屋敷構

 人々が雨露をしのぐ家屋では、土地の風土、暮らし方、そして、伝統的な建築方法によって、いろいろな地方色を持っています。この地方の農山村の民家は、多くが山腹や山裾に立地し、集落は散村となっています。屋敷は広くなく建物の配置は、南向きに母屋を建て、左に馬屋をかねた物置や長屋門を、右に堆肥小屋を建てる、コの字型の屋敷構がよくみられます。

 この家は、母屋の正面に炊場{たきば}が建てられていて、庭のまわりを建物がとりかこむかたちになっています。農家の庭は、汗を流す労働の場所です。秋になって刈りとった稲の脱穀や籾の乾燥などの農作業は、この庭でおこないます。

安房郡富山町平久里の民家

民俗展示室

 古代から、「安房国」を形成していた安房地方は、房州とも呼ばれ、歴史的にも、民俗的にもひとつのまとまりを持った地域です。

 海と山が多様に影響をおよぼす安房地方の農山村の民俗を、特色ある別棟型の民家のなかで、そのくらしのうつりかわりと、どっしりと大地に根づいた生活の匂いを、生活状態そのままに配置された調度品や農具などの民俗資料とで、臨場感をもって体験できます。

 西に富士を望む安房の村
西に富士を望む安房の村

身分とくらし 

 里見氏の移封後は幕府の代官中村弥右衛門尉が事後処理を行ない、その後北条藩や館山藩などの小藩領や旗本・御家人領、天領、寺社領が複雑にいりくみ、多くが相給村落となりました。そのなかで人々の生活につながりを与えたのが信仰心で、那古寺を中心とした安房の観音信仰は盛んでした。宝暦頃には安房全域から浄財を集め、元禄地震で倒壊した那古寺の再建を行なっています。またそのような自由な活動をする反面、領主の圧政に対する義民伝承も残っており、大神宮村の七人様や、北条藩屋代家領内の三義民などの騒動もおこりました。

里見氏の終焉

 里見忠義奉納棟札 北尾八幡神社蔵

里見忠義奉納棟札 北尾八幡神社蔵

慶長18年、忠義は伯耆国倉吉へ三万石で移封されます。寺社への寄附や修理の記録が多く残されていますが、元和8年に29才で死去し、里見家は継嗣なく断絶しました。江戸時代に倉吉には正木氏の子孫が住し、大岳院に額を奉納しています。

於伯州里見家由緒書 菊井堯晴氏蔵

於伯州里見家由緒書 菊井堯晴氏蔵

享保5年正木義清奉納額 大岳院蔵

享保5年正木義清奉納額 大岳院蔵

交趾三彩皿 忠義遺品
 鳥取県指定 大岳院蔵

交趾三彩皿 忠義遺品
 鳥取県指定 大岳院蔵

里見忠義の墓 倉吉市大岳院

里見忠義の墓 倉吉市大岳院

天下人のもとで

里見義康寺領寄進状 総持院蔵
里見義康寺領寄進状 総持院蔵

天正18年、義康は豊臣秀吉によって上総国の領地を召上げられます。上総の家臣は多く安房国へ引き移ったため、里見家家臣団、寺社は領地の削減を余儀なくされました。

里見義康借金証文・西門院蔵
里見義康借金証文・西門院蔵
伝徳川家康拝領茶器 延命寺蔵

伝徳川家康拝領茶器 延命寺蔵

館山城と城下町の地名

館山城と城下町の地名

古銭 北条出土 中野平二氏蔵

古銭 北条出土 中野平二氏蔵

里見忠義法度 岩崎一夫氏蔵

里見忠義法度 岩崎一夫氏蔵
天正18年に館山城を本城として以来、義康は城の整備・城下町の形成に意を注ぎ、商業政策を含めた民政に力を入れました。幕閣との縁組も行ない、近世大名としての地歩を築きはじめます。

房総の支配者

白磁四耳壺(2) 栄一元代 高27.4cm
 館山市城山下出土
 東京国立博物館蔵

白磁四耳壺(2) 栄一元代 高27.4cm
 館山市城山下出土
 東京国立博物館蔵 Image:TNM Image Archives Source:http://TnmArchives.jp/

木造不動明王坐像 像高54.5cm
三芳村指定 宝珠院蔵

木造不動明王坐像 像高54.5cm
三芳村指定 宝珠院蔵
天正16年造蔵、国主源義康の銘が台座裏にみえる。

右像台座銘文

右像台座銘文

正木憲時木造 道種院蔵

正木憲時木造 道種院蔵

正木時茂官途状 真田文子氏蔵

正木時茂官途状 真田文子氏蔵