展示図録No.31
令和4年度企画展
「供養する人々」
令和5年2月4日発行
編集・発行
館山市立博物館
千葉県館山市館山351-2 城山公園内
印刷・製本
有限会社クォーク
千葉県館山市船形297-58
展示図録No.31
令和4年度企画展
「供養する人々」
令和5年2月4日発行
編集・発行
館山市立博物館
千葉県館山市館山351-2 城山公園内
印刷・製本
有限会社クォーク
千葉県館山市船形297-58
近年、葬儀の場は自宅から葬儀場へと移り変わっています。さらに令和2年(2019)から流行した感染症の影響で、家族のみで行う小規模な葬儀も増加しました。これまでにも葬儀や供養のやり方は政治的な規則や簡素化などの自主規制のなかで変わってきました。職場や家族構成、住居の都合から供養に関する行事は簡略化され、時には中止されることもあります。
しかし、死者への弔いが全く行われなくなったわけではありません。コロナ禍に対応した家族葬やペット葬など新しい供養のかたちも登場しています。これまでも人々は時代の変化とともに地域の風習を取り入れながら新しい葬儀や供養のやり方をつくりあげてきました。今後も供養は人々の暮らしの変化とともに変わりながら行われていくことでしょう。
85.安房郡矯風規約
大正13年(1924) 当館蔵(真田家文書)
葬儀の後も、死者への弔いは続き、四十九日をはじめ十三回忌、三十三回忌、五十回忌などの法要を弔い上げまで長い年月をかけて行ってきました。
お盆には、仏壇やお墓を飾り、団子などの供え物を供え、新盆(しんぼん)の絵では高灯籠を建て、提灯や切子灯籠を吊るします。迎え火と送り火は死者をあの世から迎え、再び送り出す風習です。館山市から南房総市や鋸南町にかけては「やんごめくいくい」といえば迎え火と送り火の時に唱える文句で、行事そのものを指す言葉として広く知られています。
六地蔵や十三仏の巡礼もまた、祖霊の供養のための行事です。お彼岸や年忌供養などさまざまな行事で人々は集まり、葬儀にも使用した鉦を叩きながら「お念仏」を唱えました。
70.百万遍念仏数珠・鉦・鐘木
大正時代~昭和後期 当館蔵
死者は次の生まれ変わり先が決まるまでに、死出の山を越え、三途の川を渡り、十王の裁判を受けると考えられていました。初七日から七日ごとに裁判を受け、生前の行いにより六道(天道・人道・阿修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道)のどの世界に転生するかが決まるとする考え方です。六道や十王の姿は絵に描かれ、それを見た人々は、地獄を恐れ、あの世の世界を想像して、十王や十王の1人である閻魔王(閻魔様)を祀りました。
また、十三仏信仰が盛んになり、追善供養を司る十三仏の姿が描かれました。なかでもお地蔵様は地獄からの救済者として盛んに信仰されてきました。
56.川名楽山「十三仏図」(部分)
明治15年(1882) 当館蔵
戦争による死者は「勇士」や「英霊」と呼ばれ、手厚く弔われました。戦争は国家事業のため、戦病死者の弔いは町村をあげて行われています。大日本国防婦人会館山北條町分会の昭和11年度事業報告には、郷社八幡神社で出征者の武運長久を祈ったり、休除隊者を駅へ迎えいに行くといった活動の他に、館山海軍航空隊で行われた慰霊祭に参加したり、遺骨を駅へ迎えに行ったり、合同葬儀に参列するなど館山北條町出身者のための活動が記されています。
合同葬儀は北条尋常高等小学校や館山尋常高等小学校などの学校の講堂で行われました。当時の写真や葬儀次第書によると合同葬儀には遺族・親族だけでなく、区長・来賓・在郷軍人会・愛国婦人会・国防婦人会・町婦人会・消防組・青年団・消防団・日本赤十字社員、市内の各学校といった多くの人が参列しました。
44.戦死者合同葬儀写真
昭和13年(1938) 当館蔵(館山北條町アルバム内)
死後の一連の儀式は旅にでるかのような風習が多くみられます。死者には経帷子(きょうかたびら)・頭陀袋(ずだぶくろ)・手甲(てこう)・脚絆(きゃはん)・足袋(たび)といった衣装を着せ、棺には三途(さんず)の川の渡し賃である六文銭や草鞋(わらじ)や金剛杖を入れます。まさにあの世への旅立ちの準備といえるでしょう。
約40年前まで行われていた葬送行列は「野辺(のべ)送り」と言い、鉦(かね)を叩き、旗や花を持ち、輿(こし)を担ぎ、写真や位牌を持つ数十人の人々から成る葬送行列です。墓地へと向かう行列ですが、この世からあの世へと死者を送る儀式と考えられていました。
こういった昔の葬儀は、村の中にある台、組、講などの組織が手伝って行われました。大正時代の記録には、今では見られない喪服や門牌(もんぱい)、花篭といった風習について書かれています。大正14年(1925)に高山恒三郎によって書かれた記録と、昭和初期から中期にかけて撮影された葬儀の写真を中心に、かつて安房地方で行われていた葬儀の様子をご紹介します。また、お寺やお堂に残された輿や鉦など葬儀に関連する道具をご紹介します。
11.叩き鉦(たたきがね)・鐘木(しゅもく)
明治18年 当館蔵
25.輿
昭和40年(1965)頃 当館蔵
人は亡くなるとお墓に埋葬されますが、お墓のかたちにはさまざまなものがあります。
安房地域では、古墳時代末期の横穴墓や鎌倉時代中期から南北朝時代にかけてつくられた武士の墓である「やぐら」のように山の中腹を穿った墓が特徴的です。墓か供養塔かは不明ですが、安東の千手院の「やぐら」の上には南北朝期の宝篋印塔が建っています。
現在は、石でできた家族単位の墓がよくみられますが、かつては土を盛っただけの墓や個人や夫婦の墓石もありました。江戸時代の村絵図には、土を盛りそこに塔婆をさした「土饅頭」が墓地を示す記号として描かれています。現在は火葬が主流でお墓にはお骨を納めますが、かつては多くの地域で土葬が行われており、穴掘りが掘った穴に座棺で埋葬されていました。
1.合口壺棺
弥生時代 当館蔵
安房地域では40年ほど前から葬儀の場が自宅から葬儀場へと移り変わってきました。近年では、令和2年2月頃から流行した新型コロナウイルス感染症の影響で、家族のみで行う小規模な葬儀も増加しています。
また、甚大な被害をもたらした令和元年房総半島台風の発生から3年が経過し、建物の取り壊しや建て替えに伴い、高齢者の市外への移住や使われなくなった昔の道具を廃棄する動きが急速に進んでいます。
さまざまな地域の行事が大きく変わる中、これまで取り上げられることのなかった「供養する人々」に焦点をあて、葬式、盆行事、年忌供養など、死者を弔うために人々が行ってきた供養に関わる資料をご紹介します。
供養に関する行事や風習についての古文書、写真、使用した道具は残りにくいため、今回ご紹介する資料は房州の供養を語る一部に過ぎませんが、本展覧会が地域の歴史を再発見するきっかけになれば幸いです。
最後になりましたが、本展覧会の開催にあたり多くの方々よりさまざまな情報のご提供と、貴重な資料のご出品をいただきました。ご協力を賜りました皆様に厚く御礼申し上げます。
令和5年2月4日
館山市立博物館
館長 三浦 太郎
※この図録は一部抜粋した内容を公開しているため、目次の見出しのみとなっているページが多数ございます。ご了承ください。
令和4年度企画展
供養する人々
館山市立博物館
【表紙・裏表紙写真】
葬列写真(白浜)
昭和17年(1942) 当館蔵
※この図録は一部抜粋した内容のみを公開しています。