(2)浦賀の干鰯問屋

 浦賀湊は、中世から良港として知られ、小田原北条氏の水軍拠点としても利用されていました。特に江戸幕府が開かれた後は、全国の物資が集散する湊となりました。この機能を利用し、房総の干鰯を集荷し、関西への積み送るために成立したのが東浦賀干鰯問屋です。寛永19年(1642)という早い段階で幕府公認の問屋となり、元禄(げんろく)5年(1692)からは年200両の運上金を納めました。

 当初、江戸問屋よりも特権的な立場にあった浦賀問屋ですが、元禄末期(1700年頃)以降、集荷量が減少し、運上金も滞納が続きます。浦賀湊は、享保5年(1720)より浦賀奉行所が置かれ、「海の関所」として重要な役割を担っていました。幕府は湊の機能を存続させるためには、さまざまな御用を勤めていた浦賀干鰯問屋の存在が必要不可欠と考え、保護策を打ち出しました。この結果、浦賀問屋の入荷量は伸び、幕末まで経営を継続しています。軒数は一定ではなく、元禄5年(1692)時点で15軒、嘉永4年(1851)時点で30軒でした。

 安房と浦賀は距離的にも近いことから、干鰯の流通だけでなく、漁業や諸商売などさまざまな面で交流がありました。奉公や結婚など、人の行き来も多く確認できます。

57.八手網仕入金借用証文 天保10年(1839年) 館山市・正木訓子氏蔵
57.八手網仕入金借用証文
天保10年(1839)館山市・正木訓子氏蔵

【6】江戸と浦賀の問屋
 (1)江戸の干鰯問屋

 江戸の干鰯問屋は、近世初期に関西出身の者たちによって始められたと伝えられます。房総で生産された干鰯・〆粕を江戸に集荷し、その上で関西に積み送ることが目的でした。さらに元禄8年(1695)以降、深川(現東京都江東区)に干鰯揚場(あげば)が整備されていきます。干鰯揚場は、集荷した干鰯を船から荷揚げし、仲買人に市売りする場で、江戸にあった4ヶ所の干鰯揚場(銚子場・永代場・元場・江川場)はすべて深川にありました。

 商売の核となる干鰯揚場が整備されて以降、江戸の集荷量は急増していきます。さらに、元文4年(1739)には、幕府によって問屋仲間として公認されました。江戸問屋の軒数は一定ではなく、仲間公認時の43軒をピークとし、近世後期には15軒となっています。

 安房の干鰯が江戸問屋に積み送られたのは、元禄年間(1688年~1704年)に行われた和田浦(現南房総市和田町)の庄司氏による出荷が最初と伝えられています(「関東鰯網来由記」)。詳細は明らかではありませんが、恐らくそれまでは浦賀問屋が安房の干鰯を独占しており、元禄頃から江戸問屋の安房における営業活動が活発になっていったのでしょう。

51.干鰯仕入金取立て出入りにつき願書 天保6年(1835年) 館山市・正木訓子氏蔵

51.干鰯仕入金取立て出入りにつき願書
天保6年(1835)
館山市・正木訓子氏蔵

【5】干鰯(ほしか)争奪戦

 関東で生産された干鰯・〆粕は、幕府公認の問屋である江戸と浦賀の干鰯問屋に出荷されました。両問屋は、生産地の漁師たちへ高額の資金貸付を行い、生産物での支払いを契約することで、入荷を確保しました。干鰯・〆粕の集荷をめぐり、両者の間で争奪戦が繰り広げられたのです。

 このような競合のなか、元禄末期(1700年頃)以降、江戸問屋の集荷量が急増し、浦賀問屋の集荷量は減少していきます。幕府に納めるべき運上金(うんじょうきん)も滞納が続いた浦賀問屋は、経営を再興するため、江戸へ出荷される干鰯類の一部を浦賀へ回送することを幕府に求めました。その結果、延享4年(1747 )には、安房・上総・下総の3か国から江戸に出荷される干鰯について、その十分の一を浦賀に回送することが定められています。

 また、近世中期以降、干鰯・〆粕の需要が増加すると、集荷をめぐる競合相手がさらに増えていきます。耕作地拡大の限界や、商品作物生産の発達を背景に、従来は山野の下草・落葉や海藻、牛馬の糞など身の回りの肥料を用いてきた村々でも、金銭を支払って肥料を手に入れるようになりました。需要の拡大は、江戸・浦賀の問屋を介さない流通を活発化させ、江戸・浦賀への輸送途中で直売(じかう)りや、他の商人による生産地での買付けが内々に行われるようになってきたのです。

 さらに、天保の改革で株仲間・問屋組合の解散が打ち出されたことにより、天保14年(1843)以降、干鰯問屋にのみ認められていた独占集荷権が廃止されました。嘉永4年(1851)には問屋の再興が命じられるものの、新興の商人を含めた争奪戦はますます激しくなっていきました。

49.東浦賀干鰯問屋再興につき荷物積送方依頼状
安政5年(1858)当館蔵

【4】海をわたる干鰯(ほしか)

 江戸周辺の海上輸送では、押送船(おしょくりぶね)と五大力船(ごだいりきせん)という船が多く用いられました。押送船は、船の形が細く、また帆走(はんそう)と櫓漕(ろこ)ぎが併用できるため、スピードが求められる生魚の輸送に適していました。これに対し五大力船は、一度に大量の物資を輸送できる点が特徴です。安房の多くの村々にも、漁船の他にこれら輸送用の船がありました。

 干鰯・〆粕を扱う問屋は江戸と相模国浦賀(現神奈川県横須賀市)にあり、房総で生産された干鰯類は、地元で消費されるものを除き、これらの問屋に出荷しなければなりませんでした。陸路や河川輸送という手段がある他地域と異なり、安房は海運が唯一の輸送手段であり、五大力船を利用して江戸・浦賀へと干鰯が運ばれました。また、上総から安房へ干鰯加工用の生鰯を運ぶ際には、押送船が利用されています。

 さらに、安房の人々は、上総で生産された干鰯の海上輸送を担うこともありました。海上輸送は一度に多くの物資を運ぶことができるという利点がある一方、大型の船を所有するには資金力が必要であり、また難破のリスクも伴います。周りを海に囲まれた安房には、このような輸送を担うことができる船持・船乗りたちがおり、輸送者として干鰯・〆粕の流通に深く関わっていたのです。

40.五大力船(模型) 当館蔵
40.五大力船(模型)
当館蔵

 (2)〆粕をつくる

 干鰯と同じく鰯からつくられる肥料に〆粕があります。これは、生鰯を釜で煮た後、油を搾ったもので、干鰯よりも高い価格で流通していました。また、搾った際に出る油は魚油と呼ばれ、安価な行灯(あんどん)油などとして利用されていました。近世中期以降になると、北海道における鰊(にしん)漁業が活発となり、鰊〆粕も全国的に広まりました。

 明治16年(1883)に作成された「房総水産図誌」によれば、〆粕に加工することが多かった銚子や九十九里と異なり、安房では〆粕はあまりつくられず、ほとんどが干鰯に加工されました。ただし、同時期の記録によれば、長狭郡磯村(現鴨川市)産の〆粕は県内でも上質とされていました。また、柏崎浦(かしわざきうら)(現館山市)では、鮗(このしろ)を〆粕に加工しており、この場合も干鰯と同様、課税の対象となっていました。

35.ニワク 当館蔵〈国指定重要有形民俗文化財〉

35.ニワク
当館蔵〈国指定重要有形民俗文化財〉

【3】干鰯(ほしか)と〆粕(しめかす)
 (1)干鰯をつくる

 漁獲された生鰯は、海岸部の村々に設けられた「干鰯場」「鰯干場」と呼ばれた場所に敷きつめて天日干しされ、干鰯に加工されました。明治16年(1883)に作成された「房総水産図誌」によれば、鰯が大漁に獲れる九十九里の干鰯は砂が混じっていましたが、夷隅郡や安房国の干鰯は砂が混じらず上質とされていました。

 これら干鰯の利用には税が課されている場合もあり、その方法は領主や村によって異なっていました。例えば、面積に応じた額を年貢という形で納める干鰯場もあれば、生産された干鰯の量に応じて納める干鰯場もありました。

 安房の鰯は、〆粕(しめかす)ではなくおもに干鰯に加工されていました。近世後期に江戸の干鰯問屋が記した記録では、安房の干鰯は「身は薄いが品質が良い」と評されています。また、他地域で漁獲された鰯を買い取り、内房で干鰯へと加工することも行われていました。

22.川名村絵図(部分) 館山市・飯田貞之氏蔵
22.川名村絵図(部分)
館山市・飯田貞之氏蔵

【2】いわし漁の風景

 関西漁師の進出により、房総は全国有数の鰯漁獲地となりました。特に下総(しもうさ)国から上総(かずさ)国にまたがる九十九里浜は、鰯の名産地として知られています。近世後期には、鰯を加工した肥料である干鰯と〆粕は、九十九里浜から安房国に至る房総半島の東岸地域でおもに生産されていましたが、このうち半分以上を九十九里産がしめていました。また、上総国夷隅(いすみ)郡(現在のいすみ市・勝浦市周辺)も九十九里に次ぐ生産量を誇っていました。

 各地域では、地形に見合った漁法を用いて鰯漁を行いました。長大な砂浜が広がる九十九里は、大規模な地引網(じびきあみ)に適しており、百人以上の引き手が必要な大地引網漁は、この地域ならではの光景でした。また、上総国夷隅郡でも地引網漁が行われています。これに対して、夷隅郡のうち勝浦周辺から安房(あわ)国に至る地域は、海岸が岩場となっている場所が多いため、八手網(はちだあみ)がおもに用いられました。八手網漁は、2~3艘の船が沖で張った網を引き揚げる漁法であり、漁の規模によって使用する船の数が異なりました。

 安房の鰯漁は、小規模な網が数多く存在していた点に特徴があります。漁法は2艘の船を用いた八手網漁が中心で、一部では小規模の地引網漁も行われました。これらの漁は網1張あたりの漁獲量が少ない分、必要な人手も少なかったため、九十九里のように大規模な網元(あみもと)・網子(あみこ)の組織化は行われませんでした。

12.日在{ひあり}浦地引網漁図絵馬 当館蔵〈国指定重要有形民俗文化財〉
12.日在(ひあり)浦地引網漁図絵馬
当館蔵〈国指定重要有形民俗文化財〉

【1】関西から房総へ

 天正18年(1590)、徳川家康が江戸城に入城し、江戸は大規模な城下町へと整備されていきます。さらに徳川幕府が成立すると、江戸は政治の中心地となり、全国の諸大名の屋敷とその家臣、そして彼らの消費を賄う商人・職人が集中居住する大都市となりました。急速に人口が増加した江戸に対し、当時の関東漁業では鮮魚の供給が追いつかず、先進的な技術を持つ関西の漁師たちが、多数関東へやって来ました。これは、彼らにとって大きな利益を得るチャンスでした。

 さらに、彼らの目的は江戸の鮮魚消費だけではありませんでした。当時、関西農村では収益性の高い作物である綿作が盛んでしたが、この栽培には大量の肥料を必要とします。そこでおもに用いられたのが、鰯を日干しにして作る肥料「干鰯(ほしか)」でした。綿作の拡大により、大量に必要になった鰯を求めて、関西の漁師たちは鰯資源が豊富で未発達の漁場へと進出していきます。その範囲は、東は関東、西は九州にまで及びました。

 このような鮮魚と肥料の需要拡大という二つの要因により、関西の漁師たちは房総へと進出してきました。彼らにより、地引網(じびきあみ)や八手網(はちだあみ)による鰯漁が伝えられ、房総は全国的な干鰯生産地となります。漁師たちは、拠点となる地に集団で出稼ぎして漁を行いましたが、なかには出漁先に土着する者も現われました。土着した者たちは、地元漁業の発達などによって出漁が行われなくなった後も、漁師や商人などとして、房総の鮮魚・干鰯を担っていきました。

7.鰐口 元禄10年(1697年) 館山市・船越鉈切神社蔵〈館山市指定文化財〉
7.鰐口
元禄10年(1697)
館山市・船越鉈切神社蔵〈館山市指定文化財〉

あいさつ

 江戸時代の初め、新たな漁場を求めて、畿内や紀州の漁師たちが房総半島にやってきました。江戸に幕府が置かれたことにより、そこに暮らす多数の人々の消費をまかなうものとして、房総で獲れる魚が注目されたのです。さらに食材としてだけでなく、鰯は干鰯や〆粕に加工され、田畑の肥料として用いられました。

 この生産地としては、九十九里が全国的に有名ですが、安房でも関西の漁師たちから伝えられた漁法による鰯漁が行われ、干鰯類に加工していました。安房で生産された干鰯は品質が良いとされており、地元で消費されるほか、江戸や浦賀の問屋を通じて各地へも流通しています。また、安房の人々は、他地域で生産された干鰯の海上輸送も担っており、このような形でも流通に関わっていました。

 今回の特別展では、鰯漁や干鰯・〆粕の生産および流通を取り上げ、これまであまり注目されてこなかった安房の干鰯・〆粕について紹介します。また江戸時代の安房の人々の暮らしぶりや、他地域との交流のようすを知っていただく機会となれば幸いです。

 最後になりましたが、本展覧会の開催にあたり、多くの方々よりさまざまな情報をいただき、また貴重な資料をご出品いただきました。ご協力いただきました皆様に厚く御礼申し上げます。

平成26年2月1日
館山市立博物館
館長 岡田 晃司