(4)船から鉄道、そして道路整備へ
  和船の時代

 鏡ヶ浦から出る主な船は、米や薪炭などの物資を江戸へ運ぶ五下船(ごしたぶね)と、鮮魚を江戸まで高速で輸送する押送船(おしょくりぶね)でした。享保6年(1721)以降、江戸へ入る船は浦賀の番所で検査を受けることが義務付けられましたが、魚の鮮度を保つために時間を争う押送船は、浦賀を素通りする特別の許可を受けていました。これには客を乗せてはいけないことになっていたのですが、陸路では江戸まで3泊4日もかかることから、櫓漕ぎで一昼夜、順風で帆走すると10時間で江戸に着く押送船には、無許可の客が乗り込んでいました。乗客をめぐるトラブルも多発するほどで、船形では安政6年(1859)に押送船営業者による乗客の運送規約が定められています。

 天保年間になると、館山楠見浦の有田屋が千石船三隻を所有して廻船業に乗り出しました。館山藩をはじめ越後新発田(しばた)藩や上総一宮藩の薪炭御用、奥州相馬藩の御用米や幕府御城米(ごじょうまい)の運送などを勧めています。有田屋は銚子沖での海難を経験しましたが、海上航行には大風雨による事故の危険が常にともなっていました。

52.押送船(模型)

52.押送船(模型)
千葉県立安房博物館蔵

54.有田屋の幕府御城米御用の船印

54.有田屋の幕府御城米御用の船印
個人蔵

56.船形村押送船議定連印帳 安政6年(1859)
56.船形村押送船議定連印帳 安政6年(1859)
個人蔵

 (3)船形の湊

 天正20年(1592)の文書に「舟方之津」と表現される湊が船形にありました。元禄地震前には入江状になっていたと思われる、川名のどんどん川の河口のことと思われます。八幡祭礼に際して、里見家が船形の津から祭礼用の船を召し出していました。

 江戸時代になると、小字磯崎が「磯崎湊」と呼ばれていました。現在の船形港の西端にあたる場所です。この西端に突き出した磯がよい波除けになっていました。

 船形は漁村として発達しましたが、江戸への生魚輸送の基地として魚が集まり、そのために多くの押送船が営業していました。江戸時代後期になると船の出入りが多くなり、安政2年(1855)になると磯崎に石積みの堤防が築かれました。この堤防は大正の地震で陸に上がり、いまも昔の姿をとどめています。

 また、湊ではありませんが、那古寺の門前町が発達した那古の浜から、船が出ることもよくありました。諸国巡礼などのために三浦半島へ航海する人々の利用が多かったようです。

50.里見家朱印状写 天正20年(1592)

50.里見家朱印状写 天正20年(1592)
館山市八幡・鶴谷八幡宮蔵

安政年間に築かれた防波堤

安政年間に築かれた防波堤

51.磯崎湊普請関係文書

51.磯崎湊普請関係文書
個人蔵

 (2)高の島の湊

 戦国時代末の永禄から天正頃の資料に「楠見下」や「新井ノ島」と表現される湊がありました。江戸時代の資料には「高之島湊」と記されます。高の島の東南にあたる海域で、柏崎から新井にかけての海岸から数百メートル沖合をさしています。水深が深いうえ、沖の島と高の島が房州特有の強い西風を防ぐことから、江戸時代には諸国の廻船が風避けや日和り待ちに利用していました。大正頃までは、ここに多くの船が輻湊する姿がみられたのです。

 湊としての歴史を記録でさかのぼることには限界がありますが、伝承を利用すると、すでに平安時代には湊として利用された形跡が浮かび上がります。高の島にもっとも近い柏崎にある国司神社の伝承によると、嘉保3年(1096)に国司として安房国に赴任していた源親元(ちかもと)が、任を終えて帰京するとき、柏崎から船に乗ったこと伝えています。平安時代には湊としての機能があったことが伝承のなかに読み取れます。

 その後、戦国時代には館山城の水軍の湊として活用されたと思われますが、戦乱が終わると、里見義頼がこの湊を安房国内の流通拠点として整備をはじめ、次代の義康が城下町を建設することで、高の島湊は安房国の経済をささえる湊としての役割をもつことになりました。

 しかし里見氏の滅亡後は、米や薪炭・魚などの物資の江戸への積み出しと、避難港としての役割が主体になりました。仙台藩では廻船の世話や荷物の管理をする廻米役所を館山上町に設け、また盛岡藩でも柏崎の南部屋を穀宿として、廻船の管理にあたらせるなど、東北諸藩の廻船が高の島湊を利用していた様子がわかります。

 湊の設備としては、元禄の地震以前には、柏崎から高の島に向けて船掛りの土手があったと伝えられています。地震で崩壊後は再建されることがありませんでしたが、高の島の南方に砂が吹き溜って浅瀬になり、船の掛り場が島から東方へ離れるようになって危険が増したことから、文政11年(1828)に土手の再建計画がもちあがりました。東京湾へ入る廻船からの賛助金の微収や、高の島湊を利用する近隣の村々や船持ちからの寄付金、館山藩からの御用金の借用など、資金調達も進められましたが、実現はしなかったようです。しかし天保2年(1831)に刊行された房州図には、高の島湊に高の島へむけての土手が描かれています。工事が進められていたのでしょうか。

45.鏡ヶ浦図絵馬 大正4年(1915)
45.鏡ヶ浦図絵馬 大正4年(1915)
館山市下真倉・日枝神社蔵
46.国司神社の祭神 源親元像

46.国司神社の祭神 源親元像
個人蔵

47.房州図(部分) 天保2年(1831)

47.房州図(部分) 天保2年(1831)
当館蔵

48.房州高之島湊普請助力帳 天保2年

48.房州高之島湊普請助力帳 天保2年
当館蔵

 (1)平久里川と湊

 日本書紀に「淡水門」という記述があります。「あわのみなと」と読み、平久里川の河口をさすと推定されています。ここが古代の湊として利用されたわけで、北条地区の湊の地名はこの名残だろうといわれています。おそらく古代には、河口が深い入江状の地形だったことでしょう。

 この湊は古代において、安房の豪族や南関東の豪族が、天皇に服属する儀式を行った場所と考えられています。ここは古代の大和朝廷が、伊勢・畿内方面から関東へ進出する際の、最初の停泊地になる海上交通上の重要な湊であり、また関東計略のための前進基地にもなり、最前線の香取・鹿島にとっては後背基地にもなる軍事的にも重要な湊でした。

 古代では、交通・軍事・政治的な重要性をもつ湊だったわけで、それは安房が半島の先端に位置しているからこそ果たしえた役割だといえます。その後安房国府が河口からすぐ近くの川沿いに設置されたのも、この湊の役割があったからです。そして平久里川が湊からの水路の役割をはたしました。

 この湊は中世になっても使われたようです。先年、国府跡と国分寺跡の中間に位置する滝川沿いの萱野遺跡から、北条得宗家にゆかりの鎌倉時代後期の瓦が出土しました。瓦には北条氏の三ツ鱗紋があり、花菱の模様などと組み合わせてありますが、これは鎌倉の鶴岡八幡宮や極楽寺・東長寺・建長寺など、北条得宗家と関係の深い寺院に限定して出土する瓦です。得宗家と深い関係をもつ寺院が近くにあったのです。

 北条氏は全国の海上交通路をおさえるように所領をもち、そこでは律宗の教団が活動していました。萱野遺跡の周辺にも北条氏の所領が存在し、滝川を水路として利用していたと考えられます。

 また、萱野遺跡から東へ二百メートル離れた滝川という場所には、鎌倉武将の朝比奈三郎義秀が投げたという伝説がある立石(たていし)があります。義秀は建保元年(1213)の鎌倉の和田合戦に敗れて安房へ逃れ、消息を断ちましたが、三浦一族は平安時代の末から安房に進出をしていました。この伝説も、滝川周辺で人や物の行き来が盛んにおこなわれ、三浦半島と安房を結ぶ海上交通路があったことを伝えているのかもしれません。戦国時代に里見氏が稲村城を安房支配の拠点にするのも、こうした背景があったからでしょう。

43.『日本書紀』

43.『日本書紀』
国立公文書館蔵

44.萱野遺跡出土の瓦

44.萱野遺跡出土の瓦
当館蔵

朝比奈三郎伝説がある滝川の立石

朝比奈三郎伝説がある滝川の立石

【4】交通の移り変わり

 細尾根の丘陵が縦横に走る安房国では、陸上交通の主要路には、古代以来江戸時代まで、平久里川流域を北上するコースがつかわれました。内房の海岸沿いはいくつもの丘陵を越えなければならず不便なのです。とりわけ上総への道は難所でした。

 安房国の支配施設が置かれた館山平野には、上総や外房からの道が集まっていました。しかしここでは、陸上よりむしろ海が重要な交通路としての役割を担っていました。物資の輸送や他地域との往来には船が利用され、そのための湊が古代から鏡ヶ浦にはありました。

【3】鏡ヶ浦周辺の史跡

 鏡ヶ浦の周辺には、古代から近代にいたる遺跡や古社寺など、数多くの史跡が点在しています。さまざまな時代の多様な種類の史跡が、鏡ヶ浦周辺にはとりわけ集中しています。その種類の豊富さは、安房の歴史上における鏡ヶ浦の重要性を表しているといえます。ここでは、鏡ヶ浦周辺にどのような史跡が点在しているのかを紹介します。

 海に面した安房にとって欠かせないのが湊の存在です。まさに人や物・情報などが行き来をした玄関口でした。鏡ヶ浦では平久里川の河口が古代の湊「淡水門(あわのみなと)」として知られています。戦国時代になると船形や高の島で、船がかかる湊が確認されています。安房では鏡ヶ浦が海上交通の要衝としての重要な役割をはたしていました。 歴史の古い社寺も数多くあります。東京湾を行き来する人々が信仰した洲崎神社(洲崎)、海上を生活の場にする人々が信仰した崖観音(船形)・那古観音(那古)・鉈切神社(浜田)、湊の歴史を伝える国司神社(沼)、鎌倉文化を伝える小網寺(出野尾(いでのお))など、みな鏡ヶ浦周辺ならではの由緒をもつ社寺です。

 古代の生活遺跡は数多くありますが、その多くは丘陵端の高い場所で確認されています。縄文時代の稲原貝塚(館山市小原)や漁労活動の様子がわかった鉈切洞穴遺跡(浜田)縄文海岸が出た加賀名遺跡(加賀名)、古墳時代の祭祀が行なわれた東田遺跡(上真倉)などでは発掘調査が行われました。

 古墳時代の遺跡には安房独特の洞穴遺跡も多く、海の道を支配した古代権力者の墳墓として注目される大寺山洞穴墓(沼)のほか、北下台(ぼっけだい)(館山)や出野尾・波佐間(はざま)など鏡ヶ浦南部でみられます。また汐入川中流の東田遺跡(上真倉)では、古代豪族クラスの住居跡も確認されています。

 平久里川をさかのぼると、古代安房国の役所である国府跡(三芳村府中)や国分寺跡(国分)が、海から五列目の砂丘の上に立地しています。同じ砂丘上では、鎌倉時代の北条得宗家(とくそうけ)ゆかりの萱野遺跡が確認されているほか、平久里川の支流滝川の流域には、戦国大名里見氏の安房支配の拠点だった稲村城跡もあります。

 戦国時代の城跡はほかに、城下町が成立した館山城跡(館山)や、船形城跡(船形)・北条城跡(北条)などがあり、そこにはそれぞれ江戸時代に、大名の支配役所である陣屋がおかれました。安房を支配するための各時代の遺跡は、古い湊の周辺に集中しています。

 また、鏡ヶ浦をめぐるように配置された幕末の海岸警備の砲台跡や、太平洋戦争時の軍事施設跡などは、首都江戸・東京を防衛する機能があったことを伝えています。

 これらの史跡は、いづれも鏡ヶ浦が育んだ史跡だといえます。

鏡ヶ浦周辺の史跡
鏡ヶ浦周辺の史跡

 (3)高の島周辺の移り変わり

38.五万分一地形図「北条」 明治36年測量
38.五万分一地形図「北条」 明治36年測量
当館蔵

 大正12年の関東大地震が起こる以前の柏崎から大賀にかけての海岸。高の島とのあいだの浅瀬は、元禄地震以降徐々に出来上がったもの。「大賀」の文字の上が「ビリドの鼻」。

39.五万分一地形図「館山」 昭和4年修正
39.五万分一地形図「館山」 昭和4年修正
当館蔵

 関東大地震で隆起がおこると、宮城と笠名の中間域を中心に砂浜が広がった。柏崎には大きな砂州がある。干潮時には高の島まで歩いて渡れるほどの浅瀬になった。

41.宮城の赤山(頼忠寺山)から見た高の島 (大正末~昭和初期)
41.宮城の赤山(頼忠寺山)から見た高の島 (大正末~昭和初期)
個人蔵

 地震による隆起で海岸と高の島のあいだに大きな干潟ができた様子がわかる。島影の干潟に乗り上げた船や右端には高の島へ渡る桟橋のようなものも見える。高の島寄りの浅瀬には海苔ひびが並んで立てられている。宮城の海苔づくりは明治15年に始まり、大正年間には県下有数の産地になった。しかしこの隆起でひび立て場が狭くなり、さらに航空隊基地の埋め立てで海苔づくりは終わった。ちなみに高の島は、歴史的には「高の島」と記され、小字も「高ノ島」である。「鷹之島」の表記は文学的に使用された文字が定着したもの。

42.昭和31年撮影の航空写真
42.昭和31年撮影の航空写真
当館蔵

 沖の島が砂州でつながった陸繋島になっている。埋め立てによって陸地が沖の島に近づいたたため、沿岸流によって砂州が発達していった。つながったのは昭和28年頃だという。

 (2)地震による地形変化

 地震による地形の変化が資料で確認できるのは、約300年前にあった元禄大地震です。元禄16年(1703)11月23日午前2時頃、野島崎南方沖合約30kmを震源に、マグニチュード8.2の規模で発生しました。これによって北条海岸では海岸線が400m後退、坂田では5mを越える隆起がありました。

 那古では、下の地震前の絵図36をみると、海が那古観音堂の崖下まで寄せていて、川名・船形方面へ歩いていくことはできなかったことがわかります。丸く囲まれたところは小字寺町の海よりの部分で、その左の浜は小字中浜にあたります。波打ち際は、小字芝崎と大芝の左側字境で、旧国道のやや海寄りです。それより左の小字閼伽井下(あかいした)や中入会・川崎などは元禄地震で隆起した場所で、小字大浜は大正地震で隆起した場所です。

那古寺下の小字

那古寺下の小字
(『館山市土地宝典(那古地区)』)

36.那古寺境論裁許絵図(部分)
36.那古寺境論裁許絵図(部分)  寛文12年(1672)
館山市那古・那古寺蔵
37.柏崎浦絵図
37.柏崎浦絵図
個人蔵

 元禄大地震によって隆起した柏崎の浜の利用状況を記した絵図。上部の左右にのびる太い実線は現在のバス通りで、その下の細い線は地震前の海岸線を示している。

柏崎浦の浜利用状況<模様のある範囲が地震で隆起したところ>
柏崎浦の浜利用状況<模様のある範囲が地震で隆起したところ>

 (1)縄文時代の海岸

 縄文時代は地球の海水面が高く、6000年~7000年ほど前は館山平野の谷の奥まで海が広がっていました。その後地球の気温が下がるとともに海水面が3~4m下がったといわれています。しかし房総半島南部では、6000年~7000年前の海水面が現在の標高23~26mくらいのところにありました。房総半島南部では、自然に海岸線が後退しただけでなく、幾度にもおよぶ地震の隆起が繰り返されたことよって、ほかの地域よりも高低差が大きいのです。

 大きな隆起は5回あったとされています。その隆起によって現れてきた海岸段丘面を沼面といいますが、6150年前に離水したのを沼1面といい、標高23~26mの場所にあります。16~21mにある沼2面は4350年前の離水、9~14mにある沼3面が2850年前の離水、5~6mにある沼4面が1703年の元禄大地震での離水、大正大地震で隆起した面は大正ベンチと呼ばれて、1~2mのところにあります。

 西崎地区加賀名での発掘調査で、縄文時代の岩石海岸がでてきたことがあります。場所は海岸から直線で350m、標高12mのところで、千葉市臨海荘の駐車場です。縄文時代後期の2850年前におきた地震で隆起するまでの海岸です。縄文時代の生活は、ここより高いところで営まれていました。

同下

同下

加賀名で発掘された縄文時代の岩石海岸

加賀名で発掘された縄文時代の岩石海岸
(加賀名遺跡)

【2】地形の移り変わり

 館山平野の地図をよくみると、海岸に平行していくつかの集落が形づくられていることに気がつきます。その集落の中央に南北の道がつらぬかれているのですが、こうした古い集落になっているところは周囲よりも少し高くなっています。それは砂丘のうえに集落ができているからです。こうした南北に長い砂丘を、館山平野ではいく筋かみることができます。

 はっきり形がわかるものは、腰越から三芳村本織にかけての列、国分寺がある国分から安房国府があった三芳村府中にかけての列、安布里から上野原・高井・正木にかけての列、長須賀から北条の神明町・湊の子安神社にかけての列、北条の六軒町から八幡・川崎・那古へかけての列、そしてもっとも海岸に近いのが館山の新井から那古までの海岸道路沿いです。

 館山平野の砂丘は、それぞれがそのむかし波打ち際にあったもので、海岸に砂が吹き寄せられてできた丘です。長い歴史のなかで地震による土地の隆起などがあって、海岸線が後退し、いく度かにわたって砂丘がつくられ、列をなしていきました。

 館山駅から駅前の銀座通りまでがゆるやかな上り坂になっているのは、砂丘にのぼっていくからです。銀座通りの商店街は砂丘の上にあるのですが、ここに砂州が作られていたのはわずか300年前までのことでした。元禄16年(1703)の大地震によって隆起がおこり、北条では400mも海岸線が退きました。それまでは銀座通りの海寄りが波打ち際だったわけで、館山駅が建つ場所も海の底だったということです。

 大正12年(1923)の関東大地震のときにも平均1.5mの隆起がありました。そのときにできた砂丘が海岸通りに接して内陸側にある松林などがある列です。

ヶ浦周辺の砂丘と段丘(『千葉県の自然誌 本編2』参考)
鏡ヶ浦周辺の砂丘と段丘(『千葉県の自然誌 本編2』参考)