初代後藤義光の彫刻を訪ねて 1.(千倉・白浜編)

後藤義光その1 義光生誕の地

文化12年(1815)生~明治35年(1902)没

初代「後藤利兵衛 橘 義光(ごとうりへえ たちばなのよしみつ)」は、近世・近代における「安房三名工」の一人である。南房総市千倉町北朝夷上人塚(きたあさいじょうにんづか)に生まれ、晩年には館山市下真倉(しもさなぐら)(青柳(あおやぎ))に住んだ。生まれ育った千倉町には数多くの義光の彫刻が残され、今も各年代につくられた作品を見ることができる。

義光は社寺の向拝(ごはい)や山車(だし)・神輿(みこし)などに施された龍の彫刻や、篭(かご)彫り技法(素材の外側から内側に施した丸彫りと透かし彫り)を得意とする宮彫り師であるが、門人育成にも力を入れ千倉後藤流とも言うべき一派をなした。墓は菩提寺の西養寺(さいようじ)(南房総市千倉町北朝夷)に残されている。

安房の三名工(義光・伊八(いはち)・石翁(せきおう))

安房の三名工として後藤義光・波の伊八(いはち)・武田石翁(せきおう)が知られている。各地に残る名工たちの作品を比較しながら見るのも興味深い。

  • 武志(たけし)伊八郎信由(のぶよし)(鴨川市西条地区打墨(うっつみ)生まれ:1752年~1824年、行年73歳)
    波の彫り物を得意とする伊八は、千倉町川合区では愛宕神社本殿の「波」、牧田区では下立松原神社及び御霊(みたま)白幡明神本殿の「瑞獣(ずいじゅう)」(応竜・麒麟・霊亀・鳳凰)や「龍・虎」など数多くの彫刻を残している。平館区徳蔵院客殿 の「波や龍」や、大川区大聖院欄間の「波に龍」・「雲に麒麟」も見応えがある作品である。
  • 武田石翁(せきおう)(南房総市本織(もとおり)生まれ鋸南町元名(もとな)住:1779年~1858年、行年80歳)
    若死にした二人の娘の供養に彫ったという延命地蔵半跏(はんか)像(個人像)は、「石工」にとどまらず芸術的石彫り職人へと傾いていった石翁の最高傑作といわれる。表情の豊かさと立体的な彫りの素晴らしさは、白浜地区厳島神社「七福神」の石像にも現れている。
(1)愛宕(あたご)神社

(1)愛宕(あたご)神社

所在地 南房総市千倉町川合722-1

祭神は火結命(ほむすみのみこと)で火の神様。治承年間(1177~1181)に地蔵尊を安置し京の愛宕山より権現(ごんげん)を勧請(かんじょう)して祀り、現社殿には義光14歳(幼名若松)文政11年(1828)の作という大黒天像(像高74cm)・賓頭廬(びんずる)尊者像(座高48cm)がある。その他にも社殿内正面には武志伊八郎の龍・波の彫刻(23歳の作)や、大絵馬の天孫降臨神話図、源頼朝富士巻狩図(いずれも南房総市指定)がある。

(2)福壽山正福寺

(2)福壽山正福寺

所在地 南房総市千倉町瀬戸2293-1

真言宗のお寺で本尊は不動明王。天正元年(1573)に創建され、北朝夷円蔵院の隠居寺といわれている。境内の南側に立っている石塔は平館(へだて)の加藤卯之助の仕事だが、彫刻は義光の作で明治31年(1898)85歳のものである。正面に地蔵菩薩の坐像があり地蔵供養塔(十方信者供養塔)と呼ばれている。その側面には宝篋印陀羅尼(だらに)の梵字(ぼんじ)が刻まれている。本堂には当時の明道住職の寄附による義光86歳作の誕生仏があり、4月の花祭にはこの釈迦像の頭上に甘茶を注ぐので拝見できる。1000体近くの小さな地蔵像が置かれえいる千体地蔵堂は明治27年(1894)に再興されたもので、向拝(ごはい)の火炎の親子龍と外壁正面の扉の両脇は2代目義光の彫刻である。中の格天井46枚の花鳥画は鈴木寿山(じゅざん)の作。

(3)延命地蔵尊

(3)延命地蔵尊

所在地 南房総市千倉町北朝夷(きたあさい)2830

石造延命地蔵尊は館山消防署千倉分署裏児童公園の一角に、天明2年(1782)の手水石、大正5年(1916)の墓石、馬頭観音、お稲荷様などと共にまとめられている。近くに小高い山にあった産土神(うぶすながみ)「八幡神社」(寺庭区)などの内陸部への移設や土地造成に伴い、昭和40年(1965)2月24日現在地に移された。台座正面には、浄土に行けない人々や幼い者をすくうとされる地蔵尊を梵字(ぼんじ)「(力)」や瑞雲上の宝珠三個で表現してる。また台座の脇や奥には地域の「扶助(ふじょ)人」の名や、石工「長狭郡宮野下村 石渡紋三郎」と、その扶助として「後藤利兵ヱ橘義光」の名が刻まれている。明治15年(1882)11月、義光68歳の作。

(4)八幡山西養寺

(4)八幡山西養寺

所在地 南房総市千倉町北朝夷861

真言宗のお寺で本尊は不動明王。義光の菩提寺で、初代義光(利兵衛)夫妻・二代義光(紋次郎善政)夫妻・三代義光(山口滝治)夫妻・三代義光次男(光治)などの墓がある。客殿向拝の玉取龍・象・獅子の彫刻は、天保15年(1844)義光がまだ光定として称していた頃のもの。祖父山口佐次右衛門と父山口弥兵衛が彫物施主となって奉納したもので、平成11年の本堂新築を機に客殿に移された。墓地入口には蛇紋岩で造られた260cm程の義光作石造地蔵菩薩半跏(はんか)像(南房総市指定文化財)があり、反花座(かえりばなざ)正面に「牡丹」、基礎の正面に「獅子」・左面に「波に宝珠」・右面に「波に亀」が彫刻されている。隣にある150cm程の石造地蔵菩薩半跏(はんか)像も銘は無いが義光作とされ、また、魚藍(ぎょらん)観音堂前の木像賓頭蘆尊者(びんずるそんじゃ)像も義光が小さい頃の作品といわれている。屋根に銅製の大北鯛が乗るこの観音堂は、外房・内房の漁師の信仰が厚く、地域産業の振興・家運繁盛等の祈祷所として参拝者が多い。近くに義光の生家がある。

(5)中嶋山住吉寺

(5)中嶋山住吉寺

所在地 南房総市千倉町南朝夷1353

真言宗のお寺で本尊は阿弥陀如来。観音堂は天保年間(1830~1844)に改築され、お堂には行基菩薩作と伝える正観世音菩薩像が安置されている。向拝は明治17年(1884)、義光70歳の時の作であり、正面には親子龍が刻まれて子龍は下を向き親を見つめている。裏には「北千倉漁師中世話人、當所世話人」党の連名がある。向拝の左右には象鼻・獅子鼻が、その下には牡丹と獅子等が刻まれ、手挟(てばさ)みの左右には鷹と松が刻まれ、この向拝全体が一体化した重厚な奥深い彫刻をなしている。また観音堂の外周にも獅子鼻・掛鼻等が刻まれており、その気迫が伝わってくる。それぞれの寄進者の名もある。また石段の上り口には千倉の鰹節製造の祖、土佐与一(とさのよいち)の報恩の碑がある。石段の途中には句碑がある。

(6)新福山圓蔵院

(6)新福山圓蔵院

所在地 南房総市千倉町北朝夷2393
圓蔵院 文化財マップ

真言宗のお寺で本尊は地蔵菩薩。本堂手前の参道左手に「如法大師供羪(くよう)塔一千五十年」の文字と弘法大師像を浮き彫りにした、高さ約6m程の石塔がある。裏に天女の浮き彫りと「明治十七年(1884)甲申春三月造立、彫工當邑(当村)後藤義光七十二歳」と彫られている。住職鈴木明道が弘法大師の一千五十年遠忌を記念して奉納したもの。関東大震災で崩壊したが、昭和3年(1928)、住職啓道や末寺の住職・檀家の人達により再建されている。本堂内、須弥壇(しゅみだん)前の欄間に施された彫刻は、琴を奏でる玉巵(ぎょくし)(西王母の3女)に見入る龍や唐獅子などで、安政6年(1859)に、住職の成道、義光の祖父山口佐次右衛門と父山口弥兵衛が奉納したもの。義光45歳の作。房州出身で京都の醍醐寺三宝院住職の金剛宥性(ゆうしょう)が奉納した明治5年(1872)のご詠歌扁額(へんがく)は、龍が繊細かつ緻密に彫られたもので、回廊にある六角経蔵とともに義光の作である。境内には、古い本堂の廃材を用いて建てられた江戸中期の鐘楼堂や享保9年(1724)の梵鐘(共に南房総市指定文化財)、宝篋印塔などがある。六角経蔵篋は次男福太郎義道の作。

(7)稲荷神社

(7)稲荷神社

所在地 南房総市千倉町平館(へだて)598

祭神は、倉稲魂命(うかのみたまのみこと)。安永2年(1773)に平館(へだて)の徳蔵(とくぞう)院が京の伏見稲荷より名戸川の地に勧請し、戦後、平館稲荷(いなり)と改めた。社殿向拝の龍は、義光83歳の作で玉取龍が力強く彫られている。願主は「曦(あさい)村平館」の堀江市太郎で、明治30年(1897)2月10日に奉納した。2月の初牛の前日の祭りでは、稲荷山の頂上から下へ赤い提灯が飾られ、福引なども行われ参拝の人で賑わう。

(8)高塚不動尊

(8)高塚不動尊

所在地 南房総市千倉町大川817
高塚不動尊 文化財マップ

真言宗のお寺で本尊は不動明王。高塚山山頂の元不動にある旧不動堂の前に、義光65歳の時に造った石造の狛犬が今も置かれている。お堂の左側は背に乗る子獅子を豊かな毛並みを持つ親獅子が振り向き、さらに地上に居て上を向く子獅子、それぞれが見つめ合っている姿である。高さは台座を含め約2.2m。台座に刻まれた文字によれば、明治12年(1879)に、第17世住職小熊隆宝、世話人6名と136名の信者が奉納したもの。「文化十二年(1815)正月北朝夷生 後藤義光」と彫師の名と生年さらに在所まで刻まれている。山頂までの参道には浅間講の人々による富士登山記念碑、伊勢金毘羅参拝記念碑、山頂には風神雷神門、江戸日本橋船町の魚問屋が奉納した石灯籠などがある。

(9)日枝神社

(9)日枝神社

所在地 南房総市千倉町白間津(しらまづ)335
日枝神社 文化財マップ

延喜元年(901)、京の都から来たという岩戸大納言良勝(いわとだいなごんよしかつ)創建による神社で、祭神は大山昨命(おおやまくいのみこと)。江戸時代までは「日枝山王(ひえさんのう)」(仏教の守護神)と呼ばれていたが、明治初期「日枝神社(ひえじんじゃ)と改称。義光による社殿彫刻は明治20年(1887)の社殿再建時に制作された(73歳)。「親子龍」(向拝)、「波に千鳥」(虹梁左右)、篭彫(かごぼ)りによる「波に鯉」や「波に亀」(向拝柱の肘木(ひじき))、「鳳凰・麒麟(瑞獣)」を組み合わせた手挟(たばさみ)一対など、来訪者への恩寵を感じさせる作品群である。向拝木鼻の獅子の手から鞠(まり)が欠落しているのは残念である。4年に1度行われる「白間津の大祭」(国指定重要無形民俗文化財)では、仮宮に渡御した日枝神社の祭神及び海や空から来臨した神に「ささら踊り」等が奉納される。みやび風の舞や神々を仮宮まで招く大綱渡し(おおなわわたし)等一連の祭は、白間津地区の開拓を神々に感謝し、五穀豊穣・大漁を祈願して行われる。

千倉町

千倉に残る初代義光の作品とされるものには、宇田地区の熊野神社の拝殿欄間彫刻や、寺庭の八幡神社の屋根妻彫刻、久保神社の狛犬などがある。神輿彫刻は川口鹿島神社、大貫熱田神社などにあるほか、個人所有の大黒天像や仏壇彫刻も数多く残されている。

白浜町

島崎地区法界時の向拝の彫刻が義光作と伝えれられている。また、根本地区の山車が明治28年(1895)、81歳の時の作である。


<作成 ミュージアムサポーター「絵図士」 青木悦子・青木徳雄・金久ひろみ・川崎一・鈴木正・吉村威紀>

館山の気になる樹 3.

(1)諏訪神社の自然林

(1)諏訪神社の自然林

諏訪神社 文化財マップ
平成13年館山市天然記念物指定

諏訪山山頂(館山市正木4293-1)の諏訪神社は、延喜(えんぎ)元年(901年)創建で建御名方命(たけみなかたのみこと)を祭神とした正木郷の鎮守で、正木地区(岡・本郷・川崎・西郷)では最も由緒深いお社である。ここから眺望する光景は、館野・九重の農村地帯から市街地をはじめ、相模の山々や富士山を遠望できる。境内は花見の名所であり、近隣の人々にとっては憩いの場所でもある。夏の初めにはヤマユリが咲き乱れ、訪れる人の目を楽しませてくれる。標高74mの山頂にある社殿をとりまく林は、自然林として保護される貴重な鎮守の杜(もり)である。諏訪山の自然林は、近くの那古山などと同様、スダジイを優占種とする極相林である。自然林の構成樹は高木層ではスダジイが優占し、オガタマノキ・ホルトノキ・ヤマモモ・ヤブニッケイ・ムクノキなど、亜高木層やつる性の木本(もくほん)層ではヤブツバキ・ヒサカキ・ヒメユズリハ・テイカカズラ・フウトウカズラ・キヅタなど、低木層ではアオキ・イヌビワ・ヤツデなど林床にはツルコウジ・アリドオシ・キチジョウソウ・ヒガンマムシグサなどが見られ、房総南部を北限とする暖地性植物が多い。

(2)那古山の自然林

(2)那古山の自然林

那古山 文化財マップ
昭和45年館山市天然記念物指定

那古山(館山市那古670-2)は那古寺の北側の裏山で、地元ではシキビ(式部)山とも呼ばれている。那古寺は真言宗のお寺で、観音堂には館山市有形文化財の千手観音菩薩が祀られ、ほかに重要文化財の銅造千手観音立像や県指定の阿弥陀如来座像、観音堂・多宝塔など多数の文化財がある。標高82m、東西に細長い独立丘陵の那古山の自然林は、急な南斜面を覆う樹木がスダジイの極相林であり、古くから厚い信仰のもとに保護されてきた。北斜面はなだらかな地形でビワ畑が広がる。昔、スダジイ林の上にあったクロマツ林は、昭和30年代にマツクイムシが大発生し、クロマツは立ち枯れ、現在のようなスダジイ林に変わってしまった。自然林の高木層はスダジイが優占し、次いでヤブニッケイ・タブなど、亜高木層にはヒメユズリハ・モチノキ・ヤブツバキなど、低木層にはアオキ・イヌビワ・ヤツデ、草本層にはヤブコウジ・キチジョウソウなどが生育する。この森林の特徴はホルトノキ・ヤマモモ・オオバヤドリギなどの暖地性植物や、トベラ・ツルオオバマサキなどの海岸性植物が混生することである。観音堂脇の階段を上ると左手に「古屋敷」と呼ばれる広場があり、入口の両脇に太い枝が縄のようにねじれたスダジイと、四方に枝を広げたヤブツバキが門のように立ち、ここを過ぎて左折すると潮音台という展望台に出て、那古の町や鏡ヶ浦が一望できる。平成9年(1997)に尾根伝いの「式部夢山道」が整備され、約600mの山道が東に延び、自然林が広がる。この道を東に進むと、ホルトノキがあり足元に赤い葉が見られる。更に歩くと山頂付近では夏はヤマユリがたくさん咲き、アカメガシワ・クワの実に似たコウゾブ・ヤブニッケイ・スギ・イイギリ。ヤブツバキ・ヤマザクラも見られ、麓近くはヤツデが多い。

(3)沖の島・高の島

(3)沖の島・高の島

沖の島は鏡ヶ浦に面し海抜12.8m、東西300m、南北200mで面積約4.6ha、周囲約1kmで、かつては離れ小島だったが、現在は砂の堆積(長さ200m、幅30m~80m)でつながった小島である(昭和28年頃にはつながり陸継島になった)。一方、現在自衛隊の基地に隣接した小さい丘も、かつては高の島という離れ小島だったが、埋め立て(昭和5年の海軍航空隊基地造成)によって内陸とされ、森の茂みがその名残を見せている。海抜16.7m、東西110m、南北200m、面積2.7haの台地である。どちらも常緑広葉樹のタブノキ・ヤブニッケイ、落葉広葉樹のカラスザンショウ・アカメガシワなど房総半島南部に原生していた自然林を観察することができる。沖の島の植物の種類は北限・南限の植生にわたって約240種類にのぼる。房総半島南部は地殻変動が活発で、史料に残るだけでも元禄地震(1703)の隆起や、関東大地震の際でも、2.1m~2.4m程の隆起が確認されている。斜めになって地層(2000万円前につくられた堆積岩地層は北に傾斜)や岩がむき出しになったままの磯から、隆起を繰り返した歴史を見ることができる。チョウチョウウオやスズメダイ・ツノダシといった熱帯魚(死滅回遊魚)が生息する北限域であり、様々な生態系を観察することもできる。海岸で珍しい貝殻や流木、イルカの耳骨や化石などを探すのもまた面白い。島の周囲には高温・高塩分の黒潮分流が流入し、亜熱帯性の要素をもつ動植物が生育し、房総半島南部の自然観察やレクリェーションの好適地である。また現生サンゴの海としても知られている。沖の島には宇賀明神や無人灯台、地下壕などがあり、西側の展望台からは洲崎灯台や海岸段丘が望まれる。高の島には多賀之嶋弁財天(高之嶋辨天閣)、魚付林を植林した記念碑・波切不動・防空壕などがある。ここには農商務省水産講習所(東京海洋大学)高の島実験場が作られ、明治42年から昭和の始めまで海洋生物の調査研究が行われた。今でも施設の残跡が見られる。

(4)洲崎神社の自然林

(4)洲崎神社の自然林

洲崎神社 文化財マップ
昭和45年館山市、昭和47年千葉県天然記念物指定

洲崎神社(館山市洲崎1697)の天太玉命(あめのふとだまのみこと)の后(きさき)である天比理刀咩命(あめのひろとめのみこと)を祀る神社で、平安時代に編纂された『延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)』にその名が見られるという、古くから広く知られた神社である。源頼朝が源氏再興を祈念し、さらに妻政子の安産祈願をしたことが『吾妻鏡(あずまかがみ)』にもみられる。また戦国時代初期、太田道灌(どうかん)は江戸城の守り神としてここの祭神を勧請(かんじょう)した(現在の神田明神)。鎮座地の御手洗(みたらし)山(標高119m)は、「ご神体山」として聖域であったため、自然のままに残された自然林といわれる。総面積は、5.4haであるが、頂上付近はヒメユズリハの優占した林、中部域(拝殿・本殿の周辺)はスダジイの極相林、下部域(階段の周辺)はタブノキの優占した林となっている。また、この林は山裾を海岸に接し、南方系や耐潮性の種(ホルトノキ・ツルコウジ・ボウシュウマサキなど)を含む房総半島南部の特徴のある自然林といえる。なお。明治期に始まった、「東京湾要塞化」の一環として、昭和2年(1927)に西岬村坂田(館山市坂田)に配備された「洲崎第二砲台」の観測所として照明灯などを配備した「第一観測所」が、昭和4年(1929)山頂に設置されたが、その遺構と思われるものが今も残っている。

(5)平砂浦砂防保安林

(5)平砂浦砂防保安林

「日本の道100選」

房総半島の先端に位置する平砂浦砂防保安林は、館山市相浜から西岬の房総フラワーライン(千葉県道257号南安房公園線)に沿う延長5kmに及ぶクロマツ(黒松)の植林帯で、146haの規模である。この土地は元禄16年(1703)の巨大地震により一挙に3mも隆起した土地で、もとは一面海底の砂地であった。秋から春先まで吹く強い西風は耕地を埋没させ、たちまち砂山と化し耕地は後退せざるを得なかった。江戸時代から農家の人達は、この砂を防止するため、笹を刈り砂地に挿し、農閑期には川の水を利用して砂を海まで流す等の作業を繰り返したが、努力の甲斐もなく砂地は広がる一方であった。明治25年(1892)頃から地域の人達は協議を重ね、砂防工事を開始したが、遅々として進行することはなかった。その後県に働きかけ大正10年(1921)から県費の半額助成と技術指導の援助を得て、潮風に強いクロマツ(黒松)を植栽したが、大正12年(1923)の関東大地震で更に2m程の隆起があり、再び荒涼として砂原と化して苦労は報われなかった。戦時中は軍の演習場として使用され、さらに終戦直後の巨大な台風の来襲は土地の荒廃に拍車をかけた。これらの状況を打開しようと、開拓組合・役場・村会議員等で砂防の具体案作り等の活動を開始したが、余りに遠大な計画と見なされて計画は進展しなかった。その頃当時の県知事や県開発部長の視察があり住民達は長い間の苦しみを訴え、砂防工事の早期着手を請願、その後も度々県に工事の開始を要望した。その結果、昭和23年(1948)「飛砂防備砂防林工事」が着工される事となり、地域を上げて全面的に協力する事を約束し、工事施行に必要な敷藁(しきわら)や資材の提供、労働力の提供も惜しむ事なく人々は協力をした。この様な努力の結果、昭和32年(1957)、9年間に渉(わた)る工事は完了した。この大事業を後世に伝えるために記念碑が建ち、砂防の歴史が記録されている。

(6)館山野鳥の森

(6)館山野鳥の森

「日本森林浴の森10選」

館山野鳥の森(館山市大神宮553)は房総半島南部の丘陵地帯に属しながらも、山裾は太平洋の海岸に接している。南部の天神山(てんじんやま)(標高146m)と北部の吾谷山(あずちやま)(標高103m)の間は、谷津や池もある変化に富んだ地形をしている。自然の姿を利用した公園として特別鳥獣保護区に指定され、遊歩道も良く整備されて、年間を通して植物観察や野鳥観察、ハイキング、森林浴などの行事も企画され多くの人を楽しませている。森の面積は約11haで、コナラやカラスザンショウ・サクラなどの落葉樹と、低木のヒサカキ・トベラ、林床にヤブコウジ・フウトウカズラ・ニリンソウなどを交えながら、高木のスダジイ・タブノキなどの優占する林となっている。落葉樹が混在することで地面に日照と栄養が供給され多様な生物相を支えている。平成20年(2008)の調査資料によると、野鳥の森を含む大神宮エリアには、シダ植物・種子植物・その他を合せ、およそ380余種の植物相が確認されている。恵まれた森林に多くの野鳥が生息し、年間を通して観られるのはアオサギ・カルガモ・トビ・キジバト・コゲラ・ヒヨドリ・モズ・カラスなどの21種類で、春から夏にかけてはツバメ・ホトトギス・オオルリなど、秋から冬にかけてはミサゴ・オオタカ・ハヤブサの他、ゴイサギ・マガモ・ルリビタキ・アカハラなど、多様な鳥を観る事ができる。なお平成16年(2004)から平成21年(2009)の間に観測された野鳥は106種類である。


<作成:ミュージアム・サポーター「絵図士」
青木悦子・川崎一・御子神康夫・吉村威紀>
監修 館山市立博物館  〒294-0036 館山市館山351-2 ℡.0470-23-5212

館山の気になる樹 2.

(1) 総持院のクス・イチョウ・スダジイ

(1) 総持院のクス・イチョウ・スダジイ

所在地 館山市沼1139

真言宗智山派で獅子吼山総持院慈眼寺と称し、「沼の大寺」といわれて親しまれている。境内には夫婦(めおと)楠(クス)と呼ばれる大楠があり、幹周が4.8m(樹高17m・16m)あり樹齢400年と伝えられる。自然の中に寄り添う心和(なご)む木である。その他にイチョウ(幹周3.9mと2.6m、樹高10m・8m)が山門の左右にあり、奥の墓所に行く坂の途中にスダジイ(幹周3.9m、樹高20m)もある。当寺は平安時代後期の永長2年(1097)に安房国司 源朝臣親元(みなもとのあそんちかもと)により創建されたお寺である。この寺は里見氏との関係が密接で、第9代義康の寺領充行(あてがい)状、第10代忠義の朱印状、徳川幕府代官中村弥右衛門の達状(たっしじょう)や、第3代将軍徳川家光以下歴代将軍の朱印状写が保存されている。山の奥の洞窟は館山市指定史跡で縄文・弥生時代の土器のほか、古墳時代に墓として使われたことから、舟を用いた棺(ひつぎ)や甲冑・玉等の副葬品が発掘されている。

(2) 天満神社のヒマラヤスギ・ムクロジ・イヌマキ・イチョウ

(2) 天満神社のヒマラヤスギ・ムクロジ・イヌマキ・イチョウ

所在地 館山市沼1165

沼の天満神社は平安時代の後期、国司として赴任中(1096~1100)の源親元(みなもとのちかもと)が京都の北野天満宮を勧請(かんじょう)し創建した社である。この社には通称シーダと云われている属のうちヒマラヤスギがある。日本には明治12年(1879)に渡来し、円錐状の樹容が美しい事から神社や公園に多く植栽された。この社の木は幹周2.9mもある。また落葉高木のムクロジの大木がる。この種類は中部地方に多く、この社にあるものは幹周が2.4m(樹高24.5m)。その他常緑高木のイヌマキがある。イヌマキは潮風が当たる暖地の海岸地帯に多い。天満神社には幹周2.6mと2.5m(樹高25m)の2本が確認されている。他にはイチョウの巨木が境内にある。境内には数基の石碑があるが、その中でも明治35年(1902)の菅公1000年祭記念の碑には、菅原道真(すがわらのみちざね)が大宰府(だざいふ)へ赴く時に吟じた「東風(こち)ふかば・・・」と、大宰府に配流中の心境を訴えた漢詩「去年今夜侍清涼・・・」の二首が刻まれている。

(3) 沼のビャクシン

(3) 沼のビャクシン

所在地 館山市沼宇野庭443
館山市天然記念物 昭和36年10月21日指定

十二天神社境内にあり、幹周7.4m(樹高17m)、枝張東西20m、南北24mに広がるビャクシンである。地上から2m~4mで11本に枝分かれし、内1本は地上4mのところで切断された跡がある。樹皮は縦に裂け、ねじれ上がっており、表皮が脱落して空洞があるものの、かたちのよい樹容をみせている。樹勢は極めて旺盛で推定樹齢約800年とされる。この木にはシャリンバイ・イヌビワ・ヤマハゼ等が共生植物として生育している。形の良い樹冠を形成しており、一般には庭園や神社の境内に植えられ観賞価値の高い長樹木として知られている。この樹が県内で最も大きなビャクシンだという。社殿の向拝(ごはい)にある龍の彫刻は後藤義光の作である。

(4) 南条八幡神社のクス

(4) 南条八幡神社のクス

所在地 館山市南条518-2
南条八幡神社 文化財マップ

治承4年(1180)に源頼朝が伊豆石橋山の戦いで敗れたあと、安房国から兵を挙げる時、京都に石清水(いわしみず)八幡宮の御霊(みたま)を勧請(かんじょう)し、社殿を建立したと伝えられる。社殿は大正4年に改築したが、震災による倒壊で昭和8年に建替えられた。境内横の池の中に珊瑚(さんご)の化石がり、沼地区にある珊瑚層と共に「沼珊瑚層」として昭和40年4月21日に館山市天然記念物に指定された。神社背後の山腹には古墳時代の横穴墓38基あり、東山横穴式群と呼ばれている。境内にある最大の木は二つ目の石段左にある「クスノキ」で、胸高幹周は6.06m、樹高は約26mである。

(5)山荻の民家のカヤ

(5)山荻の民家のカヤ

所在地 館山市山荻585

館山市で最大の「カヤ」の木が山荻の個人宅にある。この家の屋号は「伝五郎」というが、近所の人は「かやんき」と呼び、「カヤ」の大木がこの家の目印であることがわかる。山荻から畑区へ行く市道沿いにあり、山荻神社から約1km先の左側石垣の上に生育している。「カヤ」はイチイ科、カヤ属の常緑高木で、高木にならないと開花結実しない。樹齢は家人の話では推定400年~500年という。幹周は3.85m、樹高18m、枝張りは東西12m、南北17mあり、館山市の「カヤ」では最大の巨木である。昭和43年頃まではこの木の実から食用油を採取していたそうである。

(6)出野尾の道端のオガタマ

(6)出野尾の道端のオガタマ

所在地 館山市出野尾字宮下

このオガタマは出野尾の小網寺から清掃センターへ行く途中、三叉路を右に約100m先の道幅にある。オガタマノキはモクレン科の常緑高木で、神社や公園などに植えられている。和名は神道思想の「招霊(むきたま)」から転化したものと云う。日本神話の天照大神(あまてらすおおみかみ)の天岩戸(あまのいわと)隠れにおいて、天岩戸前で舞った天鈿女命(あめのうずめのみこと)が手にしていたとされ、古くには榊などととも神前に供える木として用いられた。幹周は1.8m、樹高約12m。この付近には安房国札32番札所の小網寺のほか、十二社神社・風早不動尊など見るべきものも多い。土手には秋にはツリカネニンジン等多数の山野草が咲き、訪れる人の目を楽しませてくれる。

(7)神余小学校のイロハモミジ

(7)神余小学校のイロハモミジ

所在地 館山市神余1364

神余小学校は館山市街地から白浜方面へ9km行ったところにある。開校した明治7年に入学した児童の数は23人、明治40年には150人、現在の在校生は20人程。今の場所に学校ができたのは大正13年(1924)のことで、関東大震災で校舎がつぶれたので広い今の場所へ移ったものである。校門の左手に幹周2m、高さ7mの大きなイロハモミジの木がある。大正13年に校舎が移転した時、一緒に移ってきたという。平成14年の強い台風の非道ひどい塩害で学校のシンボルのカエデも弱ってしまったが、地域住民と樹木医などの協力によって治療に取りくんでいる。樹勢回復には数年かかるといわれている。みんなで見守りたいものである。イロハモミジは低山地にもっとも普通に見られるカエデで、庭園にもよく植えられている。

(8)金蓮院のイチョウ

(8)金蓮院のイチョウ

所在地 館山市犬石379
金蓮院 文化財マップ

当寺には藤原期に造られたと考えられる木造地蔵菩薩像や、青面金剛を掘り出した庚申塔や二代武志伊八郎の欄間彫刻、奇石「枕字石(ちんじいし)」などがあり、歴史と伝説が豊富な寺である。また安房国札三十四観音の29番札所として参拝されている。イチョウは山門の左側にあり、幹周4m、高さ10m程で、上の方は整枝されているが存在感がある。平成21年の秋まではタブノキが観音堂の裏手にあり、幹周2.6m、高さ16.5mで、根が盛上がって面白い形になっていた。観音堂の前には、2000年以上前に咲いていた古代ハス「大賀ハス」の池がある。これは平成6年に3個の実を譲り受けて発芽させ、3年後の平成10年7月に見事開花したものである。

(9)安房神社のイヌマキ・イチョウ・タブ

(9)安房神社のイヌマキ・イチョウ・タブ

所在地 館山市大神宮538
安房神社 文化財マップ

安房神社の本社御祭神は天太玉命(あめのふとだまのみこと)、天比理刀咩命(あめのひりとめのみこと)、下の宮御祭神は天富命(あめのとみのみこと)、天忍日命(あめのおしひのみこと)である。神社の始まりは2660年以前に遡るとされ、天富命が阿波の忌部一族を率いてこの地に到着し開拓を成し遂げ、祖先である天太玉命おお祀りした事に始まるという。この社の御神木はイヌマキで、下の宮と御手洗池の間にあり、幹周3.4m、樹高15m、地上3m位のところで3本に分枝している。またこの社には、イチョウの巨大樹が2本ある。イチョウの原産地は中国であるが日本に渡って来た時期は不明。イチョウと云う和名は中国語の鴨脚(=いちょう)の近世中国音(ヤーチャオ)から転化したという。本社上の宮と御仮屋の間には幹周6.6m、樹高32mの巨木があり、上の宮下段の海軍落下傘部隊慰霊碑の前には、幹周4.6m、樹高32m、地上5m程のところで7本に分枝した巨木がある。なお本社拝殿の右手には、幹周3.1m、樹高20mのタブノキがあり、他にもこれに準ずる大きさの樹が数本見受けられる。タブは日本暖帯林を構成する樹種の一つで、青々と茂り勇壮な大木となる。この社の近くには「県立野鳥の森」があり、多くの樹種と100種類以上の野鳥が観察出来る。


<作成:ミュージアム・サポーター「絵図士」
青木悦子・川崎一・御子神康夫・吉村威紀>
監修 館山市立博物館  〒294-0036 館山市館山351-2 ℡.0470-23-5212

館山の気になる樹 1.

(1)ソテツと大福寺 

所在地 館山市船形835
崖観音 文化財マップ

 崖の観音で知られるこの寺は、大福寺と称し、本尊は十一面観世音菩薩で、船形山の崖の中腹にある祠に刻まれている。境内の本堂前には2本の巨大なソテツがあり偉容をほこっている。その大きさは7本と6本の叢生で樹高は5.5mほどである。崖の観音堂に立つと、鏡のような波静かな館山湾を一望に収め、実に風光明媚である。養老元年(717)に行基(ぎょうき)(668~749)が東国行脚(あんぎゃ)の折、海上安全と豊漁を祈願して、山の天然の岩肌に彫刻し、その後慈覚(じかく)大師(794~863)が来錫(らいしゃく)した折に、堂宇が創建されたといわれている。明治43年の大豪雨、大正12年の大震災で倒壊し、観音堂は大正14年に、本堂は昭和元年に建てられ現在に至っている。

(2)那古寺の大ソテツ

(2)那古寺の大ソテツ

所在地 那古1125
那古山 文化財マップ
館山市天然記念物 昭和45年2月20日指定

 那古寺は養老年間(717~724)に行基が創建し、のち慈覚大師が再興した。この寺は元禄や関東の大地震に遭遇するも、多くの人達の協力で再建されてきた。また6年がかりの平成の大修理を経て、多くの参詣人を迎えている。大ソテツは本坊に向って右前に植栽されており樹高は6m、12本の叢生である。樹令については400年とも云われている。この根元の石垣は嘉永7年(1854)に茨城出身の江戸大相撲前頭筆頭の一力長五郎一行がこの地で勧進相撲を開いた際に奉納した。また那古寺の裏山(通称シキビ山)の自然林は昭和45年2月20日に館山市天然記念物として指定されている。この山の主な樹種は、スダジイ、タブノキ、ヤブニッケイ、ヤブツバキ、ヤマモモ等で、常緑広葉樹が混在している。平成9年(1997)には、この樹林の中に「式部夢山道(ゆめさんどう)」と名付けられた遊歩道が整備され、多くの人達に活用されている。

(3)那古薬王院のタブノキとイチョウ

(3)那古薬王院のタブノキとイチョウ

所在地 那古1039

 那古の薬王院(通称辻の堂)には薬師三尊像が祀られている。この寺は天正6年(1578)に一人の漁師が那古浦の海中から引き上げた絵像を秘蔵した事から始まる。或る夜、日頃信仰していた薬師如来が眷属(けんぞく)の十二神将を伴って漁師の元に現れると、日頃悩んでいた娘の病を救ってくれた。この機縁を知った漁師は、直ちに剃髪し草庵を結び、朝夕に勤行につとめ幾年月を経て往生したという。これが現在の薬師堂の創生縁起とされている。境内にはタブノキがあり、大きいものは幹周3.93m、樹高21.0mに達する。またイチョウの木は幹周3.90m、樹高21.0mもある。

(4)鶴谷(つるがや)八幡宮のイヌマキとモミ

(4)鶴谷(つるがや)八幡宮のイヌマキとモミ

所在地 館山市八幡72
鶴谷八幡宮 文化財マップ

 鶴谷八幡宮は安房国の総社で、鎌倉時代に南房総市府中から現在地に遷座したという。9月には「やわたのまち」といわれるお祭りがあり、近隣から10社の神輿が集まる。本殿や向拝天井の彫刻は市の指定で、彫刻は百態の竜と呼ばれる後藤義光の作である。本殿は享保5年(1721)に造営された。本殿左前にあるのが御神木のイヌマキで、樹高16m、幹周は約4m、樹齢300年以上といわれている。下から5m程に空洞がある。県の木であるイヌマキの天然分布は関東南部以西とされ、東・北限地の房総半島に植栽文化が根付いたのには、潮風に強くどんな土壌にもよく適応し、移植や刈込にも耐えるという特性があり、火にも強いからで、生垣として県下全域に広く見られる。館山市では特に八幡地区のイヌマキ(通称ホソバ)の生垣が独特の景観を作っている。旧家では120年は経過していると思われる古木もあり、八幡の祭の前には、生垣の刈込みが初秋の風物詩になっている。モミは樹高15m、幹周約2.8mで、安房神社遥拝殿の東側、神輿の御仮屋の右端にすっきりとした姿で立っている。モミは常緑高木で葉は密生し枝にらせん状につき、細い葉の先は鋭く2つに分れる。二の鳥居からの参道の両側はクスノキ、スギの林が広がり、本殿のうしろはイヌマキ、クスノキ、スダジイ、ムクロジなどの林になっている。

(5)北条民家のサイカチの木

(5)北条民家のサイカチの木

所在地 館山市北条1754

 館山駅から中央公園に向かう道、市立図書館の50m手前の十字路の塀ぎわに、大きくはみ出すように太い老木が立っている。この木は道に隣接する家のもので「サイカチの木」である。サイカチはマメ科で「皀角子(そうかくし)」「皀莢(そうきょう)」と書かれ、発音が「再勝」に通じるため、縁起の良い木として大切にされてきた。また幹や枝に鋭いトゲがあるので、門や柵の周囲に備え、転じて鬼門除けの木とされたという。5月から6月に淡黄色の花が長い穂になってたくさんつく。果実は20cm程のねじれたさやが枝先によじれて垂れ下がる。もっとも重要なことは、いざというときに葉が食用、実が洗剤、トゲは解毒剤になり役に立つということ。元禄大地震では、このサイカチの木によじ登って津波の難をのがれたという話も残っている。狭い通りを占領する邪魔な存在と見られがちだが、今まで伐らずに残してきた先人たちの知恵や想いに耳を傾けてみたい。幹周4m、高さ7m。幹に大きな空洞があり、樹皮には枝の変形したトゲがあるが、老木になって咲く花の数も少なくなり、痛いトゲも幹の上部に移った。

(6)来福寺のタブノキとクスノキ

(6)来福寺のタブノキとクスノキ

所在地 館山市長須賀46
来福寺 文化財マップ

海富山来福寺は神亀2年(725)に元聖法印により開基。薬師堂には室町時代中頃の木造薬師如来立像が祀られ、境内には幕末から明治にかけての安房を代表する彫刻師後藤義光の寿蔵碑がある。寺院の境内であるために自然に発育した樹林が保護され、タブノキを主としてイヌマキ、エノキなどのまれに見る樹そうがあったが、今は数本になってしまった。タブノキは南側の墓地の中に2本あり、それぞれ枝を広げ、手前のタブノキは樹高8m、幹周3.5m、奥のタブノキは樹高15m、幹周4.9m、枝張は16mほどもある。クスノキは本堂の西側の墓地の奥にあり高さ15m、幹周3.8mで11mほどの枝を張り巡らせている。

(7)滝川(たきがわ)のびゃくしん

(7)滝川(たきがわ)のびゃくしん

所在地 山本2418
館山市天然記念物 昭和52年10月20日指定

 滝川のビャクシンは、木幡(こはた)神社の北方の河岸段丘上にある。一帯は木幡神社創建の地であるとされ、「滝川のびゃくしん」にはその御神木としての言い伝えがあり、地域の人々に愛護されている。伝承による樹齢は800年ともいわれている。ビャクシン(柏槙)は、イブキ(伊吹)・ビャクダン(白檀)とも呼ばれる常緑針葉樹で、木目のつんだ固い木である。雌雄異株(しゆういしゅ)で、雄木と雌木がある。樹冠(じゅかん)が円錐形で、幹が大きくねじれることが特徴で、上品な芳香のある香木としても知られている。本州、四国、九州北西部などの海岸沿いの岩地に点々と自生しているほか、寺社の境内や庭園に植栽された大木が多くみられる。ここのビャクシンは雄木で、目通り幹周4.15m、樹高10m、東西14m・南北11mの巨樹が岩盤の上に生育している。

(8)日枝神社の御神木と大杉

(8)日枝神社の御神木と大杉

所在地 館山市竹原850
日枝神社 文化財マップ

 仁寿2年(852)、慈覚(じかく)大師が創建したと伝えられる。今宮山王と呼ばれていたが、明治3年(1870)に日枝神社と改称。現在の社殿は昭和59年9月に建立された。毎年10月10日の例祭では、大正時代までは社前で流鏑馬(やぶさめ)・競馬の神事が行われていた。ご神木のびゃくしんは山上の浅間様の傍(かたわ)らにあった千年の古木で、今から150年前の落雷によって枯木になり虚(うろ)が出来てしまったが、神社前の三叉路に移され、毎年6月の田植えの頃、豊作を祈念する「虫おくり」の神事が行われてきたという。昭和47年、鳥居脇の現在地に移された。境内は杉の大木を初めとして植物相も多く、樹木が繁り鎮守の森として荘厳な雰囲気をかもしだしている。境内には杉の植栽が多いが最初の石段を上った右側の大杉が最大で、幹周は4.35m、樹高30mでひときわ目立つ。

(9)手力雄(たぢからお)神社の大杉

(9)手力雄(たぢからお)神社の大杉

所在地 館山市大井1129
手力雄神社 文化財マップ
館山市天然記念物 昭和47年1月21日指定

 手力雄神社は天手力雄命(あまのたぢからおのみこと)を主神に三柱(みはしら)が祭神として祀られている。天手力雄命は古事記などでは天の岩戸を引き明け、天照大神を連れ出した神として知られている。境内は鬱蒼(うっそう)とした樹林に覆われ、鎮守の森を形成し植物相も豊富で、大樹はスギ29本など50本を数える。特に拝殿前左の大杉は、御神木として、樹齢が700年と推定される大樹で、昭和47年(1972)に館山市天然記念物に指定された。幹周4.64m、樹高35mだが、拝殿前の石垣と階段の工事のとき、2mほど根元が埋められており、実際の樹高はこれを加えただけ高いことになる。スギは日本特産の植物で用途も広いが、館山市大井は昔からスギの苗木の産地として知られている。本殿は三間社(さんげんしゃ)流れ造りで、県の指定文化財。


<作成:ミュージアム・サポーター「絵図士」
青木悦子・川崎一・御子神康夫・吉村威紀>
監修 館山市立博物館

忌部の足跡を訪ねて

房総には古代開拓神話をもつ氏族忌部(いんべ)氏に関する言い伝えがあります。その神話が残る地を訪ねてみましょう。斎部広成(いんべのひろなり)は807年に「古語拾遺」を著わして先祖のことを記しています。忌部氏と中臣(なかとみ)氏は古くから朝廷の祭事を行っていましたが、中臣氏の勢力増大に伴い忌部氏は衰退。そこで忌部氏の伝承を書いて朝廷に献上し、忌部氏が朝廷の祭事を担当する正統性を訴えました。忌部とは、「けがれや忌(いみ)を嫌い、神聖な仕事に従事する集団」と言われ、各地で宮廷祭祀に必要な祭具の準備やいろいろな物資を朝廷に貢献した集団です。天孫降臨神話の五部神の一人である天太玉命(あめのふとだまのみこと)が忌部氏の祖神で、古語拾遺によるとその孫の天富命(あめのとみのみこと)は神武天皇即位の始めに、麻や梶(かじ)の栽培に適した東国の肥沃な地を求めて、四国阿波の地から天日鷲命(あめのひわしのみこと)の孫を伴い阿波の忌部を率いて布良の地に上陸しました。その後、安房地方の開拓を進めたとされ、各地に忌部氏にかかわる言い伝えが数多く残っています。

(1)阿由戸(あゆど)の浜

(1)阿由戸(あゆど)の浜

天富命(あめのとみのみこと)たちが上陸したと言われている海岸。汀(みぎわ)から50mほど先の波間に見え隠れする暗礁が「神楽(かぐら)岩」と呼ばれ、地元の人がこの上で御神楽を奏してお迎えしたと言われている。また、近くには天富命の足洗い岩の伝承もある。

(2)駒ケ崎神社<布良字向、男神山の麓>

(2)駒ケ崎神社<布良字向、男神山の麓>

祭神は厳島大神と海祇大神で、由緒は不明だが地元では「じょうご様」と呼ばれ、漁師さん達の信仰は絶大である。神社の裏手には海蝕洞が二つあり、右側には庚申塔と不動明王が祀られている。詳細は不明だが、忌部一族が海路を渡ってきたことから、産業振興の海神、航海神などを祀ったものと考えられている。

(3)男神山(おがみやま)と女神山(めがみやま)

(3)男神山(おがみやま)と女神山(めがみやま)

灯台(2009年撤去)があった山が男神山(写真左)で、国道寄りの山が女神山(写真右)である。阿由戸の浜に上陸した天富命が、男神山に天太玉命、女神山に妃(きさき)の天比理乃咩命(あめのひりのめのみこと)を祀ったという。

(4)布良崎(めらさき)神社<布良字西本郷>

(4)布良崎(めらさき)神社<布良字西本郷>

布良崎神社 文化財マップ

この地に残った忌部の人々と村人達が天富命の徳を慕い、社を建てて天富命を祭神にしたという。社宝の石斧・石剣を所蔵するが、石剣は天富命に係わるものと言われている。女坂上り口の左側にある独立した岩は磐座(いわくら)と言われ、岩の頂上部に直径10数センチ、深さ数センチの杯(さかずき)状の穴(くぼみ)が数個あり古代の祭祀跡と言われている。二ノ鳥居から大鳥居の延長線上に富士山が見える。

(5)楫取(かんどり)神社旧地

(5)楫取(かんどり)神社旧地

祭神は字豆彦命(うずひこのみこと)。神武東征神話では楫取(かじとり)(航海士)として活躍し、その功績で大和国造(くにのみやつこ)に任命される。海人の波多氏に伴い安房開拓に同行、造船や紀州漁法の指導者として活躍したとされる。ちなみに阿波吉野川の川舟を「かんどり」という。

(6)相浜神社

(6)相浜神社

相濱神社 文化財マップ

日本武尊(やまとたけるのみこと)を祭神とする波除神社として創建された。別当寺感満寺は巴川の河口にあった不動明王を本尊とする修験寺で、修行した井戸跡が残る。元禄地震の津波被害で現在地へ移転した。中里の八坂神社、布良の蔵王(ざおう)大権現(布良崎神社)の別当も勤めたが、明治の神仏分離により感満寺の名を廃した。その後、楫取神社を合祀して相浜神社となった。祭礼には波除丸という御船が出祭する。

(7)上の谷・下の谷

国道410号線の大神宮トンネルの南東付近に「上の谷」と「下の谷」がある。天富命が安房地方の開拓を始める際に、男神山・女神山から天太玉命・天比理乃咩命をこの地へ移して祀ったとされる。地元では、「天富命の足洗い場があった」「神がかりの土地と言われた」「御手洗の井戸がある」「安房神社の旧地であった」「大神宮へ行くのにはここを通った」と、言い伝えられている。

(8)安房神社<大神宮>

(8)安房神社<大神宮>

安房神社 文化財マップ

祭神は天太玉命(あめのふとだまのみこと)。養老元年(717)に現在地に遷座された。延喜式では「名神大社」、平安時代頃から「安房の国一宮」、明治時代には「官幣大社」に列せられた。古代には神郡(神社に領地として与えられ、租税等を朝廷に納めず神社に納める)を有する格式の高い全国7社のうちの一つであった。祭礼は、開拓で各地に散って活躍している忌部一族が、太陽が富士山に沈む時季にあわせて各地から集まり無事を祝ったのが由来と言われる。

(9)忌部塚

(9)忌部塚

昭和7年に斎館の裏で井戸を掘削中、海蝕洞穴が見つかり、その中から人骨22体、動物の骨、貝製の腕輪、石製小玉、縄文土器、古墳時代の土師器(はじき)等が出土した。人骨には健康な歯を抜歯した風習の跡が見られた。その人骨の一部をここに埋葬し、忌部塚として祀っている。当時、弥生時代の人骨と判定され(但し特定はできない)、安房神社では忌部一族の遠祖として安房地方を開拓した大功を偲び、毎年7月10日に忌部塚祭を行っている。

(10)明神山

天比理乃咩命(あめのひりのめのみこと)(洲神(すのかみ))の最初の宮をここに定めたといわれている。現在は海岸線から離れているが、千数百年前はすぐ足元まで海で、小高い岬だったと推測される。洲宮神社の例祭8月10日には「浜降(はまおり)神事」があり、神輿がここ明神山へ渡御(とぎょ)して祭典がとり行われている。阿波の国からはるばる海を渡り、幾多の困難を乗り切ってやってきた人たちが、この小高い岬に立ち西に夕陽が沈んでいくのを見て、故郷に思いを寄せていたのだろうか

(11)兎尾山(魚尾山、とおやま)

(11)兎尾山(魚尾山、とおやま)

兎尾山は開拓の恩恵に感謝して祖霊をお祀りした場所である。忌部佐賀斯(いんべのさがし)の18代後裔(こうえい)の諸畿(もろちか)が明神山の洲神を文永10年(1273)に兎尾山に遷座した。同年に社殿が炎上したと記録にある。近年まで山頂に祀られていた石宮は、高さ約60cm、間口約55cm、奥行20cm、今は洲宮神社の拝殿右奥に移されている。

(12)洲宮神社<洲宮字茶畑>

(12)洲宮神社<洲宮字茶畑>

主祭神は、天比理乃咩命(あめのひりのめのみこと)である。兎尾山(とおやま)の社殿が炎上した後、仮宮に祀られていたが、永享11年(1439)現在地に遷座したという。ここは、土製の高杯(たかつき)、鏡、勾玉(まがたま)などが出土しており古代祭祀の場所と考えられる。洲宮神社と洲崎神社の関係は諸説あり、「前宮」と「奥宮」または「拝殿」と「奥殿」の関係とも言われている。

(13)善浄寺跡地蔵尊

古大神宮道と平行する洲宮川の対岸段丘に、洲宮神社の別当だった、善浄寺跡と言われる平地がある。自然石でできた石龕(せきがん)の中に地蔵菩薩立像が祀られている。台石に享保14年(1729)とある。今も管理してる古老の話では、イボトリ地蔵として信仰されていたと言う。寺院は、館山市高井に移っている。

(14)布沼厳島神社

(14)布沼厳島神社

布沼の鎮守。祭神は市杵島姫(いちきしまひめ)で厳島の由来でもあり、弁天様として広く信仰された。海人宗像(むなかた)族の守護神で海上交流の拠点に祀られた。社殿裏にある縄文時代の石棒(男茎形)は害虫駆除の神様と伝えられている。周辺からは縄文・弥生土器や古墳時代の土師器などが出土しており、長期にわたる生活遺跡がある。

(15)座席山(蛇堰山、じゃぜきやま)

(15)座席山(蛇堰山、じゃぜきやま)

砂山の南にある蛇堰(じゃぜき)の東側が座席山で、安房神社の神様と后神(きさきがみ)がどこに鎮座するか、座席で宴会をしながら相談をしたと伝わる。麓では翁作古墳が発見され太刀などが出土したことから、大和王権につながる豪族が支配していた地域であったとみられている。


<作成:ミュージアムサポーター「絵図士」>君塚滋堂・佐藤博秋・佐藤靖子・中屋勝義
監修:館山市立博物館 〒294-0036 館山市館山351-2

長尾藩ゆかりの地

長尾藩の史跡をめぐる

長尾藩とは?

 静岡県藤枝市にあった田中藩は、明治元年(1868)に安房への転封を命じられた。

 藩主本多氏は約140年にわたって藤枝周辺の田中領3万石を支配、下総葛飾周辺(流山市など)の一万石と合わせて4万石の大名家だった。最後の藩主本多紀伊守正訥(まさもり)は文芸に秀で、昌平坂の学問所奉行に就任した人物である。

 明治維新で徳川家が300年にわたる政権を朝廷に返上し、最後の将軍徳川慶喜(よしのぶ)が水戸に隠退すると、徳川家を継いだ徳川亀之助家達(いえさと)は駿河・遠江・三河で70万石の大名となった。そのため駿遠の大名たちは房総に所領を移されたのである。田中藩本多家は安房に転封となり、白浜の長尾(白浜町滝口)に城を建設した。そのため長尾藩という。当時の落首に「徳川の亀に追われて房州へ 来い(紀伊)ともいわず行くがほんだ(本多)か」とある。

 しかし交通の便の悪さからまもなく北条(館山市)に城を移し、明治4年の廃藩までのわずかな期間を安房で過ごすことになった。その間、明治3年暮に藩主は本多正訥から正憲へと相続されている。

 廃藩後の藩士たちは、藤枝へ帰るもの、東京へ出るもの、安房へ残るものなどにわかれたが、安房に残った人々は教育や行政などで安房の近代化に貢献した。また藩士の子孫には、洋画家の藤田嗣治・歯車の研究で知られる工学博士の成瀬政男・書家の小野鵞堂などがいる。

(1)長尾城跡(白浜町滝口)

(1)長尾城跡(白浜町滝口)

 明治元年(1868)7月、本多氏が駿河藤枝から安房への転封を命じられ、白浜の長尾へ城を建設。明治2年になると藩士の移住が本格的にはじまった。軍事的な要害として長尾の地が選ばれたのだが、地の利の悪さから藩士には不評だったため、その年夏の台風によって建設中の陣屋が倒壊したのにともない、北条への移転が進められ、長尾城の建設は中止された。当時の落首に、「長尾村に本多の城ができるという ほんだ(本多)けれどもなごう(長尾)保たん」とある。

(2)杖珠院(白浜町白浜)

(2)杖珠院(白浜町白浜)

杖珠院 文化財マップ

 長尾城建設を推し進めた藩の兵学者恩田仰岳の墓があり、門前には教育者として地域貢献をした仰岳・城山父子の記念碑が建つ。

(3)西養寺(千倉町北朝夷)

(3)西養寺(千倉町北朝夷)

 明治2年に藩校日知館の分校が北朝夷に設置された。そのことと関連するのか、同地にある真言宗のこの寺院には都築拾輔など藩士の墓がある。

(4)萱野士族邸跡(館山市国分)

 長尾から北条へ陣屋を移転させると、北条の陣屋では藩士を収容しきれないため、陣屋周辺に分散して藩士の居住地が設けられた。その代表的な居住区域で、整然とした屋敷地割りがなされている。いまも数軒の子孫の方が区域のなかにお住まいである。

(5)萱野共同墓地

(5)萱野共同墓地

 萱野の北端にある藩士の共同墓地。藩士16家のほか、藤枝宿から移住した山口伝吉の墓もある。

(6)稲荷神社

(6)稲荷神社

 稲荷は藩主本多氏の鎮守とされ、藤枝の田中城内に祀られていた。長尾城や北条陣屋建設にあたっても稲荷が勧請されたが、多くの藩士が居住した萱野にも祀られた。

(7)不動院(館山市北条)

(7)不動院(館山市北条)

 真言宗の寺院で、幕末に海岸警備を担当した忍藩士が葬られるなどした。長尾藩の算学師範だった小沢直治の墓碑がある。

(8)新塩場士族邸跡(館山市北条)

 藩士居住区域のひとつ。槙の生垣に仕切られた屋敷地割りは当時のもの。廃藩以後は、明治から大正にかけて館山へ移住してきた中流家庭の住宅地となり、いまでも和風住宅に洋間を付属させた大正から昭和初期流行の文化住宅がみられる。

(9)八幡浜士族邸跡(館山市八幡)

 藩士居住区域のひとつ。海岸の松林のなかにつくられた。予備地であったらしいが、一画には旧藩士の子孫のお宅がある。

(10)鶴谷八幡宮(館山市八幡)

(10)鶴谷八幡宮(館山市八幡)

鶴谷八幡宮 文化財マップ

 境内には、明治時代に書家として大成した小野鵞堂(剣術師範小野成文の子)の大きな石碑が建てられている。また拝殿で使用されている太鼓は、明治5年(1872)に旧藩士たちが奉納した藩使用の刻の太鼓で、元文元年(1736)の銘がある。

(11)八幡共同墓地(館山市八幡)

(11)八幡共同墓地(館山市八幡)

 北条陣屋の北外れに設営された藩士の共同墓地。家老の遠藤俊臣をはじめ、日知館監察の雨宮信友、勘定奉行熊沢菫、剣術師範小野成顕・成命ほか、原田吉雄、東権兵衛、成瀬藤蔵、長房包満、池谷信直、富田忠謹、竹田本忠、杉山岩蔵、加茂祐之助、大井貞などの墓がある。

(12)北条陣屋跡(館山市北条・八幡)

 幕末に海岸警備の陣屋が置かれていたところへ、長尾藩が明治3年11月に陣屋を移転した。藩主邸・藩庁・工作役所・学校(日知館)・番屋がおかれ、武家屋敷が周辺に整えられた。

(13)藩主邸跡

 藩主本多正憲の屋敷跡。

(14)藩庁跡

 鶴ヶ谷の城と呼ばれる御殿と、刑法・民政・会計の三局がおかれた藩の役所があった場所。

(15)稲荷神社

(15)稲荷神社

 藩主本多氏の鎮守として、藩主邸の北東に藤枝田中城から稲荷社と秋葉社を合祀して遷座したもの。境内には廃藩後に旧藩士が奉納した天保14年(1843)鋳造の大砲があったが、戦争中に供出され、いまは奉納した時の記念碑と台座だけが残されている。現在も旧藩関係者が例祭を執り行っている。

藩士の国替え

 家財道具を売り払い、藩主から15両の手当てをもらった藩士の藤井六郎は、明治2年1月、およそ35両を携えて妻とともに藤枝から白浜の長尾へと向かった。藤枝宿から東海道を旅し、鎌倉からは金沢・横須賀・浦賀と歩いて、西浦賀で船に乗ると那古へ上陸、真倉・神余と過ぎ、そして白浜へと到着した。旅程は7日程度であったとされる。焼津港から船で直接白浜へ渡った人もいたそうである。

万石騒動

万石騒動と三義民

万石騒動とは

 はなやかな元禄文化の裏側で、大名たちは多額の借金に苦しんでいました。安房北条藩屋代家の財政再建のために召抱えられた役人川井藤左衛門は、地震の隆起で広がった海岸に新田を開き、用水路を切り開いて増産を試み、保護林の木を切って売るなど増収を図っていました。しかしそれは領民を無謀に使役したうえ、やがて領地の村々に年貢の倍増を命じたため、領民は反発、年貢減免の嘆願運動をはじめたのです。これは名主3名を処刑する弾圧へと展開しました。領民は老中への直訴をおこない、成功して領民の勝訴となります。この事件は一万石の領内で起こったので万石騒動とよばれ、3名主は三義民と呼ばれて今日でも讃えられています。

関連遺跡

(1)北条藩陣屋跡

北条/現在の館山警察署・北条病院・館山消防署の位置にあった。

(2)鶴ヶ谷の森跡

北条/川井藤左衛門が増収をはかって、これまで誰も手をつけなかった鶴ケ谷の森の木を伐採した。森は西風を防いだり、燃料を供給する大事な森だった。

(3)川井新田

北条/川井藤左衛門が1703年=元禄16年の地震で隆起した北条海岸に開発した新田。字を北川井・南川井という。

(4)海雲寺

(4)海雲寺

北条/浄土宗。屋代忠興供養のために忠位が創建した。

(5)春光寺

(5)春光寺

竹原/曹洞宗。初代忠正が奥方のために創建した屋代家菩提寺。春光寺殿が二代忠興の法号となる。忠興の奥方の墓や屋代家関係者の墓が高台にある。

(6)滝川堰

(6)滝川堰

山本/川井藤左衛門が灌漑用水としてつくったと伝えられる滝川用水の取水堰。

(7)袋

腰越/滝川堰の箱橋上手にある遊水地。用水に水を流す期間は水を蓄えておく。

(8)川井土手

腰越/滝川上流の堤防。川井藤左衛門は滝川用水をつくるために、当時広瀬から府中方面に流れていた山名川を、広瀬から南下させて竹原川と合流させ滝川に流すために、流路の付替え工事をしたと伝えられている。水量の多くなった滝川を氾濫から護るための護岸。

(9)小川

腰越/川井藤左衛門による山名川の川廻しにともなう、腰越・広瀬の水田からの排水路。

(10)川井堀

(10)川井堀

山本・国分/滝川の取水堰から国分の分水堰までの導水をするための堀。岩山をも削ってわずかな傾斜で造られている。

(11)ハヤブテ

(11)ハヤブテ

山本/川井堀を流れる水が溢れたときに、水を滝川へ落とすための水抜き堀。

(12)無名堰

(12)無名堰

国分/滝川用水の分水池、国分・高井・上野原・長須賀の水田への灌漑用水となった。

(13)国分寺

(13)国分寺

国分寺 文化財マップ

国分/三義民の墓=館山市指定史跡、安房郡三名主之碑=明治43年二百年忌の建碑、三義民250年遠忌供養塔、三義民のひとり国分村名主飯田長次郎の墓がある。

(14)三義民刑場跡

(14)三義民刑場跡

国分の萱野にある、館山市指定史跡。

(15)医王寺

(15)医王寺

薗/三義民のひとり、薗村名主根本五左衛門の墓がある。

(16)紫雲寺

(16)紫雲寺

水岡/追放名主のひとり、北片岡村名主小柴庄左衛門の墓がある。

(17)薬師堂

(17)薬師堂

湊/三義民のひとり、湊村名主秋山角左衛門の墓がある。

(18)金台寺

(18)金台寺

金台寺 文化財マップ

北条/北条藩代官の行貝弥五兵衛父子の墓がある。農民側の支援者として川井に処刑された国分村出身の地代官。

三義民

1湊村名主秋山角左衛門養秀院一法常感居士
2国分村名主飯田長次郎貞信院剣室道霜居士
3薗村名主根本五左衛門萬法院晩叟道解居士

            命日 正徳元年(1711年)11月26日

追放された三名主・稲村名主山口弥市郎
・北片岡村名主小柴庄左衛門
・中村名主吉田九兵衛

北条藩とは

 寛永15年(1638)に屋代忠正が一万石の領地を与えられて大名となり北条藩をおこす。

1 歴代藩主

 屋代忠正(タダマサ)-忠興(タダオキ)-忠位(タダタカ)の三代つづき、忠位のとき万石騒動がおこる。

2 藩主屋代忠位

 正保4年(1647)生まれ。寛文3年(1663)に家督相続。正徳2年(1712)万石騒動の結果領地没収により旗本に格下げ。正徳4年(1714)没。

3 藩の関係者

 川井藤左衛門(財政再建のために新規採用された用人、上席家老相談役)・林武大夫(北条陣屋の郡代)・高梨市左衛門(代官)・行貝弥五兵衛(代官)

4 一万石の領地

 館山市北条地区・館野地区・九重地区、三芳村中・御庄、丸山町加茂の27か村。

事件のながれ

正徳1年9月7日川井藤左衛門、代官高梨とともに6000俵の増税を村々に命じる。
(1711年)9月9日領内600名の農民が、北条陣屋前に押し寄せて減税を嘆願。
11月2日農民たちが大勢で江戸の藩主の屋敷へ嘆願に出る。
11月13日川井、6人の名主を北条陣屋で牢屋に押し込める。
11月20日農民代表が、江戸で老中秋元但馬守の駕籠に訴状を投げ入れる。
11月26日名主3名が処刑され、妻子追放、家財没収される。代官行貝父子も処刑。
12月4日江戸で農民代表が老中阿部豊後守に駕籠訴。お取り上げになり勘定奉行の審理がはじまる。
正徳2年7月22日判決が下り、川井藤左衛門父子に死罪、林、高梨は追放、藩主屋代忠位は領地没収、捕らえられて生き残っていた名主3名は追放となる。

関連行事

1 毎年11月26日、国分区民による供養祭が行われる。

2 昭和35年11月25日に、安房三義民250年忌式典が行われた。2010年が300年忌になる。

館山城跡を歩こう

館山城跡の歴史

<里見義康・忠義の居城:1591年~1614年>

博物館がある城山公園は「城山」と呼ばれている独立丘陵で、戦国時代末から江戸時代初期に房総里見氏が居城にしていた城跡です。豊臣秀吉に仕えた里見義康(よしやす)が岡本城から館山城へ移転してきたのが大正19年(1591)のこと。徳川幕府によって慶長19年(1614)に。義康の子里見忠義(ただよし)が伯耆国(ほうきのくに)倉吉(鳥取県)へ移されるまでの24年間が、里見氏の本城となっていた時期で、その間に館山から北条にかけての城下町も整備され、現在の館山市の基礎ができました。城域は戦国時代には城山のみだったと思われますが、本城となってからは城山の北から東にかけて平坦地に水掘をめぐらせ、城域を拡大整備させていったと考えられます。

(1) 城井戸(しろいど)

(1) 城井戸(しろいど)

小字が「城井戸」という。館山城の飲料となった井戸があった場所で、江戸時代には酒造に使用されたという。

(2) 采女井戸(うねめのいど)

(2) 采女井戸(うねめのいど)

里見忠義の側近印東采女佑(いんとううねめのすけ)の屋敷の井戸と伝えられる。この周辺は清七屋敷・大蔵屋敷・大膳(だいぜん)屋敷の呼び名もあり、里見氏の重臣屋敷があった地域と考えられる。江戸時代後半は館山藩の陣屋がおかれた。

(3) オンマヤ下のウバカミ様

(3) オンマヤ下のウバカミ様

里見氏以前の南北朝時代の五輪塔が並んでいる。ここからは骨蔵器(こつぞうき)に使われた14世紀の陶磁器が明治時代に出土している。中世の「やぐら」が崩れた場所と思われる。現在は、倉吉で里見忠義に殉職した家臣八人を供養している。

(4) 根古屋の古墓(ねごやのこぼ)

本城になる以前の館山城の城番(じょうばん)衆の集落があった地域と思われる。古墓は15世紀の五輪塔で、里見氏以前のものだが、明治時代に掘り起こされて「里見の墓」として評判になったことがある。

(5) 宗真寺(そうしんじ)

(5) 宗真寺(そうしんじ)

浄土真宗の寺で、江戸時代初期に創建された。小字を「御厩(おうまや)」といい、里見氏の馬場があったとされている。

(6) 泉慶院(せんけいいん)跡

(6) 泉慶院(せんけいいん)跡

里見氏から寺領160石を受けていた曹洞宗の寺。義康の叔父梅王丸・祖母青岳尼の供養塔がある。「泉慶院の池」は「鹿島堀」とも呼ばれ、城山城の外堀が残されたものとされる。里見氏の領地である常陸国鹿島領の領民がつくった堀との伝承がある。

(7) 慈恩院(じおんいん)

(7) 慈恩院(じおんいん)

慈恩院 文化財マップ

館山城主里見義康の菩提寺。曹洞宗。義康の朱印状、義康の墓がある。

(8) 伝里見義康墓

(8) 伝里見義康墓

塚状をなす。石垣や石碑は明治末に里見氏を顕彰する人々によって整備された。

(9) 妙音院(みょうおんいん)

(9) 妙音院(みょうおんいん)

妙音院 文化財マップ

天正年間に、里見義康が高野山から招いた快算(かいさん)を開山に創建された高野山直末(じきまつ)の寺。高野山では妙音院が安房国を檀那場(だんなば)とし安房の人々の宿坊になっていた。

(10) 館山市博物館

(10) 館山市博物館

ふもとの本館は里見氏の歴史を紹介している博物館。天守閣は里見氏をモデルの創作された「南総里見八犬伝」を紹介する博物館。館山城に天守閣が存在していたかは資料がなく不明で、現在の天守閣は福井県の丸岡城をモデルに建設した模擬天守である。現在の天守の位置は昭和の戦争中に砲台建設のため、山頂を7m削っており、当時とは地形が異なっている。

館山城の遺構

(11) 切岸(きりぎし)

(11) 切岸(きりぎし)

城山の裾部は地山(じやま)が垂直に切り出され、山を取り巻くように城壁となっているのを見ることができる。

(12) 堀跡(ほりあと)

(12) 堀跡(ほりあと)

天王山から御霊(ごりょう)山を取り巻くように堀の跡が残されている。上幅14m、深さ5mの箱薬研(はこやげん)状の水掘だった。城山の東裾の水田には堀だったことをうかがわせる地形が見える。

(13) 堀跡(ほりあと)(推定)

公園駐車場では深さ3m、幅37m以上の水掘跡が発掘で確認された。江戸幕府の館山城請取軍によって埋められたが、宅地化以前の水田には堀だったことを推定させる場所もあった。

(14) 堀切(ほりきり)

館山城跡で唯一残されている尾根を断ち切る堀切遺構。堀底は現在より4m以上下(した)と推測されている。

(15) 掘立柱建物跡(ほったてばしらたてものあと)

梅園下の曲輪(くるわ)では掘立柱建物の柱穴が確認されている。里見義康の御殿があったと推定されている。

(16) 新御殿跡(しんごてんあと)

城内では千畳敷(せんじょうじき)とならぶ大きな曲輪(くるわ)で、里見忠義の御殿があったと推定されている。


館山市立博物館 作成

里見氏ゆかりの地

ゆかりの地ご案内

(1)白浜城跡(白浜町白浜)

(1)白浜城跡(白浜町白浜)

 里見氏が安房で最初に城にしたところだっていわれている。山に登ってみると段々に造られた平坦面がたくさんあり、東西1kmにわたって大規模な造作がされている。

(2)千田城跡(館山市西長田)

 ここも里見氏が初め頃に城にしていたらしい。城としての造作規模はたいしたことないが、堀切の道がある。中段に立派な五輪塔もまとまってある。

(3)鶴谷八幡宮(館山市八幡)

(3)鶴谷八幡宮(館山市八幡)

鶴谷八幡宮 文化財マップ

 安房国の神々が集まっている神社。八幡様は源氏の氏神。里見氏は代々この神社の修理事業を行なうことになっていた。今の本殿にもその頃の材料が使われている。

(4)稲村城跡(館山市稲)

(4)稲村城跡(館山市稲)

稲区と稲村城跡 文化財マップ

 里見氏が安房平定をした頃の城。安房の中心部をおさえている。ここで義豊は1533年に叔父実堯を誅殺するものの、その子義堯に城を追われた。土塁・堀切が残る。

(5)玉龍院(館山市稲)

 稲村城のすぐ西側にある臨済宗の寺。里見義豊が開いた寺だという。里見義頼もここの薬師様に祈願して目の病気を治したらしい。

(6)南条城跡(館山市南条)

(6)南条城跡(館山市南条)

 里見義豊の妻の父烏山左近大夫が居城にしていた。義豊滅亡の時、妻がここで自害したといい、城跡の北側に姫塚と呼ばれる場所があって、その埋葬地だとされる。

(7)福生寺(館山市古茂口)

(7)福生寺(館山市古茂口)

福生寺 文化財マップ

 南条城の東端にある曹洞宗の寺。房州石の崩れかけた大きな五輪塔がある。これも里見義豊の奥方の墓だという。里見氏からは2石の寺領を寄進されていた。

(8)犬掛古戦場(富山町犬掛)

(8)犬掛古戦場(富山町犬掛)

 上総に追われていた義豊が、1534年4月6日に反撃のため安房へ進入、義堯の軍勢と犬掛の地で戦闘となった。義豊はこの戦いで敗死。近くに義通・義豊の墓がある。

(9)龍喜寺(三芳村上滝田)

(9)龍喜寺(三芳村上滝田)

 滝田城のすぐ東側の高月集落にある曹洞宗の寺。義通の開基とされ、初めは義通の法号から天笑院といい、その後義豊の法号の高厳院と変え、のち龍喜寺になった。

(10)杖珠院(白浜町白浜)

(10)杖珠院(白浜町白浜)

杖珠院 文化財マップ

 白浜城の東にある曹洞宗の寺。義実・成義・義通・義豊など、里見氏嫡流の菩提寺で、江戸時代に建てた初代義実の供養塔や義実以下4代の木像がある。寺領20石。

(11)滝田城跡(三芳村上滝田)

(11)滝田城跡(三芳村上滝田)

 上総から安房国府へ向う古代からの官道をおさえる位置にある城。義豊の家臣一色九郎が在城していたという。犬掛の南にあり北からの攻撃に備えた造作がしてある。

(12)宮本城跡(富浦町大津)

 滝田城からは2kmの尾根続きで、北からの攻撃に備えたきわめて大規模な造作がしてある。里見義堯が一時在城していたこともある。

(13)石堂寺(丸山町石堂)

(13)石堂寺(丸山町石堂)

石堂寺 文化財マップ

 16世紀前半に建築された諸堂が建ち並ぶ天台宗の寺。丸氏を中心に信仰されるが、多宝塔は1545年に義堯が滅ぼした義豊らの供養のために建立したと考えられている。

(14)妙本寺(鋸南町吉浜)

(14)妙本寺(鋸南町吉浜)

妙本寺 文化財マップ

 義堯のブレーンの一人日我が住職をしていた日蓮宗の寺。古くから流通の拠点になった湊があり、寺が陣所にもなって、たびたび戦の場となった。

(15)高田寺(館山市安東)

源慶院・高田寺 文化財マップ

 曹洞宗の寺で、里見家の高田姫が開いたといわれる。寺の奥には姫の墓という五輪塔がある。近くの二子地区安養寺には、姫の双子の子供を祀るという塚がある。

(16)源慶院(館山市安布里)

(16)源慶院(館山市安布里)

源慶院・高田寺 文化財マップ

 曹洞宗の寺で、里見義弘の娘佐与姫が開いた寺だといわれる。姫は天正7年(1579年)に没し、ここに葬られた。慶長年間には里見氏から25石を寄進されていた。

(17)泉慶院(館山市上真倉)

 義弘の妻青岳尼が、義弘の嫡子梅王丸(淳泰和向)を開山にして開いた曹洞宗の寺だという。慶長年間には、里見氏から160石の寺領を寄進されていた。

(18)興禅寺(富浦町原岡)

(18)興禅寺(富浦町原岡)

興禅寺 文化財マップ

 岡本城の東にある臨済宗の寺。ここも青岳尼が開いた。鎌倉太平寺の住職だった青岳尼は、義弘が鎌倉へきたとき。寺を捨てて一緒に安房へきて義弘の妻になった人。

(19)瑞龍院(館山市畑)

(19)瑞龍院(館山市畑)

瑞龍院 文化財マップ

 義弘が開いたという曹洞宗の寺。瑞龍院は義弘の法号で、木像が祀られていたが、今は頭部だけが残されている。義弘の墓と伝える宝篋印塔があるが、別人のもの。

(20)岡本城跡(富浦町原岡)

(20)岡本城跡(富浦町原岡)

 里見義頼が居城にしたところ。もともと水軍の拠点で、北条氏の安房侵攻の防御の城。中段から下に居館があったらしく、掘立の高層建築跡が発掘されている。

(21)光厳寺(富浦町青木)

(21)光厳寺(富浦町青木)

光厳寺 文化財マップ

 岡本城の東にある曹洞宗の寺。天正15年(1587)に没した義頼の菩提寺。慶長年間には里見氏から60石の寺領が寄進されていた。宝篋印塔形式の義頼の墓がある。

(22)館山城跡(館山市館山)

(22)館山城跡(館山市館山)

城山(館山城跡) 文化財マップ

 天正18年(1590)に里見義康が本城にして、忠義が慶長19年(1614)に滅亡するまでの城。高之島の湊を中心に城下町を整備したのが、今の館山市の起源。

(23)御霊山(館山市上真倉)

 館山城を構成する城の一部。天王山やなくなった大膳山とともに、物見の役割があったらしい。山の南から東を回って北側まで、今も空掘が残っている。

(24)慈恩院(館山市上真倉)

(24)慈恩院(館山市上真倉)

慈恩院 文化財マップ

 館山城の東にある曹洞宗の寺。慶長8年(1603)に没した義康の菩提寺。もとは義康の持仏堂だった。里見氏が寄進した寺領は15石。義康の朱印状が伝わる。

(25)長安寺(鴨川市宮山)

(25)長安寺(鴨川市宮山)

長安寺 文化財マップ

 正木時茂の娘で義頼の妻になった女性が開いたという曹洞宗の寺。慶長年間に御隠居様として絶大な力があった人。本堂左手奥に墓があり、堂内に木像が安置される。

(26)大巌院(館山市大網)

(26)大巌院(館山市大網)

大巖院 文化財マップ

 慶長8年に来房中の雄誉上人を開山に、義康が開いた浄土宗の寺。里見氏からは32石の寺領が寄進されていた。のち雄誉は倉吉に配流になっていた忠義を訪ねている。

(27)延命寺(三芳村本織)

(27)延命寺(三芳村本織)

延命寺 文化財マップ

 実堯以後の里見氏歴代の菩提寺になっている曹洞宗の寺。里見氏の墓として多くの五輪塔や宝篋印塔が並び、里見氏の古文書など寺宝が多く伝来する。寺領218石。


平成8年6月 館山市立博物館作成

里見家の女性たち

鎌倉公方(かまくらくぼう)足利氏と関東管領(かんとうかんれい)上杉氏の対立の中、鎌倉公方足利成氏(しげうじ)に仕えていた里見義実(よしざね)が15世紀中頃に上杉勢力下の白浜(南房総市)を制圧してから、10代目の忠義(ただよし)が伯耆国(ほうきのくに)倉吉(鳥取県)へ転封(てんぽう)され、元和(げんな)8年(1622)に没するまでの約170年間房総里見氏は続いた。里見氏に関わる女性たちの歴史や伝承も残され、政治に影響力を持った女性がいたという研究成果も出てきた。嫡流と庶流の政権交代となった天文(てんぶん)の内乱(1533~1534)での義豊(よしとよ)の妻たち/第2次国府台(こうのだい)合戦で夫を失い、菩提を弔う義堯(よしたか)の娘/義頼(よしより)に反乱を起こした正木憲時(のりとき)の弟・頼房(よりふさ)の妻になった義弘(よしひろ)の娘/義頼の妻(義康(よしやす)の母)で孫の忠義の時代には「御隠居様」と呼ばれた初代正木時茂の娘/忠義の妻で忠義の33回忌に高野山に供養塔を建てた江戸時代の老中(ろうじゅう)大久保忠隣(ただちか)の孫娘など、里見氏に関わる13人の里見家の女性を紹介する。

房総里見氏家系図
福生寺 義豊室墓

(1)義豊の妻

(鳥山時貞(とりやまときさだ)の娘)
福生寺・姫塚・南条城跡>

義豊の家臣で南条城主鳥山時貞の娘。天文の内乱で義豊が討ち死にした時に自害した。南条城(館山市)の北側にある石積みは姫塚(ひめづか)と呼ばれ、その墓所だという。彼女の霊を弔うために乳母(めのと)が尼僧となりそこに一溪寺(いっけいじ)を建てた。里見氏から2石の寺領を与えられ、その後寺は福生寺として古茂口(館山市)に移転したという。開基は「福生寺殿一溪妙周大姉(ふくしょうじでんいっけいみょうしゅうだいし)」とされ、歴代住職の墓域にある大きな房州石の五輪塔は、義豊の妻の墓と伝えられる。姫塚から移されたのかもしれない。

(2)義豊の妻「倉女(くらじょ)」

(小倉定光(おぐらさだみつ)の娘)

※一般公開は行っていません。

義豊の妻・倉(くら)は倉女と通称される側室。南房総市和田五十蔵(ごじゅうくら)の小倉家には、倉女の墓といわれる供養塔がある。同家に伝わる『黒滝哀史(あいし)』では、天文3年(1534)の滝田城(南房総市下滝田)落城の際、義豊の子を身籠っていた倉女が、兄の定綱(さだつな)に連れられて五十蔵へ逃れ、男児を出産した。文太丸(ぶんたまる)と名付け、義豊の命令通り定綱の実子と言いふらして養育したという。倉女は産後に病死したと伝えられている。

(3)高田(たかだ)姫と梅田(うめだ)姫(双子)

高田寺・妙蓮寺跡>

二子区に里見家双子の娘の話が伝わっている。安養寺(館山市二子)裏山のさらに北側にあった「二子塚」は、高田姫の塚とか双子の塚と伝わっている。「里見髙田姫和讃(さとみたかだひめわさん)」では、高田姫は17才の時に19才の夫と死別したと唄っている。高田姫供養のため建立された高田寺(館山市安東)の谷奥には、姫の墓と伝わる五輪塔がある。位牌には「高田寺殿花室妙香大姉(こうでんじでんかしつみょうこうだいし)」「天文五年(1536)」没とある。梅田姫は、妙長寺(みょうちょうじ)(館山市二子)南にあった妙蓮寺(みょうれんじ)の開基と伝えられてる。高田姫と梅田姫の名から里見家ゆかりの双子の姫と想像されている。

種林寺跡 種姫之碑

(4)義堯の娘「種姫(たねひめ)」

(正木大太郎(まさきだいたろう)の妻)
<宝林寺・種林寺>

夫の正木大太郎は永禄7年(1564)の国府台合戦で戦死したという。種姫は22歳で出家し、その年、上総国朝生原(あそうばら)(市原市)に宝林寺(ほうりんじ)を建て亡き夫を弔った。数年後、白浜に種林寺(しゅりんじ)を建てたといい、里見氏から寺領15石を与えられた。現在は廃寺となり、地元の人たちが顕彰碑を建てている。晩年、宝林寺に帰り天正17年(1589)48才で没した。同寺では「ふさ姫」と呼び「宝林寺殿慶州妙安大禅定尼(ほうりんじでんけいしゅうみょうあんだいぜんじょうに)」の位牌と供養塔がある。

琵琶首館跡

(5)義弘の妻

(足利晴氏(あしかがはるうじ)の娘)
<琵琶首館・長泉寺>

義弘の後室。古河公方(こがくぼう)足利晴氏の娘で、梅王丸(うめおうまる)の母。「久栄(きゅうえい)」という印文と大黒天像を配した朱印を使用し、独自の権限を持っていた。元亀4年(1573)の朱印状では、長泉寺(ちょうせんじ)(南房総市富浦町原岡)に対し、乳母(めのと)に与えた土地の管理を命じている。梅王丸が義頼との家督争いに敗れた後、彼女は養老川に囲まれた琵琶首館(びわくびやかた)(市原市田淵)に幽閉され、天正11年(1583)に没したという。

興禅寺 青岳尼墓

(6)義弘の妻「青岳尼」

(足利義明(あしかがよしあき)の娘)
興禅寺・泉慶院跡>

小弓公方(おゆみくぼう)足利義明の娘で、義弘の前室。一族が天文7年(1538)の国府台合戦で戦死し、里見家に保護された。鎌倉尼五山筆頭(かまくらあまごさんひっとう)の太平寺住職となったが、後に還俗して義弘の妻になった。開基である興禅寺(こうぜんじ)(南房総市富浦町原岡)境内の供養塔には、「智光院殿洪嶽梵長大姉(ちこういんでんこうごくぼんちょうだいし)」と天正4年(1576)の没年がある。慶長年間(1596~1615)の寺領56石余。泉慶院(せんけいいん)跡(館山市上真倉)にも、法名・没年が記載された供養塔がある。この寺は梅王丸を開山に青岳尼が開基し、160石余の破格の寺領が与えられていた。

心巌寺 正木石見守夫妻墓

(7)義弘の娘

(正木頼房の妻)
<心巌寺>

「天秀院殿長譽壽慶大姉(てんしゅういんでんちょうよじゅけいだいし)」は義弘の娘で、義頼の姉妹である。小田喜(おだき)の正木憲時(のりとき)が天正8年(1580)に義頼に反乱したとき、憲時の弟・頼房(道俊(どうしゅん))は金山城(鴨川市)を守備したが、落城後は義頼に従い、後に壽慶(じゅけい)を妻にした。壽慶山心巌寺(鴨川市貝渚)には、夫妻の供養塔(左が壽慶)があり、壽慶を義弘の長女と刻んでいる。壽慶は慶長10年(1605)、道俊は慶長16年(1611)に没している。

源慶院 佐与姫墓

(8)義弘の娘「佐与姫(さよひめ)」

<源慶院>

源慶院(げんけいいん)(館山市安布里)の境内の右高台に、佐与姫の供養塔がある。姫の追福のために建立された。「源慶院殿一法貞心大姉(げんけいいんでんいっぽうていしんだいし)」「天正七年(1579)」没と刻まれている。同寺の創建は義弘で、開基は佐与姫とされ、本尊の地蔵菩薩の胎内(たいない)に姫の持仏(じぶつ)があると伝えられている。

海禅寺

(9)義頼の妻「鶴姫」

(北条氏政(ほうじょううじまさ)の娘)
<海禅寺>

天正5年(1577)に義弘は北条氏政と和議を結び、氏政の娘を義頼の正室に迎えた。鶴姫は、相模から持参した「十一面観音立像」を、海上通行の安全を祈って岡本城観音山にお祀りした。鶴姫が亡くなり岡本城も廃城となった後、像が「相模に帰りたい」と海を荒らすため、地元の人が海の見えない海禅寺(かいぜんじ)(南房総市富浦町豊岡)に安置したという。天正7年(1579)没、法名「龍寿院殿秀山芳林大姉(りゅうじゅいんでんしゅうざんほうりんだいし)」。

長安寺 隠居様墓

(10)義頼の妻「御隠居様」

(初代正木時茂の娘)
<長安寺>

鶴姫が嫁す前の義頼の妻で、義康の母である。孫の忠義の時代には「御隠居様」と呼ばれ、里見御一門衆で3番目に多い知行高だった。小田喜正木家の菩提寺である冨川山(ふせんざん)龍雲院長安寺(鴨川市宮山)の中興開基で、同寺は里見氏より115石の寺領を与えられた。慶長15年(1610)に没した御隠居様「龍雲院殿桂窓久昌大姉(りゅううんいんでんけいそうきゅうしょうだいし)」の供養塔が、延宝6年(1678)に建てられている。他にも開基初代時茂の宝篋印塔(ほうきょういんとう)や御隠居様御局(おつぼね)の墓、2代目時茂(義康の弟)の妻の五輪塔と宝篋印塔がある。

真楽院

(11)義頼の娘

(正木某の妻)
<真楽院>

義頼の娘が正木某に嫁ぎ15才で初産の時、伯母の嫁ぎ先・東条家の医師戸倉玄安(とくらげんあん)が調薬を行ない、光厳寺(南房総市富浦町青木)の禅妙(ぜんみょう)が祈願した安産札と腹帯を与えられ無事に出産したと伝わる。真楽院(館山市上真倉)は玄安が安産守護の三神を勧請(かんじょう)して禅妙が開いた寺である。

高野山奥の院 里見忠義供養塔(複製)

(12)忠義の妻「東丸様(ひがしまるさま)」

(大久保忠隣の孫娘)
<高野山>

徳川幕府の有力者で小田原城主大久保忠隣の孫娘。徳川家康の長女亀姫の孫でもある。夫・忠義は慶長19年(1614)倉吉(鳥取県)に国替(くにがえ)を言い渡され、元和8年(1622)この世を去った。彼女は弟・大久保忠職(ただもと)のもとへ身を寄せ、岐阜・明石・唐津の転封先ごとに、忠義の菩提を弔う寺院を建立した。唐津で東丸様と呼ばれていた頃の、忠義33回忌にあたる承応3年(1654)には、高野山奥の院にも供養塔を建立している。その翌年里見家の再興を願いながら56才で没した。法名は「桃源院殿仙應妙寿大姉(とうげんいんでんせんのうみょうじゅだいし)」。墓は唐津の大久保家の墓地にある。その7回忌の万治4年(1661)に、忠職が高野山の忠義父娘とならべて供養塔を建立。博物館に忠義塔の複製がある。

西郷 姫宮様

(13)姫宮様(ひめみやさま)

館山市正木の西郷(にしごう)集落の田んぼの畔(あぜ)に、いくつかの中世の石塔がまとまって祀られている。五輪塔や宝篋印塔の一部で、地元では里見氏の姫を葬ったものと伝えられ、姫宮様とよばれている。


作成:ミュージアムサポーター「絵図士」
青木悦子・金久ひろみ・佐藤博秋・佐藤靖子・殿岡崇浩
R4.7.7

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