投稿者: kanri_history
「賀茂神社<丸山>」の文化財マップを公開しました
賀茂神社<丸山>
賀茂神社の概要
(南房総市加茂2070)
賀茂神社の祭神は賀茂別雷命(わけいかづちのみこと)です。縁起によると、村の杉山に夜な夜な光を発するものがあり、村長(むらおさ)の夢に現れた賀茂の神は五穀豊穣を守ると告げました。その場所に行くと3寸ほどの神像があったので、和銅5年(712)8月2日に宮を造営して祀ったのがはじまりです。翌年6〜7月の大旱魃(かんばつ)で祭神に祈願すると大雨が田を潤し、村人は乱舞して感謝しました。それが8月1・2日の「加茂の八朔(はっさく)」で奉納される三番叟や花踊りの起源とされ、県指定文化財・国の記録選択文化財になっています。「加茂の三番叟(さんばそう)」(県指定名称)は囃子方(はやしかた)や後見(こうけん)に少年が加わるのが特徴で、「加茂の花踊り」は室町時代の小唄踊りの芸態も残していると考えられています。境内には仮設舞台の礎石が並んでいます。
里見氏より3石の御朱印を賜り、江戸幕府にも安堵(あんど)されました。参道は北条藩用人川井藤左衛門(?~1712)の財政再建策で農地にされましたが、安永5年(1776)に幅1間の参道、慶応元年(1865)にも土地が寄付され、現在の参道ができました。かつては日運寺が別当として管理していましたが、明治時代以降は莫越山(なこしやま)神社が兼務しました。明治45年(1912)に賀茂村草分(くさわけ)18社が合祀されました。大晦日の夜には、歳神様を迎え、集落を浄め吉方を占い無病息災を祈る市指定文化財の大火祭(おおびまつり)が行われています。
(1)一の鳥居
鳥居は2本の横木(笠木(かさぎ)と貫(ぬき))が一般的だが、一の鳥居には貫がない。農耕用の牛馬を通すために鳥居ではないとするため貫をとったと伝わる。一の鳥居は、昭和8年(1933)に当地と近隣の3名により寄進され、平成4年(1992)に例祭日の8月1日に修復された。横木中央に賀茂神社の神紋が付けられている。
(2)御神水
御神水は湧き水で、祭典の前に宮司や白装束の氏子たちが身を清めてから境内に入る。御神水の周囲は平成13年(2001)8月に氏子一同により改造された。
(3)加茂耕地整理完了碑
関東大震災の被害復旧や導水路新設のため、元豊田村村長亀田庫吉らが奔走し、大正13年(1924)に加茂耕地整理組合の認可を得た。目的を達成し昭和12年(1937)に組合を解散したが、農地の高度利用化を目指して昭和17年(1942)に第2次の組合を発足させ、昭和24年(1949)に目的を達成した。それを顕彰した碑である。
(4)燈籠
発願主西田新左衛門、村役人小嶌太右衛門他3名、世話人鈴木源兵衛他12名、別当日運寺の住職、当村亀田文四良・鈴木五兵衛・氏子中により五穀豊穣・国家安全を願い文政6年(1823)に奉納された。石工は長須賀村(館山市)の鈴木伊三良で基壇に獅子の彫刻がある。同時期に造られた石段願主は鈴木五兵衛。
(5)日露戦争記念碑
日露戦争〔明治37年(1904)2月~明治38年(1905)9月〕に加茂からも18名が従軍し、内3名が戦死した。この未曾有の大事を後世に伝えようと、明治39年(1906)豊田村加茂の青年達が建立した。撰文は谷向(やむかい)の鱸(すずき)元豪。題・書は、後の豊田村村長の亀田庫吉。石工は西田兼治郎。背面に戦役従軍者氏名が刻まれている。
(6)燈籠
安政3年(1856)8月、若者中により建立。全体の高さはおよそ215cm。塔身に神前に奉献と書かれている。6角形の基壇の正面は巴紋、他の面にはそれぞれ輪宝・卍・格子などの紋様が彫られている。石工は北朝日南村(南房総市千倉)の人。
(7)手水石
境内右側の手水石は文化14年(1817)8月とあり、「賀茂の八朔」で奉納されたものと思われる。左右側面には願主3名・世話人5名の名、裏面には氏子29名の名が刻まれ、氏子衆によって奉納された。石工は東都深川(東京都江東区)住の霜嵜長兵衛。
(8)神饌所竣工記念碑
本殿右側にある神饌所が竣工した記念碑。神饌所と神輿庫は平成19年(2007)、宮司はじめ役員16人と氏子一同によって再建された。
(9)本殿復元修理寄進者芳名碑
本殿は中世末期の建築様式を示す建造物として、昭和42年(1967)に県の文化財に指定された。創建時の姿に復元したことを記念し、昭和46年(1971)に碑を建立した。題字は京都市上賀茂神社宮司の井出岩多(いわた)の書。県・丸山町・国会議員・町議会議員・地元住民などの寄付金は550万円以上になる。
(10)鳥居建立記念碑
二の鳥居を平成元年の修理後、平成11年に再建した時の記念碑。宮司齋東進・総代4名・祭世話人4名・氏子一同・材木寄進者・大工棟梁・区長・区長代理の氏名が刻まれている。二の鳥居は柱の前後の稚児柱が特徴の両部鳥居。
(11)狛犬
総高約2mの狛犬は、慶応元年(1865)に川上四兵衞が願主となり、世話人など9名のもと若者中が奉納した。別当として、日運寺24世日翁が関わっている。石工は、那古村(館山市)の岩崎由兵衛と加茂村の小芝半兵衛。
(12)竣工記念碑
平成元年(1989)に、神社社殿の屋根葺替えと、二の鳥居の修復を行った。平成2年(1990)に修復委員・奉納者名・工事費を記して建立した碑。
(13)社殿
覆屋(おおいや)内の本殿は、昭和46年(1971)に解体修理された中世末期の建造物である。天正2年(1574)とする伝承もある。他の社殿は大正12年(1923)の関東大震災後に再建され、扉や屋根には賀茂神社の神紋二葉葵(ふたばあおい)が配されている。拝殿の扁額は元長尾藩士で書家の熊澤直見(なおみ)の書。
(14)二葉葵の植栽場と平成御大典記念碑
記念碑には、「京都賀茂神社の五月の葵祭には社殿はじめことごとく二葉葵で飾るという。当神社もこの御神徳を慕い、京都より移植した。」とある。現在の二葉葵は、平成2年(1990)に「平成の御大典」を記念してこの場所に移植したもの。
(15)桂の木
京都の葵祭で二葉葵と桂の葉を髪飾りにすることから、平成9年(1997)3月に氏子中で植栽した。
作成:ミュージアムサポーター「絵図士」
青木悦子・岡田晃司・金久ひろみ・佐藤博秋・佐藤靖子・殿岡崇浩(2025.3.31)
監修 館山市立博物館 〒294-0036 館山市館山351-2 TEL 0470-23-5212
「資生堂創業者 福原有信と館山」を公開しました
奥付
展示図録No.33
令和6年度
没後100年記念展
「資生堂創業者 福原有信と館山」
令和7年2月1日発行
編集・発行
館山市立博物館
千葉県館山市館山351-2 城山公園内
印刷・製本
有限会社クォーク
4 福原家と館山の交流
福原有信は青年時代に故郷の松岡を離れましたが、その後も安房地域と交流を重ねています。
有信・徳夫妻の長女とりは、明治24年(1891)に館山病院を創業した川名博夫と結婚しました。この関係により、福原家は関東大震災で被災した館山病院の再建を支援したと言われています。また、地元出身の実業家として、安房地域最初の銀行である安房銀行の創業にも関わりました。この他、学校用備品の寄贈や選挙応援など、有信と安房地域との交流が確認できます。
明治42年(1909)、福原家は菩提寺を松岡の正見院から、館山市大神宮の遍智院(小塚大師)に移しました。これを記念して奉納した幕が現在も残っています。
また出身地の鎮守(ちんじゅ)である松岡八幡宮には、明治44年に鳥居を奉納しており、現在も建つ鳥居に有信の名が刻まれています。松岡地区では現在も、創業者の出身地という縁により交流が続いています。

明治40年(1907)11月29日 館山市立博物館所蔵

大正13年(1924) 館山市立博物館所蔵
3 資生堂創業
明治5年(1872)に海軍病院を辞職した福原有信は、矢野義徹・前田清則とともに「三精社」を興し、薬舗事業を行うことを決意します。この計画はすぐに実現し、同年6月、有信は東京新橋出雲町(現銀座7丁目)に日本初の民間洋風調剤薬局を開業します。さらに8月には、軍医頭の松本良順と三精社との共同経営により、東京本町1丁目に西洋薬舗会社「資生堂」を開業しました(のちに売却)。これにより、出雲町の調剤薬局も「資生堂」を称していきます。
調剤薬局の資生堂では、明治11年(1878)から売薬・製造販売も行うようになりました。なかでも明治21年(1888)に発売した日本初の練り歯磨「福原衛生歯磨石鹸」は評判となりました。さらに明治30年(1897)には化粧品事業に進出し、西洋薬学の処方による化粧水「オイデルミン」を発売しました。
この他、明治21年には創立者の1人として帝国生命保険会社(現・朝日生命保険相互会社)の創業に関わり、その後、社長として長年経営を主導しました。

文化9年(1812) 館山市立博物館所蔵
2 医学所から病院勤務へ
元治元年(1864)、有信は17歳で江戸に出て医者の織田研斎に入門しました。織田研斎のもとには、文久元年(1861)に兄の陵斎が入門していましたが、前年に病気で亡くなっていました。
その後、有信は慶応3年(1867)から江戸幕府の医学所に雇(やとい)として勤務します。医学所は安政5年(1858)開設された種痘所(しゅとうじょ)を前身とする西洋医学の教育機関で、有信はここで、医学所頭取を務める松本良順に出会います。松本良順はのちに陸軍の軍医頭(ぐんいのかみ)となり、西洋薬舗会社「資生堂」の創業を支援しました。
明治元年(1868)から東京大病院に勤務した有信は、翌年、中司薬に任命されます。この頃に出会った矢野義徹と前田清則とは生涯、親交を深めました。
明治4年(1871)、有信は兵部省に出仕し、海軍病院に勤務します。海軍病院では薬局長を務めましたが、翌年、病気を理由に辞職しています。この背景には、盟友の矢野・前田とともに描いた新事業の構想がありました。
1 福原家と松岡村
福原有信は、嘉永元年(1848)4月8日に安房国安房郡松岡村(現館山市竜岡)に生まれました。福原家は、戦国時代に安房国(千葉県南部)を支配した里見氏の家臣の家柄と伝えられ、代々、松岡村の名主を務めてました。有信の父、市左衛門(有琳)も名主であり、祖父の有斎は名主と医者を兼ねていました。また、母の伊佐は、里見氏の一族を祖先に持つ安房郡明石村(現南房総市明石)の豊岡家の出身です。
松岡村は、江戸時代後期の家数23軒、村高138石という小規模な村でした。ここで生まれた有信は、医者である祖父や漢学を好んだ父の影響を受けて成長します。
松岡村には、かつて正見院(しょうけんいん)という真言宗の寺院があり、そこが福原家の菩提寺でした。正見院跡地の隣に建つ八幡宮には、江戸時代に社殿や鳥居を建立・再建した際の棟札(むなふだ)が伝わっており、発願主として福原家の名を見ることができます。その後、明治42年(1909)には、菩提寺を館山市大神宮の遍智院(へんちいん)(小塚大師)に移しています。


昭和5年(1930) 館山市立博物館所蔵
0 資生堂創業者 福原有信
現在、世界的な企業となっている株式会社資生堂の歴史は、明治5年(1872)に福原有信が創業した日本初の洋風調剤薬局に始まります。この福原有信が、実は館山の出身であることをご存じでしょうか。
有信は、嘉永元年(1848)に安房国安房郡松岡村(現館山市竜岡)に生まれました。その後、江戸で医学を学び、幕府医学所に勤務します。明治維新後は東京大病院・大学東校・海軍病院に勤務し、薬学を専門としました。
こうした経験をもとに、有信は西洋で行われていた医薬分業の実践と、薬品の品質向上を志します。協力者を得た有信は、資生堂創業によってその実現を目指しました。また、帝国生命保険会社(現・朝日生命保険相互会社)や大日本製薬会社の創業にも関わりました。
福原有信は、私たちにとって郷土の偉人であるとともに、近代日本の医学・薬学分野にとどまらず、産業界に大きな功績を残した人物と言うことができます。

昭和41年(1966) 館山市立博物館所蔵