に円い窪みがあることから「阿形(あぎょう)」にたとえられ、洲崎の石が口を閉じたような裂け目があることから「吽形(うんぎょう)」となり、狛犬のように東京湾の入り口を守るように祀られている。

(2)社名碑

(2)社名碑

 「一宮洲崎大明神」とあるのは、二殿一社とされる式内社の天比理乃咩命(あめのひりのめのみこと)神社が、洲崎神社を拝殿として一宮、洲宮神社を奥殿として二宮とされてきたことにより、別称「安房一宮」として尊崇されてきたことによると考えられている。碑は文政3年(1820)に吉祥院の別当(べっとう)賢秀が設置した。

(3)鳥居の大注連縄(おおしめなわ)

(3)鳥居の大注連縄(おおしめなわ)

 高さ約15mの神明鳥居に、長さ13mの大注連縄(しめなわ)が掛けられている。当地では毎年1月8日の朝に神社へ集まり、神賀会(じんがかえ)という仲間で大鳥居に掛ける注連縄をつくる。その注連縄の中央につける木札には「久那戸大神(くなどおおかみ)」とある。巷(ちまた)に立って災禍を防ぎ庶民を守る道祖神であると伝えている。

(4)敬神風化の碑

 関東大震災(大正12年=1923)と昭和大津波(昭和11年=1936)の両度の大災害にも屈せず、地区民が一丸となって、洲崎神社と栄ノ浦(えいのうら)・間口(まぐち)2漁港の復旧に尽力したことの顕彰碑である。総高3.5mの粘板岩。題字は玄洋社社主頭山満(とおやまみつる)の筆、撰文と書は明治大学教授で伝説学者の藤沢衛彦(もりひこ)。昭和12年建立で、発起人10人と漁業組合員47人の名が刻まれている。

(5)石灯篭

(5)石灯篭

 随身門(ずいしんもん)前に一対で置かれている。火袋(ひぶくろ)は日月型に開けられている。表面の剥落(はくらく)が著しいが、台座に寛政2年(1790)7月建立を示す文字が見える。

(6)厄祓坂(やくばらいざか)

 148段の急勾配の石段のこと。階段の中段と最上段の両脇にある2対のコンクリート柱は、御浜出する神輿が急勾配の石段を昇降する際に、神輿を支える危険防止の支柱である。坂の名は、急峻な石段を敬虔な気持ちでのぼり参詣することで、厄落としが出来るとして命名されたそうである。

(7)拝殿

 正面の扁額「安房国一宮洲崎大明神」は文化9年(1812)の奉納。房総の海岸警備の任にあった白河藩主松平定信の書である。拝殿内には潮の難所での航海安全を祈願して奉納された「潮のみち」の絵馬がある。

(8)本殿

(8)本殿

 神社建築としては唐様三手先(からようみてさき)の組物を用いているのが珍しい。木鼻や欄間の彫刻も見事で、江戸初期の本蟇股(かえるまた)も見られる。延宝年間(1673~1680)の造営とされるが、その後の大規模改修がみられる。市指定文化財。

(9)稲荷神社

 祭神は宇迦之御霊命(うかのみたまのみこと)で、五穀豊穣の神とされている。鳥居の右手に勧請の由来を記した石碑があり、安永元年(1772)に伏見稲荷大社の分社として別当の吉祥院が請来したことがわかる。

(10)洲崎神社の自然林

 本殿裏の御手洗山(みたらしやま)には、スダジイ・ヤブニッケイ・タブノキ・ヒメユズリハなどの常緑樹が自然林を形成している。昭和47年に県の天然記念物に指定されている。

(11)一本すすき

(11)一本すすき

 観音堂前の一群のススキのことである。源頼朝が洲崎神社へ参詣したおり、昼食時に箸(はし)の代用にしたススキを地に挿し、「わが武運が強ければここに根付けよ」というと、のち数茎に根付いたという伝承があり、土地の人は「一本すすき」と呼んでいる。

(12)森田三餘(さんよ)行徳(ゆきのり)の墓

 森田行徳(ゆきのり)は洲崎の人で、三餘(さんよ)はその号である。江戸末期から明治の初めにかけて自宅で寺子屋を開き、地域の子弟の教育に情熱を捧げた人。この墓は師匠の徳を偲んで、教え子たちが昔塾中として、明治28年(1895)に建立した。三餘の法名は楽誉水山仁寿居士。

(13)筆塚句碑

(13)筆塚句碑

 「菅(すげ)の間の 蝶や二葉を 植し棕櫚(しゅろ)」とある。作者「素水」は洲崎の渡辺家に生まれ、館山の医師鈴木正立家を継いだ人。文政5年(1822)に筆塚として建立した。

(14)独鈷水(どっこすい)

(14)独鈷水(どっこすい)

 観音堂の左裏手の山すそに、役行者の霊力で湧いたという独鈷水という湧水があり、旱天(かんてん)にも涸れることがないといわれている。

(15)手水石

(15)手水石

 上面がひょうたん型に刳(く)りぬかれている。施主は「吉郎兵衛・清五郎・九蔵・堅秀」とあり、安永7年(1778)4月の奉納。

(16)観音堂

 鬱蒼とした樹林を背に屋根に金色の宝珠が輝き、下見部分が朱塗りの観音堂。本尊の十一面観音は安房国札観音の三十番札所で、ご詠歌は「観音へ のぼって沖をながむれば 上り下りの 船ぞ見えける」。向拝に後藤義光の師後藤三四郎恒俊の彫刻が施されている。

(17)子育て地蔵

(17)子育て地蔵

 右手に幼い子を抱き、左手に宝珠を捧げ持つ半跏(はんか)地蔵尊。台座に願主・世話人各2人の名があり、寛政9年(1797)の建立とある。この「子育て地蔵」が「子育保育園」の名前の由来である。

(18)光明真言(こうみょうしんごん)百万遍塔

 光明真言は真言密教の呪文で、これを何万回も唱えると一切の罪業(ざいごう)が消滅するという。この塔は文化8年(1811)に近間孝治が百万遍を達成した記念のもので、裏面に「観音の きせい(祈誓)をここに立置て なむ阿弥陀へと 廻るすす玉(じゅずだま)」という歌がある。

(19)役行者(えんのぎょうじゃ)の岩屋

(19)役行者(えんのぎょうじゃ)の岩屋

 境内の岩肌に掘られた岩窟に役行者の石像が祀られている。奈良時代の人で修験道の開祖。妖術で人を惑わすとして伊豆大島に流罪になった。社伝では、養老元年(717)に大地変がおき境内の鐘ヶ池が埋まって鐘を守っていた大蛇が災いをおこしたとき、祈祷をして大蛇を退治したのが役行者だとしている。海上歩行や空中歩行の神通力を持つことから足の守護神され、岩屋の前には多くの履物が奉納されている。八犬伝では、役行者の化身が伏姫に仁義礼智忠信孝悌の八字が浮かぶ数珠を授けるという場面に登場する。

洲崎踊り

 8月21・22日の例大祭に奉納される踊りで、弥勒(みろく)踊りと鹿島踊りからなる。前者は左手に榊と幣束をつけたオンベ(御幣)と呼ばれる棒、右手には日の丸の扇をもち、太鼓や唄にあわせて踊るもの。後者は扇だけで踊る伝統芸能で、豊作豊漁・悪霊退散を祈願して行われる。昭和36年(1961)に県の無形民俗文化財に指定され、昭和48年には文化庁の記録作成等の措置を講ずべき無形文化財に選定されている。


 <作成:ミュージアム・サポーター「絵図士」
石井道子・井原茂幸・岡田喜代太郎・加藤七午三・中屋勝義>
監修 館山市立博物館 

光明院と諏訪神社

青龍山光明院と諏訪神社の概要

(館山市波左間599,639)

上:光明院 下:諏訪神社

 波左間(はさま)地区は、海岸線と丘陵に挟まれた狭い地形から「狭間(はざま)」と呼ばれた地で、縄文時代より海に関わり生きた人々の暮らしが営まれた漁村です。真言宗の青龍山光明院(本尊:不動明王)と波左間の鎮守諏訪神社(祭神:健御名方命(たけみなかたのみこと))に守られたこの地区は、かつては網漁で賑わい安房地方でも有数の漁獲高を誇っていました。漁師の信仰心は厚く、網漁の一株分が神社の維持管理費に充てられていたことが伝えられています。諏訪神社祭礼では国の記録選択無形民俗文化財の「みのこ躍り」を継承しています。凝灰岩(ぎょうかいがん)で出来た加工しやすい岩盤を開削してつくられた境内には、幾つもの岩窟(いわや)があり神仏が祀られています。下の段に光明院、上の段に諏訪神社が並んで鎮座していますが、江戸時代末の文久年間(1861~1864)の火災で同時に社堂を焼失したことがあります。光明院の創建年代は不詳ですが、本堂の地蔵菩薩法衣垂下(ほうえすいか)坐像は室町時代後期の作と推定 されています。

(1)六地蔵

(1)六地蔵

参道左手の岩窟(いわや)、境外墓地に向う道路沿い、境外墓地の中の3か所に六地蔵が安置されている。日本では六地蔵は墓地の入口などによく祀られている。道路沿いにある六地蔵の像高は約60cm。参道にある6体の六地蔵は約44cm。境外墓地の六地蔵は一石で宝暦3年(1753)の作である。お地蔵様は地域の境界に安置され悪病の侵入を防ぎ人々を守ると信じられており、子供達からも親しみを持たれている。

(2)延命地蔵尊

二体の延命地蔵尊のうち、左側の延命地蔵の蓮華座(れんげざ)には「念仏講」の文字が彫られている。坂田(ばんだ)との境にある浅間山(せんげんやま)の麓にあった地蔵尊で村境の道祖神(どうそじん)として祀られ、仏に救済を求める念仏講もあった事がわかる。昭和の初めに道路拡張に伴い現在の場所に安置された。

(3)青面金剛(しょうめんこんごう)像

(3)青面金剛(しょうめんこんごう)像

60日ごとにくる庚申の日の夜に眠ると、三尸(さんし)という3匹の虫が体を抜け出し、天帝に罪科を告げ、天帝はそれを聞いて人の死期を早めると信じられていた。そのため人々は講を作って集まり、夜を眠らずに過ごして健康長寿を願った。崇拝の対象である青面金剛は庚申の主尊である。頭に髑髏(どくろ)を戴(いただ)き、背後の手は輪宝(りんぽう)・三股叉(さんこさ)・弓・矢を持つ。前面左手はショケラといわれる女人の髪をつかみ、右手には剣を持つ穴がある。上部には日・月・足元左右には鶏、踏みつけられた邪鬼(じゃき)の下には三猿が描かれている。この像は、寺号碑裏の石段を登りきった所にある岩窟(いわや)に祀られていたが、お参りが大変なので現在の場所に移されてたという。

(4)光明院本堂の彫刻

(4)光明院本堂の彫刻

松や鶴の浮彫りを施した向拝虹梁(ごはいこうりょう)の上に、鋭い爪に長い胴、出っ張った丸い眼に大きく口を開けた頭部をもつ龍。木鼻(きばな)には獅子と象。肘木(ひじき)は波に亀。桁隠(けたかく)しに山鵲(さんじゃく)。堂を囲むように配した蟇股(かえるまた)などの彫物がある。文久年間の火災後に再建された際に作られたもので、初代義光(よしみつ)こと後藤利兵橘(たちばなの)義光が、明治元年(1867)、53才の時に制作した。寄進者として早川善兵衛など6名の名が刻まれている。なお、屋根の露盤(ろばん)には波の龍の鏝絵(こてえ)がみえる。

(5)大岡越前守家臣伊藤郡司の娘の墓

本堂裏手に名主佐野家の墓所があり、左端に天保14年(1843)2月に47歳で亡くなった「芳(よし)」の墓がある。碑文には三河国西大平藩(岡崎市)藩主である大岡越前守忠愛(ただよし)の家臣伊藤郡司の次女で江戸生まれとあるが、佐野家と彼女との関係については伝えられていない。

(6)白河藩士の墓

墓地の右手奥に10基の墓石が並び、その中に白河藩士の墓がある。文化7年(1810)、幕府より奥州白河藩に房総沿岸警備が命じられ、藩では波左間に陣屋(じんや)を置き500人を送り込んだ。親や妻子を伴って赴任した藩士も多く、文政5年(1822)までの約12年にわたる駐屯期間にこの地で亡くなった者も大勢いた。墓地の中央辺りにも2基の小さな幼児の墓があり、文化13年(1816)8月1日、2日と同時期に亡くなっている。白河藩士中部直方が建てたと刻まれている。

(7)首藤(すどう)金右衛門俊秀の墓

(7)首藤(すどう)金右衛門俊秀の墓

首藤金右衛門は白河藩の火術方で、藩主松平定信の命により、越後から鋳物師(いもじ)を招いて、波左間の陣屋で大小砲127門を作らせ、洲崎・百首(ひゃくしゅ)(富津)の砲台に備えた人物である。平砂浦で試射もしている。墓石から文化12年(1815)に69歳でこの地で没したことがわかる。

(8)元禄地震犠牲者の墓

(8)元禄地震犠牲者の墓

墓地の崖際の一面に古い墓石がまとめられている。その中のひときわ大きな墓石の右側に、「元禄十六癸未之天(みずのとひつじのとし)(1703)十一月廿二日?蓮成鎮各霊位」と元禄地震の日付が刻まれている。左側には「元禄十一年霜月十日海水底流各霊位」とある。この墓石は、元禄地震や水難事故により亡くなった人達を供養した墓石と思われる。

(9)狛犬(こまいぬ)と寄付者記念碑

(9)狛犬(こまいぬ)と寄付者記念碑

昭和2年(1927)に建立された「狗犬壹對(こまいぬいっつい)寄附者御芳名」の碑には、波左間漁業組合などの漁業関係団体・商店・船名・個人名が34組記され、8件ある商店名は、東京・横浜など県外の魚問屋と思われる。狛犬の乗る御影石(みかげいし)の台座には、奉納した「氏子中」「昭□二年六月吉日」と発起人2名の名前がある。1名は芳名碑にも記されている。

(10)諏訪神社の手水鉢(ちょうずばち)

正面に「奉納灌水(かんすい)」、右側面に「弘化二己巳(つちのとみ)(1846)夏五月良辰 神通(じんつう)従(したごう)書」、左側面に「江戸本船町(ほんふなちょう) 願主伊豆屋善兵衛」とあり、江戸日本橋の魚問屋による奉納とわかる。「灌水(かんすい)」の文字を書いた神通は、殿岡北海(とのおかほくかい)という富山藩士。9代藩主前田利幹(としつよ)に仕えた。江戸で国学者の清水浜臣(はまおみ)に学び、書に堪能だった人物。慶応元年(1865)没。

(11)諏訪神社拝殿の彫刻

(11)諏訪神社拝殿の彫刻

社殿は平成の再建で、向拝(ごはい)の龍と肘木(ひじき)は現代の彫工稲垣祥三の作。それ以外は旧社殿のもの。作者は特定できないが、安房後藤派の流れを汲んだ作で、木鼻(きばな)の振向き獅子は初代後藤義光の弟子後藤義信(よしのぶ)の作品と酷似している。虹梁(こうりょう)や火灯窓(かどうまど)の上の貫(ぬき)に彫られた若芽彫(わかめぼり)の菊は初代義光の作と思えるほど彫りが深く丁寧な作り。切妻(きりづま)屋根の懸魚(げぎょ)には波にクジラと思しき彫刻がある。

(11)諏訪神社拝殿の彫刻

(12)回国(かいこく)供養塔

境外の道路に面した崖面に彫られた岩窟の中に、六地蔵の右端に並んでいる。台座正面に「昭和四丁亥(ひのとい)(1767)天」、中央に「日本回国供養仏」とある。通常の大乗妙典(だいじょうみょうてん)六十六部供養塔とは異なり、「回国供養仏」と記され、塔身の上に地蔵立像が乗る。「行者空心」の銘があるが、生き倒れの六部(ろくぶ)の供養か、空心が供養したかは不明。台座・蓮華座・地蔵尊の石材は全て異なり、寄せ集めた可能性もある。

(13)三山碑(百観音供養塔)

正面に「月山、湯殿山、羽黒山」、右面に「西国、秩父、坂東百番観音供養塔」と「天保十二辛丑(かのとうし)(1841)二月」の年号が刻まれ、上に大日如来坐像が座(ざ)す。三山詣(まい)りは、仮の葬儀をして死出の旅として行うもので、出羽三山までは六道遍歴になぞらえて百観音霊場を巡り、三山で新しく生まれ変わって、行人(ぎょうにん)の資格である剣梵天(けんぼんてん)を頂き帰宅するまでの修行と信仰である。長い旅は3年を要した。行人の身代わりとして剣梵天を埋め供養塔を建てた。なかでも行人名のある三山碑は拝むだけで地獄、餓鬼(がき)、畜生(ちくしょう)の三悪道から永久に逃れられるという。三山碑は家族の墓地とは別に街道に面して建てられた。


作成:ミュージアムサポーター「絵図士」
刑部昭一・鈴木正・殿岡崇浩・中屋勝義・吉村威紀 2017.6.25作
監修 館山市立博物館 〒294-0036 館山市館山351-2 TEL:0470-23-5212

なたぎり

なたぎり神社とは

海南刀切神社前 巨岩

 なたぎり神社はふたつある。山側(南)の浜田区にあるのを船越鉈切(ふなこしなたぎり)神社、海側(北)の見物 区にあるのを海南刀切(かいなんなたぎり)神社という。船越鉈切神社の本殿は洞穴の中に建てられ、海神の御子・豊玉姫命(とよたまひめのみこと)を祀る。海南刀切神社の本殿は、高さ約10mの真っ二つに分かれている異様な形の巨岩の前に建てられている。この巨岩が二つに割れていることについては、対岸相模から来た神による大蛇退治の伝説などが伝えられている。 両社は鉈切大明神の上之宮と下之宮として一社一神とみなされ、互いに分かちがたく、海の神・海上安全の守護神として船乗りたちに崇敬されてきたようである。例祭は両社ともに毎年7月14日・15日に執り行われる。

海南刀切(かいなんなたぎり)神社

(館山市見物788)

(1)石灯篭(いしどうろう)

(1)石灯篭(いしどうろう)

 長須賀村の石工鈴木伊三郎が、天保7年(1836)に彫ったもので、見物村の氏子が奉納した。

(2)日露戦争記念碑

(2)日露戦争記念碑

 西岬村から日露戦争に出征した人たちの名を刻んだ記念碑で、元帥大山巌の揮毫文字。陸軍118名、海軍16名の名がある。関東大震災で倒れて大正15年に建て直したが、昭和7年の暴風雨で再度倒れ、昭和10年に在郷軍人会と国防婦人会の西岬分会が再建している。

(3)力石(ちからいし)

(3)力石(ちからいし)

 その昔、見物村の屈強の若者達がこれを持ち上げて力くらべをし、諸願成就を祈願して当社に奉納したもの。船越鉈切神社入口にも3つある。

(4)手水石(ちょうずいし)

(4)手水石(ちょうずいし)

 神に参拝する前に口や手を清めるための手水舎がある。流水を満たした水盤は文化9年(1812)に奉納されたものである。

(5)狛犬(こまいぬ)

(5)狛犬(こまいぬ)

 天保10年(1839)、楠見村(館山市館山)の石工田原長左衛門が江戸京橋の彫工兼吉とともに彫ったもので、神社の魔よけとして見物村若者たちが奉納。台座には左の狛犬に白虎と朱雀、右の狛犬に青龍と玄武の四神も彫られている。

(6)拝殿(はいでん)

(6)拝殿(はいでん)

 礼拝するための拝殿の周囲には、たくさんの彫刻がほどこされている。竜や獅子のほかに、天岩戸開きの図やヤマタノオロチ退治の図、孝子の図などもある。作者は北条村の後藤忠明一派で、明治16年頃のもの。

船越鉈切(ふなこしなたぎり)神社

(館山市浜田376)

(1)石灯篭(いしどうろう)

(1)石灯篭(いしどうろう)

 常夜灯として参道入り口の両側に1対で奉納されている。文化10年(1813)霜月吉日に、浜田村の江川与七らが願主として中心になり、館山湾岸から太平洋岸の北朝夷(千倉町)に至る50以上の海付の村々と漁師たちの寄進によって建てられた。石工は北条の加藤伊助。

(2)鎌田万次郎君之碑

(2)鎌田万次郎君之碑

 明治33年(1900)の義和団事件(北清事変)で北京に出兵し戦死した、西岬村坂田出身の鎌田万次郎の記念碑。海軍二等水兵。享年23歳。碑は伯爵万里小路通房の篆額、安房郡長江口英房の撰文。書は元長尾藩士で書家の熊沢直見。明治34年に建てられた。

(3)やぐら

(3)やぐら

 鎌倉や房総半島で、鎌倉時代中期から室町時代にかけて数多くつくられた武士階級の墓である「やぐら」がふたつ並んでいる。一方には宝塔の形が浮き彫りにされていて、地元では長者夫婦の墓と伝えられている。

(4)手水石(ちょうずいし) 

(4)手水石(ちょうずいし) 

 安政2年(1855)に、名主竜崎善兵衛らを世話人にして、地元の若者たちにより納められた。

(5)石灯篭(いしどうろう)

(5)石灯篭(いしどうろう)

 元禄6年(1693)に、浜田村領主の旗本石川八兵衛尉政往が奉納したもの。1対の片方だけが残されているが、火袋がなくなっている。

(6)鉈切洞穴(なたぎりどうけつ)

(6)鉈切洞穴(なたぎりどうけつ)

 およそ2万年前に自然の営みでつくられた海食洞穴。館山湾に面した標高約25mの海岸段丘にあり、洞穴の入口は高さ(最高所で)4.2m、幅5.85m、奥行36.8mと大きい。縄文時代に洞穴住居として使用されていたことが発掘調査でわかっている。古墳時代には一部が墓所として利用されていた。その後は海神を祀る神社として地元漁民の信仰をあつめ、現在に至る。県指定史跡。

その他の文化財

独木舟(まるきぶね)

 館山市指定文化財。この舟が当社に奉納されていることは、すでに水 戸徳川光圀の大日本史に記載され、明治27年に歴史家の岡部精一が調査したのをかわきりに、西村真次・松本信広ら戦前の研究者も調査しており有名である。しかし出土品でないため年代の断定がむずかしく、由来についても古来より諸説紛々である。長さ219cm。

鰐口(わにぐち)

 館山市指定文化財。刻まれた銘文から、元禄10年(1697)に紀州栖原の鯛網漁師で房総に出漁していた芦内佐平次らによって寄進されたことがわかる。作者は江戸神田鍛冶町の鋳物師中村喜兵衛。

かっこ舞

 館山市指定文化財。毎年7月14日・15日の例祭の日に両神社で奉納される獅子舞で、雨乞いのための儀式とされている。ちなみに見物の獅子頭は赤で、浜田の獅子頭は黒。


平成15年度博物館実習生制作
監修 館山市立博物館

鷹の島

高の島

(館山市館山1562)

元は海に浮かぶ島だったが、館山海軍航空隊基地の埋立て造成により、今のような陸続きの地形になった。
 安房の表玄関である館山港を見下ろす高の島にある鷹之島弁財天は、平安時代に祀られたと伝えられ、昔から漁師や船乗りたちの信仰を集めている。歴史的には「高の島」と書くが、文学的に「鷹の島」と表現された文字が、現在では通用している。

(1)鳥居

(1)鳥居

 神社の参道にあって神域入口を示す。これは昭和54年10月のもの。

(2)植樹記念碑

(2)植樹記念碑

 鷹之島弁天閣は、平安時代の嘉保年間、当時国守だった源親元によって祀られたが、長い間荒廃していたのを残念に思った館山湾沿岸の網主たちが、再び信仰を深めるために、大正10年、マテバシイ300本、杉50本を植えたことを記念して建てられた記念碑。この樹木は漁師にとって魚付林の役目を果たした。

(3)石燈籠

 明治33年に建てられた。夜間の歩行安全を目的としたもの。

(4)波切不動尊手水石

 神社や寺を参拝するとき身を清めるために置かれる。明治33年に奉納されたもので、裏側の銘文には、11人の盲人中によって奉納されたことが刻まれている。

(5)碇(いかり)

(5)碇(いかり)

 危険な航海において、漁師や船乗り達の間で「碇を下ろす」ことによって、無事にまた帰ってこられるようにと願う信仰でもあったのだろうか。脇にある「浮きで作られたカエルのような置物」も、無事に「かえる」ようにと作られたのだろうか。不思議な奉納物がある。

(6)波切不動尊

(6)波切不動尊

 波切不動尊とは、航海の安全を祈る不動明王である。ここの不動様は戦前に洞窟の中に倒れているのを発見され、見つけた人が毎日お参りしたところ、戦争で命が助かったというエピソードがある。その後、昭和26年5月に現在の場所に移された。

(7)狛犬

(7)狛犬

 神様を守護するもの。元々エジプトの神殿や墓、インドでは仏像の前に置かれたライオンが原形で、中国に渡って獅子となり、日本で狛犬に変化した。この狛犬は昭和11年当時に、館山海軍航空隊に所属していた海軍大尉の親族が奉納した。

(8)大正地震記念碑

(8)大正地震記念碑

 関東大震災(大正12年9月1日M7.9)で大きな被害を受けた館山湾周辺の人々が、震災被害を永遠に人々の記憶に残すために、大正15年に建てた高さ4mの巨大な石碑。題字は貴族院議長で大震災善後会の会長を務めた徳川家達、撰文は千葉県知事の元田敏夫。

(9)戦没者慰霊碑

 第二次世界大戦中、全国の高等工業学校専門学校及び大学理工系卒業後の若者達が、館山の洲ノ埼海軍航空隊に入隊した。海軍兵器整備予備生の教育訓練課程就業期間を卒業すると、任務地に赴くが、武運に恵まれることなく多くの若者が戦死した。平成2年に兵器整備予備学生の同志達がこの碑を建立した。89名の戦没者名が刻まれている。

(10)飛行機の彫刻がある手水石

(10)飛行機の彫刻がある手水石

 側面に航空機の彫刻がなされているこの手水石に使われた石の由来にはこんな話がある。江戸初期、江戸城外堀の石垣用として海路24個の大石を積んで江戸に運ぶ途中の千石船が暴風に遭い、高の島の島陰に逃れたが、不幸にも大波に呑まれて沈没してしまった。昭和5年に館山海軍航空隊創設の際、海中から引き揚げられた。昭和10年奉納。

(11)狛犬

 昭和32年に行われた大祭の時、市内に住むとある女性が納めた狛犬。

(12)玉垣(たまがき)

(12)玉垣(たまがき)

 瑞垣(みずがき)ともいって、神聖な領域を区分するため、特に神社の周りに巡らせた垣根のことを言う。現在ある玉垣は、昭和34年5月に作られたもので、石柱面の文字は、当時の県議高橋祐二の協力で、柴田県知事が筆をふるっている。沼の栄洗寺住職藤田日志(昭和24年弁財天復興者の一人)を中心に、地元の漁師や茨城・伊豆・三重、遠くは宮城・土佐の漁師等からの寄進によって建てられた。海上の守り神として、地元だけでなく遠方からの信仰も受けていたことが伺える文化財である。

(13)岩舟

(13)岩舟

 向かって左側の狛犬の所に石の船が置かれている。これは岩舟と呼ばれるもので、安房地方の漁業者の間では海上安全と大漁祈願の対象として信仰されるものである。

(14)鷹之島弁天閣

(14)鷹之島弁天閣

 平安時代、安房守源親元がお寺を建てる土地を探していたところ、老翁が夢の中に現れ、「獅吼山が良いでしょう」と告げられた。後に親元が館山の柏崎を通った時、獅子の頭に似た岩を見て、夢で見た場所はここだ!と寺を建て、獅吼山視眼寺と名づけた。夢に出てきた老翁は宇賀神の神霊であったというので、御礼のために沖の島に宇賀明神、高の島に弁財天を祀ったというのが始まり。昭和初期に、高の島の一部が航空隊の用地となったために、参拝者の出入りが不便になり、昭和10年4月に北下台の公園に社殿を造営し遷座した。再び現在の高の島に戻って来たのは、終戦後の昭和24年5月15日のことである。その際、社殿向拝の龍の木鼻がつけられた。

(15)水産講習所(現:東京水産大学)高の島実験場跡

(15)水産講習所(現:東京水産大学)高の島実験場跡

 明治42年に建てられたが、昭和5年、旧海軍の基地造成のため小湊町に移転した。魚のふ化やプランクトンの研究がされていた農商務省の施設。一般の市民も気軽に見ることができた。

館山航空隊について

 昭和2年、館山町字宮城・柏崎の海岸と、高の島・沖の島との間に海軍の航空隊が設置されることとなり、同年4月1日起工式をして、昭和5年完成に至る。その後保養地館山は、全国から空の勇士を志願した若者たちの常駐する軍都となった。


平成13年度博物館実習生制作
監修 館山市立博物館

国司神社

国司神社(こくしじんじゃ)の概要

(館山市沼931)

 ・国司を祀る神社はとても珍しい・

 館山市沼の柏崎区の氏神で、平安時代中期頃に安房国の国司(こくし)として京の都から赴任した源親元(みなもとのちかもと)をお祀りした神社。親元は嘉保3年(1096)から康和2年(1100)の4年間国司を勤め、仏教の徳をもって国を治めた。任期を終えて京の都へ帰るとき、別れを惜しむ住民が出立を阻んだので、親元はやむなく着ていた直衣(のうし)の左袖を解いて与え、柏崎から船に乗ったといわれている。永久2年(1114)に親元の死去を伝え聞いた人々は、その徳を慕って親元の居宅址に小祠を建て、遺品の片袖を祀ってこの神社が創建されたと伝えられている。

源親元

 若い頃は相当に気が荒く、人とのいさかいが絶えなかったが、33歳で仏教に帰依した頃から別人のように優しくなった。のちに悪人の逮捕や刑罰を行う検非違使(けびいし)になると、罪人が自ら反省するのを待つため努めて罪人の刑を軽くしたという。国司として安房へ着任すると、自分の俸禄を使って堂(泉光院)を建て、仏事に励みながら善政を行い、税を軽くし、罪を緩め、民をいたわった。離任後は出家して念仏三昧の日々を送り、長治2年(1105)11月7日死去した。享年68歳。沼地区内の真言宗総持院と天満神社は源親元が創建している。

国司丸

 館山地区の祭礼になると柏崎では神社から国司丸という御船をひき出す。国司丸左舷(さげん)の艫(とも)の支柱が割り合せしてある所に、文化14年(1817)の墨書があり、文政7年(1824)には絵師・勝山調(かつさんちょう)が「引舟の図」を描いていることから、大変古い御船であることがわかる。彫刻は後藤福太郎橘義道(たちばなのよしみち)の作。

館山地区祭礼

 毎年8月1日・2日、南総里見八犬伝ゆかりの城下町館山で、神輿(みこし)・山車(だし)・曳舟(ひきふね)など総勢13基により館山神社を中心に祭礼が繰り広げられる。国司丸を引き出す国司神社では、船上に太鼓・鉦(かね)・鈴が積み込まれ、篠笛のお囃子(はやし)や民謡のメロディなどを歌い合わせて賑やかに舞い踊りが行われる。江戸時代から伝承される「御船唄(おふなうた)」は御座船唄ともいわれ、拝殿や御船の上で歌われる。江戸幕府の船手頭(ふなてがしら)支配の時代に端を発するものとされ、市内の祭礼で御船を曳く地区に伝えられている。また親元は国司大明神と呼ばれ、親元がこの地を離れた1月16日が国司神社の例祭日になっている。

(1)宮下地蔵尊(地蔵信仰)

(1)宮下地蔵尊(地蔵信仰)

 地蔵菩薩は最も弱い立場の人々を最優先で救済する菩薩で、生活に密着する子育・火防・盗難除・病気平癒など、庶民の願いをかなえる仏として祀られた。宝暦5年(1755)と文化8年(1711)の廻国(かいこく)供養塔や馬頭観音・中世の五輪塔の一部(空風輪(くうふうりん))も安置されている。

(2)石段建設寄付人記念碑

 明治40年(1907)に石段を造った時の寄付人の名を記録した碑。寄付金額は15円から1円20銭まであり、合計は338円70銭。中には鰹を147本というものもある。裏面には当時の区長・氏子惣代・発起人や、遠く横浜市から5円を寄付した人の名が刻まれている。

(3)石灯籠(いしどうろう)

(3)石灯籠(いしどうろう)

 天保3年(1832)5月に建てられた。世話人と当時の村方三役(名主・組頭・百姓代)の名が刻まれている。

(4)鳥居

(4)鳥居

 石灯籠と同じく天保3年(1832)5月に建てられたもの。柱の下部には石灯籠と同じ名前が刻まれており、村役人の名字もわかる。笠木(かさぎ)と貫(ぬき)の部分は関東大震災で折れてしまい、その後修復されたものである。

(5)大震災御下賜金(ごかしきん)記念碑

(5)大震災御下賜金(ごかしきん)記念碑

 大正12年(1923)9月1日の午前11時58分に、相模湾を震源として発生した大地震による災害(関東大震災)の記憶を残すために建てた柏崎区の石碑。碑の台石に震災で壊れた鳥居の笠石を使用している。

(6)日露戦役記念碑

(6)日露戦役記念碑

 豊津村から日露戦争に出征した人70名の名前を刻んだ記念碑。うち8名が戦病死している。書は石井啓次郎。明治39年(1906)に豊津村恤兵会(じゅっぺいかい)が建立した。

(7)狛犬(こまいぬ)

(7)狛犬(こまいぬ)

 弘化4年(1847)3月に氏子たちによって奉納されたもの。向かって左の狛犬には石工(いしく)喜兵衛の名が刻まれている。

(8)玉垣(たまがき)

 大正15年(1926)6月建立。計50本の玉垣の1つ1つに議員・区長・伍長・組長はじめ氏子などの名が刻まれている。

(9)銀杏(御神木)

 ご神木の銀杏(いちょう)で、樹齢350年、周囲3.03m、直径0.92m、高さ15.00m。

(10)石宮

(10)石宮

 覆い屋の中にある石宮3基は、右が沖の島と高の島、中央に鷹島(たかのしま)弁才天、左に天満宮と桜木宮の札が納めてある。海上の高の島には弁才天、沖の島には宇賀明神が祀られており、ともに源親元が最初に祀ったと伝えられている。水の神・農業神として崇められた。天満宮は親元が信仰した菅原道真(すがわらのみちざね)を祀る神社で、御霊(ごりょう)信仰の代表。天災や疫病(えきびょう)の発生を「怨霊(おんりょう)」のしわざと見なしてこれを鎮め、平穏と繁栄を祈る信仰で、桜木宮とともに疱瘡除(ほうそうよ)けとして祀られる。

(11)社務所(篭り舎)

 この社務所はかつて氏神のお篭りが行われた篭り舎(こもりしゃ)だった。柏崎では左袖の無い源親元を描いた掛け軸を掲げ、当番の家(宿(やど))でオビシャをした。これをウチカン(氏神)講といい、月に一度昼間にやっていた。講ではご馳走を作り、神前に供え、ともどもに飲食して祝う。年に一度、親元がこの地を離れたという1月16日の例祭日には、この篭り舎でオオオビシャが行われていた。

(12)ちょうちん掛け

 昭和3年(1928)11月、昭和天皇の即位式と大嘗祭(だいじょうさい)を続けて行う御大典(ごたいてん)を記念して建てられたもの。ちょうちん掛けの足元には、拝殿修復前に使われていた火除けの”水”と書かれた鬼瓦が置かれている。

(13)拝殿(はいでん)

(13)拝殿(はいでん)

 現在の拝殿は大正5年(1916)に建てられたもの。このとき奉納された向拝(ごはい)彫刻の龍は、裏に”後藤橘義定(たちばなのよしさだ)”と刻まれており、当時安房地方で宮彫り彫刻師として活躍していた後藤一門の後藤義定(西岬の山崎定吉)の作品である。

(14)豊津公園(磯崎公園)

(14)豊津公園(磯崎公園)

 明治41年(1908)8月に造られた公園。国司神社の裏山を少し登ったところにあった。現在は木が生い茂るが、公園記念碑と囲碁・将棋をするための石製の盤(明治42年製)が残っている。戦前は「観望広く、山海の気満ち、夏季来遊の良公園なり」(『安房漫遊案内』1918年)と紹介されていたが、航空隊基地を造る際に、トロッコ線路建造のため切り割の崖ができ、次第に人が近づかなくなった。

(15)泉光院(千光院)跡

 関東大震災前まで神社右脇の平場に真言宗の泉光院があった。別当(べっとう)として国司神社を護り、管理をしていた。ここでその昔火災があったとき、親元が持ってきたという菅原道真公の掛け軸が境内の梅に飛び移って難を免れたという天神梅(てんじんばい)の伝説がある。


作成:平成19年度博物館実習生
監修 館山市立博物館

妙音院

妙音院の概要

(館山市上真倉1689)

光照山医王寺妙音院といい、館山市上真倉(かみさなぐら)に所在する高野山金剛峯寺(こんごうぶじ)直末の古義真言宗のお寺です。本尊は如意輪観音。「安房高野山」とも通称されています。里見氏と紀州の高野山西門院は関係が深いことがよく知られています。それは宿坊が上総国を檀那場(だんなば)していたため、里見氏が上総国へ進出して結びつきました。安房国の檀那場は万智院という坊でしたが、天正17(1589)に高野山の衆議(しゅうぎ)により妙音院に変更されました。上真倉の妙音院は里見義康が高野山にある妙音院から開山として快算法印を招き、その別院としたものです。里見氏から白浜・真倉などに161石の寺領が与えられていました。江戸時代となっても徳川家から寺領75石が与えられ保護されました。伝来する寺宝に徳川家より奉納されたという『大般若経』がありますが、その背景には紀州徳川家との深い縁があったと考えられます。明治29年(1896)に上総の前羽覚忍(まえばかくにん)が発願し、裏山に四国霊場を写し「安房高野山八十八ヶ所霊場」が開かれました。大正12年の関東大震災で本堂が倒壊し、住職と檀信徒の努力で復興しましたが、昭和20年3月、米軍が落とした焼夷弾(しょういだん)により、またもやその仮本堂や庫裡(くり)、桜が焼失、かろうじて鐘楼(しょうろう)堂と山門、熊野大権現が焼け残りました。今もなお焼け焦げた旧鐘楼が戦災を物語ります。妙音院周辺の小字(こあざ)名は海蔵寺といい、古い寺があったことを窺わせます。妙音院の前身かどうかはわかりませんが、言い伝えに、もとは海蔵寺は長尾川の中流(白浜の滝山)にあり、寺の移転と同時に上流の曲田(まがった)から6軒の人が移り住み、門前6軒といわれて寺の鐘つきなどをしていたといいます。今もなお子孫という2軒が住んでいます。

(1)手水鉢(ちょうずばち)

(1)手水鉢(ちょうずばち)

安政2年(1855)に上真倉村の人々が寄進したもの。当時の住職堯奠(ぎょうてん)や、大檀那杉田をはじめ世話人の名が刻まれている。

(2)柴燈護摩壇

(2)柴燈護摩壇

仮本堂の前に「柴燈護摩壇(さいとうごまだん)」と彫られた石柱がある。柴燈護摩とは野外で焚(た)かれる護摩のことで、その本尊である不動明王を表す梵字(ぼんじ)「カンマン」と、大正15年(1926)4月の建立銘がある。現在の柴燈護摩法要は、正月の第3日曜日と5月の第4日曜日の2回修せられて、5月には火渡りも行われ、善男女人で賑わう。

(3)本堂跡(仮本堂)

(3)本堂跡(仮本堂)

現在の仮本堂の位置はもともとの本堂があった所。間口8間、奥行6間の本堂は大正の震災で倒壊し、その後、檀信徒の協力で現在の釈迦堂のところに仮本堂が建立されたが、第2次世界大戦のとき仮本堂・庫裡(くり)・諸堂を焼失。再建されないまま今日に至っている。現在の仮本堂には本尊の如意輪観音を中央に、向かって右に弘法大師、左に不動明王が安置されている。

(4)伊藤思楽句碑 

(4)伊藤思楽句碑 

館野村腰越の伊藤林蔵(号 思楽)が、境内整美のため、桜・南天を寄贈植樹した時の記念句碑。明治37年(1904)3月に建てられたが、思楽は翌年に66歳で没した。

(5)仮薬師堂(旧鐘楼)

(5)仮薬師堂(旧鐘楼)

鐘楼は昭和20年3月の空襲で茅葺(かやぶき)の屋根が被焼し、梁(はり)や桁(けた)は黒く焦げたがどうにか焼け残り、それを薬師堂に改築した。江戸期の銅造薬師如来坐像を安置する。安房国薬師如来霊場西口4番札所として、寅歳と申歳の10月にご開帳される。

(6)釈迦堂(回向堂)

(6)釈迦堂(回向堂)

震災後に仮本堂を建てたところで、回向(えこう)堂と呼ばれていた。厨子(ずし)の中に釈迦如来、客仏として阿弥陀如来、脇仏として、文殊菩薩・普賢菩薩が祀られ、泉慶院(5番札所)にあった薬師如来もここに祀られている。釈迦堂裏や庭先などに中世の宝篋印塔(ほうきょういんとう)の基礎が残存する。ここで修験練成道場関東二實塾が開講される

(7)稲荷大明神(天神様)

(7)稲荷大明神(天神様)

境内北西山麓のやぐらの中に石宮が安置され稲荷大明神と呼ばれている。石宮の蓋(ふた)には梅鉢(うめばち)紋があり、中に公家風の坐像が納められている。石宮の側面には、23世住職以豊(いほう)が発願主(ほつがんしゅ)となり、筆弟子(ふででし)たちが助願(じょがん)となって、嘉永5年(1852)2月25日の950回忌に筆恩(ふでおん)を感謝して建立したとある。この950回忌は菅原道真(みちざね)の忌日に当たることから、この像は学問の神様である天神像と思われる。それがなぜ稲荷大明神と呼ばれるようになったかは不明。

(8)薬師堂跡

(8)薬師堂跡

仮本堂左手奥石垣の上に薬師堂があった。礎石と思われる石が2基と近世初頭の石灯籠の反花座(かえりばなざ)1基が残されている。薬師堂は江戸時代造立の銅造薬師如来坐像を祀った三間四方の堂だったという。老朽化で倒壊し、震災後建てられた仮本堂に像を安置した。現在は焼け残った鐘楼堂を仮薬師堂にして、そこに祀っている。

(9)杉田家の墓

住職の墓よりも一段高い奥に墓所が位置する杉田家は、妙音院の大檀那だった。先祖累代の墓が荒れているのを嘆いた杉田佐伝治と惣左衛門が、昭和5年(1930)に整備・供養したもの。明治以降の杉田家の墓は近くの十王堂にある。

(10)尊勝塔

杉田家の墓の右脇に位置する。仏頂尊(ぶっちょうそん)の功徳(くどく)を説く、『尊勝陀羅尼経(そんしょうだらにきょう)』が三面に刻まれている。享保2年(1717)、了皎(りょうこう)住職の代に杉田宗左衛門夫妻の発願で修復・開眼(かいげん)供養された。

(11)薦野家の墓地

里見義弘の子で、薦野(こもの)神五郎頼俊と称した人物は、2524石余の知行地を持つ里見家御一門衆であった。その子孫の墓地とされ、今も末裔とされる真倉の薦野家の方が維持している。

(12)住職の墓域

(12)住職の墓域

寛永4年(1627)から昭和までの歴代住職の墓が15基並んでいる。正面三基の内中央の墓は25世辨章(べんしょう)和尚の墓で、明治31年(1898)当院特命住職として寺門興隆に勤め、大正4年(1915)68歳で遷化(せんげ)。左の墓は辨章和尚の徒弟辯海(とていべんかい)和尚の墓で、26世を継ぎ寺門興隆に勤め、昭和7年(1932)55歳にて遷化。現在の寺の基礎はこの二人で創られた。右の墓の28世菊地本覚和尚も震災後の寺の復興に努めたという。

(13)地蔵尊

(13)地蔵尊

台座の中央に「本尊地蔵大菩薩」とある。地元の地蔵講などの講中が安置したものと思われ、20余名の講員の名がある。建立年紀は不明。「先祖代々」や「清幼童子」などの供養の文字も見られる。

(14)不動尊2体

(14)不動尊2体

八十八ヶ所霊場への階段に浪切不動(右側)と不動明王坐像(左側)が置かれ入口を鋭い目線で見つめている。明治30年、高村光雲門人で郷土の石工俵光石(たわらこうせき)の作。寄進者は浪切不動が下町の高橋徳太郎、不動明王が楠見の杉田きせ・渡辺たよ・俵かね・小高れんである。

(15)熊野大権現

(15)熊野大権現

当院の境内鎮守である熊野大権現は、八十八ヶ所霊場の裏のほうに祀られていたが、昭和15年現在の地に移された。5月の火渡りでは、護摩修行の無事を祈って社前でお祓(はら)いをする。社殿の前に嘉永元年(1848)に奉納された手水鉢(ちょうずばち)がある。

(16)七福神

(16)七福神

7人の福徳の神、大黒天・恵比寿・毘沙門(びしゃもん)天・弁財天・福禄寿・寿老人・布袋(ほてい)を祀る。昭和58年、荒れていた八十八ヶ所の霊場を市内宮城県人会や地域の檀家などが修復したときに、新たに祀られた。

(17)石柱

(17)石柱

地蔵尊を載せた2本の石柱に、館山・千倉・鋸南・富浦等の信者の名前と金額が刻まれている。目的や年紀は記されていない。

(18)船乗地蔵

(18)船乗地蔵

船べりに「朝夷郡平舘(へだて)区大師講中」と刻まれている。また伝来の『勧進帳』には「東京市浅草区大乗院住職守屋大暢」とある。

(19)安房高野山八十八ヶ所霊場

(19)安房高野山八十八ヶ所霊場

明治28年(1895)、上総の老女前羽覚忍の発願により、24世住職山縣敞暹(やまがたしょうせん)が勧進、近隣の人々の浄財を受け完成。翌年高野山々主を招請して開眼(かいげん)された。しかし終戦直前の空襲で寺は焼け、八十八ヶ所霊場も荒廃し埋れてしまった。昭和58年に宮城県人会と檀信徒により修復復興された。霊場の出発点には出生門があり、八十八ヶ所には弘法大師の像が祀られ、「褌祝(ふんどしいわい)」「女の大厄」「男の前厄」など人生の節目が表示がされている。34番の「身替(みがわり)大師」は唯一の行者姿。88番には、彫物師後藤利兵衛義光の名があり、波の彫刻が施されている。

(20)吉野桜百本植付記念碑

(20)吉野桜百本植付記念碑

明治32年(1899)、東京の新井善司と鳥居半右衛門が桜百本を植樹した記念に建てた。その後当院は桜の名所として知られるようになり、民謡「館山小唄」でも「春は妙音院花どころ…」と歌われるほどの賑わいになった。

(21)オハツキイチョウ

(21)オハツキイチョウ

山門右手のイチョウは幹周2.6m、樹高約20m、樹齢約100年の「オハツキラッパイチョウ」。イチョウには雌雄があり、普通の雌には、葉と別にギンナンが実るが、オハツキイチョウは葉の先にギンナンが付き、ラッパイチョウは葉がラッパ状に丸まるイチョウの変異種。妙音院のイチョウはその両方の特徴をもつ大変珍しい樹。


<作成:ミュージアム・サポーター「絵図士」
加藤七午三・金久ひろみ・川崎 一・君塚滋堂・鈴木以久枝>
監修 館山市立博物館  〒294-0036 館山市館山351-2 ℡.0470-23-5212

北下台

 北下台とは、城山の北側にある小高い丘一帯をさす呼び名です。江戸時代は家がありませんでしたが、明治・大正時代には「館山公園」という景勝地として知られていました。

北下庚申堂周辺エリア

(1)重田徳正記念碑

(1)重田徳正記念碑

明治34年(1901)

 庚申堂上の個人宅地内にある。成田山不動尊を信仰し、神栄講に属していた重田徳正は、この場所にお堂をたてて信仰を広めた。

(2)石造観音菩薩立像

 北下地蔵尊庚申堂にある石造物のうちのひとつ。これらの石造物は、裏の個人宅地内に埋もれていたものを、10年ほど前に整備しなおした。

(3)三界万霊塔

(3)三界万霊塔

正徳4年(1714)

 同じく庚申堂の石造物のひとつ。人間だけでなく、生き物すべての霊を供養するための碑。

(4)百八十八番巡拝塔

文化11年(1814)

 楠見集会所脇にある廻国供養塔。楠見浦の小髙清兵衛が、四国・西国・秩父・坂東の観音札所をすべて巡礼した記念に建てたもの。同じく楠見浦の小髙宗兵衛が嘉永6年(1853)に建てた廻国塔もある。

金比羅神社周辺エリア

(5)森田市之助碑

明治30年(1897)

 日清戦争で戦死した館山町出身の森田市之助を追悼する碑。

(6)秋山辰五郎之碑

明治36年(1903)

 日清戦争で戦死した海軍機関兵秋山辰五郎の碑。

(7)正木灯

(7)正木灯

大正5年(1916)

 船形町長を務めた正木清一郎が、水産業の発展につくした父貞蔵の死を悼んで、晩年の隠居所があった北下台に建てた照明塔。残っているのはその基台の部分で、かつては木の柱が立ちアーク灯が灯っていた。題字を書いたのは有名な書家小野鵞堂。

(8)栗山君之碑

明治24年(1891)

 山本高等小学校の訓導兼校長。25歳で没した。題字は千葉県知事の藤島正健による。

(9)金比羅神社手洗石

(9)金比羅神社手洗石

文化3年(1806)

 館山仲町と大神宮村の人が奉納したもの。

(10)金比羅神社石灯籠

昭和5年(1930)

 東京湾埋立株式会社の工夫たちが奉納。

(11)義勇碑

(11)義勇碑

明治30年(1897)

 台湾平定に参戦した14名の房州出身者の顕彰碑。

(12)日露戦役記念碑

 明治39年(1906)

 日露戦争に従軍した約100名の名前が刻まれている。館山町恤兵会が顕彰。

(13)青木為治墓碑銘

明治19年(1886)

 神余出身。布良で教鞭をとっていたが21歳で没。篆額は元老院議官の柳原前光。撰文は旧長尾藩士の恩田城山。

(14)小御嶽碑

慶応2年(1866)

 楠見、下町、仲町、長須賀などの富士講中が奉納したもの。城山の浅間神社は、戦時中ここに移されていた。この石碑ももとは城山の中腹にあった。

(15)やぐら

(15)やぐら

室町時代

 岩壁を掘って作られた武士の墓。内部の壁面には五輪塔が浮き彫りにされ、納骨のための溝も見られる。

観音堂跡の墓地エリア

(16)館山観音御堂旧址碑

(16)館山観音御堂旧址碑

 安房三十四観音第三十一番札所の観音堂があったところ。関東大震災後に仲町の長福寺に移された。

(17)金近虎之丞墓

明治21年(1888)

 山口県士族の金近虎之丞は、転地療養に来た北下台に屋敷を構え、金虎亭という浴室尽の下宿を開いた。浴室は汐湯といい、湯銭をとって一般に開放された。

(18)堀口いさ・佐代子墓標

(18)堀口いさ・佐代子墓標

大正12年(1923)

 日本の近代彫刻の原点を築いた彫刻家・長沼守敬(1857~1942)によるレリーフ。大正3年(1914)、館山町上須賀に移り住み(上須賀青年館前)、晩年を過ごした。これは、親しかった近所の夫人と孫娘が、関東大震災で亡くなったのを悼んで制作したもの。

(19)勝山調句碑

(19)勝山調句碑

文化11年(1814)

 勝山調(1762~1838)は沼出身の絵師で、神仏像や郷土の風俗などを数多く描いた。この碑は、片面に山調の句、もう片面に絵具皿丸という狂歌師による狂歌が刻まれているが、皿丸と山調は同一人物だともいう。

北側記念碑エリア

(20)関沢明清碑

(20)関沢明清碑

明治33年(1900)

 捕鯨や遠洋漁業などの水産業に功績を残した関沢明清の顕彰碑。かつてはここに、関沢が捕まえたという鯨の頭骨が置かれていた。関沢は水産伝習所(現東京水産大学)に勤務し、晩年館山に住んだ。

(21)坂東丸船員殉難碑

(21)坂東丸船員殉難碑

明治43年(1910)

 千葉県水産試験場所属の坂東丸が銚子沖で遭難。11名が犠牲になった。

(22)順天丸遭難記念碑

(22)順天丸遭難記念碑

明治36年(1903)

 房総遠洋漁業株式会社の漁船順天丸が朝鮮海域で沈没し、22名が遭難した。楠見の石工・俵光石が刻んだ。


制作:平成8年博物館実習生
監修 館山市立博物館

慈恩院

慈恩院(じおんいん)の概要

(館山市上真倉1709)

慈恩院 境内

館山市上真倉字上藤井(うわふじい)にある曹洞宗の寺院で、藤谷山と号します。里見家代々の持仏堂として館山城内に創建したのが始まりで、天正9年に里見義康の弟玉峰和尚が、城内に祀られていた千手観世音菩薩と聖観世音菩薩を本尊として現在地へ移し、慶長8年(1603)に義康が没するとその菩提寺となり、義康を開基とする慈恩院になりました。天正19年(1591)に義康から持仏堂に宛てた朱印状が今も残されています。慶長年間には里見義康・忠義から正木村と沼村で15石の寺領を与えられました。塚を背にして義康の墓が建てられています。

(1)寺号碑

(1)寺号碑

 市内在住の水墨画家岩崎巴人の書。大正6年東京生まれ。川端画学校を出て小林古径に師事。禅の思想に基づくユニークな作品が多い。

(2)坪野南陽(平太郎)の墓

(2)坪野南陽(平太郎)の墓

 東京高等商業学校(現一橋大学)学長。静養のため北条に来住し安房の青年を薫陶。東京の安房育英会や安房中・安房高女の南陽賞を創設した。大正14年(1925)没。67歳。上部の地蔵尊像は地元の彫刻家俵光石の作。左にある小滝吉五郎は南陽を敬愛した安房中教諭。

(3)川名楽山の墓

(3)川名楽山の墓

 館山藩画学教授で、藩の勘定方も勤めた。沼村(市内)の名主家に生まれ、江戸の御用絵師狩野探龍に師事して日光東照宮の修繕にあたった。のち帰郷して館山藩に仕官。明治になって安房神社禰宜・館山町戸長を務め、地域で作画活動を続けた。明治25年(1892)没。61歳。

(4)山門跡と参道のケヤキ並木

 欅並木は先代潜龍住職縁故の軍人など12名による戦前の植樹で、後年樹ごとに記念碑が建てられた。近年解体された山門は文化元年(1804)、延命寺大工伊丹喜八の建築であることが梁の墨書でわかった。

(5)上藤井(うわふじい)遺跡

 境内を含む周辺が黒曜石の矢じりや縄文土器が出土する縄文遺跡。地下にサンゴ層が広がり、良質な水が豊富に出る地域である。

(6)石徳五訓

 永平寺73世の熊沢泰禅貫首(昭和43年没、94歳)による、石から学ぶ五つの教訓を表現した石碑。

(7)里見義康の墓と句碑

(7)里見義康の墓と句碑

 天下人の秀吉と家康の時代に館山市の基礎を築いた館山城主里見義康の墓。慶長8年(1603)11月16日没、31歳。法名は龍潜院殿傑山芳英大居士。宝篋印塔の墓の裏に建つ「当山開基」の標柱と周囲の石垣は、明治42年(1909)の里見氏墓域整備のときのもの。右側に建つ句碑には整備に関わった正木貞蔵(号月舟)の句が刻まれている。

(8)陽刻五輪塔

(8)陽刻五輪塔

 法木家の墓地にある中世の石造物で、南房総板碑と呼ばれる五輪板碑。鴨川方面特有の形式で市内では数少ない。戦国時代のもの。

(9)旗本川口氏家臣棚橋茂左衛門の墓

(9)旗本川口氏家臣棚橋茂左衛門の墓

 義康墓域前にある。江戸中期に館山地区を領した2700石の旗本川口摂津守恒寿の家臣。館山勤番中の享保19年(1734)に没した。

(10)館山藩士代田(しろた)蓊(しげる)の墓

(10)館山藩士代田(しろた)蓊(しげる)の墓

 代田蓊孝慈(たかなり)は明治8年(1875)6月6日に没した。人物像は不明だが、天保15年(1844)に在所詰郡奉行の代田隼登(はやと)がいる。

(11)館山藩士乙幡雲郭(おっぱぱうんかく)先生の墓

 乙幡家は館山藩家老職の家柄。通称淳介といい、幕末に藩公用人として『武鑑』に名が見える。儒学者として知られ、慶応4年(1868)に隠居して手習師匠を養成のため私塾を開き、教育振興に尽した。

(12)有無両縁群霊墓

 慶応4年(1868)戊辰7月10日、当寺20世が建立。明治元年(1868)の戊辰戦争に参戦した人々の供養塔のようである。

(13)稲葉家老女岸尾(きしお)の墓

 義康の墓を背に左手奥の鈴木姓墓石の中央にある。幕末維新期に館山藩主稲葉備後守正善の奥向に仕えた女性で、武州馬込村(大田区)の波多野家出身。明治2年(1869)8月没。法名は法運院到彼明岸大姉。

(14)吉祥院森川氏先祖代々の墓ほか関連墓石

(14)吉祥院森川氏先祖代々の墓ほか関連墓石

 上真倉にあった真谷山吉祥院という朱印地10石の修験。寛元元年(1243)創建。明治9年に11世祐譲が死去して廃寺になり、大正4年に5世・6世・7世・9世・10世の墓石などがここへ移された。

(15)関西商人座古屋(ざこや)の碑

(15)関西商人座古屋(ざこや)の碑

 江戸中期に新井浦で、押送舟7艘で鮮魚輸送を請け負った館山の代表的な魚商人座古屋清五郎家の墓地。江戸初期に摂州座古多村(大阪市西区カ)から房総へ進出した関西商人のひとりとされている。

(16)安房中学校初代校長狩野鷹力(たかりき)の墓

 安房中学校(現安房高校)の初代校長。在職12年。会津士族の出身で、昭和14年没。78歳。質実剛健・文武両道の校風を作った。

(17)館山藩士木下晦蔵(かいぞう)の墓

 戊辰戦争で脱藩して箱根・函館を転戦、五稜郭近くの高竜寺野戦病院の戦いで、明治2年(1869)5月11日戦死した。法号は智徳院忠厳賢斉居士。右側面に非業に死んだ夫を想う妻のぶの辞世が刻まれる。

(18)館山藩士高橋周行(ちかつら)翁の墓

 稲葉正己・正善に仕えて、勘定方・公用人・江戸留守居役などを勤め、新政府との交渉にもあたった。通称文平。明治32年没。77歳。

(19)大野太平の墓

 『房総里見氏の研究』『房総通史』などで房総の地方史研究の基礎を築いた研究者。岐阜県出身で、大正2年に館山へ移住。安房高女・安房水産学校などで教鞭をとった。昭和19年(1944)没、66歳。

(20)館山藩主奥方の墓

(20)館山藩主奥方の墓

 明治2年(1869)12月に没した蓬仙院殿瑞雲養寿大姉は、稲葉家の奥方と伝えられ、丸に本文字の本多家家紋と折敷に三文字紋の稲葉家家紋が刻まれている。磐城泉藩(いわき市)本多家から来た三代稲葉正盛の妻だという。花立と線香立には館山藩士の名が並んでいる。

(21)鹿島堀跡と由来碑

(21)鹿島堀跡と由来碑

 鹿島堀は館山城の外堀で、義康の時代に関が原の戦いの功労で鹿島(茨城県)三万石を加増され、鹿島領民が構築したものと伝えられている。幕府による館山城の破却で堀は埋められ一部が残るのみであったことから、後世に伝えるため昭和19年に、鹿島郡出身の東京高等商業学校教授峯間信吉撰文による鹿島堀由来碑が建てられた。

(22)泉慶院跡

 曹洞宗の寺院で、元亀2年(1571)に里見義弘による創建とされる。開基は義弘室の智光院殿(青岳尼)。元和8年(1622)に心巌淳泰和尚(義弘の子息梅王丸)が開山になったという。慶長期の寺領は破格の160石、徳川家からは7石余に減額された。本堂はなくなったが、墓地には3基の開山塔と、文政2年(1819)など2基の開基塔がある。


作成:ふるさと講座受講生
石井道子・岡田喜代太郎・加藤七午三・金久ひろみ・鈴木以久枝・山口昌幸・和田喜三郎
監修 館山市立博物館  

館山神社

館山神社概要

(館山市館山252)

館山神社 境内

 館山神社は、大正12年(1923)の関東大震災で倒壊した館山地区の新井・下町・仲町・上町・楠見・上須賀にあった神社を合祀(ごうし)(複数の神様を集めておまつりすること)し、館山全体の鎮守として創建されました。合祀された神社は新井の稲荷(いなり)神社、新井・下町(しもちょう)の諏訪(すわ)神社、上町(かみちょう)・仲町(なかちょう)の諏訪神社、楠見(くすみ)の厳島(いつくしま)神社、上須賀(うえすか)の稲荷(いなり)神社・八坂(やさか)神社、御屋敷(おやしき)の稲荷(いなり)神社の7社、さらに境内末社として新井と上須賀の各稲荷神社が祀られています。

 震災の翌13年から各神社の氏子同士で合祀についての話し合いが行われ、合祀場所として現在の場所が用意されていました。そして大正14年(1925)頃には館山神社として認可されたようで、昭和4年(1929)に現在の社殿などが竣工しました。

境内の紹介

(*マークの語句には説明あり)

(1)社名碑(しゃめいひ)

 県道側からみて、まず目に入るのがこの社名碑。大きく『館山神社』と彫られています。神社の表札のようなもので、社号碑(しゃごうひ)とも言います。倒れた鳥居の柱を利用しています。

(2)鳥居

 館山築港の工事が無事にできたお礼として、東京の大滝工務店が昭和12年(1937)に奉納したものです。右の柱には『奉』、左の柱には『納』と大きく書かれ、裏には『東京品川 大瀧祐弘 外一同』と奉納者が刻まれています。鳥居は、中央の横向きの貫(ぬき)が左右の柱を貫通せず、断面が長方形の「靖国(やすくに)鳥居」と呼ばれるもので、各地の護国(ごこく)神社に見られる形です。

(3)手水石(ちょうずいし)

(3)手水石(ちょうずいし)

 この手水石(*1)は八角柱形で、一部埋まってはいるものの、元禄7年(1694)という古い時代に寄進されたことと、寄進者であろう人物の『藤本』という文字が確認できます。

(4)手水石

(4)手水石

 地元出身の江戸大相撲力士で、引退後には廻船問屋として運送業で活躍した錦岩(にしきいわ)浪五郎(本名:森紋次郎)が、文政9年(1826)の十両昇進に際して新井浦の諏訪神社に寄進したものです。

(5)狛犬(こまいぬ)

(5)狛犬(こまいぬ)

 館山出身の彫刻家、俵光石(たわらこうせき)(*2)により製作され、大正6年(1917)に嶋田幸蔵により奉納されました。右の阿(あ)像には鶴、左の吽(うん)像には亀の彫刻がされています。

(6)槙(まき)の植樹記念碑

(6)槙(まき)の植樹記念碑

 2基で一対になっていて、合祀(ごうし)にあたり昭和2年(1927)に楠見の厳島神社から移した3本の槙の木を植えた際の記念碑。社殿に向かって右側の『奉』とあるほうは平成18年の祭礼で破損したため新しく再建されました。左側の池際のものは移植当時のままで正面に『献』と刻まれ、裏には槙の植樹に携わった楠見地区の人々の名前が刻まれています。またこの記念碑は鳥居を再利用して作られたもので、貫(ぬき)(鳥居の横の柱のこと)を差し込んでいた穴がみられます。下の方に見える江戸深川に住んでいた願主の鈴木某の名前は鳥居として奉納されたときのもの。

(7)依代(よりしろ)(*3)

 一辺が185cm程の正方形で一見砂場のようにも見えます。上町地区によって昭和15年(1940)に皇紀2600年を記念して奉納されました。隣接する記念碑は(6)の記念碑と同様に鳥居を再利用したことがわかる同じような穴が見られます。おそらく(1)と同じ鳥居だったのでしょう。

(8)力石(ちからいし)(*4)

(8)力石(ちからいし)(*4)

 『田村』とだけ刻まれた丸型の石と『奉■ 四拾貫目 ●』と刻まれた細長い形をした石の2つがあります。細長い石の裏には逆向きに「大昌稲荷神社」とあり、かつて奉納されていた神社の名前と思われます。

(9)手水石

(9)手水石

 上須賀の稲荷神社の手水石は正面から『奉納』の文字が見られます。右側面には奉納者の名前を示す『願主 楠見 石屋五左衛門』とあり、左側面には奉納された月日が「天保15年(1844)辰二月初午」と刻まれています。初午(はつうま)は稲荷神社を祀る行事が全国的に行われる日です。

(10)手水石

(10)手水石

 下町の石宮がならぶ一画の手水石は、文政3年(1820)に庄司仁兵衛・中山勇助らによって奉納された手水石です。裏には江戸両国の石工滝口某が作ったという銘文が見られます。

(11)手水石

(11)手水石

 新井地区の稲荷神社の社殿は平成8年(1996)に、鳥居は平成12年に新しく造られたものです。手水石はその際に新井地区の平成会・青年会・婦人会から寄贈されました。

ミニ辞典

(*語句説明)

*1 手水石

 参拝の前に手や口を洗い清めるための水を溜めておく石の入れ物のこと。手水石の置いてある建物のことを手水舎(ちょうずや)という。

*2 俵光石

 高村幸雲の弟子。東京美術学校で石彫教官として教壇に立ったこともあった。祖父の代からの石屋で、今もなお「俵石材店」として館山神社の隣で営業している。

*3 依代(よりしろ)

 祭礼のときに、神霊が降臨してくる際に、拠(よ)り所(どころ)となる場所。

*4 力石

 力試しに用いられた大きな石で、ほとんどのものが米俵(60kg)以上である。「貫(かん)」とは重さの単位で1貫は3.75kgに相当する。つまり四拾貫目は150kgとなる。また力石の中には持ち上げた人の名前が刻まれる場合もある。

旧  社  一  覧
旧社地社名江戸時代の管理者祭神
下町
新井
諏訪神社社家(しゃけ) 加藤数馬(下真倉)、
弊束(へいそく) 長福寺(仲町)
建御名方命
(たけみなかたのみこと)
上町
仲町
諏訪神社別当(べっとう) 長福寺(仲町)建御名方命
楠見厳島神社別当 観乗院(上須賀)市杵島姫命
(いちきしまひめのみこと)
上須賀八坂神社別当 観乗院(上須賀)素盞鳴命
(すさのおのみこと)
上須賀
新井
稲荷神社<上須賀稲荷>別当 吉祥院(上真倉)
<新井>?
倉稲魂神
(うかのみたまのかみ)
御屋敷稲荷神社天明3年(1783)
館山藩主稲葉氏勧請(かんじょう)
倉稲魂神

(注)社家:神職を世襲していく家柄  弊束:神前の供物を供える役目 別当:寺社の長官のこと

Topic

 平成20年(2008)2月25日に「新井の御船歌」が館山市の無形文化財に指定されました。御船歌は2月下旬の新年歌い初めのときと、8月1日・2日に行われる館山神社祭礼で、御船山車曳き回しのときと巡行先の各要所で歌われています。


<作成:平成20年度博物館実習生>
監修 館山市立博物館

城山

城山ガイド 歴史

「館山」の地名の由来になっている城山は、戦国大名里見氏の居城跡として知られています。実際に里見氏がここに住んだのは天正18年(1590)から25年ほどの間ですが、山麓からは、それ以前の室町時代のものである五輪塔や陶磁器も見つかっています。江戸時代に入ってすぐに、里見家の10代忠義が伯奢国(鳥取県倉吉市)に移されると、館山藩は廃藩となり、館山城も取り壊されました。その後江戸時代の末に、旗本だった稲葉氏が新たに館山藩をたてて、この地に陣屋を築きます。第二次大戦中には高射砲陣地となったため、山頂が削られ、周辺も破壊されましたが、近年城山公園として整備されました。

山頂周辺

(1)詩碑

 小高熹郎氏が作詞した「里見節」の詩碑。

(2)はらからの碑

(2)はらからの碑

 歌人佐佐木信綱(1872~1963)と館山出身の神作磯二(1890~1915)の歌二首を刻んだ碑。

(3)浅間神社

(3)浅間神社

 城山を富士山にみたてて、富士の神様をまつったもの。弘化4年(1847)に富士講中が奉納した手洗石と、幕末の絵師渡辺雲洋が描いた龍の天井絵がある。

千畳敷

(4)機関銃座跡

(4)機関銃座跡

 第二次大戦中に、火砲や機関銃が置かれた場所。丸く土塁をめぐらしてある。はらからの碑の裏にもコンクリートの砲座がある。

(5)海軍用地標柱

 第二次大戦中に軍の用地となった時建てられた、コンクリートの柱。2本ある。

(6)火薬庫用洞窟

 第二次大戦中に、弾薬を保管した。

義康御殿跡周辺

(7)姥神

(7)姥神

 里見氏が館山を居城にする以前の、室町時代の五輪塔。中世のやぐらが崩れて埋もれていたところから、明治時代に掘り出された。同じ場所から陶磁器も見つかっている。

(8)煙硝倉庫

(8)煙硝倉庫

 江戸時代の末に館山藩が火薬類を保管した倉庫。

(9)堀切

(9)堀切

 里見氏の居城だったころの空堀跡。尾根をV字に切って遮断し、敵の侵入を防いだ。

(10)義康御殿後

(10)義康御殿後

 館山を居城にした里見氏9代義康の御殿があった場所。発掘後、柱の跡に石を置いて目じるしにした。

館山藩陣屋跡

(11)貴美稲荷神社

(11)貴美稲荷神社

 里見氏の館山藩が廃藩になった後、江戸時代末に館山藩主となった稲葉氏がまつった神社。

(12)釆女(うねめ)井戸

(12)釆女(うねめ)井戸

 里見家の家臣印東釆女の居宅で使用したと伝えられる井戸。

(13)館山藩陣屋跡

 天明元年(1781)に旗本稲葉正明が安房国で加増をうけて1万石の大名となり、館山藩をたてた。寛政3年(1791)、現在「御屋敷」とよばれる場所に陣屋が築かれ、明治4年に廃された。

根古屋の古墓

(14)根古屋の古墓

(14)根古屋の古墓

 (7)と同様の五輪塔が掘り出されたところで、里見氏が築城する以前の、武士の居住地域とされる。

孔雀園

(15)孔雀園

 この場所は新御殿跡とよばれるところで、最後の城主里見忠義の御殿跡。昭和10年頃から終戦まで海軍の施設や官舎があった。当時の軍用の洞窟が残されている。

切岸

(16)切岸(きりぎし)

(16)切岸(きりぎし)

 里見氏の館山城は平山城形式で、急斜面の崖を石垣のかわりに利用した。この部分は、岩盤を垂直に切り立てた人工の城壁。


制作:平成8年度博物館実習生
監修 館山市立博物館