14 観音菩薩立像 1軀

 垂下した右手に水瓶を持し、胸前に挙げた左手に宝珠を持する観音菩薩像で、頭を宝髻に結いあげ、三面頭飾の宝冠を戴き、正面に化仏風の証を鋳出し、冠の垂紐を両臂まで下げ、途中に2つのカールを配しています。ヒレ状に後方に張った天衣は両腕に懸り、下腹部前でX状に交差して腰裳(こしも)の瓔珞(ようらく)に達しています。瓔珞は胸前から裳先まで垂下するものと、胸前W状に懸け、左右2本の垂下をつくり、腰裳の天衣の結び目に達する構成で、タガネによる蓮点文を施こしています。裾先は脛(すね)下で終わり、くるぶしが見えるかたちに鋳造され、軽快な感じを与えます。モデリングは、腰を支点にしてくの字にそるかたちで、細身に仕上がっています。蓮肉と像は一鋳につくられ、以下の返花と八角の框座の部分に鋳かけています。

 この像の鋳造年代については諸説あり、最終的な結論はまだみていません。1つは中国、隋(581~618)様式とみる見方、1つは遼(907~1125)の時代のもの、また19世紀に満州でつくられたものとする見方などですが、いずれにしても、大陸より伝えられたものには違いありません。なお地元では、古来布沼の弁天社に安置されていたものとされています。

観音菩薩立像

観音菩薩立像
銅造 (総高25.8)
館山市・石井利昌氏保管

 13 五鈷鈴・五鈷杵

 五鈷鈴は、五鈷杵形の柄をつけた金剛鈴で、金剛鈴の中では種類・数量ともに多く、これを細部の形式で大別すると素文(すもん)鈴、仏像鈴、三昧耶(さんまや)鈴、種子(しゅじ)鈴などに分類されます。本品は種子鈴で、握部に蓮弁と鬼面を鋳出し、胴部には朝鮮梵字で胎蔵界四仏の宝憧(ほうどう)如来(ア・東)、開敷華王(かいふげおう)如来(アー・南)、無量寿如来(アン・西)、天鼓雷音(てんくらいおん)如来(アク・北)をあらわし、その間に宝相華を、その上下に連珠文を、さらに上に独鈷杵、下に三鈷杵、口縁に蓮弁帯を配しています。

 五鈷杵についても握部の鬼面や、八葉蓮弁、鉾の獅噛などの近似から五鈷鈴と同じ工房の作品とわかり、一具の法具として伝来したものと考えられます。

 本品は、胴の梵字が高麗時代に使われた種字であり、鎌倉時代に朝鮮より請来され、当寺に伝わる称名寺開山審海ゆかりの他の密教法具に編入されて、小網寺に伝来したものと考えられています。

 梵字は、サンスクリットと呼ばれる古代インドの文字であり、握部の鬼面のルーツは、ギリシャ神話に登場するメドゥーサとされ、ギリシャ彫刻に作例があり、遠い文化の流れが、この仏具の造形のなかに表われています。

五鈷鈴
五鈷鈴
金銅 (22.0)
高麗時代
館山市・小網寺
五鈷杵
五鈷杵
金銅 (19.0)
高麗時代
館山市・小網寺

 12 三彩宝珠鈕蓋(峰岡出土) 1口

 昭和45年に鴨川市嶺岡の林道開削のさい、七鈴鏡や「長者」銘の陰刻された須恵器片などと一緒に出土した奈良三彩で、出土状況などから火葬墳墓の跡ではないかと推定されていますが定説はありません。

 三彩は中国唐代に盛んに焼成されましたが、わが国では奈良時代に焼かれ、正倉院に伝世の遺品を見ることが出来るほか、各地から出土しています。

 県内からは、印旛郡栄町向台遺跡から唐三彩の陶枕が出土しているほか、数ヵ所から奈良三彩の出土をみています。館山市の安房国分寺からも、唐三彩の可能性を持つ三彩獣脚が出土しています。

 唐三彩は、主に長安・洛陽(らくよう)の貴族たちの葬礼のために作られ、墓陵に副葬されました。陶質の素地に化粧掛けした上に、緑・褐・黄・白の鉛釉(えんゆう)で華やかに彩り、またコバルトの藍釉を加えたものもあります。唐三彩は、安禄山の乱(756)ののちは作られなくなりましたが、その影響によって渤海三彩、遼三彩、宋三彩や日本の奈良三彩などが生まれたのです。

三彩宝珠鈕蓋

三彩宝珠鈕蓋
土製陶器 (口径13.65)
奈良時代
国立歴史民俗博物館保管

 11 十一面観音立像 1軀

 垂下した左手に水瓶を持し、右手はひじをまげて右脇高く挙げ、払子(ほっす)を持する十一面観音像で、頂上の阿陀の下に、上段に5、その下に5つの化仏を配し、冠の両脇に結紐をつくり両肩に垂下させています。天衣は、軟らかいカーブでなびくように表現され、体躯のひねりのムーブマンと対応して軽快な感じを与えています。腰裳は、脚にまといつくように処理され、裳先はくるぶしあたりで左右にたなびかせています。纓絡は胸にかかり、左肩から右ひざにかけて垂下させる特異な処理をしているのが目につきます。像の背面は扁平ですが、大まかな表現があります。像全体のモデリングは細身ですが、腰をひねり、上体を右に向け、再び首の位置で頭部をまっすぐにもどし、手の配置と天衣の表現で全体にバランスを与えている造形処理は上手と言えます。

 渡来仏のも模古作かと考えられますが、鋳造年代などについては不明です。

 当像は、下立松原神社に伝来したもので、他の兜跋毘沙門天、毘沙門天坐像、毘沙門天立像などの懸仏と一緒に社殿内より確認されました。

十一面観音立像
十一面観音立像
銅造 (像高17.5)
白浜町 下立松原神社

 10 兜跋毘沙門天像(懸仏) 1軀

 仏法を守護する四天王の一つで、毘沙門天(多聞(たもん)天)の一種です。兜跋(都鉢、屠半などとも書く)の語の由来には定説がありませんが、西域起源とみられる異形の毘沙門天像を指し、独尊として信仰されます。金鎖甲ないし、毘沙門亀甲(きっこう)の鎧(よろい)と海老籠手(えびごて)を着け、宝冠を戴き、左手に宝塔を捧げ、右手に戟(げき)を持ち、地天(女神)の両掌上に立つ、きわめて異国風な顔貌・服飾の像で、敦煌(とんこう)画に幾つかの遺品がみられます。日本では教王護国寺像と、これを模したグループ、地天の上に通例の毘沙門天像が立つかたちのグループの2つがあり、当像は後者の様式です。

 教王護国寺に伝わる像は、9世紀の末、都が今の京都平安京に移り、中国の長安にならって都市としての形が整うと、かつて唐の城が攻められた時に楼上に毘沙門天が出現して敵を破った故事にならい、中国から舶載した当兜跋毘沙門天を羅城門の楼上に安置したとされ、弘仁7年(817年)の大風で倒れた羅城門より移されたものとされます。日本には、このほか東北に何体かの像がみられ、古代の東北経営にこの兜跋毘沙門天像が一役かったことがうかがわれます。

 県内には当像の他には例がなく、しかも垂迹美術としての懸仏として制作された作品は、他に知られておらず、非常に貴重です。

兜跋毘沙門天像

兜跋毘沙門天像
銅造 (総高14.0)
鎌倉末~南北朝時代
白浜町・下立松原神社

 9 白磁四耳壺(館山市館山城山出土) 2口

 この壺は現在、東京国立博物館の所蔵になっていますが、もとは館山市館山城山より明治期に出土したとされています。

 白磁は、中国で南北朝時代後期(6世紀)頃に出現し、唐代には河南・河北方面で盛んに制作されました。宋代には象牙のような色合の定窯(ていよう)白磁が有名で、また華南の諸窯では釉が青みをおびた影青(いんてん)(青白磁)が量産されました。元代には景徳鎮(けいとくちん)の枢府窯と呼ぶ白磁が作られました。

 中国の白磁、特に宋時代のものは、我国へは11世紀末からみられ、四耳壺や梅瓶など高級器も地方に運ばれました。最初は座敷飾や社寺の装厳具として用いられたようですが、持ち主の死などで、蔵骨器に転じて、完形のまま出土する例がみられます。

 両壺とも形はやや胴径が大きく、撫肩で外反りする口縁帯を外方に折りまげています。肩に四個の横耳をつけますが、耳には横方向い刻線を入れています。頸部の立ち上がりが高く、器形に張りを与えています。

磁器(高27.4)

磁器(高27.4)
宋・元時代
白磁四耳壺(館山市城山下)(3)
 東京国立博物館蔵 Image:TNM Image Archives Source:http://TnmArchives.jp/

磁器 (高31.6)

磁器 (高31.6)
宋・元時代
白磁四耳壺(館山市城山下)
 東京国立博物館蔵 Image:TNM Image Archives Source:http://TnmArchives.jp/

 8 山水図 探雪筆 1幅

 右の前景に巨岩と樹林を配し、左方の集落に向かう高士と従者を描き、茶屋の周辺に人馬を点描し、背後に絶壁巨岩と滝を描いています。画面左には湖を配し、右下部に高士と従者を描き、行く手に荷をかつぎ橋を渡る人物、さらに草慮を配しています。湖上には帆を張った船を描き、湖をへだてて左端に岸辺の集落を、湖上には帰雁を配しています。遠山には山寺を配し、左手に朧(おぼろ)な夕日を描き、初夏の湿潤な情景で画面は構成されています。

 山岳と河水の自然風景を主題とする東洋画の一部門としての山水画は中国に起こり、日本・朝鮮にも広まりました。山水表現の日本への伝播は、上代からありましたが、宋風の水墨山水画は鎌倉後期に禅宗とともに輸入され、室町時代には、禅林を中心に中国風の画上に詩文をともなう詩画軸が流行しますが、室町中期以降周文・雪舟らが現われて日本の山水画が成立し、以降狩野派などを中心に障屏(しょうへい)画の大画面にも山水が描かれるようになります。

 宝珠院の山水画は、狩野探幽の弟子狩野探雪守定(正徳4年没・1714)の作品と推定されます。

山水図  絹本墨画淡彩(56×99)
山水図  絹本墨画淡彩(56×99)
江戸時代 三芳村・宝珠院
探雪筆
探雪筆

 7 観音・勢至菩薩像(善光寺式)2軀 

 最近、その存在が確認された善光寺式阿弥陀三尊像の両脇侍で、中尊は戦後盗難にあい、現在不明です。安房にはこの他に、鴨川の西徳寺の善光寺式三尊像(県指)が知られているほか、当市の善栄寺のものが知られている程度で、上総・下総にくらべてかなり数が少ないので、当像の存在が確認された意義は大きいと言えます。

 両像とも、右手を上にして掌を合わせる形で鋳造され、尊名の識別は、宝冠正面に取り付けられた宝瓶と、阿弥陀の印(しるし)で行うしかありません。両像の像容は、全体的に細身のモデリングですが、比較的端正な造形が施こされており、美作です。当像で特色のある点は、円い筒状の宝冠を戴いている点です。県内では鴨川西徳寺の例以外にはなく、県外では円覚寺の例が、正面が山形に立ち上がる筒状の宝冠として知られてる程度で、めずらしいものということが出来ます。

観音・勢至菩薩像
観音・勢至菩薩像
銅造 像高(観音33.3 勢至33.6)
鎌倉時代
館山市・三善寺

 6 阿弥陀三尊像(善光寺式)3軀

 信濃・善光寺の秘仏、阿弥陀三尊像は、藤原末から鎌倉時代にかけて全国的に盛んに模作がつくられました。それらの作例から類推して、その原形が法隆寺献納宝物のなかの一光三尊仏像のようなものではないかということが言われています。

 そもそも善光寺式三尊の信仰は、秘仏として安置されている像が、我国への仏教伝来時に百済聖明王が欽明天皇に献じた長さ一尺五寸の阿弥陀、長さ一尺の観音・勢至像の一仏二菩薩像で、蘇我・物部の争いによって難波の堀に捨てられ、それを信濃の住人本田善光(ほんだぜんこう)が拾って草庵をつくり、長野善光寺の初めとしたということと、その像が釈尊在世時天竺の月蓋長者の門の敷居に、一ちゃく手半に身をちぢめて出現した姿を金銅で鋳写したもので、釈尊の死後、百済国に飛来し、さらに一千余年を経て日本に浮かび来った、いわゆる「三国伝来」の尊像だというところにあります。

 この金剛勝寺の三尊像は、県内の善光寺式三尊のなかでも大きなクラスに入り、像容も形式化がすくなく、作期ものぼる作品と考えられます。特に、背中の上下二つの柄は大ぶりで、上代の小金銅仏のそれとの近似を感じさせ、白鳳仏を思わせる面相と合わせて、興味深い作品ということができます。

阿弥陀三尊像 銅造 (阿弥陀像49.3 観音像44.5 勢至像44.5)

阿弥陀三尊像
銅造 (阿弥陀像49.3 観音像44.5 勢至像44.5)
鎌倉時代
山武町・金剛勝寺

 5 清海曼荼羅図 1幅

 仏典の『大無量寿経』などに説かれている極楽浄土の景観を大きな構図として描いた阿弥陀浄土変相図で、日本に流布した智光・当麻・清海の、いわゆる浄土三曼荼羅の1つです。

 このうち清海曼荼羅は、長徳2年(996)に奈良超昇寺の清海が感得したという銘文があり、三曼荼羅のなかでは、最も後に成立したものです。

 浄土変相図の最も古い遺品は、6世紀後期まで遡り、次いで初唐(7世紀)頃から阿弥陀信仰の高揚によって浄土図の制作がにわかに盛んとなりました。敦煌には、唐~宋初の各種浄土図がのこっています。日本でも、法隆寺金堂壁画の四仏浄土、東大寺大仏蓮弁の蓮華蔵世界(華厳経変相)、同法華堂にあった霊山浄土(法華経変相)などのほか、唐から請来とみられる綴織当麻曼荼羅もあり、文献になお種々の浄土変相が描かれたことがみえます。

 この清海曼荼羅は、当麻と智光曼荼羅との中間を示し、智光曼荼羅に比べて阿弥陀三尊周辺の聖衆を増すほか、宝池付近もにぎわいを増して描かれます。他の二系統の浄土曼荼羅との違いは、彩色を施こされない点で、紺地に金銀泥で描かれるため、透明感と清澄な印象を見るものに与えます。

 心厳寺にはこの他、智光、当麻曼荼羅が所蔵されており、三曼荼羅を皆具する房総でも稀な寺院です。

絹本金銀泥 (99×72)
絹本金銀泥 (99×72)
江戸時代
鴨川市・心巌寺