投稿者: kanri_history
高井・上野原
古い砂丘列の上に作られ古墳時代から人々が生活した集落の寺社や文化財を訪ねてみよう。
高井(たかい)
砂丘列の北部に位置する集落。宮作(みやさく)・宿内(しゅくうち)には土師器の散布する古墳時代の遺跡が残る。江戸初期の里見氏治世下では、使番の岡本右馬之助、百人衆之頭の安西中務、奏者の梅田与九郎が知行した。江戸初期の村高は491石余、明治元年(1868)の村高は397石余。また、江戸時代に平久里川の旧河道を開墾して成立した古川新田は独立した村であったが、明治3年(1870)に高井村と合併した。明治元年の石高は148石余。高井のうち滝川と平久里川の間の地域は桑原と称され、天保頃には家数8軒の桑原村とも記されている。
(1)高皇産霊神社(たかみむすびじんじゃ)
高皇産霊神を祀る高井の鎮守。砂丘の北端に位置している。火災により文書は焼失したため神社の創立年代は不明。境内には嘉永2年(1849)に氏子中が奉納した石灯籠が残る。石工は館山楠見の長左衛門。社殿前の狛犬は、大正14年(1925)に地元の大工である高木久平が82才を記念して奉納した。石工は長須賀の吉田亀石。明治初期に莫越山神社の口添えにより八幡の祭礼に参加するようになった。桑原にあった天神社を合祀している。
(2)石宮群(いしみやぐん)
町内から集められた石宮が高皇産霊神社の境内入口に残る。7基の石宮は、山王様・山の神様・ろくしょう様・権現様・古峰神社・金毘羅大権現・弁天様である。金毘羅大権現は文久4年(1864)に講中により建立された。古峯神社は明治期以降の造立と思われる。石宮の前にある手水鉢は文政9年(1836)に新蔵ら4名により奉納された。
(3)善浄寺(ぜんじょうじ)
真言宗の寺院で、山号は無量山。小網寺の末寺で高皇産霊神社の別当寺であったと思われる。寺の創建年代は不明だが、延宝3年(1675)の記録に「高井村善浄寺」と記されている。本尊は鎌倉末から南北朝期頃の木造地蔵菩薩立像。頭部は後補である。他に室町時代と推定される木造如来立像や江戸時代の木像不動明王立像、木造弘法大師坐像、木造興教大師坐像が安置されている。弘法大師巡礼安房国八十八か所の22番霊場の御詠歌額は元文元年(1736)白浜根本の智圓が願主として奉納した。金剛宥性が明治5年(1872)に開いた安房国百八か所地蔵巡りの107番札所の御詠歌額は初代後藤義光の作である。
(4)砂丘列(さきゅうれつ)
館山平野は砂丘の上に集落が作られたため、海岸に並行して集落が形成されている。古い集落は周囲よりもやや高く中央に南北の道が貫いている。海岸に砂が吹き寄せて丘が形成された後に、地震によって土地が隆起して海岸線が後退することを繰り返していくつもの列が形成された。安布里から上野原・高井・正木にかけての砂丘列は、4,350年前に陸地になった場所で、現在の海抜は16~21mである。
(5)共同墓地(きょうどうぼち)
月除(つきよけ)の共同墓地。敷地内には小宮氏や村中によって江戸末期に建てられた青面金剛碑が残る。天明6年(1786)の大日如来の真言が刻まれた碑は基壇上段に小宮・川上、基壇下段(別物か)に8人の名とともに享和2年(1802)が記されている。他に寛政6年(1794)の廻国供養塔が残る。また、関東大震災で亡くなった親子を供養する碑が、昭和2年(1927)に千葉県師範学校の同級生有志によって建立された。
(6)三山碑(さんざんひ)
(5)の共同墓地の中に三山碑が並ぶ。出羽三山の登拝記念に建てられたもので碑と基壇の時期が異なる。文政6年(1823)(基壇は昭和14年(1939)・昭和30年(1955))・天保14年(1843)(基壇は明治10年(1877)・昭和9年(1934)・昭和43年(1968))・文化4年(1807)(基壇は明治30年(1897)・明治39年(1906))の碑。正徳4年(1714)・享保8年(1723)・宝暦8年(1758)の大日如来の姿や真言が彫られた碑も並ぶ。
(7)薬師堂(やくしどう)
江戸時代の木造菩薩立像が祀られているが、菩薩像は子どもを抱くような姿をしており子安観音とする説もある。他に江戸時代の木造十二神将立像7躯が安置されている。また、敷地内に中世の五輪塔の断石が散在する。文政9年(1826)の頂部が山型となった廻国供養塔は、前年に死亡した備中上房郡の法師道順・智順法尼の供養塔と考えられ、基壇に高井村世話人の小瀧久右衛門、信州善光寺の教随、廻国世話人の常州源兵衛・筑後重造・尾州多造ら全国の関係者の名が記されている。文化4年(1807)の廻国供養塔は、和歌山出身の食譽邦山法師と心月恵性法師による釈了西・釈妙心の供養塔と考えられ、上部に如意輪観音坐像、下部に円形の光明真言陀羅尼24字と十字の大日如来の真言を記す。また、敷地内に幕末の医師・高木抑斎(1877年没、64才)の墓が残る。高木家は高井村で代々医者をつとめたイシャドン。抑斎は蘭方医学を学び、北条に陣屋を置いた岡山藩や近江三上藩から侍医の誘いがあったが断ったという。漢詩人としても知られ近隣の医師・名主や来遊する江戸の文人と交流した。
(8)マキの生垣(まきのいけがき)
道路沿いの家々が高さのあるマキ(イヌマキ)の生垣で囲まれている。イヌマキは千葉県の県木で、南房総の温暖な気候に適した潮風に強い常緑樹である。マキの生垣は防風・防砂・防潮や防寒・防暑、さらに防火・防音といった効果を期待して作られた。
(9)機関庫用貯水池(きかんこようちょすいいけ)
機関庫用の貯水庫。蒸気機関車は石炭を燃やして水を沸騰させ、発生した蒸気の力を動力としたため、蒸気機関車を動かすためには大量の水を確保する必要があった。安房北条駅(現館山駅)は大正8年(1919)開業。この地は館山駅から約3km離れている。付近の地中からは駅へ水を送るためのレンガ造りの水管が出土している。
北条正木(ほうじょうまさき)
(10)桑原の堂(くわばらのどう)
明治22年(1889)の合併は平久里川を境界としたため、正木村の下ノ原(しものはら)と天神台(てんじんだい)は北条町に合併された。天神台には桑原という地名がありかつては天神社があった。堂付近に日月を彫った石祠が安置されている。境内には江戸中期以降と思われる大日如来の碑が残る。
上野原(うえのはら)
砂丘列上の農業地域で、江戸時代初期は里見氏の直接支配地の北条村の一部だった。寛永16年(1639)に北条村の枝村として成立したといわれ、享保12年(1727)頃に上野原村の名が確認できる。「上ノ原」とも書くことから北条村の内陸部(上手)の原を意味する名と考えられる。明治元年頃に正式に分村した。村高192石余。
(11)獣魂碑(じゅうこんひ)
食用の動物を供養するために建てられた碑。昭和7年(1932)3月21日に北条屠畜主の藤平孝一、代理人藤平完爾、松下三之助によって建立された。大正11年(1922)の「北条館山市街図」にはこの付近に屠殺場と家畜市場があったと記されている。
(12)薬師堂(やくしどう)
本尊は江戸時代の木造薬師如来立像である。他に江戸時代の木造阿弥陀如来坐像や安政5年(1858)に上野原村の人々が奉納した鏧子(きんす)が伝わる。境内には昭和28年(1953)に建立された大東亜戦争戦没者之碑が残る。また、天保2年(1831)・文政年間など4つの馬頭観音が集められている。入口には天保15年(1844)の地蔵菩薩像が残る。
(13)天神社(てんじんじゃ)
天神様を祀る上野原の鎮守。大正11年(1922)の「北条館山市街図」には「菅原社」と記されている。現在は、鶴谷八幡宮と同じ日に祭礼を行い「総社御祭礼」と染め抜かれた幟を掲げる。鳥居は昭和51年(1976)7月竣工。狛犬と水屋は平成16年(2004)10月に奉納された。手水鉢は文化5年(1808)8月に上野原出身の即道によって奉納されたものである。本殿裏には不動院と記された小祠が残る。
館山市立博物館(2024.11.10作成)
千葉県館山市館山351-2
TEL 0470-23-5212
城山公園
城山公園の概要
城山公園は「城山」とよばれている独立丘陵で、天正19年(1591)に里見9代義康(よしやす)が岡本城(南房総市富浦町)から移転し、慶長19年(1614)、徳川幕府により10代忠義が伯耆国(ほうきのくに)倉吉(鳥取県)へ転封(てんぽう)されるまで里見氏の居城でした。その間、城域や城下町が整備拡大され、現在の館山市の基礎ができました。里見氏改易後、幕府は安房国の検地を行い、旗本や小大名に分割しました。天明元年(1781)に旗本稲葉正明(まさあきら)が1万石の大名になり館山藩をたて、寛政3年(1791)に2代正武(まさたけ)が城山南東に陣屋を築きました。城跡は、江戸時代には畑や林、明治時代には枇杷(びわ)山、昭和10年(1935)頃からは砲台などの軍事施設に利用され、山頂は7m程削られ66mになりました。昭和24年(1949)には公園化計画が決定されました。昭和57年(1982)に模擬天守が建設され、『南総里見八犬伝』を紹介する博物館になっています。現在は、市民や観光客の憩(いこ)いの場となっています。
(1)館山城跡碑
天守閣の建設を望む市民が募金活動を行い、昭和57年(1982)に設置。題は千葉県知事沼田武、漢詩の書は歌舞伎役者尾上菊五郎。裏面に寄付者の名が多数刻まれている。
(2)鹿島堀跡
里見義康の時代に水堀を構築したが、後に徳川幕府により埋め戻された。主に鹿島の領民が働いたことからこの名がついたといわれる。
(3)利田(かがた)正男歌碑
昭和52年(1977)の歌会始「お題“海”」で佳作となった地元歌人利田正男の歌碑。昭和63年(1988)9月に安房(あわ)青垣会(せいえんかい)が碑を建立した。
(4)切岸(きりぎし)
義康の時代に城の防御力強化のため、城の周囲を垂直な崖(切岸)にした。今は草木に覆われているが、一部ではよく見ることができる。
(5)海軍用地標柱
城山に海軍の施設を造るため、民有地との境界に建てたコンクリート製の標柱で、番号が記されている。現在、確認できるのは6基である。
(6)彫刻の径(みち)
昭和58年(1983)、博物館に通じる道に新進気鋭の若手作家を中心に彫刻が設置され「彫刻の径」と命名された。後に城山のシンボル「光と風と夢」が設置されて文化の香りを醸し出している。
(7)公園道路
四季の丘へ向かう道は、昭和10年(1935)ごろ城山に軍事施設が建設された際、海軍軍用道路として新設された。日本庭園へ向かう道は、昭和36年(1961)に公園道路として新たに整備された。
(8)新御殿跡
城内では千畳敷(せんじょうじき)と並ぶ大きな曲輪(くるわ)で約千坪あるといわれ、里見忠義の御殿があったと推定されている。戦争中は海軍の施設があり、軍用の洞窟が残されている。戦後は館山幼稚園があったが移転し、昭和43年(1968)から令和2年(2020)までは孔雀園があった。現在は四季の丘。
(9)八坂神社跡と旧登城路
上須賀(うえすか)の八坂神社は大正12年(1923)の関東大震災で倒壊後、近隣地区の神社と合祀(ごうし)して館山神社(大正14年(1925)創建)になった。八坂神社参道、階段、頂上へ続く細い道が、城山北西部からの旧登城路である。
(10)はらからの碑
昭和39年(1964)に25歳で早世した館山生まれの歌人神作(かんさく)磯二を偲んで弟の浜治が建立した。磯二の歌を見た歌人佐佐木信綱が、北条で療養していた弟印東昌綱を思い出して詠んだ歌と、磯二の歌が並べて彫られている。信綱の歌にちなんで「はらからの碑」と名づけられた。
(11)里見節詩碑
10代約170年続いた里見氏の武勇と南総里見八犬伝のロマンを歌い上げた里見節の碑で、昭和57年(1982)に建立された。明治35年(1902)館山生まれで、名誉市民でもある小高熹郎(おだかとしろう)の作詞である。
(12)里見ノ城跡碑と千力猿の像
碑は昭和46年(1971)、房総里見会により里見家の供養のため建立された。千力猿の像は、里見家に怪力を誇る猿が飼われていたが、猿使いの留守に城攻めにあい、城もろとも火に包まれたという地元民話にちなむ。
(13)浅間神社と小御嶽の碑
城山を富士山に見立て、上須賀の浅間神社を祀った。社には後藤義信の彫刻や渡辺雲洋が描いた龍の天井絵がある。小御嶽の碑は富士講中により奉納された。毎年6月30日に祭典が行われる。
(14)石積
戦前からある石積は山頂と千畳敷の境に積まれ、海軍の作った階段で左右に区切られている。ほとんどが房州石で、石積の高さは1m~2m、長さは約100mあったという。現在は大部分が埋もれている。
(15)弾薬庫跡
砲弾に火薬と弾頭を装着した状態で保管していた場所。岩をくり貫(ぬ)きコンクリートで補強し、内部には排気口が数カ所ある。入口の当時のランプは飛散防止仕様になっている。
(16)千畳敷(せんじょうじき)
頂上の南面下に位置する館山城で随一の広場で、里見氏の役所として使われる様々な施設があったと推定される。現在は茶室を含む日本庭園があり、その東側から「はらからの碑」のあたりまでを千畳敷という。
(17)伝遠見櫓跡
遠見櫓とは監視や警戒のために設けられた物見の櫓のこと。はっきりとした場所はわからないが、里見時代の遠見櫓と呼ばれていた台地が千畳敷にあったと伝承されている。
(18)機関銃座跡
第二次世界大戦中に自動装填(じどうそうてん)の機関銃を備えた跡である。自動的に装填するメカニズムは、現在、ホッチキスに応用されている。
(19)煙硝倉跡(えんしょうぐらあと)
館山藩の陣屋が置かれていた時代に造られたもので、崖の岩をL字型にくり貫いて造られている。「おえんしょぐら」と呼ばれていた。
(20)義康御殿跡
梅園下の南向きの低平地は里見義康の御殿があったと考えられている。発掘調査の結果、遺構として5間×5間の掘立柱の建物跡2棟が確認され、天目茶碗片・すり鉢片などの遺物が出土している。
(21)堀切(ほりきり)
館山城で唯一残されている尾根をV字型に断ち切る堀切。箱堀状で幅5m、深さ4m以上あると思われ、その先は細く伸びた尾根が続いていて切岸になっている。敵兵の侵入を防ぐ為の中世城郭の遺構。
(22)オンマヤシタのウバガミサマ(御厩下の姥神様)
御厩下の姥神様には五輪塔が並んでいる。14世紀の骨壺も出土し、中世武士階級の墓の場所と考えられる。現在は、鳥取県で元和8年(1622)に没した里見氏最後の当主・忠義の殉死者の遺骨を持ち帰ったという伝承を基に「八遺臣の墓」として供養している。
(23)貴美(きみ)稲荷神社
天明元年(1781)、館山藩初代藩主稲葉正明が陣屋の屋敷神として創建した。関東大震災で倒壊したため、館山神社に合祀され、一緒に祀られていた4代藩主正巳(まさみ)の位牌は館山藩士の子孫の家で預かっている。
(24)館山藩陣屋跡
天明元(1781)年、稲葉正明が安房国で加増を受け、大名となり館山藩をたてた。寛政3(1791)年、2代正武が現在「御屋敷」とよばれる城山南東に、役所や藩士の住居を集め陣屋を置いた。明治4(1871)年に廃藩を迎え、陣屋跡地は旧藩士に分与された。
(25)采女(うねめ)の井戸
陣屋跡にある「采女の井戸」は、印東采女佑(いんとううねめのすけ)の屋敷があったと伝わる場所。采女佑は里見忠義の家臣で権勢を持っていたと言われている。
(26)根古屋(ねごや)の古墓
明治33年(1900)頃、土器片や鉄鍋などと共に室町時代の五輪塔が出土し、「デボトケ」と称され大切に祀られた。明治34年(1901)に南東麓の姥神様でも五輪塔が発見されると、デボトケは忘れ去られた。現在、この一帯は整備され五輪塔と共に里見氏の武人像をお祀りしている。
作成:ミュージアムサポーター「絵図士」
青木悦子、岡田晃司、刑部昭一、金久ひろみ
佐藤博秋、佐藤靖子、鈴木正、殿岡崇浩、山杉博子
監修 館山市立博物館
〒294-0036 館山市館山351-2 TEL 0470-23-5212 (2024.9.20)
このマップは古いバージョンがあります。
城山 | たてやまフィールドミュージアム - 館山市立博物館
「高皇産霊神社と善浄寺」のマップを公開しました
高皇産霊神社と善浄寺
高皇産霊(たかみむすび)神社の概要
高皇産霊神社と善浄寺のある高井区は、約2,000年前の弥生時代の地震によって隆起した砂丘の上にあり、北条地区の中では一番古い砂丘で、地区の宮作(みやさく)・宿内(しゅくうち)には古墳時代の遺跡がある。高皇産霊神社の創立年代は不明であるが、神社は平久里(へぐり)川と滝川を望む砂丘の北の端に座している。現在は9月の鶴谷八幡宮の祭礼に参加しているが、明治初期に莫越山(なこしやま)神社の口添えにより出祭する機会を得たことから、莫越山神社の神輿と共に八幡宮まで渡御するようになった。祭神の高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)は、天地開闢(てんちかいびゃく)の時に高天原(たかまがはら)に現れた神の一人で、天孫降臨の号令を出した神としても語られている。
善浄寺(ぜんじょうじ)の概要
善浄寺は真言宗の寺で、無量山善浄寺と称し、小網寺の末寺で高皇産霊神社の別当寺であったと思われる。寺の創建年代等についてはよくわからないが、延宝3年(1675)の記録に「高井村善浄寺」と記載されている。本尊は木造地蔵菩薩立像で、鎌倉時代末から南北朝時代頃に作られたとみられている。弘法大師巡礼安房国八十八か所の22番霊場。さらに金剛宥性(ゆうしょう)が明治5年(1872)に開いた安房国百八か所地蔵巡りの107番目の札所である。奉納された御詠歌の扁額(へんがく)は初代後藤義光の作と言われている。別説に、江戸時代までは洲宮神社の別当寺として「善正寺=善浄寺」が洲宮にあったとされ、現在その跡地が洲宮神社の東約400mの山際にある。
(1)社号碑
平成16年(2004)9月に氏子中によって奉納された。文字は高井の書道家 川上良典(号:石舟)による。
(2)灯篭
高さ約2m40cmの灯篭が一対ある。「世話人林兵衛・平兵衛」によって「嘉永二酉年(1849)」の「八月吉祥日」に奉納された。台座には「館山楠見 石工長左衛門」の銘がある。長左衛門は田原長左衛門といい、現在の俵石材店の先祖である。
(3)鳥居
高皇産霊神社の氏子中によって平成2年(1990)12月に奉納され、北条の計(はかり)工務店によって施工された。
(4)幟立
昭和48年(1973)9月に氏子によって奉納された約2.30mの幟立(のぼりたて)がある。9月の祭礼で「高皇産霊神社 平成二十七年九月 氏子中」と書かれた長さ10m、巾1mの大きな幟を揚げ、神輿が出祭する。初日の午後2時頃、八幡海岸から榊・高張提灯を先頭に、天狗・太鼓・笛等で行列を組み、莫越山神社の神輿と共に八幡宮へ向かい、御仮屋に着座する。2日目は境内でもみ・さしをして高井へと帰る。高皇産霊神社は11基の神輿の内10番目の還御(かんぎょ)となる。
(5)御大典奉祝記念碑
1 昭和
昭和3年(1928)11月に在郷軍人会安房北条分会によって建立された記念碑と共に、2本のモミの木が奉納植樹された。枯れ残った一本は約100年が経ち、幹の太さが約2.17mにまで成長した。碑に並んで台の上に、嶺岡の蛇紋岩で作られた中世五輪塔の空風輪が乗っている。善浄寺にあった墓石の一部であろう。
2 平成
平成3年(1991)1月吉日に宮司・氏子総代以下14名が奉祝記念として建立した。
3 令和
表面は「令和御大典記念植樹」、裏面に「令和三年七月吉日」と刻まれ、碑の後ろに榊の若木が植樹されている。
(6)力石
昭和の御大典記念樹の碑の脇に、長さ80cm、巾35cmの玉子型の石がある。細く尖っている所に「三」の文字が残っている。重さ「三十貫」(112.5kg)と書かれていたのであろうか。祭礼の時などにこの石を持ち上げて力自慢をしたのであろう。
(7)手水鉢
中央に五七桐紋を付けた手水鉢がある。巾12.3cm、奥行63cm。右側面に大正8年(1919)8月に氏子中が奉納したと記されている。
(8)狛犬
社殿前に1対の狛犬がいる。高さは約2.50m。右の狛犬には「長須賀石匠吉田亀吉」、左の狛犬には、大正14年(1925)8月4日、地元の大工高木久平が82歳を記念して奉納したとの銘がある。
(9)善浄寺本堂
本堂の正面に明治5年(1872)の御詠歌の額がある。安房国百八か所地蔵巡りの107番目。御詠歌は「にごりなきこころの内は高井寺 やがて真如の月をやどさん」。額は初代後藤義光の作である。本堂の中には弘法大師巡礼安房国八十八か所の22番の御詠歌の額もある。「はるばるとのぼるたかひ(高井)の善浄寺 仏のちかひたのまぬハなし」。元文元年(1736)に根本(白浜)の智圓が願主として奉納した。
(10)歴代住職の墓
善浄寺の墓地の最前列に歴代住職の墓が3基並ぶ。左奥の墓は権大僧都法師頼淳(らいじゅん)のもので、側面に「大綱村又四郎産 字快明 行年三十五才 天保十一年(1840)七月十五日」とある。中央は明治42年(1908)に亡くなった法師以運、右端は大正8年(1919)に亡くなった法印以慧の墓である。
(11)門柱
門柱の内側に何かを取り付けた金具の跡がある。南条にある観音寺の門柱にはガス灯が取り付けられているので、善浄寺の門柱にも同じようにガス灯が取り付けられていたのではないかと思われる。
(12)石宮群
7基の石宮(山王様・山の神様・ろくしょう様・権現様・古峯神社・金毘羅大権現・弁天様)が町内から集められている。金毘羅大権現には台座に「講中」、左側面には「文久四甲子年(1864)三月十日」の文字がある。右側の石宮は古峯神社である。他の石宮は文字がないが、天明7年(1787)には当地区で御霊・山の神・権現・明神・弁財天が祀られていたことが記録にある。明神とは高皇産霊神社のことであろう。石宮の前にある手水鉢には右側面に「文政九戌年(1836)八月吉日」とあり、左側面には奉納者の「新蔵・義兵衛・重蔵・藤七」の4名の名が刻されている。
作成:ミュージアムサポーター「絵図士」
刑部昭一・山杉博子・岡田晃司(2024.3.19)
監修:館山市立博物館
〒294-0036 館山市館山351-2 ℡.0470-23-5212
宝貝・水岡
古代や中世から地名が確認でき、中世から豪族たちが活動した足跡が残る地域の寺社や道沿いの文化財を訪ねてみましょう。
宝貝(ほうがい)
(1)覚性院(かくしょういん)
真言宗のお寺で、円蔵院(南房総市千倉町)の末寺。本尊は35.4cmの木造地蔵菩薩坐像で江戸時代の作。本堂の中には、安東出身の絵師鈴木寿山による襖絵、天女を書いた絵左右一対、百万遍の数え札が残る。当寺は安房国百八箇所地蔵尊の第六十九番札所、九重・館野地区の地蔵巡りの第四番札所で、元文2年(1737)の御詠歌扁額が残る。境内には、歴代住職の墓、中世の宝篋印塔の笠石、寛政10年(1798)の宝篋印塔、江戸末期の不動明王、関東大震災の復興や昭和20年(1945)の農地法発布の際に農事に尽力した女性の墓がある。境内入口の六地蔵は安政5年(1858)に孫右衛門・庄兵衛らにより奉納。六地蔵の近くに頭部が欠落した安永10年(1781)の石造地蔵菩薩、慶応元年(1865)の高橋元右衛門らによる四百万遍念仏塔がある。墓地から(3)伶人様に上がる途中に享保14年(1729)に井上定右衛門と惣村中による大日様が残る。
(2)覚性院やぐら
覚性院の境内墓地にある南西に開口したやぐら。内部に室町時代末期に作られた嶺岡の蛇紋岩製の阿弥陀如来坐像の他、寛政2年(1790)に宝貝村中によって奉納された6体の地蔵が刻まれた六地蔵や8基の馬頭観音が残る。馬頭観音は文化11年(1814)、天保13年(1842)、嘉永元年(1848)、嘉永4年(1851)、慶応2年(1866)、慶応3年(1867)2基、明治13年(1880)。
(3)伶人様(れいじんさま)
覚性院脇の丘の頂上にある石祠。銘文も年代も記されていないが、地元の人は「れいじんさま」と呼んで祀っている。かつてお寺に他人のものを盗む悪いお坊さんがいたが、あまりに悪事を重ねるので村の人が山奥へ連れて行って生き埋めにした。それ以来、村には悪い風邪が流行して何度も疫病に悩まされるようになったため、お坊さんの祟りと考え祠を作って手厚く供養したところ、疫病がおさまったという。それ以来、宝貝では毎年8月20日を伶人様の日と決め、各家の女性が集まってオコモリをするようになった。
(4)天神様
熊野神社の裏山には、嘉永6年(1853)正月に奉納された天神様(天満宮)が祀られている。かつては1月2日に子どもたちによる天神講が行われ、当番の家々を回った。天神様と金毘羅様の間の手水石は、慶応4年(1868)4月、若者中による奉納。
(5)金毘羅様
(4)天神様から上がったところに、慶応2年(1866)12月に高橋彦右衛門によって奉納された金毘羅様を祀る。
(6)青面金剛像
(5)金毘羅様から上がったところに、享保10年(1725)2月に村講中(庚申講)によって建立された青面金剛像を祀る。
(7)仙元様(浅間様)
熊野神社裏山山頂の石祠「富士仙元宮」は、慶応4年(1868)9月、山三講の講中により建立された。願主は高橋儀右衛門、先達は高橋(久)兵衛、講員は伊藤利八・高橋久左衛門・高橋治良兵衛・松本治左衛門である。
(8)山の神
熊野神社の裏山山頂の石祠は、弘化4年(1847)8月に亀田孫右衛門によって奉納され、かつて木の扉には「山の神」と書かれていた。(7)浅間様と(8)山の神の間にある石祠は、屋根に卍が彫られているが詳細は不明。石祠前の手水石は昭和18年(1943)9月1日に高橋ときによって奉納された。
(9)熊野神社
速玉之男命他二柱を祀る宝貝の鎮守。1月20日頃にオビシャが行われ、五穀豊穣や家内安全を祈る。節分の夜には大火といって厄除けの行事を行い、境内の刈り清めた木を積んで燃やす。明治3年(1870)から昭和50年(1975)の社殿の修復・雨覆葺き替えの棟札や厄除けの梵字が書かれた棟札が残る。社殿前には震災前のものと思われる天水桶が残る。境内には、文化15年(1818)正月に高橋佐五兵衛によって奉納された天王宮(天王様)の石祠や文化14年(1817)9月に若者中によって奉納された手水石が残る。常夜灯は天保9年(1838)、狛犬は昭和13年(1938)5月に本橋寛治・本橋鶴、本殿の彫刻は高橋英二・伊東はま、社号碑は昭和50年(1975)9月に髙橋𠀋志によって奉納された。鳥居は昭和6年(1931)に氏子により建立された。石工は船形の生稲多七。石段は大正5年(1916)12月に氏子により建立された。江戸時代は神社階段下に高札場があり南側に郷倉があった。
(10)道路改修記念碑
館山市と合併する2年前の昭和27年(1952)に九重村が実施した道路改修記念費。同4月に設置された。改修した道路は総長800m、幅員3m80cm、総工費31万円。
安東(あんどう)
(11)日露戦争戦没者碑
日露戦争に出兵し、24才で戦病死した陸軍歩兵一等卒鈴木堯の碑。明治41年(1908)建立。文は『安房志』を編纂した安房中学校教諭の斎藤夏之助、石工は吉田亀石。
(12)安東堰
安東の農業用水。安東堰の突き出たところに立つ銀杏の麓には弁天様が祀られている。
(13)馬頭観音
安東堰近くの墓地内に昭和20年(1945)6月17日の馬頭観音がある。
(14)吾妻大権現
紀州(和歌山県)から熊野権現が各地に分祀される頃に、榎本氏から安東の神主である鈴木氏が布教を依頼され、社殿を建立したと伝えられる。社殿は大正12年(1923)の地震によって半壊したため取り壊されたが、後に鳥居と石宮が作られ鈴木氏と近隣の家々によって毎年正月に祀られてきたという。現在は石宮と手水鉢が残る。
水岡(南台)(みずおか(みなみだい))
(15)日森神社(ひもりじんじゃ)
天照皇大神を祀る南台(南片岡)の鎮守。2月7日(現在は近い土日)にオビシャを行う。社殿に大正6年(1917)の神社名号石板、大正7年(1918)の太鼓、多数の絵馬、花鳥を描いた板絵、地区の人々が作成した神輿が残る。かつては和田の漁船を利用した船型の屋台も作成し、10月10日の祭の際に地区内を引き回したという。社殿前には文久2年(1862)に氏子によって奉納された手水鉢や大正6年10月奉納の狛犬一対がある。狛犬の奉納者は小柴長蔵、書は義(孝)、彫刻は加藤佐兵衛。当社にはお諏訪様(諏訪神社)・弁天様が合祀されているが、境内に石祠3基(中央は宝暦14年(1764)2月)、本殿後に石祠が残る。他に昭和24年に亀田長治によって奉納された出羽三山碑もある。階段途中には、大正6年(1917)3月に施主の秋山桂蔵、石工の長須賀の石勝により建立された鳥居、昭和4年(1929)に建立された地元の俳人・秋山桂山88歳の時の句碑「古池のふかさはしらず鳴蛙」がある。
(16)地蔵堂
南台のお堂で本尊は近世の作と思われる43.3cmの木造地蔵菩薩半跏像。胎内に「善念寺作」の陰刻がある納入仏が入る。また、鎌倉時代に作られた165.5cmの木造地蔵菩薩立像(頭部は南北朝時代)が安置されているが、地蔵の手に底が抜けた袋が掛けられており、安産祈願のために借りてお産が済むと1つ増やして返す風習がある。安房国百八箇所地蔵尊の第七十番札所、九重・館野地区の地蔵巡りの第三番札所であり、元文2年(1737)の御詠歌扁額が残る。8月24日には念仏、2月には百万遍が行われる。堂の前には明治元年(1868)の「ダエ 亀田屋」による手水石、階段横には賽の河原の地蔵像、正徳元年(1711)の廻国供養塔がある。堂右のお釈迦様には、二本松(福島県)出身の若嶋新之丞が再興したと刻まれている。他に室町時代末の十王像頭部も残る。
(17)駒寄通り(こまよせどおり)
千倉の大貫(南房総市)と館山平野を結ぶ旧道。馬を寄せて通るため駒寄通りという。入口に安永6年(1777)11月の村中による三面六臂の馬頭観音と明治15年(1882)3月7日に奉納された馬頭観音がある。尾根の三叉路に文化6年(1806)7月24日に南片岡村の喜右衛門が建立した道標があり、地蔵像の下に「北那古(道)」「南千(倉道)」とある。付近に嘉永3年(1850)9月4日建立の馬頭観音や廻国供養塔が残る。
館山市立博物館(2023.12.9作成)
千葉県館山市館山351-2 TEL 0470-23-5212
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白滝山不動教会<鴨川>
白滝山不動教会の概要
(鴨川市上小原477)
真言宗のお寺で、正式名称は白滝山不動教会といい、本尊は不動明王。大同3年(808)弘法大師の開山と伝え、大師自ら不動明王像を刻んで、一宇を建立したといわれています。また、永正年間(1504〜21)に長狭郡山之城(やまのしろ)城主正木大膳太夫時茂が白滝山滝谷寺(ろうこくじ)と称して、再興したと伝えられています。境内に白絹の滝があることから「滝の不動」と呼ばれ、修験の寺でした。明治以降は精神鍛錬の修行をする信徒が宿泊し、明治から昭和初期の川名道念・川上道秀住職の頃は、東京・横浜をはじめ千葉県内から信徒7,000人を集めたといいます。大正10年(1921)には滝を中心とした境内約25町歩(7,500坪)が公園化されました。参道には鳥居があり、裏山には石尊(せきそん)神社があります。境内には句碑・歌碑・記念碑などが多数奉納され、多くの信仰を集めていたことがわかります。昭和43年(1968)に亀田義精住職が「白滝山不動教会」と改称し、現在も祈願霊場として善男善女の信仰を集めています。
(1)滝新道開鑿(かいさく)記念碑
明治43年(1910)4月起工、大正4年(1915)4月に竣工した新設道路802間(約1.5km)の記念碑。発起者は上小原の小田分台(こだけだい)で、住職川名道念他36名が田畑・山林・金銭を寄付している。集落から当寺へ至る道である。
(2)狛犬(こまいぬ)
上小原区長等25名を世話人に、明治23年(1890)に氏子たちが石尊神社に奉納した。講中や他地区の人など約200名から寄付があり、1人50銭の額が多い。
(3)鳥居
石尊神社の鳥居で右柱の裏に「■政戌年九月吉日」とあり、寛政2年(1790)の建立と推測される。願主は亀田新兵衛と氏子中で、世話人は名主等村役人。
(4)姉妹イチョウ
樹高約18m、樹齢300年以上とされ、鴨川市指定天然記念物。一本の幹から出たもう一本の幹を包み込むような姿からこのように名付けられた。
(5)嶋田修一頌徳碑(しょうとくひ)
主基村村議会議長として昭和30年(1955)、主基・吉尾・大山の3村を合併し長狭町誕生に尽力した人物。昭和33年(1958)に57歳で亡くなった。
(6)開運大黒尊
昭和天皇御大典記念に奉納された開運大黒天の記念碑。京都御所での御大典式典を記念して、昭和3年(1928)11月10日に主基村の伊丹友治が奉納した。
(7)俱利伽羅龍王(くりからりゅうおう)
火炎に包まれた黒龍が剣に巻き付き、それを飲み込もうとする様は不動明王の化身である。像前に、水神を祀るために岩をくりぬいた枡(ます)がある。
(8)灯籠
階段の上・中・下段に灯籠がある。下段のみ完形で、竿に「御神燈」・年号・人名が刻されるが、風化で建立年は不明。中段は竿に「御神前」と寛政2年(1790)3月の年号、基礎に村人6名が記される。上段は文字不明。
(9)子安地蔵菩薩と如意輪観世音菩薩
階段登り口の左右に子安地蔵菩薩と如意輪観世音菩薩の石仏がある。子供たちの成長と女性たちの健康を願って、文化元年(1804)に当村の七郎左衛門が願主となり、山王台中と順礼講の女性たちが建立した。
(10)出羽三山碑
山形県の出羽三山は、羽黒山「現在」、月山「過去」、湯殿山「未来」とされ、生まれ変わりの三山として信仰されている。10-1は明治36年(1903)、10-2は昭和37年(1962)、10-3は昭和30年(1955)に地元の人が参拝した記念碑である。
(11)永代護摩(ごま)資料(しりょう)碑
130基程ある階段両脇の石碑は本堂再建の寄付金奉納碑である。明治24年(1891)に始まり大正12年(1923)まで1〜180円の金額が確認できる。碑には市原郡・夷隅郡や横浜などの地名もあり信仰圏の広さがみられる。
(12)堂宇改修公園寄付の碑
堂宇改修と大正時代に行われた白絹の滝を中心に境内を公園化した際の寄付記念碑。久留里町の田中岩吉は大正15年(1926)に100円を寄付した。
(13)本堂再建の碑
上部に不動明王を表す梵字(カーン)が刻まれている。本堂は明治17年(1884)に再建したが莫大な借金が残り、道念を中心に地元や夷隅郡・市原郡・君津郡の弟子18名が講社を結び、永代護摩料を集めて返済した。その記念として明治30年(1897)に上小原区と市原郡白鳥村の宮原新恵紋(しんえもん)が発起人として建立。
(14)芭蕉句碑
「ほろゝゝと山吹ちるか滝の音」。上小原の伊丹凌雲や田村一梅など籬連(まがきれん)の24名により建てられた芭蕉の句碑。明治24年(1891)1月建立。揮毫者は露竹。
(15)厄除大師像・不動明王像
厄除大師を中心に5体の不動明王像が祀られている。厄除大師には「第一番」と刻まれ、弘法大師巡礼の第一番と思われる。大正15年(1926)に伊丹友治が奉納した。隣には不動明王像を配した手水石がある。施主は雄蔵。
(16)本堂(不動堂)
本尊不動明王像は弘法大師自刻霊像とされ、御前立(おまえだち)波切不動像は唐の恵果(けいか)和尚作と伝えられる。不動堂を飾る彫刻は千倉の彫刻師後藤一門によるもので、向拝(ごはい)の龍は明治17年(1884)初代後藤義光70歳の作。海老虹梁(こうりょう)の龍は明治16年(1883)長男紋次郎、木鼻(きばな)や手挟(たばさみ)等は義光の弟子たちの作。施主は安房・上総・長生・浦賀と広域に及んでいる。タイル張りの珍しい天水桶は昭和12年(1937)奉納。
(17)白絹の滝
境内にある加茂川支流に落差30mで県南最大級の滝がある。河床は硬い緑色凝灰岩(ぎょうかいがん)などで形成されている。大正期までは信仰の対象で一般人は入れなかったが、大正5年(1916)に滝を中心とした公園化が始まった。昔話の中に「お鍋が淵」という「番町皿屋敷」にそっくりな物語が伝えられている。
(18)安川文時(やすかわふみとき)歌碑
鴨川市細野出身の歌人安川文時(1865~1944)の歌「あさなゆうな みれともあかす みねをかや みねのまつはら いろとはにして」の歌碑。昭和10年(1935)建立。文時は同郷でアララギ派の歌人古泉千樫(ちかし)の雅号「千樫」を考えた人。江戸時代の国学者で鴨川市寺門(てらかど)出身の山口志道(しどう)の顕彰にも努めた。
(19)田中儀平翁顕彰碑
主基村北小町の貧しい農家に生れたが、身を起して明治期に農業の改良普及に尽力した人。安房を代表する篤農家(とくのうか)で、大日本農会などから表彰された。大正5年(1916)没。碑の題字は交流のあった伯爵(はくしゃく)万里小路通房(までのこうじみちふさ)。撰文は千葉県知事石田馨(いしだかおる)で、昭和6年(1931)に主基村農会が建立した。
(20)夜学会彰徳碑(しょうとくひ)
明治28年(1895)に上小原で青年会によって夜学会という補習教育が始められた。指導は小学校の教員で、通学者は上小原以外に現鴨川市域と富津市天羽地域から集まった。高等教育機関ができた大正8年(1919)に終了し、記念に上小原青年館と同青年夜学同窓会により碑が建てられた。卒業生総数は94人。
(21)庚申塔(こうしんとう)
本尊青面金剛(しょうめんこんごう)と邪鬼(じゃき)・三猿(さんえん)が彫られている。庚申(かのえさる)の日の夜に眠ると、体内の三尸(さんし)の虫が抜け出して、その人の罪状が天帝に告げられると命が縮まるという信仰があり、仲間で本尊に祈り夜が明けるのを待つ行事があった。数回続けた講中が天明6年(1786)に建立した。
(22)石尊(せきそん)神社
浅間山への登山道の途中に石造の天狗面が5面祀られている。脇の碑には宝暦9年(1759)7月とある。相模大山寺を勧請したのであろうか、今も7月に神職と上小原区の役員により雨乞の神事が執り行われている。
◎ 昭和院 鴨川市上小原字滝
真言宗の寺で、本尊は阿弥陀如来。昭和8年(1933)に南小町にあった森蔵寺・密蔵院・来迎寺と成川の等覚院を合併し、新しい寺院を現在地に移転して、翌年昭和院と名付けられた。初代住職は星野義道。
作成:ミュージアムサポーター「絵図士」
青木悦子・金久ひろみ・佐藤博秋・佐藤靖子・殿岡崇浩・岡田晃司
(2023.12.25 作)
監修 館山市立博物館
〒294-0036 館山市館山351-2 ℡.0470-23-5212