房州と江戸・東京を結ぶ文化財(館山平野部)

房州と江戸・東京を結ぶ文化財(館山平野部)

このシリーズでは、かつて安房地方や館山市が江戸・東京と海路で結ばれていたことを物語る文化財を紹介しています。水産物を中心に房州の産物が取引されていたことを背景にした神仏への奉納物や、江戸・東京へ出て成功した房州の人々やその交流を背景にした江戸職人の製作物など、痕跡は数多くみられます。それらの文化財ついて館山市内を3エリアに分けて紹介しました。市内湾岸北部エリア・館山平野部エリア・市内南部エリアを合わせてご覧ください。

(1)新塩場(北条)の南寿庵

 館山は明治・対象時代から保養地や海水浴場として利用され、勝れた景色、温暖な気候、素朴な人情風俗に魅かれ来房する人が多かった。明治11年(1878)に東京からの汽船が館山へ就航し、大正8年(1919)に安房北条駅まで鉄道が開通、大正13年(1924)夏には震災後の観光客誘致も再開し、別荘を持つ人も急速に増えた。南寿庵は東京電灯株式会社社長の永橋剛一郎の別荘として、大正12年(1923)12月に、土地所有者で大工の辰野銀次郎により、二階建てヒノキ造りの和風建築として建てられたものである。

(2)金台寺(北条)の本田存(ありや)先生の墓

金台寺文化財マップ参照

 群馬県館林生まれで、水府流太田派の水泳を極め、柔道は講道館八段の師範である。当初は東京高等師範学校の生徒を率いて来房し、のち30余年間北条に住んで、阿波中学校をカッパ中学と称されるまでに育てた、房州の水泳・柔道の開祖である。昭和24年(1949)、北条海岸の東京高師学校寮(現筑波大学北条寮)で没した。79才。泡水泳倶楽部・安房柔道有段者会・茗渓会(めいけいかい)(東京高師OB会)により、金台寺へ分骨埋葬された。お墓は本堂裏の井戸近くにある。

(3)金台寺(北条)の伯爵万里小路通房の子供の墓

金台寺文化財マップ参照

 万里小路通房(までのこうじみちふさ)は明治23年(1890)に明治天皇の侍従を退官して北条に別荘を構え、ほとんど北条で過ごした伯爵。農業に関心を持ち、明治27年(1894)には耕地を習得し、農業の指導者を読んで野菜の促成栽培を進めた。また安房大道会などで青年の社会教化活動にも取り組んだ。金台寺近くに屋敷があり、その間に没した子供たち<通守(明治29年(1896)没)・津由子(明治35年(1902)没・多美子(明治41年(1908)没>の墓がある。

(4)大巌院(大綱)の雄譽霊巖の墓

大巌院文化財マップ参照

 檀蓮社雄譽霊巖(おうよれいがん)松風上人は浄土宗の中興の祖で、全国的に活躍した高僧。諸国を巡行し、房州では里見氏のもとで大巌院を創建した。のち房総はもとより全国的な海上交通の要所である日本橋近くの霊岸島に霊巌寺を建立している。将軍家の命により寛永6年(1629)に浄土宗総本山の京都知恩院32世となり、寛永18年(1641)に88歳で没した。遺骨は所縁の寺々に分骨されている。

(5)大巌院(大綱)の四面石塔

大巌院文化財マップ参照

 四角柱の石塔で雄譽(おうよ)上人が建立した。玄武岩製で高さは219cmある。北西東南面にそれぞれインドの梵字(ぼんじ)、中国の篆字(でんじ)、朝鮮のハングル、日本の和風感じで、「南無阿弥陀仏」と刻まれている。ハングル文字は15世紀半ばに制定された初期の字体で、現在は使用されておらず、韓国でも極めて貴重なもの。建立した元和10年(1624)は文禄の役(秀吉の朝鮮出兵)から33回忌にあたり、雄譽上人と寄進者の山村茂兵が戦没者供養のため建立したとの考え方がある。

(6)大巌院(大綱)の石灯籠

大巌院文化財マップ参照

本堂前の石灯籠は、雄譽上人の書で「南無阿弥陀仏」と刻まれ、左塔は元和10年(1624)に弟子の霊譽(れいよ)上人が、右側は翌寛永2年(1625)に孫弟子の光譽(こうよ)上人が建立した。

(7)大巌院(大綱)の鈴木家歴代の墓誌

大巌院文化財マップ参照

 鈴木家は里見家の家臣の家柄と伝えられ、江戸中期から7代にわたる医家であった。5代正儀(まさよし)は江戸昌平黌や大田錦城の門で儒学を学んだ。医術は古医学・蘭方を学んで館山へ戻り、医者を継いでいる。6代東海は正儀の二男で、江戸の医師坪井信道に蘭学と蘭方医学を学び、その後石土生玄碩(はぶげんせき)(シーボルトに眼病治療法を学ぶ)にも学んで館山へ戻り、医者を継いだ。江戸の儒者や漢詩人等と交流を持ち、医業の傍ら子弟に漢籍を教授していた。7代抱山(1833~1898)は正儀の三男で、江戸の佐藤商に奉公したのち、叔母の世話により医師伊東玄晁(げんちょう)(江戸種痘所を開いた伊東玄朴(げんぼく)の高弟)に師事、その代診をするほどになったという。22才で帰郷し医者を継いだ。その後医業の傍ら子弟の教育にあたるとともに、江戸の文人墨客が来訪して交流を重ねた。

(8)金乗院(山本)の高木氏族譜碑

歴史探訪マップ安布里山本参照

 山本村の医師高木敏(とし)(周岱(しゅうだい))が旧高木一族の系譜を刻んだもので、安政3年(1856)の建碑。題額は江戸の戸川安清(やすずみ)書は小島知足(ともたり)による。戸川安清は長崎奉行や勘定奉行を歴任した旗本で、篆書(てんしょ)・隷書(れいしょ)を得意とする書の達人であり、14代将軍家茂の書の師範であった。小島知足は備後国福山藩士で儒者。藩主阿部正弘が老中として将軍の命でロシアに返書をした際に清書し、書家として名声が高かった。

(9)国分寺(国分)の三名主の碑

国分寺文化財マップ参照

 江戸時代の農民一揆「万石騒動」で犠牲になった三人の名主(三義民)の顕彰碑で、撰文と篆額は文学博士の細川潤次郎(じゅんじろう)、署は諸井春畦(もろいしゅんけい)。明治43年(1910)に200回忌で建碑された。細川潤次郎は土佐藩士で、藩主山内容堂の侍読(じどく)及び藩校教授として洋学を教えた。維新後は明治政府に出仕して元老院議官や女子高等師範学校長を務めている。「法律起草のエキスパート」で、刑法・陸海軍刑法・医事法・薬事法起草の中心となった法律家として知られる。明治27年(1894)に安房への公務出張中に「万石騒動」の歴史を知り、後にその事績を公刊した。諸井春畦は埼玉県出身で、書の大家である西川春洞に学び書家として大成した人物である。

(10)国分寺(国分)の伴直家主の碑

国分寺文化財マップ参照

 『続日本後記』に孝子として記される伴直家主(とものあたいやかぬし)を顕彰した石工の武田石翁が、国分寺境内に家主の両親の墓碑として嘉永4年(1851)に建碑した。篆額は大納言日野資愛(すけなる)・書は道本賢壽(どうほんけんじゅ)である。賢壽は京都地積院に40年在山し、佐渡の蓮華峰寺(真言宗三大聖地)を経て、江戸浅草大護院住職となった僧で、雄渾な書きぶりの能書家として知られる。石翁は多くの文人と交流をもったことでも知られる。

(11)孝子塚(国分)の伴直家主の碑

歴史探訪マップ国分滝川参照

 伴直家主(とものあたいやかぬし)の事蹟は、勅撰の正史に記載されているにもかかわらず、地元では殆ど忘れられていたが、天保10年(1839)頃に武田石翁がその墓を発見して孝子塚と名付け、嘉永3年(1850)になって碑が建てられた。篆額は日野資愛(すけなる)の揮毫で「孝子家主之碑」と題され、本文は加藤霞石(かせき)の筆で『続日本後記』の文を書いてある。日野資愛は江戸後期の公卿で、皆川淇園(きえん)に儒学を学び、詩文や和歌にも優れた。加藤霞石は安房平久里(へぐり)中村の医師で、漢詩人。詩文や書に優れ、その住まいには大沼枕山、梁川星巖等の文人が来訪した。

(12)杉間堂(広瀬)の唱題一千部之塔

歴史探訪マップ腰越広瀬参照

祖師堂前にある唱題一千部之塔は、相模西浦賀の人がかかわって、日蓮の六百遠忌の報恩のため明治12年(1879)に建立された。基壇に記された名前の並びから、この人は海発村(南房総市)出身の可能性が高く、東京湾をまたいだ信仰が感じられる。

(13)手力雄神社(大井)の手水石

手力雄神社文化財マップ参照

 文政9年(1826)に白子村(南房総市)の人達が寄進した手水鉢は、深川(東京都江東区)の石工露崎長兵衛が製作した。江戸には干鰯(ほしか)問屋があり深川には干鰯揚場(あげば)があったことから、深川の富岡八幡宮境内には、干鰯問屋の久住(くすみ)屋へ納めていた干鰯の仕入中が、文政7年(1824)に奉納した手水鉢がある。そこにはかつて「仕入中」として「房州白子浦 酒屋與兵衛」の文字があったといい、その名は手力雄神社の手水鉢にもある。江戸時代後期には白子村に干鰯場があった。

(14)手力雄神社(大井)の石井氏碑

手力雄神社文化財マップ参照

 明治30年(1897)に建立された手力雄神社神官石井昌道(まさみち)(1818-1896)の顕彰碑である。昌道は江戸の昌平校に学び、志士たちと交わって勤皇の志を抱いたという。安房地域の医師で詩人鱸松塘(すずきしょうとう)、高木抑斎(よくさい)との交流や、海防論を書いた医師高木周岱(しゅうだい)と慶應4年(1868)に治安維持の勤皇隊である「房陽神風(しんぷう)隊」を結成したことが載る。隊員は90名程で、半数は神職・医師・名主で安房全体に広がっていた。明治2年(1869)に隊が解散すると、昌道は教育者として活躍した。


作成:ミュージアム・サポーター「絵図士」
青木悦子・刑部昭一・鈴木正・殿岡崇浩 2019.2.16作
監修 館山市立博物館 〒294-0036 館山市館山351-2 ℡:0470-23-5212