住まいと暮らし

 原始・古代において、住まいや、それらが集合した集落をどこにつくるかということを決定する時、それは見晴らしのよい高台といった地理的な環境や、気候条件はもちろん、食料の獲得などの日常の生活、住まいづくりに使う木や石などの材料の選択などに関係する。

 住居跡を発掘調査していくと、当時の住まいの基本的な土台があらわれる。このなかには、そこで暮らした家族の生活道具や暮らしの工夫がぎっしりとつまっている。こうして住まいの様子がわかると、そのすまいに生活した人々の暮らしぶりが推定できる。

 この単元では、縄文時代の遺跡である富浦町深名瀬畠遺跡、弥生時代の鋸南町田子台遺跡、古墳時代から奈良・平安時代の千倉町健田遺跡、中世の鋸南町下ノ坊遺跡を取り上げる。

  館山市城山下出土白磁四耳壺

 この2つの壺は、現在東京国立博物館の所蔵になっており、館山市城山下より明治時代に出土したものとされいるが、出土状況などの詳細についてはわかっていない。ところで、『姥神発掘諸事控』という文書のなかに、明治34年(1901)5月、「古墓碑」(五輪塔か)が10基と「瓶」が7個出土したという記載がある。遺物が出土した地点は、丘陵斜面の横穴が埋没して奇妙な形をしていたため「姥神様」とよばれて祀(まつ)られ、当時多数の人々がお参りしていたというところで、現在そこは、通称「八遺臣の墓」とよばれている。おそらく中世武士階級の墓である「やぐら」が、崩れたものと考えられる。出土した「瓶」は当時の法律第87号13条により、国に買い上げられたとされているため、この2つの壺が「姥神様」から出土したものである可能性は高い。中国の白磁、特に宋代のものは、わが国では11世紀末からみられ、四耳壺(しじこ)などの高級器も地方に運ばれた。最初は座敷飾や社寺の装厳具として用いられたようだが、持ち主の死などで蔵骨器に転じて、完形のまま出土する例が多くみられる。

白磁四耳壺(館山市城山下)

白磁四耳壺(館山市城山下)
 東京国立博物館蔵 Image:TNM Image Archives Source:http://TnmArchives.jp/
宋・元代

白磁四耳壺(館山市城山下)

白磁四耳壺(館山市城山下)
 東京国立博物館蔵 Image:TNM Image Archives Source:http://TnmArchives.jp/
宋・元代

『姥神発掘諸事控』

『姥神発掘諸事控』 
明治時代
個人蔵

プロローグ -安房の考古学研究史-

 現在日本各地で、宅地やゴルフ場開発、土地区画整理事業など、急テンポの土地開発が進行し、それに伴い埋蔵文化財調査も年々増加している。千葉県は全国的にも遺跡が多い県の一つで、約23,000ヵ所の遺跡があり、年間498件の調査(昭和63年度)が行われ、新出土品に関する情報が新聞紙をにぎわしている。

 一方、安房では今まで土地開発がさほど進行していなかったことから、埋蔵文化財の調査数は上総・下総に比べて大変少ない。したがって、移籍に関する情報量も当然少なく、安房地方に住むわたしたちは、「安房には遺跡が少ない」という意識をもっているのが現状である。

 ところが、リゾート関連の開発が安房地方でもはじまりつつあり、埋蔵文化財調査が大幅に増えることが予想される。それに先立ち、この企画展では安房地方における現在までの考古学研究の成果を振り返る。

 明治27年(1894)の天津町(現天津小湊町)清澄山山麓古墳の報告が、安房における考古学研究の嚆矢となる。ついで明治33年(1900)『東京人類學會雜誌』に大野延太郎が行った、東長田村(現館山市)祭祀遺跡の報告は、わが国における祭祀遺跡の報告書として最初のものである。しかし、当時祭祀遺跡への関心は、ほとんど傾けられなかった。

 大正時代にはいると、高橋二三雄や三輪善之助が安房国分寺についての報告を行っている。また、大正8年(1919)に制定された史蹟名勝天然紀念物保存法に関して、以後行われた調査により、豊房村(現館山市)南条及び東長田横穴群、神戸村(現館山市)佐野洞窟、東条村(現鴨川市)広場古墳などが報告されている。

 昭和4年(1929)には、神戸村安房神社洞窟遺跡の調査を大場磐雄が行い、22体の人骨が出土し、抜歯の存在が確認されているほか、昭和7年と9年の2回、短期間ではあるが、平野元三郎と滝口宏によって、安房国分寺の調査が行われている。ところが、この頃になると東京湾岸地域が、軍事的な要塞地帯であったため本格的な調査は行われなくなり、組織的な調査が行われるのは、昭和23年(1948)の豊田村(現丸山町)加茂遺跡の調査まで待たなくてはならない。

東長田村祭祀遺跡の報告(『東京人類學會雜誌』167)
東長田村祭祀遺跡の報告(『東京人類學會雜誌』167)
人骨(館山市安房神社洞窟遺跡)

人骨(館山市安房神社洞窟遺跡)
弥生時代

ごあいさつ

 我が国における埋蔵文化財調査は、土地開発の進展にともなって年々増加しています。これによって、古代史の通説を修正する新発見の報道が日常化し、古代史への関心が高まっています。

 私たちの住む安房地方は房総半島南端に位置し、地形的に袋小路的な地理条件を持っており、『古語拾遺』の「房総開拓神話」によって示される古代交通路は黒潮の道~海上の道でした。また、大和政権と房総の交通は、相模から走水(浦賀水道)を経て上総に至るコースを主要幹線として行われました。大型古墳をもたない安房地方は、古代において神郡を有する安房神社を中心とした特殊な支配関係をもち、独特の文化を培ってきました。

 今日まで土地開発がさほど進行していなかった安房地方も、今後リゾート開発などの大規模開発の波が押し寄せることが予想されます。今回、それに先立ち、明治以来積み重ねられてきた、安房地方における考古学研究の成果の一端を紹介することとしました。

 この企画展が、安房地方の古代史に関心をもち、埋蔵文化財保護の必要性を理解する場となれば幸甚です。

 なお、本展の開催にあたり、多くの方々から快く資料の出陳をご承諾いただきました。厚くお礼申し上げます。

平成2年10月20日
館山市立博物館長
松田昌久

環頭大刀把頭(館山市坂井翁作古墳)

環頭大刀把頭(館山市坂井翁作古墳) 古墳時代

滑石製模造品(白浜町小滝涼源寺遺跡)

滑石製模造品(白浜町小滝涼源寺遺跡) 古墳時代

目次

プロローグ
ごあいさつ
住まいと暮らし
縄文ムラの風景
階層分化のきざし
都に特産物を送ったムラ
中世豪族の居館跡
四季の幸を求めて
ナウマン象を追ったハンター達
山の幸をもとめて
漁業に使われた前進キャンプ
サンゴと貝塚
芽吹く大地
神々とのつながり
縄文人の信仰
新しい神々の出現
墓に残された文化
独特な宗教文化の形成
まぼろしの国分寺
展示資料一覧

凡例

  • この図録は、平成2年10月20日から11月25日までを会期とし、館山市立博物館が主催する企画展「ほりだされた安房の遺跡」の展示図録である。
  • 本書には、主要な資料を掲載した。なお、展示替等により、図録にあっても展示されていない場合もある。
  • 展示目録は所蔵管理上の名称にしたがったため、写真キャプションとは必ずしも一致しない。
  • 本店の企画、および図録の編集執筆は、学芸員杉江敬が担当した。