妙福寺<富浦>

成就山妙福寺の概要

 南房総市富浦町南無谷(なむや)にある日蓮宗の寺院で、成就山(じょうじゅさん)妙福寺と号します。由緒によると、蓮長(若き日蓮)が14年にも及ぶ修行と遊学を終え、清澄山旭の森で「南無妙法蓮華経」の題目に教えの全てを籠めて日蓮宗を立教開宗し、法華経の行者となって名を日蓮と改めた建長5年(1253)、鎌倉に向かう途中、富浦の岡本浦から鎌倉へ船出しようとしたところ嵐で足止めを余儀なくされ、近くの岬に登って一心に祈願すると嵐が治まりました。並みの僧でないことを感じたこの地の泉沢権頭(ごんのかみ)太郎は自宅に招いて世話をしたと伝えられています。日蓮聖人は鎌倉に入ると熱心に布教活動をしますが、幾多の迫害にもあいました。伊豆の流刑が解けてから父の墓参と病身の母の見舞いに故郷小湊へ戻ったとき、東条小松原でも刀難に遭い、身を隠しながらも房州各地で布教を行っていました。この時、以前鎌倉への渡海で世話になった泉沢家に立ち寄ると、老母に「妙福」の法号を授けます。太郎が弘安2年(1297)に身延山へ聖人を訪ねると、投宿した泉沢家で老母が衣を洗ったときに裸で読経した自分の姿を弟子日法に彫刻させた坐像とお題目の掛軸を下さったので、お堂を建てて安置しました。その後に六老僧のひとり日頂聖人の弟子松本公日念上人が来山して妙福寺とし、現在に至っています。6月と10月の13日には日蓮聖人像の衣替えが行われています。

(1) 日蓮大聖人生御影霊場碑

 生御影(いきみえい)とは日蓮聖人の裸体祖師像のことであり、本尊として安置されている。その裸像を祀る霊場であることを広く世に知らせる碑である。大正8年(1919)、37世の日?(にちい)上人によって建立された。

(2) 題目塔

当山31世日光上人が明治18年(1885)9月に再建したお題目塔で、中興開基と讃えられる25世日塔上人の供養塔になっている。

(3) 和泉沢家墓地(やぐら)

祖師堂の裏山に当時この地を支配していた泉沢権頭太郎の母「妙福」を葬ったやぐら(鎌倉時代の墳墓)がある。今も残る当山24世日宣上人が記した「妙福精舎由来」によれば、日蓮聖人が流刑赦免後の布教途中、鎌倉渡海前に世話になった泉沢親子に再会し、太郎の母に法号「妙福」を授けたと伝えられている。やぐらは今も和泉沢本家により守られている。

(4) 二祖(開山)塔

 祖師堂裏手に二祖(開山)松本公日念上人の塔がある。日念上人は日蓮聖人とその高弟日頂聖人(市川市真間の弘法寺開基)の教えを受け、弘安2年(1279)に当地を訪れると草庵を日蓮宗の寺とし「成就山妙福寺」と号した。のち下総や越後などにも寺を建て、建武元年(1334)8月没した。

(5) 歴代住職の墓

 武州に生まれ、当山24世となって祖師堂を建立し、のち小西檀林135世となり、天明2年(1782)に没した日宣上人の墓。加戸村(館山市稲)に生まれ小西檀林の講師を務めた後、50年間当山の住職を務め、その間に金200両を寄付して中興の祖といわれた25世日塔上人(天保2年=1831年没)の墓。その弟子で北条村に生まれ、小西・飯高両檀林の玄義を務め、寛政10年(1798)に23歳で没した日京法師の墓などがある。

(6) 題目塔

 天保4年(1833)、23世日?(にっしん)上人の時代に檀方中によって寄進された。右側面には世の中の平和・海の安全・仏法の広がり・未来の幸せへの願いが刻まれている。石工は長須賀村(館山市)の鈴木伊三郎である。

(7) 金木熊治の墓

 南無谷石小浦(いしごうら)の人。富浦村役場に勤め、大正時代には村会議員になった。その間、枇杷栽培の普及発展を図るとともに、「枇杷の栽培」他数冊を著述し、克明な資料を残している。昭和30年(1955)12月没、86歳。

(8) 柴山千代太郎先生碑

「局長さん」の愛称で富浦町民に親しまれた柴山千代太郎は、明治元年(1868)南無谷に生まれ、千葉師範卒業後富浦小学校で教鞭をとる傍ら私塾を開設して近郷青少年の育成に努めた。さらに町の助役を務めた後永く富浦郵便局長として活躍し、地元民に大変慕われた。昭和22年(1947)4月没。同年11月弟子たちが徳を慕って記念碑を建立した。

(9) 柴田南窓の墓

弘化年間(1844~1847)に江戸で活躍した講釈師。本名は柴山常晴。南無谷村の出身で、無本読(むほんよ)みを特徴とした田辺南鶴の門人。南窓もやはり無本で、読み方にも改良を加え、柴田派を興した。古戦記を中心とした修羅場を得意とし、殊に「赤穂義士伝」は日本一の定評を得たという。弘化3年(1846)72歳で病没。門人柴田南玉らによって、東京高輪泉岳寺にある赤穂義士の墓の傍らに記念碑が建てられている。

☆ 七面山

妙福寺の北方500mの七面山はむかし浅間山と呼ばれていたが、のち領主の小浜八太夫が雨乞いの祈祷料として山林を奉献し七面堂が建立された。222段の石段の先にある七面堂には、元禄12年(1699)に身延33代日亨(にっこう)上人が勧請した木造七面大天女が祀られている。伝説では、日蓮が身延の谷で弟子や信者に説法していると、その中に妖しげな美女がいた。正体に戻るようにと花瓶の水を掛けると一丈もある大蛇が姿を現し、「私は身延山に棲む七面大天女である。この山を水火兵難から守り、法華経を信じる者には願いのすべてを聞き届けよう」と言って消えた。以来日蓮宗の守護神とされた。本地(ほんじ)は福徳を授ける吉祥天で、鬼門の一方だけを閉じ七面を開くという。毎年5月と10月の18日には絹衣のお召し替えの儀式が行われる。

(10) 石灯籠

明治時代に日参講により奉納された。石工は岩井村の青木竹次郎。当時は毎日七面堂へのお参りがあったのだと思われる。

(11) 手洗石

正面には日蓮宗と縁が深い妙見信仰を表す七曜紋を刻む。昭和14年(1939)に奉納されたのは、この当時日中戦争が行われていたことから、信徒中で戦争の勝利を祈願したもの。石工は大谷忠太郎。

(12) 戦勝満願碑

 日實法尼が、七面天女に百日の水行で日露戦争の戦勝を祈り、願いがかなったという戦勝満願碑である。富浦村の兵士たちが、明治40年(1907)、35世日覺上人の時代に建立したもの。願主の日實は18歳で当村の川名家に嫁ぎ、夫の冥福を祈るため57歳で剃髪した。

(13) 七面大明神碑

昭和28年(1953)、東京の七面講中が家内安全を祈り、また祈願満足・修行不退・衆望亦足(えきそく)・信力増進を祈願して、堂守の日榮と妙久法尼により建てられた。昔は堂守がいたようで、妙福寺墓地にも安政6年(1859)に亡くなった七面堂火守(日久信尼)の墓がある。

☆ 法華崎

富浦の原岡を過ぎると、坂之下集落からは海岸が険しく切り立ち山越を余儀なくされる。日蓮も鎌倉へ渡海の折嵐に会い、これを静めんとこの岬の頂に登った。袈裟(けさ)を松の枝に掛け、法華経を念ずると嵐が静まったという伝説から、法華崎と呼ばれるようになった。

(14) 袈裟掛け松の碑

 法華崎の頂間近な所に、明治31年(1898)に豊岡村で建立した碑で、中央にお題目と「日蓮聖人袈裟掛松」、右に「米(よね)ヶ浜へ渡海の旧跡」、左に「建長5年(1253)5月中旬」とある。

(15) 日蓮上人渡海之霊蹟碑

日蓮聖人の生誕700年記念に安房日蓮宗寺院が鎌倉渡海の地に建立した「渡海霊蹟(れいせき)」の碑で、袈裟掛け松の碑と並立している。

* 衣洗い井戸

清澄山で立教開宗の宣言を行った日蓮聖人が、文永11年(1274)に東条の地頭東条景信に小松原で襲われたあと、鎌倉に渡航するため当地を訪れた時に、血で汚れた衣を泉沢権頭太郎の老母に洗ってもらったという井戸がある。私有地のため場所の特定は避けました。


<作成:ミュージアム・サポーター「絵図士」 金久ひろみ・鈴木以久枝・鈴木正・中屋勝義>
監修 館山市立博物館

日蓮聖人とその伝説(鴨川編)

日蓮(1222~1282)は自身の生誕地を安房国長狭郡東条郷片海(かたうみ)(鴨川市小湊)と記しているが、その正確な場所は分かっていない。12歳で清澄寺に上り17歳まで道善房(どうぜんぼう)に師事した。鎌倉や比叡山延暦寺等で修業し、法華経が釈迦の真実の教えであると確信すると、32歳で立教開宗をした。翌年、領家(りょうけ)の尼に代わり東条郷(鴨川市)の地頭東条景信(かげのぶ)と係争し勝訴したため、念仏信者の景信の反感をかい鎌倉へ渡ることになった。鎌倉・伊豆での法難後43歳の時、父の墓参りと病気の母を見舞うため帰郷。東条郷の小松原で景信に襲われ、天津領主工藤吉隆(よしたか)と弟子の鏡忍房(きょうにんぼう)が殺害されてしまう。日蓮も左腕を折られ眉間に疵(きず)を負った(小松原法難(こまつばらのほうなん))。このような出来事の中で、この地域には日蓮に関する多くの伝説も生まれてきた。その後、鎌倉へ戻るが、50歳の時逮捕され佐渡流罪が決まる。途中、江の島近くの龍口(たつのくち)で斬首(ざんしゅ)されそうにもなった。53歳の時、流罪を許され鎌倉へ戻るが、身延に入山した。61歳の時、体調を崩していた日蓮は常陸国へ湯治に向かうが、武蔵国の池上宗仲(むねなか)邸に留り、10月8日に日昭(にっしょう)・日朗(にちろう)・日興(にっこう)・日向(にこう)・日頂(にっちょう)・日持(にちじ)を本弟子(六老僧)に定め、13日に入滅した。葬儀後、25日に遺骨が身延へ到着した。

(1)蓮華潭(れんげふち)

鴨川市小湊

日蓮の生家は地震で海中に沈んだが、大弁天・小弁天付近とされる。貞応(じょうおう
)元年(1222)2月16日の日蓮誕生時には、家の庭先に清水が湧き、渚に蓮華の花が咲き誇り、海中に鯛が群れ集まったといわれている。

(2)鯛の浦(妙(たい)の浦)

鴨川市小湊

日蓮の誕生時に鯛が群れをなした蓮華潭で、後年、日蓮が七字の題目「南無妙法蓮華経」を海へ投げると、海上に字が現れ、鯛が群集した。この一帯の鯛は日蓮の化身とされ、今も漁が禁じられている。

誕生水井戸

(3)小湊山誕生寺

鴨川市小湊183

建治2年(1276)、日蓮生家の地に日蓮の誕生と母梅菊の蘇生延寿(そせいえんじゅ)を記念して建てられた。明応7年(1498)の津波により流失。その後、現在地に再建された。境内で湧いた井戸水を、誕生水と名付けている。

(4)妙日山妙蓮寺

鴨川市小湊129-1

文永4年(1268)に日蓮の母梅菊(妙蓮)が亡くなると、日蓮は父重忠(しげただ)(妙日)の墓所に母の墓塔を建て、妙日山妙蓮寺と命名した。両親閣ともいわれる。境内に日蓮御手植えの廣布梅(こうふばい)や蘇生櫻(そせいざくら)の碑がある。

(5)岩高山日蓮寺

鴨川市内浦3094

文永元年(1264)、小松原法難(こまつばらのほうなん)をうけた日蓮は、天津領主工藤吉隆の家臣北浦忠吾(ちゅうご)・忠内(ちゅうない)兄弟にこの地へ案内された。疵を洗った湧水、身を潜めた岩屋がある。岩屋の砂を疵につけると痛みと出血が止まったといわれる。また、吉祥翁(きっしょうおう)に導かれ、岩屋に薬草を褥(しとね)として敷き、砂を傷口にあてて治療したという話もある。老婆お市が寒さ凌(しの)ぎと疵の養生にと、被っていた綿帽子(わたぼうし)を日蓮に差し上げたといわれる。

(6)日蓮の父、貫名(ぬきな)次郎重忠(しげただ)公(こう)流着の地

鴨川市内浦

昭和46年(1971)建立の石柱に、建仁3年(1203)に北条時政により当地へ流されたが、代官滝口兵庫朝家が世話をしたと記されている。

(7)東光山西蓮寺

鴨川市内浦1726

西蓮寺に伝わる伝説では、日蓮は寺の薬師の前に捨てられていた赤子で、薬王丸(薬師丸)と名付けられ、12歳まで養育されて清澄寺に上がったとされている。境内には日蓮の乳母(うば)雪女(ゆきじょ)の墓がある。

(8)光瑞山高生寺

鴨川市内浦544

建長5年(1253)、法華経こそが正法(しょうぼう)だと説くため清澄寺へ行く日蓮は、自分が殉じた時の両親の嘆きを思い、生家の方向を見返って涙した。その場所に中老僧日保が一宇(いちう)を建立した。その後、地震・津波により現在地へ移転している。江戸時代の寛延3年(1750)に鋳造(ちゅうぞう)された日蓮聖人像は、日蓮の銅像の立像としては日本最古である。

(9)朝日堂

鴨川市内浦

高生寺の元の場所。現在は山裾にある。中腹には狭い平坦地があり、文化12年(1815)に建立された法師の墓が祀られている。『日本の伝説安房の巻』にあるように誕生寺を真向かいに見渡すことができる。

(10)天津神明神社

鴨川市天津2950

日蓮は、遺文(ゆいぶん)の中で「昔は日本第二の御厨(みくりや)、今は日本第一なり」、「辺国なれども、日本国の中心のごとし」と記す。開宗後、妙法弘通(ぐづう)を天津神明神社に祈念し川向(かわむこう)の御本尊(曼荼羅(まんだら))を納めたといわれる。

(11)明星山日澄寺

鴨川市天津1850

日蓮が母を見舞うときに随行(ずいこう)した日澄が、清国寺(真言宗)の住職を論破し寺号を日澄にした。小松原法難で討ち死にした天津領主工藤吉隆の菩提を弔うため、寺は吉隆の館跡である現在地へ移転した。

(12)涕涙石(ているいせき)

鴨川市清澄

清澄寺は女人禁制のため母梅菊は善日麿(ぜんにちまろ)(日蓮の幼名)に女人堂で面会したが、修業の妨げになるので来ないように諭された。梅菊が堂の近くの石に座り、善日麿の無事を祈って涙したといわれる岩。

(13)千光山清澄寺

鴨川市清澄332-1

善日麿は天福元年(1233)に清澄寺に入山し天台宗を学び、嘉禎(かてい)3年(1237)に出家し名を蓮長と改めた。境内にある凡血(ぼんけつ)の笹の黒い点は、霊感を得たとき吐いた凡血といわれる。延暦寺などでの修業を終え、建長5年(1253)、故郷に帰った日蓮は、4月28日早朝、旭が森で太平洋から昇る朝陽に向かって題目を唱え、法華宗を立てることを宣言して日蓮と名を改めた。銅像は大正12年(1923)に建立された。

(14)光玉山多聞寺

鴨川市浜荻1145

文永元年(1264)、日蓮が鎌倉から安房への帰途、毘沙門天(びしゃもんてん)(多聞天(たもんてん))の変化(へんげ)した童子が、一夜の宿を提供するため住職に引き合わせて姿を消した。日蓮は住職や郷士(ごうし)北浦忠吾(ちゅうご)・忠内(ちゅうない)兄弟らを教化改宗させた。寺の宗派は天台宗から日蓮宗に、寺号は多聞寺に改められた。

(15)高祖(こうそ)大士(だいし)御疵洗(おきずあらい)井水(せいすい)之霊地

鴨川市浜荻

日蓮は北浦兄弟邸内の姥が池で、小松原法難での疵(きず)を洗い手当を受けた。池は明応7年(1498)の津波で埋もれたが改修され、疵洗い井戸として伝えられる。井戸の前に日蓮が腰掛けたとされる石がある。

(16)袈裟山掛松(けいしょう)寺

鴨川市広場1971

小松原法難のとき北浦兄弟が駆けつけ、ここで日蓮の袈裟を脱がし、路傍の松に掛けて介抱した。その後、この木は切られて日蓮の像を彫刻し当寺に安置された。袈裟掛けの松は植え継がれて4代目になっている。また、日蓮が法難直後に川のほとりにあった松に袈裟を掛け、長い一夜を過ごしたので、川は夜長川と呼ばれているなどの話がある。

(17)上人塚(しょうにんづか)

鴨川市広場

小松原法難での工藤吉隆殉教の地。日蓮は妙隆院日玉の法号を贈り、吉隆をこの地に葬った。後に、人々がこの地に塚を築いて上人塚と呼ぶようになり、鏡忍寺(きょうにんじ)住職日長は明和5年(1768)に碑を建立している。平成25年に小松原法難での死傷軍馬供養の馬頭観音碑が建立された。

(18)小松原山鏡忍寺

鴨川市広場1413

小松原法難で亡くなった鏡忍房(きょうにんぼう)と吉隆の霊を弔って、弘安4年(1281)に妙隆山鏡忍寺が建立された。後に小松原山に改めた。御法難堂は、日蓮が鏡忍房を葬り小松を植えて墓標とした場所である。降神(こうじん)の槇(まき)には、東条景信(かげのぶ)が再び日蓮に刀を振りかざすと、槇が煌(きら)めき法華経を守護する鬼子母神(きしぼじん)が現れ、景信が落馬したという伝説がある。

(19)花房山蓮華寺

鴨川市花房1236

清澄寺での立教開宗により、東条景信に追われた日蓮が逃れた寺。景信の見張りが緩むと、鎌倉遊説に先立って生家を訪ねた。父に妙日、母に妙蓮の法名を授け、自らは蓮長を改め日蓮と名乗ったという伝承もある。文永元年(1264)に父の墓参りと母の病気見舞のため故郷へ帰るが、工藤吉隆邸へ向かう途中、小松原で襲われ再び蓮華寺に逃れた。見舞いに来た旧師の道善房(どうぜんぼう)に法華経を信じるように諌(いさ)めたという。

(20)日蓮聖人御疵洗之井戸

鴨川市花房

蓮華寺への入り口の井戸で、日蓮が法難での傷を洗ったとされる。

(21)仁右衛門島

鴨川市太海浜445

神楽岩は、日蓮が朝陽を拝んで南無妙法蓮華経と唱えた岩とされる。


<作成:ミュージアム・サポーター「絵図士」 刑部昭一・金久ひろみ・殿岡崇浩>(2020.1.19作)
監修 館山市立博物館 〒294‐0036 館山市館山351‐2 ℡0470‐23‐5212

日蓮聖人とその伝説(内房編)

日蓮は貞応(じょうおう)元年(1222)、安房国長狭郡東条郷片海(かたうみ)の小湊に生まれたとされている。12歳で天津の清澄寺(せいちょうじ)に上り修業し、16歳で出家得度して是正房(ぜしょうぼう)蓮長と改名した。後、鎌倉に遊学して念仏宗や禅宗を研究し仏教の奥義を極め、衆生済度の正法(しょうぼう)は「法華経」の教えであるとの結論に達し、法華経の行者として一生を捧げる決意を固めた。建長5年(1253)、32歳の時、清澄寺の一角旭が森で「南無妙法蓮華経」を唱え、法華宗の開宗宣言を行い、法名を日蓮と改名した。日蓮は鎌倉の松葉谷(まつばがやつ)に庵室(あんしつ)を構え、「辻説法(つじせっぽう)」という新しい方法で法華経の布教に努め、伽藍(がらん)仏教から街頭仏教へと日蓮は大衆教化の道を開いた。正法を法華経とすべきだと北条時頼に進言したが用いられず、法敵として怒りを招き、小松原法難(こまつばらのほうなん)、龍口法難(たつのくちのほうなん)など数々の法難を受け諸宗批判の罪に問われ佐渡流罪となった。文永11年(1274)、日蓮は赦免されて鎌倉へ帰ったが、甲斐国巨摩(こま)郡の身延山に退隠し、著述と弟子の育成に努めることになる。弘安5年(1282)、日蓮は湯治のため常陸国へ向かう途中、武蔵国の池上宗仲(むねなか)邸で死を悟り、弟子の中から法華経の法燈を継ぐ六老僧を定めた。10月13日、滞在中の池上邸にて死去。享年61歳。日蓮が安房と鎌倉を行き来していた時代に立ち寄った安房の土地には、様々な伝説が残されている。

(1)乾坤山日本寺

鋸南町元名184-4(鋸山)

*石の堂
鐘楼堂からの上がり口に、「日蓮聖人の石の堂」という、昔日蓮が護摩(ごま)修行したという霊蹟が『安房誌』に紹介されている。

*風土かづら
「大仏の嶺石(みねいし)の辺りに見られる風土かづらは、水腫(みずぶくれ)を治す効果があるというので、土地の人たちに珍重されている。日蓮の教えたもう薬草」と『日本の伝説 安房の巻』に紹介されている。

(2)中谷山妙本寺

鋸南町吉浜453-1

本尊は十界曼荼羅(じっかいまんだら)。平安時代末に吉浜村の地頭佐々宇(さそう)家の側に法華堂があったという。日蓮が蓮長と称していた時、房州から鎌倉へ渡り京・奈良へ遊学の途次には必ず法華堂に立ち寄り参籠(さんろう)されたという。日蓮宗富士門流(ふじもんりゅう)の日郷が元徳年間(1329~1330)に、宗祖日蓮誕生の地を慕い房州に下り、保田の地頭佐々宇左衛門尉(さえもんのじょう)から法華堂の寄進を受け、建武2年(1335)に当寺を開創した。里見氏と北条氏の戦で多くの宝物を失ったものの、文和2年(1353)に宝蔵が落成するや総本山の身延から移された多くの日蓮真筆や日蓮等身木造坐像など日蓮にまつわる宝物が残され、年に一度虫払会(むしばらいえ)が催され保存されている。

(3)妙典台 鋸南町下佐久間

文永元年(1264)、日蓮は父の墓参りに鎌倉から安房へ来た時、妙典台で説法をした。人々は感激し、その地に瑞竜山妙典寺を建立した。現在は寺の跡もなく、地名に妙典台と残っているのみである。長年無住だった寺は、元禄元年(1688)に醍醐新兵衛が、勝山の土地を寄進して再建し、「醍醐山妙典寺」として名を残している。

(4)成就山妙福寺

南房総市富浦町南無谷(なむや)119

日蓮は伊豆の流刑が解けて父の墓参と母の見舞いに小湊へ戻った時、小松原法難(こまつばらのほうなん)に遭うが、身を隠しながらも房州各地で布教を行った。以前、鎌倉へ向かって船出した折、逗留した南無谷(なむや)に立ち寄ると泉澤権頭(ごんのかみ)太郎の老母の願いを入れ「妙福」の法号を授けた。弘安2年(1297)、太郎が身延山に日蓮を訪ねると、弟子に彫らせた日蓮の読経(どきょう)中の裸坐像と題目の掛軸を頂いたので、堂を建て安置した。後に、六老僧の一人日頂の弟子日念により成就山妙福寺と号する寺になった

(5)衣洗い井戸(血洗いの井戸)

南房総市富浦町南無谷(なむや)

泉澤権頭(ごんのかみ)太郎の老母が鎌倉へ向かう日蓮の衣を洗った井戸。着替えがなかったので日蓮は裸のまま読経した。妙福寺の北100m程の国道脇に「日蓮聖人衣洗い井戸」の看板がある。また、小松原法難での血の付いた衣を老母が洗ったので、血洗いの井戸という別名もある。

(6)南無谷(なむや)

南房総市富浦町南無谷


*南無谷の地名
南無谷は昔、泉澤と呼ばれる名の村であった。建長5年(1253)、鎌倉へ渡ろうとした日蓮は3日程、地元の豪族泉澤権頭(ごんのかみ)太郎の家に逗留した。これが縁となり文永元年(1264)再び泉澤家を訪れた日蓮は、泉澤家の人たちに熱心に法華経を説いた。やがて日蓮宗が村中に広まり、村の名が南無妙法谷(なむみょうほうや)村と呼ばれるようになったが、いつのころからか略して南無谷村になったという。

*和泉澤(いずみさわ)の名字
南無谷区には「和泉澤」という名字の家が多くある。日蓮が、地元の豪族泉澤権頭太郎の世話になった折、「人は皆、和を持って暮らさなければならぬ、あなたの名字に和を加えなさい」とすすめ、泉澤を和泉澤に変えたといわれている。

*角(つの)なしサザエと鮑(あわび)の恩返し
南無谷の磯には大きな角のサザエがいた。日蓮が鎌倉へ渡るため乗船する際、サザエを踏みつけ足にけがをしてしまうが、怒らず「サザエには、角の無い方がいい」と言った。サザエに罰があたり自慢の角はたちまち消えてしまったという。サザエに悩まされていた鮑はこれに感謝をして日蓮の乗る船に浸水するような穴を見つけると、その穴に吸い付いて塞いだそうだ。

(7)小三郎坂

南房総市富浦町豊岡

岡本(豊岡)から南無谷へ抜ける険しい崖道がある。あえぎながら登る日蓮を近在の漁師小三郎が背負って登ったという。この坂道を「小三郎坂」と呼ぶようになった。

(8)法華崎

南房総市富浦町豊岡

建長5年(1253)、日蓮は鎌倉での日蓮宗の布教を目指し、小湊から岡本(豊岡)の港へ来たが、風浪荒く乗船できなかったので、付近の丘陵に登り、海上安全・心願成就を祈ったところ、激しい風浪も収まったといわれている。現在「法華崎」と呼ばれている所がその場所であり、袈裟をかけたという「日蓮上人袈裟掛松」の碑が建っている。

(9)法輪山法蓮寺

館山市下真倉2487

文永元年(1264)の創立。日蓮が文永元年鎌倉から安房へ戻った時、三原郷(和田町)の地頭池田和泉守が、自分の館に日蓮を招いて7月29日から3日間の説法を願った。和泉守は日蓮に帰依(きえ)して入道し名を法蓮と改め、それまであった草庵を「法輪山法蓮寺」と改称したという。

(10)勝栄山日運寺

南房総市加茂2124

勝栄山日運寺の本尊は日蓮聖人。昔は勝栄坊という真言宗(天台宗という説もある。)の小堂で、日蓮が文永元年(1264)9月、小湊へ帰る途中このお堂に止宿した。当時の坊主(ぼうしゅ)であった勝栄坊行然(ぎょうねん)は日蓮の人徳と高説に敬服し、弟子となり日蓮宗に改宗したという。約300年後、里見の重臣正木時通(ときみち)と弟頼忠(よりただ)は元亀(げんき)2年(1571)に勝栄坊を再興し勝栄山日運寺と改めた。勝浦正木氏の菩提寺であり、頼忠は大檀那として寺領を寄進している。

*日蓮聖人御杖(おつえ)井戸
文永元年(1264)当地に立ち寄った日蓮は、周囲の農民から井戸水が悪くて飲み水に不自由していると聞き、自ら錫杖(しゃくじょう)で聖地を定め、掘ってみると清水がこんこんと湧き出たという。大正中期まで十王堂跡(現集荷場)にあったといい、大正大震災で水脈が変わったが、いかなる旱魃(かんばつ)でも水が枯れることがなかった。昭和8年(1933)頃に道路改修のため黒門(くろもん)跡前に移され、現在は境内に移転している。

(11)日蓮を救った鮑(あわび)

南房総市和田町小川

日蓮は『立正安国論』を著して幕府に献じ、諸宗を責め、幕政を批判したため、文永8年(1271)佐渡へ流罪となった。日蓮を乗せた小舟が佐渡へ向かう途中、荒れ狂う波のため船底の栓が取れてしまい、沈没を待つばかりとなった。こんな危機に日蓮が荒れ狂う海の海面にお題目を書くと、どこから現れたか大きな鮑が船底の穴をぴたりとふさぎ、浸水は止まって、日蓮は危うく難を逃れたという。日蓮を救った鮑の貝殻が、小川の日蓮宗妙達寺の檀家に保管されている。貝殻の内側には「南無妙法蓮華経」と刻まれていて、その家では家宝としてお祀りしているという。


<作成:ミュージアム・サポーター「絵図士」 刑部昭一・金久ひろみ・殿岡崇浩>(2020.1.19作)
監修 館山市立博物館 〒294‐0036 館山市館山351‐2 ℡0470‐23‐5212

弘法大師伝説を訪ねて

弘法大師の概要

弘法大師(こうぼうだいし)は宝亀5年(774)に讃岐国(さぬきのくに)(香川県)で生まれた。本名は佐伯真魚(さえきのまうお)、出家して「空海(くうかい)」と名乗り、死後「弘法大師」の名が醍醐天皇から贈られました。10代からさまざまな学問に秀でていて、19才頃から山林での修行に入りました。31才から2年間遣唐使(けんとうし)として唐へ留学し、43才の時に高野山を開き、50才の時には東寺を賜って真言密教の道場とし、高野山で835年に62才で没しました。高野山奥の院の御廟(ごびょう)では今も弘法大師が生き続けていると信じられています。故郷の四国では、修行した霊地が四国八十八ヶ所となり多くの人が霊場巡りをします。鎌倉時代から弘法大師の行跡(ぎょうせき)が絵巻物になり、その伝説が全国で語られるようになると、寺院を建立し、仏像を彫刻したのが弘法大師の行いという話になっていきました。弘法大師ゆかりの水の伝説は日本各地に千数百もあるということです。安房南部を中心に弘法大師伝説が多いのは、市内にある小塚大師(遍智院(へんちいん))の弘法大師信仰の影響と考えられています。

(1)日本寺の弘法大師伝説

鋸南町元名(もとな)

本尊は、木像の弥勒菩薩(みろくぼさつ)像で弘法大師作と伝わる。左側が弘法大師のお像。江戸時代の頃、当主が元名(もとな)村の遠代(とおしろ)の岩窟の中に祀られていた弥勒菩薩に子宝を願掛けし、成就(じょうじゅ)したお礼に自宅西側にお堂を建てお祀りしたという。昭和30年頃までは大勢の参拝客があり、武田石翁(せきおう)作の弥勒菩薩像版木で刷られたお札が渡されていた。

(2)篠原家の弥勒堂

鋸南町元名(もとな)

本尊は、木像の弥勒菩薩(みろくぼさつ)像で弘法大師作と伝わる。左側が弘法大師のお像。江戸時代の頃、当主が元名(もとな)村の遠代(とおしろ)の岩窟の中に祀られていた弥勒菩薩に子宝を願掛けし、成就(じょうじゅ)したお礼に自宅西側にお堂を建てお祀りしたという。昭和30年頃までは大勢の参拝客があり、武田石翁(せきおう)作の弥勒菩薩像版木で刷られたお札が渡されていた。

(3)太子山長福寺

南房総市上滝田

弘法大師が巡錫(じゅんしゃく)の折、上滝田に聖徳太子霊場があると聞き訪ね、余りにも小さい庵を嘆いて村人に再建を願った。完成を喜んだ大師は、大聖坊調伏寺(ちょうぶくじ)と名付けたという。後に太子山長福寺となった。

(4)小三郎坂の風邪大師

南房総市富浦町豊岡

小三郎坂という古道は、日蓮伝説で知られる法華崎(ほっけざき)にあり、豊岡と南無谷(なむや)の境になっている。豊岡側の登り口に「風邪大師」と呼ばれていた弘法大師像が祀られ、熱心に信仰すれば風邪をひかずに過ごせると言われていた。毎月1日と15日の縁日には大賑わいだったが、今ではすっかり忘れられひっそりと佇(たたず)んでいる。

(5)安房高野山八十八ヶ所霊場

館山市上真倉(かみさなぐら) 妙音院

妙音院は戦国時代の終わり頃に、里見義康が高野山から僧を招いて開創した。高野山金剛峰寺(こんごうぶじ)の直末(じきまつ)。八十八ヶ所霊場は、妙音院の裏山に88体の大師像を置いて巡拝できるようにした。明治28年(1895)、上総の前羽覚忍(かくにん)という老女の発願により、近隣の人々の浄財を受け、約2年の歳月をかけて奉納された霊場。霊場の出発点には出生門があり、1体ごとに「褌祝(ふんどしいわい)・女の大厄・男の前厄」など人生の節目が表現されている。この中の34番の「身代わり大師」は唯一の行者姿。88番は安房の彫刻師後藤義光の作品である。

(6)小網寺の弘法ヶ谷

館山市出野尾(いでのお)

真言宗の修行道場であった小網寺(こあみじ)の近くに、弘法大師修行の場として伝えられる弘法ヶ谷(こうぼうがやつ)という場所がある。ここには2つのヤグラがあり、左は高さ1.2mで奥壁に2基の五輪塔が浮彫りにされている。右は2基の五輪塔が据え置かれ、その中央には、右手に五鈷杵(ごこしょ)、左手に数珠を持った石造の弘法大師像が安置されている。文政11年(1828)に出野尾村と岡田村の人々が寄進したもの。ここは法華谷(ほっけやつ)とも呼ばれている。

(7)小塚大師と弘法大師像

館山市大神宮

小塚大師(曼荼羅山(まんだらさん)金胎寺(こんたいじ)遍智院(へんちいん))は815年の創立。安房地方の弘法大師信仰の中心で、関東厄除三大師のひとつ。他は西新井大師と川崎大師。大師がこの地に滞在した時、布良崎(めらさき)に鎮座する天太玉命(あめのふとだまのみこと)が現われ、衆生(しゅじょう)の災難除けのため霊木で大師の像を刻めと告げられた。大師は2体を刻んで1体をこの地に安置し、残る1体を海に流した。この1体が対岸の武蔵の海辺に流れ着き、漁師の網にかかったのが川崎大師のご本尊であると「遍智院縁起」は伝えている。本堂裏にある閼伽井(あかい)には、大師が法曼荼羅(ほうまんだら)を写していた時、井戸の底に金砂(きんさ)が湧き出でたと伝えられている。

(8)北竜の爪彫り地蔵

館山市竜岡(りゅうおか)

地蔵堂の本尊は崖に刻まれた陽刻の地蔵尊で、弘法大師が自分の爪で彫ったと伝えられている。岩屋地蔵とも呼ばれ、イボ取りの信仰がある。安房の百八地蔵巡りの第92番である。

(9)弘法井戸

館山市神余(かなまり)

昔一人の僧が物を請いに尋ねて来た。その家のおかみさんが請われるままに、ありあわせの小豆粥(あずきがゆ)を出した。塩気がないことを僧に問われると、「家が貧しくて塩を買うことが出来ない」と答えた。僧が小川のほとりへ行き錫杖(しゃくじょう)を突き立てて念じ、杖を抜くと塩気を含んだ霊水がほとばしった。この旅僧こそ弘法大師であったという伝説。土地の人はその日を記念して井戸水で小豆粥を作り供えるのを行事としてきた。別名塩井戸。

(10)青木の芋井戸

南房総市白浜町白浜

ある老婆が芋を洗っていると、旅の僧が「芋を分けてもらえないか」と尋ねた。老婆は芋を惜(お)しみ「この芋は石にように固くて食べられない」と答えた。老婆が家に帰って芋を煮て食べようとすると、石のように固くなっていた。怒った老婆が芋を道端に捨てると、そこから清水が湧き出て芋は芽を出した。驚いた老婆はその後旅の僧が弘法大師と知り、改心したという話。

(11)三ッ山地蔵

南房総市千倉町白間津(しらまづ)

弘法大師が白間津巡錫(じゅんしゃく)中に、孝行息子が病弱の父親に鮑(あわび)を食べさせたいと採りに行き亡くなったという話を聞いた。大師はこのような惨事が二度と起こらないようにと、海の見える真間(まま)の岩山中腹の岩窟に地蔵菩薩像を彫り護摩修行をしたという伝説がある。1・5・9月の24日のご開帳には、大勢の参拝がある。

(12)忽戸の灰汁井戸

南房総市千倉町忽戸(こっと) (見学不能)

昔から近隣住民に親しまれた洗濯井戸(灰汁(あく)井戸)で、一年中水量・水温が変わることなく、汚れが真っ白に落ちた。昔一人の旅僧が一夜の宿を求めたところ、大変温かく歓待された。翌朝、家人が冷たい水で洗濯しているのを見た僧が、お礼にと原の中程をトントンと叩くと暖かい水が流れ出た。その僧こそ弘法大師だったと伝わる。昭和50年代半ばまで使われていた。

(13)安房国八十八ヶ所霊場

弘法大師の遺跡を巡る四国八十八ヶ所霊場を写した、安房国八十八ヶ所霊場がある。天正1年(1582)に頼長(らいちょう)という高僧が、遠方の四国八十八ヶ所霊場を巡拝できない老若男女の後生安楽(ごしょうあんらく)を願う希望にこたえ、安房国に霊場の「うつし」をつくったという。安房国内の札所は、1番が旧白浜町の紫雲寺から始まり、88番旧白浜町の法界寺まで、旧白浜町5・館山市29・旧三芳村6・旧富浦町2・旧富山町5・鋸南町3・鴨川市17・旧丸山町6・旧和田町5・旧千倉町10か寺が定められている。


作成:ミュージアムサポーター「絵図士」
青木悦子・金久ひろみ・佐藤博秋・佐藤靖子・鈴木以久枝 2019.12.9作
監修 館山市立博物館  〒294-0036 館山市館山351-2 ℡.0470-23-521

 寺崎武男略年譜

西歴 元号 年齢 事項
1883年 明治16年 0 3月30日東京赤坂に誕生
1902年 明治35年 19 3月独乙学協会中学校卒業
9月東京美術学校予備課程入学
1904年 明治37年 21 このころ東京美術学校西洋画科で岩村透にイタリア美術史を学ぶ
1906年 明治39年 23 7・8月満韓旅行
1907年 明治40年 24 3月東京美術学校西洋画科本科卒業
4月イタリアに出発
農商務省留学生としてイタリアで図案および彫刻を学ぶ
1908年 明治41年 25 ベネツィア商業大学日本語教授(15年間)
1910年 明治43年 27 東京美術学校長正木直彦とパリ・ブリュクセル・ベルリン他を巡る
ヴィチェンツァ市テアトロ・オリンピコの「天正遣欧少年使節」壁画を、正木の依頼で模写する。
1913年 大正2年 30 ベルリン滞在
1915年 大正4年 32 フィレンツェ写生旅行
1916年 大正5年 33 帰国
1917年 大正6年 34 日本水彩画会展覧会出品
文展に「飛鳥朝の夢」(フレスコ)出品
光風会展にエッチング20点出品
3月黒坂勝美、藤懸静也と法隆寺へ
1918年 大正7年 35 国民美術協会主催の講演会で「ヴェニスの絵画」講演
日本創作版画協会創立
東京女子美術学校洋画科主任(2年間)
1919年 大正8年 36 日本創作版画協会展に多数のエッチングを出品。当時我国で唯一人のエッチング研究者といわれた。
12月再度渡欧。明治神宮奉賛会より絵画館のための壁画調査を依頼される。
1920年 大正9年 37 2月エジプト・カイロを見学
軍艦常盤に便乗してナポリへ
1921年 大正10年 38 チロル、パリ遊歴。大類伸とイタリア各地スケッチ旅行。
「ルネサンス諸大家の傑作20枚」を模写して日本・三井合名会社に発送。
1922年 大正11年 39 大類伸とシチリア島へ。
12月帰国
1923年 大正12年 40 1月絵画館事務嘱託
以後赤坂の自宅のアトリエに精美会研究所を作って絵画、芸術史を昭和23年まで指導する。
1926年 昭和1年 43 (大正15年)2月三越で個展
「黄帆船」東京帝室博物館買上げ
10月館山の別荘に滞在。『崋山』(アルス美術叢書・刊)執筆。
軍人勅論下賜の図制作。宮中において揮毫。
1927年 昭和2年 44 帝展に出品。官展に版画の出品が受理された最初。
1928年 昭和3年 45 館山市川名家「靄に煙るヴェニス」
長年の日伊親善の功績によりコンメンダトオレ・デルラ・コロンナ・デイタリヤ勲3等勲章授与される。
1929年 昭和4年 46 2月テンペラ画会展三越で開催。
1930年 昭和5年 47 洋風版画会創立同人
横山大観書簡
渡欧し、ローマ開催の日本美術展覧会をプロデュース。
ヴェニス市ビエンナーレ国際展にて「幻想」(観音)入選。イタリア政府に買上げられ、今もイタリア現代美術館に展示されている。
1931年 昭和6年 48 日本版画協会結成
1935年 昭和10年 52 国史絵画館を飾る壁画として、「天幕病院における貞明皇后」「広島大本営に於ける明治天皇」制作。
10月日本壁画家協会結成
安房神社「安房開拓神話」壁画
ラグーサ玉女書簡
1936年 昭和11年 53 文展招待展出品
白浜町下立松原神社「安房開拓神話」壁画10枚
1938年 昭和13年 55 文展無鑑査。
富浦町忍足家「コルチナ・ダンペッツオ」
1940年 昭和15年 57 紀元2600年の絵画を多数制作
館山市来福寺「文殊菩薩図」「悲母観音図」。
館山市諏訪神社祭壇画。
富浦町忍足家「天富命の図」
「房州の海」
1943年 昭和18年 60 「アッツ島の血の雪」「ミッドウェイ海戦」「艦と共に」など、昭和20年敗戦の日まで鎮魂の絵を画き続ける
1949年 昭和24年 66 法隆寺輪堂壁画の構想と下絵を画き始める
千葉県立安房第一高等学校美術講師4年間
1950年 昭和25年 67 安房美術会美術展出品
1952年 昭和27年 69 2月より法隆寺輪堂の壁画を描き始める
兵藤益夫書簡
1953年 昭和28年 70 この頃、西ノ浜町内会長を委嘱される
1954年 昭和29年 71 館山市川名家「弁財天像」
「主の洗礼」フレスコ壁画を目黒のサレジオ教会に描く
1955年 昭和30年 72 法隆寺輪堂壁画を完成
1956年 昭和31年 73 「キリシタン的文化史絵画-天正少年使節伝」14枚のテンペラ画を5年がかりで完成。
1957年 昭和32年 74 富山町勝善寺「ヴェニスの図」
1967年 昭和42年 84 2月16日永眠
4月寺崎武男回顧展開催。大類伸文学博士、作家三島由紀夫氏回顧展に寄稿。
2003年 平成15年 没後37年 生誕120年。館山市立博物館で展覧会開催。

【3】資料集
 芸術宣言 寺崎武男

吾人の宣言

【藝術の實際的生活】 即ち藝術的解釋と藝術的行動の一致生存其ものを以て藝術を形造り意義、詩・文・繪畫・彫刻のみに依らずして生活全般を以て藝術を表現せむとす。

【藝術的天然観察】 宗教・道徳・哲学・科学に準ぜざる、より自由にして、より廣き直覚的藝術的感動の感覚を求む。

【感覚力の本態を求む】 凡ての藝術の出る発作的威力の発現に對し攻究す。

【創作】 あらゆる旧思想と旧状を打破一変して新藝術的状態を構成せむとす。

【非罪悪説】 吾人より罪悪的自認の觀念を捨て、積極的解釋を以て常に善美化の運動を行ふ。

【互扶(愛着)】 吾人は個別の生存をなすといえども、互の間に強き同情と愛着と共通の相互生活を営む事を明らかにして、出来得る限り總てを愛し自他の無意義なる差別を全然(すべて)撤廃す。

【本能の発揮】 吾人は偽善や偽装を好まず、赤裸々に生存の発現たる本能を発揮して、人間は人間たる可く、動物性の動物たる所以を恐るヽ者に非ず。

【自由】 相互の自己を認めて、よき廣き絶對の自由を得む。

(以下省略)

― 原文のまま掲載しました ―

  安房神社

官幣大社安房神社縁起壁画  「祖神を偲ぶ天富命の図」
官幣大社安房神社縁起壁画
「祖神を偲ぶ天富命の図」
官幣大社安房神社縁起壁画  「天富命猛獣を狩り尽くし給う図」
官幣大社安房神社縁起壁画
「天富命猛獣を狩り尽くし給う図」
官幣大社安房神社縁起壁画  「天孫御降臨の図」

官幣大社安房神社縁起壁画
「天孫御降臨の図」

官幣大社安房神社縁起壁画
「天つ神籬磐境(ひもろざいわさか)の図」  

官幣大社安房神社縁起壁画  「天つ神籬磐境{ひもろざいわさか}の図」  

官幣大社安房神社縁起壁画  「天富命安房国に御渡航の図」

官幣大社安房神社縁起壁画
「天富命安房国に御渡航の図」

(以上、安房神社蔵)

【2】寺崎武男の世界
 神話の世界
  下立松原神社

安房開拓神話「御狩の図」  41  天日鷲命の御孫由布津主命御狩の図
安房開拓神話「御狩の図」
天日鷲命の御孫由布津主命御狩の図

 館山に移り住んだ武男は、齋忌氏の「安房開拓の神話」に心を魅かれ、所縁の、白浜町・下立松原神社をはじめ、館山市・安房神社にフレスコの大壁画を残している。

 戦争による物資の少ない時代、絵の具に苦心して日本における一大宗教絵画として完成させた。

安房開拓神話「船出の図」  40  神武天皇の御代造船の図
安房開拓神話「船出の図」
神武天皇の御代造船の図
安房開拓神話「参拝の図」  39  下立松原神社神武元年創立の図
安房開拓神話「参拝の図」
下立松原神社神武元年創立の図
安房開拓神話「機織の図」  38  天富命の御娘飯長姫命の図
安房開拓神話「機織の図」
天富命の御娘飯長姫命の図
安房開拓神話「武人の図」  37  日鷲翔矢の図
安房開拓神話「武人の図」
日鷲翔矢の図
安房開拓神話「日鷲命図」  36  天日鷲命の図
安房開拓神話「日鷲命図」
天日鷲命の図
安房開拓神話「収穫の図」  35  安房開拓の図
安房開拓神話「収穫の図」
安房開拓の図
安房開拓神話「頼朝の図」  34  治承4年源頼朝参籠の図
安房開拓神話「頼朝の図」
治承4年源頼朝参籠の図
安房開拓神話「日鷲の図」
安房開拓神話「日鷲の図」

安房開拓神話「齋部広成の図」
安房開拓神話「齋部広成の図」

(以上、下立松原神社蔵)

 3.寺崎武男の絵の本質とライフワーク

 武男と親友の西洋歴史学の権威、大類伸文学博士はその画風について次のように著している。「この稀有な画家、寺崎君の画風が、古今のイタリア画家の作品から影響をうけたことは、言うまでもないが、私は同君の作品を思う時、いつもヴェニスの画家、ティントレットーを思い出さずには居られない。ヴェニス・ルネサンス画家を代表するティチアンに対して、一種の叛逆児の感のあるティントレットーの荒々しい野心に富んだ奔放自在な画風を思う時、何となく寺崎君の姿を思い出す。私が同君に案内されてヴェニスの聖ロッコ寺の会館(スクオラ)を訪れた時、全館を埋め尽したティントレットーの壁画には、驚異の眼を瞠(みは)らないでは居られなかった。ルネサンスの大巨匠、ミケランジェロさえも発揮し得なかったような奔放自在の生命がありのままに発揮し尽されたかの観があり、それは、正にルネサンスの古典美に対する大きな叛逆であったと言ってよかろう。荒々しい筆触、躍動している人物、すべては生命の激動である。寺崎君の作品を見る時、以上のことが二重映しになってくる」(「寺崎武男回顧展」より、1967年(昭和42年)4月、千代田画廊)。

 武男は、自らの「芸術宣言」(1917年(大正6年)。※P.44資料集参考)の中で、「画家は自由なる宇宙(マクロコスモス)の生を得て生存する人間である。しかるに画家はそれ自身小宇宙(ミクロコスモス)でなければいけない」。「あらゆる旧思想と旧状を打破し、一変して新芸術的状態を構成せむとす」と述べ、自分が目指す絵は「ディナミックとオーケストラチョン」(『芸術』七面社、1917年(大正6年)2月)であり、「それが芸術上の第一の要素である」と宣言した。「ディナミックとは、事物の持って居る内部的威力(エネルギー)、及び其事物の発揮(ママ)表現する気持、即ちそれは目には見えないけれども、吾人を非常に感動せしめる、其の力を云うのであって、是等が集って一つの景色となり、人物なりを形造る時にその(天然の)ディナミックの相互の発輝集合せるオーケストラチョンがある。オーケストラと云うと、合奏と云う事があるが、個々の事物が打っている即ちビブラチョンしているディナミックの感興があるので、其感響が纏(まとま)り綜合して、即ちフジオン(融合)となって折々堪え難く芸術家を興奮せしめる其感興の調子を現したものを、自分はディナミックのオーケストラチョンと名づけて居るのである。これこそが芸術上の第一の要素であり、其(その)感じを感興するのはインプレッションであって、其感じをエキスプレッションするのが、即ち絵画なり、彫刻なり芸術上の作品である」。

 これが寺崎武男絵画の核心となり、熱血の浪漫詩人ダヌンチオと親交を結び、巴里でカンジンスキーと組し、伊・佛・ベルギーの画家たちと新芸術派を創り、新しい芸術運動を興そうとしたが、第一次大戦となり挫折した。それと前後するように前述の「ルネサンス諸大家の傑作二十枚」の焼失の不幸が重なり、二つの挫折が武男の生涯に微妙な影を落す。

 だが、東西文化の交流、東西絵画の融合の機会を天から与えられ、フレスコ、テンペラ、水彩、パステル、エッチング、リトグラフィ、当時真新しい画材、画質、画法を使った滞伊作品が三越や白木屋ギャラリーで何度も開かれ、1917年(大正6年)には武男の絵画の原点ともいえるフレスコによる「飛鳥朝の夢」が文展で特選となる。2年後の1919年(大正8年)には日本創作版画教会を設立、多数のエッチングが出品され、バーナード・リーチに激賞される。1923年(大正12年)には自らの「精美会研究所」を赤坂の自宅のアトリエに創立、それは1948年(昭和23年)まで続く。またテンペラ画会1929年(昭和4年)、洋風版画会1930年(昭和5年)、日本版画協会1931年(昭和6年)、日本壁画家協会1935年(昭和10年)と次々に創立メンバーとなり、実施と普及につとめた。

(中略)

 武男は1938年(昭和13年)55歳を期に日本の画壇からは一切手を引き、館山で、三島由紀夫氏の言葉を借りるなら、「…無理解と孤立には少しも煩はされずに、悠々と、晴朗に、芸術家たるの道を闊歩していた。あくまで走らず、跳ばず、悠揚たる散歩の歩度で。氏こそ、真の意味で、芸術家の幸福を味わった人ではなかろうか」(「寺崎武男回顧展」1967年(昭和43年)4月)と。

 そのため、寺崎武男は“忘却の彼方の人”となったが、「売り絵に身をやつしたら、自分の芸術は堕落する」との信念から売り絵をしなかった為、膨大な絵を残した。私はその膨大な絵を生まれてから70年間見続けているが、一度も見飽きたことがない。

 不思議なことである。

 今回の展覧会は、3年も前から、元千葉県立安房博物館米田耕司館長、辻田実館山市長が、「房州をこよなく愛した日本近代絵画の先駆者・寺崎武男の世界」を館山市立博物館で…との思いが、奇しくも武男の生誕120年祭、37回忌に開催されることになった。それは歌舞伎とオペレッタの二筋道を、ジャンルは違っても父と同じ東西音楽劇の融合をライフワークとする私にとっても、こんな嬉しくありがたいことはない。今回、館山市立博物館吉田信明館長、町田達彦主任学芸員はじめ多くの方々にお世話になった。

 此処に深く感謝申し上げます。

 天国の父、寺崎武男もどんなに喜んでいることだろう。

 これを機会に父の絵が一人でも多くの人に見ていただけたら、また寺崎武男の画業を研究してくれる人が現れる糸口にこの展覧会がなれば、幸いである。

    2003年正月

寺崎裕則(てらさきひろのり)

 (画家寺崎武男の次男として昭和8年5月生まれる。千葉県立安房高等学校・学習院大学卒業後、演劇の道に進む。)