藩士邸

北条陣屋への移転後、陣屋内部の藩士邸だけでは藩士全てを収容できませんでした。そのため藩士邸が各地に分散して建築され、国分村の萱野をはじめ、北条村新塩場、八幡村浜添、正木村浜添、那古などにありました。なかでも萱野の藩士邸は大規模なまとまりをもち、現在もその区割りをみることができます。しかしこれらのうちには計画のみの地区もあったようです。

萱野藩士邸図
萱野藩士邸図 曽根勇氏蔵
萱野士族邸地実歩調書 明治6年 表紙
萱野士族邸地実歩調書 明治6年 中身

萱野士族邸地実歩調書 明治6年
 曽根勇氏蔵

家作普請に付作料請取状

家作普請に付作料請取状
 前田穣氏蔵

新塩場藩士邸図

新塩場藩士邸図
 藤井誠氏蔵

八幡浜添藩士邸図

八幡浜添藩士邸図
 藤井誠氏蔵

正木村浜添藩士邸図

正木村浜添藩士邸図
 藤井誠氏蔵

北条陣屋

北条陣屋は北条村のうち鶴ケ谷に定められ、明治3年11月に長尾から全面移転をしました。藩知事正訥(明治2年6月の版籍奉還で藩主は藩知事になりました。)はすでにこの年の5月に工事中の北条陣屋へ着任しています。陣屋には藩主邸・藩庁・工作役所・学校・番屋などがあり、それらを中心に藩士邸が南北に広がっていました。またこの敷地外に地方役所が設置されたようです。現在旧藩士の共同墓地がこの敷地の北辺と接したところにあり、陣屋内部の区画も現在よく残されています。

北条陣屋図
北条陣屋図   藤井誠氏蔵
現在地
現在地
北条陣屋地方役所図

北条陣屋地方役所図

北条陣屋藩庁図

北条陣屋藩庁図

八幡の長尾藩士共同墓地

八幡の長尾藩士共同墓地

長尾陣屋

明治元年7月、新政府から房州転封を通達されると、藩内では長尾の地に陣屋を建設することで準備がすすめられました。この地を選定し、中心となってこの任にあたったのは藩の兵学者恩田仰岳(豹隠)です。軍事的な見地から要害としてこの地を選んだものでした。明治2年からは藩士の移住も着々と進んでいきましたがその年の夏大風のために建設中の陣屋は倒壊し、翌年正月からは北条への移転計画がすすめられました。長尾への陣屋建設は位置の問題で当初より反対もあったため、陣屋倒壊で豹隠は譴責をうけ、やがて職を辞します。北条移転後は全く荒廃し、現在は山林と畑になっています。

長尾村に本多の城ができるという ほんだ《本多》けれどもなごう《長尾》保たん

≪当時の落首≫
長尾城地分見縮図
長尾城地分見縮図(155×190) 恩田利章氏蔵
現在地

現在地

長尾陣屋跡

長尾陣屋跡
 白浜町滝口

駿州から房州へ -房州長尾藩- 

 明治維新で明治元年に徳川氏が300年にわたる政権を朝廷に返上すると、将軍慶喜は水戸へ隠退、家達(いえさと)が徳川家を継いで1大名として駿河・遠江・三河で70万石の静岡藩主となりました。このため駿遠の諸大名は房総へ領土を移され、田中藩主本多正訥は安房国長尾藩主として長尾(白浜町)に陣屋を構えました。のちに北条(館山市)へ陣屋を移しますが、時代は急速に変化し、版籍奉還、廃藩置県とすすんで明治4年に長尾藩は解体、また徴兵令・地租改正・廃刀令・家禄廃止など新政府から次々と新しい政策が打ち出されて、武士は消滅していきました。

徳川の亀に追われて房州へ来(き)い(紀伊)ともいわず行くがほんだ(本多)か

当時の落首

 明治元年5月徳川亀之助(家達)(いえさと)が静岡藩主となることが決まると同時に、田中藩主本多紀伊守正訥は所替を通達され、二ヵ月後安房を代地とすることがいいわたされました。そのとき上記のような落首があったと伝えられています。しかし急な出来事で長尾の屋敷も整備されておらず、しばらくは藩主も藩士も藤枝宿の寺院に仮宿しました。房州への移住は明治2年に入ってからのようで、下表は藩主藤井六郎の移動時の様子です。この人は家財道具を売り払い、15両の手当を藩主から支給され、明治2年正月東海道を陸路旅して、三浦の浦賀から房州那古へ海を渡り白浜へ向いました。なかには焼津港から直接船で白浜へ渡った人たちもいたようです。 

国替に付入用等覚   藤井誠氏蔵
国替に付入用等覚   藤井誠氏蔵
国替の旅程と費用(藩士藤井六郎の場合)明治2年1月 (『国替に付入用等覚』より)
国替の旅程と費用(藩士藤井六郎の場合)明治2年1月 (『国替に付入用等覚』より)

下総領

田中藩領四万石のうち下総国相馬・葛飾両郡にもっていた一万石は、藩祖正重が大坂の陣の恩賞として元和2年(1616)に秀忠より賜わり、初めて大名に列したときのもので、安房国長尾へ移るまでの代々の所領でした。役所は船戸・藤心(柏市)におかれ、幕末に加村台(流山市)に移りました。

下総御固中日記

下総御固中日記 
 藤井誠氏蔵

田中城

田中城は東海道藤枝宿の東端にある平城で、戦国時代は東海道の拠点として重要な位置にありました。江戸時代に至っても、田中城主となることは大名の出世コースにのることで14代もの城主が交替していますが、本多氏が城主となってようやく定着しました。

田中城跡

田中城跡  現藤枝市立西益津中・西益津小学校

田中領牓示石

田中領牓示石
 藩士藪崎東岳の書 
 西益津中学校内

長尾藩前史-駿州田中藩-

 徳川家譜代の家臣である本多氏は、七家が大名として明治まで残りました。長尾藩本多家は江戸初期に幕閣で活躍した本多正信の弟、槍の三弥といわれた正重(まさしげ)を藩祖とする流れです。正重は下総国に一万石を領し、四代正永(まさなが)の時には四万石に加増されて、上野国沼田城主となりました。六代正矩(まさのり)に至って、享保15年(1730年)に駿河国田中城を賜わり、下総一万石と田中領三万石の田中藩主となって十二代正訥(まさもり)が長尾に移るまでの140年間支配し、幕府でも要職につきました。なかでも十二代正訥は文芸に秀で、天下の三公子とうたわれて、初代の昌平坂の学問所奉行に就任しています。

田中城絵図

田中城絵図 
 藤枝市指定
 藤枝市教育委員会蔵

長尾藩略年表

西暦

月日

事項
1730年享保15年6代本多正矩、駿州田中城を賜わり、田中藩々主となる。(田中領3万石、下総領1万石)
1837年天保8年11代正寛、藩校日知館を創設。
1859年安政6年遠州相良藩と田中城内で砲術試合を行なう。
1860年万延1年12代正訥、家督相続。
1862年文久2年正訥、初代の学問所奉行となる。
1863年文久3年江戸深川の下屋敷を下総加村台(流山市)に移し、下総領の役所とする。
1864年文久4年正訥、駿府城代を命ぜらる。
1867年慶応3年10.14
大政奉還
12.9王政復古
1868年明治1年1.3鳥羽・伏見の戦(戊辰戦争はじまる)
4.11徳川氏、江戸城を開城
5.24徳川家達、新政府より駿河・遠江・三河に70万石を与えられ、静岡藩主となる。
7.13田中藩、安房国長尾へ転封を命ぜられる。
7.26正訥、田中城を出て藤枝宿洞雲寺を仮住居とする。藩士も在町の寺院へ仮宿し、逐次房州へ移住する。
1869年明治2年5.18戊辰戦争終結。
5.このころ藩士の房州移住が終わる。
6.20正訥、版籍を奉還して長尾藩知事となる。
7~8頃大風のため長尾陣屋が倒壊する。
12.2禄制が制定され、華士族の俸禄が削減される。
1870年明治3年1.北条での陣屋建設がはじまる。
5.正訥、北条へ着任。
11.陣屋を長尾から北条へ全面移転する。
12.23正訥隠居し、正憲が家督を相続する。
1871年明治4年7.4廃藩置県、長尾県となる。
11.13長尾県が木更津県に統合される。
12.18在官者以外の華士族の職業自由が許可される。
1872年明治5年8.3学制発布。
1873年明治6年1.10徴兵令布告。
7.28地租改正条例布告。
1875年明治8年3.28廃刀令布告
1876年明治9年8.5華士族の家禄賞典禄廃止。金禄公債証書発行条例を定める。
 明治元年、駿遠から房総に移った藩
明治元年、駿遠から房総に移った藩
 長尾藩領域
長尾藩領域

開催にあたって

 明治維新は日本を近代化に導びく契機となりましたが、その変革のなかで大きく生活を変えていったのは武士たちでした。

 今回とりあげた長尾藩は、幕末まで静岡県の藤枝・焼津両市を中心に田中藩として4万石を支配していたのですが、明治初年に徳川氏が一大名となって駿・遠・三の三国を支配することになったとき、駿遠にいた他の大名とともに房総の地へ移されてきました。そして長尾藩として館山市や夷隅地区を中心に房総で4万石を支配する藩として明治4年の廃藩置県まで続きました。

 わずか4年間の治政ですが、廃藩後多くの藩士が旧地の田中領や東京などへ出ていくなかで、房州の地へとどまる藩士も多く、今も市内を中心にその子孫の方が多く残っています。

 この企画展では、明治維新の変革にふりまわされる武士たちの様子や国替えの模様、また武芸・文芸に励む武士の日常生活を紹介するほか、廃藩後は塾を開いたり、教師となって地域の教育向上に貢献した藩士を紹介しながら、館山の明治維新の様子についてその一面ではありますが、理解を深めていただきたいと思います。

 企画展の開催にあたり、貴重な資料を出陳・撮影等させていただいた所蔵者その他関係者の方々に心から感謝申し上げます。

  昭和59年10月20日

館山市立博物館館長
吉 岡 政 雄

展示のようす