<万木城>

 夷隅町万木にある標高85mの丘陵で、東・北・西の三方を夷隅川が囲み天然の濠の役割を果たしている。

 土岐氏の居城として知られ、里見・正木氏の東上総進出の中、これに服属していったと思われるが、永禄の中頃から里見を離反し、後北条方になっていく。下に掲げた書状から正木氏の攻撃にさらされる万木城の様子が伝わってくる。

 有力家臣の大曽根氏が天文19年(1550)に寄進した阿修羅像が城近くの清水寺に安置されている。夷隅川河口近くの鶴が城などの支城を抱えて小規模な領域支配を展開したが、天正18年後北条氏とともに滅亡した。

 土塁・堀切・曲輪・櫓台などがのこり、曲輪取りや削り落とし、虎口の食い違い、堀切りなどに巧みな地形利用が窺え、房総でも完成された城郭と評価されている。

万木城跡(夷隅町)

万木城跡(夷隅町)

31.佐竹賢哲書状

31.佐竹賢哲書状
館山市立博物館蔵

32.陶磁器片・カワラケ片・常滑片

32.陶磁器片・カワラケ片・常滑片
千葉県文化財センター蔵
 (現蔵:財団法人千葉県教育振興財団)

32.炭化米

32.炭化米
千葉県文化財センター蔵

33.朽葉糸素懸威最上胴具足(伝 大曽根右馬允所用)

33.朽葉糸素懸威最上胴具足
(伝 大曽根右馬允所用)
大曽根和夫氏蔵

34.木造阿修羅王立像(天文19年)

34.木造阿修羅王立像(天文19年)
清水寺蔵

阿修羅王像台座墨書銘

阿修羅王像台座墨書銘

  <池和田城>

 市原氏池和田の養老川と平蔵川の合流点に突き出した標高72mの丘陵上にある。西は矢田郷などの平野部を臨む急崖で、東は尾根を掘り切って要害としている。

 足利被官の佐々木一族という多賀氏が守る城で、かつて山麓にあった東光寺の本尊薬師三尊は永正元年(1504)に多賀蔵人助が寄進したものである。里見氏が国府台で敗れた永禄7年、里見の配下だった多賀氏は後北条氏の攻撃を支え切れずに落城。城跡からは焦米や多数の人骨が出土したことがあるという。

 里見氏はここに養老川での拠点を失い、天正末には長南武田氏の属城となっていた。

池和田城跡(市原市)

池和田城跡(市原市)

30.木造薬師如来坐像光背墨書銘

30.木造薬師如来坐像光背墨書銘
光明寺蔵

29.大身槍(伝多賀兵衛佐所用)

29.大身槍(伝多賀兵衛佐所用)
多賀大郎氏蔵

  <椎津城>

 小櫃川と養老川の下流域にある中間台地の先端で、東京湾に面する位置にある。市原市椎津の城山と呼ばれる標高31mの小丘陵である。

 天文初期には真里谷信隆が在城して武田氏内訌の舞台となったが、天文21年(1552)、後北条氏と通じる真里谷氏は里見義堯によって滅ぼされたという。しかし里見氏も長くはこの城を維持できず、永禄3年(1560)には後北条氏による城の大改修が行われている。永禄12年には、市川・松戸まで進軍した里見勢が椎津まで退去してきたことが知られ、天正4・5年(1576・1577)になると、北条氏政が千葉氏一族の高城氏を椎津の番手に置くなど、里見氏と後北条氏とのあいだで、めまぐるしい攻防の的となった城である。

 二重の堀切で2郭を形成し、境川を自然の濠とする。発掘調査の結果、16世紀の中頃に主郭とニノ郭で大規模な火災があったことが確認されている。

椎津城跡(市原市)

椎津城跡(市原市)

2.上総国市原郡椎津古城之図

2.上総国市原郡椎津古城之図
國學院大學図書館蔵

28.北条氏政書状

28.北条氏政書状
千葉市立郷土博物館蔵

  <笹子城>

 木更津市笹子にある標高60mほどの丘陵に位置する。小櫃川の下流左岸にある支丘陵で、木更津へ出る交通路を押さえるための武田氏の支城のひとつである。

 真里谷武田氏一族の武田信茂が在城していたが、天文12年(1543)に一族内の争いに巻き込まれ滅亡したことが『笹子落草子』『中尾落草子』に語られている。発掘の結果、北端の郭は堀が埋められていることがわかり、出土した陶磁器の年代からも、いったん城は破棄されたようである。この内紛に介入した里見氏によるものと考えられている。しかしその後南側尾根が城郭として取り立てられ利用されたようである。

 発掘をした北端部からは中国・国産の陶磁器が大量に出土したほか、地鎮に使用されたと思われる香炉・独鈷杵や、水晶製のミニチュア五輪塔など宗教関係遺物も出ている。

笹子城跡(木更津市)

笹子城跡(木更津市)

2.上総国望陀郡篠子古城蹟之図

2.上総国望陀郡篠子古城蹟之図
國學院大學図書館蔵

25.彩色板仏<大日如来図>

25.彩色板仏<大日如来図>
小高神社蔵

25.彩色板仏<釈迦如来図>

25.彩色板仏<釈迦如来図>
小高神社蔵

25.彩色板仏<十一面観音図>

25.彩色板仏<十一面観音図>
小高神社蔵

25.彩色板仏<毘沙門天図>

25.彩色板仏<毘沙門天図>
小高神社蔵

26.なかおヽちのさうし(中尾落草子)

26.なかおヽちのさうし(中尾落草子)
国立公文書館内閣文庫蔵

26.さヽこおちのさうし(笹子落草子)

26.さヽこおちのさうし(笹子落草子)
国立公文書館内閣文庫蔵

27.笹子城跡出土遺物 独鈷杵

27.笹子城跡出土遺物
(千葉県文化財センター蔵
   現蔵:財団法人千葉県教育振興財団)
独鈷杵

水晶製六角五輪塔

水晶製六角五輪塔

陶磁器片

陶磁器片
(常滑甕片・灰釉小皿・卸皿・白磁皿片・青磁皿片・青花皿片・カワラケ・天目碗片)

瓦質香炉

瓦質香炉

硯

すり鉢

すり鉢

笄

小刀

小刀

茶入

茶入

  <真里谷城>

 上総武田氏の本城だったところで、木更津市真里谷の小櫃川の支流武田川流域にある。小櫃川と養老川の中間に位置し、両方面へ対処できる標高161mの丘陵尾根上に広がる。

 15世紀中頃に上総へ入部した武田氏は真里谷と長南を中心に上総各地に勢力を広げ、多くの城を取り立てた。しかし天文年間の相つぐ内訌などで弱体化、以降里見氏の進出をうけて、その勢力下に吸収されていった。

 主要な四つの郭を中心に多数の腰曲輪をめぐらし、土塁や土橋・桝形・堀切・竪堀などの遺構が残っている。主郭とニノ郭の間には大堀切があり、城を大きく二つに分けている。発掘調査の結果、主郭で高級な中国の陶磁器が多量に一括出土している。ニノ郭では堀立柱の建物跡が多数検出されたほか、多量の国産陶磁器が出土していることから、日常の生活の場と考えられている。

真里谷城跡(木更津市)

真里谷城跡(木更津市)

24.真里谷城跡出土遺物

24.真里谷城跡出土遺物
(木更津市教育委員会蔵)
陶磁器磁器片
(灰釉小皿、白磁、青磁、青白磁片、緑釉壺片、天目碗片、青花皿片等)

炭化物

炭化物
(左から麦・オニグルミ・梅の実・米・大小豆)
(下は炭化塊)

常滑甕片

常滑甕片

すり鉢

すり鉢

カワラケ・耳カワラケ

カワラケ・耳カワラケ

硯片

硯片

中国古銭

中国古銭
(皇宋通宝・永楽通宝・天禧通宝・洪武通宝・開元通宝)

笄・小札・飾鋲・鉄鏃

笄・小札・飾鋲・鉄鏃


◇◆ 城郭用語一口メモ(6) ◆◇
-土塁(どるい)-

 城や曲輪の周囲に築かれた、盛土の土手のことで、堀を掘った際の土で盛り固めているので、堀と一体化していることが多い。防備の壁となり、攻撃台になる。

  <峰上城>

 湊川中流域の富津市上後にある標高130mの丘陵上に位置する。湊川流域の谷を押さえる要の城である。南北600m、東西500mの規模をもち、主郭部から枝状にのびる尾根を25ヵ所もの堀切で切断している。南面は「七つ堀切」とよばれる空掘で尾根を断ち切り、山裾まで段状の腰曲輪が続く入念な作事がなされているほか、石垣石段などの石積み遺構もみられる。中城とよばれる郭の西側には尾崎曲輪がある。

 この曲輪は天文22年に金谷城を焼き、2年後には久留里城包囲にまで拡大した房州逆乱といわれる事態を引き起こした張本人吉原玄蕃助と二十二人衆が拠っていた曲輪で、小屋を建てて在番したと考えられている。彼らは後北条氏から虎印判状を受け、里見氏に従属することをきらったのである。

 元来この城も真里谷武田氏の築城と伝えられ、周辺の神社には真里谷全芳の奉納した鰐口が残されている。天文6年(1537)の武田氏内訌の際には、後北条氏の支援を受けた惣領真里谷信隆がこの城に籠り、里見義堯の囲みを受けている。そのことからすると、蜂上の土豪たちはこの頃からすでに親後北条氏の立場にあったのかもしれない。

峰上城跡(富津市)

峰上城跡(富津市)

2.上総国天羽郡上後古城之図(峰上古城図)

2.上総国天羽郡上後古城之図(峰上古城図)
國學院大學図書館蔵

18.峯上之城摩利支天鰐口(天文2年)

18.峯上之城摩利支天鰐口(天文2年)
石井博氏蔵

19.真里谷全芳奉納鰐口(天文8年)

19.真里谷全芳奉納鰐口(天文8年)
椙山林継氏保管

20.真里谷全芳奉納鰐口(天文11年)

20.真里谷全芳奉納鰐口(天文11年)
白山神社蔵

21.仏胴胸取五枚胴具足(伝吉原玄蕃助所用)

21.仏胴胸取五枚胴具足
(伝吉原玄蕃助所用)
鳥海文也氏蔵

22.菊花双鶴鏡

22.菊花双鶴鏡
館山市立博物館蔵

22.鳥海家所伝の刀と槍

22.鳥海家所伝の刀と槍
館山市立博物館蔵

23.北条氏印判状<尾崎曲輪根小屋廿二人衆・吉原玄蕃助宛>

23.北条氏印判状
<尾崎曲輪根小屋廿二人衆・吉原玄蕃助宛>
(天文23年)

2.上総国天羽郡峯上古城之図

2.上総国天羽郡峯上古城之図
國學院大學図書館蔵


◇◆ 城郭用語一口メモ(5) ◆◇
-虎口(こぐち)-

 城の出入口のこと。戦闘の際、城の出入口は敵が殺到する。そのため防禦を考えて小さく狭く造ったので「小口」といわれた。防禦と攻撃の両機能を堅固にするため、さまざまな形式の虎口が作り出されている。桝形(ますがた)や馬出(うまだし)と呼ばれるものもその形式のひとつである。

【4】里見氏ゆかりの城と土豪たち
  <金谷城>

 富津市金谷にある標高118mの山城である。安房と上総の国境にあり、鋸山山系の西の丘陵端にあたる。西は東京湾に接した急崖で、北に金谷港を擁する里見水軍の重要拠点である。土塁・堀切・竪堀・櫓台・腰曲輪などの遺構がみられ、発掘調査によって薬医門をともなう虎口や石積遺構も検出され(写真)、大規模な岩盤削平による築城の様子が確認されている。これらには里見氏の城普請の特徴が表れているという。また矢倉や倉庫等の建物や柵などの防御施設も所狭しと並ぶ様子が明らかになり、武具・生活雑器も掘り出された。

 後北条氏の水軍に対する戦略拠点の城で、天文22年(1553)の北条軍の政撃で兵火にかかったこともあるが、天正18年(1590)には、半島西部の水軍を指揮する正木淡路守が守備を任されていた。

金谷城虎口跡(君津市)

金谷城虎口跡(君津市)

2.上総国天羽郡金谷古城之図

2.上総国天羽郡金谷古城之図
國學院大學図書館蔵

17.金谷城跡出土遺物

17.金谷城跡出土遺物
(富津市教育委員会蔵)
陶磁器片(鉄釉小皿、天目碗片、青磁片、白磁碗片、青花碗片、灰釉皿片等)

砥石

砥石

土錘・カワラケ

土錘・カワラケ

石臼・おろし皿・すり鉢片

石臼・おろし皿・すり鉢片

刀子・飾金具・古銭(皇宋通宝)

刀子・飾金具・古銭(皇宋通宝)

常滑甕片

常滑甕片

  ―里見氏以前の館山城―

 明治34年、館山城跡の東南麓の「ウバガミサマ」と呼ばれる場所から多数の五輪塔が掘り出され、さらにその下から七つの甕が出土しました。ここに紹介した五つの陶磁器がそれではないかと思われます。この場所は中世の「やぐら」が崩れて埋もれていたと考えられるところで、里見氏が館山を居城とする以前の室町期の五輪塔が今も残されています。陶磁器はもちろん骨蔵器として利用されたものです。里見氏以前に、ここで生前これだけのものを愛用した人物はだれであるのか興味深いところです。山の西南麓にも五輪塔が出土した場所がありますが、そのあたりが里見氏以前の根小屋地域と考えられるところです。北西に高の島湊という天然の良港をかかえたこの地域は、思いの外早くから重要な場所だったのかもしれません。

姥神様の五輪塔群

姥神様の五輪塔群

16.白磁四耳壺(2)

16.白磁四耳壺(2)
 東京国立博物館蔵 Image:TNM Image Archives Source:http://TnmArchives.jp/

16.常滑甕(7)

16.常滑甕(7)
 東京国立博物館蔵 Image:TNM Image Archives Source:http://TnmArchives.jp/

16.常滑甕(5)

16.常滑甕(5)
 東京国立博物館蔵 Image:TNM Image Archives Source:http://TnmArchives.jp/

16.褐釉柏葉文瓶子(4)

16.褐釉柏葉文瓶子(4)
 東京国立博物館蔵 Image:TNM Image Archives Source:http://TnmArchives.jp/

16.片口鉢(6)

16.片口鉢(6)
 東京国立博物館蔵 Image:TNM Image Archives Source:http://TnmArchives.jp/


◇◆ 城郭用語一口メモ(4) ◆◇
-石垣(いしがき)-

 近世の城に一般的な石垣は、戦国時代の城ではまだ多くはなく、とくに関東ではあまり利用されていない。里見氏の山城には部分的に石積みがみられ、里見氏の築城技法の特色ではないかとして近年注目されている。館山城には石垣に替わるものとして、地山の岩盤を垂直に切り立てた城壁がある。

  <館山城>

 館山市館山にある城山とよばれる標高65mの独立丘を中心とする城郭で、広い館山湾に面している。

 天正18年、豊臣秀吉の小田原攻城に遅れて参陣した里見義康は、勘気を受けて上総の所領を没収され、安房一国の領国経営に専念する時代を迎えた。翌年、高の島湊を手前にひかえ、内湾と平野を見下ろす館山に居城を移し、城のふもとの真倉郷の一部を割いて城下町の建設にも着手した。これによってようやく本城が定着し、家臣・民衆の城下集住をうながし、近世大名としての領国経営の基礎をつくりだすのだが、慶長19年(1614)次代の忠義の時、伯耆国倉吉への移封を命じられ、館山城は破却されてしまった。

 城は平山城形式で、東西および北面は急崖による天然の要害とし、岩盤を垂直に切り立てた部分もある。東から北にかけては人口の濠がめぐらされた。南側中腹の義康の御殿跡とされる郭からは各種の陶磁器片が出土し、主殿に類似した建物址も確認されている。

 義頼時代の天正年間からすでに在番の衆が置かれ、天正12年(1584)には商人岩崎氏が隣郷沼之郷で屋敷を与えられていることから、海の番城としてまた流通の拠点としても利用されていたことが窺える。

 慶長19年(1614)9月9日、里見忠義は幕府による移封の名のもと、配流同然で館山を出ていくことになった。大阪の豊臣氏攻撃をひかえた幕府軍は、13日には内藤家長の指揮のもと城受取りに現れている。下掲の書状からは、18日には本多・嶋田の幕府役人が忠義たちの荷物を運び出す段取りをしていることがわかる。早々に城は破却されてしまった。

館山城跡(館山市)

館山城跡(館山市)

13.里見義頼書状

13.里見義頼書状
館山市立博物館蔵

城崖跡

城崖跡

空掘跡

空掘跡

14.本多定勝・嶋田重次連署書状
14.本多定勝・嶋田重次連署書状  石田鶴治氏蔵
15.館山城跡出土遺物

15.館山城跡出土遺物
(館山市立博物館蔵)
陶磁器片(灰釉小皿、白磁片、青花碗片、緑釉皿片等)

灯明皿

灯明皿

カワラケ・ほうろく片・土錘

カワラケ・ほうろく片・土錘

石臼片

石臼片

淡黄緑釉茶碗

淡黄緑釉茶碗

天目茶碗片

天目茶碗片
(白く見える片は高度の熱で焼けたもの)

瓦片

瓦片

丸瓦片

丸瓦片

刀子

刀子


◇◆ 城郭用語一口メモ(3) ◆◇
-堀切(ほりきり)-

 山城に見られる空堀で、連続する峰や長い尾根を、鉈で切ったように直線的に区切ったもの。主要な曲輪の連続性を遮断し、敵の攻撃も断ち切る。また山の傾斜面を利用しての敵の侵入を防ぐために斜面に垂直に掘った空掘もあり、竪堀(たてぼり)という。

  <岡本城>

 富浦町豊岡の海岸へせり出した丘陵端に位置する。標高66mで、尾根上・中段・裾部に八つの郭と多数の腰曲輪がみられる。居館などの生活址は中段から下にあり、発掘によって中国製陶磁器などが出土したほか、掘立の高層建築があった可能性が指摘されている。

 三浦・伊豆半島を臨み、後北条氏の安房直接侵政に対する海上防備の城で、水軍を備えていた。

 里見氏の主力が上総に展開している間の、安房の押さえとして岡本に義頼が置かれていたものと考えられるが、天正6年(1578)の義弘死後に、義頼が里見家の後継者となるにおよんで義康までの本城となった。天正16・17年頃に居館が火災にあったことがあり、近習の岡本頼元等が出仕を止められたことがある。

岡本城跡(富浦町)

岡本城跡(富浦町)

11.岡本城跡出土 カワラケ

11.岡本城跡出土
カワラケ
千葉県文化財センター蔵

11.岡本城跡出土 陶磁器片

11.岡本城跡出土
陶磁器片
千葉県文化財センター蔵
(現蔵:財団法人千葉県教育振興財団)

12.岡本安泰奉納祝詞(天正17年)<首部>

12.岡本安泰奉納祝詞(天正17年)<首部>
那古寺蔵