投稿者: kanri_history
奥付
展示図録No.33
令和6年度
没後100年記念展
「資生堂創業者 福原有信と館山」
令和7年2月1日発行
編集・発行
館山市立博物館
千葉県館山市館山351-2 城山公園内
印刷・製本
有限会社クォーク
4 福原家と館山の交流
福原有信は青年時代に故郷の松岡を離れましたが、その後も安房地域と交流を重ねています。
有信・徳夫妻の長女とりは、明治24年(1891)に館山病院を創業した川名博夫と結婚しました。この関係により、福原家は関東大震災で被災した館山病院の再建を支援したと言われています。また、地元出身の実業家として、安房地域最初の銀行である安房銀行の創業にも関わりました。この他、学校用備品の寄贈や選挙応援など、有信と安房地域との交流が確認できます。
明治42年(1909)、福原家は菩提寺を松岡の正見院から、館山市大神宮の遍智院(小塚大師)に移しました。これを記念して奉納した幕が現在も残っています。
また出身地の鎮守(ちんじゅ)である松岡八幡宮には、明治44年に鳥居を奉納しており、現在も建つ鳥居に有信の名が刻まれています。松岡地区では現在も、創業者の出身地という縁により交流が続いています。

明治40年(1907)11月29日 館山市立博物館所蔵

大正13年(1924) 館山市立博物館所蔵
3 資生堂創業
明治5年(1872)に海軍病院を辞職した福原有信は、矢野義徹・前田清則とともに「三精社」を興し、薬舗事業を行うことを決意します。この計画はすぐに実現し、同年6月、有信は東京新橋出雲町(現銀座7丁目)に日本初の民間洋風調剤薬局を開業します。さらに8月には、軍医頭の松本良順と三精社との共同経営により、東京本町1丁目に西洋薬舗会社「資生堂」を開業しました(のちに売却)。これにより、出雲町の調剤薬局も「資生堂」を称していきます。
調剤薬局の資生堂では、明治11年(1878)から売薬・製造販売も行うようになりました。なかでも明治21年(1888)に発売した日本初の練り歯磨「福原衛生歯磨石鹸」は評判となりました。さらに明治30年(1897)には化粧品事業に進出し、西洋薬学の処方による化粧水「オイデルミン」を発売しました。
この他、明治21年には創立者の1人として帝国生命保険会社(現・朝日生命保険相互会社)の創業に関わり、その後、社長として長年経営を主導しました。

文化9年(1812) 館山市立博物館所蔵
2 医学所から病院勤務へ
元治元年(1864)、有信は17歳で江戸に出て医者の織田研斎に入門しました。織田研斎のもとには、文久元年(1861)に兄の陵斎が入門していましたが、前年に病気で亡くなっていました。
その後、有信は慶応3年(1867)から江戸幕府の医学所に雇(やとい)として勤務します。医学所は安政5年(1858)開設された種痘所(しゅとうじょ)を前身とする西洋医学の教育機関で、有信はここで、医学所頭取を務める松本良順に出会います。松本良順はのちに陸軍の軍医頭(ぐんいのかみ)となり、西洋薬舗会社「資生堂」の創業を支援しました。
明治元年(1868)から東京大病院に勤務した有信は、翌年、中司薬に任命されます。この頃に出会った矢野義徹と前田清則とは生涯、親交を深めました。
明治4年(1871)、有信は兵部省に出仕し、海軍病院に勤務します。海軍病院では薬局長を務めましたが、翌年、病気を理由に辞職しています。この背景には、盟友の矢野・前田とともに描いた新事業の構想がありました。
1 福原家と松岡村
福原有信は、嘉永元年(1848)4月8日に安房国安房郡松岡村(現館山市竜岡)に生まれました。福原家は、戦国時代に安房国(千葉県南部)を支配した里見氏の家臣の家柄と伝えられ、代々、松岡村の名主を務めてました。有信の父、市左衛門(有琳)も名主であり、祖父の有斎は名主と医者を兼ねていました。また、母の伊佐は、里見氏の一族を祖先に持つ安房郡明石村(現南房総市明石)の豊岡家の出身です。
松岡村は、江戸時代後期の家数23軒、村高138石という小規模な村でした。ここで生まれた有信は、医者である祖父や漢学を好んだ父の影響を受けて成長します。
松岡村には、かつて正見院(しょうけんいん)という真言宗の寺院があり、そこが福原家の菩提寺でした。正見院跡地の隣に建つ八幡宮には、江戸時代に社殿や鳥居を建立・再建した際の棟札(むなふだ)が伝わっており、発願主として福原家の名を見ることができます。その後、明治42年(1909)には、菩提寺を館山市大神宮の遍智院(へんちいん)(小塚大師)に移しています。


昭和5年(1930) 館山市立博物館所蔵
0 資生堂創業者 福原有信
現在、世界的な企業となっている株式会社資生堂の歴史は、明治5年(1872)に福原有信が創業した日本初の洋風調剤薬局に始まります。この福原有信が、実は館山の出身であることをご存じでしょうか。
有信は、嘉永元年(1848)に安房国安房郡松岡村(現館山市竜岡)に生まれました。その後、江戸で医学を学び、幕府医学所に勤務します。明治維新後は東京大病院・大学東校・海軍病院に勤務し、薬学を専門としました。
こうした経験をもとに、有信は西洋で行われていた医薬分業の実践と、薬品の品質向上を志します。協力者を得た有信は、資生堂創業によってその実現を目指しました。また、帝国生命保険会社(現・朝日生命保険相互会社)や大日本製薬会社の創業にも関わりました。
福原有信は、私たちにとって郷土の偉人であるとともに、近代日本の医学・薬学分野にとどまらず、産業界に大きな功績を残した人物と言うことができます。

昭和41年(1966) 館山市立博物館所蔵
ごあいさつ
世界的な企業である株式会社資生堂を創業した福原有信氏は、嘉永元年(1848)に松岡村(現・館山市竜岡)に生まれました。江戸・東京で医学や薬学を学び、明治5年(1872)に日本で民間初の洋風調剤薬局として資生堂を開業しました。また、明治21年(1888)には帝国生命保険会社(現・朝日生命保険相互会社)を創立しています。
有信氏は青年時代にふるさとを離れましたが、その後も安房地域最初の銀行である安房銀行の創業に関わり、出身地の松岡八幡宮には鳥居を建立しています。松岡地区は現在も、創業者の出身地という縁により交流を続けています。
本展覧会では、令和6年(2024)に没後100年を迎えたことを記念し、郷土出身の偉人である福原有信氏の事績とふるさと館山との関わりを紹介します。
最後に、本展覧会の開催にあたり、多大なるご協賛をいただきました株式会社資生堂、株式会社福原コーポレーション、朝日生命保険相互株式会社の皆様に厚く御礼申し上げます。
令和7年2月1日
館山市長 森 正 一
目次・凡例
※この図録は一部抜粋した内容を公開しているため、目次の見出しのみとなっているページが多数ございます。ご了承ください。
目次
- ごあいさつ
- 0 資生堂創業者 福原有信
- 1 福原家と松岡村
- 2 医学所から病院勤務へ
- 3 資生堂創業
- 4 福原家と館山の交流
- 展示資料一覧・参考文献
- 展示協力者
凡例
- 本書は、館山市立博物館本館において、令和7年2月1日から3月16日までを会期として開催する企画展「資生堂創業者 福原有信と館山」のうち第1部の展示図録です。
- 本展覧会の開催にあたり、株式会社資生堂、株式会社福原コーポレーション、朝日生命保険相互会社の協賛を得ました。
- 本展覧会の開催および本書の作成にあたり、諸氏と諸機関に多大なるご協力・ご助言を賜りました。巻末にご芳名を記し、深く謝意を表します。
- 本展覧会の企画および本書の編集執筆は学芸係長 宮坂新が担当しました。なお、展示に伴う調査にあたっては、当館職員の助言・協力を得ました。
資生堂創業者 福原有信と館山

令和6年度
没後100年記念企画展
資生堂創業者
福原有信と館山
館山市立博物館
【表紙写真】
松岡八幡宮鳥居奉納記念集合写真
(個人所蔵)
※この図録は一部抜粋した内容のみを公開しています。