船形の人々は昔から漁業を生業とし、崖の観音に安全を祈願して暮らしてきました。西行伝説も残る古い土地で、現在も多くの人が暮らす漁業の町・船形の歴史を探訪しましょう。
柳塚(やなぎづか)エリア
(1)岩船地蔵尊
左側の岩船地蔵尊は石でつくった舟に乗っている。はじめは念仏をして疫病除けを祈願する信仰だったが、そのうち大漁祈願や海上安全が祈られ、新造船の安全祈願や船酔い防止の祈願に変わっていった。右側には明治6年(1873年)と大正2年(1913年)の馬頭観音がある。
(2)西行寺
浄土宗のお寺で光勝山西行寺という。その昔、西行法師の妻「呉葉の前」が夫を探して船形へ来て死んだ後、里人が葬ってその塚に柳を植えたので、この地を柳塚といい、後日訪れた西行がこれを聞いて西行寺を建てたという伝説がある。墓地に永禄7年(1564)正月8日に死んだ人の宝篋印塔があるが、この日は市川市で有名は国府台合戦があった日。寺の裏山は戦国時代の船形城跡で、安西氏がいたという。円光大師第7番札所、安房国48ヶ所薬師巡礼西2番礼所。
(3)民内翁碑と大井戸
幕末に村民の民内作右衛門が宇田川の改修や農業改良に努めて、明治元年(1868)に長尾藩主から表彰されている。記念碑は明治31年(1898)に建設されたもの。記念碑前の大井戸は、飲み水に困っていた人のために、作右衛門が屋敷内に掘ったもの。
堂の下(どうのした)エリア
(4)大福寺
崖観音で有名な真言宗のお寺で、船形山大福寺という。本堂は関東大震災で倒壊して、4年後の昭和2年(1927)に再建した。富浦(南房総市富浦町)の彫工後藤義房作の向拝彫刻は翌昭和3年のもの。境内に元禄16年(1703)の大地震の津波で犠牲になった。摂津西宮(兵庫県西宮市)の人々の供養塔がある。高野山の木食観正が正面の字を書いている。文政5年(1822)の弘法大師供養塔にも海難事故の被災者と考えられる人々の名がある。安永5年(1776)の船形村行者による廻国供養塔のほか、明治39年(1906)の日露戦争記念碑、明治40年に建てられた二代目船形村長川名宗寿翁碑などがある。
(5)崖観音
本尊は平安時代末期の作とされる磨崖仏の十一面観音立像で、海上を行き来する人々から見やすい位置にあり、漁民や海運など海上に生活する人々の信仰を集めてきた。崖から張り出すような堂ができたのは、江戸時代の元禄地震後の復興のときで、関東大震災のあとも同じように再建された。観音堂内には、享保15年(1730)に長狭の佐生勘兵衛によって寄進された御詠歌(船形へ参りてみれば崖作り磯打つ波は千代の数々)の額、明治39年(1906)に船形の人々が寄進した賽銭箱、昭和33年(1958)に船形潮俳句会から改築記念に贈られた14作品の俳句、地元民奉納の天井絵などがある。観音堂の縁先に立つと、鏡のように波静かな館山湾を一望できる。安房国札観音巡礼の第3番札所。
(6)諏訪神社
崖観音に並んである諏訪神社は船形地区の総鎮守で、船形住民の氏神としてあがめられている。社殿は関東大震災後の昭和2年(1927)の再建で、向拝の彫刻は後藤義房による大正15年(1926)の作。神号額は初代義光の弟子で国分(館山市国分)の後藤義信の作。狛犬は安政2年(1855)、元名村(鋸南町)の名石工武田石翁の傑作。石段下には文政10年(1827)に江戸と内房の魚問屋が奉納した石灯籠があり、彫刻は元名の金蔵という石工の作品。7月の第4土曜・日曜に諏訪神社の例祭が行われる。
(7)渋沢栄一磨崖碑
船形学園は明治42年(1909)に東京市養育院安房分院として開設された。それを記念して大正6年(1917)に建設された記念碑。16mの崖を削って、高さ10m、幅6mのなかに一文字30cm四方の大きさで由来が書かれている。書は初代院長で明治の大実業家渋沢栄一、撰文は二松学舎を創設した三島中洲による。戦後は文字が摩滅していたが平成9年(1997年)に復元された。
(8)旧丸山公園
海に突き出した岬のようになった岩場で、伊豆半島や大島・鏡ヶ浦を一望できる。大正時代には公園になっていて、松が30本ほどもあったという。昭和27年(1952年)の遭難者を供養する六地蔵や、漁の神様の海神宮などが祀られている。
(9)芝堂
西行寺の境外仏堂。船形で魚の仲買いをしていた大仲間が六人の霊を弔った安永5年(1776)の供養塔や大漁祈願の魚藍観音を描いた昭和11年(1936)の石碑、明治38年(1905)5月24日の動物供養の墓などがある。
浜三(はまさん)エリア
(10)安政築堤
磯崎湊とよばれていた場所に江戸時代末の安政2年(1855)につくられた堤防。一度台風で崩れて明治6年(1873)に再建したようで、大正12年(1923)の関東大震災で現在の場所まで上がってしまった。この堤防の東側が現在の船形港でいちばん古いところ。
(11)正木清一郎胸像
船形村最後の名主正木貞蔵の長男で、船形町長を長く勤め、千葉県の水産業の発展に尽くし、水産翁とよばれた。館山の北下台に父貞蔵の顕彰のため「正木灯」を建てた。胸像は昭和5年(1930)に建てられたが、戦時供出され、現在の像は昭和59年(1984)に再建されたもの。
(12)山神社(山之神神社)
大山咋命を祀っている神社で、明治30年(1897)の絵馬が奉納されている。江戸時代には、祭礼に出るお船がここで飾り付けを行っていた。
大塚(おおつか)エリア
(13)庚申塔群
享保13年(1728)・文政4年(1821)など江戸時代の庚申塔が7基ある。手前には明治2年(1869年)の手水石がある。
西行伝説
船形の西行寺に伝えられている『西行因縁記』には、西行とその妻「呉葉の前」の悲しい伝説が書かれている。西行は鳥羽上皇の北面の武士として活躍し、呉葉の前を妻としたが、ほどなく出家し、諸国行脚の旅に出る。呉葉の前は2人の子どもと寂しい日々を送っていたが、子ども達も病気で亡くしてしまい、自らも出家し旅に出た。やがて安房に入った呉葉の前は、船形に庵を結んで念仏を称える日々を送っていたが、若くして亡くなる。村人たちが呉葉の前の死を悼み、塚を築いて一本の柳の木を植えたので、この地を柳塚というようになった。その後西行がここを訪れ、呉葉の前の菩提のために西行寺を建てたという。
館山市博物館
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