展示図録No.30
館山市立博物館 令和3年度企画展
よみがえる近代安房の風景
―川名写真館の世界―
発行日 令和4年2月5日
編集・発行
館山市立博物館
千葉県館山市館山351-2 城山公園内
印刷・製本
有限会社 クォーク
展示図録No.30
館山市立博物館 令和3年度企画展
よみがえる近代安房の風景
―川名写真館の世界―
発行日 令和4年2月5日
編集・発行
館山市立博物館
千葉県館山市館山351-2 城山公園内
印刷・製本
有限会社 クォーク
川名写真館で撮影された写真には、人物を撮影した写真も数多くあります。これまでに紹介した館山海軍航空隊員の肖像写真や、地域住民の結婚・卒業写真だけでなく、さまざまな行事の記念写真や、川名竹松が身近な人物を撮影した写真もあり、当時の人びとの服装・髪型や表情をうかがうことができます。こうした写真は、文字資料では分からない安房の人びとの生活、労働、娯楽などの風景を現代に伝えてくれます。
安房ゆかりの有名人の姿を撮影した写真もあります。千田村(南房総市千倉町)出身のハリウッドスター早川雪洲(せっしゅう)(1886~1973)が昭和5年(1930)に帰郷した際の写真は、川名竹松が地元の写真師として取材に同行し撮影したことを示しています。また、農商務大臣を務めた政治家で、引退後は安房で過ごした大石正巳(1855~1935)のスナップ写真は、川名竹松との親しさを感じさせます。
明治30年代以降、写真を使った絵はがきが流行し、名所旧跡を写したものや、建築物の竣工記念、国家的な行事や災害から学校の運動会まで、さまざまな絵はがきが各地で発行されました。安房でも多くの絵はがきが作られ、川名写真館も絵はがきを発行しています。
川名写真館に伝わった5,000点以上のガラス乾板や写真の中には、安房の風景・建物や、祭礼などの行事を撮影したものが数多くあります。これらの写真には、(1)絵はがき製作用や芸術写真として撮影したもの、(2)依頼を受けて撮影したもの、(3)自家用として撮影したものなどがありますが、その差は明確ではありません。例えば、川名写真館の地元で行われた館山祭礼の写真は、業務として撮影したのか、自家用なのか判然としません。また、関東大震災の被災状況写真は、絵はがき製作用というだけでなく、歴史的災害の状況を記録しようという川名竹松の医師も感じられます。
こうした写真からは、当時の景観やできごとを視覚的に知るだけではなく、地域における写真館の役割をうかがうこともできます。
関東大震災による隆起により陸続きとなった高ノ島の周辺を埋め立て、昭和5年(1930)6月に館山海軍航空隊が創設されました。軍事施設の存在は、地域の人々の生活に大きな影響を与えていくことになります。
昭和12年(1937)には、館山北条町在住の海軍航空隊出入り商人を会員とする誠納会が組織されています。約50名の会員のうち、写真師は川名写真館と成瀬写真館の2軒のみでした。両写真館は、館山海軍航空隊の施設や訓練風景を撮影し、写真帖や絵はがきなどを発行しています。その一方、東京湾要塞地帯では自由な撮影が制限され、風景写真では背景の加工を行うこともありました。
川名竹松の遺したガラス乾板や写真には、館山海軍航空隊員を撮影したものが数多くあります。戦地に赴いた兵士から、自分の写真を実家に送ってほしいと依頼する手紙もあり、命がけで戦う若者たちが家族に残すための写真を撮影していた様子がうかがえます。
明治30年(1897)に創設された農商務省水産講習所(現東京海洋大学)は、館山湾に2つの実習場を開設しました。このうち館山実習場は明治34年(1901)に仮実習場として開設され、漁業実習や乗船実習が行われました。その後、増築や敷地拡大を進め、現在も東京海洋大学の施設として利用されています。
高島実験場は、水産講習所初めての臨海実験場として明治42年(1909)、高ノ島に開設されました。実験室やふ化室、活州(いけす)、寄宿舎等を備えた施設でしたが、関東大震災により大きな被害を受けています。さらに、隆起して地続きとなった高ノ島周辺に海軍が航空基地を設置することになったため、昭和5年(1930)に小湊(鴨川市)へ移転しました。
川名竹松が遺したガラス乾板や紙焼き写真には、水産講習所の建物や練習船、実習風景を写したものが数多くあり、竹松が水産講習所から依頼を受け、記録写真を撮影していたことが分かります。
明治12年(1879)、日本最初期の写真師下岡蓮杖(れんじょう)に写真術を学んだ旧長尾藩士士族の成瀬又男が、北条町(館山市北条)に成瀬写真館を開業しました。これが安房で最初の写真館といわれています。
大正2年(1913)に川名写真館を創業した川名竹松は、大正10年(1921)に房南好影倶楽部(ぼうなんこうえいくらぶ)という写真愛好会を創設しています。東京と大阪では明治37年(1904)にアマチュア写真家の有力団体が設立されており、その流れが安房にも到来していました。
東京から近く、気候が温暖で保養地や観光地に適しているという特徴も、安房における写真文化の広がりには重要でした。被写体としての風景や名所だけではなく、都会からの文化の流入、みやげ物としての絵はがきの流行などの条件が安房には揃っていました。
川名写真館では、結婚式や葬儀、誕生、卒業など地域の人々の写真も数多く撮影されています。大正から昭和初期には、写真撮影は人生の特別な日に欠かせないものとなっていました。
東京の浅沼商会で経験を積んだ後に帰郷した川名竹松は、大正2年(1913)、館山町の新井に川名写真館を開業しました。この年には横山コウと結婚しています。
大正12年(1923)の関東大震災により、館山町は全戸数の8割以上が全壊する大きな被害を受けましたが、川名写真館の建物は倒壊せず、開店当初の建物が近年の閉店まで残っていました。
地域の写真館として、住民の冠婚葬祭を撮影する一方、戦前には館山海軍航空隊の出入り写真師を務めています。また、水産講習所などの学校の写真も多く撮影しています。
竹松・コウ夫妻には男子3名、女子6名がいました。このうち次男の延二郎は、昭和20年(1945)にフィリピンで戦死しています。
昭和28年(1953)、県内の写真館で働いていた飯塚芳男が四女弘子の婿となり、2代目となります。夫妻の間には、後の3代目となる長男俊明が生まれました。平成に入り、川名写真館は約90年の歴史を閉じましたが、貴重な写真の一部は当館に寄贈されました。
川名写真館の創業者川名竹松は、明治22年(1889)に豊津村沼(館山市沼)に生まれました。青年時代に東京に出た竹松は、日本橋の写真材料店浅沼商会に勤務し、販売部門を担当しています。また勤務の傍ら、同僚との交流や観劇などを楽しみました。
明治4年(1871)創業の浅沼商会は、滝口村(南房総市白浜町)出身の浅沼藤吉(1852~1929)が開いた写真材料店です。日本で最初の写真材料専門店といわれ、現在も営業しています。明治7年(1874)には日本最古の写真雑誌『脱影夜話』の発行を開始、その後出版部を設け、写真技術の解説書を発行するなど、写真知識の普及にも努めました。
浅沼藤吉の妻けいは、竹松実家近くの商家富留宮(ふるみや)家の出身で、娘も富留宮家に嫁いでいます。娘の夫である富留宮直亮(なおすけ)は、浅沼商会の大阪支店長や専務を務めました。また、浅沼家の別荘が館山にあり、藤吉は大正13年(1924)から亡くなる直前まで暮らしています。
市内館山にあった川名写真館は、大正2年(1913)に川名竹松氏が創業し、3代にわたって営業を続けました。地域の写真家として住民たちの入学・卒業や結婚、葬儀、祭礼などの行事を多数撮影したほか、昭和初期には館山海軍航空隊や農林省水産講習所(現東京海洋大学)のカメラマンを務めています。また、絵はがきを発行していたことから、名所や寺社などの風景や関東大震災の被災状況など、当時の景観を伝える写真も数多く撮影しています。大正時代に安房で活動した写真愛好会に関する資料もあり、地域の写真文化を支えた人物であったことが分かります。
本展覧会では、当館にご寄贈いただいた川名写真館関係資料を中心に、近代安房の風景と写真文化を紹介します。懐かしい風景や人々の姿を知り、地域の移り変わりについて考える機会となれば幸いです。
最後になりましたが、貴重な資料をご寄贈いただいた川名俊明様をはじめ、ご協力いただきました皆様に厚く御礼申し上げます。
令和4年2月5日
館山市立博物館
館長 船水 裕康