里見家の女性たち

鎌倉公方(かまくらくぼう)足利氏と関東管領(かんとうかんれい)上杉氏の対立の中、鎌倉公方足利成氏(しげうじ)に仕えていた里見義実(よしざね)が15世紀中頃に上杉勢力下の白浜(南房総市)を制圧してから、10代目の忠義(ただよし)が伯耆国(ほうきのくに)倉吉(鳥取県)へ転封(てんぽう)され、元和(げんな)8年(1622)に没するまでの約170年間房総里見氏は続いた。里見氏に関わる女性たちの歴史や伝承も残され、政治に影響力を持った女性がいたという研究成果も出てきた。嫡流と庶流の政権交代となった天文(てんぶん)の内乱(1533~1534)での義豊(よしとよ)の妻たち/第2次国府台(こうのだい)合戦で夫を失い、菩提を弔う義堯(よしたか)の娘/義頼(よしより)に反乱を起こした正木憲時(のりとき)の弟・頼房(よりふさ)の妻になった義弘(よしひろ)の娘/義頼の妻(義康(よしやす)の母)で孫の忠義の時代には「御隠居様」と呼ばれた初代正木時茂の娘/忠義の妻で忠義の33回忌に高野山に供養塔を建てた江戸時代の老中(ろうじゅう)大久保忠隣(ただちか)の孫娘など、里見氏に関わる13人の里見家の女性を紹介する。

房総里見氏家系図
福生寺 義豊室墓

(1)義豊の妻

(鳥山時貞(とりやまときさだ)の娘)
福生寺・姫塚・南条城跡>

義豊の家臣で南条城主鳥山時貞の娘。天文の内乱で義豊が討ち死にした時に自害した。南条城(館山市)の北側にある石積みは姫塚(ひめづか)と呼ばれ、その墓所だという。彼女の霊を弔うために乳母(めのと)が尼僧となりそこに一溪寺(いっけいじ)を建てた。里見氏から2石の寺領を与えられ、その後寺は福生寺として古茂口(館山市)に移転したという。開基は「福生寺殿一溪妙周大姉(ふくしょうじでんいっけいみょうしゅうだいし)」とされ、歴代住職の墓域にある大きな房州石の五輪塔は、義豊の妻の墓と伝えられる。姫塚から移されたのかもしれない。

(2)義豊の妻「倉女(くらじょ)」

(小倉定光(おぐらさだみつ)の娘)

※一般公開は行っていません。

義豊の妻・倉(くら)は倉女と通称される側室。南房総市和田五十蔵(ごじゅうくら)の小倉家には、倉女の墓といわれる供養塔がある。同家に伝わる『黒滝哀史(あいし)』では、天文3年(1534)の滝田城(南房総市下滝田)落城の際、義豊の子を身籠っていた倉女が、兄の定綱(さだつな)に連れられて五十蔵へ逃れ、男児を出産した。文太丸(ぶんたまる)と名付け、義豊の命令通り定綱の実子と言いふらして養育したという。倉女は産後に病死したと伝えられている。

(3)高田(たかだ)姫と梅田(うめだ)姫(双子)

高田寺・妙蓮寺跡>

二子区に里見家双子の娘の話が伝わっている。安養寺(館山市二子)裏山のさらに北側にあった「二子塚」は、高田姫の塚とか双子の塚と伝わっている。「里見髙田姫和讃(さとみたかだひめわさん)」では、高田姫は17才の時に19才の夫と死別したと唄っている。高田姫供養のため建立された高田寺(館山市安東)の谷奥には、姫の墓と伝わる五輪塔がある。位牌には「高田寺殿花室妙香大姉(こうでんじでんかしつみょうこうだいし)」「天文五年(1536)」没とある。梅田姫は、妙長寺(みょうちょうじ)(館山市二子)南にあった妙蓮寺(みょうれんじ)の開基と伝えられてる。高田姫と梅田姫の名から里見家ゆかりの双子の姫と想像されている。

種林寺跡 種姫之碑

(4)義堯の娘「種姫(たねひめ)」

(正木大太郎(まさきだいたろう)の妻)
<宝林寺・種林寺>

夫の正木大太郎は永禄7年(1564)の国府台合戦で戦死したという。種姫は22歳で出家し、その年、上総国朝生原(あそうばら)(市原市)に宝林寺(ほうりんじ)を建て亡き夫を弔った。数年後、白浜に種林寺(しゅりんじ)を建てたといい、里見氏から寺領15石を与えられた。現在は廃寺となり、地元の人たちが顕彰碑を建てている。晩年、宝林寺に帰り天正17年(1589)48才で没した。同寺では「ふさ姫」と呼び「宝林寺殿慶州妙安大禅定尼(ほうりんじでんけいしゅうみょうあんだいぜんじょうに)」の位牌と供養塔がある。

琵琶首館跡

(5)義弘の妻

(足利晴氏(あしかがはるうじ)の娘)
<琵琶首館・長泉寺>

義弘の後室。古河公方(こがくぼう)足利晴氏の娘で、梅王丸(うめおうまる)の母。「久栄(きゅうえい)」という印文と大黒天像を配した朱印を使用し、独自の権限を持っていた。元亀4年(1573)の朱印状では、長泉寺(ちょうせんじ)(南房総市富浦町原岡)に対し、乳母(めのと)に与えた土地の管理を命じている。梅王丸が義頼との家督争いに敗れた後、彼女は養老川に囲まれた琵琶首館(びわくびやかた)(市原市田淵)に幽閉され、天正11年(1583)に没したという。

興禅寺 青岳尼墓

(6)義弘の妻「青岳尼」

(足利義明(あしかがよしあき)の娘)
興禅寺・泉慶院跡>

小弓公方(おゆみくぼう)足利義明の娘で、義弘の前室。一族が天文7年(1538)の国府台合戦で戦死し、里見家に保護された。鎌倉尼五山筆頭(かまくらあまごさんひっとう)の太平寺住職となったが、後に還俗して義弘の妻になった。開基である興禅寺(こうぜんじ)(南房総市富浦町原岡)境内の供養塔には、「智光院殿洪嶽梵長大姉(ちこういんでんこうごくぼんちょうだいし)」と天正4年(1576)の没年がある。慶長年間(1596~1615)の寺領56石余。泉慶院(せんけいいん)跡(館山市上真倉)にも、法名・没年が記載された供養塔がある。この寺は梅王丸を開山に青岳尼が開基し、160石余の破格の寺領が与えられていた。

心巌寺 正木石見守夫妻墓

(7)義弘の娘

(正木頼房の妻)
<心巌寺>

「天秀院殿長譽壽慶大姉(てんしゅういんでんちょうよじゅけいだいし)」は義弘の娘で、義頼の姉妹である。小田喜(おだき)の正木憲時(のりとき)が天正8年(1580)に義頼に反乱したとき、憲時の弟・頼房(道俊(どうしゅん))は金山城(鴨川市)を守備したが、落城後は義頼に従い、後に壽慶(じゅけい)を妻にした。壽慶山心巌寺(鴨川市貝渚)には、夫妻の供養塔(左が壽慶)があり、壽慶を義弘の長女と刻んでいる。壽慶は慶長10年(1605)、道俊は慶長16年(1611)に没している。

源慶院 佐与姫墓

(8)義弘の娘「佐与姫(さよひめ)」

<源慶院>

源慶院(げんけいいん)(館山市安布里)の境内の右高台に、佐与姫の供養塔がある。姫の追福のために建立された。「源慶院殿一法貞心大姉(げんけいいんでんいっぽうていしんだいし)」「天正七年(1579)」没と刻まれている。同寺の創建は義弘で、開基は佐与姫とされ、本尊の地蔵菩薩の胎内(たいない)に姫の持仏(じぶつ)があると伝えられている。

海禅寺

(9)義頼の妻「鶴姫」

(北条氏政(ほうじょううじまさ)の娘)
<海禅寺>

天正5年(1577)に義弘は北条氏政と和議を結び、氏政の娘を義頼の正室に迎えた。鶴姫は、相模から持参した「十一面観音立像」を、海上通行の安全を祈って岡本城観音山にお祀りした。鶴姫が亡くなり岡本城も廃城となった後、像が「相模に帰りたい」と海を荒らすため、地元の人が海の見えない海禅寺(かいぜんじ)(南房総市富浦町豊岡)に安置したという。天正7年(1579)没、法名「龍寿院殿秀山芳林大姉(りゅうじゅいんでんしゅうざんほうりんだいし)」。

長安寺 隠居様墓

(10)義頼の妻「御隠居様」

(初代正木時茂の娘)
<長安寺>

鶴姫が嫁す前の義頼の妻で、義康の母である。孫の忠義の時代には「御隠居様」と呼ばれ、里見御一門衆で3番目に多い知行高だった。小田喜正木家の菩提寺である冨川山(ふせんざん)龍雲院長安寺(鴨川市宮山)の中興開基で、同寺は里見氏より115石の寺領を与えられた。慶長15年(1610)に没した御隠居様「龍雲院殿桂窓久昌大姉(りゅううんいんでんけいそうきゅうしょうだいし)」の供養塔が、延宝6年(1678)に建てられている。他にも開基初代時茂の宝篋印塔(ほうきょういんとう)や御隠居様御局(おつぼね)の墓、2代目時茂(義康の弟)の妻の五輪塔と宝篋印塔がある。

真楽院

(11)義頼の娘

(正木某の妻)
<真楽院>

義頼の娘が正木某に嫁ぎ15才で初産の時、伯母の嫁ぎ先・東条家の医師戸倉玄安(とくらげんあん)が調薬を行ない、光厳寺(南房総市富浦町青木)の禅妙(ぜんみょう)が祈願した安産札と腹帯を与えられ無事に出産したと伝わる。真楽院(館山市上真倉)は玄安が安産守護の三神を勧請(かんじょう)して禅妙が開いた寺である。

高野山奥の院 里見忠義供養塔(複製)

(12)忠義の妻「東丸様(ひがしまるさま)」

(大久保忠隣の孫娘)
<高野山>

徳川幕府の有力者で小田原城主大久保忠隣の孫娘。徳川家康の長女亀姫の孫でもある。夫・忠義は慶長19年(1614)倉吉(鳥取県)に国替(くにがえ)を言い渡され、元和8年(1622)この世を去った。彼女は弟・大久保忠職(ただもと)のもとへ身を寄せ、岐阜・明石・唐津の転封先ごとに、忠義の菩提を弔う寺院を建立した。唐津で東丸様と呼ばれていた頃の、忠義33回忌にあたる承応3年(1654)には、高野山奥の院にも供養塔を建立している。その翌年里見家の再興を願いながら56才で没した。法名は「桃源院殿仙應妙寿大姉(とうげんいんでんせんのうみょうじゅだいし)」。墓は唐津の大久保家の墓地にある。その7回忌の万治4年(1661)に、忠職が高野山の忠義父娘とならべて供養塔を建立。博物館に忠義塔の複製がある。

西郷 姫宮様

(13)姫宮様(ひめみやさま)

館山市正木の西郷(にしごう)集落の田んぼの畔(あぜ)に、いくつかの中世の石塔がまとまって祀られている。五輪塔や宝篋印塔の一部で、地元では里見氏の姫を葬ったものと伝えられ、姫宮様とよばれている。


作成:ミュージアムサポーター「絵図士」
青木悦子・金久ひろみ・佐藤博秋・佐藤靖子・殿岡崇浩
R4.7.7

監修 館山市立博物館
〒294-0036 館山市館山351-2 ℡.0470-23-5212

里見家の女性たち

鎌倉公方(かまくらくぼう)足利氏と関東管領(かんとうかんれい)上杉氏の対立の中、鎌倉公方足利成氏(しげうじ)に仕えていた里見義実(よしざね)が15世紀中頃に上杉勢力下の白浜(南房総市)を制圧してから、10代目の忠義(ただよし)が伯耆国(ほうきのくに)倉吉(鳥取県)へ転封(てんぽう)され、元和(げんな)8年(1622)に没するまでの約170年間房総里見氏は続いた。里見氏に関わる女性たちの歴史や伝承も残され、政治に影響力を持った女性がいたという研究成果も出てきた。嫡流と庶流の政権交代となった天文(てんぶん)の内乱(1533~1534)での義豊(よしとよ)の妻たち/第2次国府台(こうのだい)合戦で夫を失い、菩提を弔う義堯(よしたか)の娘/義頼(よしより)に反乱を起こした正木憲時(のりとき)の弟・頼房(よりふさ)の妻になった義弘(よしひろ)の娘/義頼の妻(義康(よしやす)の母)で孫の忠義の時代には「御隠居様」と呼ばれた初代正木時茂の娘/忠義の妻で忠義の33回忌に高野山に供養塔を建てた江戸時代の老中(ろうじゅう)大久保忠隣(ただちか)の孫娘など、里見氏に関わる13人の里見家の女性を紹介する。

房総里見氏家系図

(1)義豊の妻

(鳥山時貞(とりやまときさだ)の娘)
福生寺・姫塚・南条城跡>

義豊の家臣で南条城主鳥山時貞の娘。天文の内乱で義豊が討ち死にした時に自害した。南条城(館山市)の北側にある石積みは姫塚(ひめづか)と呼ばれ、その墓所だという。彼女の霊を弔うために乳母(めのと)が尼僧となりそこに一溪寺(いっけいじ)を建てた。里見氏から2石の寺領を与えられ、その後寺は福生寺として古茂口(館山市)に移転したという。開基は「福生寺殿一溪妙周大姉(ふくしょうじでんいっけいみょうしゅうだいし)」とされ、歴代住職の墓域にある大きな房州石の五輪塔は、義豊の妻の墓と伝えられる。姫塚から移されたのかもしれない。

(2)義豊の妻「倉女(くらじょ)」

(小倉定光(おぐらさだみつ)の娘)

※一般公開は行っていません。

義豊の妻・倉(くら)は倉女と通称される側室。南房総市和田五十蔵(ごじゅうくら)の小倉家には、倉女の墓といわれる供養塔がある。同家に伝わる『黒滝哀史(あいし)』では、天文3年(1534)の滝田城(南房総市下滝田)落城の際、義豊の子を身籠っていた倉女が、兄の定綱(さだつな)に連れられて五十蔵へ逃れ、男児を出産した。文太丸(ぶんたまる)と名付け、義豊の命令通り定綱の実子と言いふらして養育したという。倉女は産後に病死したと伝えられている。

(3)高田(たかだ)姫と梅田(うめだ)姫(双子)

高田寺・妙蓮寺跡>

二子区に里見家双子の娘の話が伝わっている。安養寺(館山市二子)裏山のさらに北側にあった「二子塚」は、高田姫の塚とか双子の塚と伝わっている。「里見髙田姫和讃(さとみたかだひめわさん)」では、高田姫は17才の時に19才の夫と死別したと唄っている。高田姫供養のため建立された高田寺(館山市安東)の谷奥には、姫の墓と伝わる五輪塔がある。位牌には「高田寺殿花室妙香大姉(こうでんじでんかしつみょうこうだいし)」「天文五年(1536)」没とある。梅田姫は、妙長寺(みょうちょうじ)(館山市二子)南にあった妙蓮寺(みょうれんじ)の開基と伝えられてる。高田姫と梅田姫の名から里見家ゆかりの双子の姫と想像されている。

(4)義堯の娘「種姫(たねひめ)」

(正木大太郎(まさきだいたろう)の妻)
<宝林寺・種林寺>

夫の正木大太郎は永禄7年(1564)の国府台合戦で戦死したという。種姫は22歳で出家し、その年、上総国朝生原(あそうばら)(市原市)に宝林寺(ほうりんじ)を建て亡き夫を弔った。数年後、白浜に種林寺(しゅりんじ)を建てたといい、里見氏から寺領15石を与えられた。現在は廃寺となり、地元の人たちが顕彰碑を建てている。晩年、宝林寺に帰り天正17年(1589)48才で没した。同寺では「ふさ姫」と呼び「宝林寺殿慶州妙安大禅定尼(ほうりんじでんけいしゅうみょうあんだいぜんじょうに)」の位牌と供養塔がある。

(5)義弘の妻

(足利晴氏(あしかがはるうじ)の娘)
<琵琶首館・長泉寺>

義弘の後室。古河公方(こがくぼう)足利晴氏の娘で、梅王丸(うめおうまる)の母。「久栄(きゅうえい)」という印文と大黒天像を配した朱印を使用し、独自の権限を持っていた。元亀4年(1573)の朱印状では、長泉寺(ちょうせんじ)(南房総市富浦町原岡)に対し、乳母(めのと)に与えた土地の管理を命じている。梅王丸が義頼との家督争いに敗れた後、彼女は養老川に囲まれた琵琶首館(びわくびやかた)(市原市田淵)に幽閉され、天正11年(1583)に没したという。

(6)義弘の妻「青岳尼」

(足利義明(あしかがよしあき)の娘)
興禅寺・泉慶院跡>

小弓公方(おゆみくぼう)足利義明の娘で、義弘の前室。一族が天文7年(1538)の国府台合戦で戦死し、里見家に保護された。鎌倉尼五山筆頭(かまくらあまごさんひっとう)の太平寺住職となったが、後に還俗して義弘の妻になった。開基である興禅寺(こうぜんじ)(南房総市富浦町原岡)境内の供養塔には、「智光院殿洪嶽梵長大姉(ちこういんでんこうごくぼんちょうだいし)」と天正4年(1576)の没年がある。慶長年間(1596~1615)の寺領56石余。泉慶院(せんけいいん)跡(館山市上真倉)にも、法名・没年が記載された供養塔がある。この寺は梅王丸を開山に青岳尼が開基し、160石余の破格の寺領が与えられていた。

(7)義弘の娘

(正木頼房の妻)
<心巌寺>

「天秀院殿長譽壽慶大姉(てんしゅういんでんちょうよじゅけいだいし)」は義弘の娘で、義頼の姉妹である。小田喜(おだき)の正木憲時(のりとき)が天正8年(1580)に義頼に反乱したとき、憲時の弟・頼房(道俊(どうしゅん))は金山城(鴨川市)を守備したが、落城後は義頼に従い、後に壽慶(じゅけい)を妻にした。壽慶山心巌寺(鴨川市貝渚)には、夫妻の供養塔(左が壽慶)があり、壽慶を義弘の長女と刻んでいる。壽慶は慶長10年(1605)、道俊は慶長16年(1611)に没している。

(8)義弘の娘「佐与姫(さよひめ)」

<源慶院>

源慶院(げんけいいん)(館山市安布里)の境内の右高台に、佐与姫の供養塔がある。姫の追福のために建立された。「源慶院殿一法貞心大姉(げんけいいんでんいっぽうていしんだいし)」「天正七年(1579)」没と刻まれている。同寺の創建は義弘で、開基は佐与姫とされ、本尊の地蔵菩薩の胎内(たいない)に姫の持仏(じぶつ)があると伝えられている。

(9)義頼の妻「鶴姫」

(北条氏政(ほうじょううじまさ)の娘)
<海禅寺>

天正5年(1577)に義弘は北条氏政と和議を結び、氏政の娘を義頼の正室に迎えた。鶴姫は、相模から持参した「十一面観音立像」を、海上通行の安全を祈って岡本城観音山にお祀りした。鶴姫が亡くなり岡本城も廃城となった後、像が「相模に帰りたい」と海を荒らすため、地元の人が海の見えない海禅寺(かいぜんじ)(南房総市富浦町豊岡)に安置したという。天正7年(1579)没、法名「龍寿院殿秀山芳林大姉(りゅうじゅいんでんしゅうざんほうりんだいし)」。

(10)義頼の妻「御隠居様」

(初代正木時茂の娘)
<長安寺>

鶴姫が嫁す前の義頼の妻で、義康の母である。孫の忠義の時代には「御隠居様」と呼ばれ、里見御一門衆で3番目に多い知行高だった。小田喜正木家の菩提寺である冨川山(ふせんざん)龍雲院長安寺(鴨川市宮山)の中興開基で、同寺は里見氏より115石の寺領を与えられた。慶長15年(1610)に没した御隠居様「龍雲院殿桂窓久昌大姉(りゅううんいんでんけいそうきゅうしょうだいし)」の供養塔が、延宝6年(1678)に建てられている。他にも開基初代時茂の宝篋印塔(ほうきょういんとう)や御隠居様御局(おつぼね)の墓、2代目時茂(義康の弟)の妻の五輪塔と宝篋印塔がある。

(11)義頼の娘

(正木某の妻)
<真楽院>

義頼の娘が正木某に嫁ぎ15才で初産の時、伯母の嫁ぎ先・東条家の医師戸倉玄安(とくらげんあん)が調薬を行ない、光厳寺(南房総市富浦町青木)の禅妙(ぜんみょう)が祈願した安産札と腹帯を与えられ無事に出産したと伝わる。真楽院(館山市上真倉)は玄安が安産守護の三神を勧請(かんじょう)して禅妙が開いた寺である。

(12)忠義の妻「東丸様(ひがしまるさま)」

(大久保忠隣の孫娘)
<高野山>

徳川幕府の有力者で小田原城主大久保忠隣の孫娘。徳川家康の長女亀姫の孫でもある。夫・忠義は慶長19年(1614)倉吉(鳥取県)に国替(くにがえ)を言い渡され、元和8年(1622)この世を去った。彼女は弟・大久保忠職(ただもと)のもとへ身を寄せ、岐阜・明石・唐津の転封先ごとに、忠義の菩提を弔う寺院を建立した。唐津で東丸様と呼ばれていた頃の、忠義33回忌にあたる承応3年(1654)には、高野山奥の院にも供養塔を建立している。その翌年里見家の再興を願いながら56才で没した。法名は「桃源院殿仙應妙寿大姉(とうげんいんでんせんのうみょうじゅだいし)」。墓は唐津の大久保家の墓地にある。その7回忌の万治4年(1661)に、忠職が高野山の忠義父娘とならべて供養塔を建立。博物館に忠義塔の複製がある。

(13)姫宮様(ひめみやさま)

館山市正木の西郷(にしごう)集落の田んぼの畔(あぜ)に、いくつかの中世の石塔がまとまって祀られている。五輪塔や宝篋印塔の一部で、地元では里見氏の姫を葬ったものと伝えられ、姫宮様とよばれている。


作成:ミュージアムサポーター「絵図士」
青木悦子・金久ひろみ・佐藤博秋・佐藤靖子・殿岡崇浩
R4.7.7

監修 館山市立博物館
〒294-0036 館山市館山351-2 ℡.0470-23-5212

7 安房の人びと

川名写真館で撮影された写真には、人物を撮影した写真も数多くあります。これまでに紹介した館山海軍航空隊員の肖像写真や、地域住民の結婚・卒業写真だけでなく、さまざまな行事の記念写真や、川名竹松が身近な人物を撮影した写真もあり、当時の人びとの服装・髪型や表情をうかがうことができます。こうした写真は、文字資料では分からない安房の人びとの生活、労働、娯楽などの風景を現代に伝えてくれます。

安房ゆかりの有名人の姿を撮影した写真もあります。千田村(南房総市千倉町)出身のハリウッドスター早川雪洲(せっしゅう)(1886~1973)が昭和5年(1930)に帰郷した際の写真は、川名竹松が地元の写真師として取材に同行し撮影したことを示しています。また、農商務大臣を務めた政治家で、引退後は安房で過ごした大石正巳(1855~1935)のスナップ写真は、川名竹松との親しさを感じさせます。

111.布良(めら)漁港の船祝い
原品|ガラス乾板 昭和初期

6 安房の風景

明治30年代以降、写真を使った絵はがきが流行し、名所旧跡を写したものや、建築物の竣工記念、国家的な行事や災害から学校の運動会まで、さまざまな絵はがきが各地で発行されました。安房でも多くの絵はがきが作られ、川名写真館も絵はがきを発行しています。

川名写真館に伝わった5,000点以上のガラス乾板や写真の中には、安房の風景・建物や、祭礼などの行事を撮影したものが数多くあります。これらの写真には、(1)絵はがき製作用や芸術写真として撮影したもの、(2)依頼を受けて撮影したもの、(3)自家用として撮影したものなどがありますが、その差は明確ではありません。例えば、川名写真館の地元で行われた館山祭礼の写真は、業務として撮影したのか、自家用なのか判然としません。また、関東大震災の被災状況写真は、絵はがき製作用というだけでなく、歴史的災害の状況を記録しようという川名竹松の医師も感じられます。

こうした写真からは、当時の景観やできごとを視覚的に知るだけではなく、地域における写真館の役割をうかがうこともできます。

6-1 寺院と神社

67.養老寺(館山市洲崎)
原品|ガラス乾板 大正~昭和初期

6-2 建築物と風景

69.乗合自動車安房白浜駅(南房総市白浜町)
原品|ガラス乾板 昭和初期

6-3 祭りのにぎわい

94.館山神社に並ぶ山車と御船(館山市館山)
原品|ガラス乾板 昭和初期

6-4 震災の爪痕

102.関東大震災で被災した下町(館山市館山)
原品|ガラス乾板 大正12年(1923)

5 館山海軍航空隊

関東大震災による隆起により陸続きとなった高ノ島の周辺を埋め立て、昭和5年(1930)6月に館山海軍航空隊が創設されました。軍事施設の存在は、地域の人々の生活に大きな影響を与えていくことになります。

昭和12年(1937)には、館山北条町在住の海軍航空隊出入り商人を会員とする誠納会が組織されています。約50名の会員のうち、写真師は川名写真館と成瀬写真館の2軒のみでした。両写真館は、館山海軍航空隊の施設や訓練風景を撮影し、写真帖や絵はがきなどを発行しています。その一方、東京湾要塞地帯では自由な撮影が制限され、風景写真では背景の加工を行うこともありました。

川名竹松の遺したガラス乾板や写真には、館山海軍航空隊員を撮影したものが数多くあります。戦地に赴いた兵士から、自分の写真を実家に送ってほしいと依頼する手紙もあり、命がけで戦う若者たちが家族に残すための写真を撮影していた様子がうかがえます。

50.館山海軍航空隊演習風景
原品|ガラス乾板 昭和初期
53.海軍航空隊御用看板につき注意
昭和14年(1939)

4 水産講習所

明治30年(1897)に創設された農商務省水産講習所(現東京海洋大学)は、館山湾に2つの実習場を開設しました。このうち館山実習場は明治34年(1901)に仮実習場として開設され、漁業実習や乗船実習が行われました。その後、増築や敷地拡大を進め、現在も東京海洋大学の施設として利用されています。

高島実験場は、水産講習所初めての臨海実験場として明治42年(1909)、高ノ島に開設されました。実験室やふ化室、活州(いけす)、寄宿舎等を備えた施設でしたが、関東大震災により大きな被害を受けています。さらに、隆起して地続きとなった高ノ島周辺に海軍が航空基地を設置することになったため、昭和5年(1930)に小湊(鴨川市)へ移転しました。

川名竹松が遺したガラス乾板や紙焼き写真には、水産講習所の建物や練習船、実習風景を写したものが数多くあり、竹松が水産講習所から依頼を受け、記録写真を撮影していたことが分かります。

44.館山実習場の漁業実習風景
原品|ガラス乾板 大正~昭和初期
46.北下台(ぼっけだい)から見る館山実習場
原品|ガラス乾板 大正

3 写真文化の広がり

明治12年(1879)、日本最初期の写真師下岡蓮杖(れんじょう)に写真術を学んだ旧長尾藩士士族の成瀬又男が、北条町(館山市北条)に成瀬写真館を開業しました。これが安房で最初の写真館といわれています。

大正2年(1913)に川名写真館を創業した川名竹松は、大正10年(1921)に房南好影倶楽部(ぼうなんこうえいくらぶ)という写真愛好会を創設しています。東京と大阪では明治37年(1904)にアマチュア写真家の有力団体が設立されており、その流れが安房にも到来していました。

東京から近く、気候が温暖で保養地や観光地に適しているという特徴も、安房における写真文化の広がりには重要でした。被写体としての風景や名所だけではなく、都会からの文化の流入、みやげ物としての絵はがきの流行などの条件が安房には揃っていました。

川名写真館では、結婚式や葬儀、誕生、卒業など地域の人々の写真も数多く撮影されています。大正から昭和初期には、写真撮影は人生の特別な日に欠かせないものとなっていました。

29.安房高等女学校卒業記念写真(成瀬写真館撮影)
大正4年(1915)
37.宮本写真館で使用したカメラと機材
明治末期~大正
40.房南好影倶楽部当選印画集
大正11年(1922)

2 川名写真館ヒストリー

東京の浅沼商会で経験を積んだ後に帰郷した川名竹松は、大正2年(1913)、館山町の新井に川名写真館を開業しました。この年には横山コウと結婚しています。

大正12年(1923)の関東大震災により、館山町は全戸数の8割以上が全壊する大きな被害を受けましたが、川名写真館の建物は倒壊せず、開店当初の建物が近年の閉店まで残っていました。

地域の写真館として、住民の冠婚葬祭を撮影する一方、戦前には館山海軍航空隊の出入り写真師を務めています。また、水産講習所などの学校の写真も多く撮影しています。

竹松・コウ夫妻には男子3名、女子6名がいました。このうち次男の延二郎は、昭和20年(1945)にフィリピンで戦死しています。

昭和28年(1953)、県内の写真館で働いていた飯塚芳男が四女弘子の婿となり、2代目となります。夫妻の間には、後の3代目となる長男俊明が生まれました。平成に入り、川名写真館は約90年の歴史を閉じましたが、貴重な写真の一部は当館に寄贈されました。

21.川名写真館前の家族
原品|ガラス乾板 昭和初期
25.戦後の川名写真機店
原品|シートフィルム 昭和30年(1955)頃

1 川名竹松と浅沼商会

川名写真館の創業者川名竹松は、明治22年(1889)に豊津村沼(館山市沼)に生まれました。青年時代に東京に出た竹松は、日本橋の写真材料店浅沼商会に勤務し、販売部門を担当しています。また勤務の傍ら、同僚との交流や観劇などを楽しみました。

明治4年(1871)創業の浅沼商会は、滝口村(南房総市白浜町)出身の浅沼藤吉(1852~1929)が開いた写真材料店です。日本で最初の写真材料専門店といわれ、現在も営業しています。明治7年(1874)には日本最古の写真雑誌『脱影夜話』の発行を開始、その後出版部を設け、写真技術の解説書を発行するなど、写真知識の普及にも努めました。

浅沼藤吉の妻けいは、竹松実家近くの商家富留宮(ふるみや)家の出身で、娘も富留宮家に嫁いでいます。娘の夫である富留宮直亮(なおすけ)は、浅沼商会の大阪支店長や専務を務めました。また、浅沼家の別荘が館山にあり、藤吉は大正13年(1924)から亡くなる直前まで暮らしています。

3.川名竹松写真アルバム
明治後期~大正
右から
6.芦野敬三郎編『いろは引写真薬局』 明治40年(1907)
7.石川巌『増補三版写真薬功用略解』 明治29年(1896)
8.原田種道『写真光線法』 明治44年(1911)