コラム(3) -神奈備(かんなび)-

 神の鎮まる、神聖な山のこと。それは人里のある平野に近く、傘を伏せたか、あるいは少し急角度な傾斜で、ひとつだけ他の山に抜きんでた、樹木に覆われている山のことを言う。カムナビ山は、高山ではなく低山を指し、人間が特に神の意に反しない限り、害を加えることは少なく、子孫のために恩恵を与えると考えられていた。

静岡県下田市御倉山

静岡県下田市御倉山

 あたらしいまつり

 古墳時代の中頃である5世紀代になると、新しい生活文化が波及していきます。それは鉄製農耕具の発達による生産力の向上や、カマドの出現による食文化の変化などですが、ムラの神まつりで、滑石(かっせき)製の模造品が使用されはじめることも大きな特徴のひとつです。それ以前は、本物の用具をまつりで使っていました。鏡も剣も勾玉も、何もかも実際に使える実用品でした。それは古い古墳や、福岡県沖ノ島の祭祀(さいし)遺跡をみるとはっきりわかります。しかし神まつりが、だんだんと一定のやり方で行われるようになると、使う用具が形だけのものになってしまうのです。こうして手軽に入手でき、しかも加工がしやすい材料を使った、滑石製模造品がまつりの道具として使われるようになります。この祭祀用具が、比較的短期間のうちに広範囲に伝播したことや、遺跡の立地や用具の構成から、普遍的な神まつりが行われていたと考えられています。

 ただし注意しなければいけないことは、祭祀用具の出土地点が必ずしも、神まつりの場とは限らないことです。山頂から出土しても山の神を祀ったとは言い切れません。まだ、当時の人びとの精神生活の、ほんの一端を解きほぐすのが精一杯というのが実状です。

3.神まつりのかたち~関東の古代祭祀遺跡を概観する

 日本人はいかなるものに神聖感を感じ、どのような景観のなかに神を見てきたのでしょうか。しかるべき「風景」を眺め、ある「場」に臨んだとき、ふと身震いし謹んだ気持ちになって身を正すことがあります。古代人は、聖なるものに対する反応がはるかに鋭かったのかもしれません。

 「神々の風景」は、そうした古代的な精神のありかたによって直感的に選ばれ、守り続けられてきたものといえます。自らの生活空間のなかから神聖感の強い場を選んで神々の場と定め、ムラびとたちはそこに安らぎを求めました。しかし、ある一定の地形であればすべて「聖」というわけではありません。ここでは神座になりうる地形を想定するのではなく、日本人が古来聖域として守り続けてきた地形の一端を、関東地方とその周辺の古代祭祀遺跡から探っていきます。そこから、日本人の魂の安らぐ原風景、あるいは郷愁を誘う景観がみえてくるかもしれません。

 コラム(2) -安房神社の神宝-

〔狛犬・燧箱・木椀〕

 すべて鎌倉時代のものと考えられており、クスの木彫の狛犬阿吽(あうん)の一対は、ともに高29cm、頭から尾の長さ42cm、幅15cmで、前面に黒漆が塗られていたらしく、黒い斑点が残っている。

 燧箱は長さ19cm、幅14.5cm、高7cmの大きさで、これにも黒漆が塗られ、神狩(みかり9神事に関係する。神事の期間の神饌(しんせん)と、神主の食物を調理する時、火をおこすために、もともとは燧石を使ったという。

 木椀はキリ製で高15cm、口縁部直径22cmで、同じく黒漆が塗られていた痕跡がある。祭典のとき、神饌を供えるために使われたのであろう。


〔銅鏡〕

 明治26年(1893)に奉納された。双鳥花草文(そうちょうかそうもん)円鏡と双鳥花草文八陵鏡の2面。円鏡は径11.3cm、八陵鏡は同12.0cm。

4.□銅鏡
4.□銅鏡
5.□木製狛犬

5.□木製狛犬

6.□燧箱

6.□燧箱

7・8.□木椀、木製四脚案

7・8.□木椀、木製四脚案

(以上、館山市安房神社蔵)

2.神々に捧げられた工芸品~古神宝

 神宝(しんぽう)とは神社に伝わる社宝のことをいうのではなく、神の日常生活の用具としてつくられ、神の坐(ましま)す社殿内に納められた貴重な宝物のことをいい、いずれも神々に捧げられたものです。

 神宝のはじまりは、古代の史書である『先代旧事本紀』(せんだいくじほんぎ)によると、饒速日命(にぎはやひのみこと)が高天原(たかまがはら)から降臨された際にもたらされた「十種神宝」(とくさのかんだから)とされています。十種の内容は、多種多様なはたらきをもつとされる、鏡・剣・玉・比礼(ひれ)にわけられます。このうち比礼は、幡に似た「まじないもの」といわれ、『令集解』(りょうのしゅうげ)には神祇官が鎮魂(たましずめ)の行事の時、これを振り動かして呪術的なまじないを行ったとされているので、その用途を知ることができます。またさきの『先代旧事本紀』には、困ったことや病気などで邪気をはらおうとする時には、『十種神宝』の名を唱えながら、これらの品々を振り動かせば、願意がかなうとされています。それぞれに霊力を持たせているところに、古代祭祀における神宝の姿をみることができます。そして今日、神社の御神体に神の依代(よりしろ)として、鏡とか剣、あるいは玉が祀られることが多いのは、このような宗教的な意義が継承されているものと考えられます。

 このように古代祭祀の神宝は、地域社会での霊力を秘め、その種類は極めて少ないのですが、奈良・平安時代になり、社殿が整備されはじめると、神宝は金工や漆芸その他高度な技術を駆使してつくられようになります。武具のほか、衣装や装身具、化粧道具など内容も多岐にわたります。神社の社殿造替(ぞうたい)遷座や重要な祭事が行われる時には、すべての神宝が、形態も製作技法も伝統にしたがって新調されました。そして役目を終えると、社殿から下げられて土中に埋納され、あるいは別置されて、現在に至っています。

 ここでは、武の神として長い歴史がある佐原市の香取神宮と、館山市安房神社の古神宝を紹介します。

3-1.〇香取神宮古神宝類

3-1.〇香取神宮古神宝類 
  伯牙弾琴鏡

3-2.〇香取神宮古神宝類

3-2.〇香取神宮古神宝類 
  盾形鉄製品

3-5.〇香取神宮古神宝類 
3-5.〇香取神宮古神宝類 
  黒漆菊紋様蒔絵手筥
3-3・4.〇香取神宮古神宝類

3-3・4.〇香取神宮古神宝類 
 銅製供器(鋺形)・鉄製供器(脚付円盤)

3-6.香取神宮古神宝類
3-6.香取神宮古神宝類   櫛

(以上、佐原市香取神宮蔵)

 コラム(1) -房総開拓の神話-

 『古語拾遺』とは、「古語の遺(も)れを拾う」という意味で、大同2年(807)に成立。朝廷の祭祀に携わってきた忌部(いんべ)氏が、祭政両面にわたり勢いをはる中臣(なかとみ)氏に対抗するため、正史にもれた同氏の伝承を編集。そのなかに「房総開拓神話」が記されているが、これをもとに昭和になり、寺崎武男画伯が、白浜町滝口下立松原神社の壁画殿に10枚の絵を描いている。

 神狩神事

 神狩神事は、平安時代の「古語拾遺」(こごしゅうい)に房総を開拓したと伝えられる天富命が、猪や鹿などの害獣を狩り取ったことに感謝するための神事といわれています。

 神狩は「ミカリ」と発音され、この神事は館山市安房神社で行われていましたが、白浜町滝口の下立松原神社では現在も行われています。

 安房神社ではかつて、12月26日から1月4日にかけて行われていました。神事の初日は、イチノビと呼ばれ、この日から神主は身を清めて神社にこもり、人にあったりしませんでした。また、氏子は針の使用、機織、物音などを嫌って避けたといいます。最後の夜には、紅白の「舌の餅」を神前にあげましたが、これは獲物の舌を象徴するものとされています。

 下立松原神社に、3頭分の大鹿の角が伝わっていますが、これは神狩神事とともに、古代祭祀を考えるうえで貴重なものです。

2.大鹿角

2.大鹿角
白浜町滝口・下立松原神社蔵

 御田植(みたうえ)神事

 御田植神事は、田の神を迎えてその年の豊作を願って行われる儀礼です。館山市大神宮(だいじんぐう)の安房神社では、昭和22年~23年頃まで、毎年6月23日に御田植祭が行われていました。神社の田の周囲に縄を張り、その年に嫁いできた新嫁が、編笠をかぶった早乙女(さおとめ)の装束(しょうぞく)を身につけ、歌にあわせて田植えをしました。終了の合図に太鼓が鳴り、そこではじめて氏子の家々では田植えをすることができたといいます。また館山市洲宮(すのみや)の洲宮神社では、現在も元旦の朝に御田植神事が行われています。

 稲作文化の伝来とともに、豊かな稔りが人々にとって切実な願いとなったと考えると、日本の神まつりの原初的なかたちは、春〔予祝(よしゅく)〕と秋〔収穫祭〕二期のまつりが基本となったのではないでしょうか。

御田植神事

 湯立(ゆだて)神事

 館山市西川名の厳島神社では、毎年1月15日に、土地の人々が「シオマツリ」と呼ぶ、湯立神事が行われています。祭典のあと、白装束の神官が大釜の中で煮だったお湯を、笹でまわりに振りかけます。すると人々が競って釜のまわりに集まり、神官も自らがずぶぬれになるほど、四方に湯を飛ばします。神事が終わると、各自手拭いやタオルを釜の中の湯にひたし、家族の体を拭いて無病息災を祈ります。

 この日西川名では、漁は休みです。また、かつては湯立神事の後に、漁の豊凶を占ったといいます。

湯立神事

 洲崎(すのさき)踊り

 館山市洲崎(すのさき)の洲崎神社に伝承されるこの踊りは、2月の初午と8月の神社例祭に奉納されています。踊りは、念仏踊りの系譜をひく「弥勒(みろく)踊り」と、悪霊払いを目的とする「鹿島踊り」の2種類からなり、ともに海の安全を司(つかさど)る鹿島の神に関係しています。洲崎の突き出た岬は、東京湾と太平洋を分け、海上交通の要地として知られてきました。漁民たちの洲崎神社への信仰は大変篤(あつ)く、戦前には湾から出る船は米と金を、漁の帰りの船は魚をおいていくことが常だったといいます。洲崎神社の存在は、大規模な漁業経営が難しい磯浜のムラにとって、弥勒踊りの歌詞にあるように、海の彼方から富をもたらしてくれる拠り所だったのかもしれません。

洲崎踊り