4 渡唐天神図 祥啓筆 1幅

 菅原道真(すがわらみちざね)は平安時代前期の廷臣で、学者として宇多・醍醐天皇に重用され、寛平6年(894)に建議して遣唐使を廃止し、国風文化興隆の契機をなした人物として、また藤原時平の讒言(ざんげん)で大宰権帥(だざいごんのそつ)に左遷され、同地で歿すると、死後北野天満宮に祀られ学問文芸の神となり、天神信仰のもととなりました。

 この画像は道真(みちざね)(北野天神)が宋の禅僧無準師範(むじゅんしはん)に参じて受衣(じゅえ)したという説話に基づくもので、説話は南北朝末から室町初期に、禅宗教団で生みだされた一種の神仏習合と思われます。図様は道服を着て、手に一枝の梅を持ち、無準に授かった衣を納めた袋を肩にさげた姿です。束帯(そくたい)の天神像とともに歌神としても尊ばれます。

 この人物図を描いた賢江祥啓は、15世紀の後半に関東を中心に活躍した画僧で、鎌倉建長寺の書記をつとめていたので啓書記とも呼ばれます。文明10年(1478)上洛し、芸阿弥(げいあみ)について画を学び、幕府の御物の唐絵(からえ)も研究しています。山水画・花鳥画・人物画と広く手がけていますが、山水画が高く評価されます。以後の鎌倉周辺の画家たちに強い影響を与えました。

紙本墨画 (60×28.2)

紙本墨画 (60×28.2)
室町時代
三芳村・宝珠院

 3 不動明王及び矜羯羅童子画像
 妙沢筆 2幅

 本図は全国的に流布している妙沢(みょうたく)の肉筆画です。ほとんど墨画で、わずかに肉身部や火炎光背、持物納衣に淡彩を施こしています。

 中尊の不動は天地眼で、右端に上向きの牙、左端に下向きの牙をむき出し、頭上に頂蓮華を乗せ、右手に剣、左手に羂索を持って三重の瑟々座に立つ図様で、様式的には託磨派の流れをくんでいます。

 矜羯羅(こんがら)も頭上に頂蓮華を戴き、それを朱色の紐で顎に結び左小脇に独鈷杵をはさみ、合掌して中尊の不動を見上げています。

 このほかに頭頂に宝珠を戴き、右手で地に立てた棒を握り、左臂をその上にのせ、左掌で顎を支え横目で中尊を見る制叱迦(せいたか)童子像がついて三幅対になるわけですが、成就院では現在、制叱迦を欠いており、紙本の後代の写しが伝わっています。

 これを描いた竜湫周沢(りゅうしゅうしゅうたく)(1307~1388)は諱を妙沢と言い、南北朝時代の禅僧です。夢窓疎石(むそうそうせき)の法嗣(ほっす)の一人で、京都の建仁寺・南禅寺・天竜寺に歴住しました。不動明王を信仰し、百日間にわたって毎日一尊を描く日課を20余年も続けたと伝えられます。妙沢が、移入された中国の宋元風の水墨画の影響を受けて描いているのは、瑟々座の描法を見てもあきらかですが、日本の初期水墨画人のなかでは、異色の存在といえます。

紙本著色制叱迦童子像

紙本著色制叱迦童子像
南北朝時代
鴨川市・成就院

絹本墨画淡彩 不動明王(107×42)

絹本墨画淡彩 不動明王(107×42)
南北朝時代
鴨川市・成就院

矜羯羅 (103×38)

矜羯羅 (103×38)
南北朝時代
鴨川市・成就院

 2 両界曼荼羅図 対幅

 金剛界・胎蔵界の二部よりなる両界曼荼羅は、平安期に空海など入唐僧によって伝えられた密教の根本を図示したもので、大日経・金剛頂経に基づいて描かれたものです。

 金剛界は智拳印(ちけんいん)を結ぶ大日如来を中央上部に描き九会に区分して1461体の諸尊を描き西方に配されます。胎蔵界は、大日如来を中心に中台八葉院をはじめ十三大院あり、それぞれ諸院の中におよそ414尊を描き東方に配されます。

両界曼荼羅は、密教の修法には不可欠なものとして、天台・真言共に重要視されてきました。

 密教は6世紀の終わりから7世紀の初めに成立し、日本には入唐僧によって請来され、天台・真言それぞれに発展をみましたが、流布するものの多くは空海請来様の現図曼荼羅と呼ばれるもので、唐の恵果(けいか)が体系化したものとされます。

 成就院の曼荼羅については、軸木に修理墨書銘があり、成就院九世の慶深上人が寛永元年(1624)に再興し、第二十一世頼雅和尚の享保20年(1735)に補絵。さらに、天保4年(1833)の弘法大師一千年御忌を機会に、三十三世慶真によって、京都表具師六兵衛などの指導で表具が改められたことがわかり、伝世の労苦を知ることができます。

絹本著色 金剛界
絹本著色 金剛界
230×156
室町時代
鴨川市・成就院
胎蔵界
胎蔵界
230×155
室町時代
鴨川市・成就院

 1 三十三観音 1幅

 綴織は、西アジアにおいてはじまり、前1500年頃のエジプト王墓、また前5~前4世紀のペルシア、アケメネス朝様式のものがアルタイから発見されています。その後東西に拡がり、コプトの綴織、西洋中世のタピスリーをはじめゴブラン織の大画面、さらに今日に至るまで画家の下絵による作品が数多く作られました。中国では唐代(8世紀)からはじまり、宋代(11世紀)以後、こく糸の名で呼ばれ、明清時代に至るまで盛行しました。日本では、『当麻曼荼羅』、正倉院の袈裟、帯類にみられるほか、桃山時代の南蛮貿易によって舶来したと考えられる京都祇園会山鉾の前懸や京都高台寺に伝わる陣羽織が知られています。

 本品は白絹布に金糸と、紺、青、茶など全部で6色の絹糸を使って、三十三体の観音菩薩像を綴っています。像容は、蓮華座の上に円光背の三体を除き、各段五体づつ描かれ、各段ごとに糸のとり合わせを変え、さらに各列ごとに印相を変え、糸の配色については7種。印相については三種類をつくり、変化を与えています。

 三十三観音の信仰は、法華経の観世音菩薩普門品にいう、観音が衆生済度のために三十三身に応化すると説く経文に基づいています。

綴織 236×86.5

綴織 236×86.5
明時代
鴨川市・心巌寺

左上写真部分

左上写真部分

2 日本人及び房州の受けとめた仏教美術

 安房地方と仏教との出会いは、聖武天皇の天平13年(741年)の国分寺建立の詔によって、国分寺が建立されたことを大きな契機としていると思われます。安房国分寺は、市内国分の日色山国分寺の寺域と考えられ、発掘調査により当時の布目瓦や三彩の陶器片などが出土しています。

 国分寺は金光明四天王護国寺、尼寺を法華滅罪寺といい、護国経典としての金光明経と法華経を転読して、国家鎮護を計ろうという、大陸の隋・唐の国家仏教の考え方を学んだものでした。律令制と国分寺体制のもと、天平文化は唐文化の縮図のような華を咲かせました。東大寺の大仏は、西域を含めたアジアのなかでみると、そのころ流行した大仏造像の一例とみられますが、国内的には国銅を尽くした大事業でした。「青丹吉(あおによし)寧楽(なら)のみやこは…」とその繁栄をたたえられた天平の世も、東大寺大仏開眼供養の直後から陰りがみえはじめたことも事実です。天平勝宝6年(754年)に唐僧鑑真が来朝し、雑密系の仏教を請来、やがて平安京に都が移り、9世紀を迎え、最澄や空海によって新しい密教が伝えられました。その後、台密と東密として、平安初期の文化に大きな影響を与えました。しかし平安初期の密教、特に真言密教は唐の高僧恵果が直接空海に伝授したのものでしたが、難解なものであったのか、地方には広く伝わらなかった様子です。しかし両宗の本山が比叡山や高野山にあるように、平安時代の寺院は、古来の山岳信仰と習合がみられ、地方の山岳寺院建立に大きな影響を与えました。大陸の文化や政治の窓口を果した遣唐使は、菅原道真の建議によって廃止され、以後は国風文化の時代を迎え、浄土教の発達や美術工芸など和風化が進んだとされますが、末法思想の流布にともなって発達した浄土教的な考え方は、上代の南都顕教のなかにあったもので大陸の影響を無視するわけにはいきません。つまり浄土に対する考え方は、上代の、唐より請来したと言われる当麻曼荼羅に描かれた変相図的なもので、空海などが請来した両界曼荼羅的なものではありませんでした。

 大陸との交渉は、遣唐使の廃止以後、正使による交流はとだえてしまいますが、それでも民間による交易は依然行なわれていました。特に平安時代の末頃になると、宋文物の輸入が促進され、重源・栄西らの僧侶が入宋して新しい仏教文化の移入も行なっていました。こうしたなか、治承4年(1180年)の平氏の南都焼打ちにより、多くの天平の古典的美術が失なわれましたが、その後の南都の復興事業で、貴族にかわり覇権を握った武士は、天平期の古典をモデルにしながらも宋風を加えた新しい力強さを基調とした様式を示しました。鎌倉初期の古典復興の思潮は本地垂迹説、善光寺式三尊像の全国的な模鋳造、聖徳太子信仰、清涼寺式釈迦像の模刻などほとんど全国的な規模で行なわれ、それぞれが仏教の初伝にさかのぼり、大陸やインドにそのルーツを求める傾向を持っていました。

 頼朝が幕府を鎌倉に開くと、都から遠く離れた東国の地にも政治の中心ができました。幕府は武家社会の樹立のため、はじめ公家文化の導入をはかりますが、やがて武家の地位向上に伴い、宋文化の積極的な移入によって武家風の文化を形成しようとしました。その中心となったものが栄西が最初に移入した禅宗でした。

 北条一族をはじめとして鎌倉武士は、禅宗に帰依して、入宋帰朝僧や蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)・無学祖元(むがくそげん)らの宋僧を招き、後に鎌倉五山と呼ばれる建長寺、円覚寺といった寺々を建立しました。中国高僧の渡来は、建長以後の鎌倉文化をかなり大陸的なものにしました。

 宋文化の影響は、建築では東大寺南大門にみられるような「天竺様(てんじくよう)」や禅宗寺院の「唐様(からよう)」が導入され、彫刻では南都仏所の運慶・快慶といった慶派が初期に活躍し、鎌倉後期はさらに大陸的な後期宋風彫刻が鎌倉を中心に多く造立されました。また絵画では、頂相画(ちんそうが)や道釈図(どうしゃくず)が請来され、ことに宋・元水墨画は、禅林の日本水墨画の形成に大きな影響を与えました。工芸品としては、綾(あや)・綴(つづれ)・錦(にしき)などの織物や陶磁器が輸入され、当時の唐物趣味をあおりました。

 禅宗の勃興のほか、鎌倉後半には浄土宗や浄土真宗、時宗、さらに日蓮宗といった、いわゆる鎌倉新仏教とばれる宗派が生まれましたがそれに対抗するかたちで、南都の旧仏教系の真言律宗が叡尊により鎌倉に伝えられ、忍性により東国に広められました。関東における中世文化の中心としての役割をはたした神奈川称名寺は、北条実時が亡母の菩提を弔うため武蔵国六浦に建てた寺で、文永4年(1267)妙性房審海(しんかい)を迎え、真言律宗として開山しています。館山出野尾の小網寺には「金沢寺審海」の銘を持つ密教法具が伝えられており、東京湾を越えて称名寺と強い関係があったことがわかります。

 中世の房州は、対岸の鎌倉文化の影響を強く受け、それが持っていた大陸的な宋・元の文化を敏感に取り入れていたところに一つの特色を見ることが出来ます。しかし今日、安房の寺院に伝えられている文物のうちの、大陸の伝来又は影響を受けたものすべてが、この時期に寺にもたらされたと考えるより、明治までの長いあいだに伝来したものであり、それは中世の基礎があってはじめて可能であったと解釈する方が現実的だと言えます。

(吉田)

安房国分寺出土 「三彩獣脚」
安房国分寺出土    「三彩獣脚」
「智光曼荼羅」
「智光曼荼羅」   鴨川・心巌寺
「木造地蔵菩薩坐像」

「木造地蔵菩薩坐像」
 館山・源慶院
鎌倉後半に流行した宋風の様式をもつ

「華瓶」 「金沢寺審海」銘

「華瓶」
「金沢寺審海」銘
館山・小網寺

1 地方の仏教美術とシルクロード

 房総半島南端の古寺に伝わる古典美術に、はるかなシルクロード(Silk Road:絹の道)のエキゾチックな香りを見つけることは、そうむずかしいことではありません。それは、そもそも古代・中世の日本の文化が中国を中心とした極東文化圏のなかにあり、その大部分が大陸の先進文化の摂取の過程であったことと、仏教自身がインドに生まれたことを考えれば、ごく自然なことと言えます。

 むかし江戸時代の善男善女は、古社寺の門前で売っている刷りものの御札や縁起の類を手にして、由緒ある古社寺の巡礼をしました。当時は古社寺の宝物は美術とか芸術作品ではなく、まったくの信仰対象でしかありませんでした。その意識を変革し、新しく“古美術”としての解釈をわれわれに与えたのは、明治政府の招請したお雇い外人アーネスト・フェノロサであり、その影響を受けた美術行政家岡倉天心でした。特に岡倉は、国粋的な理想主義者で、すぐれた国際感覚のうちに、アジアの文化・美術の優位と日本の役割を主張し、英文の『茶の本』や『東洋の理想』を著わし、日本美術をアジアの文化圏のなかで考える広域的な視野を示しました。こうした“古美術”の解釈の流れは、やがて和辻哲郎の『古寺巡礼』(1919年)などを生みましたが、これも戦前においては、一部の知識人の興味関心を引いたにとどまりました。真に西域までの広がりを含めた日本美術の解釈が大衆のものとなるのは、やはりつい最近のNHKの「シルクロード」がマスコミにのり大当たりをしたことを考えると、戦後のことと言えます。そしてさらに戦前の日本美術の対象が、奈良・京都の古社寺の文物にかぎられていた状況は、やはり戦後もしばらくあり、今日のようにわれわれの身近な地方の古社寺の文物に、古代シルクロードの余風をみようという動きは、まさにこのような展覧会をとおして、これからおこなわれていく課題だと言えます。

敦煌「鳴沙山」
敦煌「鳴沙山」

凡例

  • この目録の図版番号は展示番号と同じである。ただし、展示の順序は必ずしも番号順とは限らない。
  • 展覧会の会期中に展示替えを行なうので、目録に掲載されていても会場に展示されていないものもある。また都合で展示の一部を変更する場合がある。 
  • 資料名称は、必ずしも指定資料名称と同じではない。

ごあいさつ

 文化は道を往来する人々の交流によって、相互に影響しあい、新鮮な活力を持ち続けることができます。

 半島南端に位置するわが房州は、こうした文化の流れの袋小路的な地理条件を持ちながらも、海上からの道を開き、独特の歴史と文化をつちかってきました。

 かつて人々は、この道を自らの足を使って苦難を乗り越え、切り開いてきました。この企画展では、こうした人と文物を運んだ道を文化の波及の視点でとらえ、安房地方に及んだ広域的な文化の波を、この地方にのこる仏教美術を中心とした資料をとおしてその一端を探ってみたいと思います。

 この企画展の開催にあたり、貴重な資料の展示を快く御承諾下さった、東京国立博物館、国立歴史民俗博物館をはじめとする所蔵者各位の御協力に、心から御礼申しあげる次第です。

  昭和60年7月20日

館山市立博物館
館長 庄司 徹