日蓮聖人とその伝説(鴨川編)

日蓮(1222~1282)は自身の生誕地を安房国長狭郡東条郷片海(かたうみ)(鴨川市小湊)と記しているが、その正確な場所は分かっていない。12歳で清澄寺に上り17歳まで道善房(どうぜんぼう)に師事した。鎌倉や比叡山延暦寺等で修業し、法華経が釈迦の真実の教えであると確信すると、32歳で立教開宗をした。翌年、領家(りょうけ)の尼に代わり東条郷(鴨川市)の地頭東条景信(かげのぶ)と係争し勝訴したため、念仏信者の景信の反感をかい鎌倉へ渡ることになった。鎌倉・伊豆での法難後43歳の時、父の墓参りと病気の母を見舞うため帰郷。東条郷の小松原で景信に襲われ、天津領主工藤吉隆(よしたか)と弟子の鏡忍房(きょうにんぼう)が殺害されてしまう。日蓮も左腕を折られ眉間に疵(きず)を負った(小松原法難(こまつばらのほうなん))。このような出来事の中で、この地域には日蓮に関する多くの伝説も生まれてきた。その後、鎌倉へ戻るが、50歳の時逮捕され佐渡流罪が決まる。途中、江の島近くの龍口(たつのくち)で斬首(ざんしゅ)されそうにもなった。53歳の時、流罪を許され鎌倉へ戻るが、身延に入山した。61歳の時、体調を崩していた日蓮は常陸国へ湯治に向かうが、武蔵国の池上宗仲(むねなか)邸に留り、10月8日に日昭(にっしょう)・日朗(にちろう)・日興(にっこう)・日向(にこう)・日頂(にっちょう)・日持(にちじ)を本弟子(六老僧)に定め、13日に入滅した。葬儀後、25日に遺骨が身延へ到着した。

(1)蓮華潭(れんげふち)

鴨川市小湊

日蓮の生家は地震で海中に沈んだが、大弁天・小弁天付近とされる。貞応(じょうおう
)元年(1222)2月16日の日蓮誕生時には、家の庭先に清水が湧き、渚に蓮華の花が咲き誇り、海中に鯛が群れ集まったといわれている。

(2)鯛の浦(妙(たい)の浦)

鴨川市小湊

日蓮の誕生時に鯛が群れをなした蓮華潭で、後年、日蓮が七字の題目「南無妙法蓮華経」を海へ投げると、海上に字が現れ、鯛が群集した。この一帯の鯛は日蓮の化身とされ、今も漁が禁じられている。

(3)小湊山誕生寺

鴨川市小湊183

建治2年(1276)、日蓮生家の地に日蓮の誕生と母梅菊の蘇生延寿(そせいえんじゅ)を記念して建てられた。明応7年(1498)の津波により流失。その後、現在地に再建された。境内で湧いた井戸水を、誕生水と名付けている。

(4)妙日山妙蓮寺

鴨川市小湊129-1

文永4年(1268)に日蓮の母梅菊(妙蓮)が亡くなると、日蓮は父重忠(しげただ)(妙日)の墓所に母の墓塔を建て、妙日山妙蓮寺と命名した。両親閣ともいわれる。境内に日蓮御手植えの廣布梅(こうふばい)や蘇生櫻(そせいざくら)の碑がある。

(5)岩高山日蓮寺

鴨川市内浦3094

文永元年(1264)、小松原法難(こまつばらのほうなん)をうけた日蓮は、天津領主工藤吉隆の家臣北浦忠吾(ちゅうご)・忠内(ちゅうない)兄弟にこの地へ案内された。疵を洗った湧水、身を潜めた岩屋がある。岩屋の砂を疵につけると痛みと出血が止まったといわれる。また、吉祥翁(きっしょうおう)に導かれ、岩屋に薬草を褥(しとね)として敷き、砂を傷口にあてて治療したという話もある。老婆お市が寒さ凌(しの)ぎと疵の養生にと、被っていた綿帽子(わたぼうし)を日蓮に差し上げたといわれる。

(6)日蓮の父、貫名(ぬきな)次郎重忠(しげただ)公(こう)流着の地

鴨川市内浦

昭和46年(1971)建立の石柱に、建仁3年(1203)に北条時政により当地へ流されたが、代官滝口兵庫朝家が世話をしたと記されている。

(7)東光山西蓮寺

鴨川市内浦1726

西蓮寺に伝わる伝説では、日蓮は寺の薬師の前に捨てられていた赤子で、薬王丸(薬師丸)と名付けられ、12歳まで養育されて清澄寺に上がったとされている。境内には日蓮の乳母(うば)雪女(ゆきじょ)の墓がある。

(8)光瑞山高生寺

鴨川市内浦544

建長5年(1253)、法華経こそが正法(しょうぼう)だと説くため清澄寺へ行く日蓮は、自分が殉じた時の両親の嘆きを思い、生家の方向を見返って涙した。その場所に中老僧日保が一宇(いちう)を建立した。その後、地震・津波により現在地へ移転している。江戸時代の寛延3年(1750)に鋳造(ちゅうぞう)された日蓮聖人像は、日蓮の銅像の立像としては日本最古である。

(9)朝日堂

鴨川市内浦

高生寺の元の場所。現在は山裾にある。中腹には狭い平坦地があり、文化12年(1815)に建立された法師の墓が祀られている。『日本の伝説安房の巻』にあるように誕生寺を真向かいに見渡すことができる。

(10)天津神明神社

鴨川市天津2950

日蓮は、遺文(ゆいぶん)の中で「昔は日本第二の御厨(みくりや)、今は日本第一なり」、「辺国なれども、日本国の中心のごとし」と記す。開宗後、妙法弘通(ぐづう)を天津神明神社に祈念し川向(かわむこう)の御本尊(曼荼羅(まんだら))を納めたといわれる。

(11)明星山日澄寺

鴨川市天津1850

日蓮が母を見舞うときに随行(ずいこう)した日澄が、清国寺(真言宗)の住職を論破し寺号を日澄にした。小松原法難で討ち死にした天津領主工藤吉隆の菩提を弔うため、寺は吉隆の館跡である現在地へ移転した。

(12)涕涙石(ているいせき)

鴨川市清澄

清澄寺は女人禁制のため母梅菊は善日麿(ぜんにちまろ)(日蓮の幼名)に女人堂で面会したが、修業の妨げになるので来ないように諭された。梅菊が堂の近くの石に座り、善日麿の無事を祈って涙したといわれる岩。

(13)千光山清澄寺

鴨川市清澄332-1

善日麿は天福元年(1233)に清澄寺に入山し天台宗を学び、嘉禎(かてい)3年(1237)に出家し名を蓮長と改めた。境内にある凡血(ぼんけつ)の笹の黒い点は、霊感を得たとき吐いた凡血といわれる。延暦寺などでの修業を終え、建長5年(1253)、故郷に帰った日蓮は、4月28日早朝、旭が森で太平洋から昇る朝陽に向かって題目を唱え、法華宗を立てることを宣言して日蓮と名を改めた。銅像は大正12年(1923)に建立された。

(14)光玉山多聞寺

鴨川市浜荻1145

文永元年(1264)、日蓮が鎌倉から安房への帰途、毘沙門天(びしゃもんてん)(多聞天(たもんてん))の変化(へんげ)した童子が、一夜の宿を提供するため住職に引き合わせて姿を消した。日蓮は住職や郷士(ごうし)北浦忠吾(ちゅうご)・忠内(ちゅうない)兄弟らを教化改宗させた。寺の宗派は天台宗から日蓮宗に、寺号は多聞寺に改められた。

(15)高祖(こうそ)大士(だいし)御疵洗(おきずあらい)井水(せいすい)之霊地

鴨川市浜荻

日蓮は北浦兄弟邸内の姥が池で、小松原法難での疵(きず)を洗い手当を受けた。池は明応7年(1498)の津波で埋もれたが改修され、疵洗い井戸として伝えられる。井戸の前に日蓮が腰掛けたとされる石がある。

(16)袈裟山掛松(けいしょう)寺

鴨川市広場1971

小松原法難のとき北浦兄弟が駆けつけ、ここで日蓮の袈裟を脱がし、路傍の松に掛けて介抱した。その後、この木は切られて日蓮の像を彫刻し当寺に安置された。袈裟掛けの松は植え継がれて4代目になっている。また、日蓮が法難直後に川のほとりにあった松に袈裟を掛け、長い一夜を過ごしたので、川は夜長川と呼ばれているなどの話がある。

(17)上人塚(しょうにんづか)

鴨川市広場

小松原法難での工藤吉隆殉教の地。日蓮は妙隆院日玉の法号を贈り、吉隆をこの地に葬った。後に、人々がこの地に塚を築いて上人塚と呼ぶようになり、鏡忍寺(きょうにんじ)住職日長は明和5年(1768)に碑を建立している。平成25年に小松原法難での死傷軍馬供養の馬頭観音碑が建立された。

(18)小松原山鏡忍寺

鴨川市広場1413

小松原法難で亡くなった鏡忍房(きょうにんぼう)と吉隆の霊を弔って、弘安4年(1281)に妙隆山鏡忍寺が建立された。後に小松原山に改めた。御法難堂は、日蓮が鏡忍房を葬り小松を植えて墓標とした場所である。降神(こうじん)の槇(まき)には、東条景信(かげのぶ)が再び日蓮に刀を振りかざすと、槇が煌(きら)めき法華経を守護する鬼子母神(きしぼじん)が現れ、景信が落馬したという伝説がある。

(19)花房山蓮華寺

鴨川市花房1236

清澄寺での立教開宗により、東条景信に追われた日蓮が逃れた寺。景信の見張りが緩むと、鎌倉遊説に先立って生家を訪ねた。父に妙日、母に妙蓮の法名を授け、自らは蓮長を改め日蓮と名乗ったという伝承もある。文永元年(1264)に父の墓参りと母の病気見舞のため故郷へ帰るが、工藤吉隆邸へ向かう途中、小松原で襲われ再び蓮華寺に逃れた。見舞いに来た旧師の道善房(どうぜんぼう)に法華経を信じるように諌(いさ)めたという。

(20)日蓮聖人御疵洗之井戸

鴨川市花房

蓮華寺への入り口の井戸で、日蓮が法難での傷を洗ったとされる。

(21)仁右衛門島

鴨川市太海浜445

神楽岩は、日蓮が朝陽を拝んで南無妙法蓮華経と唱えた岩とされる。


<作成:ミュージアム・サポーター「絵図士」 刑部昭一・金久ひろみ・殿岡崇浩>(2020.1.19作)
監修 館山市立博物館 〒294‐0036 館山市館山351‐2 ℡0470‐23‐5212

日蓮聖人とその伝説(内房編)

日蓮は貞応(じょうおう)元年(1222)、安房国長狭郡東条郷片海(かたうみ)の小湊に生まれたとされている。12歳で天津の清澄寺(せいちょうじ)に上り修業し、16歳で出家得度して是正房(ぜしょうぼう)蓮長と改名した。後、鎌倉に遊学して念仏宗や禅宗を研究し仏教の奥義を極め、衆生済度の正法(しょうぼう)は「法華経」の教えであるとの結論に達し、法華経の行者として一生を捧げる決意を固めた。建長5年(1253)、32歳の時、清澄寺の一角旭が森で「南無妙法蓮華経」を唱え、法華宗の開宗宣言を行い、法名を日蓮と改名した。日蓮は鎌倉の松葉谷(まつばがやつ)に庵室(あんしつ)を構え、「辻説法(つじせっぽう)」という新しい方法で法華経の布教に努め、伽藍(がらん)仏教から街頭仏教へと日蓮は大衆教化の道を開いた。正法を法華経とすべきだと北条時頼に進言したが用いられず、法敵として怒りを招き、小松原法難(こまつばらのほうなん)、龍口法難(たつのくちのほうなん)など数々の法難を受け諸宗批判の罪に問われ佐渡流罪となった。文永11年(1274)、日蓮は赦免されて鎌倉へ帰ったが、甲斐国巨摩(こま)郡の身延山に退隠し、著述と弟子の育成に努めることになる。弘安5年(1282)、日蓮は湯治のため常陸国へ向かう途中、武蔵国の池上宗仲(むねなか)邸で死を悟り、弟子の中から法華経の法燈を継ぐ六老僧を定めた。10月13日、滞在中の池上邸にて死去。享年61歳。日蓮が安房と鎌倉を行き来していた時代に立ち寄った安房の土地には、様々な伝説が残されている。

(1)乾坤山日本寺

鋸南町元名184-4(鋸山)

*石の堂
鐘楼堂からの上がり口に、「日蓮聖人の石の堂」という、昔日蓮が護摩(ごま)修行したという霊蹟が『安房誌』に紹介されている。

*風土かづら
「大仏の嶺石(みねいし)の辺りに見られる風土かづらは、水腫(みずぶくれ)を治す効果があるというので、土地の人たちに珍重されている。日蓮の教えたもう薬草」と『日本の伝説 安房の巻』に紹介されている。

(2)中谷山妙本寺

鋸南町吉浜453-1

本尊は十界曼荼羅(じっかいまんだら)。平安時代末に吉浜村の地頭佐々宇(さそう)家の側に法華堂があったという。日蓮が蓮長と称していた時、房州から鎌倉へ渡り京・奈良へ遊学の途次には必ず法華堂に立ち寄り参籠(さんろう)されたという。日蓮宗富士門流(ふじもんりゅう)の日郷が元徳年間(1329~1330)に、宗祖日蓮誕生の地を慕い房州に下り、保田の地頭佐々宇左衛門尉(さえもんのじょう)から法華堂の寄進を受け、建武2年(1335)に当寺を開創した。里見氏と北条氏の戦で多くの宝物を失ったものの、文和2年(1353)に宝蔵が落成するや総本山の身延から移された多くの日蓮真筆や日蓮等身木造坐像など日蓮にまつわる宝物が残され、年に一度虫払会(むしばらいえ)が催され保存されている。

(3)妙典台 鋸南町下佐久間

文永元年(1264)、日蓮は父の墓参りに鎌倉から安房へ来た時、妙典台で説法をした。人々は感激し、その地に瑞竜山妙典寺を建立した。現在は寺の跡もなく、地名に妙典台と残っているのみである。長年無住だった寺は、元禄元年(1688)に醍醐新兵衛が、勝山の土地を寄進して再建し、「醍醐山妙典寺」として名を残している。

(4)成就山妙福寺

南房総市富浦町南無谷(なむや)119

日蓮は伊豆の流刑が解けて父の墓参と母の見舞いに小湊へ戻った時、小松原法難(こまつばらのほうなん)に遭うが、身を隠しながらも房州各地で布教を行った。以前、鎌倉へ向かって船出した折、逗留した南無谷(なむや)に立ち寄ると泉澤権頭(ごんのかみ)太郎の老母の願いを入れ「妙福」の法号を授けた。弘安2年(1297)、太郎が身延山に日蓮を訪ねると、弟子に彫らせた日蓮の読経(どきょう)中の裸坐像と題目の掛軸を頂いたので、堂を建て安置した。後に、六老僧の一人日頂の弟子日念により成就山妙福寺と号する寺になった。

(5)衣洗い井戸(血洗いの井戸)

南房総市富浦町南無谷(なむや)

泉澤権頭(ごんのかみ)太郎の老母が鎌倉へ向かう日蓮の衣を洗った井戸。着替えがなかったので日蓮は裸のまま読経した。妙福寺の北100m程の国道脇に「日蓮聖人衣洗い井戸」の看板がある。また、小松原法難での血の付いた衣を老母が洗ったので、血洗いの井戸という別名もある。

(6)南無谷(なむや)

南房総市富浦町南無谷


*南無谷の地名
南無谷は昔、泉澤と呼ばれる名の村であった。建長5年(1253)、鎌倉へ渡ろうとした日蓮は3日程、地元の豪族泉澤権頭(ごんのかみ)太郎の家に逗留した。これが縁となり文永元年(1264)再び泉澤家を訪れた日蓮は、泉澤家の人たちに熱心に法華経を説いた。やがて日蓮宗が村中に広まり、村の名が南無妙法谷(なむみょうほうや)村と呼ばれるようになったが、いつのころからか略して南無谷村になったという。

*和泉澤(いずみさわ)の名字
南無谷区には「和泉澤」という名字の家が多くある。日蓮が、地元の豪族泉澤権頭太郎の世話になった折、「人は皆、和を持って暮らさなければならぬ、あなたの名字に和を加えなさい」とすすめ、泉澤を和泉澤に変えたといわれている。

*角(つの)なしサザエと鮑(あわび)の恩返し
南無谷の磯には大きな角のサザエがいた。日蓮が鎌倉へ渡るため乗船する際、サザエを踏みつけ足にけがをしてしまうが、怒らず「サザエには、角の無い方がいい」と言った。サザエに罰があたり自慢の角はたちまち消えてしまったという。サザエに悩まされていた鮑はこれに感謝をして日蓮の乗る船に浸水するような穴を見つけると、その穴に吸い付いて塞いだそうだ。

(7)小三郎坂

南房総市富浦町豊岡

岡本(豊岡)から南無谷へ抜ける険しい崖道がある。あえぎながら登る日蓮を近在の漁師小三郎が背負って登ったという。この坂道を「小三郎坂」と呼ぶようになった。

(8)法華崎

南房総市富浦町豊岡

建長5年(1253)、日蓮は鎌倉での日蓮宗の布教を目指し、小湊から岡本(豊岡)の港へ来たが、風浪荒く乗船できなかったので、付近の丘陵に登り、海上安全・心願成就を祈ったところ、激しい風浪も収まったといわれている。現在「法華崎」と呼ばれている所がその場所であり、袈裟をかけたという「日蓮上人袈裟掛松」の碑が建っている。

(9)法輪山法蓮寺

館山市下真倉2487

文永元年(1264)の創立。日蓮が文永元年鎌倉から安房へ戻った時、三原郷(和田町)の地頭池田和泉守が、自分の館に日蓮を招いて7月29日から3日間の説法を願った。和泉守は日蓮に帰依(きえ)して入道し名を法蓮と改め、それまであった草庵を「法輪山法蓮寺」と改称したという。

(10)勝栄山日運寺

南房総市加茂2124

勝栄山日運寺の本尊は日蓮聖人。昔は勝栄坊という真言宗(天台宗という説もある。)の小堂で、日蓮が文永元年(1264)9月、小湊へ帰る途中このお堂に止宿した。当時の坊主(ぼうしゅ)であった勝栄坊行然(ぎょうねん)は日蓮の人徳と高説に敬服し、弟子となり日蓮宗に改宗したという。約300年後、里見の重臣正木時通(ときみち)と弟頼忠(よりただ)は元亀(げんき)2年(1571)に勝栄坊を再興し勝栄山日運寺と改めた。勝浦正木氏の菩提寺であり、頼忠は大檀那として寺領を寄進している。

*日蓮聖人御杖(おつえ)井戸
文永元年(1264)当地に立ち寄った日蓮は、周囲の農民から井戸水が悪くて飲み水に不自由していると聞き、自ら錫杖(しゃくじょう)で聖地を定め、掘ってみると清水がこんこんと湧き出たという。大正中期まで十王堂跡(現集荷場)にあったといい、大正大震災で水脈が変わったが、いかなる旱魃(かんばつ)でも水が枯れることがなかった。昭和8年(1933)頃に道路改修のため黒門(くろもん)跡前に移され、現在は境内に移転している。

(11)日蓮を救った鮑(あわび)

南房総市和田町小川

日蓮は『立正安国論』を著して幕府に献じ、諸宗を責め、幕政を批判したため、文永8年(1271)佐渡へ流罪となった。日蓮を乗せた小舟が佐渡へ向かう途中、荒れ狂う波のため船底の栓が取れてしまい、沈没を待つばかりとなった。こんな危機に日蓮が荒れ狂う海の海面にお題目を書くと、どこから現れたか大きな鮑が船底の穴をぴたりとふさぎ、浸水は止まって、日蓮は危うく難を逃れたという。日蓮を救った鮑の貝殻が、小川の日蓮宗妙達寺の檀家に保管されている。貝殻の内側には「南無妙法蓮華経」と刻まれていて、その家では家宝としてお祀りしているという。


<作成:ミュージアム・サポーター「絵図士」 刑部昭一・金久ひろみ・殿岡崇浩>(2020.1.19作)
監修 館山市立博物館 〒294‐0036 館山市館山351‐2 ℡0470‐23‐5212

弘法大師伝説を訪ねて

弘法大師の概要

弘法大師(こうぼうだいし)は宝亀5年(774)に讃岐国(さぬきのくに)(香川県)で生まれた。本名は佐伯真魚(さえきのまうお)、出家して「空海(くうかい)」と名乗り、死後「弘法大師」の名が醍醐天皇から贈られました。10代からさまざまな学問に秀でていて、19才頃から山林での修行に入りました。31才から2年間遣唐使(けんとうし)として唐へ留学し、43才の時に高野山を開き、50才の時には東寺を賜って真言密教の道場とし、高野山で835年に62才で没しました。高野山奥の院の御廟(ごびょう)では今も弘法大師が生き続けていると信じられています。故郷の四国では、修行した霊地が四国八十八ヶ所となり多くの人が霊場巡りをします。鎌倉時代から弘法大師の行跡(ぎょうせき)が絵巻物になり、その伝説が全国で語られるようになると、寺院を建立し、仏像を彫刻したのが弘法大師の行いという話になっていきました。弘法大師ゆかりの水の伝説は日本各地に千数百もあるということです。安房南部を中心に弘法大師伝説が多いのは、市内にある小塚大師(遍智院(へんちいん))の弘法大師信仰の影響と考えられています。

(1)日本寺の弘法大師伝説

鋸南町元名(もとな)

本尊は、木像の弥勒菩薩(みろくぼさつ)像で弘法大師作と伝わる。左側が弘法大師のお像。江戸時代の頃、当主が元名(もとな)村の遠代(とおしろ)の岩窟の中に祀られていた弥勒菩薩に子宝を願掛けし、成就(じょうじゅ)したお礼に自宅西側にお堂を建てお祀りしたという。昭和30年頃までは大勢の参拝客があり、武田石翁(せきおう)作の弥勒菩薩像版木で刷られたお札が渡されていた。

(2)篠原家の弥勒堂

鋸南町元名(もとな)

本尊は、木像の弥勒菩薩(みろくぼさつ)像で弘法大師作と伝わる。左側が弘法大師のお像。江戸時代の頃、当主が元名(もとな)村の遠代(とおしろ)の岩窟の中に祀られていた弥勒菩薩に子宝を願掛けし、成就(じょうじゅ)したお礼に自宅西側にお堂を建てお祀りしたという。昭和30年頃までは大勢の参拝客があり、武田石翁(せきおう)作の弥勒菩薩像版木で刷られたお札が渡されていた。

(3)太子山長福寺

南房総市上滝田

弘法大師が巡錫(じゅんしゃく)の折、上滝田に聖徳太子霊場があると聞き訪ね、余りにも小さい庵を嘆いて村人に再建を願った。完成を喜んだ大師は、大聖坊調伏寺(ちょうぶくじ)と名付けたという。後に太子山長福寺となった。

(4)小三郎坂の風邪大師

南房総市富浦町豊岡

小三郎坂という古道は、日蓮伝説で知られる法華崎(ほっけざき)にあり、豊岡と南無谷(なむや)の境になっている。豊岡側の登り口に「風邪大師」と呼ばれていた弘法大師像が祀られ、熱心に信仰すれば風邪をひかずに過ごせると言われていた。毎月1日と15日の縁日には大賑わいだったが、今ではすっかり忘れられひっそりと佇(たたず)んでいる。

(5)安房高野山八十八ヶ所霊場

館山市上真倉(かみさなぐら) 妙音院

妙音院は戦国時代の終わり頃に、里見義康が高野山から僧を招いて開創した。高野山金剛峰寺(こんごうぶじ)の直末(じきまつ)。八十八ヶ所霊場は、妙音院の裏山に88体の大師像を置いて巡拝できるようにした。明治28年(1895)、上総の前羽覚忍(かくにん)という老女の発願により、近隣の人々の浄財を受け、約2年の歳月をかけて奉納された霊場。霊場の出発点には出生門があり、1体ごとに「褌祝(ふんどしいわい)・女の大厄・男の前厄」など人生の節目が表現されている。この中の34番の「身代わり大師」は唯一の行者姿。88番は安房の彫刻師後藤義光の作品である。

(6)小網寺の弘法ヶ谷

館山市出野尾(いでのお)

真言宗の修行道場であった小網寺(こあみじ)の近くに、弘法大師修行の場として伝えられる弘法ヶ谷(こうぼうがやつ)という場所がある。ここには2つのヤグラがあり、左は高さ1.2mで奥壁に2基の五輪塔が浮彫りにされている。右は2基の五輪塔が据え置かれ、その中央には、右手に五鈷杵(ごこしょ)、左手に数珠を持った石造の弘法大師像が安置されている。文政11年(1828)に出野尾村と岡田村の人々が寄進したもの。ここは法華谷(ほっけやつ)とも呼ばれている。

(7)小塚大師と弘法大師像

館山市大神宮

小塚大師(曼荼羅山(まんだらさん)金胎寺(こんたいじ)遍智院(へんちいん))は815年の創立。安房地方の弘法大師信仰の中心で、関東厄除三大師のひとつ。他は西新井大師と川崎大師。大師がこの地に滞在した時、布良崎(めらさき)に鎮座する天太玉命(あめのふとだまのみこと)が現われ、衆生(しゅじょう)の災難除けのため霊木で大師の像を刻めと告げられた。大師は2体を刻んで1体をこの地に安置し、残る1体を海に流した。この1体が対岸の武蔵の海辺に流れ着き、漁師の網にかかったのが川崎大師のご本尊であると「遍智院縁起」は伝えている。本堂裏にある閼伽井(あかい)には、大師が法曼荼羅(ほうまんだら)を写していた時、井戸の底に金砂(きんさ)が湧き出でたと伝えられている。

(8)北竜の爪彫り地蔵

館山市竜岡(りゅうおか)

地蔵堂の本尊は崖に刻まれた陽刻の地蔵尊で、弘法大師が自分の爪で彫ったと伝えられている。岩屋地蔵とも呼ばれ、イボ取りの信仰がある。安房の百八地蔵巡りの第92番である。

(9)弘法井戸

館山市神余(かなまり)

昔一人の僧が物を請いに尋ねて来た。その家のおかみさんが請われるままに、ありあわせの小豆粥(あずきがゆ)を出した。塩気がないことを僧に問われると、「家が貧しくて塩を買うことが出来ない」と答えた。僧が小川のほとりへ行き錫杖(しゃくじょう)を突き立てて念じ、杖を抜くと塩気を含んだ霊水がほとばしった。この旅僧こそ弘法大師であったという伝説。土地の人はその日を記念して井戸水で小豆粥を作り供えるのを行事としてきた。別名塩井戸。

(10)青木の芋井戸

南房総市白浜町白浜

ある老婆が芋を洗っていると、旅の僧が「芋を分けてもらえないか」と尋ねた。老婆は芋を惜(お)しみ「この芋は石にように固くて食べられない」と答えた。老婆が家に帰って芋を煮て食べようとすると、石のように固くなっていた。怒った老婆が芋を道端に捨てると、そこから清水が湧き出て芋は芽を出した。驚いた老婆はその後旅の僧が弘法大師と知り、改心したという話。

(11)三ッ山地蔵

南房総市千倉町白間津(しらまづ)

弘法大師が白間津巡錫(じゅんしゃく)中に、孝行息子が病弱の父親に鮑(あわび)を食べさせたいと採りに行き亡くなったという話を聞いた。大師はこのような惨事が二度と起こらないようにと、海の見える真間(まま)の岩山中腹の岩窟に地蔵菩薩像を彫り護摩修行をしたという伝説がある。1・5・9月の24日のご開帳には、大勢の参拝がある。

(12)忽戸の灰汁井戸

南房総市千倉町忽戸(こっと) (見学不能)

昔から近隣住民に親しまれた洗濯井戸(灰汁(あく)井戸)で、一年中水量・水温が変わることなく、汚れが真っ白に落ちた。昔一人の旅僧が一夜の宿を求めたところ、大変温かく歓待された。翌朝、家人が冷たい水で洗濯しているのを見た僧が、お礼にと原の中程をトントンと叩くと暖かい水が流れ出た。その僧こそ弘法大師だったと伝わる。昭和50年代半ばまで使われていた。

(13)安房国八十八ヶ所霊場

弘法大師の遺跡を巡る四国八十八ヶ所霊場を写した、安房国八十八ヶ所霊場がある。天正1年(1582)に頼長(らいちょう)という高僧が、遠方の四国八十八ヶ所霊場を巡拝できない老若男女の後生安楽(ごしょうあんらく)を願う希望にこたえ、安房国に霊場の「うつし」をつくったという。安房国内の札所は、1番が旧白浜町の紫雲寺から始まり、88番旧白浜町の法界寺まで、旧白浜町5・館山市29・旧三芳村6・旧富浦町2・旧富山町5・鋸南町3・鴨川市17・旧丸山町6・旧和田町5・旧千倉町10か寺が定められている。


作成:ミュージアムサポーター「絵図士」
青木悦子・金久ひろみ・佐藤博秋・佐藤靖子・鈴木以久枝 2019.12.9作
監修 館山市立博物館  〒294-0036 館山市館山351-2 ℡.0470-23-521

安房の芭蕉句碑【1】(鋸南町・館山市)

安房の芭蕉句碑めぐりマップはシリーズ3部作です。安房地域で確認されている芭蕉句碑は19基あり、当マップには7基の情報を掲載しています。安房の芭蕉句碑【2】と【3】を併せてご参照ください。

芭蕉と芭蕉句碑

松尾芭蕉(ばしょう)〔寛永21年~元禄7年(1644~1694)〕は江戸時代前期に活躍した俳人である。滑稽(こっけい)が本質であった俳諧を蕉風(しょうふう)と呼ばれるきわめて芸術性の高いものへと昇華させた。芭蕉の作風は当時から高い評価を受け、門人たちは房総へも遊歴(ゆうれき)した。房総の俳人たちも神格化された芭蕉を慕い、連(れん)と呼ばれるグループを結成して明治時代まで活動した。句会を取り仕切り添削を行った宗匠(そうしょう)は、蕉風を伝える江戸の俳人たちと広く交流を持った。芭蕉を慕う俳人たちが、全国に建てた芭蕉句碑は2500基にも及ぶとされ、安房地方でも現在19期が確認されている。芭蕉が眠る近江国大津の義仲寺(ぎちゅうじ)は、宝暦11年(1761)以来各地から芭蕉句碑建立の申告を受け、『諸国翁墳記(おうふんき)』に掲載して増補しながら刊行し続けていた。安房地域からは新御堂(にいみどう)と蓮華院の2基が紹介されている。

(1)枯えたに烏のとまりけり秋のくれ

鋸南町大帷子(おおかたびら)637 信福寺(しんふくじ)

句碑は摩耗が激しく建立年・発起人等が確認できない。信福寺境内観音堂の左手に立つ。寺は一般道から少し奥に入った小山の中腹にあり、本堂は西向きで木々に囲まれ、前方に海を望み見晴らしが良い。この句は延宝8年(1680)の初案を、元禄2年(1689)に改めたもので、出典は『阿羅野(あらの)』。「葉の落ちつくした枯れ枝に烏(からす)がとまっている。いかにも寂しい秋の夕暮れらしい風景だ」という意。閑寂枯淡(かんじゃくこたん)の情趣を表した句。夕暮れ時の信福寺、西日が射す人里離れた寂しい山寺の情景は、この句に相応しい。

鹿峰山信福寺は、天安年間頃に慈覚大師が開創。江戸時代の寛文13年(1673)中興と伝えられ、安房観音札所第九番の霊場。子授け観音としても有名。観音堂右手にある緑泥片岩(りょくでいへんがん)の武蔵式板碑(いたび)は、安房地方では珍しい鎌倉時代の供養塔で、町指定有形文化財になっている。桜のトンネルの山道、海からの爽やかな風が心地よい場所である。

(2)いさゝらは雪見に転ふところまで

鋸南町大崩(おくずれ) 西根路傍(にしねろぼう)

明治10年(1877)10月建立。平郡(へいぐん)大崩村の亀甲(きっこう)が建立した。大崩の湯沢隧道横から急な坂道を上り、旧道へ続く三叉路の見晴らしの良い高台に句碑がある。高さ幅ともに約1mの小松石。この句は、貞享4年(1687)の作で、『花摘(はなつみ)』に収録されている。「外は一面の雪、さあそれならば雪見にと参ろう。すってんころりんと転ぶ所までどこまでも」という意味で、作者の踊る心がうかがわれる。大崩は温暖な房州の地にあっても雪深い山里であることから、雪見の句が選ばれたと推定される。

建立者亀甲の本名は鈴木勘兵衛。農業の傍ら俳道に励み、万歳舎(ばんざいしゃ)亀甲や柚の本(ゆずのもと)亀甲と号した。俳書『国分集(くにわけしゅう)』などにも入集し、近在に名を知られた俳匠であった。明治23年(1890)、93歳で没。

周辺には「をくずれ水仙郷」・佐久間ダム親水公園が整備され、季節になると水仙や桜の花見で賑わう。

(3)春もやゝ気色とゝのふ月と梅

館山市那古1125 那古寺(なごじ)

明治22年(1891)4月建立。4年後の芭蕉200回忌を見越して雨葎庵(うりつあん)四世山口路米(ろべい)(茂兵衛)が発起人となり、内房を中心とした俳人139名の協力で那古寺式部山入り口に建立された。那古の鳳山(ほうざん)・菱湾(りょうわん)も建立に際し補助の役割を果たした。「おぼろ月の下で梅の花がほころび、やっと春らしい様子に整ってきたことだ」の意。元禄6年(1693)作で、『薦獅子集(こもじししゅう)』に収録されている句である。

大崩(鋸南町)の亀甲や小戸(南房総市)の菊由(きくゆう)、宮本(南房総市富浦町)の占魁(せんかい)、広場(鴨川市)の椿山(ちんざん)、また路米の句友(くゆう)である北条の木鵞(もくが)など、当時の俳諧を嗜(たしな)む人々の大きなつながりが、その名前から読みとれる。観音堂下の旅館山田屋(山月楼)で建碑(けんぴ)法要も営まれ、石碑が建立できたことと待ちこがれた春がやってきたことの大きな喜びが感じられる。

那古寺は養老元年(717)に僧行基によって開かれたと伝えられ、坂東三十三観音霊場の結願時(けちがんじ)、安房国札観音霊場の第一番札所として多くの信仰を集めている。

(4)此あたり目に見ゆるもの皆すゝし

館山市那古1125 那古寺

文政6年(1823)建立。芭蕉130回忌に竹原村の彡戒(さんかい)・山本村の文守・南条村の松濤(しょうとう)・白浜村の里遊ほか白亀・好山等6名が世話人となって建立した。「このあたり一帯、目に見えるものはみな涼しげで気持ちがよい」の意で、「涼し」が夏の季語となる。貞享5年(1688)、芭蕉が美濃の鷗歩(おうほ)に招かれた祈りの句で『笈日記(おいにっき)』に収録されている。

館山平野・館山湾を一望できる那古寺観音堂に向かって左手、龍王堂の前の涼しい海風が吹いてくるところに建てられている。

(5)此神もいく世か経なむまつの花

館山市正木4294 諏訪神社

文久3年(1863)建立。本殿横の小高い土手に、雨葎庵(うりつあん)三世高梨文酬(ぶんしゅう)(泰助)の門弟であった諏訪神社の宮司(ぐうじ)関風羅の肝煎りで、芭蕉を慕う地元正木丘連の18名により建立された。春の季語の「まつの花」と「神」を入れることで、長い時を経てきた神社の厳かさや、村の鎮守として大切に守られてきたことが伺われる。

当社は延期元年(901)創建とされ、祭神は大国主命の第二子である建御名方命(たけみなかたのみこと)。館山湾を一望できる高台にあり、季節には山百合の花が来山者を出迎えてくれる。

高梨文酬は享和元年(1801)、平郡正木村に生まれ、医師として家業を継いだ。俳諧は金尾谷(かのや)村(南房総市富浦町)の雨葎庵二世文茂に師事し、のち雨葎庵を継いで三世となる。没後、四世路米が追善句会を開催。追善集『ちなみ集』が編まれている。

(6)人も見ぬ春や鏡のうらの梅

館山市亀ヶ原808 新御堂跡(にいみどうあと)

寛政5年(1793)頃建立。平郡本織(もとおり)村(南房総市)の石関口瑞石(すいせき)〔本名玄琳(げんりん)〕を中心とする竹の友連により、芭蕉百回忌を記念して建立された。俳壇の現状に対する倦怠気分を根底に、金属製の鏡の裏に意匠された人の目に触れにくい物への共感をしめした作とされている。遠くに鏡ヶ浦(館山湾)が望める諏訪山南側中腹にあり、鏡の裏に掘られた梅の花と鏡が浦をかけている。元禄5年(1692)に編まれた『をのが光』が出典。

この碑は『諸国翁噴記』に「房州平郡新御堂前 竹之友連建立」と記されている。瑞石は江戸の二世白兎園(はくとえん)宗瑞の門人で、安房地方で確認できる最も古い俳書『竹の友』を天明7年(1787)に出し、小林一茶が訪ねたこともあった。現在は新しい石版の句が碑にはめ込まれている。

新御堂は安房国札観音の第二番札所。文化年間の火災で焼失したため、現在は道路を挟んで反対側の、関東大震災で倒壊し廃寺となった秀満院の境内に再建されている。句碑は旧知にある。

※番地は記載可能な場所についてのみ記載。

【補足】
館山市大神宮、小塚大師の裏手の山域に「父母のしきりにこひし雉子の声」と刻まれた芭蕉句碑(句碑番号7)の存在が確認されている。設置区域内の安全確保が難しいため、現在は非公開。この句碑の詳細は『俳諧三昧』(館山市立博物館発行)を参照のこと。


作成:ミュージアムサポーター「絵図士」 愛沢香苗・青木徳雄・丸山千尋・森田英子 2021.4.19 作
監修 館山市立博物館 〒294-0036 館山市館山351-2 ℡.0470-23-5212

安房の芭蕉句碑【2】(南房総市・鴨川市)

安房の芭蕉句碑めぐりマップはシリーズ3部作です。安房地域で確認されている芭蕉句碑は19基あり、当マップには7基の情報を掲載しています。安房の芭蕉句碑【1】と【3】を併せてご参照ください。

芭蕉と芭蕉句碑

松尾芭蕉(ばしょう)〔寛永21年~元禄7年(1644~1694)〕は江戸時代前期に活躍した俳人である。滑稽(こっけい)が本質であった俳諧を蕉風(しょうふう)と呼ばれるきわめて芸術性の高いものへと昇華させた。芭蕉の作風は当時から高い評価を受け、門人たちは房総へも遊歴(ゆうれき)した。房総の俳人たちも神格化された芭蕉を慕い、連(れん)と呼ばれるグループを結成して明治時代まで活動した。句会を取り仕切り添削を行った宗匠(そうしょう)は、蕉風を伝える江戸の俳人たちと広く交流を持った。芭蕉を慕う俳人たちが、全国に建てた芭蕉句碑は2500基にも及ぶとされ、安房地方でも現在19期が確認されている。芭蕉が眠る近江国大津の義仲寺(ぎちゅうじ)は、宝暦11年(1761)以来各地から芭蕉句碑建立の申告を受け、『諸国翁墳記(おうふんき)』に掲載して増補しながら刊行し続けていた。安房地域からは新御堂(にいみどう)と蓮華院の2基が紹介されている。

(8)あの雲は稲妻を待たよりかな

南房総市白浜町野島崎629 厳島神社

天保4年(1833)8月建立。稲妻は秋の季語で、暑中に涼を求めて「あのただならぬ様子の雲は、正に稲妻が走る気配だ」と詠んでいる。久保の俳人井上杉長(さんちょう)の門人である方壺・平雄・杉奴や■斎・■風・宇明の6名により建立。井上杉長は文化文政期に活躍した俳人であり、小林一茶とも交流があった。宇明はその子息、石井平雄は朝夷(あさい)郡平舘(へだて)村の医師、方壺は千田村長性寺の住職である。

厳島神社を北東方向に下り、旧法界寺(ほっかいじ)敷地内の岩場に、宗匠杉長の供養塚「杉長墳(さんちょうふん)」の碑がある。裏面を見ると句碑と同じく、杉長の子息宇明、門人の平雄・方壺・杉奴の名と建立年「天保四年癸巳(みずのとみ)仲秋」が刻されている。江戸時代には法界寺は厳島神社の別当寺であったことから、杉長の五回忌に墓碑を法界寺に、追福の芭蕉碑を厳島神社に、それぞれ建立したものであろう。

(9)あの雲は稲妻を待たよりかな

所在地(8)に同じ

明治19年(1866)5月建立。句碑(8)の傷みによりその左側に再建された。再建者銘はない。裏面に長尾士族の恩田豹隠(ひょういん)が書いたとある。碑面は解読困難。

豹隠は恩田利器(としなり)といい、兵学を指南する学者。明治24年(1891)没、享年83才。元治元年(1864)、駿河城代という幕府の要職に就いた田中藩(静岡県藤枝市)主本多正訥(まさもり)の下、兵学師範や藩政の重職を担った。大政奉還後の徳川慶喜(よしのぶ)の駿府移封により、本多氏は安房へ転封して長尾藩4万石の藩主となり、恩田豹隠も当地へ。廃藩後は白浜の私塾で漢学等を講義するなど人材育成に当った。

(10)あの雲は稲妻を待たよりかな

所在地(8)に同じ

昭和44年(1969)建立。黒御影石の平板碑で、(8)(9)の2基の風化を受け、厳島神社の狛犬と併せて少し離れた場所へ奉納された。時代とともに建て替えられるところに、当句への思いが込められているようで、3基の建立事情に思いが至る。

(11)鐘つかぬ里は何をか春のくれ

南房総市大井220 大徳院(だいとくいん)

文化6年(1809)6月建立。建立者は勝山村(鋸南町)の呂風(ろふう)。芭蕉が奥の細道旅中であった元禄2年(1689)の作。当句は曾良(そら)の『俳諧書留』の「室(むろ)の八嶋(やしま)」に記されたもの。句は、「暮れていく春を、何をたよりに惜しめばよいのか」の意。春の暮色に包まれる頃合いと大徳院周辺の景色とが重なり、建立された句碑に採用されたと考えられる。

呂風は句碑建立を記念して句集『苔筵(こけむしろ)』を出版しているが、勝山に滞在したことのある小林一茶編の撰集『株番(かぶばん)』の中に『苔筵』刊行年が書き込まれていることから、文化6年(1809)が碑建立の年であると知られている。なお、句碑の傍らに文化7年(1810)銘の墓碑(信士・信女)がある。句碑とかかわるものか興味を引かれる。また、内陸の道が交差する位置にある大徳院境内には延命地蔵堂があり、清澄寺住職金剛有性(ゆうしょう)発願(ほつがん)による御詠歌額と後藤義光作の石造延命地蔵菩薩半跏(はんか)像(明治5年作)が奉納されている。

(12)山里は万歳おそし梅の花

鴨川市西339-1 旧水田家住宅

明治23年(1890)2月建立。建立者は不明だが、当家の水田新作が建立した出羽三山碑と同じ年で材質も近似している。水田新作は大蔵大臣を務めた水田三喜男の曽祖父。行者として全国を修行し、出羽三山碑を向かいの山の頂上に建立した。芭蕉も出羽三山を訪れ、同中には多くの句碑が建立されている。新作は明治26年(1893)没。三山碑は水田家墓所に移され新作の墓石とされた。

句碑は、旧水田家住宅敷地内、梅の木の下に建つ。この句は、元禄4年(1691)1月10日頃、伊賀の郷里で詠まれた。出典は「真蹟懐紙(しんせきかいし)」。季語は「万歳(ばんざい)」と「梅の花」で、季は春。「辺鄙(へんぴ)な山里では新春を寿(ことほ)ぎ各戸を廻る万歳が遅い。正月も半ばすぎて梅も花盛りを迎えた頃ようやく来たことよ」の意。山部会この西野尻の里も、同様であったと偲ばれる。万歳とは、年初に家々を回り、賀詞を歌い舞って米銭を乞い受ける門付け(かどづけ)芸のこと。

旧水田家住宅は国の登録有形文化財で、茅葺の母屋や庭園、周辺環境は美しく保たれ一見の価値がある。(毎週火曜日閉園)

(13)雲をりゝゝ人を休める月見哉

鴨川市西739-1 蓮華院

弘化2年(1845)建立。芭蕉の句を中心に「雪月花」(四季の自然美の総称)の三句を並べたと推測される。左右の句は摩耗が激しく解読困難だが、右に「花の香…」、左は「…雪…」の文字が見え、春・冬の趣を句に託してあるようである。中央の句(秋)は貞享2年(1685)、芭蕉40才の作(あつめ句真跡懐紙)。「雲が月に折々かかり、月見の人をしばし休ませることだ」の意で、秋の季語「月」にかかる雲の効用を、山里深い蓮華院の境内地からの眺めと重ねているようである。左脇には「弘化二乙巳稔(きのとみねん)冬七十七叟(そう) 尾崎氏」とあり建立年と建立者名が刻されている。

尾崎氏は、長狭地方の宗匠で常[盤]連を主宰した「日々房鳥周(ちょうしゅう)(尾崎氏)」と考えられ、喜寿を迎えて「雪月花」の句碑を建てたと思われる。時に鳥周は数えの76才、長狭(ながさ)郡磯村の医師であった。なお、『諸国翁墳記』には、当句碑建立の催主は卜山(ぼくざん)・翠斎であると記載があるが、両氏と尾崎鳥周との関係はわかっておらず、謎の部分も残されている。

(14)海暮て鴨の声ほのかに白し

鴨川市太海浜445 仁右衛門島(にえもんじま)

天保11年(1840)3月、常[磐]連が建立した。磯村の尾崎鳥周、如松庵双鳩(じょしょうあんそうきゅう)、此杖菴(しじょうあん)寛雪らが中心となって建てたとされている。「海が暮れて闇に包まれようとする中、耳に届く鴨の声がほのかに白く感じられる」という意味の句である。鴨の声を白いと表現したことが秀逸として評価が高い句。『野ざらし紀行』に収録されており、貞享元年(1684)の作。

仁右衛門島は千葉県指定の名勝地として知られ、自然に恵まれた美しい景色が満喫できる。島内には歌碑や句碑がいくつもある中で、この芭蕉句碑は芭蕉塚として親しまれている。渡し舟料金、並びに、入島料が必要。営業時間は8:30~17:00。但し、天候等の理由により臨時休業あり。車は近隣の有料駐車場を利用のこと。


作成:ミュージアムサポーター「絵図士」 愛沢香苗・青木徳雄・丸山千尋・森田英子 2021.4.19 作
監修 館山市立博物館 〒294-0036 館山市館山351-2 ℡.0470-23-5212

安房の芭蕉句碑【3】(鴨川市)

安房の芭蕉句碑めぐりマップはシリーズ3部作です。安房地域で確認されている芭蕉句碑は19基あり、当マップには5基の情報を掲載しています。安房の芭蕉句碑【1】と【2】を併せてご参照ください。

芭蕉と芭蕉句碑

松尾芭蕉(ばしょう)〔寛永21年~元禄7年(1644~1694)〕は江戸時代前期に活躍した俳人である。滑稽(こっけい)が本質であった俳諧を蕉風(しょうふう)と呼ばれるきわめて芸術性の高いものへと昇華させた。芭蕉の作風は当時から高い評価を受け、門人たちは房総へも遊歴(ゆうれき)した。房総の俳人たちも神格化された芭蕉を慕い、連(れん)と呼ばれるグループを結成して明治時代まで活動した。句会を取り仕切り添削を行った宗匠(そうしょう)は、蕉風を伝える江戸の俳人たちと広く交流を持った。芭蕉を慕う俳人たちが、全国に建てた芭蕉句碑は2500基にも及ぶとされ、安房地方でも現在19期が確認されている。芭蕉が眠る近江国大津の義仲寺(ぎちゅうじ)は、宝暦11年(1761)以来各地から芭蕉句碑建立の申告を受け、『諸国翁墳記(おうふんき)』に掲載して増補しながら刊行し続けていた。安房地域からは新御堂(にいみどう)と蓮華院の2基が紹介されている。

(15)石の香や夏艸赤く露暑し

鴨川市上小原(かみこばら)886 日枝神社(ひえじんじゃ)

建立年不明。句以外に銘文はないため詳細は不明。明治24年(1891)建立の白滝不動にある芭蕉句碑に、籬連(まがきれん)の揮毫者(きごうしゃ)が3基の芭蕉句碑に健筆を振るったと記されていることから、そのひとつの可能性がある。この句は元禄2年(1689)の作で『曾良日記』に収録されている。「石から漂う異様な周期に、見れば夏草は赤く焼け、露までが熱い」という内容が詠まれている。

この神社は夏の強い日差しを遮(さえぎ)るものがない開けた場所にある。灼熱の太陽が照りつけ、草原に熱気に漂うこの句がよく似合う。当神社の建物は、明治45年(1912)2月に焼失し、同年に再建されたもの。現在は、入口の鳥居跡や残された狛犬に、かつての神社の面影を見ることができる。境内には、天保2年(1831)12月作の小さな喚鐘(かんしょう)がある。作者は江戸の西村和泉守(にしむらいずみのかみ)。寄進者の名が連なって刻印され、当時、村人の信仰を集めていたことがうかがえる。

(16)ほろゝゝと山吹ちるか滝の音

鴨川市上小原 白滝不動尊

明治24年(1891)1月建立。上小原の伊丹凌雲や田村一梅など、籬連の24名により建てられた。「滝の音が鳴り渡る中、山吹の花がほろほろと散ることだ」という意味の句が刻まれている。山吹が春の季語。句碑は不動堂に向かって左手に建つ。白滝不動尊が祀られている山頂へと続く道の傍らには「白絹の滝」がある。この滝の情景と重なるため、この句が選ばれたと思われる。

この寺は、真言宗成就院の末寺。修験道の一派である。弘法大師が各地を回って教えを広めていた時に、この地の美しい情景に感銘をうけ、弘法大師が不動明王像を自ら刻み、一棟のお堂を建てたのが始まりと伝えられている。また、永正(えいしょう)年中(1504~1520)に、長狭(ながさ)山之城(やまのしろ)の城主正木時茂(まさきときしげ)が寺を建立し、現南房総市府中の宝珠院第一世宥傳(ゆうでん)の高弟(こうてい)弘真(こうしん)を開祖に迎え、寺号を白滝山滝谷寺(しらたきさんりょうこくじ)としたという。

(17)春なれや名もなき山の朝霞

鴨川市宮山978 宮山神社

明治18年(1885)10月、長狭郡宮山村の籬社中(連)による建立。貞享(じょうきょう)2年(1685)、芭蕉40才の作。『野ざらし紀行』にある。句碑は境内の鳥居をくぐった右方向にある。「春だなあ。名も知れぬ山々に朝の霞がたなびいている」の意。

宮山神社の周囲には嶺岡浅間山(せんげんやま)をはじめとする山々があり、そこにうっすらと霞がかかる朝の情景を芭蕉の句に重ねて、神社境内に芭蕉句碑が建立されたと思われる。碑左側面に「明治十八年時雨日(しぐれび)」とあり、時雨日は10月の異称(いしょう)「時雨月」に因んだもの。松尾芭蕉は元禄7年(1694)10月12日に没しており、宮山近在の籬社の社中もこれを考慮したものであろう。なお、当句は後に「薄霞」に変え早春らしさを出したとされているが、ここでは最初の「朝霞」を採用している。

(18)此あたり目に見ゆるものみな涼し

鴨川市北風原911-1 安国寺

天保7年(1836)建立。二世武橘菴橘叟(ぶきつあんきっそう)、即ち、磯村の医師であった尾崎鳥周(ちょうしゅう)が、当時の安国寺住職であった雨笠(うりゅう)、大幡(おおはた)村の雪丞(せつじょう)、寺門(てらかど)村の米寿(べいじゅ)たちの協力を得てこの碑を建てた。安国寺本堂に向かって右手に句碑が建つ。この句は貞享5年(1688)の作で『笈(おい)日記』に収録されている。「このあたり一帯、目に見えるものはすべて涼しげだ」という意味であり、夏の涼を切り取った爽やかな情景が目に浮かぶ。

足利尊氏・直義が、元弘(1331~1333)以降の内乱で戦没した死者を弔うため、全国66か国と2島に禅宗寺院「安国寺」を建てているが、この寺はそのうちのひとつ。当安国寺は、建立後の足利義満の時代には、ほとんど名目だけのものとなり、衰退していった。しかしながら、天文15年(1546)、土豪たちによって再興され、江戸時代には四石の朱印地(寺領)が与えられるほどになった。

(19)野を横に馬引むけよほとゝきす

鴨川市平塚 大田代路傍(おだしろろぼう)

明治19年(1866)4月、長狭郡平塚村大田代の「大田代連(おだしろれん)」が建立した。大田代は山間の小さな村落であるが、明治期には俳諧をたしなむ村人が集う「大田代連」があり、その文雅の風が石に刻まれて残された。平塚方面から大田代へ上り、村落の入口を右折すると道沿い右手の山裾に、地蔵尊が祀られている。そのすぐ横にこの句碑が建っている。碑面の芭蕉の句は元禄2年(1689)の作で、『奥の細道』に収録されている。「馬に乗って野を渡っていると、横手でホトトギスが鳴いているよ。さあ、鳴き声が聞こえるほうへ馬の首を引き向けておくれ、いっしょに聞こうではないか」という内容の句である。「ほととぎす」が夏の季語。

この句碑が建つ地域一帯には、江戸時代に幕府が馬の育成を行う牧(まき)があった。起伏に富んだ産地は馬の飼育に適し、地元からは馬の扱いに慣れた家柄が選抜され牧士(もくし)として採用された。牧士は苗字・帯刀(たいとう)が許されて武士に準ずる資格が与えられた。この嶺岡牧では年間を通して放牧し、繁殖した馬は3月から5月頃「野馬捕(のまどり)」を行い、乗馬に適した馬を納めたり、近隣の農家にせり売りされたりした。幕府から薪を引き継いだ明治政府もこれを存続させ、地元農民が牛馬の飼育等に携わっていた。

毎夏、馬を引いてこの野道を通る折、ホトトギスの声を聴いたことも度々あったであろう。馬を止めてホトトギスの声を風雅に楽しむ嶺岡牧に暮らす農民と馬の情景が偲ばれる。

※番地は記載可能な場所についてのみ記載。


作成:ミュージアムサポーター「絵図士」 愛沢香苗・青木徳雄・丸山千尋・森田英子 2021.4.19 作
監修 館山市立博物館 〒294-0036 館山市館山351-2 ℡.0470-23-5212

安房の芭蕉句碑【3】(鴨川市)

安房の芭蕉句碑めぐりマップはシリーズ3部作です。安房地域で確認されている芭蕉句碑は19基あり、当マップには5基の情報を掲載しています。安房の芭蕉句碑【1】【2】を併せてご参照ください。

芭蕉と芭蕉句碑

松尾芭蕉(ばしょう)〔寛永21年~元禄7年(1644~1694)〕は江戸時代前期に活躍した俳人である。滑稽(こっけい)が本質であった俳諧を蕉風(しょうふう)と呼ばれるきわめて芸術性の高いものへと昇華させた。芭蕉の作風は当時から高い評価を受け、門人たちは房総へも遊歴(ゆうれき)した。房総の俳人たちも神格化された芭蕉を慕い、連(れん)と呼ばれるグループを結成して明治時代まで活動した。句会を取り仕切り添削を行った宗匠(そうしょう)は、蕉風を伝える江戸の俳人たちと広く交流を持った。芭蕉を慕う俳人たちが、全国に建てた芭蕉句碑は2500基にも及ぶとされ、安房地方でも現在19期が確認されている。芭蕉が眠る近江国大津の義仲寺(ぎちゅうじ)は、宝暦11年(1761)以来各地から芭蕉句碑建立の申告を受け、『諸国翁墳記(おうふんき)』に掲載して増補しながら刊行し続けていた。安房地域からは新御堂(にいみどう)と蓮華院の2基が紹介されている。

(15)石の香や夏艸赤く露暑し 鴨川市上小原(かみこばら)886 日枝神社(ひえじんじゃ)

(15)石の香や夏艸赤く露暑し

鴨川市上小原(かみこばら)886 日枝神社(ひえじんじゃ)

建立年不明。句以外に銘文はないため詳細は不明。明治24年(1891)建立の白滝不動にある芭蕉句碑に、籬連(まがきれん)の揮毫者(きごうしゃ)が3基の芭蕉句碑に健筆を振るったと記されていることから、そのひとつの可能性がある。この句は元禄2年(1689)の作で『曾良日記』に収録されている。「石から漂う異様な周期に、見れば夏草は赤く焼け、露までが熱い」という内容が詠まれている。

この神社は夏の強い日差しを遮(さえぎ)るものがない開けた場所にある。灼熱の太陽が照りつけ、草原に熱気に漂うこの句がよく似合う。当神社の建物は、明治45年(1912)2月に焼失し、同年に再建されたもの。現在は、入口の鳥居跡や残された狛犬に、かつての神社の面影を見ることができる。境内には、天保2年(1831)12月作の小さな喚鐘(かんしょう)がある。作者は江戸の西村和泉守(にしむらいずみのかみ)。寄進者の名が連なって刻印され、当時、村人の信仰を集めていたことがうかがえる。

(16)ほろゝゝと山吹ちるか滝の音 鴨川市上小原 白滝不動尊

(16)ほろゝゝと山吹ちるか滝の音

鴨川市上小原 白滝不動尊

明治24年(1891)1月建立。上小原の伊丹凌雲や田村一梅など、籬連の24名により建てられた。「滝の音が鳴り渡る中、山吹の花がほろほろと散ることだ」という意味の句が刻まれている。山吹が春の季語。句碑は不動堂に向かって左手に建つ。白滝不動尊が祀られている山頂へと続く道の傍らには「白絹の滝」がある。この滝の情景と重なるため、この句が選ばれたと思われる。

この寺は、真言宗成就院の末寺。修験道の一派である。弘法大師が各地を回って教えを広めていた時に、この地の美しい情景に感銘をうけ、弘法大師が不動明王像を自ら刻み、一棟のお堂を建てたのが始まりと伝えられている。また、永正(えいしょう)年中(1504~1520)に、長狭(ながさ)山之城(やまのしろ)の城主正木時茂(まさきときしげ)が寺を建立し、現南房総市府中の宝珠院第一世宥傳(ゆうでん)の高弟(こうてい)弘真(こうしん)を開祖に迎え、寺号を白滝山滝谷寺(しらたきさんりょうこくじ)としたという。

(17)春なれや名もなき山の朝霞 鴨川市宮山978 宮山神社

(17)春なれや名もなき山の朝霞

鴨川市宮山978 宮山神社

明治18年(1885)10月、長狭郡宮山村の籬社中(連)による建立。貞享(じょうきょう)2年(1685)、芭蕉40才の作。『野ざらし紀行』にある。句碑は境内の鳥居をくぐった右方向にある。「春だなあ。名も知れぬ山々に朝の霞がたなびいている」の意。

宮山神社の周囲には嶺岡浅間山(せんげんやま)をはじめとする山々があり、そこにうっすらと霞がかかる朝の情景を芭蕉の句に重ねて、神社境内に芭蕉句碑が建立されたと思われる。碑左側面に「明治十八年時雨日(しぐれび)」とあり、時雨日は10月の異称(いしょう)「時雨月」に因んだもの。松尾芭蕉は元禄7年(1694)10月12日に没しており、宮山近在の籬社の社中もこれを考慮したものであろう。なお、当句は後に「薄霞」に変え早春らしさを出したとされているが、ここでは最初の「朝霞」を採用している。

(18)此あたり目に見ゆるものみな涼し 鴨川市北風原911-1 安国寺

(18)此あたり目に見ゆるものみな涼し

鴨川市北風原911-1 安国寺

天保7年(1836)建立。二世武橘菴橘叟(ぶきつあんきっそう)、即ち、磯村の医師であった尾崎鳥周(ちょうしゅう)が、当時の安国寺住職であった雨笠(うりゅう)、大幡(おおはた)村の雪丞(せつじょう)、寺門(てらかど)村の米寿(べいじゅ)たちの協力を得てこの碑を建てた。安国寺本堂に向かって右手に句碑が建つ。この句は貞享5年(1688)の作で『笈(おい)日記』に収録されている。「このあたり一帯、目に見えるものはすべて涼しげだ」という意味であり、夏の涼を切り取った爽やかな情景が目に浮かぶ。

足利尊氏・直義が、元弘(1331~1333)以降の内乱で戦没した死者を弔うため、全国66か国と2島に禅宗寺院「安国寺」を建てているが、この寺はそのうちのひとつ。当安国寺は、建立後の足利義満の時代には、ほとんど名目だけのものとなり、衰退していった。しかしながら、天文15年(1546)、土豪たちによって再興され、江戸時代には四石の朱印地(寺領)が与えられるほどになった。

(19)野を横に馬引むけよほとゝきす 鴨川市平塚 大田代路傍(おだしろろぼう)

(19)野を横に馬引むけよほとゝきす

鴨川市平塚 大田代路傍(おだしろろぼう)

明治19年(1866)4月、長狭郡平塚村大田代の「大田代連(おだしろれん)」が建立した。大田代は山間の小さな村落であるが、明治期には俳諧をたしなむ村人が集う「大田代連」があり、その文雅の風が石に刻まれて残された。平塚方面から大田代へ上り、村落の入口を右折すると道沿い右手の山裾に、地蔵尊が祀られている。そのすぐ横にこの句碑が建っている。碑面の芭蕉の句は元禄2年(1689)の作で、『奥の細道』に収録されている。「馬に乗って野を渡っていると、横手でホトトギスが鳴いているよ。さあ、鳴き声が聞こえるほうへ馬の首を引き向けておくれ、いっしょに聞こうではないか」という内容の句である。「ほととぎす」が夏の季語。

この句碑が建つ地域一帯には、江戸時代に幕府が馬の育成を行う牧(まき)があった。起伏に富んだ産地は馬の飼育に適し、地元からは馬の扱いに慣れた家柄が選抜され牧士(もくし)として採用された。牧士は苗字・帯刀(たいとう)が許されて武士に準ずる資格が与えられた。この嶺岡牧では年間を通して放牧し、繁殖した馬は3月から5月頃「野馬捕(のまどり)」を行い、乗馬に適した馬を納めたり、近隣の農家にせり売りされたりした。幕府から薪を引き継いだ明治政府もこれを存続させ、地元農民が牛馬の飼育等に携わっていた。

毎夏、馬を引いてこの野道を通る折、ホトトギスの声を聴いたことも度々あったであろう。馬を止めてホトトギスの声を風雅に楽しむ嶺岡牧に暮らす農民と馬の情景が偲ばれる。

※番地は記載可能な場所についてのみ記載。


作成:ミュージアムサポーター「絵図士」
愛沢香苗・青木徳雄・丸山千尋・森田英子 2021.4.19 作
監修 館山市立博物館 〒294-0036 館山市館山351-2 ℡.0470-23-5212

安房の芭蕉句碑【2】(南房総市・鴨川市)

安房の芭蕉句碑めぐりマップはシリーズ3部作です。安房地域で確認されている芭蕉句碑は19基あり、当マップには7基の情報を掲載しています。安房の芭蕉句碑【1】【3】を併せてご参照ください。

芭蕉と芭蕉句碑

松尾芭蕉(ばしょう)〔寛永21年~元禄7年(1644~1694)〕は江戸時代前期に活躍した俳人である。滑稽(こっけい)が本質であった俳諧を蕉風(しょうふう)と呼ばれるきわめて芸術性の高いものへと昇華させた。芭蕉の作風は当時から高い評価を受け、門人たちは房総へも遊歴(ゆうれき)した。房総の俳人たちも神格化された芭蕉を慕い、連(れん)と呼ばれるグループを結成して明治時代まで活動した。句会を取り仕切り添削を行った宗匠(そうしょう)は、蕉風を伝える江戸の俳人たちと広く交流を持った。芭蕉を慕う俳人たちが、全国に建てた芭蕉句碑は2500基にも及ぶとされ、安房地方でも現在19期が確認されている。芭蕉が眠る近江国大津の義仲寺(ぎちゅうじ)は、宝暦11年(1761)以来各地から芭蕉句碑建立の申告を受け、『諸国翁墳記(おうふんき)』に掲載して増補しながら刊行し続けていた。安房地域からは新御堂(にいみどう)と蓮華院の2基が紹介されている。

(8)あの雲は稲妻を待たよりかな 南房総市白浜町野島崎629 厳島神社

(8)あの雲は稲妻を待たよりかな

南房総市白浜町野島崎629 厳島神社

天保4年(1833)8月建立。稲妻は秋の季語で、暑中に涼を求めて「あのただならぬ様子の雲は、正に稲妻が走る気配だ」と詠んでいる。久保の俳人井上杉長(さんちょう)の門人である方壺・平雄・杉奴や■斎・■風・宇明の6名により建立。井上杉長は文化文政期に活躍した俳人であり、小林一茶とも交流があった。宇明はその子息、石井平雄は朝夷(あさい)郡平舘(へだて)村の医師、方壺は千田村長性寺の住職である。

厳島神社を北東方向に下り、旧法界寺(ほっかいじ)敷地内の岩場に、宗匠杉長の供養塚「杉長墳(さんちょうふん)」の碑がある。裏面を見ると句碑と同じく、杉長の子息宇明、門人の平雄・方壺・杉奴の名と建立年「天保四年癸巳(みずのとみ)仲秋」が刻されている。江戸時代には法界寺は厳島神社の別当寺であったことから、杉長の五回忌に墓碑を法界寺に、追福の芭蕉碑を厳島神社に、それぞれ建立したものであろう。

(9)あの雲は稲妻を待たよりかな 所在地(8)に同じ

(9)あの雲は稲妻を待たよりかな

所在地(8)に同じ

明治19年(1866)5月建立。句碑(8)の傷みによりその左側に再建された。再建者銘はない。裏面に長尾士族の恩田豹隠(ひょういん)が書いたとある。碑面は解読困難。

豹隠は恩田利器(としなり)といい、兵学を指南する学者。明治24年(1891)没、享年83才。元治元年(1864)、駿河城代という幕府の要職に就いた田中藩(静岡県藤枝市)主本多正訥(まさもり)の下、兵学師範や藩政の重職を担った。大政奉還後の徳川慶喜(よしのぶ)の駿府移封により、本多氏は安房へ転封して長尾藩4万石の藩主となり、恩田豹隠も当地へ。廃藩後は白浜の私塾で漢学等を講義するなど人材育成に当った。

(10)あの雲は稲妻を待たよりかな 所在地(8)に同じ

(10)あの雲は稲妻を待たよりかな

所在地(8)に同じ

昭和44年(1969)建立。黒御影石の平板碑で、(8)(9)の2基の風化を受け、厳島神社の狛犬と併せて少し離れた場所へ奉納された。時代とともに建て替えられるところに、当句への思いが込められているようで、3基の建立事情に思いが至る。

(11)鐘つかぬ里は何をか春のくれ 南房総市大井220 大徳院(だいとくいん)

(11)鐘つかぬ里は何をか春のくれ

南房総市大井220 大徳院(だいとくいん)

文化6年(1809)6月建立。建立者は勝山村(鋸南町)の呂風(ろふう)。芭蕉が奥の細道旅中であった元禄2年(1689)の作。当句は曾良(そら)の『俳諧書留』の「室(むろ)の八嶋(やしま)」に記されたもの。句は、「暮れていく春を、何をたよりに惜しめばよいのか」の意。春の暮色に包まれる頃合いと大徳院周辺の景色とが重なり、建立された句碑に採用されたと考えられる。

呂風は句碑建立を記念して句集『苔筵(こけむしろ)』を出版しているが、勝山に滞在したことのある小林一茶編の撰集『株番(かぶばん)』の中に『苔筵』刊行年が書き込まれていることから、文化6年(1809)が碑建立の年であると知られている。なお、句碑の傍らに文化7年(1810)銘の墓碑(信士・信女)がある。句碑とかかわるものか興味を引かれる。また、内陸の道が交差する位置にある大徳院境内には延命地蔵堂があり、清澄寺住職金剛有性(ゆうしょう)発願(ほつがん)による御詠歌額と後藤義光作の石造延命地蔵菩薩半跏(はんか)像(明治5年作)が奉納されている。

(12)山里は万歳おそし梅の花 鴨川市西339-1 旧水田家住宅

(12)山里は万歳おそし梅の花

鴨川市西339-1 旧水田家住宅

明治23年(1890)2月建立。建立者は不明だが、当家の水田新作が建立した出羽三山碑と同じ年で材質も近似している。水田新作は大蔵大臣を務めた水田三喜男の曽祖父。行者として全国を修行し、出羽三山碑を向かいの山の頂上に建立した。芭蕉も出羽三山を訪れ、同中には多くの句碑が建立されている。新作は明治26年(1893)没。三山碑は水田家墓所に移され新作の墓石とされた。

句碑は、旧水田家住宅敷地内、梅の木の下に建つ。この句は、元禄4年(1691)1月10日頃、伊賀の郷里で詠まれた。出典は「真蹟懐紙(しんせきかいし)」。季語は「万歳(ばんざい)」と「梅の花」で、季は春。「辺鄙(へんぴ)な山里では新春を寿(ことほ)ぎ各戸を廻る万歳が遅い。正月も半ばすぎて梅も花盛りを迎えた頃ようやく来たことよ」の意。山部会この西野尻の里も、同様であったと偲ばれる。万歳とは、年初に家々を回り、賀詞を歌い舞って米銭を乞い受ける門付け(かどづけ)芸のこと。

旧水田家住宅は国の登録有形文化財で、茅葺の母屋や庭園、周辺環境は美しく保たれ一見の価値がある。(毎週火曜日閉園)

(13)雲をりゝゝ人を休める月見哉 鴨川市西739-1 蓮華院

(13)雲をりゝゝ人を休める月見哉

鴨川市西739-1 蓮華院

弘化2年(1845)建立。芭蕉の句を中心に「雪月花」(四季の自然美の総称)の三句を並べたと推測される。左右の句は摩耗が激しく解読困難だが、右に「花の香…」、左は「…雪…」の文字が見え、春・冬の趣を句に託してあるようである。中央の句(秋)は貞享2年(1685)、芭蕉40才の作(あつめ句真跡懐紙)。「雲が月に折々かかり、月見の人をしばし休ませることだ」の意で、秋の季語「月」にかかる雲の効用を、山里深い蓮華院の境内地からの眺めと重ねているようである。左脇には「弘化二乙巳稔(きのとみねん)冬七十七叟(そう) 尾崎氏」とあり建立年と建立者名が刻されている。

尾崎氏は、長狭地方の宗匠で常磐連を主宰した「日々房鳥周(ちょうしゅう)(尾崎氏)」と考えられ、喜寿を迎えて「雪月花」の句碑を建てたと思われる。時に鳥周は数えの76才、長狭(ながさ)郡磯村の医師であった。なお、『諸国翁墳記』には、当句碑建立の催主は卜山(ぼくざん)・翠斎であると記載があるが、両氏と尾崎鳥周との関係はわかっておらず、謎の部分も残されている。

(14)海暮て鴨の声ほのかに白し

鴨川市太海浜445 仁右衛門島(にえもんじま)

天保11年(1840)3月、常磐連が建立した。磯村の尾崎鳥周、如松庵双鳩(じょしょうあんそうきゅう)、此杖菴(しじょうあん)寛雪らが中心となって建てたとされている。「海が暮れて闇に包まれようとする中、耳に届く鴨の声がほのかに白く感じられる」という意味の句である。鴨の声を白いと表現したことが秀逸として評価が高い句。『野ざらし紀行』に収録されており、貞享元年(1684)の作。

仁右衛門島は千葉県指定の名勝地として知られ、自然に恵まれた美しい景色が満喫できる。島内には歌碑や句碑がいくつもある中で、この芭蕉句碑は芭蕉塚として親しまれている。渡し舟料金、並びに、入島料が必要。営業時間は8:30~17:00。但し、天候等の理由により臨時休業あり。車は近隣の有料駐車場を利用のこと。


作成:ミュージアムサポーター「絵図士」
愛沢香苗・青木徳雄・丸山千尋・森田英子 2021.4.19 作
監修 館山市立博物館 〒294-0036 館山市館山351-2 ℡.0470-23-5212

安房の芭蕉句碑【1】(鋸南町・館山市)

安房の芭蕉句碑めぐりマップはシリーズ3部作です。安房地域で確認されている芭蕉句碑は19基あり、当マップには7基の情報を掲載しています。安房の芭蕉句碑【2】【3】を併せてご参照ください。

芭蕉と芭蕉句碑

松尾芭蕉(ばしょう)〔寛永21年~元禄7年(1644~1694)〕は江戸時代前期に活躍した俳人である。滑稽(こっけい)が本質であった俳諧を蕉風(しょうふう)と呼ばれるきわめて芸術性の高いものへと昇華させた。芭蕉の作風は当時から高い評価を受け、門人たちは房総へも遊歴(ゆうれき)した。房総の俳人たちも神格化された芭蕉を慕い、連(れん)と呼ばれるグループを結成して明治時代まで活動した。句会を取り仕切り添削を行った宗匠(そうしょう)は、蕉風を伝える江戸の俳人たちと広く交流を持った。芭蕉を慕う俳人たちが、全国に建てた芭蕉句碑は2500基にも及ぶとされ、安房地方でも現在19期が確認されている。芭蕉が眠る近江国大津の義仲寺(ぎちゅうじ)は、宝暦11年(1761)以来各地から芭蕉句碑建立の申告を受け、『諸国翁墳記(おうふんき)』に掲載して増補しながら刊行し続けていた。安房地域からは新御堂(にいみどう)と蓮華院の2基が紹介されている。

(1)枯えたに烏のとまりけり秋のくれ

鋸南町大帷子(おおかたびら)637 信福寺(しんふくじ)

句碑は摩耗が激しく建立年・発起人等が確認できない。信福寺境内観音堂の左手に立つ。寺は一般道から少し奥に入った小山の中腹にあり、本堂は西向きで木々に囲まれ、前方に海を望み見晴らしが良い。この句は延宝8年(1680)の初案を、元禄2年(1689)に改めたもので、出典は『阿羅野(あらの)』。「葉の落ちつくした枯れ枝に烏(からす)がとまっている。いかにも寂しい秋の夕暮れらしい風景だ」という意。閑寂枯淡(かんじゃくこたん)の情趣を表した句。夕暮れ時の信福寺、西日が射す人里離れた寂しい山寺の情景は、この句に相応しい。

鹿峰山信福寺は、天安年間頃に慈覚大師が開創。江戸時代の寛文13年(1673)中興と伝えられ、安房観音札所第九番の霊場。子授け観音としても有名。観音堂右手にある緑泥片岩(りょくでいへんがん)の武蔵式板碑(いたび)は、安房地方では珍しい鎌倉時代の供養塔で、町指定有形文化財になっている。桜のトンネルの山道、海からの爽やかな風が心地よい場所である。

(2)いさゝらは雪見に転ふところまで 鋸南町大崩(おくずれ) 西根路傍(にしねろぼう)

(2)いさゝらは雪見に転ふところまで

鋸南町大崩(おくずれ) 西根路傍(にしねろぼう)

明治10年(1877)10月建立。平郡(へいぐん)大崩村の亀甲(きっこう)が建立した。大崩の湯沢隧道横から急な坂道を上り、旧道へ続く三叉路の見晴らしの良い高台に句碑がある。高さ幅ともに約1mの小松石。この句は、貞享4年(1687)の作で、『花摘(はなつみ)』に収録されている。「外は一面の雪、さあそれならば雪見にと参ろう。すってんころりんと転ぶ所までどこまでも」という意味で、作者の踊る心がうかがわれる。大崩は温暖な房州の地にあっても雪深い山里であることから、雪見の句が選ばれたと推定される。

建立者亀甲の本名は鈴木勘兵衛。農業の傍ら俳道に励み、万歳舎(ばんざいしゃ)亀甲や柚の本(ゆずのもと)亀甲と号した。俳書『国分集(くにわけしゅう)』などにも入集し、近在に名を知られた俳匠であった。明治23年(1890)、93歳で没。

周辺には「をくずれ水仙郷」・佐久間ダム親水公園が整備され、季節になると水仙や桜の花見で賑わう。

(3)春もやゝ気色とゝのふ月と梅 館山市那古1125 那古寺(なごじ)

(3)春もやゝ気色とゝのふ月と梅

館山市那古1125 那古寺(なごじ)

明治22年(1891)4月建立。4年後の芭蕉200回忌を見越して雨葎庵(うりつあん)四世山口路米(ろべい)(茂兵衛)が発起人となり、内房を中心とした俳人139名の協力で那古寺式部山入り口に建立された。那古の鳳山(ほうざん)・菱湾(りょうわん)も建立に際し補助の役割を果たした。「おぼろ月の下で梅の花がほころび、やっと春らしい様子に整ってきたことだ」の意。元禄6年(1693)作で、『薦獅子集(こもじししゅう)』に収録されている句である。

大崩(鋸南町)の亀甲や小戸(南房総市)の菊由(きくゆう)、宮本(南房総市富浦町)の占魁(せんかい)、広場(鴨川市)の椿山(ちんざん)、また路米の句友(くゆう)である北条の木鵞(もくが)など、当時の俳諧を嗜(たしな)む人々の大きなつながりが、その名前から読みとれる。観音堂下の旅館山田屋(山月楼)で建碑(けんぴ)法要も営まれ、石碑が建立できたことと待ちこがれた春がやってきたことの大きな喜びが感じられる。

那古寺は養老元年(717)に僧行基によって開かれたと伝えられ、坂東三十三観音霊場の結願時(けちがんじ)、安房国札観音霊場の第一番札所として多くの信仰を集めている。

(4)此あたり目に見ゆるもの皆すゝし  館山市那古1125 那古寺

(4)此あたり目に見ゆるもの皆すゝし

館山市那古1125 那古寺

文政6年(1823)建立。芭蕉130回忌に竹原村の彡戒(さんかい)・山本村の文守・南条村の松濤(しょうとう)・白浜村の里遊ほか白亀・好山等6名が世話人となって建立した。「このあたり一帯、目に見えるものはみな涼しげで気持ちがよい」の意で、「涼し」が夏の季語となる。貞享5年(1688)、芭蕉が美濃の鷗歩(おうほ)に招かれた祈りの句で『笈日記(おいにっき)』に収録されている。

館山平野・館山湾を一望できる那古寺観音堂に向かって左手、龍王堂の前の涼しい海風が吹いてくるところに建てられている。

(5)此神もいく世か経なむまつの花 館山市正木4294 諏訪神社

(5)此神もいく世か経なむまつの花

館山市正木4294 諏訪神社

文久3年(1863)建立。本殿横の小高い土手に、雨葎庵(うりつあん)三世高梨文酬(ぶんしゅう)(泰助)の門弟であった諏訪神社の宮司(ぐうじ)関風羅の肝煎りで、芭蕉を慕う地元正木丘連の18名により建立された。春の季語の「まつの花」と「神」を入れることで、長い時を経てきた神社の厳かさや、村の鎮守として大切に守られてきたことが伺われる。

当社は延期元年(901)創建とされ、祭神は大国主命の第二子である建御名方命(たけみなかたのみこと)。館山湾を一望できる高台にあり、季節には山百合の花が来山者を出迎えてくれる。

高梨文酬は享和元年(1801)、平郡正木村に生まれ、医師として家業を継いだ。俳諧は金尾谷(かのや)村(南房総市富浦町)の雨葎庵二世文茂に師事し、のち雨葎庵を継いで三世となる。没後、四世路米が追善句会を開催。追善集『ちなみ集』が編まれている。

(6)人も見ぬ春や鏡のうらの梅 館山市亀ヶ原808 新御堂跡(にいみどうあと)

(6)人も見ぬ春や鏡のうらの梅

館山市亀ヶ原808 新御堂跡(にいみどうあと)

寛政5年(1793)頃建立。平郡本織(もとおり)村(南房総市)の石関口瑞石(すいせき)〔本名玄琳(げんりん)〕を中心とする竹の友連により、芭蕉百回忌を記念して建立された。俳壇の現状に対する倦怠気分を根底に、金属製の鏡の裏に意匠された人の目に触れにくい物への共感をしめした作とされている。遠くに鏡ヶ浦(館山湾)が望める諏訪山南側中腹にあり、鏡の裏に掘られた梅の花と鏡が浦をかけている。元禄5年(1692)に編まれた『をのが光』が出典。

この碑は『諸国翁噴記』に「房州平郡新御堂前 竹之友連建立」と記されている。瑞石は江戸の二世白兎園(はくとえん)宗瑞の門人で、安房地方で確認できる最も古い俳書『竹の友』を天明7年(1787)に出し、小林一茶が訪ねたこともあった。現在は新しい石版の句が碑にはめ込まれている。

新御堂は安房国札観音の第二番札所。文化年間の火災で焼失したため、現在は道路を挟んで反対側の、関東大震災で倒壊し廃寺となった秀満院の境内に再建されている。句碑は旧地にある。

※番地は記載可能な場所についてのみ記載。

【補足】
館山市大神宮、小塚大師の裏手の山域に「父母のしきりにこひし雉子の声」と刻まれた芭蕉句碑(句碑番号7)の存在が確認されている。設置区域内の安全確保が難しいため、現在は非公開。この句碑の詳細は『俳諧三昧』(館山市立博物館発行)を参照のこと。


作成:ミュージアムサポーター「絵図士
 愛沢香苗・青木徳雄・丸山千尋・森田英子 2021.4.19 作
監修 館山市立博物館 〒294-0036 館山市館山351-2 ℡.0470-23-5212

やわたんまちと出祭神社

やわたんまちの概要

鶴谷八幡宮の「やわたんまち」(県指定無形民俗文化財)は、安房地方を代表する11社の「寄合祭り」である。毎年9月敬老の日前の土日に行われるが、かつては14日(よいまち)・15日(ほんまち)・16日(すぎまち)に行われていた。江戸時代までの旧暦では8月15日の「放生会(ほうじょうえ)」として行われた。南房総市府中(旧三芳村)の元八幡神社でおこなわれる「お水取り」や、神輿を出祭する11社が合同で行う「六所祭(ろくしょさい)」の存在から、古代総社の系譜を引く祭礼と考えられている。祭り初日の夜は、安房神社以外の神輿は御仮屋(おかりや)、安房神社の神輿は安房神社遥拝殿で一晩を過ごす。江戸時代には北条地区の祭りが併せて開かれるようになり、山車やお船の賑やかな祭囃子(まつりばやし)は多くの人に親しまれている。

(1)鶴谷(つるがや)八幡宮

(館山市八幡68)

南房総市府中に当社発祥の地と言われる元八幡神社がある。祭神は品陀和気命(ほんだわけのみこと)・帯中彦命(たらしなかつひこのみこと)・息長帯姫命(おきながたらしひめのみこと)。源頼朝が鎌倉に幕府を開き国司の権勢が衰えると、総社の崇敬も衰微、遂には総社を改変し八幡神社として尊崇するに至り、現在地へ遷座したという。昭和51年(1976)の千年式年大祭の記念事業で本殿を改修、名称を鶴谷八幡宮に改めた。当社の神輿は本殿内に安置され、出祭神社の神輿や北条地区の山車・お船を迎え、最終日の各神輿帰還後、昔の名残の放生会(ほうじょうえ)を行うため八幡(やわた)の浜に神幸(しんこう)する。

(2)安房(あわ)神社

(館山市大神宮589)

館山市大神宮に鎮座し「延喜式(えんぎしき)」にも記されている安房国一宮である。上ノ宮の祭神は天太玉命(あめのふとだまのみこと)。相殿(あいどの)は后神(きさきがみ)の天比理乃咩命(あめのひりのめのみこと)と天日鷲命(あめのひわしのみこと)。下ノ宮の祭神は天忍日命(あめのおしひのみこと)で、相殿には安房忌部(いんべ)氏の祖天富命(あめのとみのみこと)が祀られている。天富命が祖先の天太玉命を祭るために安房神社を創建した。初日の宮入では天狗・安房神社神主・巫女(みこ)2名・お旗持ち・氏子総代が先導し、続いて高張提灯・神輿の順で鳥居をくぐる。 直ぐ後には后神の洲宮神社が続く。 安房神社遥拝殿で神幸祭(じんこうさい)が行われ、翌日は境内で洲宮神社と共にもみ合い、二基の神輿は夫婦揃って帰還の途につく。

(3)洲宮(すのみや)神社

(館山市洲宮921)

館山市洲宮に鎮座する。祭神は天比理乃咩命(あめのひりのめのみこと)。安房神社祭神天太玉命の后神(きさきかがみ)。「延喜式神名帳」にも記載。魚尾山(とおやま)に鎮座していたが、文永10年(1273)の火災により焼失し、建治3年(1277)に現在地へ移転再建したといわれている。やわたんまち出祭時は、安房神社の神輿が通り過ぎるのを待ってから渡御。豊作を願って行われる「御田植(みたうえ)神事」は、市指定無形民俗文化財。

(4)下立松原(しもたてまつばら)神社

(南房総市白浜町滝口1728)

かつて小鷹(こたか)明神と称した。 祭神は天日鷲命(あめのひわしのみこと)。開拓の神との繋がりがあり「延喜式」にも記載。 安房の忌部の祖神で、壁画殿には寺崎武男画伯の描いた忌部の由緒を物語る壁画 10点が奉納されている。祭礼当日は境内で「もみ・さし・ローリング」等を繰り返しおこない、見物人を喜ばせる。旧 11月26日から 10日間行われる「ミカリ神事」は南房総市指定無形民俗文化財。

(5)手力雄(たぢからお)神社

(館山市大井1129)

養老2年(718)創建。祭神は天手力雄命(あめのたぢからおのみこと)・天御中主命(あめのみなかぬしのみこと)・太田命(おおたのみこと)。古来安東明神・神通力(みたき)明神として崇敬され、明治初年手力雄神社と改称。関東公方(くぼう)足利氏満が社殿を改築、里見氏歴代も社殿を造営した。社領は里見氏や徳川氏から43石余が寄進された。神輿は、安房の名工「波の伊八」と「初代義光」による彫刻がつく。本殿は県指定文化財。御神木の大杉は市指定天然記念物。延久3年(1071)より「やわたんまち」に出祭と伝える。

(6)山宮(やまみや)神社

(館山市東長田1061)

朱鳥元年(686)創建という。大山祇命(おおやまつみのみこと)・事代主命(ことしろぬしのみこと)が祀られている。摂津国三島から来た中臣鎌足(なかとみのかまたり)の子孫である幸彦ゆかりの神社で、長田明神とも称した。延久3年(1071)8月14日に、安房国八幡の海岸へ神輿を出す神事が初めて行われたと伝える。

(7)山荻(やもおぎ)神社

(館山市山荻273)

景行天皇53年の創建とされ、かつて年宮(としのみや)大明神と称した。稚産霊神(わくむすびのかみ)・猿田毘古神(さるたひこのかみ)・大穴牟遅命(おおなむちのみこと)・少毘古名命(すくなひこなのみこと)が祭神。年占(としうら)をする2月26日の「筒粥神事(つつがゆしんじ)」(市指定無形民俗文化財)は、景行天皇が諸国巡幸の折、五穀豊穣を占ったことが起源とされる。

(8)莫越山(なこしやま)神社

(南房総市沓見241)

祭神は手置帆負命(たおきほおいのみこと)と彦狭知命(ひこさしりのみこと)。創建は神武元年とされ、天富命が安房へ来た時に、随行してきた天小民命(あめのこたみのみこと)が祖神を祀ったのが始まり。祭神が工匠の祖であることから、建築職人の信仰が厚い。延喜式内小社で、近代は郷社。祭礼時の御神酒醸造は1300年以上続く神事として南房総市指定文化財。「やわたんまち」には朝夷地区からこの一社だけ出祭する。神梅(かんうめ)明神と呼ばれた。

(9)木幡(こはた)神社

(館山市山本2418)

景行天皇53年に創建されたとし、祭神は天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)・栲幡千千姫命(たくはたちぢひめのみこと)・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)。大化の改新以前に地方官として安房へ派遣された大伴(おおとも)氏が氏神を祀ったのが始まりという。境内近くにある巨木「滝川のびゃくしん」(市指定天然記念物)は当社の御神木。

(10)高皇産靈(たかみむすび)神社

(館山市高井175)

祭神は高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)。天御中主尊(あめのみなかぬしのみこと)・神皇産霊尊(かみむすびのみこと)と共に天地初発のとき初めて高天原(たかまがはら)に現れた神で、共に造化(ぞうか)の三神と称えられる。創建年は不詳で、「やわたんまち」には、明治の初め頃より出祭するようになったという。昭和初期に合併前の桑原村にあった菅原神社「祭神菅原道真公」を合祀している。旧社格は村社。

(11)子安(こやす)神社

(館山市湊189)

祭神は彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)・豊玉姫尊(とよたまひめのみこと)と鸕鶿草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)。「やわたんまち」には、昭和4年(1929)から出祭。養老3年(719)4月創建。海の神・水の神と言われ、安産・子孫繁栄に御神徳があるとされている。鸕鶿草葺不合尊は二神の子で神武天皇の父。子安神社は一般には安産の神として知られ、戦国時代には子易大明神と称した。明治6年(1873)当時は湊神社と称したが、のち子安神社と改めた。

(12)元八幡(もとはちまん)神社

(南房総市府中665)

鶴谷八幡宮の元宮といわれ、社伝では養老元年(717)の安房国建置の時、府内鎮護のため勧請されたとする。江戸時代は周辺を御手洗(みたらし)屋敷と呼び、神供水(しんぐすい)の古井戸が現存し、小社が建つ。鎌倉時代に八幡(やわた)の地に遷座したという。「やわたんまち」で初日の晩に行われる「六所祭」が総社の性格をもつ神事で、ここの井戸からお供えする水を汲むことが、新旧神社の関係を示す儀式である。この儀式は長く途絶えていたが、昭和51年(1976)に復活した。「御清水送りの儀式」と「元八幡神社」は南房総市指定文化財。

(13)北条地区のまつり

2日目に北条地区の4基の山車・1基のお船が鶴谷八幡宮に集う。山車は六軒町・神明町・三軒町・南町から、お船は新宿から参集する。お船の形は、安房神社から鶴谷八幡宮への道のりで海渡しをしたことの名残とされる。祭り最終日夕刻には5基が館山駅西口に集結し、各地区が一体となって祭囃子を繰り広げる。


<作成:ミュージアムサポーター「絵図士」 川崎 一・丸山千尋・山杉博子>2021.3.29作
監修 館山市立博物館  〒294-0036 館山市館山351-2 ℡.0470-23-5212