参考文献

『職人の道具』 神奈川県立博物館 昭和55年
『千葉県の諸職』 千葉県教育委員会 昭和61年
『古図に見る日本の建築』 国立歴史民俗博物館 昭和62年
『学校教材用資料目録第8集 職人の道具』 流山市立博物館 平成元年
『竹中大工道具館展示解説』 竹中大工道具館 平成元年
『職人絵』 川越市立博物館 平成2年
『群馬の絵馬』 群馬県立博物館 昭和51年
『絵馬』 埼玉県立博物館 昭和54年
『菖蒲町の絵馬』 菖蒲町教育委員会 昭和63年
『大工彫刻』 INAXギャラリー 昭和61年
『番匠秘事録』 榊原幸次郎 昭和6年
『番匠』 大河直躬 昭和46年
『大工道具の歴史』 村松貞次郎 昭和48年
『江戸時代の大工たち』 西和夫 昭和55年
『近世大工の系譜』 内藤昌 昭和56年
『鋸南町史』 鋸南町 昭和44年

協力者一覧

 今回の企画展開催および図録作成にあたり、多くの皆さまに多大な御協力をいただきました。ここに御芳名を記し、そのご好意に対し深甚なる謝意を表します。

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(順不同・敬称略)

展示資料目録 2 (敬称略)

【2】大工の仕事と仕事道具

資料名 年代 所蔵者
8.寺院本堂指図 館山市館山・小高武夫
9.社殿建地割図 館山市北条・吉野忠
10.『軒廻棰雛形』 館山市立博物館
11.『新刻大工雛形』 安政3年(1856年) 同上
12.『番匠往来』 明治9年(1876年)写 同上
13.『新撰早引匠家雛形』 嘉永4年(1851年) 館山市北条・吉野忠
14.『新板武家雛形』 館山市館山・小高武夫
15.『匠家雛形軒廻口伝書』 安政6年(1859年) 同上
16.勾配表
  <著者の長尾組貫属小沢直治は元長尾藩算学師範>
明治5年(1872年) 館山市北条・吉野忠
17.十露盤独稽古 館山市立博物館
18.十露盤覚帳<所有者は大工清介とある> 明治5年(1872年) 同上
19~20.平等院懸魚模造 千葉市立郷土博物館
21.斗栱 白浜町中央公民館
22~23.墨壺・墨さし 館山市立博物館
24.罫引 流山市立博物館
25.曲線定規 千葉市立郷土博物館
26~31.水準器・曲尺・スコヤ・とめ定規・下げ振り・折り尺 流山市立博物館
32.鉞 館山市立博物館
33.鋸 流山市立博物館
34.中屋嘉助(初代)作 房州鋸 館山市立博物館
35.中屋吉右衛門作 房州鋸 同上
36.鉋 流山市立博物館
37.鉋各種 千葉市立郷土博物館
38.釿 流山市立博物館
39.鑿各種 千葉市立郷土博物館
40~43.錐・金槌・砥石・道具箱 流山市立博物館
44.彫物下絵 館山市北条・吉野忠
45.雲形絵様 館山市館山・小高武夫
46.彫物下絵 同上
47~48.蟇股・木鼻 白浜町中央公民館

【3】大工の信仰と式祭

資料名 年代 所蔵者
49.莫越山神社御神影(および板木) 天保12年(1841年)版 丸山町沓見・莫越山神社
50.神拝伝書 文久3年(1863年) 館山市那古・加藤理雄
51.実名目録 文久3年(1863年) 館山市立博物館
52.祖神講一ノ鳥居寄付交名額<浅草祖神講奉納> 明治45年(1912年) 丸山町沓見・莫越山神社
53.莫越山神社祖神講社祝詞 明治11年(1878年) 館山市北条・吉野 忠
54.太子講掛軸 同上
55.神拝之次第(釿始式) 丸山町沓見・莫越山神社
56.神拝之次第(上棟式) 同上
57.神拝之次第(柱立之式) 同上
58.儀式用大工道具(墨壺・墨さし・曲尺・釿・道具箱)
 <小高吉右衛門が小湊誕生寺祖師堂普請の際にもらってきたものだという>
館山市館山・小高武夫
59.儀式装束 館山市立博物館
60~62.烏帽子・扇・槌 館山市館山・小高武夫
63.上棟式図絵馬(73×105)
 <上新堀の久伊豆神社の上棟式の様子を描いている。中央に幣串を三本立て、その両脇に弓矢、さらに外側には御幣(左)と幣串(右)がある。その手前に3人の大工が並び式を執り行う。中央の棟梁は当村の斎藤市衛門、左側には曲尺・墨壺・釿など儀式用の道具がみえる。>
天明2年(1782年) 埼玉県菖蒲町
久伊豆神社
64.上棟式祭器模型 館山市館山・小高武夫

【4】鶴谷八幡宮

資料名 年代 所蔵者
65.幣殿中之梁指図 安政6年(1859年) 館山市那古・加藤理雄
66.向拝幣殿組物絵図 同上
67.拝殿懸魚絵図 同上
68.再建記帳勧物願 文久3年(1863年) 館山市立博物館
69.鶴谷幣殿再建寄付牒 万延元年(1860年)~文久3年(1863年) 小林貞次郎保管
70.御社御普請日記・御幣殿御普請日記
  当御社御拝殿御普請万覚帳・上棟御遷宮日記
安政5年(1858年)~文久3年(1863年) 館山市立博物館
71.御拝殿普請仕法帳・御上棟職人着到名前 安政6年(1859年)・文久3年(1863年) 館山市那古・加藤理雄
72.普請中職人工数手間等取調 慶応元年(1865年) 館山市立博物館
73.八幡宮造営褒状 明治2年(1869年) 同上
74.鶴谷拝殿彫物寄付牒 文久元年(1861) 館山市北条・青木清勝
75.向拝格天井絵図 館山市那古・加藤理雄
76.御拝殿仕法帳箱 万延2年(1861年) 館山市北条・青木清勝
77.懸札 館山市立博物館
78.鶴谷八幡宮再建歌碑拓本 文久3年(1863年) 館山市立博物館
79.八幡神画像<北条村渡辺雲洋画> 館山市那古・加藤理雄

【5】安房の棟梁たち

資料名 年代 所蔵者
80.儀式用大工道具(墨壺・釿・道具箱) 館山市北条・吉野忠
81~82.地方測量器(小方儀・揮発・円分度器・平行儀) 同上
83.江戸城本丸遠侍建地割図 万延元年(1860年) 同上
84.江戸城本丸虎之間小屋絵図 同上
85.江戸城本丸遠侍懸魚絵図 万延元年(1860年) 同上
86.大棟梁甲良若狭呼出状 同上
87.北条御陣営地割略図 同上
88.会津藩岩糸陣屋指図 同上
89.木造弘法大師坐像(吉野忠右衛門作) 安政5年(1858年) 館山市新宿・海蔵寺
90.奉公人請状 文久2年(1862年) 館山市北条・吉野忠
91.莫越山神社大工行事秘巻 安政3年(1856年) 同上
92.祖神教会講社神拝次第 明治12年(1879年) 同上
93.北条町役場建地割図 同上
94.御堂建地割図 館山市館山・小高武夫
95.図面箱 同上
96.誕生寺祖師堂普請棟梁免状 天保3年(1832年) 同上
97.白川伯王家神拝伝書 寛政6年(1794年) 同上
98.奉公人請状 明治12年(1879年) 同上
99.鐘楼堂建地割図 館山市那古・加藤理雄
100.太子講掛軸<沼村川名楽山画> 同上
101.四組木綿手繦懸用許状 文久2年(1862年) 同上
102.実名目録 文久3年(1863年) 同上
103.獅子鼻(伊丹喜内作) 富浦町青木・光厳寺
104.木鼻(伊丹喜内作) 同上
105.莫越山神社大工行事秘巻 文久3年(1863年) 館山市立博物館
106.風折烏帽子布衣許状 元治2年(1865年) 同上
107.木造大黒天像(羽山林兵衛作) 明治3年(1870年) 館山市亀ヶ原・新御堂
108.太上神仙鎮宅霊符<家内安全の護符> 文政6年(1823年) 館山市下真倉・稲垣祥三
109.渡辺太右衛門肖像 明治39年(1906年) 館山市洲宮・渡辺義孝
110.木造恵比須・大黒天像 同上
111.渡辺太右衛門墓碑拓本 明治24年(1891年)建 館山市立博物館

 <渡辺太右衛門義重>

 八幡宮造営にあたっては四人の世話役に継ぐ小世話人として普請に参加した。文政7年(1824)安房郡洲宮村(館山市洲宮)の農家に生まれ、元名の中沢久五郎の門人となった。造営時は清次郎と称し、のち太右衛門と称した。名乗は義重(義茂とするものもある)。

 地元洲宮神社の再建も手懸けているが、富浦町深名にある松尾神社の向拝彫刻には「当国洲宮邨彫工後藤太右衛門藤原義重」と刻まれ、後藤流の彫物師としての仕事もこなしていたようである。長須賀来福寺の後藤義光翁寿蔵碑建設賛成員の中にもその名をみることができる。

 また洲宮の渡辺家には自刻の恵比寿・大黒天像とともに、太右衛門の肖像も伝えられている。これは明治18年(1885)、太右衛門62歳の姿で、上総のシモウ院造営の際に盛大に棟梁送りが行われ、儀式装束を身につけたその時の姿を、死の直前に刻んだものだという。

 また68歳のときには、自らの墓碑も造り、銘とともに、ここにも烏帽子直垂姿の自分を描き残している。一世一代の大仕事だったことがうかがい知れる。

 3歳で父を亡くし、母に孝を尽くしながら修業に励んだ結果、やがて弟子も増え、棟梁として多くの社寺を造営した。なした財で、洲宮・大成の地元小学校への資金寄付や神仏への喜捨を行ったことも生涯の誇りだった。明治39年(1906)、83歳で没した。

109.太右衛門肖像

109.太右衛門肖像

110.恵比寿・大黒天像(恵比寿像は制作途中)

110.恵比寿・大黒天像(恵比寿像は制作途中)

墓碑

墓碑

深名松尾神社向拝彫刻

深名松尾神社向拝彫刻

 <中沢久五郎正友>

 八幡宮造営にあたって当初棟梁を務めていたのが、平郡元名村(鋸南町元名)の大工中沢久五郎正友である。文久2年頃に加藤喜八が棟梁を引き継ぐが、その後も倅鶴治が名代として造営に参加した。この頃没したのかも知れない。鋸南町保田の加茂神社奥の院・江月の鶴ヶ峰神社本殿・元名の鶴が崎神社境内末社の大神宮宮殿がその仕事として知られ、また鋸南町中佐久間の密蔵院向拝彫刻も、嘉永5年(1852)久五郎の作である。

 寛政11年(1799)に中沢久五郎と伊丹喜内が、上佐久間の光明寺本堂を普請したといわれているが、これは先代であろうか。喜内は英俊と考えられる。文政6年(1823)に中沢定盈という人物が日本寺の鎮宅符を翻刻したことがあるが、伊丹喜内英俊の意志を引き継いで行っていることと考え合わせると同一人物かもしれない。

108.太上神仙鎮宅霊符

108.太上神仙鎮宅霊符

 <羽山林兵衛盛満>

 安房郡北条村(館山市北条)の羽山林兵衛は、鶴谷八幡宮の造営にあたって世話役を務め、北条組大工27名を束ねていた。安政2年(1855)に北条村塩蔵寺本堂の普請を行っているが、建築の仕事については他に確認されない。むしろ彫り物を多く残しており、本織延命寺の観音堂向拝にある安政4年に彫った蟇股の鶴や、富山町検儀谷の松尾神社向拝彫刻(明治6年)、館山市亀ヶ原新御堂の大黒天像(明治3年)などが確認されている。

 林兵衛についてはその他詳しくは知りえないが、北条の金台寺の羽山家の墓地には、宮大工で小湊誕生寺の普請に携わったと伝えられる林太郎という人物の墓があり、明治12年(1879)に没している。林兵衛と同一人物かもしれない。林太郎の子権之助も大工で、長須賀来福寺にある後藤義光翁寿蔵碑建設の賛成員に名を連ねている。権之助の実弟鴫原徳松は後藤流の彫物大工であった。明治42年に権之助が58歳で没すると、羽山家に男子がいないことから大工を廃業した。

107.木造大黒天像

107.木造大黒天像

 <伊丹喜内敏英>

 八幡宮造営に世話役の筆頭として、棟梁加藤喜八とともに重要な役割を担った人物で、安房国平郡本織村(三芳村本織)の生まれである。

 喜内は正式には兵庫と称し、敏英を名乗とした。位牌に俗名喜平とあり、喜内は代々の通称として使われていたものである。曾祖父平内為勝(天明7年、76歳没)以来の大工の家で、祖父喜内英俊は、天明8年(1788)に鋸山日本寺の呑海楼を建築したという。墓石には「挙功邦国大棟梁功居士」と刻まれている。朱印117石余の延命寺御抱え大工だったといい、代々本織村延命寺の門前に住み、延命寺大工と呼ばれた

 喜内敏英の仕事で確認できるなかにも、延命寺の隠居寺である光厳寺(富浦町)の山門と境内の白山神社がある。山門は関東大震災で倒壊したが、見事な木鼻の彫刻が残されている。

 元治元年(1864)には吉浜(鋸南町)妙本寺客殿の普請を行っている。向拝蟇股の龍は、安房の名工と謳われた後藤義光の作品であるが、その両脇に並ぶ蟇股の邪鬼や、獅子鼻は、棟梁伊丹喜内敏英の作であり、義光と並んでも遜色のないものである。喜内の腕のよさについては今も語り継ぐ人が多い。

 その他には、元治2年本織村の豊熱稲荷を知ることができる。文政3年(1820)に生まれ、明治3年(1870)、51歳で没した。平内為勝より喜内英俊、喜内俊寿、兵庫敏英、亮七為賢と続いた。立川流の大工だったと伝えられる。

103.光厳寺旧山門の獅子鼻

103.光厳寺旧山門の獅子鼻

104.光厳寺旧山門の木鼻

104.光厳寺旧山門の木鼻

白山神社

白山神社

妙本寺客殿

妙本寺客殿

105.莫越山神社大工行事秘巻(部分)

105.莫越山神社大工行事秘巻(部分)

106.風折烏帽子布衣許状

106.風折烏帽子布衣許状

 <加藤喜八輝郷>

 安房国平郡那古村(館山市那古)の大工で、八幡宮造営の棟梁として職人たちを指揮した。もとは中村姓で、上堀村梅田(三芳村上堀)の生まれである。通称喜八、明治10年代に喜善と改める。名乗は輝郷。安政5年に加藤姓となるが、それ以前から加藤家に入っていたようである。

 喜八以前の加藤家についてはさかのぼることはできないが、享保5年(1720)の鶴谷八幡宮本殿造営の棟札にみえる、那古村の大工棟梁加藤三左衛門吉治や、宝暦11年(1761)の那古寺多宝塔造立の棟梁加藤清兵衛などの系譜を引くものと考えられる。三左衛門は大和大椽藤原姓余流と称していた。

 喜八の仕事は、初期のものとしては天保2年(1831)の下三原村大六天宮、同15年の山本村金乗院などを知ることができる。その後八幡宮の仕事に入り、慶応元年には小原村智秀寺、そのほか三坂村の稲荷宮・石堂村の石堂寺・元名村の日本寺・上総金谷村の諏訪神社・相模三浦郡鴨居村能満寺などで仕事をしている。

 文化5年(1808)に生まれ、明治29年(1896)、89歳で没した。子の五兵衛も大工となり、文久3年9月の八幡宮上棟式に先立ち、その月莫越山神社から種房の名乗をもらった。18歳の時である。大正9年に75歳で没するが、明治20年代中頃からは酒屋を営み始め、やがて大工を廃業した。

99.鐘楼堂建地割図

99.鐘楼堂建地割図

100.太子講掛軸

100.太子講掛軸

101.四組木綿手繦懸用許状

101.四組木綿手繦懸用許状

102.実名目録

102.実名目録

 <小高吉右衛門定興>

 安房郡楠見村(館山市館山)の小高吉右衛門は文化元年(1804)の生まれで、明治3年(1870)に67歳で没している。鶴谷八幡宮の造営には参加していないが、天保3年(1832)から始められた小湊誕生寺祖師堂普請の棟梁を務めたことで知られている。

 この普請には吉野忠右衛門や羽山林兵衛も携わっている。天保13年までかかった普請で盛大な棟梁送りが行われ、その時道具を納めてきた龍の絵が描かれた箱や儀式用の道具・小物類を今も伝えている。

 造営棟梁に任命の際、誕生寺より右膳定興の名乗を与えられたが、通称は吉右衛門といい、また吉兵衛と呼ばれることもある。母は北条村名主加藤又右衛門の娘。父吉右衛門も大工で定由を名乗り、寛政10年(1798)には江戸京橋銀座一丁目に住して仕事をしている。寛政から文化頃の資料には「北条村吉田吉右衛門」と書かれたものが見られるので、定由は小高家へ養子に入ったものであろう。

 定興の子、吉右衛門も大工だが彫物師後藤義光の弟子になっているという。孫の房次郎も大工となり北条の吉野忠右衛門の子伝造のもとで年季奉公をした。

 なお、安房地方の大工は、式祭の許状は京都の神祇管領長上の吉田家から授かることが多いが、小高家に伝わる大工秘巻は神祇伯白川家からのものである。

94.御堂建地割図

94.御堂建地割図

95.図面箱

95.図面箱

96.誕生寺祖師堂普請棟梁免状

96.誕生寺祖師堂普請棟梁免状

98.奉公人請状

98.奉公人請状