【5】お国替え -残された館山の町-

 里見氏の領国安房は東京湾の出入口に位置するため、江戸幕府にとって危険な大名を配置しておける土地ではありませんでした。そもそも里見義実(よしざね)が房総半島に現れた戦国時代当初から、里見氏は東京湾の水軍を掌握し続けた海の戦国武将だったのです。里見氏が安房からの移封を命じられた慶長19年(1614)9月というのは、大坂城の豊臣秀頼が滅亡に向う大坂冬の陣へ向けて、家康が出陣するわずか1か月前のことでした。里見氏の移封つまり安房からの排除は、幕府にとっては予定されていたことといえるでしょう。里見氏がいなくなった安房国は、武蔵国浦和領で幕府代官を勤めていた中村弥右衛門尉吉繁と、その手代熊沢三郎左衛門忠勝に任されることとなり、寺社領・幕府領・旗本領・1万石程度の大名領へと分割再編されていきました。とくに内房南部の海岸の村々では、館山城下を含む館山湾南岸は4500石の旗本石川政次、船形・那古を中心とする館山湾北岸は1000石の旗本石川重勝、南無谷(なむや)から岡本城にかけては1500石の旗本小浜守隆に与えられましたが、いずれも幕府の御船手を勤める水軍関係者でした。

 しかし館山城がなくなり、城下から里見氏の家臣やその関係者が消え、新たな支配役所は小規模で領主関係者も極めて少ないことから、旧城下町は商人と職人・漁師と運送業者などが町内ごとに自立する村・町として維持されていくことになりました。里見氏という求心力がなくなり城下町としての歩みは止まりましたが、それでも高之島湊と海運によって町の活気は明治に至るまで維持されていたのです。

75.嶋田重次・本多定勝連署証状
75.嶋田重次・本多定勝連署証状
79.中村吉繁出置証文
79.中村吉繁出置証文

 (2)安房の支配体制

 秀吉・家康の時代の里見家の安房支配は、役人として実務にあたる能力に長けた者に支えられていくことになりました。戦時は軍団を編成する家臣団も、平時は奉行衆・役人として財政や民政を担当する能力が求められます。商人を管理し城下町をつくりあげるだけでなく、戦(いくさ)に備えた職人の管理、家臣や寺社の管理、村の管理、田畑・山林などの資産の管理をするための体制を整えていくことになりました。

 しかし慶長8年(1603)に義康が31歳で没し、嫡男忠義が10歳で家督を継ぐことになると、これを支える体制が必要になりました。忠義の叔父で30歳になろうかという年齢の正木時茂が一門衆の頭(かしら)として、忠義の名代(みょうだい)となり里見家の差配をすることになったようです。そして家臣団の合議を代表する奉行として実務を担ったのが、大家老の堀江能登守頼忠・地方(じかた)奉行の板倉牛洗斎昌察(まさあき)・足軽大頭の里見左京亮の三人でした。さらに、それらを総括する立場に御隠居様と呼ばれた忠義の祖母龍雲院がいました。

 慶長15年に祖母龍雲院が死去し、後ろ盾だった大久保忠隣(ただちか)が慶長19年(1614)1月に幕府内の権力争いで失脚するなか、成人していく忠義の周辺には、家臣団の合議を主張するグループと忠義の専制を主張する近臣の台頭があったとの見方があります。里見家内部は揺らいでいったとみられています。

61.里見安房守忠義公家中帳(網代文書)

【4】天下人の時代
 (1)近世大名として

 里見氏が館山に城下町をつくった時代は、戦国時代が終わりを告げようとしていた時です。豊臣秀吉・徳川家康が天下人として強大な権力をもち、新たな制度がつくりあげられ、戦国大名が近世大名としてその臣下に組み込まれていく時代でした。

 里見家では天正13年(1585)にはすでに里見義頼が秀吉政権に服属する意思を示していました。秀吉が出した惣無事令(そうぶじれい)により武力での紛争解決が禁止されたことで、秀吉によって里見氏と北条氏の境目も確定され、東京湾の安全は里見氏と北条氏の協定に委ねられるものではなくなりました。そして天正18年の小田原北条氏の討滅後は、秀吉の臣下として伏見に滞在することが多くなり、伏見に屋敷をもつようになります。秀吉から羽柴の姓を与えられ、従四位下、侍従(じじゅう)、そして安房守に叙任(じょにん)されました。文禄1年(1592)には朝鮮出兵への従軍を求められて、150人を引き連れて九州名護屋へ向かっています。続いて慶長2年(1597)に太閤検地が実施され、秀吉の奉行人である増田(ました)長盛が指揮をとって、里見氏の安房領国は9万石と算出されました。

 一方、小田原合戦後に江戸へ入り関東に君臨することになった徳川家康へも近づき、天下の動静を見極めていきます。秀吉没後は家康に従い関ヶ原合戦で3万石が加増されると、秋田へ移封された常陸の佐竹氏に代わり、12万石という関東最大の外様大名になりました。叔父の里見忠重も上野国板鼻(安中市)で1万石を与えられて大名に列し、さらに、将軍秀忠を補佐する幕閣の大久保忠隣(ただちか)や家康の長女亀姫につながる人々と姻戚関係を結んで、徳川家との関係を深めていきます。とくに大久保忠隣は孫娘を里見忠義の室とし里見家の後ろ盾になりました。しかし、それは江戸幕府内部の権力闘争に里見家が巻き込まれていくことにつながっていったのです。

53.安房国四郡御検地高目録帳写
53.安房国四郡御検地高目録帳写
57.徳川秀忠書状
57.徳川秀忠書状

【3】東京湾の里見氏 -戦と交易-

 交易都市としての館山城下町を形成する以前から、里見氏は東京湾での海上活動を盛んに行っていました。そもそも里見氏は初代義実の時から房総の水軍を掌握し、東京湾を東西にも南北にも行き来して活動していたのです。16世紀中頃から続いた小田原北条氏との争いも、東京湾の制海権をめぐるものでした。海上での両者の対立が続いていたあいだ、海岸の村では半済(はんぜい)という里見氏と北条氏の両者に年貢を納める対応で村を守り、また北条氏の勢力圏で交易する往行商人たちは里見水軍からの攻撃を避けるため、里見氏から通行手形を受けて安全を確保したほどでした。しかし、天正5年(1577)に両者が和睦し東京湾が安全になると、東京湾西岸や利根川流域の商人が里見氏領での交易を求めるようになっていきました。

41.足利家国書状
41.足利家国書状

 (2)館山城の姿 

 城下町の中心となった館山城は、そもそも現在公園になっている城山という丘陵だけでしたが、義康が本城としてからは拡張工事が進められ、城濠は城山の東にある天王山と御霊山を取り込む形で巡らされているので、イメージ以上に広い範囲の城です。

 城山公園駐車場の発掘で水堀が確認されており、そこから東へ延びたところに小字「新堀」があり、平成の初めまでは、そこから南へ向かって堀の姿を髣髴(ほうふつ)とさせる水田がありました。その北側が町場になっています。

 水田の南端に天王山・御霊山があり、その中腹をめぐる堀跡は今も残されています。さらに南の大膳山まで堀の姿を残した水田が昭和の末まではありました。

 この堀の内側の平坦地には、「(一門衆の頭(かしら)である正木)大膳屋敷」「(大家老の山本)清七屋敷」「(寺社奉行の)遠藤(印東)采女(うねめ)の屋敷」「大蔵蔵人(くろうど)の屋敷」などの呼び名が伝承されていたので、重臣の屋敷が集まっていたと思われます。堀の外側の宇和宿(うわじゅく)から御園(みその)には武家地の伝承が残され、また寺社地も現在以上に数多く配されていました。

37.里見義頼書状(上野文書)

37.里見義頼書状(上野文書)

40.城山周辺航空写真
40.城山周辺航空写真

【2】町の起源を探る
 (1)里見の城下町

 館山に町がつくられたのは里見氏の時代でも末期といえる里見義頼・義康・忠義の時代です。義頼が本拠にしていた岡本城が抱える湊は小さくて交易には不向きでした。そこで大きな湊を控える館山湾南岸に目を付けた義頼は、天正12年(1584)、商人の岩崎与次右衛門に命じて柏崎を拠点に交易活動をさせ、館山城移転への道筋をつくりました。

 義康が天正19年(1591)に本城を館山城へ移してからは、里見家の主導で新井町と北条町に半ば強引に商人を住まわせ、他国商人との取引もそこへ開設した市(いち)でのみ許可をし、城下館山に町割りもほどこしていきました。真倉(さなぐら)村の浜方集落であった新井浦と楠見浦から一部を割いて上町・仲町・下町という町方集落をつくったと伝承されているのが、新井に立てた市だったのでしょう。

 やがて商人への諸税免除や規制の緩和政策で交易が活性化され、道路や衛生の管理などを含む町の運営は町名主といえる岩崎与次右衛門を中心とした商人たちに任されていきます。市が立てられた新井町と北条町だけでなく、両町を結ぶ長須賀町、そして館山三町が割かれた楠見町が城下の町場として姿を現します。江戸時代に館山三町四浦といわれた岡上須賀浦・浜上須賀浦にもおそらく町場は広がり、岩崎与次右衛門が屋敷地を与えられた沼村柏崎浦までの城下町が形成されたのです。

35.館山町・長須賀村・北条村絵図
35.館山町・長須賀村・北条村絵図
No.35のトレース図
No.35のトレース図

【1】江戸・明治時代の館山 -海が道だった-

 大正7年に東京と館山を結ぶ鉄道北条線(現内房線)が開通するまでは、館山での輸送手段は海上交通でした。館山湾北岸に位置する船形村をはじめ、南岸の新井浦・柏崎浦を中心に東京へ生魚を輸送する押送船(おしょくりぶね)が浜に並び、南岸の高之島東海域には、東京湾内を行き来する廻船でトーケー(渡海)船と呼ばれた五下船(ごしたぶね)や五大力船(ごだいりきせん)が浮かんでいました。

 江戸時代から高之島の東海域は高之島湊と呼ばれ、その南岸に位置する柏崎にはじまり、館山・長須賀・新宿・北条へと至る町場が4㎞に及んで続いていました。内海(東京湾)と外海(太平洋)の境目という立地から、館山湾(鏡ヶ浦)には日和(ひより)待ちの廻船の入港や、しばしば破船した廻船の入港もあり、盛岡藩や仙台藩は荷と船の管理のために館山湾南岸に穀宿(こくやど)や廻船役所を置いていました。また、柏崎浦は幕府御城米の船掛り場でもありました。館山と北条には江戸時代は支配陣屋が置かれ、明治になると北条に郡役所が置かれるなど、両地域は安房の中心地として機能していました。

 高之島湊は真倉(さなぐら)村の管轄下にあり、新井浦がその支配をしていました。元禄地震以前には船が掛る土手が海に突き出していたと伝えられ、文政年間から天保年間にかけてその再建が試みられたこともあります。館山湾内でも江戸を行き来する船として享保8年(1723)に届けられたのが、柏崎浦で五下船3艘、押送船18艘、館山三町四浦で五下船5艘、押送船13艘あったと記録されています。江戸後期になると600石を越える廻船を複数所有して諸藩の御用を勤める商人も現れてきました。

1.鏡ヶ浦図絵馬
1.鏡ヶ浦図絵馬
15.御城米御用船印
15.御城米御用船印

あいさつ

 当館は昭和58年の開館以来、安房地方の中核都市である館山市の、町の基礎を築いた里見氏の歴史と館山という地域の歴史的特性を紹介してきました。今年は里見氏が安房を離れて400年となる節目の年にあたることから、里見氏と館山という町の関連を紹介することといたしました。

 この特別展では、里見氏が安房を離れてからの館山の町はどのような性格をもった町だったのか、里見氏の時代にどのように町がつくられていったのかを考えながら、豊臣秀吉・徳川家康に仕えた館山城主里見義康・忠義父子の時代を中心に、東京湾での湊機能を活かしながら館山城下町が成立していく過程を追い、安房の地に果たした里見氏の役割を考えます。

 幕府のお膝元として江戸が成長を始めるなか、東京湾の入口にある館山がどのような意味を持ったのか、海という視点から町の歴史を考えていただける機会となれば幸いです。

 最後になりましたが、本展覧会の開催にあたり多くの方々よりさまざまな情報のご提供と、貴重な資料のご出品をいただきました。ご協力を賜りました皆様に、厚く御礼申し上げます。

平成26年9月6日
館山市立博物館
館長 岡田 晃司

凡例

  • 本書は、館山市立博物館本館において平成26年9月6日から10月19日までを会期として開催する特別展「里見氏の遺産・城下町館山―東京湾の湊町―」の展示図録です。
  • 資料名は展示テーマに合わせたため、所蔵先の表記と一部異なる表記があります。
  • 会期中に一部展示替えをおこなうため、本書に掲載されている資料が展示されていない場合があります。
  • 本書の図版番号と展示室の展示構成は、レイアウトの都合上必ずしも一致しません。
  • 本展覧会の開催及び本書の作成にあたり、諸氏と諸機関に多大なる御協力・御助言を賜りました。巻末に御芳名を記し、深く謝意を表します。
  • 本展覧会の企画および本書の編集執筆は、当館の岡田晃司が担当しました。また図版トレースは有限会社クォークが行いました。
  • 本図録の作成には、(財)日本財団の助成金の一部を充てています。