4.館山湾沿岸村々絵図 享保6年(1721)写

 こちらは、かつら網地引場をめぐる館山湾の漁場の争いに係り作成された絵図である。享保6年の作成であるが古絵図を敷写したとあり、すでに元禄地震で隆起する以前の海岸線を示す絵図としてよく知られている。那古寺や北下台の崖下が波打際になっている。

館山湾沿岸村々絵図 享保6年(1721)写
115×83 嶋田駿司氏蔵

 3.真倉村・宮城村組二十二カ村組合村絵図

 この絵図は、安房国安房郡真倉村宮城村組の組合村絵図である。組合村を結ぶ街道には馬継場の村を表示し、板橋・土橋の橋の表示や歩渡り場所も示され、絵図作成の目的が交通事情の把握にあるように思われる。陣屋とあるのは館山藩稲葉氏の陣屋。洲崎には遠見番所があるので文政4年以降であることがわかる。

真倉村・宮城村組二十二カ村組合村絵図
41×54.5 海老原斉氏蔵

 2.房州図 天保2年(1831)

 この房州図は鋸山の日本寺から天保2年に刊行されたもので、寛政元年(1793)に秦檍丸が作制した安房国図を原図としている。山地の表現に特色のある図で、山地と平地を二分して、山地部分に着彩するだけの平面的な描き方をしている。

房州図 天保2年(1831)
62×88 当館蔵

村絵図

 様々な情報を内包する資料として、絵図に対する関心が近年とみに高まり、注目を集めているが、とくに近世の村絵図は各地に豊富に残されていることもあり、村落景観の復原など、地域史研究においてきわめて貴重な情報を提供している。

 村絵図のなかにはひとつの村の景観を構成する様々な要素が描き表わされており、近世村落の景観を具体的に眼前によみがえらせてくれる資料なのである。下図のような様々な風景が色分けされて表示され、村絵図を片手に現地を歩いてみると、当時の村の景観が残っていることに気がつく。次頁のような風景もみることができる。もちろん変わったところも多い。とくに近年は景観の変貌にも著しいものがある。それ故にこそ村絵図をとおして近世の村の景観を思い描いてみるのも楽しい。この企画展をとおして村絵図を読む楽しさにふれてもらうとともに、本書を手に現地を歩くことをぜひお勧めしたい。そこには厳然として残る景観、消え去った景観、新たに生み出された景観がある。身近なところに村の歴史があることを鮮明に理解できるはずである。

 なお、ここにいう村絵図とは、近世村絵図の表現方式、作成概念を踏襲する明治初期の村絵図を含めて取り扱っていることをあらかじめおことわりしておく。

村絵図のなかの風景
街道 館山市船形

街道
 館山市船形

村境の六地蔵 館山市湊

村境の六地蔵
 館山市湊

高札場跡 (今も掲示場として利用される)  館山市笠名

高札場跡
(今も掲示場として利用される)
 館山市笠名

郷蔵跡 (現在は集会所) 館山市宝貝

郷蔵跡
(現在は集会所)
 館山市宝貝

共同井戸 館山市神余

共同井戸
 館山市神余

庚申塚 館山市大戸

庚申塚
 館山市大戸

ごあいさつ

 現代の私たちは、交通手段や交通網の発達によって、日本列島のどこにでもたやすく行くことができます。また各地の情報も実に様様な方法で、しかも瞬時に知ることができるようになりました。まるで、日本列島がちぢんだかに思われるほどです。しかし、一方では、私たちの住む土地についての情報は、その歴史を伝える人もごく少なくなり、知る機会も失われつつあるというのが現状です。

 私たちの住んでいるごく狭い、身近な地域、現在の大字ほどの地域は、江戸時代には村といわれていたところで、それぞれに様々な村の生活があり、歴史がありました。

 では、江戸時代の人々がくらした村とは、どのようなところだったのでしょうか。

 この企画展が、江戸時代に描かれた村絵図の中からその景観を探り出し、現在に残る村のおもかげや変化のようすを理解する場となれば幸いです。なお、本展の開催にあたり、多くの方々から快く資料の出陳をご承諾いただきました。厚くお礼申し上げます。

  昭和63年10月8日

館山市立博物館館長 庄司 徹

凡例

  • 本書は昭和63年10月8日より11月27日までを会期とし、館山市立博物館が主催する企画展「村絵図の世界 -江戸時代の村を歩く-」の展示図録である。
  • 本書の図版番号は、展示の順序とはかならずしも一致しない。
  • 会期中に一部展示替を行うため、目録所収のものでも展示されていないものがある。
  • 法量は、縦×横で示し、単位はすべてセンチメートルで示した。
  • 本展の企画は学芸員岡田晃司が担当した。

中トビラ

中トビラ

企画展図録
村絵図の世界
-江戸時代の村を歩く-
昭和63年10月8日(土)~11月27日(日)
館山市立博物館

和田町柴のツナツリ(綱吊り) 〔国道128号沿い、仁我浦と境を接する蟹田橋のたもと〕

 村境あるいは集落の出入口にあたる道沿いに行われるいわゆる辻切りの習俗である。自分たちの住む村と外の世界を区切る場にワラで作った種々の形象物を下げ、外界から悪霊・悪疫が村に入ることを防ぐという。

 安房地方では多くはジャ(蛇)・サンダワラ(棧俵)・わらじ(草鞋)・ゾウリ(草履)・サカダル(酒樽)・タワシ(束子)・サカバヤシ(酒林)などを組み合わせて下げるところが多い。

 外から村へ入る者にとって、そこは村への入り口である。