長尾藩略年表

西暦

月日

事項
1730年享保15年6代本多正矩、駿州田中城を賜わり、田中藩々主となる。(田中領3万石、下総領1万石)
1837年天保8年11代正寛、藩校日知館を創設。
1859年安政6年遠州相良藩と田中城内で砲術試合を行なう。
1860年万延1年12代正訥、家督相続。
1862年文久2年正訥、初代の学問所奉行となる。
1863年文久3年江戸深川の下屋敷を下総加村台(流山市)に移し、下総領の役所とする。
1864年文久4年正訥、駿府城代を命ぜらる。
1867年慶応3年10.14
大政奉還
12.9王政復古
1868年明治1年1.3鳥羽・伏見の戦(戊辰戦争はじまる)
4.11徳川氏、江戸城を開城
5.24徳川家達、新政府より駿河・遠江・三河に70万石を与えられ、静岡藩主となる。
7.13田中藩、安房国長尾へ転封を命ぜられる。
7.26正訥、田中城を出て藤枝宿洞雲寺を仮住居とする。藩士も在町の寺院へ仮宿し、逐次房州へ移住する。
1869年明治2年5.18戊辰戦争終結。
5.このころ藩士の房州移住が終わる。
6.20正訥、版籍を奉還して長尾藩知事となる。
7~8頃大風のため長尾陣屋が倒壊する。
12.2禄制が制定され、華士族の俸禄が削減される。
1870年明治3年1.北条での陣屋建設がはじまる。
5.正訥、北条へ着任。
11.陣屋を長尾から北条へ全面移転する。
12.23正訥隠居し、正憲が家督を相続する。
1871年明治4年7.4廃藩置県、長尾県となる。
11.13長尾県が木更津県に統合される。
12.18在官者以外の華士族の職業自由が許可される。
1872年明治5年8.3学制発布。
1873年明治6年1.10徴兵令布告。
7.28地租改正条例布告。
1875年明治8年3.28廃刀令布告
1876年明治9年8.5華士族の家禄賞典禄廃止。金禄公債証書発行条例を定める。
明治元年、駿遠から房総に移った藩
長尾藩領域

【2】制作時期不明の作品  

左:36 愛染明王図  館山市館山 鈴木庸一氏
右:38 群神図  館山市長須賀 上野和子氏
37 七福神図  館山市神余 田中正氏
39 恵比寿・大黒天図  富浦町多田良 小倉悟氏
左:40 二十三夜勢至菩薩像図  館山市沼 川名桂氏
右:41 神像図  館山市長須賀 上野和子氏
42 神話図  館山市立博物館

43 海南刀切大神真影図

世田谷区
川名嵩久氏

左:44 水天図  館山市犬石 金蓮院
中:45 聖徳太子像図  館山市那古 加藤理雄氏
右:46 八幡太郎義家将軍図  館山市立博物館

47 加藤清正虎退治図

館山市上真倉
石井道敏氏

48 飛天図  富山町平久里下 竜泉寺
49 飛天図(部分)  鋸南町吉浜 妙本寺

左右:50 仙人図  鋸南町吉浜 妙本寺

左:51 山水図  館山市長須賀 上野和子氏
右:52 山水図  富浦町深名常光寺
左:53 草盧三顧図  館山市立博物館
右:54 曲水之宴図  館山市立博物館
55 館山市鏡ヶ浦八景図  鴨川市上小原 白滝山不動教会
左:56 松鶴図  館山市沼 川名桂氏
中:57 群鶴図  館山市館山 鈴木庸一氏
右:58 千亀図  館山市館山 鈴木庸一氏
左:59 雛段飾図  世田谷区 川名英彦氏
右:60 雛段飾図  館山市沼 川名桂氏

61 端装飾図
  館山市沼 川名孝氏

左:62・右:63 端装飾図  館山市館山 鈴木庸一氏
左:64 鍾馗図  館山市長須賀 上野和子氏
右:65 天岩戸  館山市北条 辰野佐市氏

【1】制作時期がわかる作品

左:1 実相院肖像図 弘化4年(1847)  館山市沼 川名桂氏
右:2 二十三夜勢至菩薩像図 安政7年(1860)  館山市館山 鈴木庸一氏
左:3 延命普賢菩薩像図 万延元年(1860)  館山市沼 川名桂氏
右:5 孔雀牡丹図 明治8年(1875)  館山市長須賀 上野和子氏
4 江州石山寺琵琶湖八景眺望図 明治6年(1873) 三芳村山名 智光寺
6 花鳥図 明治11年(1878) 館山市沼 川名桂氏
7 霊峰雲霧図 明治11年(1878) 館山市立博物館

8 茄子図 明治13年(1880)
館山市沼 川名桂氏

9 諸尊来迎図 明治14年(1881) 館山市那古 那古寺
10 天岩戸図 明治15(1882) 千倉町寺庭 高家神社
11 花鳥図 明治16年(1883) 館山市立博物館

12 端午飾図 明治17年(1884)
館山市沼 川名桂氏

左:14 龍驤虎視図下絵 明治18年(1885)  館山市大賀 安藤紀明氏
右:13 龍驤虎視図 明治18年(1885)  館山市沼 川名桂氏

21 智見院・智浄院肖像図
明治20年(1887)
館山市沼 川名桂氏

25 莫越山神社正遷宮上棟祭式図 明治22年(1889) 丸山町沓見 莫越山神社
16 富士巻狩図 明治18年(1885) 千倉町川合 愛宕神社
19 八百万神図 明治19年(1886) 千倉町川合 愛宕神社
15 豊干寒山拾得図 明治18年(1885) 館山市見物 東伝寺
17 六歌仙図 明治19年(1886) 富浦町宮本 生稲謹爾氏
22 日蓮鎌倉帰着之図 明治21年(1888) 和田町中三原 正文寺
18 雲龍図 明治19年(1886) 富山町二部勝善寺
28 恵比寿・大黒天図  明治23年(1890) 天津小湊町清澄 清澄寺
23 七福神図 明治21(1888) 個人蔵
左:26 鈴木氏夫妻肖像図 明治22年(1889)  館山市上真倉 鈴木方子氏
右:20 中国人物図 明治19年(1886)  富浦町多田良 小倉悟氏
24 十六羅漢図 明治22年(1889) 富浦町原岡 長泉寺
29 鶴図 明治24年(1891) 館山市山萩 宝幢院
30 飛天図 明治24年(1891) 館山市山萩 宝幢院

31 蟠龍図 明治24年(1891)
館山市山萩 宝幢院

32 山水図 明治24年(1891)
館山市山萩 宝幢院

33 飛天図(部分) 明治24年(1891) 富山町合戸 福満寺

34 渡辺義重肖像図拓本
明治24年(1891)
館山市洲宮 袋畑墓地

35 不動尊礼拝図 明治24年(1891) 館山市北条 不動院

5.楽山とその周辺

 本格的な画業への取組みと共に、楽山は松下雄之輔(号翠幹)、木村貞吉(号雲山)らの弟子に狩野派の技法を教授し始めた。明治17年(1884)年の第二回内国絵画共進会には、師匠楽山と共に松下翠幹・木村雲山も出品している。木村雲山の作品は館山市内で2点(図版72・73)確認できた。また鈴木寿山の楽山作品模写図2点(図版75・76)があり、楽山とのつながりが考えられる。その他川名明信の作品(図版69・70・71)があるが、この明信の特定はできなかった。ところで楽山の作品には、師匠北川武八の「等楫」や養子孝雄の「耕雲」などの他人の印章を用いているものが目立つ。また楽山は、「坦斎」「明信」の落款・印章を多用しているが、川名明信画「加藤清正図」(図版69)に「大慧」という印象があることから、ここでは楽山の叔父で、保田昌龍寺14世であった大慧(蔵海)が明信である可能性を指摘しておく。

4.東洋絵画共進会への出品

 室町時代末期から江戸時代を経て、明治時代中期までの400年間にわたる日本絵画史上最大最長の流派である狩野派の大原則は、徹底した画法の遵守であった。狩野派は質画(天性の質絵)より、学絵(学ぶ絵)を重んじ、後世にその道を残すことを第一義とした。家法を尊び、家系の維持を重視したことは幕藩体制に即応し、狩野派は全国へと伝播していったのである。

 ところが、明治維新といった社会の一大変革期に、それまでの体制中に形式的に生き延びてきた画家の多くは再編成の憂き目にあい、大名はじめ有力者の庇護によって成り立っていた画家達は生活の基盤を奪われ、また欧化政策のなかで方向を見失い虚脱化していった。

 しかし明治6年(1873)のウィーン万博で日本の美術工芸品が好評を得ると、それ以降政府も欧化政策だけでなく、伝統文化の保存と復興に力を割くようになる。そうしたなかで開かれたのが、内国勧業博覧会や、「絵画共進会」である。内国絵画共進会は、明治15年(1882)と17年に開かれているが、絵画だけの共進会ということで維新以来鳴りをひそめていた伝統派の画家達が勇躍して檜舞台を目指したものであった。

 そして明治19年(1886)4月に東京上野公園で、東洋絵画共進会が開かれている。橋本雅邦らが設立したこの会には、洋画を除く1,600人の画人の作品3,200点が出品された。審査の結果一等は該当者なし、二等が13人、三等は31人、四等が198人、計242人が受賞している。楽山は三等褒状を授与され、その時の作品として「龍驤虎視図」(図版13)が伝えられている。

第8図 第二回内国絵画共進会出品願

第9図 東洋絵画共進会三等褒状

3.後期〔明治14年(1881)~明治24年(1891)〕

 政府が欧化政策だけでなく、伝統文化の保存と復興に力を入れ始め、維新以来鳴りをひそめていた伝統派の画家たちが、「絵画共進会」をめざして本格的な活動を再開しはじめた時期にあたり、楽山の作品も数多く残されている。また、明治13年(1880)5月に楽山が溺愛していた養子の孝雄が21歳の若さで亡くなっていることに注目したい。このことで楽山はかなり落胆したらしい。前述のとおり明治14年に、はじめて号「楽翁」を使用し、以降数多くの作品にその落款・印章を用いているが、孝雄の死もまた、楽山を本格的に画業に取り組み始めさせた一つの契機になったとも考えられる。

 この時期の作品には「八百万神図」(図版19)「日蓮鎌倉帰着之図」(図版22)「草盧三顧図」(図版27)等、緻密な画法を忠実に守り描かれた大画面のものが目立つ。また社寺に残されている作品の大部分はこの時期に描かれたもので、活発な活動を裏付けている。

2.前期〔弘化4年(1847)~明治13年(1880)〕

 川名楽山の残した作品の上からみる前期とは、楽山が16歳時から49歳時と、その人生の大部分を占める時期である。ところが制作時期の明確な作品35点中8点と、前期の作品数は極めて少ない。後に詳述するがこの時期は、明治維新という社会の一大変革期に、多くの画家達が生活の基盤を奪われ、方向を見失って虚脱化していた時期でもあり、このことが楽山の作画活動にも少なからず影響を与えていたとも考えることができる。

 現在江戸期の作品は3点と確認されているが、弘化4年(1847)に祖父川名義正を描いた「実相院肖像図」(図版1)が最も古い。肖像画制作は狩野派の御家芸の一つであり、この作品も独特の肥痩のはげしい力強い描線でくくられ、一種の類型的な様式でまとめられている。楽山は江戸で絵を学ぶ以前に、安房の地で狩野派画家の影響を受けていたのかもしれない。

館山市に残る関東大震災の記念碑と痕跡

関東大震災とは

 大正12年(1923年)9月1日11時58分、関東南部を襲った地震の震源は相模湾中央部で、マグニチュード7.9。震源域とみられる海底で最大160mの隆起、180mの陥没があり、陸地では房総半島南部・三浦半島南部・相模湾岸などで2mを越える隆起、丹沢山地などでは逆に沈下がみられ、各地で山崩れ、地割れが発生した。関東全域と静岡、山梨に地震火災の被害があり、全体で焼失戸数212,000戸余り、死者・行方不明者105,000人余、罹災{りさい}人口340万人余、とくに東京の被服廠{ひふくしょう}跡地だけで32,000人が焼死した惨事であった。

 津波の高さは静岡県熱海で6m、千葉県相浜で9.3m、洲崎で8m、神奈川県三浦で6mに達している。鎌倉由比ヶ浜では局地的に9mに達し、逗子・鎌倉・藤沢の沿岸では5m~7mの津波が到達した。隆起は、北条・館山沿岸で約1.8m(6尺)、高ノ島約2.1m(7尺)、沖ノ島約2.4m(8尺)、富崎・西岬約2.4m、船形約1.5m(5尺)、白浜・和田約1.2m(4尺)、鴨川約0.9m(3尺)と記録されている。房州の津波被害は、震源地の相模灘に面する富崎村(館山市相浜・布良)が最も大きかった。

 千葉県では、全壊13,767戸、半壊6,093戸、焼失431戸、死者行方不明者1,346人の被害があり、安房郡では全壊10,808戸、半壊2,423戸、焼失424戸、死者行方不明者1,206人の被害が出た。館山市内では、全壊5,935戸、半壊878戸、焼失417戸、流失71戸、死者727人、負傷者1,884人で、全壊・半壊は九重村で93%、館野村97%、那古町99%、船形町98%、北条町97%、館山町99%にも達していた。千葉県の死者数のうち90%が安房郡、館山市内だけで県全体の54%を占めており、館山市の被害の大きさがわかる。

(1)船形港の安政突堤

館山市船形1133 高尾造船工業㈱横

 大地震にともなう隆起で、全体が地上に露出した安政2年(1855年)築造の突堤。旧船形港西端の岩礁先に、砂岩質の凝灰岩{ぎょうかいがん}を積み重ねた約85mの堤{つつみ}が残る。築かれた当時、下部は水面下にあって船を寄せることができた。現在の上部幅約2.7m、地上高2.5m余。なお、私有地のため立ち入りは不可。

(2)正木諏訪神社の震災「復興記念碑」

館山市正木4294

 関東大震災では当社も社殿が倒壊し、氏子たちはすぐに社殿再建をはじめた。県からの補助金も受け、大正15年に起工、昭和2(1927)年に落成し建碑した。書は元長尾藩士の熊澤直見{なおみ}。

(3)鶴谷八幡宮の「震災復旧工事竣成記念碑」

市内八幡68

 撰文・題字は安房神社宮司の稲村真里{まさと}によるもの。碑文は当八幡宮の由緒、例祭の様子に続き、関東を襲った大震災によって当社も社殿が被災し、復旧工事が行われたことを記している。後世に伝えるため13回忌の昭和10年(1935年)に建碑された。

(4)-1 北条浜新田の震災記念観音堂

市内北条 中村公園南側

 明治後期に設立された善導会館(現菜の花ホール)に併設されていた観音堂が、大正14年(1925年)の安房国札{くにふだ}観音巡礼の際、新設の35番震災記念観音堂となった。御詠歌は震災で孫を亡くした万里小路通房{までのこうじみちふさ}伯爵が制作。昭和2年(1927年)に延命寺の佐々木珍龍が、震災死者の冥福のため本堂再建を企画し、佐渡で日蓮上人縁{ゆかり}のご神木で親松佛巌{おやまつぶつがん}仏師が制作した5mの現本尊が昭和3年(1928年)に招来{しょうらい}された。昭和8年(1933年)頃に駅前の日東交通の地に本堂を建設。昭和20年代に駅前から現在地へ移転した。

(4)-2 反省地蔵尊

館山市北条1547 中村公園南側

 関東大震災の翌年7月に災害時に狼狽{ろうばい}しないための準備はしてあるかという反省のために、佐々木珍龍と安房倶楽部の音尾松蔵を中心に建設が計画された。本尊の地蔵尊は安房の彫刻家戸村誠治の作。地蔵堂前の線香立ては、昭和2年(1927年)俵光石{こうせき}の制作。

(5)北条神明神社の「御下賜金紀念樹」碑

館山市北条1119

 北条町は1700戸のほとんどが倒壊し、死者230人、負傷者1300人余の惨事となった。心を痛められた天皇陛下から被災民へ1000万円が下賜{かし}されたことを感謝し、北条町の北町{きたちょう}一同は檜{ひのき}10本を植樹した。碑の脇に二代目が植樹されている。

(6)上真倉神明神社の「震災紀念」碑

館山市上真倉1819

 大正12年9月1日の「震災紀念」碑は豊房村の第3代村長鈴木周太郎の書。裏に区長などの名が連なっている。震災の被害をいつまでも忘れないようにとの思いで建てたのであろう。

(7)沼天満神社の「御下賜金記念碑」

館山市沼1160

 関東大震災の罹災{りさい}者に対する天皇陛下から沼区への御下賜金1,456円の伝達式が、大正12年12月13日当社に於いて行われ、記念として柏・槇{まき}・月桂樹等の植樹をしたと記された碑。

(8)柏崎国司神社の「大震災御下賜金記念碑」

館山市沼931

 裏面に柏崎での被害状況などが刻まれている。天皇陛下から勅使{ちょくし}が派遣され慰問の言葉とお手元金の下げ渡しに感謝し、区民一同が御恩を忘れず後世に伝えるためにこの碑を建てた。下段には震災直後に活動した功労者たちの名が刻まれている。

(9)鷹島弁財天の「大正地震記念碑」

館山市館山1562

 題字は貴族院議長徳川家達{いえさと}公爵、撰文は千葉県知事元田敏夫。この碑は安房郡全体の記念碑で、郡内43町村の被害状況や復興支援などの様子を詳細に記し、安房郡震災復興会を組織して官民一体で復興に努力したことなどが刻まれている。4回忌にあたる大正15年9月に建てられた高4.4mの巨大碑である。

(10)見物海岸の地震段丘

館山市見物764 公衆トイレ前

 見物海岸は、砂浜と海岸段丘{だんきゅう}が繰り返すとても綺麗な海岸である。複数の海岸段丘が一目で見られる地形は非常に珍しく、元禄時代の地震と関東大震災による隆起でできたものである。最低位の段丘は大正地震により隆起・離水した平坦面で、大正ベンチと呼ばれている。その上の段丘(元禄段丘面)は沼Ⅳ面と呼ばれる。

(11)洲崎神社の「敬神風化之碑」

館山市洲崎1697

 関東大地震と昭和11年(1936年)の大津波で破壊された社殿や港の再建を、信仰心の篤い住民たちが一体となって成し遂げたことを記念した碑。日本精神の真髄を示し教本にもなりうるので後世に伝えようと、敬神の精神を讃えている。題字は玄洋社社主頭山満{とうやまみつる}、撰文と書は明治大学教授の藤沢衛彦{もりひこ}。裏面に歌浦靖城の書で発起人と漁業組合員の名が刻まれている。昭和12年(1937年)の建立。

(12)布良崎神社の「満井武平頌徳碑」

館山市布良379

 富崎村村長満井{みつい}武平の顕彰碑。関東大震災で幸いにも布良は倒壊家屋も死者もなかったが、2.4mの隆起で港に船が出入りできずに、漁業に支障が出て生活は困難を極めた。大正15年(1926年)に漁港の復旧事業を遂げた武平に対し、村民が謝意を捧げた碑である。

(13)岡田八幡神社の「震災記念」碑

館山市岡田164

 悲惨を極めた大震災での豊房村の被害は、住宅全壊316戸、半壊204戸、死者33人、負傷者10人というなか、全壊21戸だった岡田区の被害は「軽く真{まこと}に天佑{てんゆう}であった」と書いている。天皇陛下の御下賜金で復興したことを感謝した碑。

(14)下真倉日枝神社の震災「御下賜記念碑」

館山市下真倉1

 3回忌にあたる大正14年(1925年)9月1日の建碑。裏面に下真倉区の被害状況が書かれ、区内105戸の内全壊79戸、半壊13戸、死者4人、負傷者が9人の被害だった。天皇陛下から下賜された金一封に感謝して、区民がこの事を永遠に伝えるため建碑した。

(15)安布里源慶院の「再建新命碑」

館山市安布里647

 天正年間(1573年~1592年)に里見義弘の娘佐與{さよ}姫により創建され、のち古屋敷より現在の地に移ったという曹洞宗の寺院。関東大震災で本堂などが倒壊し、昭和7年(1932年)に再建修理がなされた。昭和12年(1937年)に完成記念で建てられた碑である。

(16)安東熊野神社の「大正大震災」記念碑

館山市安東564

 4回忌の大正15年9月1日に、九重村の安東区青年団が建てた。安東区は全戸数49戸の内全壊47戸、半壊1戸、住宅でないものを含むと全壊64棟、半壊37棟とある。死者は6人だった。皇室からの救恤{きゅうじゅつ}金の下賜や、全国からの慰問品が届いた。安東区には恩賜{おんし}金420円、義援金466円、給与金1385円が届き、皇室や全国の人々への感謝の気持ちを永遠に伝えるために建碑された。

(17)腰越延命院の「大正十二年大震記念」碑

館山市腰越509-1

 「大きな震えに見舞われ、山は崩れ家屋は悉{ことごと}く倒れ、人が死に負傷した。天皇陛下は御下賜金を賜いこれを救った。」と記される。館野地区腰越の在郷軍人会と青年団一同が、追悼のために大正13年の一周忌に建てた碑。この記念碑の左に倒れている大きな岩は、露頭{ろとう}の岩の基礎部が地震により折れて倒れたものである。

(18)延命寺断層

南房総市本織2014-1 延命寺前

 関東大地震により生じた最大の断層{だんそう}。南房総市本織(旧三芳村)の延命寺丘陵を中心として生じたので命名された。館山市江田の水田地帯を含む府中北部から中の大沼に至る延長約4㎞の断層である。80余年を経た現在、圃場{ほじょう}整備や道路工事などで表面的には痕跡を止めていないが、わずかに本織字稲荷森{とうかんもり}の山中に見られ、「南房総市指定天然記念物(自然遺跡)」として保存されている。


作成:ミュージアムサポーター「絵図士」

川崎一・鈴木正・山杉博子・吉村威紀 2019.11.26作

監修 館山市立博物館 〒294-0036 館山市館山351-2 ℡.0470-23-5212

房州と江戸・東京を結ぶ文化財(市内南部)

このシリーズでは、かつて安房地方や館山市が江戸・東京と海路で結ばれていたことを物語る文化財を紹介しています。水産物を中心に房州の産物が取引されていたことを背景にした神仏への奉納物や、江戸・東京へ出て成功した房州の人々やその交流を背景にした江戸職人の製作物など、痕跡は数多くみられます。それらの文化財ついて館山市内を3エリアに分けて紹介しました。市内湾岸北部エリア館山平野部エリア・市内南部エリアを合わせてご覧ください。

(1)館山神社(館山)の手水石<拝殿前>

館山神社文化財マップ参照

 館山新井浦出身の錦岩{にしきいわ}浪五郎(本名:森紋次郎)が、江戸で大相撲力士となり、文政9年(1826年)の十両昇進に際して新井浦の諏訪神社に奉納したもの。錦岩浪五郎は文化14年(1817年)に霧の海と名乗り江戸大相撲に登場し、文政5年(1821年)の三段目の時、錦岩浪五郎と改名した。文政7年(1824年)幕下へ昇進、文政9年(1826年)に十両へ昇進した。天保5年(1835年)の引退後には新井浦の廻船問屋として海運業で活躍している。慶応3年(1867年)に没し、墓は長福寺新井霊園にある。

(2)館山神社(館山)の手水石<末社稲荷社>

館山神社文化財マップ参照

 館山各町内の石宮がならぶ一角の手水石は、文政3年(1820年)に地元の庄司仁兵衛・中山勇助らによって奉納されたもの。裏には江戸領国の石工滝口某が作ったという銘文が見られる。

(3)館山神社(館山)の槙の植樹記念碑

館山神社文化財マップ参照

 元は江戸深川の鈴木某が願主として寄進した鳥居だったもので、貫(鳥居の横の柱のこと)を差し込んでいた穴が見られる。関東大震災後の館山神社合祀創建にあたって、昭和2年(1927年)に楠見{くすみ}区の厳島神社から3本の槙を植樹し、震災で破損していた鳥居を記念碑として使用した。2基で一対であり、社殿に向かって右側の「奉」とある碑は平成18年(2006年)の祭礼で破損し再建されたもの。左側の池際の碑は移植当時のままで正面に「献」と刻まれ、裏には植樹にかかわった楠見区の人々の名が刻まれている。「奉献」は鳥居の痕跡である。

(4)北下台(館山)の関沢明清碑

北下台文化財マップ参照

 明治期の水産官僚で、近代水産業の先駆者として捕鯨や遠洋漁業などに功績を遺した関沢明清{あけきよ}の記念碑。大日本水産会の会頭・彰仁親王の篆額{てんがく}、同会長(初代幹事長)品川弥二郎の撰文{せんぶん}、日下部東作の書で、東京駒込の石工・井亀泉{せいきせん}が製作した。日本水産会の重鎮や地元有志21名が発起人となり、明治33年(1890年)に建てられた。

 関沢明清〔天保14年(1843年)~明治30年(1897年)〕は加賀藩士で、幕末の江戸で大村益次郎らに蘭学・航海術を学んで渡英している。その後も政府官僚としてウィーン万国博覧会等を視察して、日本の水産業振興策の重要性を痛感し、アメリカ式近代捕鯨やサケ・マスの人口ふ化、缶詰製造法を日本へ導入した。また、明治22年(1889年)に水産伝習所(現東京海洋大学)を開き、水産教育を実践している。以来現在に至るまで館山が実習所である。その後、自ら館山に居住し関沢水産製造所を設立、勝山の捕鯨船団・醍醐新兵衛と組んで捕鯨や遠洋漁業の事業を興した。伝習所裏山の北下台{ぼっけだい}に建碑されている。

(5)三福寺(館山)の新井文山の墓碑

三福寺文化財マップ参照

 新井文山は江戸林家塾で学んだ幕末の儒学者。館山新井浦に生まれ、幼少の時より三福寺住職や地元柏崎の素封家鈴木直卿に学問の指導を受け、14歳の時住職の援助で江戸へ出て儒学を学んだ。28歳で帰郷して私塾を開き、地域の教育に力を注いでいる。天保7年(1836年)、館山藩主稲葉公に仕えて、天保13年(1842年)には目付兼郡{こおり}奉行となった。嘉永4年(1851年)に73歳で没した。碑は嘉永6年(1853年)、昌平黌{しょうへいこう}教官佐藤担{たいら}の撰文で、房州保田の石工武田石翁{せきおう}の製作である。裏参道に文山夫妻の墓がある。

(6)三福寺(館山)の俵三石作釈迦三尊像

三福寺文化財マップ参照

俵三石は東京美術学校彫刻科の高村光雲のもとで学んだ石彫家。慶応4年(1688年)、館山楠見浦の石屋に生まれ、明治24年(1891年)頃上京。明治27年(1894年)に同校の石彫教場助手に任命されて教官となったが、明治30年(1897年)頃には館山へ戻り家業の石屋を継いだ。寺社に狛犬、不動明王、地蔵半跏像{はんかぞう}など優れた作品を残しているが、三福寺境内の釈迦三尊像や酒樽型の墓は有名である。

(7)慈恩院(上真倉)の関西商人座古屋墓地改修之碑

慈恩院文化財マップ参照

 江戸中期に新井浦で、押送船{おしょくりぶね}7艘で鮮魚輸送を請け負った館山の代表的な魚商人である。当時の魚商人は干鰯{ほしか}や鮮魚の仲買を営み、江戸に魚問屋を起業するなどして、江戸100万人の消費を支えていた。当家の座古屋{ざこや}清五郎は江戸開府に当たり、摂州座古多村(大阪市西区カ)から房総へ進出した関西商人の一人とされている。

(8)海南刀切{なたぎり}神社(見物)の狛犬

なたぎり神社文化財マップ参照

 見物村の若者中で天保10年(1839年)に奉納したもの。楠見浦の石工田原長左衛門とともに江戸京橋石川橋の彫工・兼吉が共同製作した。

(9)諏訪神社(波左間)の狛犬

光明院と諏訪神社文化財マップ参照

 昭和2年(1927年)に波左間漁業組合や東京・横浜の商店が奉納したもの。奉納者のひとり「八丁幸商店」は横浜市場の仲買人で、現在の「ヨコレイ(横浜冷凍株式会社)」である。波左間の喜久丸の池田家から婿を迎え、当時製氷業で繁盛した。屋号(?{かさじゅう})は魚のブランドとなり高値で売買されたためニセモノがたくさん出回った。

(10)諏訪神社(波左間)の手水石

光明院と諏訪神社文化財マップ参照

 江戸日本橋本船町の魚問屋伊豆屋善兵衛が、弘化2年(1846年)に奉納した。漁村だった波左間と取引があったのだろう。「灌水」の文字を書いた神通{じんつう}は富山藩士の殿岡北海といい、江戸で国学者清水浜臣に学んだ書家である。慶応元年(1865年)の没。

(11)八坂神社(伊戸)の狛犬

 伊戸村の網元・吉田角右衛門が元治元年(1864年)に奉納したもの。江戸の石工・七右衛門に注文して造らせた。伊戸村は江戸時代から明治にかけて、漁業で栄えていた。

(12)照浪院(坂足)の手水石

歴史探訪マップ伊戸坂足参照

 江戸日本橋の魚問屋米屋嘉兵衛が、寛政10年(1798年)に奉納したもの。かつての照浪院{しょうろういん}は、波切不動として漁師たちから大漁・海上安全にご利益があるとして信仰を集めていた。

(13)相浜神社(相浜)の石灯籠

歴史探訪マップ相浜布良参照

 江戸芝金杉の魚問屋須原屋喜兵衛・和泉屋三良兵衛、江戸深川の多田屋又兵衛・水戸屋次良右衛門・和田屋七良兵衛が、文政13年(1830年)に奉納したもの。純漁村の相浜村と取引があったのだろう。石工は館山楠見浦の田原長左衛門である。

(14)香取(かんどり)神社(相浜)の石垣

歴史探訪マップ相浜布良参照

 石垣寄付記念碑は、東京日本橋の魚河岸米喜・尾佐・米久・角米・伊豆魚等20名の魚商が、明治32年(1899年)に石垣を奉納した際のもの。現在も石垣の一部が残されている。

(15)布良崎神社(布良)の石灯籠

布良崎神社文化財マップ参照

 江戸日本橋蔵屋敷の米谷久七、地元網元の豊崎藤右衛門・橋本権右衛門、船大工、帆屋などが元治元年(1865年)に奉納したもの。日本橋川は水運の要路で、房総・伊豆からの新鮮な魚介類を運んでくる押送船{おしょくりぶね}で賑わい、全国からの廻船も入って幕府や江戸市中に物産が供給される重要な場所だった。房州屈指の漁村である布良村も押送船の基地だった。石工は神余の権四郎と滝口の松五郎・竹二である。

(16)小網寺(出野尾)の銅造地蔵菩薩坐像

小網寺文化財マップ参照

 観音堂前の銅造地蔵菩薩坐像は、江戸神田の鋳物師{いもじ}多川薩摩の鋳造である。安永2年(1773年)の策で、総高270cm、像高188cm。明和9年(1772年)に本堂・仁王門等の再建にあわせ、神余村出身の僧宗真が寄進したもの。台座に当寺住職26世の隆澄{りゅうちょう}が、発起人宗真の尽力を讃えるとともに小網寺再建の経緯を記している。

(17)大円寺(大戸)の山下楽山の碑

歴史探訪マップ大戸長田参照

 江戸で開業した医師。江戸で中川法印に内科を、渡部吉郎に外科を学び、その後京都へ行き賀川光崇に産科を学んだ。父は館山藩侍医{じい}で山下村の山下玄門。碑は楽山の23回忌に子供の安民{やすたみ}が母の地元に建立した。安民は千葉師範学校の教授だった。題額は勝海舟。書は下総の村岡良弼{りょうすけ}、石工は東京駒込の井亀泉{せいきせん}(酒井八右衛門)。


作成:ミュージアム・サポーター「絵図士」

金久ひろみ・佐藤博秋・佐藤靖子・鈴木以久枝 2019.2.2作

監修 館山市立博物館 〒294-0036 館山市館山351-2 ℡:0470-23-5212

房州と江戸・東京を結ぶ文化財(館山平野部)

このシリーズでは、かつて安房地方や館山市が江戸・東京と海路で結ばれていたことを物語る文化財を紹介しています。水産物を中心に房州の産物が取引されていたことを背景にした神仏への奉納物や、江戸・東京へ出て成功した房州の人々やその交流を背景にした江戸職人の製作物など、痕跡は数多くみられます。それらの文化財ついて館山市内を3エリアに分けて紹介しました。市内湾岸北部エリア・館山平野部エリア・市内南部エリアを合わせてご覧ください。

(1)新塩場(北条)の南寿庵

 館山は明治・対象時代から保養地や海水浴場として利用され、勝れた景色、温暖な気候、素朴な人情風俗に魅かれ来房する人が多かった。明治11年(1878年)に東京からの汽船が館山へ就航し、大正8年(1919年)に安房北条駅まで鉄道が開通、大正13年(1924年)夏には震災後の観光客誘致も再開し、別荘を持つ人も急速に増えた。南寿庵は東京電灯株式会社社長の永橋剛一郎の別荘として、大正12年(1923年)12月に、土地所有者で大工の辰野銀次郎により、二階建てヒノキ造りの和風建築として建てられたものである。

(2)金台寺(北条)の本田存{ありや}先生の墓

金台寺文化財マップ参照

 群馬県館林生まれで、水府流太田派の水泳を極め、柔道は講道館八段の師範である。当初は東京高等師範学校の生徒を率いて来房し、のち30余年間北条に住んで、阿波中学校をカッパ中学と称されるまでに育てた、房州の水泳・柔道の開祖である。昭和24年(1949年)、北条海岸の東京高師学校寮(現筑波大学北条寮)で没した。79才。泡水泳倶楽部・安房柔道有段者会・茗渓会{めいけいかい}(東京高師OB会)により、金台寺へ分骨埋葬された。お墓は本堂裏の井戸近くにある。

(3)金台寺(北条)の伯爵万里小路通房の子供の墓

金台寺文化財マップ参照

 万里小路通房{までのこうじみちふさ}は明治23年(1890年)に明治天皇の侍従を退官して北条に別荘を構え、ほとんど北条で過ごした伯爵。農業に関心を持ち、明治27年(1894年)には耕地を習得し、農業の指導者を読んで野菜の促成栽培を進めた。また安房大道会などで青年の社会教化活動にも取り組んだ。金台寺近くに屋敷があり、その間に没した子供たち<通守(明治29年(1896年)没)・津由子(明治35年(1902年)没・多美子(明治41年(1908年)没>の墓がある。

(4)大巌院(大綱)の雄譽霊巖の墓

大巌院文化財マップ参照

 檀蓮社雄譽霊巖{おうよれいがん}松風上人は浄土宗の中興の祖で、全国的に活躍した高僧。諸国を巡行し、房州では里見氏のもとで大巌院を創建した。のち房総はもとより全国的な海上交通の要所である日本橋近くの霊岸島に霊巌寺を建立している。将軍家の命により寛永6年(1629年)に浄土宗総本山の京都知恩院32世となり、寛永18年(1641年)に88歳で没した。遺骨は所縁の寺々に分骨されている。

(5)大巌院(大綱)の四面石塔

大巌院文化財マップ参照

 四角柱の石塔で雄譽{おうよ}上人が建立した。玄武岩製で高さは219cmある。北西東南面にそれぞれインドの梵字{ぼんじ}、中国の篆字{でんじ}、朝鮮のハングル、日本の和風感じで、「南無阿弥陀仏」と刻まれている。ハングル文字は15世紀半ばに制定された初期の字体で、現在は使用されておらず、韓国でも極めて貴重なもの。建立した元和10年(1624年)は文禄の役(秀吉の朝鮮出兵)から33回忌にあたり、雄譽上人と寄進者の山村茂兵が戦没者供養のため建立したとの考え方がある。

(6)大巌院(大綱)の石灯籠

大巌院文化財マップ参照

本堂前の石灯籠は、雄譽上人の書で「南無阿弥陀仏」と刻まれ、左塔は元和10年(1624年)に弟子の霊譽{れいよ}上人が、右側は翌寛永2年(1625年)に孫弟子の光譽{こうよ}上人が建立した。

(7)大巌院(大綱)の鈴木家歴代の墓誌

大巌院文化財マップ参照

 鈴木家は里見家の家臣の家柄と伝えられ、江戸中期から7代にわたる医家であった。5代正儀{まさよし}は江戸昌平黌や大田錦城の門で儒学を学んだ。医術は古医学・蘭方を学んで館山へ戻り、医者を継いでいる。6代東海は正儀の二男で、江戸の医師坪井信道に蘭学と蘭方医学を学び、その後石土生玄碩{はぶげんせき}(シーボルトに眼病治療法を学ぶ)にも学んで館山へ戻り、医者を継いだ。江戸の儒者や漢詩人等と交流を持ち、医業の傍ら子弟に漢籍を教授していた。7代抱山(1833年~1898年)は正儀の三男で、江戸の佐藤商に奉公したのち、叔母の世話により医師伊東玄晁{げんちょう}(江戸種痘所を開いた伊東玄朴{げんぼく}の高弟)に師事、その代診をするほどになったという。22才で帰郷し医者を継いだ。その後医業の傍ら子弟の教育にあたるとともに、江戸の文人墨客が来訪して交流を重ねた。

(8)金乗院(山本)の高木氏族譜碑

歴史探訪マップ安布里山本参照

 山本村の医師高木敏{とし}(周岱{しゅうだい})が旧高木一族の系譜を刻んだもので、安政3年(1856年)の建碑。題額は江戸の戸川安清{やすずみ}書は小島知足{ともたり}による。戸川安清は長崎奉行や勘定奉行を歴任した旗本で、篆書{てんしょ}・隷書{れいしょ}を得意とする書の達人であり、14代将軍家茂の書の師範であった。小島知足は備後国福山藩士で儒者。藩主阿部正弘が老中として将軍の命でロシアに返書をした際に清書し、書家として名声が高かった。

(9)国分寺(国分)の三名主の碑

国分寺文化財マップ参照

 江戸時代の農民一揆「万石騒動」で犠牲になった三人の名主(三義民)の顕彰碑で、撰文と篆額は文学博士の細川潤次郎{じゅんじろう}、署は諸井春畦{もろいしゅんけい}。明治43年(1910年)に200回忌で建碑された。細川潤次郎は土佐藩士で、藩主山内容堂の侍読{じどく}及び藩校教授として洋学を教えた。維新後は明治政府に出仕して元老院議官や女子高等師範学校長を務めている。「法律起草のエキスパート」で、刑法・陸海軍刑法・医事法・薬事法起草の中心となった法律家として知られる。明治27年(1894年)に安房への公務出張中に「万石騒動」の歴史を知り、後にその事績を公刊した。諸井春畦は埼玉県出身で、書の大家である西川春洞に学び書家として大成した人物である。

(10)国分寺(国分)の伴直家主の碑

国分寺文化財マップ参照

 『続日本後記』に孝子として記される伴直家主{とものあたいやかぬし}を顕彰した石工の武田石翁が、国分寺境内に家主の両親の墓碑として嘉永4年(1851年)に建碑した。篆額は大納言日野資愛{すけなる}・書は道本賢壽{どうほんけんじゅ}である。賢壽は京都地積院に40年在山し、佐渡の蓮華峰寺(真言宗三大聖地)を経て、江戸浅草大護院住職となった僧で、雄渾な書きぶりの能書家として知られる。石翁は多くの文人と交流をもったことでも知られる。

(11)孝子塚(国分)の伴直家主の碑

歴史探訪マップ国分滝川参照

 伴直家主{とものあたいやかぬし}の事蹟は、勅撰の正史に記載されているにもかかわらず、地元では殆ど忘れられていたが、天保10年(1839年)頃に武田石翁がその墓を発見して孝子塚と名付け、嘉永3年(1850年)になって碑が建てられた。篆額は日野資愛{すけなる}の揮毫で「孝子家主之碑」と題され、本文は加藤霞石{かせき}の筆で『続日本後記』の文を書いてある。日野資愛は江戸後期の公卿で、皆川淇園{きえん}に儒学を学び、詩文や和歌にも優れた。加藤霞石は安房平久里{へぐり}中村の医師で、漢詩人。詩文や書に優れ、その住まいには大沼枕山、梁川星巖等の文人が来訪した。

(12)杉間堂(広瀬)の唱題一千部之塔

歴史探訪マップ腰越広瀬参照

祖師堂前にある唱題一千部之塔は、相模西浦賀の人がかかわって、日蓮の六百遠忌の報恩のため明治12年(1879年)に建立された。基壇に記された名前の並びから、この人は海発村(南房総市)出身の可能性が高く、東京湾をまたいだ信仰が感じられる。

(13)手力雄神社(大井)の手水石

手力雄神社文化財マップ参照

 文政9年(1826年)に白子村(南房総市)の人達が寄進した手水鉢は、深川(東京都江東区)の石工露崎長兵衛が製作した。江戸には干鰯{ほしか}問屋があり深川には干鰯揚場{あげば}があったことから、深川の富岡八幡宮境内には、干鰯問屋の久住{くすみ}屋へ納めていた干鰯の仕入中が、文政7年(1824年)に奉納した手水鉢がある。そこにはかつて「仕入中」として「房州白子浦 酒屋與兵衛」の文字があったといい、その名は手力雄神社の手水鉢にもある。江戸時代後期には白子村に干鰯場があった。

(14)手力雄神社(大井)の石井氏碑

手力雄神社文化財マップ参照

 明治30年(1897年)に建立された手力雄神社神官石井昌道{まさみち}(1818年-1896年)の顕彰碑である。昌道は江戸の昌平校に学び、志士たちと交わって勤皇の志を抱いたという。安房地域の医師で詩人鱸松塘{すずきしょうとう}、高木抑斎{よくさい}との交流や、海防論を書いた医師高木周岱{しゅうだい}と慶應4年(1868年)に治安維持の勤皇隊である「房陽神風{しんぷう}隊」を結成したことが載る。隊員は90名程で、半数は神職・医師・名主で安房全体に広がっていた。明治2年(1869年)に隊が解散すると、昌道は教育者として活躍した。


作成:ミュージアム・サポーター「絵図士」
青木悦子・刑部昭一・鈴木正・殿岡崇浩 2019.2.16作
監修 館山市立博物館 〒294-0036 館山市館山351-2 ℡:0470-23-5212