武田石翁と銘
その他の銘
- 天然斎石翁、石翁是房等の銘があり天然斎、石翁、是房が組み合わされ使用された。
- 20歳半ば頃から自分の銘を入れ始め、40歳頃までの作品はあまり多くないが周治、壽秀の銘が使われた。
- 作品の殆どは石翁銘の50歳以降が多く60歳頃より安房石翁、78歳頃より東海鋸山下田石翁と自分の居所を銘に入れだした。
- 是房、天然斎は単独で使われず、まず「石翁」という銘があり、その飾りとして石翁の前に天然斎が、石翁の後ろに是房が使われているようであるが、作品は少ないようである
(1)新當斎先生試技碑と十二神将像(日本寺)
鋸南町元名184
新當斎(しんとうさい)先生試技碑
呑海楼(どんかいろう)庭先の新當斎先生試技碑は、下総佐原の剣豪千葉右門の武芸を讃えた碑。号は新當斎。天保元年(1830)4月建立。碑は幅94cm・総高約265cm。剣や槍(宝蔵院流十二世)の奥義を窮め名を成した。一斉に放たれた矢を槍で悉く打ち砕いて見せたという。石碑の撰文は亀田梓、書は大竹培、篆書は巻大任。文を囲むように阿吽の龍が線刻され、「田石翁鐫(せん)」の銘がある。尚、この石碑は休祭日に茶室(呑海楼)を利用する方のみ見ることが出来る。
十二神将像
心字池近くの洞窟に納る伊豆石を用いた石像は十二神将の内の一体で安底羅(あんていら)大将。方位を示す干支の申(さる)を表す猿の彫り物が頭頂と腹部の帯に確認できる。中国風な甲冑を付け右手に宝珠を持つ凛々しい姿。像高は約67cm。この地は明治の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)等により破壊されたため別の所に保管されている。その中で動物の彫り物を頼りに、名を特定できるのは背面に「壽秀(花押)」と武田石翁の銘が刻まれている真達羅(しんだら)大将(寅)、招杜羅(しょうとら)大将(丑)、因達羅(いんだら)大将(巳)、波夷羅(はいら)大将(辰)、按?羅(あんにら)大将(未)の5体。乾坤山日本寺は奈良時代の神亀2年(725)、薬師如来を祀るお寺として創建されており、薬師如来の眷属像として造立された。現在は曹洞宗の寺。
(2)石翁墓石(存林寺)
鋸南町元名1183
境内墓地の小滝家墓域内左側、上部に如意輪観音坐像を刻んだ墓がある。台座を含め高さ約81cmで、石翁の戒名「白堂石翁信士」を中心に左に妻いちの戒名と右に女性の戒名が刻まれている(石翁との関係は不明)。天保15年(1844)妻いちが没し長徳庵に葬られた。石翁自らが嶺岡産の石を用いて自分の墓とを兼ねて造立したもので、石翁も安政5年(1858)に亡くなると妻と同じ墓に埋葬されたという。長徳庵は昭和43年元名青年館建設のため廃寺となり、本尊・墓と共に存林寺に移された。存林寺は曹洞宗(通幻派)のお寺で本尊は宝冠釈迦如来。同寺には石翁(71歳)作開山嶺雲禅師像をはじめ、本堂の須弥壇の武志伊八郎伸由作彫刻等、多くの文化財が保管・管理されている。
(3)駿河屋墓碑(昌龍寺)
鋸南町保田1933
本堂脇の墓地に駿河屋(高浜家分家)墓碑といわれる総高125cmの墓がある。基壇の牡丹をくわえた獅の彫刻は、銘はないが力強さや躍動感があり、(7)八雲神社の手水鉢の獅子等と作風の類似性がみられる。『安房先賢偉人傳』にも、「駿河屋墓碑(墓石に獅子が牡丹に戯れている彫刻があり、石工の模範となっている)」と紹介されている。墓石の裏面全体には文政6年(1823)に亡くなった女性についての碑文が刻まれている。撰文は林世文(新井文山)である。大峰山昌龍寺は曹洞宗のお寺で本尊は阿弥陀三尊。慶長18年(1613)創建で、開基は高浜図書之介(ずしょのすけ)利賢(高浜家初代)である。
(4)叟阿(そうあ)の句碑(円照院)
鋸南町小保田187
句碑は円照院の下の墓地にあり、高さ約170cm・幅約65cmの石に「後ろから叟阿をたたく柳かな」と辞世の句が彫られ、その下に独嘯坊(どくしょぼう)叟阿墓とある。叟阿は明和6年(1769)生まれ。越後、信濃を遊歴し、没年は天保9年(1838)で70歳だった。小保田村の名主の世話になり、堂守をしていた二つ堂の庭に句碑(墓)は建てられていたが、明治21年(1888)県道改修のため、円照院に移された。銘はないが村人が石翁に句碑を依頼したといわれる。大慈山円照院は真言宗で本尊は不動明王。円照院では毎年1月に火渡り祭が行われる。
(5)諦應(ていおう)和尚の筆子塚(奥山公民館)
鋸南町奥山305
高さ116cm・横59cm・厚さ14cmの自然石の碑。正面には「月見ても花見ても南無阿弥陀仏 逸東」。裏面には「□世筑前人真蓮社聴譽上人諦應和尚碑 嘉永四年歳在辛亥十月 筆弟等建之 時七十三田石翁?」と諦應和尚の筆子塚であり石翁73歳の作であることが記されている。今は廃寺となっているがもとは真光寺という浄土宗のお寺があり、そこで開かれていた寺子屋の教え子が諦應和尚を顕彰した碑である。真光寺、諦應和尚の詳細は、ともに資料が乏しく、不明である。
(6)役行者像(大山寺)
鴨川市平塚1718
手水舎の奥に、像高約68cmの役行者の石像が置かれており、かなり以前から祀られていたようだ。岩座に座り、右の下駄を脱ぐ半跏像姿。両手にそれぞれ何かを握っていた様子が窺える。顔の表情は捉え難く、角度によっては高笑いしている様にも見える。銘はないが、この像と共通する像容の役行者が鋸南町で確認されており、武田石翁の作とされることから、本像も石翁作ではないかといわれている。高蔵山大山寺は真言宗のお寺で本尊は不動明王。神亀元年(724年)良弁(ろうべん)僧正が創建したと伝えられる修験寺。大山寺では毎年5月の第3日曜日に火渡り祭りが行われる。
(7)手水鉢(八雲神社)
鴨川市貝渚2202
境内右側にある手水鉢が石翁42歳の作である。高さ63cm・幅118cm。背面中央に左三つ巴の紋、その両脇には獅子、正面に「奉献」、左側面に「文政三年庚辰九月吉日 元名村 彫工 壽秀(花押)」。右側面に「氏子中」と彫られている。祭神は天照大神・須左之男命・事代主命。創建年歴の記録はないが永和3年(1377)に出雲大社の霊を移したとされる。須左之男命の化身である牛頭天王を祭神としたことから現在でも天王様と呼ばれている。神社には、波間に浮かぶ船を現わした「大浦水交団」の担ぎ屋台がある。神輿のように担ぐ屋台巡行は、鴨川市無形民俗文化財に指定されている。
(8)狛犬(香指(かざし)神社)
鴨川市太海2370
拝殿正面の左右に阿吽姿の狛犬がある。二体共に前足を揃え、右の狛犬はやや首を傾け、左の狛犬は正面を向き、この神社を守護するその強固な意志が強くにじみ出ているようだ。武田石翁の作品に似ている。祭神は弟橘姫尊(おとうとたちばなひめのみこと)。神社に残る棟札によれば文化14年(1817)5月に社殿を再建している。本堂は岩をくり抜いた洞窟の中に、拝殿は崖の下にあり、鳥居は海側と山側の2ヶ所にある。神社の名前の由来は弟橘姫尊が身を投じた際に、髪を飾るかんざしが波に運ばれ浜に流れ着き、神社に祀られたといわれている。香指という名は「かんざし」が転じたものと伝えられている。境内には縄文時代の遺物を包蔵する浅い洞窟があり「香指神社遺跡」とよばれている。
作成:ミュージアム・サポーター「絵図士」
愛沢香苗・青木悦子・金久ひろみ・鈴木正・
殿岡崇浩・羽山文子・山杉博子・吉村威紀・刑部昭一
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