やわたんまちと出祭神社

やわたんまちの概要

鶴谷八幡宮の「やわたんまち」(県指定無形民俗文化財)は、安房地方を代表する11社の「寄合祭り」である。毎年9月敬老の日前の土日に行われるが、かつては14日(よいまち)・15日(ほんまち)・16日(すぎまち)に行われていた。江戸時代までの旧暦では8月15日の「放生会(ほうじょうえ)」として行われた。南房総市府中(旧三芳村)の元八幡神社でおこなわれる「お水取り」や、神輿を出祭する11社が合同で行う「六所祭(ろくしょさい)」の存在から、古代総社の系譜を引く祭礼と考えられている。祭り初日の夜は、安房神社以外の神輿は御仮屋(おかりや)、安房神社の神輿は安房神社遥拝殿で一晩を過ごす。江戸時代には北条地区の祭りが併せて開かれるようになり、山車やお船の賑やかな祭囃子(まつりばやし)は多くの人に親しまれている。

(1)鶴谷(つるがや)八幡宮

(館山市八幡68)
鶴谷八幡宮 文化財マップ

南房総市府中に当社発祥の地と言われる元八幡神社がある。祭神は品陀和気命(ほんだわけのみこと)・帯中彦命(たらしなかつひこのみこと)・息長帯姫命(おきながたらしひめのみこと)。源頼朝が鎌倉に幕府を開き国司の権勢が衰えると、総社の崇敬も衰微、遂には総社を改変し八幡神社として尊崇するに至り、現在地へ遷座したという。昭和51年(1976)の千年式年大祭の記念事業で本殿を改修、名称を鶴谷八幡宮に改めた。当社の神輿は本殿内に安置され、出祭神社の神輿や北条地区の山車・お船を迎え、最終日の各神輿帰還後、昔の名残の放生会(ほうじょうえ)を行うため八幡(やわた)の浜に神幸(しんこう)する。

(2)安房(あわ)神社

(館山市大神宮589)
安房神社 文化財マップ

館山市大神宮に鎮座し「延喜式(えんぎしき)」にも記されている安房国一宮である。上ノ宮の祭神は天太玉命(あめのふとだまのみこと)。相殿(あいどの)は后神(きさきがみ)の天比理乃咩命(あめのひりのめのみこと)と天日鷲命(あめのひわしのみこと)。下ノ宮の祭神は天忍日命(あめのおしひのみこと)で、相殿には安房忌部(いんべ)氏の祖天富命(あめのとみのみこと)が祀られている。天富命が祖先の天太玉命を祭るために安房神社を創建した。初日の宮入では天狗・安房神社神主・巫女(みこ)2名・お旗持ち・氏子総代が先導し、続いて高張提灯・神輿の順で鳥居をくぐる。 直ぐ後には后神の洲宮神社が続く。 安房神社遥拝殿で神幸祭(じんこうさい)が行われ、翌日は境内で洲宮神社と共にもみ合い、二基の神輿は夫婦揃って帰還の途につく。

(3)洲宮(すのみや)神社

(館山市洲宮921)

館山市洲宮に鎮座する。祭神は天比理乃咩命(あめのひりのめのみこと)。安房神社祭神天太玉命の后神(きさきかがみ)。「延喜式神名帳」にも記載。魚尾山(とおやま)に鎮座していたが、文永10年(1273)の火災により焼失し、建治3年(1277)に現在地へ移転再建したといわれている。やわたんまち出祭時は、安房神社の神輿が通り過ぎるのを待ってから渡御。豊作を願って行われる「御田植(みたうえ)神事」は、市指定無形民俗文化財。

(4)下立松原(しもたてまつばら)神社

(南房総市白浜町滝口1728)
滝口下立松原神社 文化財マップ

かつて小鷹(こたか)明神と称した。 祭神は天日鷲命(あめのひわしのみこと)。開拓の神との繋がりがあり「延喜式」にも記載。 安房の忌部の祖神で、壁画殿には寺崎武男画伯の描いた忌部の由緒を物語る壁画 10点が奉納されている。祭礼当日は境内で「もみ・さし・ローリング」等を繰り返しおこない、見物人を喜ばせる。旧 11月26日から 10日間行われる「ミカリ神事」は南房総市指定無形民俗文化財。

(5)手力雄(たぢからお)神社

(館山市大井1129)
手力雄神社 文化財マップ

養老2年(718)創建。祭神は天手力雄命(あめのたぢからおのみこと)・天御中主命(あめのみなかぬしのみこと)・太田命(おおたのみこと)。古来安東明神・神通力(みたき)明神として崇敬され、明治初年手力雄神社と改称。関東公方(くぼう)足利氏満が社殿を改築、里見氏歴代も社殿を造営した。社領は里見氏や徳川氏から43石余が寄進された。神輿は、安房の名工「波の伊八」と「初代義光」による彫刻がつく。本殿は県指定文化財。御神木の大杉は市指定天然記念物。延久3年(1071)より「やわたんまち」に出祭と伝える。

(6)山宮(やまみや)神社

(館山市東長田1061)

朱鳥元年(686)創建という。大山祇命(おおやまつみのみこと)・事代主命(ことしろぬしのみこと)が祀られている。摂津国三島から来た中臣鎌足(なかとみのかまたり)の子孫である幸彦ゆかりの神社で、長田明神とも称した。延久3年(1071)8月14日に、安房国八幡の海岸へ神輿を出す神事が初めて行われたと伝える。

(7)山荻(やもおぎ)神社

(館山市山荻273)
山荻神社 文化財マップ

景行天皇53年の創建とされ、かつて年宮(としのみや)大明神と称した。稚産霊神(わくむすびのかみ)・猿田毘古神(さるたひこのかみ)・大穴牟遅命(おおなむちのみこと)・少毘古名命(すくなひこなのみこと)が祭神。年占(としうら)をする2月26日の「筒粥神事(つつがゆしんじ)」(市指定無形民俗文化財)は、景行天皇が諸国巡幸の折、五穀豊穣を占ったことが起源とされる。

(8)莫越山(なこしやま)神社

(南房総市沓見241)
莫越山神社 文化財マップ

祭神は手置帆負命(たおきほおいのみこと)と彦狭知命(ひこさしりのみこと)。創建は神武元年とされ、天富命が安房へ来た時に、随行してきた天小民命(あめのこたみのみこと)が祖神を祀ったのが始まり。祭神が工匠の祖であることから、建築職人の信仰が厚い。延喜式内小社で、近代は郷社。祭礼時の御神酒醸造は1300年以上続く神事として南房総市指定文化財。「やわたんまち」には朝夷地区からこの一社だけ出祭する。神梅(かんうめ)明神と呼ばれた。

(9)木幡(こはた)神社

(館山市山本2418)

景行天皇53年に創建されたとし、祭神は天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)・栲幡千千姫命(たくはたちぢひめのみこと)・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)。大化の改新以前に地方官として安房へ派遣された大伴(おおとも)氏が氏神を祀ったのが始まりという。境内近くにある巨木「滝川のびゃくしん」(市指定天然記念物)は当社の御神木。

(10)高皇産靈(たかみむすび)神社

(館山市高井175)

祭神は高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)。天御中主尊(あめのみなかぬしのみこと)・神皇産霊尊(かみむすびのみこと)と共に天地初発のとき初めて高天原(たかまがはら)に現れた神で、共に造化(ぞうか)の三神と称えられる。創建年は不詳で、「やわたんまち」には、明治の初め頃より出祭するようになったという。昭和初期に合併前の桑原村にあった菅原神社「祭神菅原道真公」を合祀している。旧社格は村社。

(11)子安(こやす)神社

(館山市湊189)

祭神は彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)・豊玉姫尊(とよたまひめのみこと)と鸕鶿草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)。「やわたんまち」には、昭和4年(1929)から出祭。養老3年(719)4月創建。海の神・水の神と言われ、安産・子孫繁栄に御神徳があるとされている。鸕鶿草葺不合尊は二神の子で神武天皇の父。子安神社は一般には安産の神として知られ、戦国時代には子易大明神と称した。明治6年(1873)当時は湊神社と称したが、のち子安神社と改めた。

(12)元八幡(もとはちまん)神社

(南房総市府中665)

鶴谷八幡宮の元宮といわれ、社伝では養老元年(717)の安房国建置の時、府内鎮護のため勧請されたとする。江戸時代は周辺を御手洗(みたらし)屋敷と呼び、神供水(しんぐすい)の古井戸が現存し、小社が建つ。鎌倉時代に八幡(やわた)の地に遷座したという。「やわたんまち」で初日の晩に行われる「六所祭」が総社の性格をもつ神事で、ここの井戸からお供えする水を汲むことが、新旧神社の関係を示す儀式である。この儀式は長く途絶えていたが、昭和51年(1976)に復活した。「御清水送りの儀式」と「元八幡神社」は南房総市指定文化財。

(13)北条地区のまつり

2日目に北条地区の4基の山車・1基のお船が鶴谷八幡宮に集う。山車は六軒町・神明町・三軒町・南町から、お船は新宿から参集する。お船の形は、安房神社から鶴谷八幡宮への道のりで海渡しをしたことの名残とされる。祭り最終日夕刻には5基が館山駅西口に集結し、各地区が一体となって祭囃子を繰り広げる。


<作成:ミュージアムサポーター「絵図士」 川崎 一・丸山千尋・山杉博子>2021.3.29作
監修 館山市立博物館  〒294-0036 館山市館山351-2 ℡.0470-23-5212

 (6)学問・文芸に専念

 絵や書、漢詩や俳句など、学問とともに文芸にも心得のある士族は、本職を得つつもその道でも生活を可能にした人々もいました。明治時代の館山には東京などから転居してくる士族も多く、土地の人々に文芸などの指導をしています。また士族の二世になると、研究や芸術といった分野で高い評価を得た人々もいます。

88.『書道宝典』
大正4年(1915)
当館蔵
長尾士族で書家の小野鵞堂(がどう)の著作。女子学習院の教授になった。
91.自画像(リトグラフ)
昭和35年(1960)
当館蔵
レオナール・フジタの名で知られる洋画家・藤田嗣治の自画像。長尾士族で陸軍軍医総監になった藤田嗣章の子。
92.歯車見本
南房総市立白浜小学校蔵
歯車の研究で知られる工学博士の成瀬政男は、長尾士族の三世である。

 (5)医療・宗教界に転身

 江戸時代から地域医療を担う村医者は大勢いましたが、教養を身に付けている士族のなかには数は少ないものの、近代医学を学んで医師として自立した士族もいました。那古病院を開業した長尾士族の東誠一(嘉永5年・1852年生)や、高木医院を開業した長尾士族の高木勇次郎(慶応元年・1865年生)、勝山町に明善堂医院を開業した勝山士族の野呂偀臣(安政5年・1858年生)などが知られています。明治30年代には看護師になる女性士族も現れています。

79.那古病院写真
明治時代~大正時代
個人蔵
80.北条病院看護婦養成所修業証
明治34年(1901)
個人蔵

 また、仏教や神道などの宗教界に転身し、神職や僧侶になった士族もいます。

83.加茂惟信肖像
大正3年(1914)
個人蔵
長尾士族の加茂惟信は、正木村の郷社・諏訪神社の神官になった。
84.安房神社権祢宜(ごんねぎ)補任(ぶにん)状
明治5年(1872)
当館蔵
館山士族の川名敬事は、廃藩後早々に安房神社の神職になった。
86.小池宏道肖像
昭和時代
個人蔵
長尾士族二世の小池宏道は、曹洞宗の僧侶となった。

 (4)教育界に転身

 文武を職能としていた武士にとって、その能力を活かせる仕事のひとつに教師という職がありました。明治6年(1873)から小学校が設立されていき、市内では35校の小学校ができています。それぞれの教員数は1人から2人程度ですが、職を失ったばかりの教養のある士族にとっては最適の就職口でした。なかには青年の教育機関としての役割を持った私塾を運営する士族もいました。裁縫で身を立て東洋英和女学校の寄宿舎監になった加茂令子(明治4年・1871年生)も長尾士族でした。

74.小学授業生辞令
明治7年(1874)
当館蔵
館山士族の鈴木義章は、東長田小学校へ勤務した。
77.『千葉県地誌略』
明治16年(1883)
当館蔵
館山士族の山下安民は、千葉師範学校の教授になった。
78.恩田利武肖像
大正時代
当館蔵
長尾士族の恩田利武は、私塾「日知学舎」の教員に招かれた。

 (3)行政・軍事に転身

 職を失った士族がつく新しい職業として多いのが地方官吏でした。村の代表者だった名主などの村役人が明治5年(1872)に廃止されると、新たに戸長(こちょう)・副戸長と称して士族などが任命されるようになりました。士族が多く居住した八幡村周辺の戸長になった原田吉雄や、萱野士族屋敷がある国分村周辺の戸長になった富岡連が知られています。

 明治11年(1878)に安房郡役所ができると郡長や郡書記といった官吏になる士族が現れ、さらに明治22年(1889)に旧村を合併して新たな町村ができると、町村長に就任する士族も数多く現れました。

65.安房平朝夷長狭郡役所図
<『日本博覧図 千葉県後編』所収>
明治29年(1896)
当館蔵
66.安房郡役所官吏写真
明治30年代
当館蔵

 明治4年(1871)の学制公布によって、学区取締という地方教育の事務を担当する官吏になる士族もいました。学校の設立や学費の調達、就学の勧めなどを行うため、地域の人望ある人物が任命されていました。

71.北条区裁判所
明治時代
当館蔵

 税務署・裁判所・監獄署などに勤める者もいました。また、武士としての職能を活かして警察官や軍人になる士族も多かったといいます。

 (2)農水産業に転身

 長尾士族小川徳は、農業を「中計・中策」と位置付けましたが、自身は生まれつき体が弱く病気がちで「暑日寒風」に堪えられないので、自分が出来ないことをするのは失策のもとだとしました。しかし土地を手に入れて農業を始めた士族もいます。

62.地券
明治17年(1884)
個人蔵

 長尾士族の前田義光は、明治4年(1871)の廃藩後も萱野28番屋敷に住み続け、52歳の明治14年(1881)に茨城県の下館士族だった29歳の鉦吉を養嗣子(ようじし)に迎えています。兵役が明けた翌15年に家督相続した鉦吉は、明治17年(1884)に本織村(南房総市)で7筆5反余の田畑を405円で購入します。明治19年(1886)には本織村の田畑に隣接する腰越村で畑を購入し、そこへ2年後に転居しました。本格的な農業経営に転身したということです。

 (1)商工業に転身

 長尾士族の小川徳(いさお)は、自分は商法を熟知していないが、「商工」に就くことが上計・上策だと考えていました。不慣れな商売に手を出し失敗することを、象徴的に「士族の商法」と表現されますが、士族たちは公債の資金を元手にさまざまな事業に挑戦していました。

市野泰孝肖像
(№.55より)

 長尾士族の市野泰孝は、明治16年(1883)に就産舎(しゅうさんしゃ)を設立して石版印刷業を始めました。この組織は士族の授産目的があったといわれ、社名には「武士自らの力で産業に就くことができた」という意味があったそうです。大正時代に集賛舎と社名を改めています。

 饅頭屋や質屋、文房具屋などの商売を始めた士族もいたと伝えられますが、子供たち相手に「そちは何が入用じゃ」と声をかけるので、誰もいかなくなったという話もあり、こうした小商いは長続きしなかったといわれます。

 なかには地道に修行をしてから開業する士族たちもいました。市内の成瀬写真館は明治12年(1879)の開業で、安房地方で最初の写真館として知られ、千葉県でも2番目になります。長尾士族の成瀬又男が、日本最初期の写真家下岡蓮杖(れんじょう)のもとで修業したと伝えられ、市内北条で開業した時は22歳でした。

59.成瀬写真館
大正12年(1923)
成瀬写真館蔵

【3】士族の転身

 金禄公債証書は、有効に投資できた士族や投資に失敗した士族、生活に困窮して売却した士族、換金まで持ち続けた士族がいたようです。いずれにしても家禄奉還のときに現金と秩禄公債が交付されたのと違い、秩禄処分では金禄公債証書しか交付されなかったので、公債利子だけが収入源でした。新しい職を得なければ生活が成り立たなくなったわけです。官有地の払い下げによる開墾や北海道移住など、政府による士族授産と呼ばれる救済政策もとられましたが、同じ藩の士族がまとまることで自主的に就産策を取っていくこともありました。また資産づくりのために、明治元年(1868)に静岡から県南へ転封してきた鶴舞藩(市原市)・長尾藩(館山市)・花房藩(鴨川市)の士族の中には、千葉町に設立された第九十八国立銀行に出資したものが多く、数百人にのぼったといいます。初代頭取は旧長尾藩知事本多正憲の弟本多埴麿(はにまろ)でした。第九十八銀行は花房士族が設立した花房銀行を大正8年(1919)に合併し、やがて千葉銀行になります。

 (5)士族の結社

 藩が消滅して、武士としての身分も特権も失った士族たちは、金禄公債を手にしたとはいえ、新しい生活の糧を求めなければなりませんでした。長尾藩士の場合は、先祖以来140年を過ごした駿河国田中(藤枝市)の地から転出して間もないことから、縁故を求めて帰る者が多くいました。また長く江戸屋敷に居た者や新天地を求める者は政治経済の中心地である東京へ出ていき、千葉県内でも県都千葉へ移る者もいました。しかし多くは移転したばかりの安房で新生活を模索しています。一方館山藩士の場合、多くは東京へ出たと思われ、館山に残った士族の数はあまり確認されていません。しかし、館山士族が共同行動をとることはあり、明治22年(1889)、千葉県に対して授産金拝借願を出そうとしています。

 幕末・維新期の武士たちには、西洋の新しい武器や技術などの知識が必要とされていました。個人の能力や業績が評価される時代になっていたのです。武士の中ですでに家禄という秩序が揺らいでおり、先祖の功による登用は武士たちによって批判されるようになってもいました。明治政府という国家に貢献できる能力ある武士は、武士という身分を否定して新しい官職を手に入れ、平民でも能力があれば官職という新しい士族待遇を受けることが可能になった時代でした。

 地方でも官職を得ることは、武士としての威信を満足させるものでした。しかし、多くの士族はそうした職に就けず、新商売にも失敗して困窮していきます。大多数は同藩士族で結社をつくってまとまり、就産事業を試みるなど結束して難局を乗り越えていきました。

48.旧長尾藩士族鶴ケ谷稲荷神社例祭写真
大正時代頃
当館蔵
57.旧館山藩貴美稲荷神社例祭写真
大正時代頃
当館蔵
49.旧長尾藩同誓社員積金台帳
明治31年(1898)
個人蔵