元治元年(1864)、有信は17歳で江戸に出て医者の織田研斎に入門しました。織田研斎のもとには、文久元年(1861)に兄の陵斎が入門していましたが、前年に病気で亡くなっていました。
その後、有信は慶応3年(1867)から江戸幕府の医学所に雇(やとい)として勤務します。医学所は安政5年(1858)開設された種痘所(しゅとうじょ)を前身とする西洋医学の教育機関で、有信はここで、医学所頭取を務める松本良順に出会います。松本良順はのちに陸軍の軍医頭(ぐんいのかみ)となり、西洋薬舗会社「資生堂」の創業を支援しました。
明治元年(1868)から東京大病院に勤務した有信は、翌年、中司薬に任命されます。この頃に出会った矢野義徹と前田清則とは生涯、親交を深めました。
明治4年(1871)、有信は兵部省に出仕し、海軍病院に勤務します。海軍病院では薬局長を務めましたが、翌年、病気を理由に辞職しています。この背景には、盟友の矢野・前田とともに描いた新事業の構想がありました。