協力者一覧

 今回の企画展の開催にあたり、多くの方々から多大なご協力を得ました。ここに記して感謝の意を表します。(五十音順・敬称略)

足立区立郷土博物館、天津小湊町史編さん室、天面浅間神社、綾瀬稲荷神社、岩井袋浅間神社、上須賀浅間神社、大帷子浅間神社、大貫富士講、貝渚浅間神社、神余富士講、川代浅間神社、北口本宮富士浅間神社、香浅間神社、九重地区公民館、塩浦浅間神社、白渚浅間神社、裾野市立富士山資料館、洲崎富士講、瀬戸浅間神社、戸倉浅間神社、菱川師宣記念館、富士山本宮浅間大社、富士宮市教育委員会、富士吉田市、富士吉田市歴史民俗博物館、鳩ヶ谷市立郷土資料館、飯縄寺、船橋市教育委員会、船橋市西図書館、宝珠院、宝泉寺、村山浅間神社、谷浅間神社、山荻神社、山包丸渕講、横須賀山三祈祷講

相川権一郎、青木秋男、青木一男、赤野竹司、安西公也、安西宥範、飯沼政治、生稲元昭、池田裕、石川良泰、石井嘉一、石井幸吉、石井淳一、石井正司、石井要郎、石井千代治、石井廣吉、石井三千美、伊藤昌光、井上輝夫、岩崎一夫、江川好英、榎美香、大場仁三郎、大室徳三、岡田武一郎、沖本博、荻野裕子、萩原ちとせ、奥脇和男、金森安彦、唐松秀典、川名久男、川名巳紀夫、川名陽一、木曽金治、黒川すゑ、黒川寅松、高達奈緒美、小泉竹次郎、小関芳作、小林隆夫、小林賢夫、小宮義夫、西郷重男、坂本文司、坂本真康、佐久間三男、笹生浩樹、佐野邦雄、志村博、上文司逞、白井政枝、白石貴、鈴木市松、鈴木寿三郎、関和雄、立野晃、田中久雄、田中宏和、田村喜一、塚越正、對馬郁夫、出口福松、出口貞雄、永田耕逸、馬場哲也、船宝幸一、松下忠、丸山豊、村井久一、村田頴田、安室知、山口常道、山口芳利、山田富三、湯浅章、渡辺寅治郎、渡辺光男、綿貫啓一

主な参考文献

井野辺茂雄 1928年 『富士の信仰』 富士の研究【3】 古今書院
岩科小一郎 1978年 「創成期の富士講-角行と身禄-」 山岳宗教史研叢書9 『富士・御嶽と中部霊山』 名著出版
岩科小一郎 1983年 『富士講の歴史』 名著出版
遠藤秀男 1971年 「浅間信仰と浅間神社の成立」 『富士宮市史』上巻 第3章
遠藤秀男 1971年 「富士曼荼羅や村山修験」 『富士宮市史』上巻 第6章 第5部
遠藤秀男 1971年 「富士講と富士登山」 『富士宮市史』上巻 第8章
遠藤秀男 1978年 「富士信仰の成立と村山修験」 山岳宗教史研究叢書9 『富士・御嶽と中部霊山』 名著出版
大森義憲 1978年 「富士の御師」 山岳宗教史研究叢書9 『富士・御嶽と中部霊山』 名著出版
木野主計 1991年 「富士講取締令の研究」 『大倉山論集』 29
下坂 守 1993年 『参詣曼荼羅』 日本の美術第331号  至文堂
高橋洋二編 1983年 『別冊太陽 富士』   平凡社
東京都北区教育委員会 1991年 『十条冨士講調査報告書』
東京都北区教育委員会 1995年 『田端冨士三峰講調査報告書』
豊島区立郷土資料館 1984年 『富士講と富士塚』
長島泰行(岡田博校訂・解説) 1985年 『富士山真景図』 名著出版
西海賢二 1990年 「富士信仰の展開-信仰民具試論-」 『富士吉田市史研究』 5
日本常民文化研究所 1978年 『富士講と富士塚-東京・神奈川-』 日本常民文化研究所調査報告 第2集
日本常民文化研究所 1979年 『富士講と富士塚-東京・埼玉・千葉・神奈川-』 日本常民文化研究所調査報告 第4集
鳩ヶ谷市立郷土資料館 1990年 『鳩ヶ谷が生んだ偉人 小谷三志』
平野栄次編 1987年 『富士浅間信仰』 民衆宗教史叢書第16巻 雄山閣出版
平野栄次 1987年 「富士信仰と曼荼羅」 仏教民族学大系3 『聖地と他界観』 名著出版
富士吉田市史編さん室 1982年 『富士吉田市史資料所在目録』 第1集
富士吉田市史編さん室 1987年 『富士吉田市史資料所在目録』 第10集
富士吉田市史編さん室 1991年 『上吉田の石造物』
富士吉田市歴史民俗博物館 1993年 『描かれた藤の信仰世界』
穴野健弐 1982年 『扶桑教立教百年小史』 扶桑教立百年記念事業奉賛会
福田勝水 1982年 『教祖伝』  扶桑教立百年記念事業奉賛会
堀内 真 1995年 「富士に集う心-表口と北口の富士信仰」 中世の風景を読む第3巻『境界と鄙に生きる人々』 新人物往来社
村上重良、安丸良夫校注 1971年 『民衆宗教の思想』 日本思想大系67 岩波書店
宮家 準 1987年 「修験道の新宗教に対する影響」 『山岳宗教』 第3号
宮崎ふみ子 1994年 「民衆宗教のルーツをもとめて-富士講-」 岩波講座『日本通史』別巻2 岩波書店
宮田 登 1975年 『ミロク信仰の研究 新訂版』 未来社
宮田 登 1976年 「富士信仰とミロク」 山岳宗教史研究叢書6 『山岳宗教と民間信仰の研究』 名著出版
宮田 登 1993年 『山と里の信仰史』 吉川弘文館

※千葉県の富士信仰に関するもの
沖本 博 1986年 「富士講紋について」 『房総の石仏』 第4号
沖本 博 1988年 「富士塚」 『房総の石仏』 第6号
沖本 博 1989年 「富士山周辺の石造物について」 『房総の石仏』 第7号
沖本 博 1992年 「山包講と「禅行」を追って」 『房総の石仏』 第8号
沖本 博 1993年 「富士講の石造物について」 『房総の石仏』 第9号
立野 晃 1986年 「市原市内の富士信仰石造物」 『市原市地方史研究』 第14号
立野 晃 1987年 「千葉県下のセンゲンマイリ」 『西郊民俗』 第118号
立野 晃 1991年 「市原市北部地域の富士講の民俗」 『房総地域史の諸問題』
野村幸希 1993年 「房総富士塚考」 『立正大学人文科学研究所年報』 第30号

展示資料一覧

(会期中に展示資料の入替えを行う場合があります。)

【1】安房から見た富士のすがた

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資料名 点数 年代 所蔵者
1 富士見十三州輿地之全図 1 天保13年(1842) 館山市立博物館
2 うちわ絵「房州保田海岸」(安藤広重) 1 菱川師宣記念館
3 富士三十六景房州保田ノ海岸(安藤広重) 1 安政5年(1858) 館山市立博物館
4 安房国鋸山日本禅寺真景方角図絵 1 文政12年(1829) 同上
5 房州大房州ノ嵜御台場図 2 船橋市西図書館
6 房州鏡浦略図 1 明治22年(1889) 館山市立博物館
7 鏡ヶ浦図 1 江戸時代末 同上
8 和泉式部小式部霊塔境内ヨリ鏡ヶ浦眺望之図 1 明治34年(1901) 船橋市西図書館
9 安房国真景図絵馬 1 大正2年(1913) 岬町・飯縄寺

【2】富士山の南と北-富士への信仰の歴史-

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資料名 点数 年代 所蔵者
10 富士山表口真面之図および版木 2 明治13年(1880) 富士宮市・村山浅間神社
11 富士参詣曼茶羅(複製)*原品は重文 1 室町時代末 富士宮市・富士山本宮浅間大社
12 薬師如来像懸仏 1 文明14年(1482) 同上
13 富士山神札 1 富浦町・生稲元昭氏
14 元八湖絵図 1 天保14年(1843) 富士吉田市・北口本宮冨士浅間神社
15 富士山縁年牛王版木 2 寛政12年・万延元年 富士吉田市歴史民俗博物館
16 富士山北口男女登山(落合芳幾) 1 安政6年(1859) 足立区立郷土博物館
17 富士山神宮並麓八海略絵図 1 江戸時代末 富士吉田市
18 伝角行藤仏筆伝書巻物*市指定 1 元和6年(1620) 鳩ヶ谷市立郷土資料館
19 角行肖像画 1 館山市・山荻神社
20 食行身禄真筆 1 (享保年間) 富士吉田市・北口本宮冨士浅間神社
21 人穴図附大導師歴代絵図*市指定 1 鳩ヶ谷市立郷土資料館
22 御大行之事*県指定 1 文化2年(1805) 同上
23 日月仙元大菩薩御直伝月之巻 1 寛政7年(1795) 横須賀市・小関芳作氏
24 三十一日之巻 1 同上
25 一字不説の巻 1 千倉町・坂本真康氏
26 月●伝書 1 延宝6年(1678) 鴨川市・川名陽一氏
27 書行藤仏五行御身抜 1 鳩ヶ谷市立郷土資料館
28 星行御身抜*県指定 1 文化2年(1805) 同上
29 村上光清御身抜 1 横須賀市・小関芳作氏
30 五行御身抜 1 鴨川市・山田富三氏
31 富士山女人登山之図(落合芳幾) 1 万延元年(1860) 足立区立郷土博物館
32 富士山體内巡之図(橋本貞秀) 1 安政5年(1858) 同上
33 開化旧幣富士参詣之図(歌川芳藤) 1 明治11年(1878) 同上
34 行衣 1 横須賀市・小関芳作氏
35 横須賀山三講マネキ 1 同上

【3】安房から富士山へ-記録の中の富士参り-

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資料名 点数 年代 所蔵者
36 正木時茂書状 1 富士吉田市・北口本宮冨士浅間神社
37 小猿屋由緒書 1 宝永5年(1708) 同上
38 安房国檀那場由緒届 1 文化14年(1817) 同上
39 房州配札名簿 1 文政7年(1824) 同上
40 安房国講中三ヶ年賦勧化金収納控 1 嘉永4年(1851) 同上
41 富士山寄進帳・他 23 江戸時代 同上
42 富士山御縁年社中修復寄進性名帳 2 万延元年(1860) 同上
43 書簡 2 同上
44 須山口富士山導者性名簿 2 天明2年~明治21年 裾野市立富士山資料館保管
45 村山口参詣控帳写・村山口導者帳 4 江戸時代 富士宮市・村山浅間神社
46 宝珠院頼勢肖像画 1 明暦元年(1655) 三芳村・宝珠院
47 富士道中日記 1 天保12年(1841) 千倉町・坂本真康氏
48 富士山登山日記帳 1 明治7年(1874) 鴨川市・川名陽一氏
49 通行手形 1 慶応2年(1866) 館山市・根岸家寄贈
50 登岳紀行 1 明治10年(1877) 同上

【4】大願成就の大先達たち

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資料名 点数 年代 所蔵者
51 御中道・内八湖修行成就璽 1 館山市・石井嘉一氏
52 お伝え(正行真鏡から根馬五郎兵衛宛) 1 文政12年(1829) 館山市・黒川すゑ氏
53 御中道めぐり杖・草鞋 1組 千倉町・岡田武一郎氏
54 富士山木型 1 同上
55 富士山石型 1 天津小湊町・白井政枝氏寄贈
56 御三幅 1 千倉町・青木一男氏
57 富士講図絵馬 1 天保15年(1844) 鴨川市貝渚・浅間神社
58 センブリ 1 鴨川市・山田富三氏
59 護符 1 同上
60 人穴御垢 1 館山市・山荻神社
61 虫歯守 5 千倉町・石井淳一氏
62 数珠 1 白浜町・木曽金治氏寄贈
63 腹帯 4 富浦町・出口福松氏
64 卜占関係書 2 同上
65 九字大事 1 横須賀市・小関芳作氏
66 火渡り写真 2 昭和10年代・30年代 千倉町・坂本真康氏
67 大数珠 1 横須賀市・小関芳作氏
68 山包丸渕講祭壇 *区指定 1式 文久年間 足立区・山包丸渕講
69 山包講奉納幕 1 明治16年(1883) 市原市・池田裕氏
70 お伝え(正行真鏡から羽白長五郎宛) 1 天保3年(1832) 同上
71 敬神法呪不可思奇大巻 1 千倉町・坂本真康氏
72 先達装束 1式 同上
73 子供用行衣 1組 同上
74 下箱 1 鴨川市・山田富三氏
75 数珠 1 館山市・黒川すゑ氏
76 1 白浜町・木曽金治氏寄贈
77 富士山礼拝図絵馬 1 明治22年以降 鴨川市貝渚・浅間神社
78 食行身禄坐像 1 (天保14年) 同上
79 お伝え(正行真鏡から松本栄治郎宛) 1 文政6年(1823) 鴨川市・山田富三氏
80 三十三度大願成就御身抜 1 天保14年(1843) 同上
81 百八度大願成就御身抜(栄行真山肖像画付) 1 明治9年(1876) 同上
82 栄行真山自伝 1 明治9年(1876) 同上
83 富士山石灯籠建立勧進帳 1 天保9年(1838) 富士吉田市・北口本宮冨士浅間神社
84 栄行真山髭 1 明治14年(1881) 鴨川市・山田富三氏
85 栄行真山写真 1 明治11年(1878) 同上
86 お伝え(栄行真山から渡辺定七宛) 1 明治12年(1879) 館山市・渡辺寅治郎氏
87 富士登山記念盃 3 天津小湊町・白井正枝氏寄贈
88 国仙元大神一百八番 2 千倉町・坂本真康氏
89 四十八番浅間宮奉納札 1 館山市上真倉・浅間神社
90 お伝え 1 慶応2年(1866) 鋸南町・船宝幸一氏

【5】安房のなかの富士山-センゲンサマと富士講

資料名 点数 年代 所蔵者
91 天面浅間神社再建棟札 1 文政11年(1828) 鴨川市天面・浅間神社
92 山三講先達誠行所用数珠 1 館山市・関和雄氏
93 山三講登山記念額 1 大正9年(1920) 千倉町・岡田武一郎氏
94 富士講名簿 10 明治年間 同上
95 山水講御三幅 1式 文政9年(1826) 鴨川市川代・山水講
96 富士講写真 2 大正年間 鴨川市・山田富三氏
97 山包講提灯 1 同上
98 山包講吊灯籠 1 鴨川市貝渚・浅間神社
99 山包講洒水器 1 富浦町・安西宥範氏
100 貯金通帳 1 昭和6年(1931) 館山市・山荻神社
101 行衣 1 館山市・鈴木寿三郎氏寄贈
102 富士講幟 1 館山市香・山包講
103 富士山礼拝図絵馬 1 白浜町・宝泉寺
104 真倉村明細帳 1 天明2年(1782) 横浜市・岩崎一夫氏
105 ゴダチ(浅間神社奉納幟) 2 白浜町・塩浦区寄贈

 『栄行真山自伝』について

 著者の栄行真山は、俗名を松本吉郎兵衛といい、長狭郡磯村の山包講先達をつとめた人物である。文政5年(1822)、26歳で地元の富士講に入って信心を始め、明治15年(1882)に85歳で亡くなるが、その間に108度もの登山をし、晩年の明治9年(1876)には安房の中の108ヶ所に浅間宮をまつる宣言をするなど、布教にもつとめた。

 ここに紹介した著書は、栄行が28歳の時に地元の磯の浅間宮で霊験を受けて以来、信仰をとおして見聞きしたさまざまなできごとを記したものである。その大半は栄行自身の修行体験記となっていて、断食、火の物断ち、水垢離などの修行の様子が具体的に記されているため、修行の内容や旅程、頻度など、当時の先達の行動がたいへんよくわかるばかりでなく、先達が持っていた独特の神秘的な世界をかいま見ることができる。また栄行が自分の法力を用いようとする場面もあるが、その目的が個人的なものばかりでなく、雨乞いなどの社会的なものであることに注目したい。先達は何のために難行苦行をこなそうとするのか、また宗教者としてどのような役割を担っていたのか、改めて考えさせられる。

 著書は、明治9年に108浅間宮を提唱したところでしめくくられていることから、この頃書かれたものと思われる。また下書きと思われる写本がもう一冊ある。文頭に記した『富士信心之始メより有難事書置』はこの写本につけられた題名であるが、資料名については内容に従って『栄行真山自伝』とした。虫喰いによる不明箇所については、写本を参考に補足した。原文保存のため仮名遣いや漢字は訂正せずに使用したが、読みやすくするために次のように整えた。


1.文中の節目には読点を付した。
2.補足不能の虫損箇所は、□印および[ ]にした。
3.挿絵の解説文は( )内に記した。

参考資料:栄行真山自伝

 『富士信心之始メより有難事書置』

 抑富士行者食行身禄●内、北行鏡月●内、三世山元仙行真月●内、四世修山禅行居士内、五世真行妙忡居士内、六世正行真鏡居士内、

 安房国長狭群磯村余瀬町

 七世やまつつみ正栄行真山 俗名松本吉郎兵衛

 是迄難有事拝、色々不思儀事あり、新増を筆ニ而留置、書残しおき候、

 文政七酉年正月二日初夢ニ、廿六歳より講中江入、信心道ヲ覚、廿八歳の正月一日初ニ、左の手ニのせおき、富士山白き所手にのせて、にきると思へは目をさまし、誠ニありかたく拝み奉る也、夫より信心の気まし、

 又書印し、同年四月十一日当村富士山と申て山あり、此山江夜な々一七日籠りニあかり候所、六日目ニ当リ候晩、石宮の前ニ而拝み居候得共、余り居あきて又立而、石宮より三間計り跡へさかり候所、我立者、夜中過ニ茂相成候頃、何方より参り候哉、何者にて候歟、一切訳しれ不申候て、大キサ丑し位、頭墨色ニ而、どう茂右之通り之姿ニ御座候、扨又夫より結願之夜籠に参り、夜明方迄何の事茂なく候得共、天明ほのゝゝとなり候時、我心ニて思ひ独り言ヲ申居、先一七日籠りを致し候所、我行法たらさる故ニ、何の印も無之と思ひ居候所、少々ねむり候哉、気しつまり候とおもへハ、夫より仙元宮の石宮之上、東ヲ向白衣ニ而すわり、女体年の頃六十余り与思ひ、我是こそ仙元菩薩と拝み、誠ニありかたき事々目を開き見れハ、聢与相わかり兼、先結願茂難有事と拝み、悦て下山致候、

 文政七酉年六月一七日ニ廿八才之時、初メ而登山ニ参り、目出度頂上参詣致シ下山仕、御内八湖致夫より帰宅仕候、

 文政十三寅年八月八日より、一七日夜な々こもりに参り候之内、九日の夜当御山江籠り登り候所、右石宮の戸ひらの所江、七八寸計り丸サ程之、色ハそら色ニ而、石宮の戸ひらの前迄御光をさし、我余りの不思儀と思ふニ付、我手を懸て取りて見てもとれす、夫よりうへお見れハ御月様より御光差しており、是を拝み候得者、誠ニありかたく奉存、心魂ニ微少もわするゝ事なく、余りありかたくて泪こほれ申候、

 天保 卯四月、栄行儀のどをはらし、外へ者大キくたんこふのごとくはれ出申候、夫ニ付仙元大菩薩様江講中を頼願上候所、其時四月七日より初メ、内のとこの間前江、三日三夜の心願ニ而、断食心願致居候所、八日より茂初メ相勤、又九日天明々明なる時刻、とこの間の仙元様の懸物の所ニ而、薬の御夢想御さつけあり、其御つけハ、拾座草と言くさをとり、よくせんし、又人はたニ致してのとのはれたる所をよくたてべし、右様ニ致し候得者早速になをるへし、右之通り仙元様の懸物の所より御声あり、夫より夜もあけぬれバ、家内に我申ニ者、今朝程仙元様の掛物之所より、薬の御差図あり、先拾座草与申くさ有之哉と申聞候得者、家内の者共ニ者、成程御座候間、直様拾座草ヲ取ニ遣シ、一にきり程取て参り、夫より早速たで候得者、全快ニ相成、其日の四ツ時分のんとよりのろ出、其日の七ツ時分迄ニ不残全快ニ相なり、又御礼与して、同四月十八日より初メ廿日迄断食仕候、又此時もありかたき事あり、御富士山之東西江御月日様あらわれたると、朝霊夢を蒙り、夫より天保ニ卯六月十八日登山致し、御頂上御八りやう廻り、元祖食行身禄●之室七合五勺江籠り、火物たちニ而籠り居、三日三夜之通夜ニ而、一日ニ一喰勤メ、御頂上三度登り、三日目廿日晩ニ、月様誠ニ御光輝之夢ニ而拝み候所、夢覚て外江出てみれば、夢ニ而拝み候所茂同様ニて、不違所拝み奉り申候、夫より帰村致し信心弥増し候所、十七日夕相勤メ、其夕方七ツ時分ニ右之霊夢を蒙り、有難事々、

 天保十年亥六月登山致し候節、栄行并悴栄治郎、武田直兵衛、鈴木治郎八、ならや嘉兵衛、和泉屋利八、陣や清兵衛、平吉、米吉、坂ノ七治郎、次郎右衛門悴徳太郎、勘吉の内儀、籐七内儀、右之同行の者登山の時、八合目の上ニ而御来光様如此拝み、難有事故印置候也、

 天保十四年卯六月廿一日村を出立致し、同廿五日ニ宿坊江着致し、廿六日登山三十三度大願成就ニ付、目出度富士山小御岳石尊様五合目ニ通夜籠り致し居、其夜明候得者、小御岳の神主様之申ニ者、磯村先達珍ら敷事あり、昨夜は此山江甘露ふり、我甘露と申ハ何様の物ニ候哉と承り候得者、神主申ニ者、扨又甘露と申者、夕への様ニ誠ニ晴天ニ而、よきなぎの時でなくてハふらんと言事、此御宮之うしろへ参りて見てくる様ニと申ニ付、見ニ参り候得者、誠ニありかたく甘露ふり申候、初メて甘露と申者味ひ見る事也、夫より下山之時、田辺近江様より元祖食行身禄●木像一体、三十三度大願成就掛物壱幅、食行身禄●御真筆掛物一ふく、持参致し宅江[ ]、

 天保十五辰二月九日朝、とこの間の前ニ而仙元様江向御勤メ之時、拾本之指之さきより、せいと言物あらわれ、左ニ印通り拾本先江出、せんこうのけむりのごとく出、我も初メて見江候故、色々ニ致し而見ても、指の先江付て引す、夫より毎朝気を付て見れバ、印置通りあらわれ申候、其年我も坂東秩父并外八湖参詣致ス存よりニ候得共、其年ハ色々用事有之ニ付、参詣ニ出兼候故延し申候、

指先のつハ左ニ印通り、

 夫より天保十五年六月、富士登山致し、御頂上ニて御三水金明水の井戸の上ニて、五色の丸輪之中ニ三尊弥陀様のかげうつり、誠ニありかたく拝み申候、我壱人拝み目出度下参仕候、夫より内八湖ニ出立、人数栄行・かじや吉助・大工吉兵衛・湯屋善兵衛・下駄や忠治・天津摂津国屋次男与兵衛、六人ニ而白糸の滝の水江、御来光様同様誠ニ難有拝み奉る故印置く、

 弘化二年巳三月十五日出立致し、坂東秩父札所并富士山外八湖を廻る心持ニ而参詣致ス、上総下総国札所々、夫より鹿島香取大杉所々江参詣致し、夫より谷溝山観世音江参詣致シ、又日光山江参詣致ス、日光町之清七殿を宿ニ取、日光の御祭りを拝み、四月十七日祭り也、夫より十九日ニ中禅寺観世音与御外八湖の内八大龍王を拝、其湖のはたに相応の舟ふせてあり、其舟江腰を掛て摺墨を出、墨をすり、八大龍王を書印と思ふ江、遥向ノ方を見れハ、御出家方御待方供の者共、大勢ニ而御湖へりニ見江候、我思ニ者、我か書よりあの見江る衆ニ御願致し、書貰度思ひ、夫より荷物を仕舞、向に行ハ、向ノ方我方へ参り、幸ひと思ひ、檀那ニ向両手をつき、私儀ハ房州長狭郡磯村与申所之もの、此度坂東秩父札所へ納、并富士山外八湖与申而、日光中禅寺湖・上州榛名湖・信州諏訪の湖・鹿島湖。是を心懸而参詣致者ニ候得共、何卒尊公様の御真筆御願申上度候、我富士登山三十三度大願成就の時、富士吉田口田辺近江様書物貰置候、夫を取御覧ニかけ候得者、御尋ニハ、其方富士山行者かと御尋有之、其答而申上候、行者ニ者無御座候得共、富士信心の真似を致ス者ニ御座候、其方願ニまかせ書てやろうと申て、御侍ニ墨を摺らせ、我向ニ而紙をおさへ、檀那申ニ者、何と書と申候ニ付、八大龍王与御書被下候と願上候所、御聞済ニ相成候、

 左の通り書印、

  南無八大龍王 与御書被下候、

  弘化二巳四月十九日中禅寺以湖水書之

  東叡山大僧正實潤 与名法あり、

 我儀ハ誠歟、夫より早速立て参り、跡ニ残りし待壱人有之、其人ニ承り候所、其方儀者直々ニ致候歟、宜敷外々取次ヲもつて願候共、取次ヲもつて致候ても、取次て者無之候、先者直々ニ願上候歟、よろしく先此上ハ右様の事ハ出来不申候、其時茂甲州湯沢村百姓幸右衛門殿と申仁者、下総国なめ川寺より観世音様ニ而同行与相成、中禅寺も同々致し、所々同行ニ而参詣致、扨又秩父のはんにやと申所、大日様江参詣仕候所、日天より御光ひかりあり、誠ニありかたく存居、左ニ印置候通りニ拝み、ありかたし々

 南無阿ミ陀仏、々、々、心魂微てつし、ありかたし、同行幸右衛門殿与大宮宿ニ而わかれ申候、

 秩父般若之船与申大日様江参詣之時、左ニ印通り、日天様より御光如此さし、誠ニありかたく奉存候、心魂ニてつし恐をなし候、

 秩父之札所打納、夫より上州辺を廻り候節、角行藤仏様の二百廻忌与承り、夫より急キ坂東札所を納メ、夫より甲州郡内上吉田宿坊江着致シ、人穴村善左衛門殿江参り、角行藤仏様の二百廻忌報事を拝み、弘化二年六月三日也、朝白糸の滝江垢離をとりニ参り、其節ハ大勢垢離取ニ参り、御来光拝み、左ニ印シ置也、垢離取ニ入時ハ丸くなり、向の深き所江行ハ、下ノ方せまくなり、左ニ印通り御来光様誠に難有事、泪おこほし、あまり不思き与思ひ、ありかたく故如件印置也、

 夫より角行藤仏の二百廻忌の御報事を仕舞て、四日之日より人穴の籠り所江、一七日断食心願ニ而籠り、五日過六日過七日過八日の日ニなり候所、誠ニ不思儀、空腹ニ相成、誠ニそこへのめる様ニ相なり、夫より我気分しつかに相成ニ付、我前江色黒くして、中勢ニ而白衣着て、四角のぼんのうへ江、御あかより少し赤色さしたる物をのせて持参致、其仁の申ニ者、是ハ角行御恩せいと申者候故、其方へ遣ス、仍而頂クへし、我も又是ハ難有事与存、手ニ取れバ気分しつかりとなり、空腹の所も常の如くの身分ニ相成、誠ニありかたく事心魂微候得者、御利益与奉存候、泪おこほし、御恩情四角なるほんも右ニ印置也、

 夫時ハ一七日心願成就致し、十一日朝善左衛門殿江下り、御世話ニ預り、暫く休み居申候、

 夫より上吉田宿小猿家伊予様江参り、御世話ニ相成登山仕、下山致休居候所江、村方講中衆参詣ニ宿坊江着致し、又々同行の衆与登山、目出度頂上仕、下山致候、其同行の衆与同々致、我女房参詣ニ参り、夫より同行の衆にわかれて、信州善光寺様江参詣致、又身延山江[ ]、又人穴江参詣致し、善左衛門殿江相尋、并ニ白糸の滝江参詣致ス、七月廿二日帰村致ス、

 嘉永七寅七月廿八日内を立、富士山宿坊江着、三十三度の垢離をとり、宿坊之神前ニ籠り心願も相済、夫より駿河の国富士郡上井出村藤屋藤八殿宿ニとり、白糸の滝弐百度心願を初メ、拾九日より初メ左の印、

 廿日五ツ半時の頃より、御来光様誠ニありかたく拝み、初メ垢離ニ入時ハ○如此、又先江行ハ∩如此、誠ニ難有事ありかたき事、三度宛七度垢離をとり、其度御来光様拝み、廿一日白糸滝の上ニ、畑主毎日子供連三人ニ而、畑ヶへ参り候故ニ、其畑主旦那を願、我垢離とりニ参り、揚りて石の上のり、滝に向拝み候時、小木出張てじやまニなる木あり、明日ハきれ物御持参ニ而、あの出張たる木を切被下、価ハ何程ニ而相応ニ払可申ニ付、何卒御頼与申候得者、畑ヶ主も承知致し、明日ハ無相違切遣ス与申居、夫より其日者帰り、又明日廿二日参り候得者、雨天に而畑主も参り不申、我も其雨天故少々垢離とりて宿へ返り申候、又廿三日朝垢離取ニ参り候得者、右畑主旦那并子供弐人居申、扨旦那一昨日御頼申置候切物を御持参被下候哉、聞ハ畑ケ主今日ハ約速之通切物持参致し候、今日同々致し切てあけよふと申而、同々致し参り申候、我ハ垢離取ニ参る与致せハ、○如此御来光拝み、先江行ハ∩如此誠ニ不思儀の事与存、何度取り候ても如此、夫より宿藤八殿江返り、宿を頼み、今晩ハ廿三夜様滝上ニ而御待申度ニ付、まき弐わ、むしろ壱枚御かし被下与申て、右之品かり、白糸の滝の上江籠り、廿三夜様待居、夜半ころ滝ニある石の不動尊、によきりと我前江立、誠ニ恐れ、頭のつもじより足の指の先のつめ迄、つうとつうじ、誠ニ々心魂微恐れ申候、

 廿三日様富士の頂上の真中へあかり、誠ニありかたき々、夫より廿四日明ぬれハ、宿へ返り御札を申、夫ニ付白糸の滝の畑ヶ主の咄を致、昨日ハ上の畑主旦那ニ木を切て貰候、時に私垢離取ニはいり候時、御来光様拝み、其時ニ上ニ居る子供弐人呼ニ参り、三人ニ而御来光様拝み、私揚りて行迄拝み居候ニ仍而、私承り申候、此上ニ畑ケある故ニ、毎日拝むてあろうなと申候得者、其仁申ニ者、私四十余りニ相成候得とも、此度拝む事初メて拝と申居ニ仍而、私其時上り、其方衆も余りおろかの事かな、上ニ畑ケありて初メてとハ、余りなる事と申て、私わらい申候、右之咄致し候得者、宿の藤や藤八殿も申ニ者、私儀も今迄御来光様拝まれ申と言事ハ聞及候得共、私此度迄ハ拝みたる事ハ是なく、今日ハ藤八申ニ者同々致し拝み度と頼むと申ニ付、左様なら者跡より御縁も有ハ拝まれ可申与私申て、先江垢離とりニ参り早速垢離取りニ入候得者、早速ニ御来光様拝み、○誠ニありかたく拝、足元の所者水のそこ迄も光りをなし、誠ニありかたく事泪をこぼし、夫より揚ると藤八殿参り申候、其時我申ニ者藤八様おそかつたり、今初メの時ハ御来光様拝み申候、おしきかな与申、又夫より弐度目取ニ参り候得者、又ありかたく拝み○、其時藤八殿もありかたかつて色々与致し而おかみ、先江行ハ下せまくなり、∩如此ニ夫拝み候て自分の田へ行、此度垢離六度とり、又四度目の垢離の時○如此拝み、五度目三度程拝み、又昼過ニ者○如此、廿四日垢離数五十四度也、夫より宿江返り、宿の亭主申ニ者、今日ハありかたく拝みましたと、以御影ヲありかとう御座りますると、我申ニ者、私拝ませたのてハ御座りませぬ、御まへの御心信ニ仍而拝み申たと答候、藤八申ニ者、私四十歳余り相成り候得とも聞及候計り、是迄拝みたる事ハ無御座候、初メ而此度拝み申与申候、夫より藤八殿母親の申ニ者、我も六十余りニ相成候得共、昔より御咄ニ者承り候得とも、是迄拝みたる事なし、初メての事なり、誠之今日過し、明日者同々致し拝み度申ニ付、我申ニ者、明日御出被成候ても、各々方御心信仍而拝まれ申候、左様ニ候ハヽ明日私ハ先江行、跡より御入来可被成候、御縁も有之ハ拝まれ申候、廿五日朝少し先江行、御内室様跡より御入来可被成与先江行、早速垢離をとりニ入候へ者、拝まれ不申候、又弐度目垢離取ニ入候得とも拝まれ不申候、左様致スと跡より御内室并十五六内の娘・隣り娘内のおはり殿・泊りニ入た廿弐三才商人弐人、都合五人ニ而参り、其時我ことわり申上候、是迄弐度垢離をとりニ入候得とも、御来光拝まれ不申候、又五人衆ハ是非拝み度与申てそこに居、又三度目垢離取ニ入、∩如此拝まれ申候、誠ニ五人衆もありかたく拝み、悦を致し而揚、壱人おはり殿残り、我揚る時又御来光難有拝み候、○如此、夫より五人衆返り、おはり殿壱人弐度拝み、其結願ニ而三十六度垢離ニ而、都合弐百度結申候、心願成就なり、

 夫より郡内吉田へ返り、八月一の岳鈴原大日様ニ而、一七日断食心願籠を相勤メ、夫より吉田宿防江返り、九月中旬ニ坊を立、甲陽辺を廻り、夫より駿河の国参詣致し、伊豆の国を廻り松崎より下田へ行、十月廿九日下田を立、十一月四日伊豆国しゅ善寺へ宿をとり、四日ニ立候所、大地震大つ浪与なり、家もたおれ出火もあり、家々共大方ハつぶれ、夫より駿河国三くり谷の竹の下村へ参り、其時ハまた地震しつまらす、外の畳の上江休居申候、其夜夜明ニ相成段々江戸の方へ参り、十一月十四日帰村致候、房州之方ハ伊豆の国より少しなり、

 万延元庚申六月廿三日登山仕、廿四日下山致ス、又鈴原一の岳ニ而、三日三夜の断食心願成就致ス、宿坊へ下り、七月十一日宿坊を出立、人穴村善左衛門殿江泊り、夫より十二日上井出村藤屋藤八殿江着、雨天ゆへ垢離取に参り、十度取、藤八殿宅江返り、十三日晴天五ツ半ニ参り、しら糸の滝江参り、垢離取ニはいり、早速御来光様拝み、滝の深き所江行ハ下方せまり、又跡江されは丸くなり、又先江行ハほすくなり、色々ニ致し而見るなり、十度ニ付一ツ宛石をあけ、三日ニ而百度心願なり、十四日朝しら糸の滝参ると申せハ、藤八殿子供男子二人十一才九才者二人跡より参り、御滝江参り度ニ付、同々致度与申て参り、御来光様拝み、我垢離とりニ待参候者、早速●、只今の御来光様其子供ニ向ひ拝み候哉、如何有之候哉、尋候得者、十一歳ニ相成候子ハ難有拝み申候、九才子ハ何も心も不知、兄者拝み、仍而ありかたき事心願成就ニ付、数取石を見、中のきれいなる石を持参致したきと思ふて手ニ取見れは、●と言石を取揚、くり返し滝に向はありかたや、

 五色の染もさめぬしら糸、藤八殿宅ニ而はへり夫昼飯を喰、表口村山村和合院与申下防、小さき防江泊り、表口より朝七ツ時ニ出立致、富士登山致シ、十五日頂上致シ、吉田宿坊小猿家江泊り、

 酉六月廿三日朝、吉田小猿家伊予様与申宿防之前江、六十六度大願成就之柱を立、諸々講中の衆を頼、御恩礼之御勤メ并少投もち致候也、

 文久三年亥二月十六日内を立、江戸はし先立東屋新八殿与申人江籠りの咄を致し、夫より郡内吉田小猿家伊予守様江着仕候て、私儀此度心願ニ而参り申候、一七日中の茶屋ニ而御籠を致度願、何卒御世話預り度存候、室主へも御咄被下、中の茶屋之室をかり籠り入、廿日登り候所、一七日積りニ御座候故、三七日心願ニ者御座候得とも、又こもりの一七の願と致し而頼入候て、初メ申候、其内三日目之晩之夢に、十七八才計りニなる娘壱人、四角なるぼんニ御食をもり、其仁申に者、是頂ケト申候得とも、我も食事ならさる事思ふて手ニ取計り、断食心願与申、右様申与目さめ、誠ニ心よくなり、夫より一七日与申て防も頼、并ニ中の茶屋室も其積りニ而かり候故、六日目ニ防より聞ニ参り、夫ニ同々致し而室の内儀参り、防の直兵衛様旦那の代ニ聞なから見舞参り、明日ハ一七日ニ候故、如何致し候てむかゐニ参り候哉と申ニ付、其時申上候ニ者、御尤成事、私申ニ者、一七日与申上候得とも、全ハ三七日心願ニ御座候、若三七日与申候而、不相成趣被申候而者致方なく存、夫故一七日与手かたく申上候、何卒三七日籠りを願度与申候得者、又室主の内儀申出、私義ハ籠り入候内ハ、そは粉ニ而も喰て居与存候故、貸遣シ申候、中々廿一日なそとハもつての外の事与申て、いかりをなし、栄行も誠ニ困り入申候ニ付、宿坊の直兵衛様を引請人ニ、よう々承知為致、籠る様ニ相成申候、心もおち付申候、夫より十四日目ニ少々空腹与おもい候時に、又四角なるほんへめしをもりすかたハ見得すして、此めしを喰とこゑ計り、手ニ取口のそはへよすると思へ者目さめ、空腹之所常の通りニ相成申候、夫より廿一日満願迄ハ常の通りニ御座候、我儀其内何か印を致度と存、防の見舞ニ為持遣シ申候哥に

 箸とるも 月日と富士と君と親  栄行

 御恩のとくをおもいおもへは

            書而御隠居哥致

            し被下様願上候

 籠り居内ニ者、石堂寺観世音と御名法あり拝み、又近江の国石山寺の観世音菩薩と申て御名法りもあり、誠ニありかたく拝み申候、扨廿一日行も満願ニ相なり、三月十三日朝宿坊へ下り、色々御世話預り、十四日晩誠ニ不思儀成事有之、初メハうつ、ニ而、右ニ而むねをなで、又左の手ニ而むねをなで候得者、南無先祖南無阿み陀仏と、むねをなでれハむねより御光出、又右の手ニ而むねをなでれハむねより御光出、初メハ夢うつつニ候得共、後ハ気カ付て目を開キ、右ニてむねを先祖南無阿み陀仏となでれハ、むねよりひつかりとひかりて御光をさし、又左の手ニ而むねをなでれハ、むねより御光輝、何度となく一度なせれ壱ツ出る、何程ニ而もかきりなく、誠ニ不思儀ニ而ありかたく拝、余り不思儀故防へも咄も不致、我登山八十八度大願成就後、瀬戸村先達慶行江見せ、夫より朝夷郡清水屋貞治郎殿江見せ、其家内之者江見せて咄きかせ、我覚計ニ而は余見くるしき事におほへ、当国北条村雲洋画書れ、其御光ひかり輝て何筋きへすあり、

 慶応二年寅六月、一度登山致、又内へ帰候て、七月十四日立、吉田火祭掛て登山致ス、又浦賀迄老人同行送り届ケて、又富士登山参り候、七月廿八日宿坊着致し、夫より廿九日朝早立ニ致し而、壱人ニ而登山致ス、鳥帽子岩元祖食行身禄●之室江参御勤致し、其ころハ室なく不残〆而下り、小御岳神主居御室の神主も〆而下り、一の岳鈴原の神主計り居、最早日もくれ、御馬返しの茶屋もたゝみて下り居候故、一の岳大日様の室ニ而ちようちんをかり、夫より火を付下り候所、凡壱りも下りたると思ふころ、終ニころんてちようちんをけし、雨空なれハ、一切道筋わかり不申候ニ付、誠ニ困り入、今晩者野宿与思定候時ニ、すこしすき居れ者、遥カ下ノ方へ火のあかり見ヘ、夫より私こいをあけ、もうし々と呼、私ハちょうちんをけし誠ニ困り居者、とふそ火を御かし被下と申て呼候得者、段々与私方へ火近くなり、そばへ参りて見れハ廿才計り男ニ、廿四五才計の男二人連なり、只今時分何れ江御出被成候と承候得者、我々ハ富士登山致者与申、我火をけし難渋致居者ニ御座候故に、何卒火を御かし被下候与願、夫より火をかり悦てちようちん江つけ、わかれて下り、五六間もさがり候得者、夫より跡をふり返シテ上を見れ者、何も見得ず、夫より小猿家伊予与申宿坊へ参り、足をあらつてあかり候得者、大雨ふり来り、其時防御隠申ニ者、小御岳様御向ニ参候哉と、不思儀ニおもへ難有事と存居候、

 下り、右同者の衆者、白衣着し杖を持、夫よりわかれて跡を見候ゑ者、火も何も不知、不思儀存候、夫あかりニ而難なく防の小猿家迄下り、少しすきれハ大雨ふり出し、右之咄防江参り、火をかり夫より火も見得すと申候得者、夫は小御岳様より御むかいニ参り候哉と防御父伯様申居候、神て有たか仏て有たかと思居候、誠ニもつて有かたき事と者存居申候、

 慶応三卯七月丗日より誠ニ日照りニて、諸人雨乞計り致居、御寺方村方も色々雨乞致居ニ付、我茂又礒村富士山初メ又者龍こう山、両山江断食心願致居候所、八月朔日雨少々ふり、又二日雨ふり、我此度願之儀者、誠ニ難渋ニ及候ニ仍而、御助為雨をふらせ被下願、此度雨ふらせ被下ハ、五十日之内我一命を差上可申候、仍而早速諸人助の為に、雨をふらせ被下候様、偏ニ神仏江願候所、早速朔日二日雨ふり、夫より二日ニ下り、夫より追々雨ふり、ありかたき事々、夫より又御礼与し而、十一日十二日十三日三日断食心願、我雨ふらせ候ハヽ、五十日の内我一命あけ様とハ申上候得とも、あまり難有故ニ、此度我一命御引取被下候与申、これ者此度取不申候、是より三ヶ年延而遣スト御つけあり、卯年辰年巳年迄の延なり、

 此度富士登山之儀ハ、卯年七月迄ニ八十八度大願成就、夫より明治元年辰九月廿六日ニ、当村富士山江為御礼庚申塔を立、房州上総両国の講中集り、大勢ニ而御遷宮御勤、目出度納申候、

 慶応三年卯六月富士登山致し、六月十七日帰宅致し、其節大日てりニ而皆色々の雨乞ニ付、又我れも心願ヲ込、三十日より当富士山と龍こう山両山心願込、何卒其願儀ハ、三日の内雨ふらせ被下与願上、三日から断食ニ而両山江参詣、籠を致候所、二日惣応之雨ふり、三日の日も仲よりあけ雨ニ而、田畑共大気ニ助り、寺方様百姓之願之儀一通事、扨我儀三日之内雨ふらせ被下候ハヽ、我一命五十日内ニ差上可申与信心掛願上候、右様申候得共、余り難有候故五十日延兼、十七日当富士山江此願度、一命早速御引取被下様ニ、仙元様より御差図、三年延而致ス様ニ御差図有、夫故巳年十一月迄延し、巳年十一月十七日ニ弥々我か一命浅間様江差上、此度廿一日から断食初メ、此度雨乞之御礼ニ上り候所、初メ而晩ニ奥の院の松江龍灯あかり、万騎坂町之上総屋与申魚屋見初、道通の衆も見、難有事与存候、

 又同月十九日、右場所江龍灯御万騎坂町迄さし、立寄の衆拝み、とこ屋せき并米屋源治郎旦那并若者も拝み、難有事、又同廿六日ニあかり、廿九日之晩ニ白髪之大なるせいニ而、老た蓮のくきを持参致し而、此蓮ニ而祝ひを栄行致せ与仰之恋あり、翌極月朔日より初御食ニ蓮備、二日十二膳宛三日迄備、其夜田原のかじや太平治泊りニ参り候ニ付、其刻ニ早速おこし、右之白髪之参り、祝ひ致ス様ニ申付、其侭何れ歟行しれす、夫より是ハ御引取も無之哉と、廿一日之断食も終り、十二月十三日山より下り、宅ニ而養生致し候所、三日目成候日ニ、誠ニむね焼難義致居候所ニ、とこの間富士山の掛物所ニ而、我拵候盃の哥をよめ恋あり候、初め恋ハうつかり致し而、又右之よめ、むね病気治するの仰、夫より難有事与申、

  ○箸とるも月日と富士と君と親

   御恩送りの三十三たひ

  ○日の元の其国々を安かれと

   六十六度登る富士山

   月と日と富士の恵を返すとて

   八十八度登るきたくち

   あひらうんけんそはか

  此哥ニ而むねやける事治る妙也

此盃之仰之通り唱、為あひらうんけん唱候所、早速全快相成難有事、心魂微恐入候、扨又皆々様もむねの焼る時ハ、一心ニ右之哥をよみ、あひらうんけん唱候へ者、治る事ハ妙也、

 明治八年亥八月浅間大神告曰、栄行三十日之内、当山江信心致し而勤へし、其内申渡ス事有之与仰有之、夫当富士山江夜に籠を致居候所、八月廿三日より初、信心致籠致候所、九月十五日晩ニ浅間大神より仰之候、当国ニ浅間宮数ヶ所有、是を是を観世音札所同様ニ取立致し、番号を付、弘通致スへし、宮ニ而右之通り申付られ候、私義しふんふなれ、うたくり有之候、全浅間宮ニ申渡しニ御座候、又一度御しらせニ預り度候、

 十六日ハ無拠事ニ付、又十七日登山致し籠居所、又十五日之通無相違事故、急度守弘通可致候、国中仙間宮を一度参詣致、廻り候得者、駿河の富士山江一度参詣致同様ニ相なり候、其心得方信心者へ伝へて信心可致候、御酒神者宜敷候得共、酒盛者一切ならぬ、宿ハセハ人先達之所貰、喰物ハ持分自分可致候、呉々浅間大神より申渡し有之候、夫より浅間申渡ス仰ニ者、子六月一百八度大願成就致せと仰渡し有之候、夫ニ仍而子六月大願成就標杭を大願成就印、富士馬返し与下浅間様の三り中程、中の茶標杭を、又印与し而吉田村小さき盃江大願成就之哥付、○百八度 成就駿河の富士の山 又登らん与 月日まつなり、申哥を付、宿中江不残宿の人を願、宿中不残申候、

 一、明治十年丑十月、これら申はや面□浦辺多分咄有之、十月十六日の日、上総国興津与申村之仁少々病気ニ付、馬ニ乗万騎坂ひしや清兵衛与申泊りあり、軽く休みかいほう致居候所、覚民与申村出生之者ニ而御廻り役有、此者聞たヽし、これ病ニ而も前原扱所届ケ、いしや者連同々致ス、夫ニかけ夫大勢集り、心巌寺大かねつき、夫より猶々大勢集り、病人を、村はづれニ石子山与申堂あり、其堂つれ行者、村はつれの一同出、堂江者置事ならん与申て払、夫より又前原へこさん与申而、前原浜貝渚村之間ニ大川有、其川江飛込たと申而、人々大さわきを致候、余り手間取致ニ付て歟、一命終り候、十七日夜明ニけり、夫より前原扱所咄出されたる者、凡七十人余与聞、其□□致したる者共も余程ニ付、私義申候ニ者、命終り候者内浦いしや様壱人、大勢替り私壱人罪を持、大勢難すくゑ与存候而、是より明日者廿六日より初、何程村相働之大難小難相成候様、廿七日廿八日三日の間、我宅ニ而大勢集、浅間宮江心願上、三日ニ終り夫叶、栄行申出ニ者、此度願ハ内浦いしや様の命一人ニ而御座候故、私其替り一命差、外御仁難義をのかれるさせ度申候、今の御規そく、其儀ニ而も願通らさる事ニ付、夫心掛致スならば、内ニ而信心致たる方か宜敷与申ニ付、十月廿九日初メ、廿一日断ニ而心願掛、上の浅間宮ニ而致そうと申居候得者、上浅間宮ハ病院江当分かしたと申事、夫ニ而者内の浅間宮ニ而籠致スと、廿一日断食三十日より初メ、二日晩ニ浅間様より大キなる膳ヲ米の分壱ツ、三角膳なり、又粟の膳弐ツ、〆三ツほん上へのせて、すかたハ見得す、浅間様宮の前て是を喰へと仰、粟の膳を被下候、其膳を二ツ貰、うつつニ而喰へは、まゑつからきかつきて、我ハ断食ニて、目覚而見れは夢なり、其明而見れハ、一日夜あければ旧ノ二日、其日川代村川名半平与申仁参り、川代村之講社申ニ者、栄行も冬ニ至而廿一日断ニ而者、一命たもさるニ而、夫ハおしき人候得者、廿一日を軽して、一命をもつ様ニ致し而貰度、講社より頼まれて参たる、半平殿申候、其節申ニ者、御信切之思召ニ候得共、先一七日断過たる其上ニ者、相談も致候故、とも角も一七日ハ十一月六日なり、夫をすこして御入来あれと申、返し候、夫より七日ニ参り、右之段軽く致ス様にと申ニ付、先半平殿ニかたけ、女房まてニかたけ、大浦山田次兵衛内の常次郎ニかたけ、田原かじやおよし二かたけ、川口吉左衛門のせき二かたけ、井戸端の山田吉五郎二かけ、皆壱人ニ而二かたけ、七人ニ候得者十四かたけ也、栄行朝米壱合宛喰、十四朝昼与晩ニ二度之断食なり、

 昨年八月廿三日浅間大神告テ曰、其方栄行江申渡スニ者、三十日之内弥以信心可致与申付有之ニ付、三十日当村浅間宮江夜な●参籠致居候所、廿三日より初メ九月十五日晩ニ申渡しニ者、国中観世音札所有之、依テ国中観世音札所同様ニ、弘通可致与御夢惣ニ付、全ク浅間様の仰ニ御座候ハヽ、又一度夢ニ而も御しらせ可被下候与願上、翌十六日者休、無拠事ニ付、富士講社之事ニ付天津村江参り、夫より十七日帰り、又々当富士山江登り参籠致居候所、前十五之晩ニ申付候通り無相違、依而急度守可申与有之、夫より相談致し、天津村白井重四郎、礒村先達広瀬太平次、川代村半兵衛、右之者同々致し、海辺通り江初而廻り、国中浅間を一度参詣相成与之浅間宮より仰ニ御座候、其思召ニて参詣可致候、以上、

 仰ニ、当村富士山江籠殿、告〔   〕り、地内より堀出シ石尊有之、其尊像洗ひ磨見れハ、富士山の尊像石なり、応永四年五月十八日与切付印有、凡年来を見れハ四百七十余年ニも相成、其内いつのころより歟埋り候哉、不相分事、就中昨年八月廿三日之晩信心致、当村富士山三十日可籠与、其内栄行ニ申渡事有之与仰有、其節九月十五日晩の造に者、栄行、国中ニ浅間宮数多有之、順拝開ケ与仰付候、仍而当礒村之富士山ニ第一番与致し、猶又堀出シたる浅間石尊を、栄行地内江納メ、宮与致し、一百八番祭り奉るなり、

 明治九年      発願主

  子十二月吉日    栄光真山(花押)

           添人 川代村

               半平

(夜な々籠りの時、一七日之内六日の晩ニ、如此の者夜中頃ニ我足元より飛出ト印置候、)

(四月一七日結願の時、夜明方如此女体拝ス)

(御三水の上江、井戸の上ニ而如比御来光様拝、誠ニありかたく事、是より御内八湖廻る)

(栄行・かし屋吉介・湯屋善兵衛・大工吉兵衛・下駄や忠治・天津村津の国や二男与兵衛、同行六人也、)

(此仁、四角なるぼん江、御あかの様なる物ニ候得共、少し赤色ましニ付、年のころ六十余りして、色墨して中勢、にくハたつふりなり)

(垢離取はいれハ丸くなり、向ヘ行ハ如此なり)

(垢離取はいれハ丸くなり、向ヘ行ハ如此なり)

  〔富士山の山開きにちなんだ主な行事〕

場所 日時 内容
館山市香・浅間神社 5月31日 早朝 午前5時頃から氏子たちがはだしになって山頂の奥宮に参拝し、富士講中が拝みをあげる。香沖で漁をしている人も参拝に訪れる。
鴨川市天面・浅間神社 6月1日 早朝 午前5時頃から区の人たちが山頂の奥宮に参拝する。
鋸南町大帷子(おおかたびら)・浅間神社 6月30日夜~7月1日朝 神社の世話人が夕方から山頂の拝殿でオコモリし、午前0時になると区の人が参拝に登る。
館山市館山(上須賀(うえすか))・浅間神社 6月30日夜~7月1日未明 上須賀の青年館で祭典をしたあと、午前0時頃に城山山頂の拝殿に参拝する。この時、浜の砂を取ってきて神前に供える。以前はお浜出もした。
白浜町塩浦・浅間神社 6月30日~7月1日 5年に一度の例祭で、6月30日に山開きの祭典をし、氏子たちがはだしでお参りに登る。この日のことをユウヤマといい、翌日はアサヤマという。
千倉町瀬戸・浅間神社 6月30日~7月1日 6月30日はヨミヤといい、神社下の青年間で氏子が集まって飲食する。7月1日は神社の例祭だが、11月1日にも似たような行事をする。
鴨川市打墨(うつみ)・センゲンサマ 6月30日 早朝に山の下のお宮に各自がお参りする。戦前まで講があり、29日に当番の家に集まって、30日の早朝に山頂までお参りした。
千倉町南朝夷(谷(やつ))・浅間神社 7月1日 午前4時頃から区の人が、山頂の宮にお参りする。このとき富士講の人が三つ重ねのお餅を作って供える。
和田町白渚(しらすか)・浅間神社 7月1日 浅間神社例祭で、参道入口の下社(天気がよければ山頂の拝殿)で祭典を行う。
館山市上真倉(戸倉)浅間神社 7月1日 上真倉区戸倉の人たちが、山頂までの2本の参道をそうじする。
千倉町平館(へだて)・センゲンサマ 7月1日 区の人が山頂までの参道をそうじする。
千倉町大貫(小松)・センゲンサマ 7月3日 地元の富士講の人たちが参道を掃除して、当番の家に集まる。山頂には明治7年(1874)の石宮がある。
鋸南町岩井袋(いわいぶくろ)・浅間神社 7月7月に近い土曜日の早朝 早朝に区の人がはだしで山頂まで登ってお参りする。現在は区の例祭日に行うが、元は7月1日の行事。
鴨川市貝渚・浅間神社 7月31日~8月1日 7月31日の午後から翌日の朝まで神社の世話人が山頂の拝殿にこもる。漁をする人を中心に、地元の人が参拝に訪れる。以前は花火をあげるなど賑やかだった。
鴨川市川代・浅間神社 8月1日 昼前に富士講中が山の下のコモリシャに集まって拝みをあげ、各自に持ち寄った昼食を広げて直会をする。正月には山頂の宮にお参りする。
館山市洲崎・洲崎神社 8月21日早朝 アサマイリといって、富士講中が洲崎神社例祭日の午前5時頃に、六根清浄を唱えながら神社の境内まで白装束で登っていき、御三幅をかけて拝みをあげる。

 2.センゲンサマは地域の富士山

 安房の各地には、小高いところにセンゲンサマとよばれる富士の神様がまつられています。センゲンサマは、地元の富士講の人たちが奉納した立派な石宮であったり、あるいは氏神級の神社だったりするところもありますが、多くは銘文すらない小さな石の祠です。

 そもそも富士山の信仰とは、富士山を仰ぎ見る場所で、富士山そのものを拝むことから始まりました。安房のセンゲンサマがいつ頃からまつられるようになったかはわかりませんが、江戸時代の村明細帳などを見ると、明らかに富士講が普及する以前から「浅間宮」として存在しているところがあります。また、通常富士山が見えるとは思えないような外房寄りに位置しているセンゲンサマでも、高いところにあるので、場所によっては富士山がよく見えるのです。

 おそらく安房では、地域にもとからあった素朴な富士信仰を基盤に、江戸の影響をうけた富士講が広まったのでしょう。江戸周辺の富士講の人たちは、老人や子供でも簡単に登山できるように「富士塚」というミニチュア富士山を作りましたが、安房の場合は、センゲンサマをまつった地元の山が富士塚のようなもので、富士山さながらに五合目に小御嶽(こみたけ)様の碑を建てたり、中腹に御中道をつくって、毎年富士山のお山開きにちなんだ行事を続けているところもあります。

 またセンゲンサマは、漁をする人にとっての目印でもありました。海岸に近いセンゲンサマの山が魚見根(うおみね)山という別名をもっていたり、また内陸部にあるセンゲンサマの松の木が海からよく見えたなどという話はいくつも聞かれます。畑(はた)(館山市)のセンゲンサマにも以前大きな松がありましたが、地元の人たちがこれを切って売ろうとしたところ、この木を目印にしていた白浜の漁師たちが、切られては困るとお金を持って買いにきたといいます。ほかにも、日照りの年にセンゲンサマで雨乞いをした話なども聞かれ、センゲンサマは地域の守り神としていろいろな役割を持っていたのです。

白浜町塩浦の浅間神社

白浜町塩浦の浅間神社

7月31日の例祭日に御中道で法螺貝を吹く氏子総代

7月31日の例祭日に御中道で法螺貝を吹く氏子総代
103 富士山礼拝図絵馬

103 富士山礼拝図絵馬
 白浜町塩浦の浅間神社に隣接する宝泉寺は、山号を冨士山といい、富士信仰に関係する小絵馬が奉納されている。

  山包(やまつつみ)講

 千葉県全域に見られる講で、館山市・鴨川市・天津小湊町・千倉町など安房でも広く分布している。講祖は江戸の修山禅行(包市郎兵衛)で、天明5年(1785)頃に講をおこしたとされる。禅行の弟子に上総国君塚(市原市)の正行真鏡(しょうぎょうしんきょう)(池田作佐衛門)という人がいるが、安房の山包講は文政年間頃に、この正行を通じて広まったと思われる。先に紹介した磯村の栄行真山をはじめ、安房の主な山包講先達は、みな正行の弟子である。現在講を続けている地区には、館山市の香(こうやつ)、神余(かなまり)、洲崎、千倉町の南朝夷(みなみあさい)などがあり、神余の山包講では安政年間から代々同じ家が先達を引き継いでいる。

正行真鏡坐像

正行真鏡坐像
(市原市・池田裕氏蔵)

96 富士講写真

96 富士講写真
97 山包講提灯

97 山包講提灯

100 貯金通帳

100 貯金通帳
昭和元年の富士登山写真

昭和元年の富士登山写真
(館山市・鈴木寿三郎氏蔵)

館山市香の富士講
(山包講)

館山市香の富士講
館山市神余の富士講

館山市神余の富士講
(山包講)

館山市洲崎の富士講
(山包講)

館山市洲崎の富士講
鴨川市川代の富士講

鴨川市川代の富士講
(山水講)

  山水(やまみず)講

 木更津に元講があり、講祖は穐行日穂(1822年没)という人。千葉県内に広く分布しているが、安房では鋸南町を中心に、鴨川市・富山町といった北部に集中して見られる。鴨川市川代の山水講は現在も45軒あまりの講中をかかえ、毎月13日にツキナミを行い、8月1日には地元の浅間神社で山開きにちなんだ祭りを行っている。ここには文政9年(1829)の箱書きがされた御三幅が伝えられているが、この中の御身抜には「仙行ゆるし御筆取穐行書」とあり、講祖の穐行が書いたものであることがわかる。また穐行は、甲州・相州方面に多くの講をたてたという仙行真月(食行身禄の弟子・田辺十郎右衛門の子)の弟子だったと考えられる。

95 山水講御山幅
95 山水講御山幅