忌部の足跡を訪ねて

房総には古代開拓神話をもつ氏族忌部(いんべ)氏に関する言い伝えがあります。その神話が残る地を訪ねてみましょう。斎部広成(いんべのひろなり)は807年に「古語拾遺」を著わして先祖のことを記しています。忌部氏と中臣(なかとみ)氏は古くから朝廷の祭事を行っていましたが、中臣氏の勢力増大に伴い忌部氏は衰退。そこで忌部氏の伝承を書いて朝廷に献上し、忌部氏が朝廷の祭事を担当する正統性を訴えました。忌部とは、「けがれや忌(いみ)を嫌い、神聖な仕事に従事する集団」と言われ、各地で宮廷祭祀に必要な祭具の準備やいろいろな物資を朝廷に貢献した集団です。天孫降臨神話の五部神の一人である天太玉命(あめのふとだまのみこと)が忌部氏の祖神で、古語拾遺によるとその孫の天富命(あめのとみのみこと)は神武天皇即位の始めに、麻や梶(かじ)の栽培に適した東国の肥沃な地を求めて、四国阿波の地から天日鷲命(あめのひわしのみこと)の孫を伴い阿波の忌部を率いて布良の地に上陸しました。その後、安房地方の開拓を進めたとされ、各地に忌部氏にかかわる言い伝えが数多く残っています。

(1)阿由戸(あゆど)の浜

(1)阿由戸(あゆど)の浜

天富命(あめのとみのみこと)たちが上陸したと言われている海岸。汀(みぎわ)から50mほど先の波間に見え隠れする暗礁が「神楽(かぐら)岩」と呼ばれ、地元の人がこの上で御神楽を奏してお迎えしたと言われている。また、近くには天富命の足洗い岩の伝承もある。

(2)駒ケ崎神社<布良字向、男神山の麓>

(2)駒ケ崎神社<布良字向、男神山の麓>

祭神は厳島大神と海祇大神で、由緒は不明だが地元では「じょうご様」と呼ばれ、漁師さん達の信仰は絶大である。神社の裏手には海蝕洞が二つあり、右側には庚申塔と不動明王が祀られている。詳細は不明だが、忌部一族が海路を渡ってきたことから、産業振興の海神、航海神などを祀ったものと考えられている。

(3)男神山(おがみやま)と女神山(めがみやま)

(3)男神山(おがみやま)と女神山(めがみやま)

灯台(2009年撤去)があった山が男神山(写真左)で、国道寄りの山が女神山(写真右)である。阿由戸の浜に上陸した天富命が、男神山に天太玉命、女神山に妃(きさき)の天比理乃咩命(あめのひりのめのみこと)を祀ったという。

(4)布良崎(めらさき)神社<布良字西本郷>

(4)布良崎(めらさき)神社<布良字西本郷>

布良崎神社 文化財マップ

この地に残った忌部の人々と村人達が天富命の徳を慕い、社を建てて天富命を祭神にしたという。社宝の石斧・石剣を所蔵するが、石剣は天富命に係わるものと言われている。女坂上り口の左側にある独立した岩は磐座(いわくら)と言われ、岩の頂上部に直径10数センチ、深さ数センチの杯(さかずき)状の穴(くぼみ)が数個あり古代の祭祀跡と言われている。二ノ鳥居から大鳥居の延長線上に富士山が見える。

(5)楫取(かんどり)神社旧地

(5)楫取(かんどり)神社旧地

祭神は字豆彦命(うずひこのみこと)。神武東征神話では楫取(かじとり)(航海士)として活躍し、その功績で大和国造(くにのみやつこ)に任命される。海人の波多氏に伴い安房開拓に同行、造船や紀州漁法の指導者として活躍したとされる。ちなみに阿波吉野川の川舟を「かんどり」という。

(6)相浜神社

(6)相浜神社

相濱神社 文化財マップ

日本武尊(やまとたけるのみこと)を祭神とする波除神社として創建された。別当寺感満寺は巴川の河口にあった不動明王を本尊とする修験寺で、修行した井戸跡が残る。元禄地震の津波被害で現在地へ移転した。中里の八坂神社、布良の蔵王(ざおう)大権現(布良崎神社)の別当も勤めたが、明治の神仏分離により感満寺の名を廃した。その後、楫取神社を合祀して相浜神社となった。祭礼には波除丸という御船が出祭する。

(7)上の谷・下の谷

国道410号線の大神宮トンネルの南東付近に「上の谷」と「下の谷」がある。天富命が安房地方の開拓を始める際に、男神山・女神山から天太玉命・天比理乃咩命をこの地へ移して祀ったとされる。地元では、「天富命の足洗い場があった」「神がかりの土地と言われた」「御手洗の井戸がある」「安房神社の旧地であった」「大神宮へ行くのにはここを通った」と、言い伝えられている。

(8)安房神社<大神宮>

(8)安房神社<大神宮>

安房神社 文化財マップ

祭神は天太玉命(あめのふとだまのみこと)。養老元年(717)に現在地に遷座された。延喜式では「名神大社」、平安時代頃から「安房の国一宮」、明治時代には「官幣大社」に列せられた。古代には神郡(神社に領地として与えられ、租税等を朝廷に納めず神社に納める)を有する格式の高い全国7社のうちの一つであった。祭礼は、開拓で各地に散って活躍している忌部一族が、太陽が富士山に沈む時季にあわせて各地から集まり無事を祝ったのが由来と言われる。

(9)忌部塚

(9)忌部塚

昭和7年に斎館の裏で井戸を掘削中、海蝕洞穴が見つかり、その中から人骨22体、動物の骨、貝製の腕輪、石製小玉、縄文土器、古墳時代の土師器(はじき)等が出土した。人骨には健康な歯を抜歯した風習の跡が見られた。その人骨の一部をここに埋葬し、忌部塚として祀っている。当時、弥生時代の人骨と判定され(但し特定はできない)、安房神社では忌部一族の遠祖として安房地方を開拓した大功を偲び、毎年7月10日に忌部塚祭を行っている。

(10)明神山

天比理乃咩命(あめのひりのめのみこと)(洲神(すのかみ))の最初の宮をここに定めたといわれている。現在は海岸線から離れているが、千数百年前はすぐ足元まで海で、小高い岬だったと推測される。洲宮神社の例祭8月10日には「浜降(はまおり)神事」があり、神輿がここ明神山へ渡御(とぎょ)して祭典がとり行われている。阿波の国からはるばる海を渡り、幾多の困難を乗り切ってやってきた人たちが、この小高い岬に立ち西に夕陽が沈んでいくのを見て、故郷に思いを寄せていたのだろうか

(11)兎尾山(魚尾山、とおやま)

(11)兎尾山(魚尾山、とおやま)

兎尾山は開拓の恩恵に感謝して祖霊をお祀りした場所である。忌部佐賀斯(いんべのさがし)の18代後裔(こうえい)の諸畿(もろちか)が明神山の洲神を文永10年(1273)に兎尾山に遷座した。同年に社殿が炎上したと記録にある。近年まで山頂に祀られていた石宮は、高さ約60cm、間口約55cm、奥行20cm、今は洲宮神社の拝殿右奥に移されている。

(12)洲宮神社<洲宮字茶畑>

(12)洲宮神社<洲宮字茶畑>

主祭神は、天比理乃咩命(あめのひりのめのみこと)である。兎尾山(とおやま)の社殿が炎上した後、仮宮に祀られていたが、永享11年(1439)現在地に遷座したという。ここは、土製の高杯(たかつき)、鏡、勾玉(まがたま)などが出土しており古代祭祀の場所と考えられる。洲宮神社と洲崎神社の関係は諸説あり、「前宮」と「奥宮」または「拝殿」と「奥殿」の関係とも言われている。

(13)善浄寺跡地蔵尊

古大神宮道と平行する洲宮川の対岸段丘に、洲宮神社の別当だった、善浄寺跡と言われる平地がある。自然石でできた石龕(せきがん)の中に地蔵菩薩立像が祀られている。台石に享保14年(1729)とある。今も管理してる古老の話では、イボトリ地蔵として信仰されていたと言う。寺院は、館山市高井に移っている。

(14)布沼厳島神社

(14)布沼厳島神社

布沼の鎮守。祭神は市杵島姫(いちきしまひめ)で厳島の由来でもあり、弁天様として広く信仰された。海人宗像(むなかた)族の守護神で海上交流の拠点に祀られた。社殿裏にある縄文時代の石棒(男茎形)は害虫駆除の神様と伝えられている。周辺からは縄文・弥生土器や古墳時代の土師器などが出土しており、長期にわたる生活遺跡がある。

(15)座席山(蛇堰山、じゃぜきやま)

(15)座席山(蛇堰山、じゃぜきやま)

砂山の南にある蛇堰(じゃぜき)の東側が座席山で、安房神社の神様と后神(きさきがみ)がどこに鎮座するか、座席で宴会をしながら相談をしたと伝わる。麓では翁作古墳が発見され太刀などが出土したことから、大和王権につながる豪族が支配していた地域であったとみられている。


<作成:ミュージアムサポーター「絵図士」>君塚滋堂・佐藤博秋・佐藤靖子・中屋勝義
監修:館山市立博物館 〒294-0036 館山市館山351-2