<俳人番付>

 江戸時代にはさまざまなものにランクが付けられ、番付として公表されました。俳人の番付も文化文政期頃から各種出され、幅広い交流をもとうとする俳人たちの情報源になっていました。嘉永5年(1852)刊行の写真7では、西76枚目(5段目)に山下村の百羅漢苔年、隣に正木村の高梨文酬、東92枚目(5段目)に平館村の石井平雄、磯村の尾崎鳥周、6段目に金尾谷村の吉田文茂、大津村の平島梅居などの安房地域の宗匠が、全国の代表的な俳人たちと肩を並べています。安政年間の写真8では、東の4枚目どん尻に広場村の久保椿山がいますが、慶応元年(1865)頃の写真9では西の20枚目(2段目)、慶応2年の写真10では1段目の東8枚目へと評価を上げていくようすがわかります。

7.海内正風俳家鑑   鈴木孝雄氏蔵

7.海内正風俳家鑑   鈴木孝雄氏蔵

8.正風名家鑑   鈴木孝雄氏蔵

8.正風名家鑑   鈴木孝雄氏蔵

9.慶応改正海内蕉風声価集覧   安西明生氏蔵

9.慶応改正海内蕉風声価集覧   安西明生氏蔵

10.俳諧名家鑑   当館蔵

10.俳諧名家鑑   当館蔵

 <蕉門十啓>

 芭蕉を頂点に、芭蕉の優れた門人たちを孔子の十哲に見立てて「蕉門十哲」として描き、芭蕉とその一門を称揚することがおこなわれました。芭蕉の門人たちの後裔は全国に根を張り、俳諧がひろく行われるようになっていきます。下の図には頂点の芭蕉以下、其角・嵐雪・支考(東花坊)・許六・去来・丈草・野坡・越人・北枝・杉風が描かれています。

鴨川市上小原.日枝神社の芭蕉句碑

鴨川市上小原.日枝神社の芭蕉句碑
<石の香や夏艸赤く露暑し>

 句以外の刻銘はない。上小原の白滝不動にある句碑の揮毫者は三基の芭蕉句碑に健筆を振るったと記しており、そのひとつかもしれない。

鋸南町大帷子.信福寺の芭蕉句碑

鋸南町大帷子.信福寺の芭蕉句碑
<枯えたに鳥のとまりけり秋のくれ>

摩滅が厳しく、建立年・発起人等は不明。
〔18基の芭蕉句碑の所在については白浜町早川正司氏のご協力をいただきました。〕

6.蕉門十哲図   石井祐輔氏蔵

6.蕉門十哲図   石井祐輔氏蔵

 <芭蕉句碑>

 芭蕉を敬愛する俳人たちが江戸時代以来全国に建てた芭蕉の句碑は、2500基にも及ぶといわれています。芭蕉の供養と神格化された芭蕉の礼拝という意味があるもので、蕉風俳諧が浸透し地方の俳壇が活性化していく様子を知ることができる貴重な資料です。

 この普及に一役買ったのが近江国大津の義仲寺で、宝暦11年(1761)以来、各地から芭蕉句碑建立の申告をうけ、諸国の芭蕉碑を紹介する『諸国翁墳(おきなづか)記』を増補しながら小刻みに刊行し続けていました。

 安房地方で『諸国翁墳記』に記載されているのは2基だけですが、現在18基の芭蕉句碑が確認されています。個人や数人での建立もありますが、連などのグループによる建立が多くみられます。また地域の有力俳人の徳を偲んで、門人たちが句碑を建てることも行われました。

 館山市大神宮.小塚大師の雉子塚

館山市大神宮.小塚大師の雉子塚
<父母のしきりにこひし雉子の声>

 安永4年(1775)10月に、紀伊国の塩路沂風が高野山に建立した芭蕉句碑の模刻。明治31年(1898)、小塚大師の裏山に弘法大師八十八か所霊場の写しがつくられた時のものと思われる。

3.雉子塚拓本(表)  剣持加津夫氏蔵

3.雉子塚拓本(表)  剣持加津夫氏蔵

4.雉子塚拓本(裏)   剣持加津夫氏蔵

4.雉子塚拓本(裏)   剣持加津夫氏蔵

館山市亀ヶ原.新御堂跡の陰徳塚

館山市亀ヶ原.新御堂跡の陰徳塚  碑銘が摩滅しているが、下の『諸国翁墳記』の記述と掲載されている箇所から、本織村の関口瑞石を中心とする竹之友連が、寛政5年(1793)の芭蕉百回忌を記念して建立したと考えられている芭蕉句碑。現在は新しい石板の句がはめ込まれている。
<人も見ぬ春や鏡のうらの梅>

 『諸国翁墳記』(二十七丁)   成田山仏教図書館蔵

『諸国翁墳記』(二十七丁)   成田山仏教図書館蔵

丸山町大井.大徳院の芭蕉句碑

丸山町大井.大徳院の芭蕉句碑
<鐘つかぬ里は何をか春のくれ>

 碑銘にはないが、文化6年(1809)、勝山村の盲俳人呂風による建立であることが確認されている。

館山市那古.那古寺の芭蕉句碑

館山市那古.那古寺の芭蕉句碑
<此あたり眼に見ゆるもの皆すヽし>

 芭蕉百三十回忌の文政6年(1823)、竹原村の彡戒・山本村の文守・南条村の松涛・白浜村の里遊、ほか白亀・好山の6名が世話人となって建立した。

白浜町白浜野島崎.厳島神社の芭蕉句碑

白浜町白浜野島崎.厳島神社の芭蕉句碑
<あの雲は稲妻を待たよりかな>

 境内に同じ句で3基建てられている。右が天保4年(1833)8月に、久保村の井上杉長の子宇明と門人石井平雄・長性寺方壺など6名が、杉長の供養塚「杉長墳」と同時に建立したもの。左は古碑の風損により明治19年(1886)5月、恩田豹隠の書で再建されたもの。ほかに両碑の風化をうけて昭和44年(1969)に建立された句碑がある。

 鴨川市北風原.安国寺の芭蕉句碑

鴨川市北風原.安国寺の芭蕉句碑
<此あたり目に見ゆるものみな涼し>

 二世武橘菴橘叟が天保7年(1836)6月、安国寺住職の雨笠・大幡の雪丞・寺門の米寿らの協力を得て建立した。橘叟は下碑の鳥周と同一人物。

鴨川市太海浜.仁右衛門島の芭蕉句碑

鴨川市太海浜.仁右衛門島の芭蕉句碑
<海暮て鴨の声ほのかに白し>

天保11年(1840)3月、磯村の日々房尾崎鳥周が中心となり、如松庵双鳩・此杖菴寛雪とともに鳥周率いる常盤連のメンバーで建立した。

鴨川市西.蓮華院の芭蕉塚

鴨川市西.蓮華院の芭蕉塚
<雪をりヽヽ人を休める月見哉>

 芭蕉の句を中心に「雪月花」の三句を並べているが、左右の句は磨耗が激しい。弘化2年(1845)冬の79歳某による建立と刻まれているが、右の『諸国翁墳記』に催主はト山・翠斎とある。

 5.『諸国翁墳記』(五十一丁)    成田山仏教図書館蔵

5.『諸国翁墳記』(五十一丁)    成田山仏教図書館蔵

館山市正木.諏訪神社の芭蕉句碑

館山市正木.諏訪神社の芭蕉句碑
<此神もいく世か経なむまつの花>

 文久3年(1863)3月、諏訪神社神主の関風羅はじめ正木村の丘連18名と、この連を率いる雨葎庵高梨文酬によって建立された。

 鋸南町大崩.西根の芭蕉句碑

鋸南町大崩.西根の芭蕉句碑
<いさヽらは雪見に転ふところまで>

大崩村の柚の本鈴木亀甲が、明治10年(1877)10月に建立した。

 鴨川市宮山.宮山神社の芭蕉句碑

鴨川市宮山.宮山神社の芭蕉句碑
<春なれや名もなき山の朝霞>

 明治18年(1885) 10月、宮山村近在の籬(まがき)社の社中が建立した。

鴨川市平塚.大田代の芭蕉句碑

鴨川市平塚.大田代の芭蕉句碑
<野を横に馬引むけよほとヽきす>

 明治19年(1886)4月、地蔵尊の傍らに平塚村の大田代連が建立した。

館山市那古.那古寺の芭蕉句碑

館山市那古.那古寺の芭蕉句碑
<春もやヽ気色とヽのふ月と梅>

 4年後の芭蕉二百回忌を見越して、明治22年(1889)4月小原の山口路米が発起人となり、内房地域の俳人139名の協力で建立された。

鴨川市上小原.白滝不動尊の芭蕉句碑

鴨川市上小原.白滝不動尊の芭蕉句碑
<ほろヽヽと山吹ちるか滝の音>

 上小原の伊丹凌雲・田村一梅など、籬連の24名により、明治24年(1891)正月に建立された。

【1】江戸の俳諧
 <芭蕉と蕉風>

 江戸時代前期に松尾芭蕉が確立した俳句の作風を蕉風と呼びます。芭蕉は、ことば遊びだった俳諧を人生詩に変えた詩人です。古典的な雅の世界と卑俗な現実世界のギャップから生まれる笑いや、人生を謳歌する享楽の表現だった俳諧を、17文字の短い文章のなかで日常の世界・現実の人生を表現する芸術に高めたといわれています。

 芭蕉の作風はその当時から高い評価をうけ、門人たちの活動によって蕉風を慕う俳人の底辺をひろげていきました。江戸を中心とする都会派蕉門は芭蕉の門人たちから多くの俳系にわかれ、勢力を張り合いながらも、各俳系の俳人たちが房総へ遊歴してきています。

 房総の俳人たちも神格化された芭蕉を慕い、蕉風を伝える江戸の俳人たちと広く交流をもちました。安房地方では兎門(杉風系)・葛飾派・雪門・伊勢派と呼ばれるさまざまな俳系の人々の影響を受けながら、地域のリーダーとなる俳人も数多く育っていきました。

 地域のリーダーは連というグループをまとめ、句会を取り仕切り、句作の添削をおこなう宗匠として活動しました。地方の宗匠は文芸に親しむ機会の多い名主や医者・僧侶など、経済的にゆとりのある階層の人々が多くみられました。

1.『奥の細みち』写本   堀口角三氏蔵

1.『奥の細みち』写本   堀口角三氏蔵

2.芭蕉肖像画   座間恒氏蔵

2.芭蕉肖像画   座間恒氏蔵

 平館村(千倉町)の俳人石井平雄が描いた芭蕉像に、師である久保村の井上杉長が、芭蕉の『笈の小文』から「風雅におけるもの、造化にしたがひて四時を友とす」の一節と、「旅人と我名よはれむはつ時雨」の句を写して讃としたもの。安馬谷村の俳人で名主の座間柞枝が所有した。文政4年(1821)10月作。

ごあいさつ

 歴史・美術・文芸といった文化活動は、わたしたちの生活にゆとりを与え潤いをもたらしてくれるものです。今回のテーマとした俳諧・俳句という文芸もわたしたちの身の回りの日常生活や自然のなかから、季節の変化や人生の機微あるいは笑いを生み出す智識と感性の文芸として、現在も多くの人たちに広く浸透し親しまれています。

 芭蕉によって人生詩として確立された俳諧は、江戸時代の中期頃、庶民生活のなかに文芸文化が浸透していくなかで、確実に底辺を広げていきました。地方の村方では文芸文化のリーダーとなる存在が成長し、彼らの周辺では多彩な文芸活動が展開しています。

 江戸生活を経験する人たちが多い房総では江戸文化が広く浸透し、また江戸から来る多くの文化人たちとの交流を通して村方での文芸熱は高まりました。なかでも裾野を広げたのが俳諧といえます。江戸時代から明治時代にかけて、ここ館山でも極めて多くの人たちが俳諧に親しみました。俳諧では批評をしてくれる宗匠の存在が大きく、地域の宗匠たちは江戸の宗匠に指導をうけて江戸の文化を吸収していました。

 今回の企画展では、俳諧を通して江戸の文化を吸収し地域に浸透させていった俳人たちの活動と、俳諧から近代俳句への移り変わりの様子を紹介しながら、地域の歴史を考えてみたいと思います。

 なお、本展の開催にあたり、多くの方々よりさまざまな情報をいただき、また貴重な資料をご出品いただきました。ご協力を賜りました皆様に、厚くお礼申し上げます。

平成16年2月7日
館山市立博物館長 石野裕男

凡例

  • この図録は、平成16年2月7日から3月21日までを会期とし、館山市立博物館が主催する企画展「俳諧三昧-俳句がはこぶ江戸文化-」の展示図録である。
  • 本書の図版番号と展示室の陳列構成は、レイアウトの都合上必ずしも一致しない。
  • 本展の企画および、図録の編集執筆は、学芸係長岡田晃司が担当した。 

目次

【1】江戸の俳諧
   <芭蕉と蕉風>
   <芭蕉句碑>
   <蕉門十哲>
   <俳人番付>
【2】俳句でコミュニケーション-俳諧を楽しむ-
   <遊歴と風交>
   <句会>
   <奉納俳諧>
   <記念俳句>
   <俳句でコミュニケーション>
【3】俳諧ネットワーク-安房の俳人たち-
   <江戸の宗匠たち>
   <安房を出た俳人>
   <安房を訪れた俳人>
   <安房の俳人たち>
   <師号を嗣ぐ>
【4】ネットワークの広がり-前田伯志の登場-
   <前田伯志>
   <伯志門下>
【5】近代俳句のはじまり
   <安房盟楠会>