山三(やまさん)講

 渋谷の山吉講から分かれた講で、講祖は山口三佐衛門(1804年没)といい、麻布に元講がある。館山市・富浦町・千倉町・三芳村などに見られるが、千葉県内で山三講の存在が確認されているのは、安房だけだという。どのような経路で安房に伝わったのかは不明だが、那古(館山市)の潮音台にある山三講中奉納の石宮は文化14年(1817)と比較的早い時期のもので、台座には70名以上もの講中が名前を連ねている。この石宮は、冒頭で紹介した銅版画 和泉式部小式部霊塔境内ヨリ鏡ヶ浦眺望之図」にも、「富士嶽神社」として描かれている。

山三講奉納石宮

山三講奉納石宮
(館山市那古)

92 山三講先達誠行所用数珠

92 山三講先達誠行所用数珠
個人蔵

93 山三講登山記念額  94 富士講名簿

93 山三講登山記念額  94 富士講名簿
いずれも個人蔵

【5】安房のなかの富士山 -センゲンサマと富士講-
 1.安房に広まった富士講

 安房で富士講が組織されるようになったのは、いつ頃のことでしょうか。那古(館山市)に富士講中が奉納した文化14年(1817)銘の石宮があることや、天面(あまづら)(鴨川市)の浅間神社にある文政11年(1828)の棟札に「富士講中」の文字が見えることから、化政期にはすでに江戸の影響をうけて安房でも富士講が広まっていたと考えられます。

 第2次大戦頃を境に、富士講を続けているところはごくわずかになりましたが、石造物やその他の資料から、安房には山三講・山包講・山水講という3つの笠印があることがわかっています。それぞれの講の系譜と残された資料を順番にみてみましょう。

91 天面浅間神社再建棟札

91 天面浅間神社再建棟札
鴨川市天面・浅間神社蔵

  〔安房国浅間宮八百番〕

番号 地名 現市町村名 拝みうた
1 磯村 鴨川市 三国の光の元をたずぬれば朝日に夕日富士の極楽
2 川代村 鴨川市 見るにあかぬ雪うちかくる富士の山ただ白妙に心深くも
3 天面村 鴨川市 富士の山登り払えの雪こおり千代万世も空にしられて
4 仲居村 鴨川市 富士の山天明とあく万代の道の心も峯のいたけさ
5 岡波太村 鴨川市 帰る身のしるしと斗り残しおく尽きせぬ富士の峯に言の葉
6 江見村 鴨川市 新たなる御前をたちて古しへの伊勢の川上見るぞうれしき
7 真門村 鴨川市 内外の八ツ八ツの水のみなかみ尽きせぬ御世の富士のみたらし
8 白渚村 和田町 富士の山峯に言の葉残しおくひろき裾野のすえの世迄も
9 岩糸村 丸山町 此中のはらより四方の雲晴て見えにけるかな山も富士の根
10 西原村 千倉町 富士の山裾野に扨もきこえなるその奥ひろき白糸の滝
11 珠師ケ谷村 丸山町 富士の山登りてみれば何もなし善きも悪しきも我が心なり
12 石堂寺 丸山町 富士の山善きも悪しきもなす事はいく世へるとも身にぞ来りし
13 川谷村 丸山町 富士の山登りてみよや新たなる上は白雪内はけんこん
14 丸本郷村 丸山町 おのずから餝る心をふり捨てて玉のひかりの富士の山もと
15 丸本郷下村 丸山町 いつまでも心やわらぐ富士の山ただひとすじに玉のひかりは
16 下三原村 和田町 ひとすじにそのおくみれば富士の山玉のひかりのあらたなりけり
17 沓見村 丸山町 藤七ツ月たちまちに移りけりまた行くことも富士の白妙
18 安馬谷村 丸山町 藤八ツの今つえ月の富士の山玉のひかりを只ひとすじに
19 白子三島村 丸山町 見てもしれ藤九ツの富士の山玉のひかりのあらたなりけり
20 宝貝村 館山市 廿日夜の月より四方の雲晴れて西や東や北や南へ
21 前田村 丸山町 富士の山雲きりはれて四方迄も玉のひかりのあらたなりけり
22 峯村 丸山町 天照すその奥見れば富士の山のりのおしえのあらたなりけり
23 川合村 千倉町 峯の石春夏秋の冬迄もかたくしれとや富士の山とり
24 久保村 千倉町 月も日も皆ひとすじに願うなら悪ははなれて名を照らすらん
25 牧田村 千倉町 先たつもあとに残るも今行も皆白妙の富士を見当てに
26 瀬戸村 千倉町 人はただ我身を下げて先を上げ見る白妙を富士に残して
27 川戸村 千倉町 おしえにも玉のありかは富士の山願うその身もひかりそうらん
28 北朝夷村 千倉町 富士の山四方の雲きり吹はれて御息あらたに千代万世と
29 南朝夷村 千倉町 富士の山はたちか中にかどたてて西や東や北や南へ
30 平館村 千倉町 富士の山心のくもりうち晴て玉のひかりにあうぞうれしき
31 忽戸村 千倉町 富士の山曇る心のいまはれて千代にや千代に峯の白妙
32 白間津村 千倉町 富士の山四方の裾野も雲晴て末の世迄も知るぞうれしき
33 塩浦村 白浜町 富士の山おしえのごとく新たなる祭りおこなう千代万世と
34 川間村 白浜町 色欲のふたつをみれば右左善きも悪しきも皆身にぞ見る
35 滝口村 白浜町 色欲をはなれてみよや二つなし心のうちのたまのひかりを
36 相浜村 館山市 時を得て君の心にまいりあう道あら玉の富士の山もと
37 大神宮村 館山市 富士の山三ツの心を手にふりて直のおしえを千代万世と
38 小沼村 館山市 立横も千代万世とおるにしき西丸月の今日のことぶき
39 根本村 館山市 草も木もなくては川のうろくずも生あるものは心得てすめ
40 波佐間村 館山市 物事をひとつわかれば富士の山いく世へるとも出入のあだ
41 加賀名村 館山市 末の世の出入りみればおそろしやなしおくことはみな富士の山
42 浜田村 館山市 極楽をいづくとみれは我身なりらくにそ喰えば心うれしや
43 塩見村 館山市 あらそえば我居る所さらになし下なるひとはかみへかみへと
44 香村 館山市 誠かな道あら玉の御世となるせきもとのあく富士の裾はら
45 宮城村 館山市 三国の元の氷りをとりそめて今ぞおさむる富士の白妙
46 館山城山 館山市 ふたつなし慈悲のおしえは日の光り雲吹払う峯の雪風
47 館山新井浦 館山市 二日夜の皆白妙の富士よりも苗青空にとりてうえけり
48 真倉村 館山市 三国を皆白妙の身になして今あら玉の富士の山もと
49 長田村 館山市 富士の山皆白妙の青空に千代万世と名を残しおく
50 永代村 館山市 富士の山見ざる聞かざる言わざるも只ひとすじに玉のひかりを
51 大貫村 千倉町 富士の山皆三国へあら玉の東へ出て西の奥まで
52 片岡村 館山市 みるにいま七ツ星の天の川朝わかれては四方へひらけさ
53 稲村 館山市 曇りなく皆三国へ斉渡する都卒天にて名を残しおく
54 加戸稲村 館山市 三国を照させたもうその元へ朝行会うて祈るうれしさ
55 二子村 館山市 三国にあたりしものは何もなし善きも悪しきも皆から袋
56 府中村 三芳村 富士の山このかり物を返しおき光の元へ名をも名を立
57 本織村 三芳村 富士の山名は三国へひろめおき都卒天にて見るぞうれしき
58 谷向村 三芳村 かきわけて下にあるとは底の月爰にあるとは誰かしるらん
59 山下村 三芳村 川上の玉のありかはひとり出て都卒天にぞ身は参りける
60 海老敷村 三芳村 富士の山あらそうことも言うことも登りてみれば顕われにけり
61 山名村 三芳村 人はただ下より登りいつとなく富士の山より誠たかくも
62 御庄村 三芳村 尋ね来てこの書物を持出て天子天下へ窺うて御代
63 那古町 館山市 富士の山おしえのごとく此山のぬし家にこそ身は参りける
64 多田良村 富浦町 心眼をひらいてみれば富士の山善し悪しともに顕われにけり
65 白坂村 富浦町 今よりは三つの釼でいかぬなり誠のみちに身はみろくなり
66 正木村 館山市 目に見えぬしんのたたかい示すには誠のみちを富士の山もと
67 金尾谷村 富浦町 富士の山麒麟出けるしるしには三万めでたの心安くも
68 船形村 館山市 天神のその役とてか三国を皆あら玉の都卒天迄
69 上滝田村 三芳村 富士の山皆三国へ誠にて三万めでたの心なりけり
70 市部村 富山町 独りすむ真の月を詠むれば雲きりはれて峯の数しる
71 岩井袋村 鋸南町 西東皆三国へ斉渡する只ひとすじに四方へひらけさ
72 加知山村 鋸南町 斉渡するひかりの程の心知れ深き山路の奥の程迄
73 龍島村 鋸南町 程次弟子々たかふなに桑喰て庭のあかりでまゆ作るなり
74 日本寺山 鋸南町 富士の山三つの心を玉にして糸引延びて駒の手綱に
75 大帷子村 鋸南町 この手綱こんてい駒の口につけ御鏡のせて都卒天迄
76 保田村 鋸南町 参鏡のおしえのごとくこの心末の世迄も折るうれしさ
77 合戸村 富山町 鳥帽子岩身禄の岳と顕れて三万めでたく戸をささぬ御世
78 下村 富山町 月も日も富士は一仏一体に皆三国を照らす御鏡
79 小保田村 鋸南町 今朝迄の罪を免して明日よりも心の鏡日々にとぎぬけ
80 市井原村 鋸南町 三国の鳥帽子岩よりわく泉くめど尽きせぬ富士の北口
81 佐久間村 鋸南町 明らかに峯と麓に立おきて御姿うつす御鏡の御世
82 井野村 富山町 太平の御世をうたうや身禄うた五穀成就を生す御田植え
83 中村 富山町 日の元へ身禄入定北行のおしえをうたう富士の一ふし
84 平塚村 鴨川市 躰内を出てたすかる此乳房皆父母の御恩なりけり
85 丸大井村 丸山町 天照す御前に向う一の岳只一すじに祈る鈴原
86 三坂村 三芳村 三国を我手にあげる咲や姫心も水もすまばみつらん
87 作名村 館山市 卯戸明て民の釜土の茶のけぶり茶しやの稲落や今日のきき神
88 永代村 館山市 稲苗を民にあたえの杉森も稲荷は守護の富士の神なり
89 古茂口村 館山市 妙なるや法の蓮の花いかだ幾世へるとも身こそ来りし
90 下小原村 和田町 砂山を木山にはらむ小御岳の登山にまさるまたととてなし
91 代野村 鴨川市 何国迄火防風雨の守護なればかきけしたまえ今日のきき神
92 日摺間村 鴨川市 富士山のふりこむたけの白雪は御法の守護の火防なりけり
93 打墨村 鴨川市 慈悲情け堪え忍ぶ不足忠孝をわすれぬ為の富士の中道
94 〔花房村〕 鴨川市 その神の亀の岩戸を明そめて今朝青く見る富士の白雪
95 和泉村 鴨川市 亀岩の水は国土の火防なり雪井に高き富士の白雪
96 〔西村〕 鴨川市 生れくる人の命は五穀にて金剛仏は一粒の米
97 横渚村 鴨川市 月と日と晦日のちぎりなかりせば人の種には何がなるべし
98 清澄山 天津小湊町 朝日さす薬師ヶ嶽の浄土なり瑠璃の光のあらたなりけり
99 内浦村 天津小湊町 六道をめぐりて拝む地蔵尊仏のちかくあらたなりけり
100 天津村 天津小湊町 八りゅうをまわりて拝む有がたや面大日あびらうんけん
101 上野村 鴨川市 虚空より五躰成就の風吹も金剛仏は一粒の米
102 竹原村 館山市 道のりも舛目積りの教えにも菩薩の山の恵みわするな
103 山名村 三芳村 あがりても登る便りの杖なれば幾世へるとも身にぞ来りし
104 長尾村 白浜町 箸とるも月日と富士と君と親御恩おくりを三十三たび
105 下堀村 三芳村 日の本のその国々を安かれと六十六度登る富士山
106 広瀬村 館山市 月と日と富士の恵みを返すとて八十八度登る北口
107 南条村 館山市 富士の山百度登る成就して又先迄も年を重ねん
108 貝渚余瀬町 鴨川市 百八度成就駿河の富士の山又登らんと月日待らん

*「国仙元大神一百八番 有志之邨々明細帳」は2冊あり、村名やうたが部分的に異なっているが、ここでは栄行自筆と思われる方を採用した。
**〔 〕内は「当分先達栄行方へ祭り置」とある。

  安房国浅間宮八百番

 明治8年(1875)の9月、78歳の栄行は浅間様から「安房の中にある浅間宮に、観音札所のような番号をつけて、広く知らしめよ」というお告げをうけた。その後再び浅間様のお告げがあり、地元磯の浅間宮で応永4年(1397)の銘がはいった奉納石を見つける。翌年108度登山を果たした栄行は、磯の浅間宮を第1番とし、ここで見つけた奉納石を108番として、安房の各地の浅間宮に番号をつけて改めてまつる宣言をした。各地の浅間宮には、お伝えの中の拝みうたがそれぞれあてられ、場所によっては、番号とうたが記された石碑や木札が残されている。

88 国仙元大神-百八番
88 国仙元大神-百八番 個人蔵
89 四十八番浅間宮奉納札

89 四十八番浅間宮奉納札
館山市上真倉・浅間神社

二番浅間宮碑

二番浅間宮碑
(鴨川市川代)

百七番浅間宮碑

百七番浅間宮碑
(館山市南条)

90 お伝え

90 お伝え
個人蔵

 勝山(鋸南町)の先達が所持していたお伝えの中に、72番浅間宮として加知山が記されている。

 2.大先達・栄行真山

 安房の先達の中で、明治9年(1876)に108度という稀にみる登山回数を記録した人物がいます。長狭(ながさ)郡磯村(鴨川市)の松本吉郎兵衛がその人で、行名は栄行真山(えいぎょうしんさん)といいます。文政5年(1822)、26歳のときに富士山への信心を始めた栄行は、108度もの登山を成しとげ、また安房の中の108ヶ所に浅間宮をまつることを提唱しますが、その間に行ったさまざまな修行の様子や、信仰をとおして見聞きしたできごとを、自伝として詳しく書き残しています。

 本業は海産物を商う職業だったといい、鰹節を背負って富士山に行き、これを売り歩きながら資金に代えていたという逸話が残されていますが、自伝の中には、富士参りを兼ねて秩父巡礼をしたり、伊豆を廻ったりしながら、3~4ヵ月も修行の旅に出ていた様子が書かれています。

 このほか、浅間様や阿弥陀様の姿を見たり、病気を治すためのお告げを受けたり、手の先から煙が出たりと、不思議な経験が続々と出てくるばかりでなく、宗教者としての献身的な一面もみることができます。例えば明治10年に、コレラにかかった病人がたらい回しにされた末、死んでしまったという騒ぎがおこりますが、栄行はこれに関わった70名ほどの村人の身代わりとなって、21日間も断食行をします。また、ひどい日照りの年には、雨乞いのために断食して入滅しようとさえするのです。

 栄行は明治15年(1882)に85歳で亡くなりますが、その後大正年間頃までは栄行講として多くの講中をかかえていました。磯の浅間神社(鴨川市貝渚(かいすか))では、参道に栄行とその弟子の登山記念碑が立ち並び、現在も7月31日にお祭りが行われて、主に漁に携わる人たちが参拝に訪れています。

85 栄行真山写真

85 栄行真山写真
個人蔵

77 富士山礼拝図絵馬

77 富士山礼拝図絵馬
鴨川市貝渚・浅間神社蔵

 自伝には、文政7年(1824)、磯の浅間宮で7昼夜拝んでいたところ、浅間様が現れたことが書かれている。上の絵馬はその時の様子を描いたもの。

82 栄行真山自伝

82 栄行真山自伝
個人蔵

78 食行身禄坐像

78 食行身禄坐像
鴨川市貝渚・浅間神社蔵

 自伝によれば、天保14年(1843)6月26日に33度目の登山を達成し、下山の時に吉田御師の田辺家から御身抜と身禄の木像をもらったとある。右の御身抜はこの時のもので、「田辺鏡行」の文字がみえる。また磯の浅間神社拝殿には、やはりこの時のものと思われる食行身禄木像が一体安置されている。

80 三十三度大願成就御身抜

80 三十三度大願成就御身抜
個人蔵

83 富士山石灯籠建立勧進帳

83 富士山石灯籠建立勧進帳
北口本宮富士浅間神社蔵

 栄行は北口の宿として、他の安房の講中と同様に小猿屋を利用し、天保9年(1838)にはここの門前に石灯籠を寄進している。

81 百八度大願成就御身抜(栄行真山肖像画付)

81 百八度大願成就御身抜(栄行真山肖像画付)
個人蔵

 館山の絵師、川名楽山による肖像画(後筆)がついた、108度登山記念の御身抜

86 お伝え

86 お伝え
個人蔵

 栄行が明治12年(1879)に洲崎(館山市)の渡辺定七に与えたお伝え。定七は櫓職人だったという。

84 栄行真山髭

84 栄行真山髭
個人蔵

 明治2年に磯の浅間宮で入定しようとして断食したときに生やした髭を、明治14年に剃ったもの。

87 富士登山記念盃

87 富士登山記念盃
当館蔵

  記念碑を残した安房の主な先達

先達行名(俗名) 所属していた講
記念碑の内容 年代 記念碑の所在地
1 栄行真山(松本吉郎兵衛) 磯村(鴨川市)山包講
72度・88度・108度大願成就 元治元年(1864年)
(慶応3年と明治9年に後刻)
吉田口登山道・中の茶屋(山梨県富士吉田市)
88度大願成就 慶応4年(1868年) 磯の浅間神社(鴨川市貝渚)
墓碑 明治15年(1882年) 磯の浅間神社(鴨川市貝渚)
2 誠行重山(秩父屋与兵衛) 那古村(館山市)山三講
33度大願成就 明治5年(1872年) 吉田口登山道・中の茶屋(山梨県富士吉田市)
(33度大願成就) 明治5年(1872年) 人穴(静岡県富士宮市)
48度大願成就 明治17年(1884年) 薬王院墓地(館山市那古)
3 慶行真月(青木甚左衛門) 下瀬戸村(千倉町)山包講
33度大願成就 明治5年(1872年) 吉田口登山道・中の茶屋(山梨県富士吉田市)
4 藤行真山(塚越治郎兵衛) 江見村(鴨川市)山包講
33度・66度大願成就 明治30年(1897年)
(明治44年後刻)
吉田口登山道・中の茶屋(山梨県富士吉田市)
5 徳行真山(安西所右衛門) 真門村(鴨川市)山包講
33度大願成就 明治30年(1897年) 吉田口登山道・中の茶屋(山梨県富士吉田市)
6 善行瀧我(田中瀧右衛門) 長田村(館山市)山三講
御中道・内外八湖修行成就※ 明治17年(1884年) 富士吉田市歴史民俗博物館(山梨県富士吉田市)
33度・御中道・内外八湖修行成就 明治42年(1909年) 路傍(館山市西長田)
7 (池田瀧蔵) 西岬村波佐間(館山市)山包講
玉垣 明治22年以降 北口本宮冨士浅間神社(山梨県富士吉田市)
8 (根馬五郎兵衛) 根本(館山市伊戸)山包講
28度大願成就 明治7年(1874年) 根本センゲンサマ山麓(館山市伊戸)
9 貞行真山(川名半平) 川代(鴨川市)山水講
墓碑 大正8年(1919年) 墓地(鴨川市川代)
10 伊行寳海(鈴木伊右衛門) 洲崎(館山市)山包講
88度大願成就 昭和8年(1933年) 路傍(館山市洲崎)

※の旧所在地は小猿屋刑部家(山梨県富士吉田市上吉田)

  先達のすがた

 富士講の先達は本職の山伏ではないが、そのいでたちは、修験を基本にしているだけあって、山伏の姿にたいへん似ている。

 腹掛(はらが)けの上に白い行衣(ぎょうい)を着て、白の手甲(てっこう)・脚半(きゃはん)をつけ、金剛杖(こんごうづえ)を持つ。杖につけた小旗はマネキといい、講中の目印である。頭に巻いたさらしの布は宝冠(ほうかん)とよばれる。腰に鈴(れい)をつけ、めのうの大きな玉がついた数珠(じゅず)を首や肩からかけて、御三幅の入った札箱(ふだばこ)を背負う。数珠は、富士山に行くたびに少しずつ玉を買い足して大きくしていく。ほかに小物入れとして下箱(げばこ)を肩からかける。

 富士講の法会で本尊にする御三幅は、登拝の時にも祭壇がわりにするので、富士山には必ず持っていく。このため御三幅には、頂上の印や小御嶽様の印が登頂した数だけ押されている。行衣も同様で、何度も登山した先達のものは、押した印で真っ黒になっている。ただしかつての先達の家には、こうした行衣はほとんど残されていない。亡くなった時に先達に着せて葬るためである。苦難が刻まれた行衣は、あの世に旅立つ先達にとって最高の装束なのである。

72 先達の装束

72 先達の装束
(千倉町平磯 坂本真康氏)

74 下箱

74 下箱
個人蔵

75 数珠   76 鈴

75 数珠 個人蔵
76 鈴 当館蔵

  お焚き上げ

 富士講では、講ごとに毎月決まった日に法会を開く。この日には御本尊として、御身抜に小御嶽(こみたけ)様と食行身禄像の2幅を加えた「御三幅(ごさんぷく)」とよぶ3本の軸物をかけて、お伝えを読み上げるのだが、その際に密教の護摩焚のようなお焚き上げを行う。先達は焚き上げの炎で数珠や行衣のお清めをしたり、浅間様へのお伺いを書いた紙を燃やして、その灰の舞い上がり方で占いをするのである。残念ながら、資料の面では江戸から明治期頃の安房の富士講で、どの程度お焚き上げが行われていたかは判断できない。現在は千倉平磯の扶桑教会で行われているのみである。

お焚き上げの様子

お焚き上げの様子
(千倉町平磯の扶桑教)

68 山包丸渕講祭壇

68 山包丸渕講祭壇
(足立区立郷土博物館提供)
 江戸富士講のひとつ、山包丸渕講(足立区綾瀬)で使用された祭壇。焚き上げ用の火鉢と祭具一式が収納できる箪笥式のもので、文久年間に江戸橋の山包講から贈られたものである。

71 敬神法呪不可思奇大巻

71 敬神法呪不可思奇大巻
個人蔵

焚き上げの呪法を記した伝書。先達の「虎の巻」ともいえる。

  呪術

 先達の持物からは、何やら摩訶不思議なものが続々と出てくる。オフセギとよぶ「参」の字がぎっしり書かれた紙切れ、呪文らしき文字が並ぶ「虫歯守」、家相や相性を占う本。病気治しや占いは、先達の重要な役割のひとつであり、先達が様々な難行苦行を重ねるのは、まさにこの役割を果たすべく、法力を得るためといってよい。

 腹痛から雨乞いまで、先達が請けおう問題は幅広かったようで、村人にとって先達は、日常的におこる様々な心配事を何でも解決してくれる、身近な相談相手でもあったのである。

61 虫歯守

61 虫歯守
個人蔵

58 センブリ

58 センブリ
個人蔵

煎じて胃の薬にしたもの。

59 護符

59 護符
個人蔵

60 人穴御垢

60 人穴御垢
館山市・山荻神社蔵

63 腹帯

63 腹帯
個人蔵

これを身につけるとお産が軽くなるといわれる。
お産が近づくと、先達の家に借りに来たという。

65 九字大事

65 九字大事
個人蔵

呪術ごとに使う印相を記した先達の伝書。

66 火渡り写真

66 火渡り写真
個人蔵

こちらの写真は昭和10年代に千倉町平磯で行われた火渡りの様子。中央で火の上を歩いているのは、富士山八合目の小屋の人。

  修行

 修行の基本は富士登山だが、富士山中腹を一周する「御中道(おちゅうどう)巡り」や水行である「八湖(はっかい)修行」などがある。八湖修行とは、角行が水行をしたという湖で修行することで、富士五湖を中心とした内八湖(うちはっかい)と、琵琶湖・諏訪湖など広範囲にわたる外八湖(そとはっかい)がある。こうした先達の修行はすべて師匠からの口伝で、「お伝え」とよばれる浅間様への拝み方を記した富士講の経典を、伝書として与えられる。ほかに海水に入る潮垢離、断食行などさまざまあって、こうした修行は7日間を1単位としてくり返し行われた。

51 御中道・内八湖修行成就璽

51 御中道・内八湖修行成就璽
個人蔵

 御中道と内八湖修行の成就を記したこの布切れは、行衣に縫い付けたものだろうか、割印のような跡が見える。左下に並んだ行名はいわば先達の系図のようなもので、左端の禄行がこの持ち主。

52 お伝え(正行真鏡から根馬五郎兵衛宛)

52 お伝え(正行真鏡から根馬五郎兵衛宛)
個人蔵

 根元(館山市伊戸)の先達に対して君塚村(市原市)の先達が与えたお伝え。

57 富士講図絵馬

57 富士講図絵馬
鴨川市貝渚・浅間神社蔵

 天保14年(1843)、磯村(鴨川市)の先達栄行真山が登山33度を成し遂げたときの様子を描いた絵馬。この先達は33年後の明治9年に、最終的には108度の登山を達成している。

56 御三幅

56 御三幅
当館蔵

 先達が登山の時に所持した軸物で、紙面は登山のたびに押した小御嶽様の印で埋まっている。

54 富士山木型

54 富士山木型
個人蔵

53 御中道めぐり杖・草鞋

53 御中道めぐり杖・草鞋
個人蔵