(2)洲崎神社の広がり

 鏡ヶ浦に祀られている神仏のなかで特異な信仰の広がりをみせたのが、洲崎神社でした。航海神としての信仰が、中世に東京湾内にひろがったのです。『永享記』という記録には、室町時代の末に江戸城を築いた太田道潅(どうかん)が江戸神田に安房の洲崎大明神を祀ったことや、神奈川(横浜市)や品川にも洲崎明神が祀られていることを伝えています。いずれも中世に繁栄した湊町です。

 そのほかにも東京湾西岸で祀られていた場所があり、また三浦半島にも洲崎神社と地理的に対峙するゆかりの神が祀られています。

中世東京湾の湊と洲崎ゆかりの神社

中世東京湾の湊と洲崎ゆかりの神社

  洲崎大明神

 東京湾の出入口の岬に鎮座する洲崎神社も、漁師にとっての漁業神、船乗りにとっての航海神としての信仰があります。祭神は天比理乃咩命(アメノヒリノヒメノミコト)といい、房総開拓神話に登場する忌部(いんべ)一族の祖神で安房神社に祀られている天太玉命(アメノフトダマノミコト)の后神(きさきがみ)にあたり、平安時代初期に朝廷から正三位を与えられた古い神です。 洲崎神社に納められている「五尺のオカモジ」と呼ばれる女性の髪は、この祭神のものと伝えられています。これが御神体とされるのは、船の守護神として船中に祀られる船霊(ふなだま)のなかに、女性の髪を入れる風習と通じるものがあるとされています。

 洲崎の沖合は内湾と外洋の分岐点で、そこには「汐のみち」とよばれる海上交通の危険箇所がありました。そのため沖を通る船は海上安全を祈願して篤く信仰しました。源頼朝が伊豆で挙兵して敗れ、海路安房へ逃れたときにも、洲崎明神に祈願したことは『吾妻鏡』などでよく知られています。

 また、洲崎神社の由緒書には役行者(えんのぎょうじゃ)の伝説が語られ、洲崎神社の社僧を勤めた養老寺には石像が祀られていますが、鏡ヶ浦の対岸大房岬にあった大武佐不動でも、大島に流罪になった役行者が海難救済のために不動尊を祀った由緒を伝えています。

74.洲崎神社の御神影

74.洲崎神社の御神影
館山市洲崎・洲崎神社蔵

75.房州安房郡洲崎大明神縁起 万治2年(1659)

75.房州安房郡洲崎大明神縁起 万治2年(1659)
館山市洲崎・洲崎神社蔵

78.『吾妻鏡』(治承4年9月5日条) 国立公文書館蔵

78.『吾妻鏡』(治承4年9月5日条) 国立公文書館蔵

79.洲崎神社 昭和初期

79.洲崎神社 昭和初期
個人蔵

  鶴谷八幡宮

 かつて鏡ヶ浦に面して鎮座していた鶴谷八幡宮は、平安時代の国司が国府に祀った安房国の総社が府中八幡となり、鎌倉時代に海辺だった現在地に移転したと伝えられている神社です。鎌倉の鶴岡八幡宮を模したともいわれますが、戦国時代には里見氏による安房支配の一面を担う政治的な役割がありました。安房地方最大の祭礼が行われるのも、政治的な役割の歴史があったからでしょう。

73.鶴谷八幡宮 明治末~大正前半

73.鶴谷八幡宮 明治末~大正前半
個人蔵

  鉈切大明神

 洞窟と奇岩で知られる鉈切(なたぎり)大明神は、現在浜田の船越鉈切神社と見物の海南刀切(なたぎり)神社に分かれていますが、もとは海神である豊玉姫命(とよたまひめのみこと)を祀るひとつの神社で、上之宮と下之宮だったといいます。

 この神は海上安全守護の神として船乗りの信仰をうけ、船形や富浦など鏡ヶ浦周辺の漁師が篤く信仰していたそうです。社宝として竜宮から納められたという伝承がある独木舟(まるきぶね)や、元禄10年に紀州栖原(すはら)村の鯛網漁師たちが奉納した鰐口などが伝えられています。独木舟は江戸時代初期には20艘以上あったといい、海上安全を祈願するために奉納されたとも考えられています。

70.船越鉈切神社 明治末~大正前半

70.船越鉈切神社 明治末~大正前半
個人蔵

71.紀州漁民奉納の鰐口 元禄10年(1697)

71.紀州漁民奉納の鰐口 元禄10年(1697)
館山市浜田・船越鉈切神社蔵

72.独木舟

72.独木舟
館山市浜田・船越鉈切神社蔵

  那古観音

 那古寺の本尊千手観音立像も平安時代の作です。由緒書では那古観音は、竜神が隠していた観音の霊木で本尊を彫ったという由緒や、船で往来する人々の海難救済の功徳(くどく)を伝えていて、海と関わる信仰があったことが窺えます。観音堂横の岩屋堂には海上安全守護の岩船地蔵や、那古の船仲間たちが廻船の海上安全を願って奉納した八大龍王の碑もあります。また鎌倉の杉本寺から始まる坂東三十三観音霊場の最後の巡礼地として広い信仰を集めています。かつて巡礼者はここで巡礼を終えると、那古の海岸から船で東京湾を渡って帰りました。観音菩薩の補陀落(ふだらく)浄土へ向かうイメージがあったのでしょうか。大勢の巡礼者が訪れたことから古くから門前町がつくられました。

67.補陀洛山那古寺本尊千手観世音縁起

67.補陀洛山那古寺本尊千手観世音縁起 享保10年(1725)
館山市那古・那古寺蔵

68.札所結願額 正徳3年(1713)

68.札所結願額 正徳3年(1713)
館山市那古・那古寺蔵

69.坂東三十三番安房国補陀洛山那古寺境内図(那古寺の門前の様子) 明治後期
69.坂東三十三番安房国補陀洛山那古寺境内図(那古寺の門前の様子) 明治後期
当館蔵

  崖観音

 船形にある大福寺観音堂は通称崖観音と呼ばれ、船形山の中腹の崖に張り出すようにつくられています。本尊は崖面から浮き彫りにした十一面観音立像で、平安時代中期の作と推定されています。海上からよく見える位置にあり、海上安全と豊漁を祈願する人々の信仰を集めました。また裏山の船形山は船を伏せた形にみえることから船形の地名になったという伝承もあり、海で生活をする人々のシンボルのような場所です。

崖観音(磨崖十一面観世音菩薩)

崖観音(磨崖十一面観世音菩薩)

66.鏡ヶ浦図絵馬 明治9年(1876年) 渡辺雲洋作
66.鏡ヶ浦図絵馬 明治9年(1876年) 渡辺雲洋作 館山市那古・那古寺蔵

 那古観音の境内を中心に鏡ヶ浦の神仏が描かれている。那古寺の左に船形の崖観音、大房岬の大武佐不動があり、下部には右から湊川・鶴谷八幡宮・城山・高の島の鷹之島弁天・洲崎の洲崎神社がみえる。

【5】鏡ヶ浦をめぐる信仰
 (1)鏡ヶ浦の神仏

 鏡ヶ浦の周辺には、古くから信仰されてきたさまざまな神仏が祀られています。北から大武佐(たいぶさ)不動・崖観音・那古観音・国司大明神・鉈切(なたぎり)大明神・洲崎大明神などがよく知られている神仏です。海に面することで、鏡ヶ浦周辺の海域で漁をして生活する人々や、磯根の海産物の恵みで生活をする人々、交易などで海上を行き来する生活をおくる人々、一時的に海上を交通路にする旅人など、海にかかわる人々の気持ちがその信仰に反映されています。また、水の神である弁天様や海の神である金毘羅様も漁業神として海辺の各所に祀られています。

 古い神仏の多くは大漁祈願や海上安全を祈る神仏で、漁師を中心に信仰されてきました。そうした様子は各社寺の由緒書や奉納物などから窺うことができます。

  道路整備

 起伏の多い丘陵地の房総半島では、江戸時代までの陸上交通はいくつもの峠道や難所があり、江戸とを結ぶ街道の整備はすすみませんでした。明治10年代になって峠道の切り下げや拡幅、隧道の開鑿が地元町村の努力で行なわれるようになり、多少利便性の向上がはかられるようになりました。しかし荷物の搬送は人力や牛馬にたよるもので、大量迅速輸送の方法はなく、遠距離輸送の役割は長く船便や鉄道が担っていました。

 戦後になると、急速な経済発展のなかで、自動車の普及と道路の舗装や自動車専用道路の整備がなされ、貨物輸送は鉄道から道路に移っていきました。館山でも高度成長の時期から市街地やその周辺で道路の新設や拡張整備がすすめられ、鏡ヶ浦周辺では、昭和36年に船形港から館山港までの海岸道路がつくられ、昭和41年には洲崎から和田までの観光道路としてフラワーラインが開通しています。しかし東京周辺とをむすぶ道路の整備は進まず、流通システムの変革と地場産業の変化にともなって、物資輸送自体も次第に縮小していきました。

 東京周辺とを結ぶ道路整備はすすまないものの、市街地周辺の道路整備はすすんでいき、平成5年には富浦から北条までの館山バイパスが供用を開始します。自動車は日常的な足となって人々の行動範囲を広げていき、商業施設も郊外にできるようになると、繁華街は拡散していきました。

65.フラワーラインの開通式

65.フラワーラインの開通式
当館蔵

戦後の新道
戦後の新道

  鉄道の開通

 千葉県での鉄道開通は市川から佐倉の間が最初で、明治27年(1894)のことでした。その後県北では成田鉄道や銚子までの総武鉄道、大原までの房総鉄道などが、明治30年代までに急速に整備されていきました。しかし丘陵が多い内房では鉄道敷設も難工事が予想され、海運の発達も手伝って鉄道の誘致熱はあがらず、館山までの建設が具体化したのはようやく明治45年(1912)になってからでした。大正7年に那古船形駅が開業し、安房北条駅(現館山駅)が開業したのは大正8年(1919)のことでした。

安全で確実にしかも4時間という短時間で東京との間を結んだ鉄道は、それまで、汽船にたよっていた旅客輸送の役割を完全に奪うことになりました。物資輸送も次第に減少していくようになり、その結果繁華街も移転することになりました。汽船場になったことで三芳・丸山など近隣からの物資集散地として賑わった那古はもとの門前町にもどり、船形港も漁港となり、町の賑わいは那古船形駅前に新しく形成された商店街に移っていきました。また安房の中心地だった館山・北条でも、汽船場を中心として成立した新井や長須賀の繁華街は急速に衰え、安房北条駅を中心として成立した商店街にその賑わいが移っていきました。

 しかし船便も夏季だけは別で、多くの海水浴客を乗せた汽船が季節運航し、昭和46年に旅客船橘丸の運航が打ち切られるまで、ほそぼそと続いていました。

62.湊川鉄橋建設工事 大正時代

62.湊川鉄橋建設工事 大正時代
個人蔵

63.安房北条駅構内 大正末~昭和初期

63.安房北条駅構内 大正末~昭和初期
当館蔵

64.東京付近パノラマ地図(北条線部分)

64.東京付近パノラマ地図(北条線部分) 大正11年
当館蔵

  汽船の時代

明治になると、海上輸送にも大きな変化が現われてきました。汽船の就航によって、輸送時間の短縮と物資の大量輸送がはかられたのです。その始まりは、館山町の運送業者辰野安五郎が、東京日本橋の魚問屋の後ろ盾で安全社をおこし、明治11年(1878)に東京と館山の間に就航させた汽船痛快丸でした。その後いくつかの汽船会社ができ、明治22年には東京湾汽船会社(のちの東海汽船)が設立されました。汽船の直行便は5時間で東京と館山を結びました。

 東京という大消費地へ向けての、水産物をはじめとした産物の運搬を中心にしながらも、同じ頃に鏡ヶ浦が保養地として脚光を浴びはじめ、やがて夏季の海水浴がブームのように広がりだすと、季節的に乗客が急増するようにもなりました。そして汽船を主要な交通手段として、明治から大正時代にかけては、鏡ヶ浦周辺の観光地化がはかられるようにもなっていきました。

 その結果、江戸時代以来、江戸への生魚輸送の基地として魚が集まっていた船形や、那古寺の門前町として賑わった那古、里見氏の時代以来安房の中心地として栄えてきた北条・館山などが汽船場として、東京への産物輸送と東京からの来訪客で、それぞれの町はさらに賑わいをみせるようになりました。

57.沖の船に艀で荷を運ぶ 大正12年

57.沖の船に艀で荷を運ぶ 大正12年
当館蔵

58.館山湾に居並ぶ汽船 大正時代

58.館山湾に居並ぶ汽船 大正時代
当館蔵

59.北条桟橋に降り立つ人々 大正時代前半

59.北条桟橋に降り立つ人々 大正時代前半
個人蔵

60.館山桟橋の賑わい 昭和初期

60.館山桟橋の賑わい 昭和初期
個人蔵

61.東京-館山間に運航した橘丸 昭和10年

61.東京-館山間に運航した橘丸 昭和10年
個人蔵