【3】-2 里見氏と足利氏

 関東公方足利氏は、関東管領上杉氏との対立から、享徳の大乱以降下総国古河へ移座し、それ以来古河公方と称されている。

 古河公方は戦国時代を通して徐々に衰退しつつも、北関東を中心とする伝統的豪族層を中心に権威を保持しており、北条氏が北関東へ勢力を拡大するにあたってもその権威は無視できないものであった。

 そのため天文21年(1552)には、北条氏綱の娘を母とする足利義氏が、北条氏の力を背景に公方家の家督を継承し、反北条氏勢力の反発を招いている。里見氏は上杉謙信や佐竹氏・太田氏などとともに義氏の兄藤氏や藤政家国らを奉じてこれに対立した。

 また、永正14年(1517)に、上総武田氏の招請により足利義明が下総小弓城に拠ったときには里見氏はこれに従い、国府台合戦で義明が討死すると、遺児らを安房に伴い保護している。天正19年(1591)には、関東を征服した豊臣秀吉が、足利義氏が死去して以来継嗣のなかった公方家を再興しているが、里見氏の保護下にあった義明の孫国朝がこれを継いでおり、国朝早世後も、弟の頼氏がやはり里見氏の保護のもとから出て継いでいる。

 里見氏は義実の安房攻略以前から足利氏に仕えており、永正5年(1508)には義通が古河公方足利政氏の武運長久を祈っている。義通以後、里見氏は安房の総社である鶴谷八幡神社の修造の際には、代々足利氏の武運長久を祈っており、里見氏の意識の中で足利氏の比重の大きさを知ることができよう。

里見義通奉納棟札

里見義通奉納棟札 館山市指定
 館山市・鶴谷八幡宮蔵
 永正5年9月25日

里見義弘奉納棟札

里見義弘奉納棟札 館山市指定
 館山市・鶴谷八幡宮蔵
 元亀3年12月20日

足利家国書状

足利家国書状
 三芳村・高橋義隆氏蔵
 年未詳 11月10日

里見氏朱印状

里見氏朱印状 丸山町指定
 丸山町・石堂寺蔵
 (文禄2年)6月13日

【3】-1 尼僧略奪

 鎌倉尼五山の筆頭として知られる太平寺は、戦国期に至って突然廃絶に追い込まれている。これは里見義弘が鎌倉へ攻め入ったとき、時の住職青岳尼が本尊を携えて寺を去り、義弘の室になったことを原因とするものあった。

 太平寺は関東公方足利基氏の夫人清渓尼が中興して以来、足利氏の保護を得、尼五山第二位の東慶寺とともに、関東足利家の女性が多く住持している。

 青岳尼も古河公方足利政氏の息で下総小弓城に拠り、小弓御所と称した足利義明の娘であり、天文7年(1538)の国府台合戦で義明が討死した際には、義明の遺児頼純とともに安房の里見義堯のもとへ保護されたと考えられている。その後足利氏と縁のある太平寺へ入寺したものであろう。

 義弘がこの事件をおこした年は明確には知りがたいが、弘治2年(1556)の三浦攻めと永禄4年(1561)の小田原攻めにともなう鎌倉進入が知られている。

 鎌倉でのこのような出来事に対し、時の北条氏康は「太平寺御事は、伽藍の事絶やし申よりほかこれなく候」と、青岳尼の妹である東慶寺の住職旭山尼に書状を送り、怒りをあらわしている。

 現在、円覚寺正続院にあたる昭堂(舎利殿)は永禄6年の大火後、旧太平寺から移建したものとして知られ、東慶寺に客仏として残る聖観音像も旧太平寺の本尊であったことが知られている。

 義弘の室となった青岳尼は興禅寺と泉慶院の二寺を開き、房州で歿した。法号を智光院殿といい歿年は天正4年(1576)と伝えられる。

木造聖観音菩薩立像

木造聖観音菩薩立像 重要文化財
 133.9cm 鎌倉市・東慶寺蔵
 旧太平寺本尊 鎌倉時代

聖観音由来書
聖観音由来書
鎌倉市・東慶寺蔵
江戸時代
北条氏康書状

北条氏康書状
 鎌倉市・東慶寺蔵
 年未詳 4月23日

北条氏綱書状

北条氏綱書状
 鎌倉市・東慶寺蔵
 年未詳 10月13日

青磁蓋付鍋文壺

青磁蓋付鍋文壺 鎌倉市指定
 総高16.0cm 鎌倉市・別願寺蔵
 鎌倉市国宝館寄託
 太平寺跡出土 14世紀

古瀬戸黄緑釉尊形花器

古瀬戸黄緑釉尊形花器 鎌倉市指定
 総高17.8cm 鎌倉市・別願寺蔵
 鎌倉市国宝館寄託
 太平寺跡出土 14世紀

青岳尼供養塔

青岳尼供養塔
 館山市・泉慶院
 文政2年(1819年)

青岳尼供養塔

青岳尼供養塔
 富浦町・興禅寺
 延宝3年(1675年)

泉慶院

泉慶院

興禅寺

興禅寺

【2】-2 揺れ動く人々

 里見氏と北条氏の両勢力が接する上総や相模の沿岸地域で、両者の間にはさまれる人々は、ある時は里見氏に、ある時は北条氏に従うことで、戦国の世を生きぬいていた。

 天文23年(1554)には、上総峰上城の吉原玄審助をはじめ、二十二人衆と称される土豪層が北条氏の誘いに応じて、久留里城の里見義堯に反旗を翻していた。この前年には北条綱成と、これにつづいて氏康も安房の西北部へ渡海しており、これによりここから西上総にかけては数年にわたって攪乱されていたようである。

 このような上総土豪層の動きは里見氏に深刻な影響を与え、永禄7年にも国府台合戦の敗戦につづいて、里見氏の重臣で上総勝浦城の正木時忠が北条氏と結んで反乱をおこしたときには、上総における里見氏の勢力は大きく後退することになった。

 一方、相模の沿岸部では、強力な水軍によって東京湾の制海権を掌握していた里見氏が度々進入して海辺の村々を悩ませていた。天正4年(1576)には相模本牧郷が里見氏への差出しの地になっており、年貢の半分は北条氏へ出し、残りの半分を里見氏に差出すという状態であった。

 また里見氏と北条氏の和睦成立後、相模の回船商人である山口越後守は、天正7年に里見氏領国内での商売と諸役の免除を認められている。

北条氏朱印状 (鳥海文書)

北条氏朱印状 (鳥海文書)
 当館蔵(鳥海百合子氏寄贈)
 (天文23年2月27日)

仏胴胸五枚胴具足

仏胴胸五枚胴具足
 富津市・鳥海文也氏蔵
 伝吉原玄審助所用 戦国時代

槍


 当館蔵(鳥海百合子氏寄贈)
 戦国時代

里見義頼朱印状

里見義頼朱印状
 横浜市・山口正司氏蔵
 天正7年9月26日

正木憲時朱印状

正木憲時朱印状
 川崎市・永塚正氏蔵
 天正7年5月6日

【2】-1 合戦と融和

 安房・上総を領有する里見氏と、伊豆・相模・武蔵を領国化した北条氏とは、東京湾をはさんで対峙し、長く敵対する関係を続けており、水軍による相互の侵略や、上総・下総での白兵戦が繰り広げられた。

 北条氏は下総の千葉氏一族を従属させており、下総が両者の最前線になった。天文7年(1538)と永禄7年(1564)の2度にわたって行われた国府台合戦はよく知られている。

 里見氏と北条氏の関係は「快元僧都記」が享禄以前に里見義豊が鎌倉へ乱入したことを伝える記事から始まる。天文2年・3年(1533・1534)の里見家内訌に際して、北条氏の助勢を得た里見義堯が一時期関係を回復するが、天文6年には再び手切れとなった。

 その後一進一退の攻防を続けるが、永禄10年(1567)頃から北条氏は里見氏との大規模な衝突をさけて、融和へ動きをはじめ、天正5(1577)についに里見義弘は北条氏政と和睦した。天正10年には里見義頼が、甲斐で徳川家康と対峙する北条氏直に援軍を送っている。講和の解消した時期は明らかではないが、天正18年には小田原攻囲軍として参加した。

北条氏康書状

北条氏康書状
 沼津市・西原一夫氏蔵
 (永禄7年)1月4日

黒漆塗軍陣鞍

黒漆塗軍陣鞍
 館山市・菊井堯晴氏蔵

あぶみ

あぶみ
 館山市・菊井堯晴氏蔵

鉄扇

鉄扇
 沼津市・西原一夫氏蔵

二引両紋旗印

二引両紋旗印
 館山市・吉田謙四郎氏蔵

三鱗据金物付十二間漆塗筋兜

三鱗据金物付十二間漆塗筋兜
 狭山市・伊沢昭二氏蔵

朱漆塗三鱗紋黒漆塗仏胴具足

朱漆塗三鱗紋黒漆塗仏胴具足
 狭山市・伊沢昭二氏蔵

里見義頼書状

里見義頼書状
 小田原市・稲子正治氏蔵
 (天正8年)7月5日

松田憲秀書状

松田憲秀書状
 三芳村・高橋義隆氏蔵
 (天正10年)11月12日

北条氏政書状(上野文書)

北条氏政書状(上野文書)
 当館蔵(上野理七郎氏寄贈)
 (天正10年)10月25日

【1】-2 戦国高潮期の関東

 またたくまに関東を席捲した北条氏は、北関東の諸豪族にとっては大きな脅威であった。とくに天文21年(1552)に関東管領上杉憲政が、北条氏康によって上野の平井城から越後へ追われると、北条氏は急速に関東制圧へむけて動き出したのである。

 天文23年には氏康は甲・相・駿三国の同盟を成立させ、同じ年に古河公方足利晴氏父子を相州へ幽閉するなど、関東支配のための体制をかためていった。

 北関東や房総での攻防が繰り返され、北条氏の優位がしだいに明らかになってくると、永禄3年(1560)には里見義堯をはじめ、常陸の佐竹氏や、武蔵岩付の太田氏、下野の小山氏など、反北条氏の勢力は、越後の上杉謙信の関東出陣を要請し、謙信が関東管領に就任することでその結束を強めた。

 しかし、甲・相・駿三国同盟が破綻すると永禄12年には北条氏康と上杉謙信の同盟が成立し、反北条氏勢力は武田信玄と結ぶなど、形成が流動的になり、反北条氏勢力はしだいに相互の連絡も疎かになっていった。

紙本著色武田信玄像

紙本著色武田信玄像
 本荘市指定
 本荘市・開善寺蔵

上杉輝虎書状

上杉輝虎書状 三芳村指定
三芳村・豊岡一夫氏蔵
(永禄8年)11月21日

太田資正書状(山吉文書)

太田資正書状(山吉文書)
 横浜市・神奈川県立文化資料館蔵
     <現蔵:神奈川県立公文書館>
     (永禄12年)2月11日

太田資正書状(山吉文書)

太田資正書状(山吉文書)
 横浜市・神奈川県立文化資料館蔵
     <現蔵:神奈川県立公文書館>
     (永禄12年)2月11日

 北条氏の印章

 印の郭外に動物をあしらった意匠は北条氏の創案で、以後東国武将の間に流行した。北条氏の虎の印は早雲・氏綱の頃から氏直に至るまで使用されたもので、当主専用の家印として効力を持った。

北条氏虎印判 印分「禄寿応穏」

北条氏虎印判 印分「禄寿応穏」

北条氏印判状

北条氏印判状
 沼津市・西原一夫氏蔵
 永禄7年5月10日

 里見氏の印章

 里見氏の用いた印章には、方印の郭外に鷲をあしらった家印と、龍をあしらった個人印が多くみられ、その他には大黒天を配したものもある。
 龍は義頼・義康が用いたもので、北条氏の虎の印を意識し、西方の白虎に対する東方の青龍を意味したとの見方もある。

里見氏龍印判 印文「義康」

里見氏龍印判 印文「義康」

里見氏鷲印判 印文「里見」

里見氏鷲印判 印文「里見」

里見氏印判状

里見氏印判状 木更津市指定
 木更津市・小倉実氏蔵
 千葉県立上総博物館寄託
 (永禄6年)10月21日

【1】-1 里見氏の系譜と北条氏の系譜

 15世紀中頃に関東足利氏をめぐって連続して勃発した騒擾は、東国の諸将を争乱のなかへ巻き込んでいった。

 そのなかから、幕府の東国支配の象徴である堀越公方を滅ぼし、新興勢力として伊豆に台頭したのが北条早雲であった。明応4年(1495)には小田原城を攻略して本城とし、伊豆、相模を制して、氏綱のときには武蔵、下総にまで進出した。氏康・氏政にいたっては上野・下野にまで勢力を広げ、戦国大名として一大勢力を誇示するまでになっている。

 北条氏は領国化した伊豆・相模・武蔵において、支城制と経済政策を巧みに駆使して領国支配を確立し、また関東足利氏の権威をも利用して、関八州支配をめざして北関東への進出を繰り返していた。

 一方、対岸の房総半島では、15世紀中頃に里見義実が、勢力の分立する安房を攻略して以来、房総での支配を確立していった。16世紀中頃には安房・上総を領国化する戦国大名に成長し、下総・相模にまで侵攻しているが里見氏もまた関東足利氏の権威を保護することで、その勢力の拡大をはかっていった。

 天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原征討で、五代にわたった北条氏は滅亡、里見氏もこのとき領土を縮小され、元和8年(1622)には十代にわたった里見氏も、伯耆国で断絶した。

北条氏五代系

北条氏五代系譜
 寄居町・正龍寺蔵

源氏里見系図
源氏里見系図 三芳村指定 三芳村・延命寺蔵
木造里見義弘像頭部

木造里見義弘像頭部
館山市・瑞龍院蔵
江戸時代

紙本著色北条氏康像

紙本著色北条氏康像
 神奈川県指定
 箱根町・早雲寺蔵

目次

カラー図版
【1】-1 里見氏の系譜と北条氏の系譜
【1】-2 戦国高潮期の関東
【2】-1 合戦と融和
【2】-2 揺れ動く人々
【3】-1 尼僧略奪
【3】-2 里見氏と足利氏
里見氏略系図・北条氏略系図
関東戦国地図
里見氏・北条氏関係略年表
展示資料一覧