(3)観光地の売出し
  風景への関心

 昭和になると風景への関心が全国的に高まってきていました。昭和2年に東京日々新聞社と大阪毎日新聞社の主催で選定された日本新八景は、一般投票を実施したことから候補地の間で熱狂的な郷土意識をあおりました。選定漏れのなかから二十五勝百景も選び出され、千葉県では二十五勝に利根川、百景では山岳の部で清澄山が入選し、海岸の部では鏡ケ浦が入選しています。投票されたハガキの数は、当時の日本の人口六千万人を大きく上回る九千三百万通を越え、海岸の部だけでも三千万通以上が送られてきました。鏡ケ浦の得票は百五十万通を越えて第五位となり、百景にトップ入選を果たしています。しかも後日、十万通の誤算があって第三位であったことが明らかになっていますが、この選定はハガキをどれだけ使用できるかという「金力投票」であったとの批判もありました。しかし、美しい日本の自然が再認識されることになり、風景地への旅行が促進されることになります。また、楽土社の中村弥二郎は、風景は、「観る人々の鑑賞眼次第」であり、その地なりの風趣はどこにでも溢れていると論説し、順位付けがかえって、郷土に対する自負心を高めていくことになります。

 こうして風景地に対する関心はますます強くなり、昭和9年に国の観光事業政策の新しい観光資源として国立公園が誕生すると、旅行はさらに大衆化していくことになりました。

89.日本八景選定顛末報告[部分](昭和3年)
89.日本八景選定顛末報告[部分](昭和3年)
個人蔵

 (2)震災からの復興
  観光と町づくり

 大正12年(1923)9月1日の昼時におきた激震は、房州各地にも未曾有の災害をもたらしました。このいわゆる関東大震災によって、館山、北条、那古、船形などの市街地は、建物被害だけをみてもどの町も90%以上が全半壊しています。そこで安房郡震災復興会を組織して、安房郡を挙げての協力体制による復興がおこなわれました。この復興はまさに町全体の建直しでもありました。道路・河川・海岸・港湾などの土木や建築物の復興とともに、水産業・農林業・商業など産業の復興が急がれましたが、その復興に大きな役割を果たすのが、「復興活動に努力せられつつある都人士を迎えて慰安を与ふる」という観光事業の推進でした。

 早々に土木建築の復興が進むと、翌年には夏の海水浴の勧誘のために、安房北条商業倶楽部が『房州鏡が浦案内』を発行(7月15日)し、地震被害の内容とその復興の状況を伝えて、安心して来遊ができることを宣伝します。また千葉市で千葉石版印刷所を経営する由良保三の企画で、同様に『復興の房州』が刊行(7月27日)されます。この由良保三はのちに千葉観光社を興す人物です。さらに翌14年には、観光政策の充実を期して安房郡振興会が組織され、6月にはさっそく来遊者の利便を図るとして『房州めぐり』が発行されるなど、観光復興を通じての震災からの復興が図られていったのです。

 こうした旅行客誘致を中心とした復興は、震災前を上回る設備を整えていくことになり、宿泊施設は大正14年になると、船形で旅館六軒、貸家十二軒、貸室四十四室、那古で旅館六軒、貸家一軒、貸室十三室、北条で旅館十五軒、貸家五十五軒、貸間五百二十二室、館山で旅館七軒、貸家十六軒、貸室室三十四室もの数になっています。

 一方、震災は地形の変化をももたらし、高の島が干潟で陸続きとなり歩いて渉ることが可能になったり、鏡ケ浦の海岸線が延びてさらに遠浅の海となり、海水浴場としての魅力がますことになりました。また高の島をはじめ海岸沿いなどでは、地震後に鉱泉を湧出しはじめたところもあり、温泉のない房州の宣伝材料になっています。

 そのほか、復興の気運に合わせて、北条海岸で「鏡ケ浦文化荘地計画」を打ち出す業者もでてきます。都人士に向けての別荘地分譲計画で東京郊外の田園都市づくりにも刺激されたのでしょう。当時のサラリーマンを中心とする中流階級を対象にした別荘地化とあいまって、館山・北条の観光地化が進んでいく様子がわかります。いまも北条の新塩場と呼ばれる一画にこの時代の文化住宅が多数建ち並んでいるのも、転住者向けの別荘地分譲だったのでしょう。

82.先端が壊れた館山桟橋

82.先端が壊れた館山桟橋
個人蔵

83.北条海岸汽船場通踏切付近の地割れ<絵はがき>

83.北条海岸汽船場通踏切付近の地割れ<絵はがき>
個人蔵

84.房州鏡ケ浦案内(大正13年)

84.房州鏡ケ浦案内(大正13年)
    船橋市西図書館蔵(無断転載禁止)

86.復興の房州(大正13年)

86.復興の房州(大正13年)
千葉県立中央図書館

87.震災踏査避暑地旅行案内(大正13年)

87.震災踏査避暑地旅行案内(大正13年)
個人蔵

86.鏡ヶ浦文化荘地計画(『復興の房州』大正13年)
86.鏡ヶ浦文化荘地計画(『復興の房州』大正13年)
千葉県立図書館蔵

  鉄道の開通

 大正8年に那古船形駅と安房北条駅が開設されると、全国版の鉄道旅行の案内書での扱いも増え、また東京から1、2泊の旅行地としての気楽さも宣伝されて、旅行者はますます増加していきました。安房北条駅前には北条町による町設旅客案内所が設けられ、夏のあいだは役場から係員が派遣されて、旅館貸間案内などのサービスを行う一方、貸家や貸間の斡旋、土地建物の売買斡旋を行う業者も増えていきました。また北条館や館山倶楽部・那古倶楽部・船形倶楽部などの活動写真を営業する興行館もでき、北条を中心に都会的雰囲気もつくられていきました。そして大正時代の房州の観光的雰囲気は、大正12(1923)年8月に北条町長須賀で開催された東京湾納涼博覧会でピークをむかえたといいます。

 そうした中で、旅行者の増加にともなって弊害も生まれてきていたようです。大正13年出版の『震災踏査避暑地旅行案内』では北条町を辛辣に評して、「海水浴地として好適地であるが、土地の風儀の悪いのと、物価の高いのは、一大欠点である。成金風がこの地を堕落させ、平民党には、不適当の所となった。…立派な旅館があるが、これ又成金崇拝にこりかたまっているので、金をアラク使はない人には、居心地がわるい。」と伝えています。

 こうした風評は房州の人々も感じていたようで、大正11年に楽土社を設立して観光宣伝につとめていた中村弥二郎は、月刊誌『楽土の房州』の大正12年夏季特別号で、「房州の天地を諸君に紹介し、併せて来遊者の一顧を請ひ、更に房州人にも反省を促す」という論説を発表しました。成金風を吹かせ傍若無人にふるまう都人士、散らされる金銭の多寡によって態度の変わる房州人。両者に反省を求めたものでした。それは急速に広まる旅行ブームのなかで、旅行慣れしない旅行者と、旅客を迎え慣れない行楽地の人々の葛藤でもありました。

 この頃は、大正9年に誕生した日本旅行倶楽部が、旅行道徳の向上や茶代廃止など、健全な旅行の普及を唱えて活動していた時期でした。このような旅行上の問題は、当時の全国的な傾向としてあったのでしょう。こうした流れをうけて、当時の悪弊のひとつだった旅館の茶代(チップ)を館山でいち早く廃止したのが、大正11年に営業をはじめた館山町の海岸ホテルでした。これは館山で最初のホテルですが、あまり高級感を出さず人気のあったホテルでした。

69.安房北条駅(震災前の駅舎)
69.安房北条駅(震災前の駅舎)
当館蔵
69.湊川通過の下り列車<絵はがき>
69.湊川通過の下り列車<絵はがき>
当館蔵
70.駅前旅客案内所<絵はがき>
70.駅前旅客案内所<絵はがき>
個人蔵
73.北条線時刻表(大正15年)

73.北条線時刻表(大正15年)
当館蔵

76.東京付近パノラマ地図「北条線」(大正11年)
76.東京付近パノラマ地図「北条線」(大正11年)
個人蔵
79.楽土社発行「鳥瞰式遊覧房州案内図」(大正12年)
79.楽土社発行「鳥瞰式遊覧房州案内図」(大正12年)
個人蔵
80.夏涼冬暖之楽土房州案内(昭和3年)

80.夏涼冬暖之楽土房州案内(昭和3年)
当館蔵
安房振興会発行の『房州めぐり』を改題補訂して楽土社が出版している。

81.楽土之房州夏季号「夏の房州」(大正13年)
81.楽土之房州夏季号「夏の房州」(大正13年)
当館蔵
69.東京湾納涼大博覧会会場<絵はがき>
69.東京湾納涼大博覧会会場<絵はがき>
当館蔵
上:77.海岸ホテル栞(昭和16年) 下:78.新井の海岸ホテル
上:77.海岸ホテル栞(昭和16年)
下:78.新井の海岸ホテル
個人蔵

  町をあげての行楽地づくり

 こうして旅行者を迎える意識も地域全体で変わっていったのでしょう、町を挙げての宣伝や設備投資も積極的に行われるようになります。北条町では大正天皇の即位記念として、大正3年に脱衣所や沐浴所(シャワー)・無料休憩所などの海水浴場としての施設を初めて行ったとされ、看守人(監視人)の配置などもするようになりました。また、同じ記念事業として、町の有志による私立北条文庫が設立されて図書館業務を始めると、海岸休憩所での新聞雑誌の無料閲覧サービスも行うようになりました。

 館山町では、北下台の館山公園・柏崎の豊津公園が整備され、北条・那古・船形の各町でも公園などの周辺整備が行われていきます。そして家族旅行を勧め、夏季旅行者に対しても海水浴だけでなく、高の島などでの磯遊びや舟遊びなどの楽しみ方も宣伝するようになります。

 旅行記を数多く手掛けた作家の田山花袋は、大正7年の『一日の行楽』で「物価は安く魚は多いが、どうも世離れた気分に乏しい。それというのも矢張都会の生半可な影響を海を越えて受けているからであろうと思うふ。」と評しています。これは都会的になっていった湘南方面を避けて、房総を新たな保養地として選んだ人々が多く来訪していたことを反映しているのですが、この頃になると旅行客が押し寄せるなか、北条周辺の雰囲気も変わっていったことをうかがわせます。

59.北条海岸無料休憩所<絵はがき>
59.北条海岸無料休憩所<絵はがき>
個人蔵
64.私立北条文庫(『四訂安房漫遊案内』より)

64.私立北条文庫(『四訂安房漫遊案内』より)
個人蔵

59.館山公園(北下台)の遠望<絵はがき>
59.館山公園(北下台)の遠望<絵はがき>
個人蔵
69.高の島での島遊び
69.高の島での島遊び
当館蔵
59.鏡ヶ浦捕鯨引揚場の見物<絵はがき>
59.鏡ヶ浦捕鯨引揚場の見物<絵はがき>
個人蔵

【4】観光都市館山の成立 
 (1)鉄道の開通
  旅客を迎える人々

 房総半島は海運が発達していたこともあって、鉄道建設が県北に比べて大幅におくれていました。明治30年代には県北の鉄道網はほぼ完成していたのですが、内房の木更津駅開設は大正元年、外房の勝浦駅開設が翌2年のことで、北条まで延びてくるのはようやく大正8年(1919)になってのことでした。

 とはいえ、木更津や勝浦まで鉄道が延びてくると、それ以南の地域には乗合馬車や乗合自動車などの路線網がつくられていきました。交通手段が多様化し、また短期休暇を過ごす人々や海水浴客の増加にもあわせるように、大正時代にはいると房州までの交通や房州の見所、遊び、土産などを掲載した案内書や案内地図を発行する地元書店もふえていきました。案内書には旅館や書店の広告はもちろん、写真館・料理店のほか薬局・病院の広告が多数をしめているのが注目されます。また書店や菓子店を中心に土産物販売も盛んになり、絵はがきが大量につくられ、梨・枇杷酒・枇杷羊羹・鯨缶詰などが宣伝されるようになります。北条町長須賀の秋月堂では、北条に来遊してくる東久世伯爵・堀田伯爵・万里小路伯爵・杉浦男爵・佐々木信綱などの肝煎りで、鏡浦八景珍菓子を企画販売していました。また明治30年代に北条海岸で房州土産商会を経営した音尾松蔵は、大正時代初期にはこれを球突(ビリヤード)などの遊戯場を持つ安房倶楽部に発展させるなど、遊興性もでてきました。こうして行楽地としての意識が高まると、行楽のための基盤施設も用意されていくことになります。

57.房州鏡ケ浦全景絵図(大正4年)
57.房州鏡ケ浦全景絵図(大正4年)
館山市図書館蔵
58.東京湾汽船の桜丸(大正11年から房州航路に就航)
58.東京湾汽船の桜丸(大正11年から房州航路に就航)
個人蔵
42.北条桟橋と汽船(大正頃)
42.北条桟橋と汽船(大正頃)
個人蔵
60.館山海岸の桟橋会社
60.館山海岸の桟橋会社
個人蔵
54.『増訂六版安房漫遊案内』広告(大正7年)

54.『増訂六版安房漫遊案内』広告(大正7年)
個人蔵

62.房州見物(大正6年)・安房の名所(大正7年)

62.房州見物(大正6年)・安房の名所(大正7年)
船橋市西図書館蔵(無断転載禁止)

59.絵はがき各種

59.絵はがき各種
個人蔵

63.実測安房郡図・房州案内(大正8年~昭和3年)
63.実測安房郡図・房州案内(大正8年~昭和3年)
当館蔵
 64.『四訂安房漫遊案内』広告(大正3年)

64.『四訂安房漫遊案内』広告(大正3年)
個人蔵

65.房州人形(漁師姿)

65.房州人形(漁師姿)
個人蔵

66.絵皿「房州臥龍松」

66.絵皿「房州臥龍松」
当館蔵

65.団扇絵版画「房州海水浴場」

65. 団扇絵版画「房州海水浴場」
個人蔵

  宿泊施設

 こうして明治30年代に、中流階級を中心とした避暑客と学生たちが海水浴に訪れるようになると、名所案内を中心に房州の旅行案内書の出版も多くなり、また宿泊施設も増えていきました。鏡ケ浦の街場にあった宿泊施設は、明治34年の資料によれば、旅人宿が船形に1軒、那古に3軒、北条に9軒、館山に5軒で、下宿が北条に1軒、館山に2軒でした。

 しかし、鴨川の書店礒谷武一郎が依頼して鷲見剛亮に書かせた『房州みやげ』では、明治45年には、もう増える旅行者に対応が追いつかないのか、「房州に此れだけの旅館中で、身分ある人の宿泊に堪ゆるものと云ったら、御気の毒ながら晨(よあけ)の星だ、二三軒もあろうかしらん。素より取扱ひや設備の悪ひ位の事は辛抱も我慢もデキルとして、十中の八九まで待合か魔窟か、マルで正体の判らぬ化物屋敷然たるには、驚き入るの外はない。是れは当局の取締が緩慢である為めか、将た営業者の横着から出たのか、但しは御客の方の腐敗から生じたのか、其等の詮索は別として、兎に角甚だ憂うべき現象である。」と言いたい放題の状況になっていたようです。

51.『日本博覧図千葉県』「山月楼山田屋旅館図」(明治29年)

51.『日本博覧図千葉県』「山月楼山田屋旅館図」(明治29年)
当館蔵

52.山田屋旅館宿帳(昭和11年)

52.山田屋旅館宿帳(昭和11年)
個人蔵

53.山田屋旅館料理広告(明治)

53.山田屋旅館料理広告(明治)
個人蔵

53.山田屋旅館鬼瓦

53.山田屋旅館鬼瓦
個人蔵

47.北条・木村屋(明治末から大正前半)
47.北条・木村屋(明治末から大正前半)
個人蔵
54.新宿・吉野庵(『増訂六版安房漫遊案内』大正7年)
54.新宿・吉野庵(『増訂六版安房漫遊案内』大正7年)
個人蔵
47.館山・松岡楼(明治末から大正前半)
47.館山・松岡楼(明治末から大正前半)
個人蔵

いづれも館山を代表する旅館でした。

 (3)海水浴客
  海水浴と学生客

 また『房州避暑案内』には「鏡浦湾内一波起キズ、海水極メテ清絶ナルヲ以テ、御婦人方ノ御遊浴ニ適シ」とあり、金乕亭の汐湯とほぼ同じ時期に、海岸での海水浴も始まっていた様子がわかります。波静かで女性向きの好浴場であるとの宣伝のもと、明治34年(1901)には一夏に数千人の海水浴客が訪れるようになり、旅館もこの海水浴客のために新築するものがでてきています。このように明治30年代になると海水浴が盛んになってきますが、同じ時期に、学生たちによる教練としての水泳が行われるようになってきたことが、知名度をあげていきました。

 明治31年(1898)に第一高等学校水泳部が三浦半島から北条町八幡の海岸へ水練場を移してきたのが早いもので、三浦に比べて水温が高いことがその条件にかなったといいます。明治36年には東京高等師範学校と開校したばかりの安房中学校が参加して競泳大会が行われ、39年にはさらに付属中学校・府立第一中学校・開成中学校が加わって、6校500名による第一回関東連合遊泳大会が行われるまでになります。大正4年頃になると、鏡ケ浦に水泳場を設置する学校も十数校に増え、大会参加の学校団体も二十にのぼったといい、ぞくぞくと学生たちが訪れるようになっていきました。一高と高等師範は八幡海岸に寄宿舎も設置していて、鏡ケ浦の夏は学生たちであふれるようになっていったのです。

 明治39年(1906)の『風俗画報』の論説では暑中休暇を有意義に過ごすことをすすめていますが、一方、同じ年の『千葉教育雑誌』で海水浴客の風俗が地元青少年に与える弊害を説く教育者も現れ、海水浴が大きな話題になっていることがわかります。また跡見女学校をはじめ秋に修学旅行に訪れる学校も現れるようになってきます。

47.館山市海水浴場<絵はがき>
47.館山市海水浴場<絵はがき>
個人蔵
47.関東水泳大会壮観<絵はがき>
47.関東水泳大会壮観<絵はがき>
個人蔵
47.東京高等商業学校水泳場<絵はがき>
47.東京高等商業学校水泳場<絵はがき>
個人蔵
48.館山桟橋に着いた青山学院中等部水泳部(昭和2年)<絵はがき>
48.館山桟橋に着いた青山学院中等部水泳部(昭和2年)<絵はがき>
個人蔵
47.跡見女学校修学旅行絵はがき(大正8年)
47.跡見女学校修学旅行絵はがき(大正8年)
個人蔵
47.北条海岸地曳網を見る学生たち<絵はがき>
47.北条海岸地曳網を見る学生たち<絵はがき>
個人蔵

  新しい来訪者

 また、避暑と称して滞在型の近代的レジャーとして訪れる人々も現れてきます。明治22年の夏に来遊した東京築地の其文という人物は、東京に流行する腸チフスの脅威を避け、館山町柏崎の知人をたよって18日間の滞在をしています。彼が乗り込んだ通快丸には、安房地方の乗船者が多かったとしながらも、自分と同様の避暑客も数人乗船していたことを記しています。滞在中には祭礼や鯨の解体を見物し、寺社の参詣、名所めぐり、釣り、磯遊び、風俗の見聞などを楽しみ、その後の館山行楽の基本を体験していますが、館山町の北下台にあった汐湯で海水浴をしたことも記しています。

 これは明治19年(1886)に療養のために転住してきた山口県出の元軍人、金近虎之丞の屋敷に設けられていた施設です。海水と真水に浸る浴室として湯銭をとって開放していたもののようで、ここの海水の湯に浸ることを海水浴と称しているのです。金乕亭と呼ばれ、明治24年に避暑に訪れた元軍人で俳人の前田伯志も金乕亭で海水浴をしていますが、やがて彼も金乕亭近くに永住するようになります。海岸のきれいな空気に加え気候が温暖であることから結核に代表される呼吸器系の疾患をもつ人々の療養地にもなっていくのです。

 このように避暑避寒や病後保養のための転地療養の適地として鏡ケ浦の海岸が注目され選ばれるようになってきたのは、明治20年頃からだといいます。

 一方こうした情勢をうけて、避暑避寒に来房した客を迎えるためのサービスもはじまります。旅人宿でも旅行客を宿泊させるだけでなく、行楽するための名所を紹介する案内書をつくりはじめるようになりました。北条の旅館木村屋では、はやくも明治25年(1892)『房州避暑案内』を発行し、房州の各所紹介に加え、安房を一回りするための路程と宿の紹介までもしています。そこには「暑中御来遊」が「私共ノ営業ハ申迄ナク、多少ノ土地ノ潤沢トモ相成」るという、土地の発展と結びついた考え方がめばえていました。

43.堀田正倫伯爵北条海岸別荘(大正8年)
43.堀田正倫伯爵北条海岸別荘(大正8年)
個人蔵
45.小林清親「日本名勝図会 房州鏡ヶ浦」

45.小林清親「日本名勝図会 房州鏡ヶ浦」
(明治30年)
当館蔵

46.房州避暑案内(明治25年) 「鏡浦湾頭木村楼之図」
46.房州避暑案内(明治25年) 「鏡浦湾頭木村楼之図」 国立国会図書館蔵

  別荘をもつ人々

 そしてこの時期は、外国人や明治政府の高官・華族・実業家・文化人などを中心に、西洋流の衛生や健康といった意識が生まれてきた頃であり、日本古来の養生の意識とあいまって、上流社会の人々のあいだでは、保養という余暇を過ごす風がうまれてきていました。それを楽しむための保養地(避暑地・避寒地)ができ、別荘所有もブームになっていくのです。

 明治18年(1885)に日本で初めての海水浴場が神奈川県の大磯にできますが、そもそも海水浴は、医師の松本順によって提唱推進されているように、病気治療と健康増進の効用が注目されたものでした。そのため大磯は上流階級の人々の別荘地となるのですが、これをかわきりに鎌倉や軽井沢・日光・神戸六甲・長崎雲仙など、全国に別荘地が広がっていきました。

 明治20年代になると、房州北条にも別荘を所有する人々があらわれてきます。明治22年(1889)出版の「房州鏡ケ浦略図」という版画には、北条海岸に岩谷氏別荘・高崎男別荘という文字がみえます。岩谷氏とは日本の紙巻き煙草製造の創始者で、「岩谷天狗」の銘柄で名を馳せた実業家岩谷松平であり、高崎男は男爵の高崎氏のことで、東京府知事の高崎五六か宮中顧問官で御歌所長の高崎正風のどちらかでしょう。この翌年には伯爵の万里小路通房も北条に移住してきます。以後、北条海岸を中心に鏡ケ浦の浜辺には別荘が増え、大正から昭和初期頃には枢密顧問官の都筑馨六・外交官の芳沢謙吉・政治家の大石正巳・陸軍大将多田駿・婦人運動家の奥むめをなどが知られ、このころには中流階級にも別荘所有者が広がっていきます。

39.房州鏡浦略図[部分](明治22年)
当館蔵
43.万里小路通房伯爵北条海岸別荘(明治38年、39年頃)
43.万里小路通房伯爵北条海岸別荘(明治38年、39年頃)
個人蔵

 (2)避暑・別荘地・行楽のはじまり 

 安房地方への来訪者の変化は、交通の近代化とともに現れました。その最初の大きな変化は、明治11年(1878)に東京と房州の間に汽船が就航したことでした。それまでも押送舟などをつかっての旅客輸送の往来はありましたが、汽船の就航によって大量迅速輸送が可能になったのです。創始は館山町の辰野安五郎が創業した汽船会社安全社の通快丸で、東京霊岸島と館山を五時間でむすびました。汽船の就航は水産業の振興が目的でしたが、東京からの遊客も多く運んでくることになりました。やや遅れて船形村の正木貞蔵も汽船営業に乗り出し、鏡ケ浦には船形・那古・北条・館山の四か所に汽船着場がつくられて、東京房州間の汽船航路は活性化していきます。

41.乗船券(明治35年)

41.乗船券(明治35年)
個人蔵

40.東京湾汽船発着所図(『風俗画報』236号 明治34年)
40.東京湾汽船発着所図(『風俗画報』236号 明治34年)
個人蔵