石彫家 俵光石の作品を訪ねて

俵光石 文化財マップ

俵 光石(こうせき)の概要

俵房吉(光石)は、明治元年(1868)に楠見浦(館山市)の鈴木家で生まれました。明治24年(1891)23歳の時に、馬の彫刻家として有名な後藤貞行にみいだされて上京し、石彫の仕事をします。やがて高村光雲(こううん)の所へ移り、明治27年(1894)、東京美術学校最初の石彫教官として彫刻科石彫教場助手に任命され、光雲から一字をもらい「光石」の号を名乗りました。明治28年(1895)には第4回内国勧業博覧会に「石彫三羊置物」を出品して表彰されています。明治30年(1897)頃に館山に帰って、同所の石工(いしく)俵家の養嗣子として5代目の家業を継ぎ、寺や神社などに数多くの作品を残しました。大正3年(1914)には「安房陶器」を創業し、陶作も試みています。多くの知識人や文化人とかかわりをもっており、俳句もたしなんでいたほか、大正8年(1919)頃には民衆の道徳教化をめざす「安房大道会(あわだいどうかい)」にも加わり活動していました。昭和10年(1935)2月に68歳で没します。地方の職人ながら近代彫刻家の一人として評価をされている人物です。

(1)線香立

渚銀座震災反省地蔵尊 北条2549-4

地蔵堂前の線香立は「光石 刻」とあり、昭和2年(1927)7月の作品。屋根付きで総高は57cm。正面に「無縁地蔵尊」とあり、施主は北条の伊東松之助。反省地蔵尊は安房郡内で多くの犠牲者を出した関東大震災をうけ、地震への備えに対する反省を込めて、震災の翌年に延命寺の佐々木珍龍と安房倶楽部の音尾松蔵を中心に建設された。本尊は鴨川の彫刻家 戸村誠治の作品。

(2)順天丸(じゅんてんまる)遭難紀念碑

(2)順天丸(じゅんてんまる)遭難紀念碑

館山 北下台(ぼっけだい)

高さ約210cm、幅100cm。書は明治期の書家 従七位(じゅうしちい) 市河三兼(さんけん)で、光石が文字を刻んだ碑。明治36年(1903)建設。館山にあった房総遠洋漁業株式会社の漁船順天丸が明治35年(1902)2月に朝鮮海域で沈没し、船長等22名が遭難したことをうけた記念碑である。同社は遠洋漁業奨励法を受けて明治32年(1899)に設立され、捕鯨や高級毛皮・漢方薬剤になるオットセイやラッコを捕獲していた。

(3)日露戦役記念碑

(3)日露戦役記念碑

館山 北下台

金比羅神社の前にあり、明治37-38年(1904-1905)の日露戦争で館山町から従軍した100名近くの名前が刻まれている。高さ285cm、幅125cm。明治39年(1906)4月建設。光石の銘はないが、『千葉県内碑石一覧』(千葉県図書館叢書(そうしょ)第五輯(しゅう))に光石の作品として掲載されている。表面は元帥(げんすい)大山巖(おおやまいわお)の書。裏面の書は地元医師の高木勇次郎。

(4)青木為治墓碑

(4)青木為治墓碑

館山 北下台

明治19年(1886)の鈴木房吉の刻で、全体の高さは190cm。光石が俵家に入る前の18才の作品。神余の青木為治は千葉師範学校出身で布良小学校の訓導(くんどう)だったが、明治18年(1885)に21歳で没した。

(5)釈迦如来(しゃかにょらい)三尊像

(5)釈迦如来(しゃかにょらい)三尊像

三福寺 館山1195

参道の左に釈迦三尊像がある。基壇を含めた総高は385cm、像高95cm。光背に葉の茂る菩提樹(ぼだいじゅ)、釈迦坐像の両脇には小さな脇侍(わきじ)が立ち、台座には手を合わせた人物と獅子が彫られている。裏面に「高村光雲門下俵光石彫刻」と刻してある。明治36年(1903)11月、三福寺29世頂譽圓順(ちょうよえんじゅん)と発起人16名により建立された。発起人の中には光石の義父「俵喜平」もいる。基壇の前には、明治38年(1905)の日露戦役奉天陥落(ほうてんかんらく)記念の花立てがあり、寄進者4名の中に俵房吉の名がある。三福寺は俵家の菩提寺。

(6)狛犬(こまいぬ)

館山神社 館山252

社殿前を一段上がったところに祀られている阿像(あぞう)の狛犬台座に「石彫 俵 光石」と刻まれ、光石の刻印になっている。総高165cm、像の高さは75cm。大正6年(1917)に地元上町の島田幸蔵により上町・仲町の諏訪神社に奉納された。関東大震災後、館山地区の7社を合祀(ごうし)し館山神社として創建された際に移設。

(7)宮木翁(みやきおう)碑

熊野神社 宮城172

総高167cm、幅135cm。碑には伯爵(はくしゃく)万里小路通房(までのこうじみちふさ)の篆額(てんがく)、文部官僚桧垣直右(ひがきなおすけ)の撰文と書による銘文が刻まれている。大正7年(1918)に山井寅吉など地元10名の有志により建立され、裏面に「俵光石刻」とある。宮木翁は宮木久左衛門といい、明治12年(1879)から明治17年(1884)にかけて、宮城村などの戸長(こちょう)を勤め地租改正(ちそかいせい)に尽力した人物。明治29年(1896)没。70才。

(8)楽山翁(らくざんおう)之碑

天満神社 沼1160

総高188cm、幅92cm。碑は伯爵万里小路通房の篆額で、地元教員の鈴木義章撰文による川名楽山を顕彰した銘文が刻まれている。刻銘はないが、『千葉県内碑石一覧』に明治33年(1900)の俵房吉の作品として掲載されている。楽山は安房郡沼村の名主の家に生まれ、江戸の御用絵師狩野探龍(かのうたんりゅう)のもとで絵を学んだ人物。やがて館山藩士となり、のち安房神社の権禰宜(ごんねぎ)・館山戸長(こちょう)等を勤めた。地域への奉仕貢献に努め、明治25年(1892)に没。61才。

(9)南陽(なんよう)坪野先生之墓

(9)南陽(なんよう)坪野先生之墓

慈恩院 上真倉1709-1

慈恩院入口の一段高い所に地蔵菩薩坐像が彫刻された墓がある。総高224cm。俵家ではこれを光石の作とと伝えている。お墓は遺言により大正15年(1926)に慈恩院境内で北向きに設けられてた。坪野平太郎(号 南陽)は東京帝大法科を卒業し、神戸市長などを勤めた後、東京高等商業学校(現一橋大学)学長を最後の勤めとし、大正3年(1914)より大正12年(1923)の大震災まで静養のため北条に来住した。保養の傍ら北条に英語学塾を開いて安房の青年たちを指導したほか、安房出身の在京学生のため、東京小石川に寮舎「安房育英舎」を建設、また安房中・安房高女の操行優良な生徒に授与する南陽賞を創設した。大正14年(1925)没、67才。

(10)不動明王立像・不動明王坐像

妙音院 上真倉1689

明治29年(1896)に開設された「弘法大師八十八ヶ所霊場」への階段両脇に不動明王坐像と立像(波切不動)があり、ともに左側面に「明治卅年春 俵光石刻」と刻まれる。開設翌年の製作である。像高50cm。寄進者の中の「館山町楠見 俵かね」は光石の義母。

(11)地蔵菩薩坐像

(11)地蔵菩薩坐像

観音寺 南条21

明治33年(1900)建立。総高393cm。地蔵菩薩坐像台座の正面には「法界万霊位(ほっかいばんれいい)」、左側面に「大願主当所 小原(おはら)国太郎」と記されている。頭光(ずこう)と錫杖(しゃくじょう)は欠損している。中壇には、六道輪廻(ろくどうりんね)が表現され、正面には天道、右回りに人道・修羅(しゅら)道・畜生(ちくしょう)道・餓鬼(がき)道・地獄道の様子が刻まれている。脇侍には掌善童子(しょうぜんどうじ)と掌悪童子(しょうあくどうじ)が居り、希少な作品である。銘は、「俵光石之作」とある。

【補足】
私有地のものについては、掲載を見送らせていただきました。


作成:ミュージアムサポーター「絵図士」
青木悦子・金久ひろみ・佐藤博秋
佐藤靖子・鈴木以久枝
2021.11.10 作

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